(起) 幼年時代 (1) 名前の謎
一面の荒れた大地に。
ひとりぽつんと。
取り残されて。
その子どもは、
泣きもせずに。
大きな眼をして。
救助者を、きょとんと見上げていたという。
そこは北国の。
荒涼たる。
かつては…
農村地帯で。
幾度も繰り返し襲い掛かる。
大震災と、
津波と。
原形も留めぬまでにひしゃげた、
建造物群の残骸と。
それでも芽吹きかけたまま。
哀れ放射能に侵されてひねこびて病み、
枯れつつあるわずかばかりの農作物の。
そのさなか、つい先日、再び襲い掛かった。
激しい積乱雲による大暴風雨と、山津波と…
土石流で。
地表に取り残されていた最後の人々の、難民キャンプが。
全て。
流されて、
消えた。
泣きながら、生存者を探しにきた者たちが。
唯一、見つけて、連れて帰ってきたのが…
その子どもで、あった。
大急ぎで。
周辺数百メートルの範囲の、浅い地表が捜索されたが。
その子どもの保護者であったろう大人は。
おそらく。
…
子どもだけは、せめて。
きっと…
助かってくれ!と信じて…
少しばかり尖って突き出た大岩の上に。
子どもだけ。を、
最後のちからで、
かろうじて。
押し上げて…
山津波に。
自身は呑みこまれて、泥中に。
沈んで、果てたのであろうと…
救助者たちは、涙ながらに語った。
激しく襲い掛かる泥流のさなかに巻き込まれて沈んだであろう、人々の数はあまりにも多く。
名簿を改めるためだけにすべて掘り出して、あらためて埋葬しなおすほどの、
余力は。
救助者たちにも、もはやなかった。
*
後日、その子どもを救い上げてくれていた…大岩のふもと。
枯れた松の木の根方に。
一粒の、どんぐりだけが、供え物として植えられた。
せめてもの、たむけの、追悼の。
母の。
墓碑の代わりに…
*
見知らぬ大人たちに連れられて収容されなおした、
移転先の難民キャンプは、
南の国の。
ことばのなまりが。
それまでいた北の地方とは、
かなり違う、地域であった。
「じぶん名前なんち言うん?」
見知らぬ大人に、聞き慣れぬ言葉で訊かれて。
子どもは、きょとんとしていた。
「名前や。…な・ま・え!」
しばらく考えて…
答えた。
「…とぁーき、…まー… ちゃん …と。
…とぁき! まーちゃん… とっ!」
「…トキ、かぃなぁ?
…トキ・マーチャン? 言うんやな?
マーチャン…ト? マチャト? …マチャヒト君、かぃな…?」
と、
発音したようだと。
探している親族が。
まだ誰か、生存しているかもしれないと。
録画とともに公開された記録には、
…残る。
『トキ』という名字の大人は。
喪われた難民キャンプの。
逸失をまぬがれて遺された、部分的な収容者名簿には、
…なかった。
しかしそれは名簿のほうの不備かもしれなかった。
被災に次ぐ被災で。
どこの収容施設も。
満足に、きちんと、収容者の人数や名前を把握できているとは…
とても、言いきれなかった。
大人たちは、しばらく考えて。
子どもの名簿には、
(仮名)『 土岐(または多岐か滝?) 正人 (マサト または マサヒト) 』
という字を充てた。
*
あるいはそれは『 轟 正仁 』(とどろき・まさひと)と。
はぐれた父親の名前のことを。
呼んだのではなかったか?と、
問い合わせが入った。
それはその父親の雇用主だったという人物からだった。
数ヶ月が経っていた。
子どもは、とりあえずその人物の保護下に入ることになったが。
幼い子どものこととて。
その頃には、元の自分の名前も、…親の記憶も。
すべて、失われていたようであった。
*
少し大きくなった頃に。
その経緯と、命名のいきさつが、子どもに説明された。
聡明な子どもは、ううん…?
と。考えた。
じぶんの名まえは、トドロキよりも、トキがいいかな…?
音が怖くないしね。
赤い鳥の名まえと、おんなじ音。だしね?
…と。
選んだので。
子どもの、自由意志が尊重された。
*
それからさらに。
しばらくして。
子どもが、ひととおりの日本語と、日本式の漢字の読みを。
覚えたころに。
本人から希望があって。
『 正人 (マサト または マサヒト) 』の標記は、
『真扉』(まさと)に改められた。
その理由は。
同じ難民キャンプの、同じ学年に。
同じ漢字の『正人』が。
他に、三人も、いたので…。
ありふれ過ぎていてツマラナイし、
混同されやすいから。
「もっと! カッコイイのがいいと思って!」
自分で一生懸命に、考えたから。
…と、いうことだった。
こうして。
『 土岐 真扉 』(トキ・マサト)。(※ 本人希望名称。)
という姓名が。
改めて。
名簿に、刻まれた。
それが、後に。
人類史上に燦然と輝く。
偉業をなしとげた、人物の。
名前の、由来である。