十一、九十歳の恋
ある日、スレイマン皇帝は赤ひげを召しだした。赤ひげはイスタンブールに滞在している間は、宮廷に寝泊りしていた。皇帝はこの九十歳になる老海賊と話をすることが好きで、最大の贅沢をさせて、手元に置きたがった。イスタンブールは温帯に位置していて、四季があり気候的には住みやすい。それになんといっても大都会であり、しかも宮廷にあっては何ひとつ不自由のない暮らしである。老海賊にとって宮廷は天国であった。 
「提督にひとつ頼みがあるのだが、聞いてくれるかな」
「はい、私にできる事でしたら、何なりとお申しつけください」
「実は、フランスのフランソワ一世が、頭をさげて同盟を頼みに来たのだ」
「なるほど、ドイツとスペインに挟まれて、苛められていますからねえ」
「二十年ほど前であったが、フランスとスペインが戦ったことがある、覚えておろう」
「はい、よく覚えております。スパインが勝ちましたね」
「フランスという国は昔から弱いものだから、フランソワ一世が息子ともども、マドリードに拉致されたことがあった」
「そうでした。フランスの国王が連れて行かれたのには、正直びっくりした思い出があります」
「その時、フランソワ一世の母親がわしに手紙を寄越して、息子と孫を助けてくれと言って来たのだ」
「それで、どうなりました?」
「わしはカール五世と交渉して、彼らがパリへ戻れるようにしてやったが、まあ一口に言えば、それ以来の仲なのだ」
「同盟と申しますと、対等の関係のようにきこえますが・・・」
「今度も助けてくれということなのだが、フランスという国は歴史が古く、文化の程度も高い国であるから、表面上は対等の関係としておいてやるのだ」
「キリスト教国が同じキリスト教国に苛められて、イスラム教国と同盟するというのも、考えてみれば可笑しな話ですな」
「まったく可笑しな話だよ。しかし、わしはフランスの文化は好きなので、交流することは歓迎している。それにハンガリーとオーストリアの征服事業が、まだ完結していないし、今後もドイツ、スパインとは戦わねばならない立場にあるので、フランスとは友好的なつき合いをしておく必要もあるのだ」
「キリスト教国側の足並みが揃わなかったから、プレヴェザでは勝つことができましたが、彼らが打って一丸となってかかってこられたら、大変でした」
「提督の言うとおりだ。ドイツではプロテスタントの台頭が、カール五世の足をひっぱってくれているし、イタリアもフランスも一向に纏まらないから、これでわれわれも平和でいられるのだ。しかし、全ヨーロッパが一丸となって、イスタンブールに押しかけてこられたら、こんなにうまい酒を飲んでいることは、とてもできないだろうな」
「まったくです」
「それを考えると、フランスとの同盟はありがたいのだ」
「それで、私の役割はどんなことをすれば、よろしいので?」
「提督は艦隊をひきいて、マルセイユに行ってもらいたい。フランソワ一世が出迎えてくれることになっている」
「国王自らお出迎えですか、丁重なものですな」
「提督はわしの代理だから、お出迎えは当然だ」
「海賊が皇帝の代理とは、後にも先にもあるとは思えませんな」
「フランス側もやりにくいだろうな。この海賊めと思っても、礼を失する訳に行かないのだからな」
「若い頃、チュニスの国王に会いに行きまして、赤ひげの代理だと名乗ったら、危うく逮捕されそうになったことがありました」
「アッハッハ・・・、そのときにチュニスの国王が、逮捕しておいてくれればよかったのに、とカール五世は悔やんでおることだろう」 
「後にスペインは兄を殺して、してやったりと思ったことでしょうが、弟が生きていて、兄貴より悪さをするとは、気がつかなかったでしょうな」
「わからないものだのう」
「お話の途中で、余計なことを申し上げまして、相すみません。それで、フランスの国王にお目にかかったら、どうすればよろしいので?」
