あやかし恋愛相談所、受付中。


「ニンゲンはたいてい夜に寝るってのはわかってるんだけどね? 結局私らが調子いいのって夜だからさー。ここ開けるのもいつも夕方からなんだよね」

 そんなことをいいながら少女はレジ袋を物色する。その背後で、ふさふさした尻尾が機嫌よさそうに揺れていた。

 彩也子の目にはせいぜい二十歳そこそこに見えるその少女の切れ長の目は、いわれてみれば確かに狐のようだ。

「そおそ。で、今日は誰も来ないまま深夜になっちゃったから、もうこうなったら酒盛りでもするしかないってなって、ろくちゃんに買い出し行ってもらったとこ」

 おかっぱの童女はレジ袋からうきうきとワンカップを取り出す。見た目には堂々たる法律違反だ。そんな目線に気が付いたのか、童女と目が合う。

「ニンゲンの法律なんてあやかしには関係ないもんねー」

にやりと笑った童女は「熱燗にするー!」と台所へ消えていった。その背に『きつねちゃん』が付け足す。

「あくまでもお客さん待つ間に、ね!」
「よく言うよ、自分だって今日いつもの発泡酒じゃなくてお高めのビールのくせに」
「あー、きつねちゃんその黒ごまもちアイスは私のですー!」
「はいはい。――それにしてもこんなにおいしい甘味がいつでもどこでも手に入るって最高だよね、現代文明さまさま。コンビニスイーツでなにかお気に入りある?」

 急に水を向けられて、彩也子はひるむ。

「えっと……」
「あーてかなんか飲む? ワンカップあるよ? あとはきつねちゃんのビールか、あ、チューハイもある、ろくちゃん用の」
「お酒しかないんですか……」
「そりゃこんな時間だし、飲んで食って喋るしかやることないって。あ、これ開けていい?」
「どぞどぞー。彩也子ちゃんも気にしないでなんでも飲んで食べちゃって。どうせコンビニすぐそこですからー」
「は、はあ……」
「はいポテチ」
「あ……」

 狐少女が差し出したポテトチップスの袋から一枚つまみだす。

 彩也子は、目の前で起きていることに理解が追い付いていなかった。結果、いつも通り、雰囲気に流されている。その自覚はあった。
 
 正面に座る狐少女を眺める。
 精巧な尻尾だ。随分と機嫌が良さそうにゆらゆら揺れている。
 作り物には、どうしても見えない。

 右側に視線を移す。小学校中学年程度の少女がレンジで温めた日本酒のワンカップで晩酌をしている。

 彩也子の左側には……言わずもがな、先刻彩也子の度肝を抜いた元首無し女がいた。穏やかに相槌を打つその声に言いようもない既視感を覚えて記憶をまさぐる。

 視線に気が付いた彼女が不思議そうにこちらを見ていて、そのうち、「あ、」と声を漏らした。

「もしかして、この前夜道でチラシを渡した……?」
「あ! はい、はい、それです、それ私です」

 童女が目をむく。

「まじか」

 狐少女がどん引いている。

「あのくそださいチラシで?」
「やっぱり、無駄じゃなかったじゃないですかー!」

 ろくろ首は頬を膨らませて狐少女に詰め寄った。

「いや、ごめん。……でもやっぱりデザインは変えたほうがいいって」
「何がだめなんですか!? 虹色ですよ!!?」
「なんでろくちゃんそんなに虹色の文字にこだわるの……?」
「二人とも! お客さんの前!」

