携帯の電話が鳴った。
深夜の一時。大きな仕事が片付いた祝いに、スーパーで安売りされていたウィスキーを一人で舐めていたが、そろそろ眠ろうかという頃合いだった。
こんな時間に誰だろうか。訝しく思いながら端末を見ると、そこには古い悪友の名前があった。
思わず、ため息を漏らす。
コールが途切れることを期待し少し間を置いたが、デフォルト設定の電子音は鳴りやむことを知らない。
仕方がなく、切断の赤いボタンをタップしようとしたが、一瞬の逡巡の末、緑色のボタンに指を伸ばす。
「……今何時だと思ってるんだ?」
「いいだろ別に、どうせ起きてたんだろ」
「お前に叩き起こされたんだよ」
嫌味の一つでも言ってやりたくて、咄嗟に嘘をつく。しかし、彼は小馬鹿にするような短い笑い声を吐き掛けてきた。
「嘘つけ。電話越しにアルコールの匂いが漂ってくるぜ。どうせカッコつけて、クソまずいブランデーでも飲んでたんだろ」
ほぼ正解だ。そのうえ、嫌味を重ねられて、電話に出たことを少し後悔する。
「うるさい。用がないなら切るぞ」
「あー、今からお前の家行くから」
はい?
「東京に来てるのか?」
「おう。バイクで日本一周中。お前ん所に行けば宿代節約できると思ってさ。あと一時間ぐらいで着くから」
「あと一時間ぐらいで着くから。じゃねぇよ! いきなりすぎるぞ」
「いいだろ、別に減るもんじゃないし。じゃあな!」
切られた。
本日二度目のため息を漏らす。
「まったく。何が減るもんじゃないだよ。時間と体力と部屋のスペースと冷蔵庫の中身は減るんだよな。快適な睡眠に至っては、完全に没収じゃねぇか」
このまま眠りについてしまう選択肢もある。しかし、その代償は朝まで鳴りやまないインターホンのベルになるだろう。
仕方がなく、掃除を始める。流石に人に見せられる部屋ではない。
これも、日頃から掃除をしない自分を隠す、つまらない見栄だと笑われるのだろうか。
私は彼が苦手だった。
いや、苦手だったという表現は間違いだろう。
今でも苦手だ。
横暴で自分のことを棚に上げて人を非難する。偉そうな態度で、私のことを下に見ている。
何より、人に守れない約束を取り付け、そのまま去っていった。
私は私のわがままで、その約束を果たせずにいることに、僅かな罪悪感を感じていた。
彼との出会いは、私が喫茶店のカウンターで執筆作業にいそしんでいる時だった。
「本を書いているのか?」
声を掛けられ、驚いた私は後ろを振り向く。そこには、食い入るいるような目でノートパソコンの画面を覗き込み彼が居た。
「ちょっと読んでみても良いか?」
「えっ……まだ書きかけなので、ちょっと」
「書きかけでもいいから。借りるぞ」
そう言って私の隣の席に座り、ノートパソコンを取り上げた。
私は呆気にとられていたが、急に恥ずかしさが沸き上がり、何か言おうとしたが、しかし言葉は出なかった。
自信のないテストの答案を返される前のような、生きた心地のしない時間が流れる。
やがて彼が立ち上がった。
「続きが書けたら読ませてくれ。俺はどうせこの店に居るから」
そう言い残して、立ち去って行った。
なんだか、狐につままれた気分だった。
一体彼は何だったのだろう。
どこかの出版社の編集者? プロの作家? まさか、怪しげな勧誘の新しい手口?