「わしの親書を手渡してもらうことと、フランス艦隊と合同して、スペインの沿岸を脅かしてもらいたいのだ」
「どの程度やればよろしいのでしょうか?」
「要するに、フランスがわが国に対して本気で同盟を求めていることを証明してもらいたいのだ。できれば、カール五世がマドリードから逃げ支度をするくらいの攻撃をしてもらいたいのだ。しかしフランソワの奴、同調するかどうか。わしはあまり奴っこさんを信用してはおらんのだが、まあやってみてもらいたい」
「お安い御用です。無敵艦隊が消滅しているのですから、赤子の手を捻るようなものです」
「わが帝国の威信を示すために、五百隻の艦隊を率いて行ってほしいのだ」
「この海賊野郎めと思っても、五百隻も率いて来られたのでは、フランスも頭を下げざるを得ませんな」
「そういうことだ。それに、カール五世が震える様子を想像するだけでも、楽しいではないか」
 赤ひげはスレイマン皇帝と顔を見合わせて笑った。

 五百隻にのぼる大艦隊に一万二千名の兵を乗せて、艦隊は堂々の出港をした。一五四三年春のことであった。皇帝以下、顕官、貴族らと大群衆に見送られての出港は、大提督赤ひげの貫禄にふさわしい光景であった。シナン、アイディン、ムラド等は、赤ひげと甲板に並んで、皇帝の見送りに礼をもって答えたが、兄の赤ひげの下に馳せ参じた幸運をあらためて噛みしめていた。
本来強盗、追い剥ぎと同列に扱われる稼業が、どういう風の吹き回しか、世界一の強国の連合艦隊を指揮し、皇帝の代理としてフランス国王に会いに行くのである。うれしくないはずはない。しかも、この五百隻にのぼる大艦隊に歯向かってくる敵はいない。これほど快適な航海が又とあろうか。赤ひげは旗艦上で連日大宴会を催して、上機嫌であった。
「これで、ドラグートの奴がいてくれたら、言うことはないのだが、まあ死んだ子の年を数えても仕方のないことだが・・・」
 赤ひげはシナンに愚痴をこぼした。
「あれだけの男は、何十年に一人しか出ないでしょうな」
「わしも九十歳になった。後継者が欲しいのだが、息子たちにはとても勤まりそうもないし、ドラグートならと見込んでいたのだ。惜しいことをしたなあ」
「本当に惜しいことでした。佳人薄命、という言葉が東洋にはありますが、若すぎましたなあ」
 春の地中海は波が穏やかで、柔らかな陽ざしを浴びていると、居眠りが出そうであった。この太平の夢を破る事件がおこった。イタリア半島の最南端部とシチリア島の間のメッシナ海峡を通過する際に、イタリア側のレッジオの要塞から数発の大砲が発射されたのである。レッジオの町は住人が三千人弱と少なく、この町の総督が赤ひげ艦隊に挑戦してくるとは、とても信じられないことであった。
「何かの間違いではないのか?」
 赤ひげは目をこすって、要塞を見上げた。
「どうやら、間違いではないようです。その証拠に先頭の船が大破しました」
 シナンがそう報告して、するどい視線を要塞に向けた。
「しかし、たかの知れた軍隊をもって、わが艦隊に挑戦してくるとはどういうことだ」                   「見当がつきません。もしかすると、気の触れた兵隊の悪戯かもしれませんが」
すると、アイディンが目をつり上げて叫んだ。
「たとえ悪戯であっても許せない。私が上陸して不逞の輩をひっ捕らえてきます」 。
「よかろう。兵は半分の六千人を出動させよう」
 艦隊は、要塞からの砲弾の届かない距離まで後退し、そこから迂回して要塞の裏側に停泊した。シナン、アイディン、ムラドの三将がそれぞれ二千人の部隊を率いて、三方から要塞をめざして登っていった。要塞の守備兵は千人足らずの少人数であった。したがって、大軍に取り囲まれるとあっさり降伏した。その後、三将は町に入って総督を捕えた。赤ひげは側近を従えて上陸し、馬に乗って総督の屋敷につき、その家の庭で総督とその部下を尋問した。