 童女が声を張って制止する。
 彩也子は気まずくなって、鼻の頭を掻いた。
 その様子を見た狐少女が、取り繕うように苦笑する。

「ごめんね、うち、ろくちゃんが事務担当なんだけどこの前ポスター作ろうって急に……ってこんな話はいいか。なんか質問ある?」

 彩也子は視線を膝に落とした。
 意を決して、口を開く。

「あの、本当におばけ、なんですか?」
「うーん、まあ、妖狐だから化け物の類ではあるね」

 狐少女はそういうと、ビールの缶をあおる。童女が続いた。

「私は座敷童ー。こっちの『ろくちゃん』はろくろ首だよ」

 彩也子にチラシを渡した女性だ。彼女に目を向ける。

「……首、伸びるんですか?」
「もちろん伸びますよー!」
「ひぃっ!」

 色白の首がゴムのようにびよんと伸びて、裏返った彩也子の声にきつねとわらしが勢いよくふき出した。

「大丈夫だよ、あれ宴会の一発芸みたいなもんだから」
「ほんと害ないんだよあれ。結果人間がびっくりするだけだもん」
「びっくりしました……」

 早くなった鼓動を、なんとか落ち着かせる。
 ふう、と息を吐くのと、狐少女が口を開くのが同時だった。

「じゃあ、今度は私の番かな」

 少しだけ身を乗り出して、少女は彩也子をのぞき込む。

「――最近の恋愛事情は?」
「あ……」

 ここに来たきっかけを思い起こさせられて、自然、俯きがちになった。

「……実は、彼氏と上手くいってなくて」
「ほうほう」
「なにがあったの?」

 先を促されて、彩也子は一連の流れを振り返った。

 発端は、先週、急な残業でデートが流れたことだ。

 元々段取りの悪い彩也子は、その日仕事がギリギリまで終わらず、待ち合わせ時間に間に合わないことを諒一に電話で連絡した。諒一はそれに怒って、先に帰ってしまったのだ。

 今日はその埋め合わせをすることになっていた。ところが、時間になっても現れない。既読もつかない時点でうすうす予感はしていたが、「なんか頭痛いから今日やっぱやめよ」と返事が来たのはその二時間後のこと。

「自分勝手だね」

 座敷童の第一声に、彩也子は多少鼻白んだ。

「……ですよね」
「うん? いや、彩也子ちゃんじゃなくてよ、相手が」
「……でも、最初は私が怒らせたんですし」
「いや、どー考えてもそいつがおかしいよ。いやマジで。ねえろくちゃん」
「体調悪いなら待ち合わせ時間までに言えって話ですよ。デートなんだから、こっちもいろいろ準備してますし」
「わかる」

 こうも自分の恋人を好き放題言われると、彩也子は何となく複雑な気持ちになる。やいのやいのと言い合う二人に比べて、狐少女は比較的穏やかに彩也子の話を聞いていた。

「……きつねさん、どう思いますか」
「まあ、正直、付き合っててきついんじゃないかなって思うよ」
「……そうですか」

 きつねは続ける。

「彩也子ちゃんは『きっかけ』を作ってるけど、それが彩也子ちゃんをサンドバッグにしていい理由にはなんないよね」
「ろくでもないやつだね」
「ろくでもないですね」

 彩也子は閉口した。相談したのは自分だが、曲りなりにも恋人である。ろくでもないと言われると、反論したくなるものだ。

「諒一は私のこと考えてくれてます。確かにちょっと浮き沈み激しいけど、私がもっとちゃんとしてたら、諒一だってもっと向き合ってくれると思うんです」
「でもそいつと結婚したいの?」

 一瞬、詰まった。

「……別れたら、もう結婚できるような相手に出会えないんじゃないかって思います。私、ぐずだし。のろまだし。美人でもないし」
「いやそういう子の方がまだモテると思うよぉ、ねえきつねちゃん?」
「……何がいいたいのかな、わらし?」

 少女がその鋭い目でじとりとねめつけるが、肝心の座敷童はどこ吹く風でまた一口酒を嗜んだ。ろくろ首は彩也子に耳打ちしてくる。

「きつねちゃん、見るからに強い女だから殿方が近寄ってこないんですよ」
「は、はあ……」
「もういいでしょ、私の話は! 今日は彩也子ちゃんの話聞くの!」

 仕切りなおされて、彩也子に視線が集まる。

「……私がちゃんとしてないから、諒一は怒るんです。今月も一回仕事に遅刻しちゃったし、書類の入力ミスばっかりだし、やらなきゃいけない仕事も忘れちゃうし、自分のことで精いっぱいで気配りも下手で。だから、私が変われば、諒一も変わってくれると思うんです」

