ソファ前の低い机の上に、ハンバーガーの包み紙やナゲットの箱が散乱していた。風呂上がりの彩也子はそれらを片手のゴミ袋に一つ一つ入れ、ついでに転がっていたチューハイの缶も拾い上げる。

「これ捨てていいでしょ?」
「んー」

 手と口を拭いたお手拭きに、溶けた氷で薄まったコーラ、紙袋、ビニール袋。それらを分別しながら拾っていると、ソファに座る諒一から声がかかった。

「テレビ見えない」
「ごめん」
 
 飛びのく。諒一はテレビから目を離さない。
 彩也子は小さくため息を吐いた。

(家にご両親がいるから居づらいんだろうけど……テレビくらい自分の家で見てほしいなあ)

 実家住みの諒一。
 最近は特に、半同棲状態と言ってもいい頻度で彩也子の家を訪れている。

『結婚したいの?』

 脳内で狐少女が再び問うてくる。

(結婚……そりゃ、したいけど……わかんないよ、そんなの)

 ゴミの処理を終え、ようやくベッドに座る。どっと疲れが押し寄せてきた。彩也子は、タオルで髪を拭きながらテレビ画面に夢中な恋人を見つめた。時折、陽気な笑い声をあげている。
 きっと、彩也子が掃除をしていたことなんて気が付いていないのだろう。

 いつまでも、学生気分の諒一。
 出会ったあの頃のままの諒一。
 
「彩也子」

 名前を呼ばれ、彩也子は顔を上げる。
 諒一の整った顔が目の前にあった。大学時代、友人たちにうらやましがられた恋人の顔。「なんで彩也子と?」と、陰で噂されていたその顔。
 伸びかけのひげが、妙に気になった。

 いつのまにか、テレビの音は消えている。

 しんとした部屋の中で、寝間着の下をごつごつした手が這い――近づいてきた唇を、彩也子は反射的に顎を引いて避けた。

 怪訝そうな諒一から、目をそらす。

「何?」
「……あんま、気分じゃない……かなーって」
「え? なんで?」
「今日、ちょっと疲れてて……いろいろ怒られちゃったし」
「でも怒られるのって、結局彩也子が悪いんじゃん」
「そうだけど……」
「彩也子がミスしたらみんなに迷惑かかるし、怒るのも当然じゃん? そのくらいで疲れるとか、やっぱ彩也子ってなんか甘くない?」
「……うん……」
「自業自得じゃん、そういうのって。何なら、それを直そうと思ってみんないろいろ言ってくれるんだからさ、感謝するべきでしょ。それを疲れたとかさ……社会人としてどうなの、それ。あー、なんか萎えたわ」
「え……」
「もういいよ、彩也子がそうなら。そうやって自分勝手に生きてろよ」

 向き直り、諒一はこちらに背を向ける。しばらくして、呑気ないびきが聞こえてきた。

 彩也子は、どうにも寝付けない。
 意識ははっきりしたまま、ただ、むなしく時間だけが過ぎていく。

(はあ……明日も仕事なのに……)

『いや絶対浮気されてるって』

 冴えた脳裏を、その声が響いた。

 四年前に、目にした光景。
 彩也子たちはまだ大学生だった。

 バイトだと言って彩也子のデートを断った時間に、知らない女と二人で手をつないで歩いていた諒一。
 問い詰めると、彼は「ごめん」と頭を下げた。「一回だけだよ、本当に好きなのは彩也子だけ」と、言いつのった。泣きながらその他の不満も一緒にぶちまけた彩也子に、「俺は変わるよ」と言い放った。
 
『ほんとにごめんな、彩也子。これからは絶対にしないよ』

 そう、謝った。
 彼がいつもドタキャンするときと、同じように。
 
(……目、冴えてきちゃった)

 目を開けた。
 そして――天井に生えた、ぱやぱやと微笑む生首と視線が交わった。

「ん゛っ」
「彩也子ちゃん、こんばんはー」

 彩也子の低い悲鳴にも動じず、ろくろはいつもの微笑みを浮かべていた。

「……何、してるんですか」
「ちょっと彩也子ちゃんの彼氏さん見てみようと思ってー。あ、大丈夫ですよ? さすがにいろいろ始まっちゃったら出てくつもりでしたから」

 暗い部屋の天井にぶら下がる女の首は、非常に不気味だった。表情に邪気がない分、なおさらだ。

「どうしてまた、天井から……」
「壁に耳あり、障子に目あり、なら天井に首があってもおかしくないですってー」
「んー……?」

 その理屈に数瞬首を捻る。なにも説明になっていない気がするが、それよりも諒一が気にかかった。そっと隣を窺うと、同時に諒一ががっ、といびきをかいて、むにゃむにゃとなにごとか呟いた。
 その間も生首は饒舌に喋っている。

「いやー、首だけ飛ばして、後から胴体を飛ばすっていうの、できるんですけどね? やっぱり、夜道を胴体が飛んでたら……怖いじゃないですかー?」
「んー……?」

 胴体かさばりますしねー、と補足した後、ろくろのまなざしが真剣なものに変わる。

「まだ、続けていくんですか?」

 その問いに、彩也子は力のない声で答えた。

「……だって、謝ってくれるし……」
「本当に、彼が変わると思いますか? 何度、謝られたんですか? ――その回数だけ、貴女がないがしろにされているってことじゃないんですか?」
「……諒一は、ちゃんとわたしが悲しかったってわかってます」

 じゃなかったら、謝らなくないですか。と、反論する声が、先すぼみになる。

「それに……怒られるのは、やっぱり私が悪いですし」

 そんな彩也子を、ろくろはじっと見下ろしている。
 そして、厳かに、口を開いた。

「彩也子ちゃん、今、彼のこと、好きって言えますか?」
「……好き、ですよ。好きだったから……付き合ったんです」

 それが『逃げ』の回答でしかないことに、彩也子自身うすうす感づいている。
 彩也子が諒一から離れられない本当の理由は、もっと些細で、もっと醜い。

 それは大学時代、彼と付き合い始めた時。
 成績も容姿もぱっとせず、特技も特になかった彩也子が、サークルの中でも目立って整った容姿をしていた諒一と恋人になったのは仲間内でちょっとした騒ぎになった。
 そして友人たち――今は、まったく連絡を取っていないが――みんなが、彩也子の見目と外面の良い恋人を羨んだのだ。

 それまでなんにもなかった彩也子には、その感覚が忘れられない。
 人に羨まれる恋人を持つ優越感で、自分にはそれ以外何もないという劣等感を必死に打ち消していた。

 彩也子は黙り込む。どうにも上手く説明できそうになかった。

 ろくろは相変わらず、そんな彩也子を見下ろしている。
 しばらく返答を待った後、彩也子が答えられないと見るや、その首がふわり浮いて、天井から離れた。

「――彩也子ちゃんがそう決めたのなら、私たちは何もいいません」

 ふよふよとベッドの隣、彩也子の目線まで降りてきたろくろは、優しい笑みと共に彩也子を見つめり。

「……また、困ったことがあったら、一緒におしゃべりしましょうね。あやかし恋愛相談所は、いつだって受付中ですから」

 ろくろは踵ならぬ生首を返して、ふわふわと彩也子から遠ざかっていく――途中で、「あ、」と振り返った。

「ねえ彩也子ちゃん、窓開けてくれません?」
「どこから入ったんですか?」