今時、仲人をたてて見合いなんて事があるのだろうか。降都 菊理は結婚式もやっているホテルのラウンジで挙動不審な様子できょろきょろと周囲を見回していた。大きな窓からは庭園で写真撮影をしている団体も見える。
ウエディングドレス姿の女性と、白いタキシードの男は、はにかみながら何パターンものポーズで日本庭園の中での写真撮影に一生懸命なようだ。
自分も遠からずあちら側の人間になるのだろうか。
外で繰り広げられる光景の、水族館の水槽をのぞいているような非現実さで、菊理は我に帰った。アクリルガラスのあちら側が水の中なのか、こちら側が水の中なのか。
今感じているある種の息苦しさは、むしろこちら側が水中である証なのか。
ゆらり、と、自分が本来向き合わなくてはならない相手に視線をやってから、菊理は、はくはくとここが水の中でない事を確かめるように息を吐き出した。
「じゃあ、後は若いお二人で」
そう言って仲人である婦人が立ち上がった時に、菊理はあまりにもベタすぎてむせてしまいそうになったが、ギリギリで踏みとどまった。
「今時あんなベタなセリフを言う人がいるんですね……昭和かよ」
仲人の婦人と、菊理のつきそいに来ていた母の姿が見えなくなった事を確かめた上で、向かいに座っていた見合い相手が言った。
兼田 至という、財閥一族に名を連ねる、いわゆる御曹司は、自分の会社を持っているという。
資金繰りの心配のいらないおぼっちゃん社長、いつもの菊理ならばそう言ってこき下ろすところだったが、今はそんな事は言えない。
菊理の父が経営するレストランは、味もサービスも質の高さが自慢ではあったが、商売気に疎く、倒産寸前であった。菊理は一人娘で、就職後、家を出ていたのだが、折悪く業績悪化の為リストラ寸前。
生来の短気が災いして、自分から退職届を出したものの、次の職が見つからず、家でも継ごうか、などと気軽に考えていたところ、実家の方も菊理にかまっているような余裕が無い事がわかった。
菊理も、元マーケティング部門の能力を活かして店の再建に尽力したが、畑違いであるところに、客商売に向かない性格は父譲りで、一家三人、路頭に迷うところへ、助け手とばかりに縁談が舞い込んだ。
若い社長、さらに御曹司という太い実家持ちならば、結婚相談所に入所すれば相手などよりどりみどりだろうに、とも思ったが、今は好条件の金づるにすがるより他無いのだ。
「さて、どうですか? 俺という個人に興味は持てそうですか?」
自信たっぷりにそう言う兼田氏は、足を組んで見せつけるようにして菊理の方に向き直った。
「はあ……」
こういう時に、適当なお追従が出てこないところが、自分が出世できなかった原因だなと思いながら、菊理は兼田氏の要望の通りに頭の先からつま先までをまじまじと観察した。
仕立てのよさそうなスリーピースはきっとロードサイドの紳士服店などでなく、どこかのブランドのものか、老舗の仕立て屋で頼んだものなのだろう。一部の隙きも見つけられないような着こなし。
靴も、腕時計も、値段まではわからないが、相当高級で、この人を追い剥ぎしたら、菊理の家の家計は数カ月ならば延命できるのでは無いかと思うほどだった。
しかし、そんな風な隙きの無さを見せつけられるほど、菊理は自分が着ている服がもう数年前の一張羅で、めったに着ない分、経年劣化はしていないが、着慣れない上に少しだぼついた服を着てきたみじめな女、くらいには思われているんだろう。
みじめたらしくお断りされるくらいなら、いっそ自分から断ってしまえ、と、菊理は思ったが、自分の短慮さでの失敗をこれ以上重ねない為に、一縷の望みにすがる気持ちで押し黙っていた。
「俺、あなたくらいだったら余裕で養えると思うんですよね」
にっこりと笑う兼田氏から出た言葉は、菊理の想像の斜め上にあった。
「あなたのお父さんのお店、好きなんですよ、無くなってほしくないんです」
だったら素直に出資という形にしてもらえないだろうかと菊理は思ったが、次の言葉で納得した。
「あと、俺って一応いいとこのボンボンじゃないですか、当然モテる、でも、親も親戚も結婚しろとうるさいし、どこか適当なところで手を打ちたかったんです、実家のスポンサーが夫、って事になれば、多少のやんちゃは目溢ししてもらえますよね?」
つまりは、妻が欲しい、できれば何でも言うことを聞いてくれる、自由になる女が、という事だろう。