 ――彩也子は、自分のことが嫌いだ。
 できないことばかりの自分が、いつも情けなくなる。

 静かに、彩也子の話に耳を傾けていたきつねが、口を開く。

「あのね、彩也子ちゃん。彩也子ちゃんが仕事で遅れちゃったり、忘れっぽかったり、あんまり気を回せなかったとしても、それ全部許してくれる人って絶対いるよ」

 先ほどまでとは違う、柔らかい声音。

「納得できなくても、それは頭の片隅に置いといて?」

 ちゃぶ台を囲む三人が優しく彩也子を見つめている。
――なぜだか、また、泣きたくなった。
「困るよ、ほんと。今月二回目だよね?」
「すみません……」

 彩也子は頭を深く下げた。あの後、相談所が彩也子を泊めてくれたのだが、久しぶりに酒も入っていたせいかうっかり寝過ごしてしまったのだ。彼女たちは彩也子が翌日休日出勤なことを知らず、寝かしておいてくれたらしい。目が覚めてすぐ青ざめた彩也子に三人とも謝り倒していた。
 周囲の目が痛くて、彩也子は身を縮める。

「前回さ、言ったよね? こういうことがまたあったらいろいろ考えるって。困るんだよ、そういうんじゃ。いろいろ気緩んでるんじゃないの?」
「すみません」

 声がかすれる。厳しい顔をした部長がため息を吐く。

「あと、書類の誤字脱字もひどいって聞いてるよ。ちゃんとチェックしてるの? まあ最近は直ってたみたいだけど……今日のこれ見るとねえ」
「すみません……」

 ついに、声が消え入りそうになる。もういいよ、と呆れたように締めくくられ、彩也子は再び頭を下げてその場を後にした。
 涙が滲みそうになるのを必死にこらえる。非があるのは自分だ。泣く筋合いはない。それでも情けなくて、不甲斐なくて、どうにも抑えられなかった。

(せめてトイレまで……)

 近づいたそこで、洗面所から会話が聞こえてきた。
 彩也子が特に苦手な、同僚の三人組だ。かちゃかちゃと、化粧品同士がぶつかり合う音がする。

「あの子今日また怒られてたよ。そんでまた同じ服着てた」
「うっわ。まじ?」
「でも彼氏超イケメンだよねあの子」
「そうなん?」
「あー歩いてんの見たことある」
「いや絶対浮気されてるって」
「こら」
「でもそういうもんでしょ」
「あの子気づかなそうだよねー」

 そこまで聞いて、彩也子は踵を返した。
 玄関を開けると、薄暗い部屋の奥から、がやがやした歓声が耳に飛び込んできた。
 彩也子は靴を脱ぎながら声をかける。

「諒一?」

 返事はない。だが、いざ部屋にあがってみると、ソファの上に寝そべる男がいた。携帯ゲームに夢中の男の正面で、つけっぱなしのテレビがむなしく笑い声をたてている。音量を落とし、カーテンを閉めた彩也子は部屋の明かりを付けてもう一度声をかけた。

「諒一」
「ん」
「今日泊まるの?」
「ん」
「……食べ物、一人分しか買って来てないよ」
「ん」
「次からは……先に連絡してほしいなって」
(前も、言ったんだけど)

 心中でつぶやくのと同時に、「あー!」と諒一が大声をあげた。

「おまえがずっと話しかけてくるから負けたじゃん! これオンラインゲームだから負けると他人に迷惑かかるんだよ、空気読めよ」
「あ……ごめん」
「あーもう」

 諒一は不機嫌そうにがしがしと頭を掻いた。

「メシは?」
「……だから、今日来ると思ってなかったから、食材買ってないよ」
「あーじゃあ作んなくていいよ。なんか買ってきて」

 彩也子はため息を吐いて立ち上がった。

「何そのため息?」
「なんでもないよ」
「なんで女っていつもそうやって察してもらおうとすんの? 言わなきゃわかんないじゃん」
「……ごめん」

 答えは無く、代わりに画面の中の芸人たちがどっと沸いた。その笑い声に、諒一のものが重なる。

「そういえば、この前ドタキャンしてごめん」

 その言葉に、彩也子は振り返った。
 諒一はテレビから目を離さずに続ける。

「二日酔いでしんどくてさー。ほんとごめんな」
「ううん、いいよ。体調悪いのは仕方ないもん」

 間髪入れずにそう返して、玄関のドアを開いた。
 外気が頬を冷やす。

(あの人は、ちゃんと謝れる人だから)

