彼女と約束を取り付けてから、次の数字まで溢れるんじゃないかというプレミアムな日の快晴を挟んで今日は雨が降った。
降水確率は百パーセントと、天気予報のお墨付きをもらっていて晴れる心配もない。初夏も折り返し地点についているというのに梅雨を思いださせるようなこの豪雨は、実は彼女が雨の精か何かで力を使って無理やり起こしているものなんじゃないか、とも思えてくる。
馬鹿な妄想だ。
肝心の彼女は、現在進行形で10分ほど遅刻している。集合時間が開園に合わせてやけに早かったから多少の遅刻は全然許容範囲だけど、少し早く来てしまったこともあってさっきから立っている時間は10分ほどに感じなかった。
もしかしたら。
夏場にしては、湿気もあって涼しいはずなのに、いやな汗が背を伝う。
そういえばあの時彼女は、メモを取ってはいなかった。
だからもしかしたら、最初からあの約束も冗談のつもりで云ったのかもしれない。
僕だけが、真に受けてしまったのかもしれない。秒針が前に進む度、時間は進むのに気持ちは後ろ向きに歩いていく。僕は、人に寄り掛かっていたんだ。あの時に気づけたはずなのに、人は簡単に裏切ることに、傷つけることをいとわないことに。
背に汗が滲み、頭からは毒が湧き出てくる。
ここぞとばかりに、何時かの先に立った打算的な後悔が身を包み始める。
まぁ、いいか。また傀儡みたいになって、何食わぬ顔で学校に行けばいい。誰も傷付けず誰にも傷つけられず、シャボン玉みたいにふわふわと漂っていよう。
頭に手が行く。僕はきっと生きている限り、この癖が体から離れることは無い。けれどこれでいいんだ。こんな思いするくらいなら。
「遅くなってしまって申し訳ありません。」
ティラノサウルスみたいに、背骨を曲げうつむいていた僕に声がかけられた。こんなに下を向いていたら、せいぜい見えるのはアスファルトに打ち付けられた雫と、カタツムリくらいだろう。
手を下ろす。そしてまた手を挙げる。
「ううん、全然。」
そう言って、残りの力を振り絞って彼女のほうを向いた。
てっきり傘でもさしているかと思ったけれど、彼女は傘を持っていなかった。
透明な、顎まですっぽりと入るくらいのレインコートに、ビニールにカバンを入れボツボツと雨音を反射させて目の前に立っていた。
嫌な気持ちは消したはずなのに、彼女は僕を見るなりまた頭を下げて
「ごめんなさい。」
といった。
二回目にならないと、いつも本音でしゃべれない僕は遅れた時間の少なさの割に深々と頭を下げる彼女に、さっき考えていたことを重ねた。
「いや、僕もごめん、」
と、到底彼女からは理解できない理由で謝罪の言葉を放つ僕に気づくと、馬鹿にするわけでも、窘めるわけでもなく彼女は笑った。
あまり経験したことのないよくわからない空気に、つられて僕も笑ってしまった。
「どうしてレインコートなの?」
開園時間間近なのもあって、広さを持て余した図書館の一角に特に苦労することもなく座ることができた。この場所は貸出図書の本棚たちから少し遠い所に位置しているため、多少の談話は許されそうな空気がある。
だからここを選んだ。ここにしようといったのは彼女だ。僕もこの場所にしようと思ってはいたが、相談するより前に彼女は一目散にここに向かっていった。
やっぱり、彼女はこの図書館に詳しい。
「雨に当たっていると、時間が流れているのを肌で感じられる気がして。」
だから、たまにこうしてレインコートを着るんです。
成程わからん。彼女の答えとも言えない答えに固まる。
太陽を携えた彼女は、電波もその身に纏わせているのかもしれない。
ポポポと、嬉しそうに窓から雨脚を眺める彼女が楽しそうにしているのでそれ以上は聞かなかった。僕が深く聞いたところで犬に論語、馬耳念仏だろう。
大体、そもそもここにいるのは彼女の国語力を期末に向けて少しでも吸収するのが目的で、彼女の念仏に異を唱えるためではない。そのために他の科目は仕上げておいた。かといって、分からないものを分かるようにするための今回の授業でもあるので、今のは素直にわからないというべきなのだろうか。
エレベーターよりも下らないことに頭を割いていると、彼女が窓を見つめながら言った。
「さて、雨が好きで晴れが嫌いな須藤さん。どちらから先に倒しましょうか。」
少しだけ学校の時より声音を落としてなまめかしく笑う少女に、エレベーターは昇りもすることに気づく。
悩みどころだ。先に数学を倒すか国語を倒すか。
数学に至っては、先日のこともあって彼女の読解力からすれば、刺激一つであっという間にわからないの雲は晴れるだろう。けれど、問題は国語だ。今年の梅雨前線張りにしつこくねばっこい雲は彼女の太陽をもってしても晴れるかどうか。ならば先に、終わりの見当がついている教科から倒すべきだろう。
じゃあ、先に立ち向かうべきは…
「数学から、教えていただいてもいいですか。」
口を開いた途端、僕の出した結論を同様に彼女も導いていた。導出過程はどうであれ答えは同じになったので異論はない。少しだけ、バツが悪そうに言う彼女はもしかしたら僕の考えの対偶から出したのかもしれないが。
「了解。」
特に斜に構えることもなく、カバンからノートを取り出すと
「昼前には倒したいです。」
と、士気高々に抱負を抱く彼女に久方ぶりにやる気が刺激される。
「どうだろうね。」
人は強い思いに感化されると、思いの丈の中に斥力が生まれるらしい。剽軽さも、人の好さも忘れて自分でも思ってもみない意地悪を口にしてしまった。
「やってやります!」
「しぃー。」
「あ。ごめんなさい。」