「何の目的で、われわれに発砲したのだ?」
「申し訳ございません。要塞の兵の中に、頭のおかしいのが一人居りましたようです。その者は早速ひっ捕らえてございますが、監督不行き届きの段、すべて私の責任でございます。私の首を刎ねていただきとう存じます。ただ家内と娘だけは、どうか提督の御慈悲をもってお許し下さいますよう、伏してお願い申し上げます」
「頭のおかしな兵が居ったと申すのか、そうであろう。まともな頭でわが艦隊に立ち向かってくる筈はあるまい。となればお前の責任ではない。幸いわが軍に死傷者はいない。したがって、お前の首を刎ねても致し方ない。処分はその兵一人でよかろう。総督は壊れた船の修理を行えば、それでよろしい」
 総督は、命が助かったことに大喜びして、赤ひげと幹部たちを屋敷に招じ入れ、酒肴を用意させて大いにもてなした。そのとき、侍女たちを指揮して料理を運んできた母親と娘を見て、赤ひげの背筋に電流のようなものが走った。
「これが総督の娘御か?」
「はい、ドーニャ・マリアと申します」
「わしの一番最初の妻も、ドーニャだった。もう何十年も前に死んだが、よく似ている、いやそっくりだ。なんという機縁だ、年はいくつだ?」
「十八歳になりました」
 黙っている娘にかわって父親が答えた。
「うーむ」
 赤ひげはうなった。なんという見事な娘だろう。色はぬけるほど白く、背がすらりと高く、均整のとれた手足はすんなりと伸びていた。目は青く澄みきっていて、形のよい鼻と、バラの蕾のような唇。しかし、この程度の娘なら何千人、いや何万人も見てきたはずであった。ところが、どういうわけかこの娘の体全体からでる何かが、赤ひげの背筋を電流のように貫いてしまうのであった。
「ナ、ナンなのだ、これは一体・・・」
 ドーニャに言葉をかけることも忘れて、ただただ彼女に見とれた。
「わしの生涯で、こんな女に出会ったことは一度もない。あの無敵艦隊と戦った時だって、震えなかったこの手足が、今かすかに震えている。この女は悪魔なのか、いや女神なのか」
 総督は、赤ひげの異様な様子に気づいた。
「どうなさいました、どこか具合でもお悪いのでは?」
「いや、どこも悪くはない。わしは風邪ひとつ引いたことがないし、年はとっても、まだ三十台や四十台の体力はある.しかし、ドーニャ・マリアは別だ。この娘をわしにくれ。なんだろうこれは、わしにはよく分からん。なんだかよく分からなくなった。おい総督、わしはこの娘と結婚したいのだ。わしの妻にくれ!」
 赤ひげは熱に浮かされた時のように、うわ言を云いつづけた。てっきり病気と信じたシナンは、総督に医者を呼ぶよう命じた。呼ばれてやってきた中年の医者は首をひねった。どこにも悪い所はないという。熱も高くはないし、脈も正常だし、目にも異常は見られないというのである。ドーニャが冷やしたタオルを持ってきて、赤ひげの頭を冷やした。彼はドーニャの手を握った。
「ドーニャ、お前と結婚したい。わしの妻になってくれ。お前にはなんでも与える。お前の父親が、背負いきれないほどの宝石でも、この部屋とおなじ大きさの黄金でも、この屋敷を全部囲うだけの象牙でも、すべてお前に与える。この世で手に入るものなら、すべてお前に捧げる。頼むからわしの妻になってくれ!」
 ドーニャは驚いて、赤ひげの皺だらけの顔を見つめた。髪の毛も、顔中を覆った髭もすべて真っ白になっていて、なぜ赤ひげと呼ばれるのだろう、とぼんやり考えていた。総督も度肝を抜かれて、口を開いていた。シナンがようやくわれに返って総督にとりなした。
「提督は何万人もの美女を見てこられたお方である。然るに、ひと目でドーニャに恋をなさった。こんな事はわしも初めて見た。どうだ総督、これほどの良縁は二つとあるまい。今ここで、すぐに結論を出せ。そして、お前は提督の義理の父親になるのだ。わかったな」
「は、はい。しかし、娘がなんと申しますか・・・」