 だから、大丈夫と、言い聞かせる。

(いつか、きっと変わってくれる)

 吐いた白い息が、曇天の夜空へのぼっていった。
 ソファ前の低い机の上に、ハンバーガーの包み紙やナゲットの箱が散乱していた。風呂上がりの彩也子はそれらを片手のゴミ袋に一つ一つ入れ、ついでに転がっていたチューハイの缶も拾い上げる。

「これ捨てていいでしょ?」
「んー」

 手と口を拭いたお手拭きに、溶けた氷で薄まったコーラ、紙袋、ビニール袋。それらを分別しながら拾っていると、ソファに座る諒一から声がかかった。

「テレビ見えない」
「ごめん」
 
 飛びのく。諒一はテレビから目を離さない。
 彩也子は小さくため息を吐いた。

(家にご両親がいるから居づらいんだろうけど……テレビくらい自分の家で見てほしいなあ)

 実家住みの諒一。
 最近は特に、半同棲状態と言ってもいい頻度で彩也子の家を訪れている。

『結婚したいの?』

 脳内で狐少女が再び問うてくる。

(結婚……そりゃ、したいけど……わかんないよ、そんなの)

 ゴミの処理を終え、ようやくベッドに座る。どっと疲れが押し寄せてきた。彩也子は、タオルで髪を拭きながらテレビ画面に夢中な恋人を見つめた。時折、陽気な笑い声をあげている。
 きっと、彩也子が掃除をしていたことなんて気が付いていないのだろう。

 いつまでも、学生気分の諒一。
 出会ったあの頃のままの諒一。
 
「彩也子」

 名前を呼ばれ、彩也子は顔を上げる。
 諒一の整った顔が目の前にあった。大学時代、友人たちにうらやましがられた恋人の顔。「なんで彩也子と?」と、陰で噂されていたその顔。
 伸びかけのひげが、妙に気になった。

 いつのまにか、テレビの音は消えている。

 しんとした部屋の中で、寝間着の下をごつごつした手が這い――近づいてきた唇を、彩也子は反射的に顎を引いて避けた。

 怪訝そうな諒一から、目をそらす。

「何?」
「……あんま、気分じゃない……かなーって」
「え? なんで?」
「今日、ちょっと疲れてて……いろいろ怒られちゃったし」
「でも怒られるのって、結局彩也子が悪いんじゃん」
「そうだけど……」
「彩也子がミスしたらみんなに迷惑かかるし、怒るのも当然じゃん? そのくらいで疲れるとか、やっぱ彩也子ってなんか甘くない?」
「……うん……」
「自業自得じゃん、そういうのって。何なら、それを直そうと思ってみんないろいろ言ってくれるんだからさ、感謝するべきでしょ。それを疲れたとかさ……社会人としてどうなの、それ。あー、なんか萎えたわ」
「え……」
「もういいよ、彩也子がそうなら。そうやって自分勝手に生きてろよ」

 向き直り、諒一はこちらに背を向ける。しばらくして、呑気ないびきが聞こえてきた。

 彩也子は、どうにも寝付けない。
 意識ははっきりしたまま、ただ、むなしく時間だけが過ぎていく。

(はあ……明日も仕事なのに……)

『いや絶対浮気されてるって』

 冴えた脳裏を、その声が響いた。

 四年前に、目にした光景。
 彩也子たちはまだ大学生だった。

 バイトだと言って彩也子のデートを断った時間に、知らない女と二人で手をつないで歩いていた諒一。
 問い詰めると、彼は「ごめん」と頭を下げた。「一回だけだよ、本当に好きなのは彩也子だけ」と、言いつのった。泣きながらその他の不満も一緒にぶちまけた彩也子に、「俺は変わるよ」と言い放った。
 
『ほんとにごめんな、彩也子。これからは絶対にしないよ』

 そう、謝った。
 彼がいつもドタキャンするときと、同じように。
 
(……目、冴えてきちゃった)