口にはしたものの気持ちがそう簡単に霧散することはなく、余計やる気に火が付いたいつもの太陽を見やると僕もよし、と覚悟を決めた。
フレアを起こしてしまいそうなほどの彼女の熱量に、少し早めの熱中症になってしまったのかもしれない。それから瞬きの間に時間は過ぎて、昼飯時になる頃には本当にテストに出るであろう問題のほとんどを理解し終えていた。
「有言実行しました!」
一階に降りて、内設されたコンビニで買ったおにぎりを頬張りながら自信満々に彼女は腕を掲げた。何か文句を言ってあげたいところだったが生憎、満足気にしている少女を落胆させて喜ぶような嗜虐的な趣味は持ち合わせていないので何も言わなかった。
加えて、文句の言葉もこれっぽっちも浮かばない。実際、彼女の真隣で教鞭をとっていたものからしてみれば文句など、称賛の言葉で埋め尽くされてしまうだろう。
国語が得意な人は、数学の呑み込みが早い、というのはどうやら本当らしく1教えただけで10を学び取り、途端に閃きの泡を弾けさせる彼女の姿には思わず拍手を送ってあげたいほどだ。
折角、分からない時のために何通りかの説明や解法も用意してきたのに、とんだ肩透かしだった。人は人に物事を教えるとき、その物事を理解する三倍の理解をしていないといけないらしい。多少数学に自信がある僕が、人に教えられるくらいになるまでの今日までの努力には結果オーライという言葉で目を瞑ってもらおう。
教えられたりないという気持ちは分かるが、まさか教えたりない、と思わされることになるとは。読解力とは、もしかしたら万物に通じる最強の武器なのではないのだろうか。
「凄いよ。」
何が、と無粋なことは彼女に限って聞かないだろうから、今抱いている気持ちを率直に表した。
「須藤さんのおかげです。」
「いやいや。」
ニマっと雨の日にも関わらず、喜びと感謝を表す言葉やしぐさ、そして筒抜けの気持ちに謙遜半分照れ隠しが半分を言葉に乗せる。
「まさか、最後の問題もすらすら解いちゃうなんてね。」
「須藤さんの教え方が、上手なんですよ。それに、私の知らない解き方でも解を導けることができるなんて、知りませんでした。」
彼女の労いに、折れた骨たちが騒がしい。三倍ほどの努力はしていないにしても、折った骨に少しは価値を見出してもいいかもしれない。決して骨折り損ではなかったって。
「まぁ、どの解法でもたどり着く答えは一緒だからね。」
得意げになった僕は、彼女を真似して鷹揚に構えてみる。
我ながら、いいことを言った。
数学の凄いところをすべて集約したかのような真理に、矜持すら湧いてくる。
そうなのだ。数学はどれだけ過程が違おうとベクトルを使おうと方程式を使おうと必ずたどり着く答えは一つになる。
そのことは何物にも代えがたい。
何が間違いで、何が正しいかすら分からないこのくそったれな世界で、唯一の答えをもって生まれてきた数学は、解いている中でいつも、美しいと思う。別に数式を見て興奮する数学者ほどではないにしても、数学がほかの教科に比べて思い入れが強いのは言うに及ばない。
「そうなんですよ!」
背まで伸びるロングの髪をなびかせて、うんうんと頷いて見せた。
やっぱり彼女はセンスがある。同時に口を開いた。
「「だから数学って」」
「面白いんだよ。」「つまらないんです。」
は。
僕は今、鏡を見ている。目の前の少女の驚いたような顔。間違いなく僕も似たような顔をしていたはずだ。思ってもみない答えに、時が止まる。その中で聞こえてくるのは、天井に打ち付ける雨の音くらいだった。
「いや、国語みたいに答えが一つに定まらないような科目なんかより、絶対に数学のほうが有意義に決まってるよ。」
こんな感覚久しぶりだ。
鏡に映る自分に暗示する子供のように、ムキになっていた。
「いえ、最初から一つに決まっている答えへの道筋を立てることのどこが楽しいんですか。自分で決まった答えを導くことになんの面白みがあるのでしょうか。」
どうやら鏡も僕と同じ考えのようで、取るに足らない口論は熾烈を極めた。それからは二人とも水掛け論で争った。
「大体国語なんて、作者が今日の昼ごはんでも考えながら作ったものだろう。そんな文面からやれ心情だ、思いの丈だをこねくり回して考えるのは、不可解極まりないよ。」
「数学なんて、元々することのなくなった先人たちの娯楽から生まれたものらしいですが…起源を辿ればどちらが浅瀬か。賢い須藤さんなら分かるはずでは。」
なにおう。
論争は佳境に入る。一度深呼吸して、癖をつかえば心無い言葉でこの下らない言い争いを終わらせることもできた。が、何となくしたくはなかった。
それは、高尚な理由だとか、するべきだという使命が邪魔をしたからじゃなく、ただ、何となく下らないものに怒りを表すことがこんなにも楽しいことだなんて知らなかったから。
加えて、隣でいつも真っ向から立ち向かってくる少女には嘘がなく自然体でいられるからという心地よさもあった。大体、嘘で形作った顔は、ほとんど見透かされてしまって話にならないから止めたという理由を抜きにしても、彼女との会話は、忘れてしまうにはもったいなかった。
「まぁ、私は今回期末範囲の数学も出来たうえで、国語のほうが有意義だ。といっているんですけれどね。」
甲斐ない闘いは終極に至る。
鏡が、小悪魔めいた笑みを向けてきた。
そんなの僕には、できない。
考えていることは今もどうやら同じらしく、彼女のとどめの一撃に思わず僕も笑みがこぼれた。意味のないものほど、本気でやって楽しいことはない。途中からお互いに、怒りの着地点をどこに定めようか、逡巡していたことを察して何だか楽しくなってくる。