そんなことを考えたが、いずれにせよ見ず知らずの人間が書いている本を覗き見て、全部読ませろと声をかける理由には結びつかなかった。
「おう、先生。またやってるのか? 続き読ませてくれ」
数日後、同じ喫茶店で作業をしていると、あの時の青年が声をかけてきた。
「あの……先生じゃないです。それに、あなた何なんです?」
「あん? 続きが気になってるんだけど、早く読ませろよ」
そう言って、再び私の隣に座り、ノートパソコンを取り上げた。
「いや、そうは言っても、自分なんかが書いたものを読んで何がしたいのか……」
「お前、この本を書いてどうするつもり?」
「どうって……趣味で何となく書いてるだけなんで、ネットに上げるとか賞に応募するとかは考えていないです」
彼は鼻で笑った。
「じゃあ別にいいだろ。俺が何となく読みたくなった。減るもんじゃないから黙って待ってろ」
少しいやな気持になったが、言い返しても仕方がないような気がして、黙る。
心地の悪い時間が過ぎ、読み終えた彼が立ち上がる。
「とりあえず、続き楽しみにしてるぞ」
「えっと……感想とかってあります?」
彼はにやりと笑みを浮かべた。
「最後まで読んだら言う」
それから、何となくその店に行きづらくなった。
人に書いたものを読まれる事が恥ずかしかった事もあるが、どうせ読まれるのなら完成させたものを読んで欲しかった。
仕事が終わると自宅に帰り、続きを書いた。
別に誰かの為に書き始めたものではない。小説家になろうと思った事もない。完全な自己満足から始まった物語。それでも、誰かに読まれることを意識した瞬間から、その熱量は別のものへ変わっていた。
「先生がいるってことは、続きを読ませてくれるって事だよな」
数週間ぶりに、近所の喫茶店へ足を運ぶ。
「完成しました。こっちの方が読みやすいと思って」
鞄に忍ばせた原稿を取り出す。約三十枚の紙の束。
「つまらない作品ですが、最後まで読んで頂けると嬉しいです」
「俺がつまらないと思うかは俺が決める。書いた奴は胸張って面白い作品ですって言っとけ。それが創作者の義務だと思うぜ」
彼は原稿を読み始めた。
私は、コーヒーを啜りながら、緊張してその終わりを待つ。
創作者の義務。そんなものを背負いたくはなかったから、今まで誰にも作品を見せてこなかったというのに。こんな所で、逃れ続けてきた業を突き付けられるとは思っていなかった。
「読み終わったぞ」
彼は私の目を見て言った。
「とりあえず、面白かった」
今までの苦労が、全て報われた気がした。
それから、彼とはよくつるむようになった。
驚くほど趣味は合わなかったが、私は彼の話す話が新鮮で面白かった。しかし、一ミリも興味が持てなかったパチンコの話や、女性関係の自慢話をあくび交じりに聞いていると、恐ろしい剣幕で怒った。
「人の話を聞かないやつに、話すことなど何もない」
そのくせ、私の話すゲームやアニメの話は、夕飯の献立を考えながら聞いているかと思えるほど興味がなさそうだった。
それでもどこか馬が合ったのだろう。お互いに相手を見つけると声をかけ、たまには連絡を取り合って食事に出かけた。
「お前の小説、なんというか、遊びが足りないんだよなぁ」
彼と遊ぶようになってからしばらく経ったある日、話題は私の書いた小説のことになった。
「この前は面白かったって言ってくれたじゃん」
「まあ、面白かったといえば面白かったんだけどさ。こう、登場人物に動きがないというかさ」
「SFの冒険ものだし、結構動きは入れたと思うけど」
「いやあ、そういう動きじゃなくてさ。感情が希薄というか、葛藤がないというか。相棒の女が無人兵器に射殺されたところも、すんなり描写されてて、違和感があったし。あと、こいつら仕事ばっかりで娯楽が感じられない。主役の二人に酒や煙草をやらせるだけでも、人間味が出ていいと思うぜ」
「そうは言っても、酒もほとんど飲まないし、煙草も吸ったことがない」
彼は呆れるような表情でため息をついた。
「遊びを知らないやつに、ろくな創作はできないぜ。ほら、行くぞ」
「行くって、どこにさ?」
「酒飲んで煙草吸って遊べる所だよ」
それから連れ回された店は、どれも好きになれる環境ではなかった。彼に無理やり吸わされた煙草も、むせかえって楽しめるものではなかった。
ただ、飲みなれない酒が楽しめたのは、あの環境の為なのか、彼が居たからか、はたまた創作の為と割り切っていたからか。
二日酔いの中、彼の部屋で目を覚ます。結局あの後、朝まで彼の部屋で酒を呷っていたのだ。
時刻は正午を少し回ったあたり。全身の気怠さと頭痛に逆らい、薄汚れたソファーから体を起こす。
「おはよう。いつまで人ん家で寝てんだよ」