 目を開けた。
 そして――天井に生えた、ぱやぱやと微笑む生首と視線が交わった。

「ん゛っ」
「彩也子ちゃん、こんばんはー」

 彩也子の低い悲鳴にも動じず、ろくろはいつもの微笑みを浮かべていた。

「……何、してるんですか」
「ちょっと彩也子ちゃんの彼氏さん見てみようと思ってー。あ、大丈夫ですよ? さすがにいろいろ始まっちゃったら出てくつもりでしたから」

 暗い部屋の天井にぶら下がる女の首は、非常に不気味だった。表情に邪気がない分、なおさらだ。

「どうしてまた、天井から……」
「壁に耳あり、障子に目あり、なら天井に首があってもおかしくないですってー」
「んー……?」

 その理屈に数瞬首を捻る。なにも説明になっていない気がするが、それよりも諒一が気にかかった。そっと隣を窺うと、同時に諒一ががっ、といびきをかいて、むにゃむにゃとなにごとか呟いた。
 その間も生首は饒舌に喋っている。

「いやー、首だけ飛ばして、後から胴体を飛ばすっていうの、できるんですけどね? やっぱり、夜道を胴体が飛んでたら……怖いじゃないですかー?」
「んー……?」

 胴体かさばりますしねー、と補足した後、ろくろのまなざしが真剣なものに変わる。

「まだ、続けていくんですか?」

 その問いに、彩也子は力のない声で答えた。

「……だって、謝ってくれるし……」
「本当に、彼が変わると思いますか? 何度、謝られたんですか? ――その回数だけ、貴女がないがしろにされているってことじゃないんですか?」
「……諒一は、ちゃんとわたしが悲しかったってわかってます」

 じゃなかったら、謝らなくないですか。と、反論する声が、先すぼみになる。

「それに……怒られるのは、やっぱり私が悪いですし」

 そんな彩也子を、ろくろはじっと見下ろしている。
 そして、厳かに、口を開いた。

「彩也子ちゃん、今、彼のこと、好きって言えますか?」
「……好き、ですよ。好きだったから……付き合ったんです」

 それが『逃げ』の回答でしかないことに、彩也子自身うすうす感づいている。
 彩也子が諒一から離れられない本当の理由は、もっと些細で、もっと醜い。

 それは大学時代、彼と付き合い始めた時。
 成績も容姿もぱっとせず、特技も特になかった彩也子が、サークルの中でも目立って整った容姿をしていた諒一と恋人になったのは仲間内でちょっとした騒ぎになった。
 そして友人たち――今は、まったく連絡を取っていないが――みんなが、彩也子の見目と外面の良い恋人を羨んだのだ。

 それまでなんにもなかった彩也子には、その感覚が忘れられない。
 人に羨まれる恋人を持つ優越感で、自分にはそれ以外何もないという劣等感を必死に打ち消していた。

 彩也子は黙り込む。どうにも上手く説明できそうになかった。

 ろくろは相変わらず、そんな彩也子を見下ろしている。
 しばらく返答を待った後、彩也子が答えられないと見るや、その首がふわり浮いて、天井から離れた。

「――彩也子ちゃんがそう決めたのなら、私たちは何もいいません」

 ふよふよとベッドの隣、彩也子の目線まで降りてきたろくろは、優しい笑みと共に彩也子を見つめり。

「……また、困ったことがあったら、一緒におしゃべりしましょうね。あやかし恋愛相談所は、いつだって受付中ですから」

 ろくろは踵ならぬ生首を返して、ふわふわと彩也子から遠ざかっていく――途中で、「あ、」と振り返った。

「ねえ彩也子ちゃん、窓開けてくれません?」
「どこから入ったんですか?」
 その電話がかかってきたのは、出社の準備をしている途中だった。

「――ああ、もしもし」

 上司のその声だけで、彩也子は悟った。
 なにか、取り返しのつかないことが起きた、と。
 スマートフォンの向こうが、やたら騒がしい。

「一昨日やってくれた得意先への請求書だけどさ。一桁入力し忘れてたみたいだよ」

 ひゅ、と、喉が勝手に息を吸い込んだ。冷汗が落ちる。
 真っ白な頭に、固く温度のない声が響く。

「今営業の子たちが相手先と話してるけど、この感じだとこの金額で納入することになりそうだね。――損失どのくらいかわかってるよね?」

 ――やってしまった。ついに。

(すみま、申し訳、もうし……)