「中々、言うね。なら、その知恵とやらをぜひご教授願えるかな。」
そう言って、さっきまで僕らのいた二階を指さした。
貴方にできますかね。ぐらい言われて、からかわれるかと肝を冷やしたが、冗談は終わり、と早々に切り替えた彼女は真っすぐに任せてください!とその旨を受け取った。
思いもよらない返事に、肩透かしを食らったような気持ちになって口をつぐむ。
鏡に映っているのは紛れもなく自分で、間違いないはずなのに僕は忘れていた。
鏡は己を左右対称に映している事に。全く同様なわけではなくむしろ反対に映ることに。
それに鏡に映る自分は、普段の自分よりもなんだか少しイケて見えていたから。
だから切り替えも目の前の鏡は僕より早かったし理解も僕よりよっぽど早い。
彼女に手を引っ張られて二階に上がる。
けれど、それから鏡の必死の教示も虚しく僕が彼女と同じ土俵に立つことも無かった。
まっったく分からない。
「羅生門」も、「富嶽百景」も、教えられた通りに文をなぞったけれど、付け焼き刃は文豪の歯牙にもかからないらしい。
彼女が申し訳なさそうに自分の実力不足を責める度、拙い言葉では言い表せないような気持が胸を締める。さっきまでの威勢は、いったいどこに隠れてしまったのか。
文を詠む、というのは一朝一夕で身につくものではないことは、身に染みるほど理解している。でも流石に、彼女がいれば青天の霹靂でも落ちて少しは通用する視点が手に入ると思っていた。
現実は、甘くない。あまりに長すぎる、人に許された時間は霹靂閃電の成長を許してくれるはずもなく、ただ塵ほどの天恵しか与えてくれなかった。
「ホント、ごめん。」
「いえ、こちらこそ。でもまさかこれほどとは、思ってなかったです。」
明らかに、萎んでいるのは彼女も同様で声に籠った生気が抜けていく。畢竟彼女との口論で早々に負けを認めていればよかった、と後悔の念が頭を支配し始めたころになると、一度休憩を取ることにした。
さっき買ったチョコレートを頬張り、彼女にも促す。台風の目にでも入った感じで至福の時間が訪れる。
そういえば。
「こんなド田舎に来る前の高校は、どんな感じだったの。」
摂取した糖分が、体に潤いを与えまわり始める。一番最初に浮かんだのは、ここでふと、聞こうと思っていた彼女のこと。
至福の時間にはお似合いの質問に、彼女はう~ん、と口の下でチョコレートを転がしている。だから普通にこのまま、返答が貰えるものと思っていた。
「覚えてないです。」
溶かし切れていないチョコレートを、無理やり飲み込むと彼女は笑った。
てっきり彼女の昔の話やら何やらが聞けると、高を括っていたので意外な反応に思わず彼女を見やる。
分からない。
頭には、いつも肌身離さず纏わせているシャボン玉はなく、初めて彼女が何を思っているのかわからなくなった。
その笑顔が、取り繕っているのかどうかも分からない。
雨窓に反射する僕の姿は、この上なく間抜けだった。
人には、生きていれば触れられたくないことなんてごまんと出てくる。
けれどその触れられたくないものは、他人には見えない。それは地面に埋められた地雷と一緒で、人の地面を土足で歩いていれば必ずいつかは踏むことになる。
それに触れないよう、そして特に触れられないよう今までうまく生きてきた。だから人の心に、地雷を踏み抜くことに全くの経験のない僕は今この状況に足踏みしていた。
聞いた当人がこれでは、彼女も報われない。なんとかほかの話題を見つけ出そうとするけれど、頭を抑えてみても気持ちが空っぽになるだけで、解決策は浮かばない。
雲があれば雨が降るように、蕾から花が芽吹くように、見方を借りて彼女が口を開いた。
そこには、重苦しい重圧に耐えかねた感じも、僕が地雷を踏んだことに対する怒りもなかった。ただ純粋に話題の転換を提案した。
「どうして、須藤さんは数学が好きなんですか。」
それは。
反芻すると、聞かれていることがそのままで、そのままではないような圧迫感が生まれる。
どうして数学が好きなのか。その質問の奥底には、どうして僕がそれを好きになったのか。というものが存在しているような。
そこに「それ」は関係なく、どうして、に重点が置かれていて、もっと根元の僕を知ろうとしているような質問をされている、気がする。
彼女の目を、見る。
彼女の瞳のずっとずっと奥、遠い遠い所に小さく僕が映っていた。
答えが一つしかないから、という答え。
物凄く小さく見える。
それは勉強への意欲を、とってつけるための手段にすぎず彼女の聞いている(ような気がする)根幹には、なんら深く関係しない。そこに僕は、いない。
詰まるところ、僕はどうしようもなく空っぽで薄っぺらに生きてきたせいで身の回りの、好きなものやらまで薄っぺらで構成されているらしく、彼女の真意に口を開くことは出来なかった。
視線を逸らす。窓には、雨が張り付いていた。
僕の好きなもの。唯一薄っぺらではないもの。
彼女は、ハッとする僕を見るともなしに見て、口を開いた。
「私、国語の時間が好きなんです。」
知っている。下に降りた時もこれでもかと熱弁されたし、いつもの授業を見ていれば僕じゃなくても彼女がその時間に生き生きとしていることくらい誰でも知っている。そして、そんな天真爛漫な少女がどことなく憎めなく僕を僕でいられなくしてくれることも、知っている。
でも、こうもこの子の言葉は耳に透き通るものなのか。
「国語が好き、というより、文章を読んで幾つもの気持ちが浮かび上がってくるあの感覚がたまらなく好きなんです。二つを一つにしたり、三つを二つにしたり。」