ああ、でも、むしろ最初にそう言ってもらえた方がよかったのかもしれない。
今更恋愛結婚ができるとも思っていなかった。
自分で自分を養う甲斐性も無い自分が、形だけでもこの男の妻にさえなれば、実家は営業を続ける事ができるのだ。
皆が望んだものを手に入れられる。……菊理自身を除けば。
自分には、何かを欲しがる資格も無いのだ、ならばこの取引はメリットが高い。
生涯、自分を愛さないであろう夫の妻でいる事に耐える事さえできればいい。
その覚悟をする『だけ』だ。
縁談は、トントン拍子で進んだ。見合いをしたのと同じホテル内の料亭で結納をし、基本プランナーに投げっぱなしの形通りの式ではあるが、招待客をリストアップし、衣装を決め、料理も決まった。
というところで、菊理は何だか全てが虚しくなってきた。
かといって、今更結婚は無かった事に、とは言えない。
一泊二日の一人旅を申し出たところ、未来の夫は快諾してくれ、旅費も持ってくれた。新居のはずのマンションに、妻では無い女を連れ込み放題の二日間を得られた事に、喜びすら感じていそうだったので、菊理は、遠慮なく浪費する事にした。
曰く、月給とは、『耐える』事への対価なのだという。
ならば、とびきりの男の形だけの妻である事に『耐える』自分にとって、これは正当な報酬なのだと開き直る事ができた。
行く場所は特別決めてはいなかったが、どこか島へ渡ってみたいと決めていた。都心からそこそこ近く、手頃な島へ渡る為、新幹線で本州を横切り、島へのフェリーが出ている港までやって来た。
わずかに心配があるとするならば、季節が九月で、台風が近づいているという事くらいだろうか。
だが、式まではまだ日があり、今の菊理に仕事は無い。一泊二日と言ってはきたが、もらった旅費は一週間以上高級ホテルに滞在できるほど潤沢にあり、少々帰宅が遅れたところで、誰かに咎められることもない。
菊理が選んだのはそういう相手だ。
ジェットフォイルと呼ばれる高速艇に乗れば、目的地『赤江島』は、もうすぐそこだった。
宿は民宿にした。いわゆるリゾート用の高級ホテルもあったし、オーベルジュと呼べるような料理自慢の宿もあった。
貧乏性もあったが、単純にロケーションが気に入ったのだ。浜辺が目の前ので、広々とした海が望める八畳の和室は、一人旅には妙にしっくりきて、落ちついた。
せっかくはるばる島まで来たのだから、夕食まで散歩に行こうと浜まで出たものの、既に海水浴客は見当たらなかった。
もちろん、菊理も水着などは着ていない。ファストファッションのセットアップにサンダルという楽な出で立ちだ。
海水浴客は見当たらないが、遠くの方にサーファーのような人影は見えた。サーファーだと思ったのは、何か板のようなものにのっているせいなのだが、ボートで言うところの櫂のようなものを持っている。
菊理がビーチリゾートなどとは縁遠く、焦熱地獄の都心を汗だくで社畜街道をひた走っていた間に、世間には知らないマリンスポーツが流行るものだなあ、と、波で遊びながらぼんやりと思った。
せっかくだ、と、磯の方まで足を伸ばす。
見れば、海中に鳥居が一つ見えた。
海中の鳥居といえば、広島の厳島が有名だが、この島にも海中鳥居があったのか、と、写真に収めようとスマホを探ったところ、カサリ と、視界の端にうごめくものがあった。
フナムシだ、と、理性ではわかっているのに、ゴキブリと見間違えたのか、身が震える。
その時、もろい足場がふいに崩れた。
「あ」
と、声に出す暇も無く、菊理は水中にあった。
びっくりするほど深いそこは、足がつかない。
海中に落ちたというショックと、スマホを岩場に落としたという動揺で、自分がするべき事の手順が狂ってしまった。
同時に何かをしようとすると、案外大切な事を忘れてしまう。
菊理が一番大切なのはこの場合命であるはずなのに、落としたスマホが気にかかって手足をばたつかせる事しかできない。
足がつかない事、ここが海だという事、……そして、泳ぎ方がどんなふうだったかという事を。
……がぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。
水中で呼吸ができるはずもない。今自分が上を向いているのか下を向いているのかもわからない。わずかな呼気は吐ききって、すでに息苦しい。
海上はどっちだろうか、海の底は?