声のするほうへ目をやる。彼は部屋の隅でPCのモニターに向き合っていた。
「何やってんだ?」
彼に近づき、モニターを覗き込む。
そこには書きかけのイラストが表示されていた。
瓦礫の上で近未来的な衣服を纏った男が咆哮をあげている。その両腕には、ぐったりと倒れる、髪の長い女性を抱きかかえており、周囲には二人に銃口を向ける中型のロボットが取り囲んでいた。
「意外だったか? 昔はイラストレーターになりたかったんだ。だから芸術大学に行ったけど、夢を諦めたら潰しが利かなくてな。おかげで今じゃフリーターさ」
正直、意外そのものだった。彼のヤクザな私生活と創作は、どう考えても結びつかない。
「この絵って、あの話の絵か?」
「さあね。世界観や設定は似ているかもしれないけど、こんな感情的なシーンはあの小説に描かれていなかったからな」
まだ色の塗られていない、線画だけのイラスト。しかし、そのモニターからは、彼の悲痛な叫びがモニターから滲み出る。描かれているわけではないのに、どこからか雨の音が聞こえてきそうだった。
「なあ、あの話、書き直してもいいか?」
「それは創作者の勝手だろ。俺には関係ない。好きにしろよ」
「いや、関係ある。その……書き直したらこの絵を使わせてほしい」
彼は驚いたように目を見開き、しかし、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
「いいけど、俺の絵を使ってどうするつもりだ?」
「えっと……小説と合わせてネットで発表してみる」
彼は腕を組み、悩むふりをした。きっと私の意見が全て通るのが癪なのだろう。
「発表はいいし、ネットも悪くない。けど、どうせなら、俺たちが手に取れるような形に残るものにしよう」
「形に残るもの?」
彼はイラスト作成用のソフトを閉じ、インターネットのあるページを表示させた。
それは、自作小説を自由に発表するイベントの募集ページだった
「参加者が自作の小説を自費で印刷して持ち込み、販売するイベントだよ。これに出すなら、俺の絵を使ってもいいぜ。ちなみに俺は同人イベント参加経験有りだ。俺と組むなら、印刷所への入稿から搬入の流れまで、手厚いサポートが受けられる。どうだ、やってみないか?」
即座に答えは出なかった。正直なところ、初めての経験で最後までやり通せるのか不安でしかないし、知らない人間たちの中で作品を発表するのは恐怖でしかなかった。
しかしそれ以上に、書きたい気持ちが強く、何かとんでもない物を作り出せそうな期待が胸の内で膨らんだ。
今ならば登場人物たちに感情を与えられる。そんな気がして。
「わかった、やってみよう」
それから、作品の書き直しが始まった。
しかし、一度書き上げた作品を手直ししていく作業は、一度書き上げる以上に大変なものだった。
全体の物語に矛盾が生まれないよう、組み立て直していく作業は、答えのないパズルを解いているようなものだ。
しかし、それ以上に彼とのやりとりが私の創作を苦しめた。
「違う、俺が読みたいのはそういうことじゃない。第一俺の絵に合わないだろ」
「お前が感情を描写しろって言うから、その通りにしたじゃないか」
「だからって、延々と心情描写だけするなよ。怠くて読む気にならん。もっと感情に一致した動きを描けよ。最後の独白とか本当に蛇足でしかない」
「他はさておき、最後の独白シーンは必要だろ。説明がなければ、なぜ延命装置を止めたのか分からない」
「そこは理由を匂わせる程度でいいんだよ。読者の想像で補える部分があったほうが、物語は面白く感じるもんだ」
「じゃあもうお前が書けよ。絵だけじゃなくて文才もあるみたいだしさ」
彼はため息をつく。その表情は少し悲しそうだった。
「俺に小説は無理だったんだよ。だからお前と組んでいるんだ」
やはり、彼も物語を書いていたのだ。でなければ、ここまで私にアドバイスができるはずがない。しかも、その熱量は並のものではない。筆を折ったのもそこまで昔の話ではないのだろう。
「なあ、あの喫茶店で声かけてきたのって、もしかして……」
「そんなセンチメンタルなもんじゃないよ。ただ何となくだ」
彼は自身が書いたイラストを印刷したものを広げた。
表紙に使う、カラーのイラストが一枚。挿絵に使う白黒の絵が三枚。そのうち一枚は見開きにする予定の、あの瓦礫の絵だ。
「でも、あん時にお前に声かけなかったら、こんな絵を描く事はなかったんだろうな」
私は無性に苛立った。彼の手段は姑息だ。
「わかったよ。書き直すさ。でも、これは俺が書いている物語だ。最後の独白は残すから、それは納得してくれよ」
彼はその問いに、イエスともノーとも返さず、ただ黙って煙草に火をつけた。
結局、私が完成と言っても終わらせてくれない彼とのやり取りは続いたが、そんな日々にもようやく終わりが来た。