謂わんとすることが、すっと胸に落ちてくる。彼女が、現代文の時間にしていることを言葉にしたら丁度こんな感じだろうから。
「だから私、考える、という時間が好きです。一つしかない答えよりも、二つも三つもある答えの中から、一番これだ。と、思うものを自分で選んで導き出した、私だけの答え。もともと決まった一つを大事に抱えるより、誰にも邪魔されない一つを考え抜いて、選ぶことはきっと何物にも代えがたくて、きっと。」
楽しいことですから。
国語だけに当てはまることではなく、万物に当てはまるような言葉は、彼女の人生を、生き方を、形にして聞かされているようだった。
レールみたいに一直線じゃない、幾つもの道が頭の中に浮かぶ。その中から、考え抜いて一つを選ぶ彼女の姿も。少しだけ羨ましいな、と思っていた。
あの時間になると隣で、今言ったことを寸分違わずに実行する彼女のことが。
だから、まるでそれが人間の真理みたいになって、抵抗することもなくその一欠けらが胸に刺さった。僕にも彼女の持つ一欠けらの力でもあれば、その刺さった傷ももっときれいに受け取れたのかもしれない、と考えたらたまらなく悔しくなった。
人の、本当に好きなものを完全に理解することは全くもって不可能に近いことだとは思うけれど、その一端に触れるだけで、僕に彼女が伝わってくる。
堪らなくなって、こそばゆくなるけれど少し暖かくて嬉しい。
どうしてかは、まだ分からない。
今の僕では、まだ全容のほんの一部、塵ほどの理解しかできない。
もしかすると、もしかしたら、彼女は僕の思っているような彼女ではないのかもしれない。
好きなものが、嫌いなものが同じだけで、気持ちが分かるだけで、目の前の全てを分かった気になっていたのかもしれない。
今の彼女の言葉が、もし紛れもない彼女の言葉なら…。
それは紛れもなく僕の思っているだけの彼女とは、違う。
「知っていますか、人は皆自由の刑に処されているんですよ。」
燈昌さんはもう、いつもの燈昌さんに戻って、愛らしいシャボン玉を周りに漂わせていた。
「なんて、臭すぎますね。」
困ったようにはにかむのは、照れ隠しをしているから。
さて、とノートを開くのは気恥ずかしさに邪魔をされて僕を見られないから。
彼女は、いつもの彼女に戻った。そのことが堪らなく僕にとっての彼女を分からなくさせていった。いつもに戻ったその笑顔は分かるのに、分からなかった。
怖い。分からないことは、初めてのことで恐ろしい。けれど怖いの中には好奇心があって知りたい、とも思った。
わけのわからないことに幾つものめどを立てて、予測してはずれて、当たって。そして、彼女を少しでも知りたい、とこのときに思った。
本当は純真無垢で、明朗快活ではないのかもしれない彼女のことを、手探りで。
たとえ知らないほうが良かった、と後から後悔することになろうとも、僕にしかとらえられない彼女の影はしっかり捉えたかった。それに、もう何時かの後悔の約束はもう作っていて、一つ増えたところでそれは変わらない。
それは、もしかするとさっき口にしていた彼女の言葉を借りるような行動なのかもしれない。そう思量すると、良くは分からないけれど心のどこかで彼女が活きている気がして、言いようのない一縷の充足感がじわぁっと体を灼いた。
それからは彼女の言葉が、信じられないくらいにすっと喉を通り、体を蝕む。
さっきのポンコツ具合が嘘のように、少しだけ詩人たちの言葉も分かるようになった。紛れもなく彼女の説明があってこそなのは変わらないけれど。
「本当は、実力でも隠していたんですか。」
さっきとは打って変わって彼女の言葉を、躊躇いなく飲み込む僕に対して異和を唱えた。
「いや、全くできない方が教えがいもあるかなって思って。」
小言を言うくらいの余裕は出来始めたが、君の言葉に感化されたんだよ。とは、とても言えなかった。口にすればきっと、僕だけじゃなく彼女まで恥ずかしさで死んでしまうかもしれないと危惧したからだ。
あの時、あの瞬間に彼女が思い出したようにその話題を口にした理由は、どれだけ考えても見当がつかない。例えお門違いだろうとなんだろうと僕には刺さったのだからまぁいいか、とこれ以上考えるのはやめにした。
「これだったら、赤点を取ることは無さそうで良かったです。」
「正直、明日になっても分からないままなんじゃないかと思ってたけど燈昌さんのおかげで何とかなりそうだよ。ありがとう。」
正直自分でもびっくりだ。手に取るように、とはいかないにしても零れ落ちた雫の一滴を掴みとれるくらいにはなった。神様は人間を平等に作ったはずなのに、こんなに成長していいものだろうか。だって今なら、少し勉強すれば彼女にも或いは。
「じゃあ、勝負をしませんか。」
顔がほころんでいた。
変な自信が纏わりついてもしかしたら、なんて考えていた。
「私が教えてもらった数学と、私が教えた現代文、どっちがより高い点数を取れるのか。期末テストで勝負しましょう!」
彼女の自信満々の笑みに、僕もつられた。なけなしの矜持を総動員して迎え撃つ。
「いいね。其れだけだと詰まらないから。じゃあ、負けた方は勝った方の言うことを、一つ聞くっていうのはどうかな。」
僕の提案に、彼女はより一層乗り気になって、負けても知りませんよ。としたり顔になった。
こういう時には、大抵雨が上がるものだけれど降りやむことを知らない雨はザァーとお構いなしに存在感を露にしていた。
本当に馬鹿だな、と思う。この時僕は、どうして昔々イカロスの翼が焼け落ちてしまったのかに気づけなかった。太陽に近づけるだなんて慢心が、己を焼き切ることになるなんて知らずに高を括っていた。