 彼は心配そうにわが娘を見た。ドーニャは赤ひげから目を離して父に顔を向けた。
「お父さんさえよかったら、私は結婚してもいいと思います」
 あっさり言う娘に、父は目を剥いた。
「お前、本当にいいのか?いやならいや,と言ってもいいのだぞ」
「いえ、別にいやではありません。だって、このおじいさんは、きっといい人だと思うんです。それに面白そうだし、お金は沢山もっていそうだし」
「おおドーニャ、わしと結婚してくれるか、ありがとう、ありがとう。おお、アッラーの神よ!」
 赤ひげは、ドーニャと総督の手を同時に握りしめた。彼の背筋をふたたび電流が流れた。翌日、赤ひげは一万二千人の部下と、要塞の兵をすべて集めて、盛大な結婚式を挙げた。町中のアルコールがすべて買い上げられ、肉屋、魚屋、パン屋、菓子屋、八百屋から花屋に至るまで、すべての商品が底をつく有様であった。
「ハネムーンはどこへ行こうか?」
「マルセイユへ行く途中なのでしょう?私はフランスに行ったことがないから、ハネムーンはそれでいいです」
「マルセイユには仕事で行くのだから、その前にどこか風光明媚な保養地で、二人っきりで過ごしたいな」
「大切なお仕事の途中で、そんな事ができるのですか?」
「たいした戦争にはならない筈だが、一応はフランスと共同でスペインの沿岸を攻撃するよう、スレイマン皇帝に命令されている。新婚早々戦争ではお前に気の毒だから、少しばかり遊んでからにしよう。大砲の音はあまり好きじゃないだろう?」
「それはそうですけれど、海賊の女房になったからには、そのくらいは覚悟しています」
 そう言われて赤ひげは、この曾孫のような歳の花嫁を見直した。
「気持ちはありがたいが、二週間くらいの遅刻は、フランスの国王も許してくれるだろう」
「うれしいわ。それじゃ、チヴィタ・ベッキアはどうかしら?」
「ローマから少し北へ上ったところの、港町だったな」
「あそこは、私が子供の頃に三年ほど住んだ町で、とてもいいところなのよ」
「よし、そこへ行こう」
 赤ひげの一言で、五百隻の大艦隊が押しかけることになってしまった。港から馬にのって谷あいのひなびた農村に下ってゆくと、清らかな水の流れる川があり、その川に沿って行くと小さな湖にでた。湖は深く、しかし水は澄んでいて魚影が濃かった。赤ひげはこの風景がすっかり気に入って、湖畔に立ち並ぶ家をすべて借り受けることにした。借りるといっても人が住んでいるので、大金を払って二週間だけ住民に立ち退いてもらうことにした。中でも一番大きな家に赤ひげ夫婦が入り、周辺の家々に幹部が宿泊し、収容しきれない兵は船に残すことにした。
この湖畔で赤ひげは心ゆくまでハネムーンを楽しんで、二週間後にようやく艦隊は出港した。マルセイユに近づくと、アンジャンの領主であり、レパント海域における大将であるフランソワ・ド・ブルボンが、五十隻の艦隊を率いて赤ひげ艦隊を歓迎した。赤ひげとその随員は金と宝石できらびやかに着飾っていた。二十三歳の若き公爵フランソワ・ド・ブルボンは、名誉の剣と銀製品をプレゼントし、赤ひげは、高価な鞍と馬衣をつけた数頭のアラブ馬を贈った。
フランソワ一世国王は港まで出迎え、マルセイユの市民たちは艦隊を見物しに大勢集まった。フランソワ一世の指示で、トルコ提督に敬意を表して聖母マリアを描いたフランス国旗が下ろされ、代わってトルコの半月旗が掲げられた。この屈辱的な光景に対して、激しい怒りの野次をとばす群集も少なくなかった。
 儀式が終ると、赤ひげはフランス側に重要提案を行った。両国が合同してスペインの沿岸に出向き、威嚇攻撃を加えようという案である。この提案は、フランソワ一世もある程度予想していたが即答を避けた。トルコと同盟はしたが、キリスト教世界の中で孤立している現状をさらに悪化させることになるし、スペインの報復も恐ろしかったので、赤ひげに色よい返事をすることができなかった。この生ぬるい返答に対して、赤ひげは激怒して見せた。