 謝らなくては、いけないのはわかっているのに、唇が震えて、のどが絞まって、拍動に気をとられて、考えがまとまらなくて、声が出せない。
 
 電話の向こうで、誰かが誰かに怒鳴った。
 彩也子の上司は気にも留めずに淡々という。

「とりあえず、これが片付いたら君のことについても話し合うことにするから」

 連絡するまで、こなくていいよ。

 何か返すのも待たずに電話は切れる。
 つー、つー、という電子音だけが、鼓膜をむなしく震わす。
 耳から離した携帯電話を、彩也子は呆然と見つめていた。
 窓の外で、一枚の枯れ葉が風に舞っていった。

「……なんていうか、ごめんね、彩也子ちゃん。せめてあの日私たちが起こしてあげてたら……」
「いや、いや、とんでもないです」

 遅かれ早かれ、こうなる日が訪れていた気がしますから、と、自ら口にした彩也子の肩が更に落ちていく。沈痛な面持ちのろくろがちらり、きつねを窺った。わらしが慌てたように身を乗り出す。

「でもさ、本当に疲れてたよね、彩也子ちゃん。最初にここ来た時、クマすごかったもん」
「は、はい、ほんと、一瞬お仲間かと思ったぐらい……いえ、あの、悪い意味じゃなく!」
「あーーそれ悪い意味にしか聞こえないと思うなーー」

 ろくろはごめんなさい……とさらに沈痛な顔を下へ向ける。きつねがやれやれと苦笑した。

「大変だったでしょ、休日出勤。今どきまだそんなの続けてるところあるんだね」
「うちの会社だと、みんなそうなんですよ。あと、単純に私は特に仕事が遅いから終わらなくて……時間になると勝手にタイムカード切られるから残業代も出ないですし」

 彩也子としては些細な愚痴のつもりで言ったその言葉に、きつねがあからさまに眉根を寄せる。

「まあまあ悪質じゃないの、それ」
「え、でも……時間内に終わらせさえすればいいだけの話なので」

 と、わらしの瞳がきらりと光った。

「もしかしてだけど、事務なのに事務以上の仕事させられたりとかしてる? 」
「えっ! どうしてわかったんですか! 契約の手続きの施行とか商品説明とかやってます!」

 わらしの瞳がまた光る。

「その割にボーナス全額カットされたりするとか」
「えっ! どうしてわかったんですか! 給料も営業事務としての分しかもらってないです!」

 黒い瞳はぎらぎら光る。

「有給申請すると延々と嫌味言われるとか」
「えっ! どうしてわかったんですか! 申請しても取れたことないです!」
「はい決定ブラック企業! 私昔から商家に住み着いてきたから見慣れてるよそういうの! 家出時だね!」
「さすが座敷童」
「見放されると商家が潰れる妖怪です」
「え? え?」

 話についていけない彩也子に、「要するに」ときつねが切り出す。

「その会社ろくでもないよ、って話」
「……やっぱりですか?」

 薄々感づいてはいた。いたが、内定がとれた中で一番名の知れた会社。ついでに目の前のことで精いっぱいで、転職する勇気はなかった。

「十四連勤ってやっぱりおかしいですよね……」

 三人の口から、そろって「うわぁ」と声が漏れた。

「よく倒れませんでしたね……」
「体は丈夫なので……」
「ダメなほうに発揮しちゃったか」

 きつねが苦笑した。
 突然、わらしが手を挙げる。

「はーい、遅刻とか誤字脱字、そのせいに一票」
「そうですよね、彩也子ちゃん確かにてきぱきしたタイプではないけど結構几帳面ですもん。洗濯物とかすごい綺麗に干してありました」
「えっきつねちゃん見習いなよ」
「はー?」

 ごめんごめん冗談、とわらしが片手を立てる。

(ああ、そういえば)

 彩也子は思った。

(こういう友達との会話、何年もしてないなあ)

「ね、彩也子ちゃん。だからね」

 きつねがそっと、彩也子の手を取る。
 久しぶりに体温に触れた気がした。

「彩也子ちゃんはがんばった! 全然悪くない!」

 そんなわけない、と思う。取り返しのつかないミスをしたのは彩也子だから。
 でも、心のどこかで、彩也子の心に、浮かび上がってきた思考。

(そう思ってもいいの?)