「まあ、こんなもんだろうな」
すっかり、口出しばかりの彼の言葉に辟易していたところだったが、ついに引き出したその言葉に心の中でガッツポーズをした。
「別に、全面的に認めたわけじゃねえぞ。ただ、入稿の作業を含めると、今日が引き際なだけだ」
「わかったから、それで入稿してくれ」
「ああ、任しておけ」
そこからは彼の仕事だった。文章のフォントや余白を調整や、彼のイラストの埋め込みを行い、入稿のデータを作っていく。その作業に数日を要するという。
「テンプレートに当てはめるだけなら一瞬だがな。適当な仕事はしたくないのさ」
そして、入稿日。この日に入稿できなければ、申し込んだイベントに間に合わないデッドライン当日。日も落ちて暗くなった時刻に、私は酒と肴を買い込んで、彼の家へ向かった。
もちろん、入稿祝いで酒を酌み交わしつつ、当日の段取りについて話し合う為だ。
彼のアパートの部屋を開ける。不用心なことに、いつも鍵をかけていなのだ。
「……どうかしたのか?」
驚いたことに、部屋には出かけ支度をしている彼の姿があった。
「ああ、ちょっと問題があってな」
彼がデータ作成が終わり、いざ入稿という時に、印刷会社のページが表示されなくなったという。
「電話で聞いたら、サーバーのダウンだってよ」
「他の印刷所は?」
「イベントギリギリまで入稿を待ってくれるのは、この会社だったからな。もう夜だし、他は無理だろ」
胸が締め付けられる気がした。しかし、彼も私に気を使って、気晴らしに出かけようと言ってくれるのだろう。おそらく、そのための出かけ支度だ。
「まあ、それなら仕方がないよ。また次のイベントに応募しよう」
「いや、イベントまでに間に合わせるぞ。今から印刷所に行って、入稿データを押し付ける。電話口ではやめてくれって言ってたが、金は前払いで払ってるんだ。文句は言わせねぇ」
「本気か? 止めとこうよ。印刷所の人も大変な時に迷惑だろ」
「なんで奴らの都合で俺たちが我慢しなくちゃならないんだ。お前もお前で、どうしてすぐに諦める? 人の目ばかり気にしやがって。お前が自分の本を発表する気がなかったのもそうだ。俺がいなきゃ、わがまま一つ通せねえ。黙ってお前はここで待ってろ。なあに、バイクで飛ばせば二時間もかからねぇよ」
そう言って、ヘルメットを被ると彼は部屋を飛び出していった。
「結局、間に合わなかったんだよな」
私は散らかる空き缶を袋に詰めながら、独り言をつぶやく。
「しかも、データの入ったメモリーを渡して、次のイベントにはお前一人で出せってさ。そのまま田舎に帰っちゃうんだから、ひどい奴だよ」
それでも、この小説は彼と作り上げたものだ。彼の関わらない所で発表する気はさらさらない。
インターフォンが鳴る。扉を開ければ、五年ぶりの彼との再会だ。
「よう、先生。久しぶり」
彼は五年という年月を感じさせないほど、変わらぬ容姿をしていた。
「おう、久しぶり。悪いとは思ってないけど、一応お前に謝っておこうと思うんだ」
彼は鼻で笑った。
「悪いと思ってないなら謝るなよ。あれは、俺が時間を掛けすぎたせいだ。それより、お前酒臭いぞ。なんだよ、昔はあんなに嫌ってたくせに」
「誰かさんのお陰でな。いまではすっかり、それナシじゃ生きていけないよ」
私は彼のぶら下げるビニール袋を指さす。
「それはそれは、どこかの誰かさんに感謝しとけよ」
どの口が言うか。
「それよりさ、最近は何か書いてないのか。久々に読ませろ」
「……ああ、いいよ。ちょうど今日、書きあがったところだ。最高に面白いもん読ませてやる」
深夜の一時。大きな仕事が片付いた祝いに、スーパーで安売りされていたウィスキーを一人で舐めていたが、そろそろ眠ろうかという頃合いだった。
こんな時間に誰だろうか。訝しく思いながら端末を見ると、そこには古い悪友の名前があった。
思わず、ため息を漏らす。
コールが途切れることを期待し少し間を置いたが、デフォルト設定の電子音は鳴りやむことを知らない。
仕方がなく、切断の赤いボタンをタップしようとしたが、一瞬の逡巡の末、緑色のボタンに指を伸ばす。
「……今何時だと思ってるんだ?」
「いいだろ別に、どうせ起きてたんだろ」
「お前に叩き起こされたんだよ」
嫌味の一つでも言ってやりたくて、咄嗟に嘘をつく。しかし、彼は小馬鹿にするような短い笑い声を吐き掛けてきた。
「嘘つけ。電話越しにアルコールの匂いが漂ってくるぜ。どうせカッコつけて、クソまずいブランデーでも飲んでたんだろ」
ほぼ正解だ。そのうえ、嫌味を重ねられて、電話に出たことを少し後悔する。
「うるさい。用がないなら切るぞ」
「あー、今からお前の家行くから」
はい?