「わしはこの遠いフランスまで、ブドー酒を飲みにやってきた訳ではない。言うまでもなく、スペインのカール五世と戦うためにやってきたのだ。いまだに生き残っている提督ドーリアと戦うためにやってきたのだ。それなのに、フランスが協力しないとは何事だ!」
 赤ひげのすさまじい剣幕に、フランソワ一世とその閣僚たちは震えあがった。徹夜で鳩首協議をした結果、スペインと同盟関係にあるニースを攻撃するよう提案してきた。この提案に、赤ひげはしぶしぶ同意した。ニースは守備隊が三百名しかいないので、すぐに降伏するだろうと想像したからであった。ところが意外なことに、降伏勧告にニースは応じなかったのである。これには赤ひげも驚いた。フランス艦隊約百隻に、トルコ艦隊五百隻の大艦隊に迫られて、なぜあっさり兜を脱がないのか不思議でならなかった。 
ニースの市民に恨みがあるわけではないので、降伏しさえすれば別の標的を求めるだけのことであった。赤ひげとしては、スレイマン皇帝の意を受けてフランスのやる気を見たいだけであった。しかるにニースの要塞は、前衛を務めるフランス艦隊に発砲してきたのである。フランス艦隊も当然のことながら応戦した。トルコ艦隊は相手が小さすぎるので、後方で観戦することにして、フランス艦隊の活動を見守ることにした。
 若きブルボン提督は、ニースの要塞と砲撃戦を始めた。ニースの要塞は巨石を積み重ねて、石と石の間から砲身を覗かせていた。フランス艦隊が砲撃している間は静かにしていて、艦隊が陸に接近すると、突如として猛烈な砲撃を加えてきた。艦隊が離れると沈黙し、接近すると猛然と撃ってでてきたので艦隊は接岸できず、いたずらに時が流れていった。一週間が経過した頃、赤ひげとその側近たちに苛立ちが募ってきていた。真っ先に声を荒げたのは、アイディンであった。
「ブルボン提督は、一体何をやっているのだ。彼は戦いというものを、まるで知らないのではないのか」
 若いムラドも、珍しく怒りの表情をみせて言った。
「これはちょっとひどすぎますね。ブルボン提督は、親父さんが亡くなってあとを継いだだけのボンボンだそうじゃありませんか。こんな素人に指揮をまかせるフランス政府は、しょせん同盟には値しませんね」
 赤ひげは二人の意見にうなずきながら、シナンと顔を見合わせた。
「提督、もうしばらくお待ちください。今われわれが動いたら、フランス政府の面目が丸つぶれになってしまいます。しばらくのご辛抱を」
 シナンは赤ひげの苛立ちを抑えるべく、機先を制した。年をとってますます気が短くなった赤ひげを、制御することはシナンにとっても次第に難しい仕事のひとつになってきていた。
「仕方がない、酒でも飲んで待つとするか」
 シナンはほっとした。ドーニャがいてくれて、本当によかったと思う。彼女がいなかったら、今すぐにでもフランス艦隊を押し退けて、ニースへの攻撃を命令していたに違いない。しかし、八日、九日とたってもブルボン提督は要塞と砲撃戦をくり返すだけで、戦況の進展はなかった。十日目、赤ひげはついに怒りだした。シナンもこれ以上は制止できないと観念した。
「シナン、あの馬鹿どものやることを見ていたら、気が変になりそうだ。ブルボン君に伝えてくれ。すぐに湾の外へ出るように、とな。わしがあの腑抜けどもに戦いというものを教えてやるから、とな」
 シナンはブルボン提督に面会を申し込んだが、赤ひげの言葉をストレートには伝えなかった。
「わが提督は九十歳という高齢のために、少し気が短くなっております。そこで、フランス艦隊に代って砲撃をしたいと申しておりますが、やらせていただく訳には参りませんでしょうか」
 婉曲に言うシナンの目は、しかし、有無を言わせない鋭さがあったので、ブルボン提督もさすがに嫌とは言えなかった。