結果は、言うまでもなく悪癖を腕に滲ませた少年の負けだった。
降水確率は百パーセントと、天気予報のお墨付きをもらっていて晴れる心配もない。初夏も折り返し地点についているというのに梅雨を思いださせるようなこの豪雨は、実は彼女が雨の精か何かで力を使って無理やり起こしているものなんじゃないか、とも思えてくる。
馬鹿な妄想だ。
肝心の彼女は、現在進行形で10分ほど遅刻している。集合時間が開園に合わせてやけに早かったから多少の遅刻は全然許容範囲だけど、少し早く来てしまったこともあってさっきから立っている時間は10分ほどに感じなかった。
もしかしたら。
夏場にしては、湿気もあって涼しいはずなのに、いやな汗が背を伝う。
そういえばあの時彼女は、メモを取ってはいなかった。
だからもしかしたら、最初からあの約束も冗談のつもりで云ったのかもしれない。
僕だけが、真に受けてしまったのかもしれない。秒針が前に進む度、時間は進むのに気持ちは後ろ向きに歩いていく。僕は、人に寄り掛かっていたんだ。あの時に気づけたはずなのに、人は簡単に裏切ることに、傷つけることをいとわないことに。
背に汗が滲み、頭からは毒が湧き出てくる。
ここぞとばかりに、何時かの先に立った打算的な後悔が身を包み始める。
まぁ、いいか。また傀儡みたいになって、何食わぬ顔で学校に行けばいい。誰も傷付けず誰にも傷つけられず、シャボン玉みたいにふわふわと漂っていよう。
頭に手が行く。僕はきっと生きている限り、この癖が体から離れることは無い。けれどこれでいいんだ。こんな思いするくらいなら。
「遅くなってしまって申し訳ありません。」
ティラノサウルスみたいに、背骨を曲げうつむいていた僕に声がかけられた。こんなに下を向いていたら、せいぜい見えるのはアスファルトに打ち付けられた雫と、カタツムリくらいだろう。
手を下ろす。そしてまた手を挙げる。
「ううん、全然。」
そう言って、残りの力を振り絞って彼女のほうを向いた。
てっきり傘でもさしているかと思ったけれど、彼女は傘を持っていなかった。
透明な、顎まですっぽりと入るくらいのレインコートに、ビニールにカバンを入れボツボツと雨音を反射させて目の前に立っていた。
嫌な気持ちは消したはずなのに、彼女は僕を見るなりまた頭を下げて
「ごめんなさい。」
といった。
二回目にならないと、いつも本音でしゃべれない僕は遅れた時間の少なさの割に深々と頭を下げる彼女に、さっき考えていたことを重ねた。
「いや、僕もごめん、」
と、到底彼女からは理解できない理由で謝罪の言葉を放つ僕に気づくと、馬鹿にするわけでも、窘めるわけでもなく彼女は笑った。
あまり経験したことのないよくわからない空気に、つられて僕も笑ってしまった。
「どうしてレインコートなの?」
開園時間間近なのもあって、広さを持て余した図書館の一角に特に苦労することもなく座ることができた。この場所は貸出図書の本棚たちから少し遠い所に位置しているため、多少の談話は許されそうな空気がある。
だからここを選んだ。ここにしようといったのは彼女だ。僕もこの場所にしようと思ってはいたが、相談するより前に彼女は一目散にここに向かっていった。
やっぱり、彼女はこの図書館に詳しい。
「雨に当たっていると、時間が流れているのを肌で感じられる気がして。」
だから、たまにこうしてレインコートを着るんです。
成程わからん。彼女の答えとも言えない答えに固まる。
太陽を携えた彼女は、電波もその身に纏わせているのかもしれない。
ポポポと、嬉しそうに窓から雨脚を眺める彼女が楽しそうにしているのでそれ以上は聞かなかった。僕が深く聞いたところで犬に論語、馬耳念仏だろう。
大体、そもそもここにいるのは彼女の国語力を期末に向けて少しでも吸収するのが目的で、彼女の念仏に異を唱えるためではない。そのために他の科目は仕上げておいた。かといって、分からないものを分かるようにするための今回の授業でもあるので、今のは素直にわからないというべきなのだろうか。
エレベーターよりも下らないことに頭を割いていると、彼女が窓を見つめながら言った。
「さて、雨が好きで晴れが嫌いな須藤さん。どちらから先に倒しましょうか。」
少しだけ学校の時より声音を落としてなまめかしく笑う少女に、エレベーターは昇りもすることに気づく。
悩みどころだ。先に数学を倒すか国語を倒すか。
数学に至っては、先日のこともあって彼女の読解力からすれば、刺激一つであっという間にわからないの雲は晴れるだろう。けれど、問題は国語だ。今年の梅雨前線張りにしつこくねばっこい雲は彼女の太陽をもってしても晴れるかどうか。ならば先に、終わりの見当がついている教科から倒すべきだろう。
じゃあ、先に立ち向かうべきは…
「数学から、教えていただいてもいいですか。」
口を開いた途端、僕の出した結論を同様に彼女も導いていた。導出過程はどうであれ答えは同じになったので異論はない。少しだけ、バツが悪そうに言う彼女はもしかしたら僕の考えの対偶から出したのかもしれないが。
「了解。」
特に斜に構えることもなく、カバンからノートを取り出すと
「昼前には倒したいです。」
と、士気高々に抱負を抱く彼女に久方ぶりにやる気が刺激される。
「どうだろうね。」
人は強い思いに感化されると、思いの丈の中に斥力が生まれるらしい。剽軽さも、人の好さも忘れて自分でも思ってもみない意地悪を口にしてしまった。
「やってやります!」
「しぃー。」
「あ。ごめんなさい。」
口にはしたものの気持ちがそう簡単に霧散することはなく、余計やる気に火が付いたいつもの太陽を見やると僕もよし、と覚悟を決めた。