もがいて、反射的に顔を上げると、太陽に照らされた水面がゆらぐ様が見えた。
あっちが、水面。
その時、陽の光を遮る、巨大な生き物が悠然と上を泳いでいるのがわかった。
鮫のような大きさの生き物。
沿岸近くに鮫が出るのだろうか?
ふと、菊理は、かつて見た海中で捕食される魚の事を思い出した。虚ろな瞳の鮫に蹂躙される魚。無音の中で、びちびちと身体を反らせ、必死で抵抗しながら、唐突にふっと力が抜けるその瞬間の事を。
ぞくりとした電流に似た感覚が背筋を走る。
ああ、死ぬというのはこういう感覚なのか。
私は、ここで死ぬのだろうか。
でも、捕食されるのも悪くないかもしれない。突然の死へのストレスから、常には至らないような恍惚と、相反して示す肉体の拒否反応、息苦しさに耐えていると。何者かによって身体を支えられて、抱きかかえられて海から上がった。
ああ、呼吸ができるってすばらしい……。
全身で酸素を体内に取り込みながら、菊理は肌に張り付いたセットアップを不快とも思わず、塩の匂いのする身体で、自分を抱き上げた腕の持ち主を確かめた。
「だ……れ?」
日に焼けて引き締まった体躯。少しウェーブのかかった髪が、海藻のように見える、長身の若い男だった。
「俺はタカオ、あの民宿の息子、……あんた、お客さん?」
海に落ちた菊理を救ってくれたのは、民宿の息子だと名乗った。
ずぶ濡れで民宿に戻ると、民宿を経営している老夫婦の婦人が、湯の準備をしてくれた。シャワーだけで済ませるつもりだったが、熱い湯の魅力に勝てず、家庭用のものより少し広めの湯船に浸かって菊理は手足を伸ばした。
不思議と、足の痛みも無く、呼吸器官にも違和感は残っていない。鼻からもしたたか水を吸い込んでいたはずが、湯気の恩恵か、ひりつくような痛みは無くなっていた。
湯船で腕を伸ばし、リンパを流すようにマッサージをする。
湯と、海水。元は同じ水のはずなのに、異物を排除するかのように自分を拒んだ海と、やわらかく身体を抱きとめるような湯の優しい肌触りは、同じ水とは思えなかった。
もちろん、海水と真水を沸かした風呂であれば成分にも違いはあるのだろうが。
ざぶん、と、菊理が湯船で膝立ちをすると、からりと脱衣所と繋がる扉が開いて、先程の男が姿を現した。
「ああ、人心地ついたかい?」
まるで当たり前のような顔をして、全身を隠そうともしないタカオと名乗った民宿の息子は平然と浴室に進み、シャワーをとって身体をすすぎ始めた。驚いた菊理の方が、男の身体を見ないように視線をそらしたほどだった。
男はまだ湯にはなっていないであろう冷たい水を平然と浴びていたかと思うと、湯気が立ち上り、シャワーの温度が上がったのがわかった。
「いいだろ? うちの風呂」
屈託なく言う。まるで同性か、家族にでも声をかけるように。
菊理は叫びもあげず、石像のように固まっていたが、あまりにも平然としているタカオの様子に取り乱すのもおかしな気持ちになって、身体を隠すように静かに湯船に身を沈めた。
この男は、いったい何を考えているんだろう。
それか、私は女だと思われていないのだろうか。
菊理は確かめるように両の乳房を下から持ち上げてみる。
特別大きくは無いが、だからといって男と見間違われるほどに小さくも無い。なんなんのだ、このタカオと言う男は。
どういうつもりか尋ねようと声をかけようとしたところで、廊下からパタパタと走ってくる音があり、今度はガラリと引き戸が開いた。
「タカオ! お前! 何してるんだい!!」
現れたのは民宿の老婦人だった。
「え? 風呂だけど……」
「うちの者は後、今はお客様が……」
と、言いかけて、湯船の中で縮こまっている菊理を見つけて、老婦人は目に見えて青くなり、
「も、……申し訳ありませんっ!! と、その場で土下座をして見せた」
「……本当に、とんだ失礼を」
夕食の給仕をしながら、老婦人が菊理に謝罪をした。
調理場の方にいる夫である主人の方は姿を見せない。