「その代わり、砲撃が終わったあとの突撃はフランス側に一番乗りをお任せします。わが軍はつづいて上陸しますので、まあ仲よく両国で占領ということに致しましょう」
 ブルボンはシナンの提案に感謝して、上陸部隊の船だけを残して港外へ出た。
「そうか、ブルボン君の顔を立ててやったのか、さすがはシナンだな。よし、行くぞ!」
 赤ひげの号令一下、港外で待機していた大艦隊が整然と入港した。提督の右腕に握られた長剣が一閃すると、横一列にならんだ前列の百隻から一斉に大砲が発射された。それは、まさに地獄の大音響であった。要塞の巨石は吹っ飛び、何十門かの大砲は跡形もなかった。ブルボンはしばらくの間呆然として突っ立っていたが、何十秒後かに我を取り戻して突撃隊を上陸させた。
つづいてトルコ軍も上陸したが、ニース軍の抵坑はゼロであった。先に上陸したフランス軍の兵士二人が、城壁の頂上に到達して国旗を立てようとした。その時であった。髪の毛の長い、白いワンピースのような服装をした、一人の若い女が頂上に突進して、フランス兵から旗を奪い取り、旗竿で突きとばして城壁から蹴落とした。もう一人の兵士が後ろから飛びかかったが、旗竿の尻で突き飛ばされてこれも転げ落ちた。
「みんな戻ってきてー、戻ってこーい!ニースはまだ陥落してはいない。みんな元気を出して戻ってこーい!」
 若い女は、フランス国旗を城壁の下に投げ落とした。その声に、いったん退却したニースの守備兵が数人駆け戻ってきた。赤ひげもシナンも艦上からその光景を見ていて、口をあんぐりとあいたまま物を言うことすら忘れていた。しかし、まもなくトルコ兵によって旗が立てられ、ニースは陥落した。この若い女はその場で斬られて死んだが、カトリーヌ・セギュラヌという名の洗濯女であった、と伝えられる。戦いが終わった日、赤ひげはブルボンを呼びつけて叱った。
「お前たちは、マルセイユで戦争に必要なものを積み込まずに、ブドー酒を積み込んできた。その証拠に、たかの知れた要塞を攻め落とすのに十日間も費やしている。一口に言えば、本気で戦う気がなかったのだ!」
 この怒りの前に、ブルボンはちじみあがって平謝りに謝った。この結果を見て、赤ひげはフランスとの共同作戦に見切りをつけた。フランソワ一世は宥めようとして、ツーロンで越冬することを勧めた。しかし、赤ひげの機嫌は直らなかった。フランス政府は国をあげて赤ひげ艦隊をもてなしたが、赤ひげは故国に戻ることにした。
このとき、ドラグートがスペイン軍に囚われている、というビッグニュースがとび込んできた。ニュースをもたらしたのは、後にマルタ島の騎士団長になるド・ラ・ヴァレッタ(現在はマルタ国の首都の名になっている)であった。彼がドーリア提督を表敬訪問した際に、見かけたことがきっかけであった。
「ドラグートが生きている!」
 赤ひげ軍団にとって、これは衝撃的なニュースであった。
「金で済むことなら、いくらでも出す」
 赤ひげはヴァレッタにひざまずかんばかりに懇願した。ヴァレッタは彼の誠意に打たれて、ドーリアの下に何回も足を運んで交渉してくれた。スペイン海軍は、三千クラウンという前例のない大金を要求してきたが、赤ひげは表情ひとつ変えずにそれを飲んだ。ドラグートを開放したことは、後に全ヨーロッパが後悔したが、もっともそれを痛感させられたのはドーリア自身であった。赤ひげの跡を継いだドラグートは、ドーリアの最大の敵になったからである。
 彼はコルシカ島の酒場で、睡眠薬を飲まされて捕えられてから四年もの間、スペインのガレー船でオールを握らされていた。赤ひげは、ドラグートほどの大海賊が奴隷にされているとは、露ほども考えていなかった。 殺されたものとばかり考えていただけに、彼との再会は最大の土産であった。やつれ切って目ばかり光らせたドラグートが、それでも必死に足元を踏みしめながら旗艦の甲板に登ってきた。
「ドラグート、良くぞ生きていてくれた!」