フレアを起こしてしまいそうなほどの彼女の熱量に、少し早めの熱中症になってしまったのかもしれない。それから瞬きの間に時間は過ぎて、昼飯時になる頃には本当にテストに出るであろう問題のほとんどを理解し終えていた。
「有言実行しました!」
一階に降りて、内設されたコンビニで買ったおにぎりを頬張りながら自信満々に彼女は腕を掲げた。何か文句を言ってあげたいところだったが生憎、満足気にしている少女を落胆させて喜ぶような嗜虐的な趣味は持ち合わせていないので何も言わなかった。
加えて、文句の言葉もこれっぽっちも浮かばない。実際、彼女の真隣で教鞭をとっていたものからしてみれば文句など、称賛の言葉で埋め尽くされてしまうだろう。
国語が得意な人は、数学の呑み込みが早い、というのはどうやら本当らしく1教えただけで10を学び取り、途端に閃きの泡を弾けさせる彼女の姿には思わず拍手を送ってあげたいほどだ。
折角、分からない時のために何通りかの説明や解法も用意してきたのに、とんだ肩透かしだった。人は人に物事を教えるとき、その物事を理解する三倍の理解をしていないといけないらしい。多少数学に自信がある僕が、人に教えられるくらいになるまでの今日までの努力には結果オーライという言葉で目を瞑ってもらおう。
教えられたりないという気持ちは分かるが、まさか教えたりない、と思わされることになるとは。読解力とは、もしかしたら万物に通じる最強の武器なのではないのだろうか。
「凄いよ。」
何が、と無粋なことは彼女に限って聞かないだろうから、今抱いている気持ちを率直に表した。
「須藤さんのおかげです。」
「いやいや。」
ニマっと雨の日にも関わらず、喜びと感謝を表す言葉やしぐさ、そして筒抜けの気持ちに謙遜半分照れ隠しが半分を言葉に乗せる。
「まさか、最後の問題もすらすら解いちゃうなんてね。」
「須藤さんの教え方が、上手なんですよ。それに、私の知らない解き方でも解を導けることができるなんて、知りませんでした。」
彼女の労いに、折れた骨たちが騒がしい。三倍ほどの努力はしていないにしても、折った骨に少しは価値を見出してもいいかもしれない。決して骨折り損ではなかったって。
「まぁ、どの解法でもたどり着く答えは一緒だからね。」
得意げになった僕は、彼女を真似して鷹揚に構えてみる。
我ながら、いいことを言った。
数学の凄いところをすべて集約したかのような真理に、矜持すら湧いてくる。
そうなのだ。数学はどれだけ過程が違おうとベクトルを使おうと方程式を使おうと必ずたどり着く答えは一つになる。
そのことは何物にも代えがたい。
何が間違いで、何が正しいかすら分からないこのくそったれな世界で、唯一の答えをもって生まれてきた数学は、解いている中でいつも、美しいと思う。別に数式を見て興奮する数学者ほどではないにしても、数学がほかの教科に比べて思い入れが強いのは言うに及ばない。
「そうなんですよ!」
背まで伸びるロングの髪をなびかせて、うんうんと頷いて見せた。
やっぱり彼女はセンスがある。同時に口を開いた。
「「だから数学って」」
「面白いんだよ。」「つまらないんです。」
は。
僕は今、鏡を見ている。目の前の少女の驚いたような顔。間違いなく僕も似たような顔をしていたはずだ。思ってもみない答えに、時が止まる。その中で聞こえてくるのは、天井に打ち付ける雨の音くらいだった。
「いや、国語みたいに答えが一つに定まらないような科目なんかより、絶対に数学のほうが有意義に決まってるよ。」
こんな感覚久しぶりだ。
鏡に映る自分に暗示する子供のように、ムキになっていた。
「いえ、最初から一つに決まっている答えへの道筋を立てることのどこが楽しいんですか。自分で決まった答えを導くことになんの面白みがあるのでしょうか。」
どうやら鏡も僕と同じ考えのようで、取るに足らない口論は熾烈を極めた。それからは二人とも水掛け論で争った。
「大体国語なんて、作者が今日の昼ごはんでも考えながら作ったものだろう。そんな文面からやれ心情だ、思いの丈だをこねくり回して考えるのは、不可解極まりないよ。」
「数学なんて、元々することのなくなった先人たちの娯楽から生まれたものらしいですが…起源を辿ればどちらが浅瀬か。賢い須藤さんなら分かるはずでは。」
なにおう。
論争は佳境に入る。一度深呼吸して、癖をつかえば心無い言葉でこの下らない言い争いを終わらせることもできた。が、何となくしたくはなかった。
それは、高尚な理由だとか、するべきだという使命が邪魔をしたからじゃなく、ただ、何となく下らないものに怒りを表すことがこんなにも楽しいことだなんて知らなかったから。
加えて、隣でいつも真っ向から立ち向かってくる少女には嘘がなく自然体でいられるからという心地よさもあった。大体、嘘で形作った顔は、ほとんど見透かされてしまって話にならないから止めたという理由を抜きにしても、彼女との会話は、忘れてしまうにはもったいなかった。
「まぁ、私は今回期末範囲の数学も出来たうえで、国語のほうが有意義だ。といっているんですけれどね。」
甲斐ない闘いは終極に至る。
鏡が、小悪魔めいた笑みを向けてきた。
そんなの僕には、できない。
考えていることは今もどうやら同じらしく、彼女のとどめの一撃に思わず僕も笑みがこぼれた。意味のないものほど、本気でやって楽しいことはない。途中からお互いに、怒りの着地点をどこに定めようか、逡巡していたことを察して何だか楽しくなってくる。
「中々、言うね。なら、その知恵とやらをぜひご教授願えるかな。」