台風が近づいているせいで、他に客は居ないのか、あるいは既にすませて部屋にいるのか、日中は食堂として使っているというダイニングにいるのは菊理だけだった。
並んだ料理はさすが島だけあって新鮮な魚介類がメインの、ボリューム、味、共に素晴らしいものだった。
菊理は苦笑いをしながら瓶ビールを手酌でコップに注ぐ。
グラスとはいいがたい、お冷を入れるような素っ気ないコップで飲む瓶ビールはキンキンに冷やしたジョッキでいただく生ビールとは違った味わい深さで、しみじみと美味だった。
「息子さんも民宿の手伝いを?」
話題に困って尋ねてみる。年齢は菊理とそれほど変わらないだろう。タカオと名乗った民宿の息子は、勤め人とは少し雰囲気を異にしていた。
「まあ、稼業の手伝いといえば聞こえはいいんですけどね、漁船の手伝いに出たり、よその畑を手伝ったり、日銭を稼いでいる居候のようなもので、……お恥ずかしい」
照れたように老婦人が言った。
「どうも、固い所へのお勤めはむいていないようで」
子供の頃から、落ち着きのない子で、と、老婦人は続けた。けれど、気ままな子ではあるものの、女性の入浴中にあんな事をするのは初めての事で、と、再び謝罪をされてしまった。
老婦人の様子から、今回の事は、思いもかけない事である様子が伺えた。恐らく嘘では無いのだろう、菊理は理解した。
島の青年は、堅苦しい仕事は苦手そうだが、基本的には気のいい働き者なのだろう。
そんな彼が、女性の入浴中に堂々と乱入した上に全く悪びれる様子が無いというはまずいだろうが、必死で謝る母親に免じて、別の宿に移ると言い出す事はしなかった。
何より、菊理にとっては命の恩人なのだから。
まさか、命を助けたかわりに、何か不埒な要求をするつもりなのだろうか、と、思い至ったのは、既に夜も更けて、交通機関がのきなみ終わった後だった。
突然、菊理は一人で部屋に居る事が不安になってきた。
曲りなりにも婚約者の居る身である。
旅先でのアバンチュールなどもっての他だ。
しかし、不運にも、台風の進路は、今いる島に確実に影響を及ぼす進路をとっていた。
風の音が、激しさを増していく。
どうしよう、どうしよう。
菊理は不安になって、ショーツ一枚に浴衣を着ただけの現状がたよりなく思えてきた。
着替えておこうか。
そうだ、万が一夜半に避難所へ移動などとなる前に、着替えていた方がいい。
思い切りよく浴衣の合わせを開いた瞬間に、襖が開いた。
「……ッ」
菊理の悲鳴は声にならなかった。
「おお、着替え中か、悪い」
言いながら、襖を閉めて部屋に入ってきたのはタカオだった。
手には電池式のランタンが握られていた。
菊理はあわてて浴衣をかき合わせて身体を隠した。
「な……、な……、な……」
何で、という問いかけを、菊理が言葉にできないままわなわなと震えていると、
「ああ、これか?」
と、ランタンを広縁のテーブルに置いた。
「風も強くなってきたし、台風も近づいて来てるから、念の為」
そう言って、タカオはそのまま広縁の椅子に座った。
「でも、懐中電灯もあるし」
菊理は柱に取り付けられた非常用の懐中電灯を指差した。
「ああ、でも、移動するならともかく、ここにいるんだったらこっちの方が便利だろ?」
菊理は、いつの間にか部屋へ入り込んで普通に雑談している事に戸惑い、驚いていた。
「用が済んだら出ていってよ」
その前に、色々文句や咎めたい事もあったのだが、今はただ出ていってもらわなくてはと菊理は思っていた。
「用? ああ、そうだった」
すると、タカオはずい、と、菊理のすぐ横に四つん這いで近づいてきた。
菊理の方は近づくタカオから逃げる形でじりじりと壁側まで来てしまった。
「……何で逃げるんだよ」
「だって、近づいて来るから……っ」
「そりゃあ、近寄ってるし」
「どうしてっ……」
完全に背後を壁に追い詰められた菊理の横から逃げられないようにタカオは両腕を壁につけた。
壁とタカオの両腕に囲まれた形になってしまった菊理は、無防備な浴衣を腕で隠すように縮こまる。
「大声だすよっ」
「何で?」