「東京に来てるのか?」
「おう。バイクで日本一周中。お前ん所に行けば宿代節約できると思ってさ。あと一時間ぐらいで着くから」
「あと一時間ぐらいで着くから。じゃねぇよ! いきなりすぎるぞ」
「いいだろ、別に減るもんじゃないし。じゃあな!」
切られた。
本日二度目のため息を漏らす。
「まったく。何が減るもんじゃないだよ。時間と体力と部屋のスペースと冷蔵庫の中身は減るんだよな。快適な睡眠に至っては、完全に没収じゃねぇか」
このまま眠りについてしまう選択肢もある。しかし、その代償は朝まで鳴りやまないインターホンのベルになるだろう。
仕方がなく、掃除を始める。流石に人に見せられる部屋ではない。
これも、日頃から掃除をしない自分を隠す、つまらない見栄だと笑われるのだろうか。
私は彼が苦手だった。
いや、苦手だったという表現は間違いだろう。
今でも苦手だ。
横暴で自分のことを棚に上げて人を非難する。偉そうな態度で、私のことを下に見ている。
何より、人に守れない約束を取り付け、そのまま去っていった。
私は私のわがままで、その約束を果たせずにいることに、僅かな罪悪感を感じていた。
彼との出会いは、私が喫茶店のカウンターで執筆作業にいそしんでいる時だった。
「本を書いているのか?」
声を掛けられ、驚いた私は後ろを振り向く。そこには、食い入るいるような目でノートパソコンの画面を覗き込み彼が居た。
「ちょっと読んでみても良いか?」
「えっ……まだ書きかけなので、ちょっと」
「書きかけでもいいから。借りるぞ」
そう言って私の隣の席に座り、ノートパソコンを取り上げた。
私は呆気にとられていたが、急に恥ずかしさが沸き上がり、何か言おうとしたが、しかし言葉は出なかった。
自信のないテストの答案を返される前のような、生きた心地のしない時間が流れる。
やがて彼が立ち上がった。
「続きが書けたら読ませてくれ。俺はどうせこの店に居るから」
そう言い残して、立ち去って行った。
なんだか、狐につままれた気分だった。
一体彼は何だったのだろう。
どこかの出版社の編集者? プロの作家? まさか、怪しげな勧誘の新しい手口?