(私、がんばったって思っていいの?)

 涙が一気にあふれた。
 しゃくり上げる彩也子の背中を、ろくろが優しくさすっているのを感じる。
 わらしが彩也子に、ぴったりと体をくっつける。――妖怪のはずなのに、温かい。

 滲んだ視界の先で、きつねがそっと見守っていてくれるのがわかる。

 ますます涙が止まらなくて、彩也子の口から嗚咽が漏れた。

===

 帰り道。
 彩也子は周囲を見渡した。

(なんか……すごく空気がおいしい気がする)

 瞳を閉じる。
 十二月の澄んだ空気を、肺に思いっきり取り入れる。
 目を開けた。歩みだす。

 まるで、誰かに背中を押されているように、体が軽かった。


「ただいまー」

 玄関を開けて、彩也子はその澱んだ空気に些かたじろいだ。相変わらずテレビの音が聞こえてくる。
 廊下に脱ぎ捨ててあった靴下を拾い上げる。その足のまま、彩也子はずかずかと諒一の横たわるソファを素通りし、窓を全開にした。途端、諒一が悲鳴を上げる。

「うわっ、寒っ! 閉めろよ彩也子!」

 その声は、彩也子の耳を素通りした。

(うん。外、こんなに気持ちいい)

「ちょっと今から掃除するから我慢して」
「……んだよ」

 こうしてよく見てみれば、部屋の中はいらないものばかりだった。
 読み終わった雑誌。飲み終わった缶コーラ。食べ終わったポテトチップス。転がるビニール袋。数年着ていない洋服。いつ買ったのか定かではない美容グッズ。埃を被った去年の手帳。誰かからお土産で貰った、どこかの島の人形、等々。ついでに先ほどの靴下もとりあえずその場に置いておいた。
 それらを前に、彩也子は考える。

(他に捨てるものあるかなー)

 ワンルームの彩也子の部屋を見渡す。
 ソファの上でゲームに興じる男に目が留まる。
 その男の靴下に目を戻す。よく見たら擦り切れて穴が空いている。
 もう一度男を見た。そして近くに寄ってみる。
 男はゲームに夢中だ。
 冷静な目で、努めて客観的に、その男を見下ろして、彩也子はごく自然に思った。

(うん。いらないな)

「出てって」

 思考と同時に、言葉が出ていた。

「んー」

 気のない返事。

「出てって」

 語気を強める。
 返事すらない。

 体が、勝手に動く。

「出てけよ」
 
 彩也子は、寝転がる男の首根っこを鷲掴みにしていた。
 顔を近づけ、一音一音、言い聞かせる。

「ここ私の部屋だから。掃除するの誰だと思ってるの。散らかすならせめて自分で片付けてくれない?」

 男は状況が理解できていないらしい。
 呆然とこちらを見上げるその――くすんだ顔色、肌荒れ、放置されたひげ。
 不意に怒りがこみ上げる。
 彩也子は咄嗟に、例の靴下をその顔に投げつけた。

「靴下ぐらい自分で洗えるだろうが、大人なら!」

 べろり、男の顔を汗で湿った靴下が覆う。
 男は弾かれたように立ち上がった。

「汚っ! お前なにすん」
「その汚えもん私に洗わせるつもりだったんでしょ」

 唖然としてぽっかりと開いたその口にすら、今の彩也子は苛立つ。

「出てって。早く。もう来ないで」
「……な、なんなんだよ急に」
「いいから!」

 肺に、息を溜める。
 全身全霊で、目の前の諒一を、睨みつけて。
 腹の底から叫んだ。

「私は、もう、あなたなんかいらない!」
「……っんだよ、さっきから! ヒスってんじゃねーよ!」

 諒一がゲーム機を投げ捨てた。堪忍袋の緒が切れたらしい。

「俺だってお前なんかいらねーよ!」

 意味わかんねーんだよ、などとぶつぶつ言いながら、諒一は玄関へ向かっていく。

「もう別れるからな! 後で泣きついたって知らねーか」

 がちゃん! と勢いよくドアを閉めた彩也子は、即効で鍵とチェーンをかけた。

(あー、合鍵回収するの忘れた……。鍵交換しとこ)