きょとんとした目でタカオが問いかける。
タカオは、何故菊理がタカオに脅えているのか理解できないというような顔をした。
「何でって……」
「あんた、名前は?」
「おかあさん達から聞いてないの?」
「教えてもらえなかった、こじんじょーほーだって」
「く……、菊理……」
「ククリか、そうか、ククリは、俺が嫌いか?」
「え……そんな、お風呂入っている時に突然入ってきたり、今だってこんな風にしてるし、怖い……よ?」
「そうか、ククリは俺が怖いのか、でも、俺、ククリが怖がる事しないよ?」
邪気の無い笑顔で言うタカオの言葉に、不思議な事に菊理の恐怖心が消えた。
「タカオは、誰にでもこんな風にするの?」
菊理が尋ねると、
「ククリだけだよ? 俺、ククリを見てるとドキドキして体が熱くなるんだ、一緒にいたい、側にいたい、ククリに……触れたい」
タカオの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「他の人じゃなくて、私だけ?」
「そう、ククリだけ……、海で、ククリを見つけた、俺のものにしたいって思った」
タカオの唇が、一瞬菊理の唇に触れた。
暖かさと、やわらかな感触を、菊理は心地よいと思った。
「私じゃないと、ダメ?」
「うん、ククリがいい」
菊理は、警戒していた腕をほどき、両手を畳の上に置いた。すぐ近くにタカオの顔があった。
誰でもかまわない、と、今となっては婚約者になった兼田至は言った。都合がよい、とも。
けれど、タカオは違うようだった。自分を欲する、素直な感情。
海中で見た、大きな魚影。貪られるような怖さとは違う、奪われ、乱されたいというこれは、欲望だろうか。
ふっと、電気が消えた。
「停電? ランタン、着けないと」
菊理はタカオを見つめたまま言ったが、タカオも菊理も互いから目を離さなかった。じわじわと目が慣れてきた頃には、タカオの唇と菊理の唇は重なっていた。
闇の中でも、互いの体が熱を帯びて、ぼんやりと場所がわかるようだった。
ランタンを灯す事の無いまま、菊理はタカオの唇と、手を受け入れた。
しゅるりと衣擦れの音。
浴衣の合わせがほどけて、菊理の裸体が露わになると、タカオの舌と唇が、菊理の体をさまよい始めた。
菊理は、素直に自分を、自分自身を求めるタカオに、何故か愛おしさを感じ始めていた。
そして、全てを受け入れた。風が強いせいか、どこかから海の香りが漂っていた。
菊理は、タカオの肉体が、常人の男と決定的に違う事に気づいたが、それに驚く事は無かった。風呂でも見せていたはずではあったが、まじまじとは見ていなかったので、気づかなかったのだ。
タカオは、本当に巨大な水棲生物なのかもしれない。そんな考えが脳裏をよぎったが、熱情に身を委ねてしまった菊理にとって、それは瑣末な事だった。
夜、ランタンが灯る事は無かった。
薄っすらと夜が開け始めた頃に、電気が復旧し、驚いて菊理が目覚めると、隣にはまだタカオが眠っていた。
無防備に寝息をたてるタカオは、全裸で菊理に腕枕をしていた。
同様、菊理も一糸まとわぬ姿だった。皺くちゃになった浴衣が、壁際にわだかまったままになっている。
かろうじて布団をかけたのはどちらだったのか。
部屋のあちこちに、情事の名残が残っていた。
明かりが恥ずかしくなって、菊理はゆっくりタカオの腕から抜け出して、しわくちゃの浴衣を纏った。
壁際のスイッチで明かりを消して、広縁からまだ薄暗い外を見た。
風が収まる様子は無い。暗くて見えない海も、恐らく荒れているのだろう。
シャワーを浴びたい気持ちはあったが、民宿の和室には備え付けの風呂は無い。
風呂場は24時間いつでも使ってかまわないと言われていたが、万が一老夫婦のどちらかと出くわしたら、気まずい事この上ないだろう。
昨夜、できるだけ声は出さないようにはしたが、気取られただろうか。
夫婦の部屋の場所がわからない。
階下であったならば、振動などで気づかれた可能性は高かった。
タカオは、音には頓着しなかった。