そんなことを考えたが、いずれにせよ見ず知らずの人間が書いている本を覗き見て、全部読ませろと声をかける理由には結びつかなかった。
「おう、先生。またやってるのか? 続き読ませてくれ」
数日後、同じ喫茶店で作業をしていると、あの時の青年が声をかけてきた。
「あの……先生じゃないです。それに、あなた何なんです?」
「あん? 続きが気になってるんだけど、早く読ませろよ」
そう言って、再び私の隣に座り、ノートパソコンを取り上げた。
「いや、そうは言っても、自分なんかが書いたものを読んで何がしたいのか……」
「お前、この本を書いてどうするつもり?」
「どうって……趣味で何となく書いてるだけなんで、ネットに上げるとか賞に応募するとかは考えていないです」
彼は鼻で笑った。
「じゃあ別にいいだろ。俺が何となく読みたくなった。減るもんじゃないから黙って待ってろ」
少しいやな気持になったが、言い返しても仕方がないような気がして、黙る。
心地の悪い時間が過ぎ、読み終えた彼が立ち上がる。
「とりあえず、続き楽しみにしてるぞ」
「えっと……感想とかってあります?」
彼はにやりと笑みを浮かべた。
「最後まで読んだら言う」
それから、何となくその店に行きづらくなった。
人に書いたものを読まれる事が恥ずかしかった事もあるが、どうせ読まれるのなら完成させたものを読んで欲しかった。
仕事が終わると自宅に帰り、続きを書いた。
別に誰かの為に書き始めたものではない。小説家になろうと思った事もない。完全な自己満足から始まった物語。それでも、誰かに読まれることを意識した瞬間から、その熱量は別のものへ変わっていた。
「先生がいるってことは、続きを読ませてくれるって事だよな」
数週間ぶりに、近所の喫茶店へ足を運ぶ。
「完成しました。こっちの方が読みやすいと思って」
鞄に忍ばせた原稿を取り出す。約三十枚の紙の束。
「つまらない作品ですが、最後まで読んで頂けると嬉しいです」
「俺がつまらないと思うかは俺が決める。書いた奴は胸張って面白い作品ですって言っとけ。それが創作者の義務だと思うぜ」
彼は原稿を読み始めた。
私は、コーヒーを啜りながら、緊張してその終わりを待つ。
創作者の義務。そんなものを背負いたくはなかったから、今まで誰にも作品を見せてこなかったというのに。こんな所で、逃れ続けてきた業を突き付けられるとは思っていなかった。
「読み終わったぞ」
彼は私の目を見て言った。
「とりあえず、面白かった」
今までの苦労が、全て報われた気がした。
それから、彼とはよくつるむようになった。
驚くほど趣味は合わなかったが、私は彼の話す話が新鮮で面白かった。しかし、一ミリも興味が持てなかったパチンコの話や、女性関係の自慢話をあくび交じりに聞いていると、恐ろしい剣幕で怒った。
「人の話を聞かないやつに、話すことなど何もない」
そのくせ、私の話すゲームやアニメの話は、夕飯の献立を考えながら聞いているかと思えるほど興味がなさそうだった。
それでもどこか馬が合ったのだろう。お互いに相手を見つけると声をかけ、たまには連絡を取り合って食事に出かけた。
「お前の小説、なんというか、遊びが足りないんだよなぁ」
彼と遊ぶようになってからしばらく経ったある日、話題は私の書いた小説のことになった。
「この前は面白かったって言ってくれたじゃん」
「まあ、面白かったといえば面白かったんだけどさ。こう、登場人物に動きがないというかさ」
「SFの冒険ものだし、結構動きは入れたと思うけど」
「いやあ、そういう動きじゃなくてさ。感情が希薄というか、葛藤がないというか。相棒の女が無人兵器に射殺されたところも、すんなり描写されてて、違和感があったし。あと、こいつら仕事ばっかりで娯楽が感じられない。主役の二人に酒や煙草をやらせるだけでも、人間味が出ていいと思うぜ」
「そうは言っても、酒もほとんど飲まないし、煙草も吸ったことがない」
彼は呆れるような表情でため息をついた。
「遊びを知らないやつに、ろくな創作はできないぜ。ほら、行くぞ」
「行くって、どこにさ?」
「酒飲んで煙草吸って遊べる所だよ」
それから連れ回された店は、どれも好きになれる環境ではなかった。彼に無理やり吸わされた煙草も、むせかえって楽しめるものではなかった。
ただ、飲みなれない酒が楽しめたのは、あの環境の為なのか、彼が居たからか、はたまた創作の為と割り切っていたからか。