 管理会社に連絡する。多少懐は痛むが仕方ない。
 
 部屋に戻り、先ほど並べたいらないものたちを分別してゴミ袋へ捨てていく。今度は諒一が使っていた歯ブラシも追加された。
 その後は、死蔵されていた段ボールを引っ張り出して、消耗品ではない諒一の私物を詰め始める。干していた洗濯物の中に見つかった下着は、一瞬の迷いの末に『捨てるもの』として処理された。
 黙々と作業をしていた彩也子はふと顔を上げる。

「あ」

 ソファの背もたれに上着がかかったままだ。どうやら諒一は十二月の寒空の下、長袖一枚で放り出されてしまったらしい。まあ、携帯は持って行ったはずだ、死にはしない。この上着は諒一の私物たちと一緒に実家に送り返すことにした。

 上着を手に取って、広げる。
 ぱさり、音を立てて、裾が落ちる。
 諒一の匂いがした。

(……これ、昔から着てたな)

 不意に、記憶がよみがえる。
 白い息を吐いて、寒空の下で笑い合う自分たち。
 十二月のイルミネーションで彩られた夜道を、手をつないで歩く諒一と彩也子。

(――ばいばい)

 綺麗に畳んだその上着を、段ボールの隅に納めた。
 わらしがぱちぱちと拍手をした。きつねが頬杖をついてにやにやしている。
 
「どう、実際別れてみて」
「超すっきりしました」
「悪い顔してますねー、きつねちゃん」
「やっぱり面倒くさい男と別れた時ってみんな元気になるよねー」
「あとダメな会社!」
 
 彩也子としてもこんなに晴れやかな気分は久しぶりで、いかに少し前の自分がぼーっとした状態で仕事をしていたかに気が付かされる。

「あ、そういや、仕事どうなった?」

 諒一を追い出した後、彩也子は会社に電話をかけて、丁重に今回の件の謝罪と近々退職をしたいという意思を伝えた。いくら彩也子が損失を出したとはいえ、従順な働き手を失いたくない会社は引き留めにかかったが、貫き通した。わらしのアドバイスに従い万一にでも破り捨てられないよう、多数の目撃者の前で録音していると脅しながら退職届を受理させ、今は有給休暇をとっている。

「ほとんど勢いだけでやっちゃったんで……まだ何も」

 不安がないと言ったら嘘になる。それでも、きっと、同じ環境に耐え続けるよりもましなはずだ。
 ――なにより、彩也子は決断と行動を起こせた自分に、心の底から満足していた。

(一度できたんだもん。きっと、もう一回できる)

 こちらを見つめる三人のあやかしに笑いかける。
 にっこり、微笑み返す三人。
 きつねが尻尾を、ゆらり、揺らす。

「人生の休息ってことだよ、ゆっくり考えな」
「はい、最近は昔の友達に連絡とって、集まりに呼んでもらったりとかしてます」
「楽しくやってる?」
「――はい!」

 きつねが柔らかく目尻を下げた後、そっと身をただした。

「あやかし恋愛相談所はね、恋バナしに来るところ。だから、『相談所』。解決はしないよ。自分の問題に立ち向かえるのは、自分だけだから」

 わらしとろくろがこくこくとうなずく。

「でも、私ら相手にいっぱいいっぱい話して、いっぱい笑って、いっぱい泣いたら……結構元気になるでしょ? それで、元気になったら、思ってたより勇敢な自分に出会えるはず。そしたらまた、新しい恋愛に向かって進めるでしょ。ひとつ素敵になった自分でね」

 その言葉を聞いて、彩也子は口を開いた。

「実は、最近気になっている人がいるんです。さっき言った友達経由で知り合った人なんですけど」
「まじか!」
「おめでとう、彩也子ちゃん!」
「今お酒持ってくる!」
「わたしもスイーツ買ってきます!」

 わらしが台所へ飛び込んでいく。ろくろがばたばたと外出の支度を始める。

「いーじゃん。聞かせてよ、その人のこと」

 色めき立った二人が和室を駆けまわる中。
 一人その中心に腰を据えた狐耳の少女は、ぱちりと片目をつぶった。

「あやかし恋愛相談所、のろけ話だって、受付中だよ」

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