思うままに振る舞い、菊理に啼くよう求めた。
求められるままに応じたい気持ちもあったが、声を殺す理性だけは、残っていたと信じたい。
菊理は、いままでに無かったような満ち足りた気持ちになっていた。
至とは、まだベッドを共にした事は無かった。
新婚旅行には行く予定であったし、子作り宣言はあらかじめされてはいたが、ブライダルチェックを受けただけで、そちらについて確かめようとはしなかったのだ。
「がっかりしたく無いんだよね、だって結婚する事は決まってるわけだろう?」
何度目かのデートで、それなりに雰囲気のあるバーに行った時の事だった。
至にそうした気持ちが無かったわけでは無さそうだった。
『流れ』次第では『そう』してもいいだろうという場面は何度かあった。
だが、至はそんな気持ちにはならなかったようだ。
「期待させてた? ごめんね」
と、言った上での言葉だった。
自分が拒まれるだろう事は全く予想していない言葉だった。
「まあ、ハネムーンに他の女を連れて行くわけにはいかないし、そこまでとっておこう? 楽しみは先の方がいいでしょう?」
至が菊理に失望する事はあっても、菊理が至に失望するはずは無いという気持ちを隠すつもりも無いようだった。
菊理も、その頃にはそうした扱いに慣れ始めていた。
至は、ケチでは無かったし、時折菊理を軽んじる事はあっても、扱いそのものは丁重であった。
至に愛情は求めまい、と、菊理も覚悟を決めていた。
だからこそ、素直に菊理自身を求めるタカオがうれしかった。何度も何度も、今までした事がないほどに、菊理は乱れた。
求められれば求められただけ、菊理も返したいと思ってしまったのだ。
「あーーーー、ククリーーー、ダメだよ、ククリのいる場所はこーこ」
腕の中に菊理が居ない事に気づいたタカオが、起き上がって後ろからハグをしてきた。
すっぽりと腕につつみこまれた菊理は、既に馴染んでしまったタカオの腕に体を預ける。
「ね、おいで、まだ朝ごはんには早いでしょ?」
「タカオは、……いいの? 仕事、とか」
「嵐だもん、今日はお休み、嵐が通り過ぎるまで、ずっとね」
抱きしめられて、菊理は再び布団に連れ込まれた。
それは、二度寝の為では無かった。
ねえ、俺のお嫁さんになってよ。
タカオの声が優しく響く。
そうできたらどんなにいいだろう。
あいまいに笑いながら菊理がダメだよ、と、返す。
既に婚約者がいる、と、即答する事ができなかった。
菊理は、既にタカオを受け入れてしまっていた。
一晩だけの事になど、できるはずが無い。
何もかも忘れて、タカオの腕に抱かれていたかった。
けれど、嵐は永遠には続かない……。
嵐が止んだら、太陽が出たら、青い空が出たら、言わなくては……。
そう、菊理は思っていたのに。
嵐は、朝になっても、昼が過ぎても、去らなかった。
朝食は遠慮します、と、内線電話で老婦人に言ったが、昼になると、心配したようで、襖の向こうから声をかけられた。
タカオのようにいきなり襖を開けられずに助かった。
菊理は、まだ半裸のままタカオと同衾していたからだ。
「どうしましょう、予定では一泊だったんですが、フェリーも欠航になってしまいましたし、もしよろしければ、もう一泊されますか? うちはこんな状況ですし、お代はけっこうですので」
「いえ、そういうわけには……元々台風が来るのはわかっていましたし、二泊になるかもとは思っていたので、……はい、もう一泊させて下さい」
襖越しの菊理と老婦人のやりとりに、ふいにタカオが混ざってきた。
「母ちゃん、お腹すいちゃった、ご飯まだある?」
菊理も、唐突に言い出した事に驚いたが、襖の向こうの老婦人はもっと驚いたようだった。
「タカオ?! あんたどうしてお客様の部屋に……朝から姿が見えないと思ったら……、まさかっ、まさかまさかっ!!」
「お客様?! 大丈夫ですか? 開けますよ!!」
昨晩の今日ゆえに、不安に思ったのも無理は無い。老婦人は菊理を心配したいたのだろう。
中にいた二人が取り繕う暇もなく、老婦人が襖を開けた……。