二日酔いの中、彼の部屋で目を覚ます。結局あの後、朝まで彼の部屋で酒を呷っていたのだ。
時刻は正午を少し回ったあたり。全身の気怠さと頭痛に逆らい、薄汚れたソファーから体を起こす。
「おはよう。いつまで人ん家で寝てんだよ」
声のするほうへ目をやる。彼は部屋の隅でPCのモニターに向き合っていた。
「何やってんだ?」
彼に近づき、モニターを覗き込む。
そこには書きかけのイラストが表示されていた。
瓦礫の上で近未来的な衣服を纏った男が咆哮をあげている。その両腕には、ぐったりと倒れる、髪の長い女性を抱きかかえており、周囲には二人に銃口を向ける中型のロボットが取り囲んでいた。
「意外だったか? 昔はイラストレーターになりたかったんだ。だから芸術大学に行ったけど、夢を諦めたら潰しが利かなくてな。おかげで今じゃフリーターさ」
正直、意外そのものだった。彼のヤクザな私生活と創作は、どう考えても結びつかない。
「この絵って、あの話の絵か?」
「さあね。世界観や設定は似ているかもしれないけど、こんな感情的なシーンはあの小説に描かれていなかったからな」
まだ色の塗られていない、線画だけのイラスト。しかし、そのモニターからは、彼の悲痛な叫びがモニターから滲み出る。描かれているわけではないのに、どこからか雨の音が聞こえてきそうだった。
「なあ、あの話、書き直してもいいか?」
「それは創作者の勝手だろ。俺には関係ない。好きにしろよ」
「いや、関係ある。その……書き直したらこの絵を使わせてほしい」
彼は驚いたように目を見開き、しかし、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
「いいけど、俺の絵を使ってどうするつもりだ?」
「えっと……小説と合わせてネットで発表してみる」
彼は腕を組み、悩むふりをした。きっと私の意見が全て通るのが癪なのだろう。
「発表はいいし、ネットも悪くない。けど、どうせなら、俺たちが手に取れるような形に残るものにしよう」
「形に残るもの?」
彼はイラスト作成用のソフトを閉じ、インターネットのあるページを表示させた。
それは、自作小説を自由に発表するイベントの募集ページだった
「参加者が自作の小説を自費で印刷して持ち込み、販売するイベントだよ。これに出すなら、俺の絵を使ってもいいぜ。ちなみに俺は同人イベント参加経験有りだ。俺と組むなら、印刷所への入稿から搬入の流れまで、手厚いサポートが受けられる。どうだ、やってみないか?」
即座に答えは出なかった。正直なところ、初めての経験で最後までやり通せるのか不安でしかないし、知らない人間たちの中で作品を発表するのは恐怖でしかなかった。
しかしそれ以上に、書きたい気持ちが強く、何かとんでもない物を作り出せそうな期待が胸の内で膨らんだ。
今ならば登場人物たちに感情を与えられる。そんな気がして。
「わかった、やってみよう」
それから、作品の書き直しが始まった。
しかし、一度書き上げた作品を手直ししていく作業は、一度書き上げる以上に大変なものだった。
全体の物語に矛盾が生まれないよう、組み立て直していく作業は、答えのないパズルを解いているようなものだ。
しかし、それ以上に彼とのやりとりが私の創作を苦しめた。
「違う、俺が読みたいのはそういうことじゃない。第一俺の絵に合わないだろ」
「お前が感情を描写しろって言うから、その通りにしたじゃないか」
「だからって、延々と心情描写だけするなよ。怠くて読む気にならん。もっと感情に一致した動きを描けよ。最後の独白とか本当に蛇足でしかない」
「他はさておき、最後の独白シーンは必要だろ。説明がなければ、なぜ延命装置を止めたのか分からない」
「そこは理由を匂わせる程度でいいんだよ。読者の想像で補える部分があったほうが、物語は面白く感じるもんだ」
「じゃあもうお前が書けよ。絵だけじゃなくて文才もあるみたいだしさ」
彼はため息をつく。その表情は少し悲しそうだった。
「俺に小説は無理だったんだよ。だからお前と組んでいるんだ」
やはり、彼も物語を書いていたのだ。でなければ、ここまで私にアドバイスができるはずがない。しかも、その熱量は並のものではない。筆を折ったのもそこまで昔の話ではないのだろう。