 赤ひげは杖をつきながらも、小走りに走り寄った。
「提督、ごらんのとおり元気です。また海賊に戻れました。ありがとうございました」
「よかった。お前はとっくの昔に死んだものと思い込んでいた。探しだせなくて、本当に済まなかった。また一緒にやろうなあ」
 二人は手をとり合って涙にくれた。夕方、艦上で酒を酌み交わしながらドラグートは言った。
「ドーリアは私を殺さずに、一生奴隷として縛りつけておくことが、一番の報復だと考えたようです」
「そうだろう、通常の捕虜の扱いならば、わしに連絡してくればいくらでも金を支払うものを、そうしなかったということは、奴隷として飼い殺しにする気だったのだ」
 赤ひげは、怒りの表情を隠そうともしなかった。
「私もうかつでした。睡眠薬を飲まされるなんて、油断もいいところです」
「ドラグートらしからぬ失敗だったな。しかし、命があっただけよかった。ヴァレッタほどの大物が交渉してくれたのでなかったら、ドーリアは決して返してはくれなかっただろうな」
「ヴァレッタさんには感激しました。キリスト教徒は大嫌いですが、彼だけは好きになりました」
「珍しいほど良い男だな」
「私はこれからは、奴隷に対して優しくしたいと思います。年を取ったり、病気の奴隷はどんどん開放してやりたいし、一定の年限を設けて開放することを初めに申しわたしてやれば、彼らは生きる希望を持てるようになるでしょう」
「それはいいことだ。奴隷だって人間だものな。一生涯鎖に繋がれるのかと考えたら、とても生きていられるものじゃない」
 アイディンが相槌をうった。ドラグートがうなずきながら、しみじみした口調で言った。
「以前は、奴隷にされた奴等は、そうなるべき運命にあるのだから、仕方がないのだと割り切って考えていましたが、今はオール以外の方法で走る時代がくることを祈るようになりました」
「帆だけで走れたら、奴隷はいらなくなるのになあ」
 ムラドもしみじみといった。シナンがうなずきながら、ドラグートに視線を向けた。
「お前はもともと人間に優しかったが、ますます優しくなったな。姪のアイダがいつもお前の話をしていたよ。ドラグートさんには闘いの技術もたくさん教わったけど、人間に対する本当の優しさを教わった、と言っていたよ」
 そのドラグートが後年、ヴァレッタとマルタ島の攻防戦で死闘を演じることになろうとは、運命のいたずらとしか思えない事実である。翌日、赤ひげは帰国する旨をフランス政府につたえた。一万二千人の兵と二千四百人の奴隷の生活費は、すべてフランス政府の負担であった。その上、ニースで使った弾薬や乗員の給与まで支払わされた。フランスにとっては、トルコとの同盟は名ばかりで実質上の隷属にすぎなかった。イスタンブールに戻ってスレイマン皇帝に不首尾をわびると、皇帝は赤ひげを慰めた。
「提督の責任ではない。すべての責任はフランソワ一世にある。わしは彼をその程度の男、とはじめから見ている.もっとも、彼もヨーロッパキリスト教世界の裏切り者、呼ばわりされて苦しんでいるのだ。まあ、機嫌を直してやってくれ。提督は若い嫁さんをもらったそうだから、ゆっくり休んで体を労わってもらいたい」
 と言って、にやりと笑って見せた。皇帝は、彼が十八歳の小娘を妻に迎えたことを早くも知っていた。赤ひげはさすがに照れた。他人がどう云おうとやりたいことをやり通す怪物も、九十歳という高齢をかえりみて赤面する思いであった。彼はこの航海を最後に、イスタンブールの郊外に豪邸を建ててドーニャとともに晩年をすごし、一五四六年六月、九十三歳でこの世を去った。
彼の死後、トルコの船舶はイスタンブールの金角湾を出港するときは、ボスフォラス海峡に面したべシクタシュの埠頭につくられた赤ひげの巨大な銅像に祈りをささげ、礼砲を撃つことが永年の習わしとなった。
 赤ひげは、壮大な叙事詩の中の英雄として、イスラムの心に、今もなお生き続けている。