そう言って、さっきまで僕らのいた二階を指さした。
貴方にできますかね。ぐらい言われて、からかわれるかと肝を冷やしたが、冗談は終わり、と早々に切り替えた彼女は真っすぐに任せてください!とその旨を受け取った。
思いもよらない返事に、肩透かしを食らったような気持ちになって口をつぐむ。
鏡に映っているのは紛れもなく自分で、間違いないはずなのに僕は忘れていた。
鏡は己を左右対称に映している事に。全く同様なわけではなくむしろ反対に映ることに。
それに鏡に映る自分は、普段の自分よりもなんだか少しイケて見えていたから。
だから切り替えも目の前の鏡は僕より早かったし理解も僕よりよっぽど早い。
彼女に手を引っ張られて二階に上がる。
けれど、それから鏡の必死の教示も虚しく僕が彼女と同じ土俵に立つことも無かった。
まっったく分からない。
「羅生門」も、「富嶽百景」も、教えられた通りに文をなぞったけれど、付け焼き刃は文豪の歯牙にもかからないらしい。
彼女が申し訳なさそうに自分の実力不足を責める度、拙い言葉では言い表せないような気持が胸を締める。さっきまでの威勢は、いったいどこに隠れてしまったのか。
文を詠む、というのは一朝一夕で身につくものではないことは、身に染みるほど理解している。でも流石に、彼女がいれば青天の霹靂でも落ちて少しは通用する視点が手に入ると思っていた。
現実は、甘くない。あまりに長すぎる、人に許された時間は霹靂閃電の成長を許してくれるはずもなく、ただ塵ほどの天恵しか与えてくれなかった。
「ホント、ごめん。」
「いえ、こちらこそ。でもまさかこれほどとは、思ってなかったです。」
明らかに、萎んでいるのは彼女も同様で声に籠った生気が抜けていく。畢竟彼女との口論で早々に負けを認めていればよかった、と後悔の念が頭を支配し始めたころになると、一度休憩を取ることにした。
さっき買ったチョコレートを頬張り、彼女にも促す。台風の目にでも入った感じで至福の時間が訪れる。
そういえば。
「こんなド田舎に来る前の高校は、どんな感じだったの。」
摂取した糖分が、体に潤いを与えまわり始める。一番最初に浮かんだのは、ここでふと、聞こうと思っていた彼女のこと。
至福の時間にはお似合いの質問に、彼女はう~ん、と口の下でチョコレートを転がしている。だから普通にこのまま、返答が貰えるものと思っていた。
「覚えてないです。」
溶かし切れていないチョコレートを、無理やり飲み込むと彼女は笑った。
てっきり彼女の昔の話やら何やらが聞けると、高を括っていたので意外な反応に思わず彼女を見やる。
分からない。
頭には、いつも肌身離さず纏わせているシャボン玉はなく、初めて彼女が何を思っているのかわからなくなった。
その笑顔が、取り繕っているのかどうかも分からない。
雨窓に反射する僕の姿は、この上なく間抜けだった。
人には、生きていれば触れられたくないことなんてごまんと出てくる。
けれどその触れられたくないものは、他人には見えない。それは地面に埋められた地雷と一緒で、人の地面を土足で歩いていれば必ずいつかは踏むことになる。
それに触れないよう、そして特に触れられないよう今までうまく生きてきた。だから人の心に、地雷を踏み抜くことに全くの経験のない僕は今この状況に足踏みしていた。
聞いた当人がこれでは、彼女も報われない。なんとかほかの話題を見つけ出そうとするけれど、頭を抑えてみても気持ちが空っぽになるだけで、解決策は浮かばない。
雲があれば雨が降るように、蕾から花が芽吹くように、見方を借りて彼女が口を開いた。
そこには、重苦しい重圧に耐えかねた感じも、僕が地雷を踏んだことに対する怒りもなかった。ただ純粋に話題の転換を提案した。
「どうして、須藤さんは数学が好きなんですか。」
それは。
反芻すると、聞かれていることがそのままで、そのままではないような圧迫感が生まれる。
どうして数学が好きなのか。その質問の奥底には、どうして僕がそれを好きになったのか。というものが存在しているような。
そこに「それ」は関係なく、どうして、に重点が置かれていて、もっと根元の僕を知ろうとしているような質問をされている、気がする。
彼女の目を、見る。
彼女の瞳のずっとずっと奥、遠い遠い所に小さく僕が映っていた。
答えが一つしかないから、という答え。
物凄く小さく見える。
それは勉強への意欲を、とってつけるための手段にすぎず彼女の聞いている(ような気がする)根幹には、なんら深く関係しない。そこに僕は、いない。
詰まるところ、僕はどうしようもなく空っぽで薄っぺらに生きてきたせいで身の回りの、好きなものやらまで薄っぺらで構成されているらしく、彼女の真意に口を開くことは出来なかった。
視線を逸らす。窓には、雨が張り付いていた。
僕の好きなもの。唯一薄っぺらではないもの。
彼女は、ハッとする僕を見るともなしに見て、口を開いた。
「私、国語の時間が好きなんです。」
知っている。下に降りた時もこれでもかと熱弁されたし、いつもの授業を見ていれば僕じゃなくても彼女がその時間に生き生きとしていることくらい誰でも知っている。そして、そんな天真爛漫な少女がどことなく憎めなく僕を僕でいられなくしてくれることも、知っている。
でも、こうもこの子の言葉は耳に透き通るものなのか。
「国語が好き、というより、文章を読んで幾つもの気持ちが浮かび上がってくるあの感覚がたまらなく好きなんです。二つを一つにしたり、三つを二つにしたり。」
謂わんとすることが、すっと胸に落ちてくる。彼女が、現代文の時間にしていることを言葉にしたら丁度こんな感じだろうから。