「なあ、あの喫茶店で声かけてきたのって、もしかして……」
「そんなセンチメンタルなもんじゃないよ。ただ何となくだ」
彼は自身が書いたイラストを印刷したものを広げた。
表紙に使う、カラーのイラストが一枚。挿絵に使う白黒の絵が三枚。そのうち一枚は見開きにする予定の、あの瓦礫の絵だ。
「でも、あん時にお前に声かけなかったら、こんな絵を描く事はなかったんだろうな」
私は無性に苛立った。彼の手段は姑息だ。
「わかったよ。書き直すさ。でも、これは俺が書いている物語だ。最後の独白は残すから、それは納得してくれよ」
彼はその問いに、イエスともノーとも返さず、ただ黙って煙草に火をつけた。
結局、私が完成と言っても終わらせてくれない彼とのやり取りは続いたが、そんな日々にもようやく終わりが来た。
「まあ、こんなもんだろうな」
すっかり、口出しばかりの彼の言葉に辟易していたところだったが、ついに引き出したその言葉に心の中でガッツポーズをした。
「別に、全面的に認めたわけじゃねえぞ。ただ、入稿の作業を含めると、今日が引き際なだけだ」
「わかったから、それで入稿してくれ」
「ああ、任しておけ」
そこからは彼の仕事だった。文章のフォントや余白を調整や、彼のイラストの埋め込みを行い、入稿のデータを作っていく。その作業に数日を要するという。
「テンプレートに当てはめるだけなら一瞬だがな。適当な仕事はしたくないのさ」
そして、入稿日。この日に入稿できなければ、申し込んだイベントに間に合わないデッドライン当日。日も落ちて暗くなった時刻に、私は酒と肴を買い込んで、彼の家へ向かった。
もちろん、入稿祝いで酒を酌み交わしつつ、当日の段取りについて話し合う為だ。
彼のアパートの部屋を開ける。不用心なことに、いつも鍵をかけていなのだ。
「……どうかしたのか?」
驚いたことに、部屋には出かけ支度をしている彼の姿があった。
「ああ、ちょっと問題があってな」
彼がデータ作成が終わり、いざ入稿という時に、印刷会社のページが表示されなくなったという。
「電話で聞いたら、サーバーのダウンだってよ」
「他の印刷所は?」
「イベントギリギリまで入稿を待ってくれるのは、この会社だったからな。もう夜だし、他は無理だろ」
胸が締め付けられる気がした。しかし、彼も私に気を使って、気晴らしに出かけようと言ってくれるのだろう。おそらく、そのための出かけ支度だ。
「まあ、それなら仕方がないよ。また次のイベントに応募しよう」
「いや、イベントまでに間に合わせるぞ。今から印刷所に行って、入稿データを押し付ける。電話口ではやめてくれって言ってたが、金は前払いで払ってるんだ。文句は言わせねぇ」
「本気か? 止めとこうよ。印刷所の人も大変な時に迷惑だろ」
「なんで奴らの都合で俺たちが我慢しなくちゃならないんだ。お前もお前で、どうしてすぐに諦める? 人の目ばかり気にしやがって。お前が自分の本を発表する気がなかったのもそうだ。俺がいなきゃ、わがまま一つ通せねえ。黙ってお前はここで待ってろ。なあに、バイクで飛ばせば二時間もかからねぇよ」
そう言って、ヘルメットを被ると彼は部屋を飛び出していった。
「結局、間に合わなかったんだよな」
私は散らかる空き缶を袋に詰めながら、独り言をつぶやく。
「しかも、データの入ったメモリーを渡して、次のイベントにはお前一人で出せってさ。そのまま田舎に帰っちゃうんだから、ひどい奴だよ」
それでも、この小説は彼と作り上げたものだ。彼の関わらない所で発表する気はさらさらない。
インターフォンが鳴る。扉を開ければ、五年ぶりの彼との再会だ。
「よう、先生。久しぶり」
彼は五年という年月を感じさせないほど、変わらぬ容姿をしていた。
「おう、久しぶり。悪いとは思ってないけど、一応お前に謝っておこうと思うんだ」
彼は鼻で笑った。
「悪いと思ってないなら謝るなよ。あれは、俺が時間を掛けすぎたせいだ。それより、お前酒臭いぞ。なんだよ、昔はあんなに嫌ってたくせに」
「誰かさんのお陰でな。いまではすっかり、それナシじゃ生きていけないよ」
私は彼のぶら下げるビニール袋を指さす。
「それはそれは、どこかの誰かさんに感謝しとけよ」
どの口が言うか。
「それよりさ、最近は何か書いてないのか。久々に読ませろ」
「……ああ、いいよ。ちょうど今日、書きあがったところだ。最高に面白いもん読ませてやる」