「だから私、考える、という時間が好きです。一つしかない答えよりも、二つも三つもある答えの中から、一番これだ。と、思うものを自分で選んで導き出した、私だけの答え。もともと決まった一つを大事に抱えるより、誰にも邪魔されない一つを考え抜いて、選ぶことはきっと何物にも代えがたくて、きっと。」
楽しいことですから。
国語だけに当てはまることではなく、万物に当てはまるような言葉は、彼女の人生を、生き方を、形にして聞かされているようだった。
レールみたいに一直線じゃない、幾つもの道が頭の中に浮かぶ。その中から、考え抜いて一つを選ぶ彼女の姿も。少しだけ羨ましいな、と思っていた。
あの時間になると隣で、今言ったことを寸分違わずに実行する彼女のことが。
だから、まるでそれが人間の真理みたいになって、抵抗することもなくその一欠けらが胸に刺さった。僕にも彼女の持つ一欠けらの力でもあれば、その刺さった傷ももっときれいに受け取れたのかもしれない、と考えたらたまらなく悔しくなった。
人の、本当に好きなものを完全に理解することは全くもって不可能に近いことだとは思うけれど、その一端に触れるだけで、僕に彼女が伝わってくる。
堪らなくなって、こそばゆくなるけれど少し暖かくて嬉しい。
どうしてかは、まだ分からない。
今の僕では、まだ全容のほんの一部、塵ほどの理解しかできない。
もしかすると、もしかしたら、彼女は僕の思っているような彼女ではないのかもしれない。
好きなものが、嫌いなものが同じだけで、気持ちが分かるだけで、目の前の全てを分かった気になっていたのかもしれない。
今の彼女の言葉が、もし紛れもない彼女の言葉なら…。
それは紛れもなく僕の思っているだけの彼女とは、違う。
「知っていますか、人は皆自由の刑に処されているんですよ。」
燈昌さんはもう、いつもの燈昌さんに戻って、愛らしいシャボン玉を周りに漂わせていた。
「なんて、臭すぎますね。」
困ったようにはにかむのは、照れ隠しをしているから。
さて、とノートを開くのは気恥ずかしさに邪魔をされて僕を見られないから。
彼女は、いつもの彼女に戻った。そのことが堪らなく僕にとっての彼女を分からなくさせていった。いつもに戻ったその笑顔は分かるのに、分からなかった。
怖い。分からないことは、初めてのことで恐ろしい。けれど怖いの中には好奇心があって知りたい、とも思った。
わけのわからないことに幾つものめどを立てて、予測してはずれて、当たって。そして、彼女を少しでも知りたい、とこのときに思った。
本当は純真無垢で、明朗快活ではないのかもしれない彼女のことを、手探りで。
たとえ知らないほうが良かった、と後から後悔することになろうとも、僕にしかとらえられない彼女の影はしっかり捉えたかった。それに、もう何時かの後悔の約束はもう作っていて、一つ増えたところでそれは変わらない。
それは、もしかするとさっき口にしていた彼女の言葉を借りるような行動なのかもしれない。そう思量すると、良くは分からないけれど心のどこかで彼女が活きている気がして、言いようのない一縷の充足感がじわぁっと体を灼いた。
それからは彼女の言葉が、信じられないくらいにすっと喉を通り、体を蝕む。
さっきのポンコツ具合が嘘のように、少しだけ詩人たちの言葉も分かるようになった。紛れもなく彼女の説明があってこそなのは変わらないけれど。
「本当は、実力でも隠していたんですか。」
さっきとは打って変わって彼女の言葉を、躊躇いなく飲み込む僕に対して異和を唱えた。
「いや、全くできない方が教えがいもあるかなって思って。」
小言を言うくらいの余裕は出来始めたが、君の言葉に感化されたんだよ。とは、とても言えなかった。口にすればきっと、僕だけじゃなく彼女まで恥ずかしさで死んでしまうかもしれないと危惧したからだ。
あの時、あの瞬間に彼女が思い出したようにその話題を口にした理由は、どれだけ考えても見当がつかない。例えお門違いだろうとなんだろうと僕には刺さったのだからまぁいいか、とこれ以上考えるのはやめにした。
「これだったら、赤点を取ることは無さそうで良かったです。」
「正直、明日になっても分からないままなんじゃないかと思ってたけど燈昌さんのおかげで何とかなりそうだよ。ありがとう。」
正直自分でもびっくりだ。手に取るように、とはいかないにしても零れ落ちた雫の一滴を掴みとれるくらいにはなった。神様は人間を平等に作ったはずなのに、こんなに成長していいものだろうか。だって今なら、少し勉強すれば彼女にも或いは。
「じゃあ、勝負をしませんか。」
顔がほころんでいた。
変な自信が纏わりついてもしかしたら、なんて考えていた。
「私が教えてもらった数学と、私が教えた現代文、どっちがより高い点数を取れるのか。期末テストで勝負しましょう!」
彼女の自信満々の笑みに、僕もつられた。なけなしの矜持を総動員して迎え撃つ。
「いいね。其れだけだと詰まらないから。じゃあ、負けた方は勝った方の言うことを、一つ聞くっていうのはどうかな。」
僕の提案に、彼女はより一層乗り気になって、負けても知りませんよ。としたり顔になった。
こういう時には、大抵雨が上がるものだけれど降りやむことを知らない雨はザァーとお構いなしに存在感を露にしていた。
本当に馬鹿だな、と思う。この時僕は、どうして昔々イカロスの翼が焼け落ちてしまったのかに気づけなかった。太陽に近づけるだなんて慢心が、己を焼き切ることになるなんて知らずに高を括っていた。
結果は、言うまでもなく悪癖を腕に滲ませた少年の負けだった。