ベッドの上で、少女が寝ている。
少女はもう二週間目を覚ましていない。
医者はいつ目を覚ましてもおかしくないと言っていた。
今日、今にでも目を覚ます可能性がある。だけど明日、明後日、数か月後もこのまま眠り続ける可能性があった。
高校二年生の町村拓海は、二週間前から学校帰りに毎日病室を訪れていた。そして妹の町村鈴の容体に変化がないかを見守った。
今のところ鈴本人に特別な変化はない。だけど鈴の周りは毎日どこかが変わっていた。
拓海は鈴の顔を覗いた後、ベッドの脇にある小さな棚に目を向けた。
棚の上には花や色紙が飾られている。色紙には早く元気になってねと、丸かったり、曲がっていたり、文体にその人の個性が出ている応援メッセージがいくつも綴られていた。
色紙は鈴の学校の友達が持ってきてくれたものらしい。
ミルクチョコレート色の制服を着た女子中学生が毎日代わる代わるお見舞いに来てくれているのだと鈴の担当看護師が教えてくれた。
鈴ちゃんは学校で人気者なんですねと同じ看護師から言われて、拓海は苦笑いを浮かべるしかなかった。
拓海は、鈴が決して人気者ではなかったことを知っていた。
中学三年生の鈴は、事故の日までの数か月間ろくに学校に行かずに家に引きこもっていたのだ。
本当に人気者だったら、学校に行けなくなるはずがなかった。
母親によると、鈴は学校でいじめられていたそうだ。母親は家から出ない鈴を心配して、何度も学校に足を運んで担任に相談していた。けれどなにが改善されるわけもなく、鈴はそんな母親の行動を迷惑そうにしていた。
一方、拓海は母親とは違って鈴の問題に足を突っ込むつもりはなかった。
親である母親が娘を心配する気持ちがわかって、一度仲がこじれた友達と上手くやっていくのがどんなに難しいことかも知っていた。
鈴やその同級生は幼児ではないのだ。
親や担任にみんなと仲良くと言われて、実際に仲良くできたら苦労はしなかった。
そんなふうに鈴の複雑な心情を理解し、そっとしておくことに決めても、母親が悩んでいる姿を見ているのは辛かった。
拓海と鈴には父親がいない。母親はそのことに後ろめたさを感じているのか、必要以上に熱心になる節がある。女手一つで家計を支え、ただでさえ忙しい母親の疲れは限界に迫っていた。そして母親は、拓海に助けを求めた。
今にも泣き出しそうな顔で鈴のことをお願いと言われて、拓海はとても断れずに頷いてしまった。
母親から鈴のことを任されたのは約二週間前で、事故が起こったのはその翌日だった。
拓海は事故の日の前日、リビングで丸くなっている鈴にいつから学校に行くつもりなのか聞いてみた。その時、鈴は黙っているだけで、なんの反応も見せなかった。
拓海は簡単にいかないことをわかっていて、とりあえず一度声をかけたことに満足した。
これから少しずつ、鈴がなにを考えているのか聞き出していけばいいと軽く考えていた。そして次の日の朝、鈴は制服に身を包んで部屋を出てきた。
ミルクチョコレート色の制服は鈴によく似合っていた。久しぶりの制服姿を目にして、拓海は喜びで胸がいっぱいになった。
拓海以上に驚いていたのは母親で、笑顔を浮かべながらも泣きそうになっていた。
当の鈴は少し照れたような顔をして、学校に行くのは普通のことだからと小さな声で呟いていた。
それから家を出ようとする鈴に、拓海は途中まで一緒に行こうかと提案した。けれど鈴は恥ずかしいから嫌だと拒否し、今度ははっきりした声で行ってきますと言って玄関の扉を開けた。その瞬間、玄関の中に柔らかい朝日が差し込んだ。
鈴の後ろ姿は眩しくて、拓海と同じく玄関で鈴を見送った母親はついに泣いていた。
拓海は母親の背中を擦りながら、なにかが良くなっていくのを感じた。
久しぶりに登校するというだけで、鈴の問題が解決したわけではない。
それでも前進していると拓海は思った。
放課後、鈴がトラックにひかれたという連絡を受けるまで、昨日よりも状況が悪くなることはないと思っていた。
だけど、結果はこれだ。
鈴はベッドの上で、いつまでも目を覚まさない。
状況は悪くなるばかりで、拓海は運命を恨みたくなった。
事故後拓海と母親の関係もギスギスしていた。
母親はこの二週間、一度も笑っていない。鈴の前では硬い表情をして、拓海の前では複雑そうにしていた。
母親は直接口にしないものの、鈴がこうなった原因の一部は拓海にあると思っているようだった。
拓海は責められるのを感じつつ、本当は母親だって誰も責めたくはないはずだと思った。
母親はギリギリの状態なのだ。拓海だってできるならば誰かを責めたかった。
例えば、トラックの運転手を責められたのならば楽だった。だけど横断歩道のない道路に飛び出したのは鈴自身だった。
運転手に全くの過失がないとは言えないが、やはり問題は鈴にある。
事故当時のドライブレコーダーの映像を見て、拓海はほんの少しだけ運転手に同情してしまった。その上でトラックの運転手はしっかりと謝罪してくれたし、時々鈴の様子を見にきてくれる。
母親も辛そうにはしていたもののトラックの運転手に当たることはなかった。
じゃあ結局、誰が一番悪いのか。
母親からなにか言いたげな視線を向けられて、拓海は自身の行動を振り返った。
直接の原因ではないとしても、確かに罪があると感じていた。それはほとんどこじつけの罪で、言い訳はいくらでもできる罪だった。
拓海は鈴をこんな目にあわせたかったわけではなかったのだ。
鈴に立ち直ってほしいと心から思っていて、本当に心配していた。そして行動した結果が裏目に出た。
もしもあの時、いつから学校に行くのかなんて問わなければ、鈴は今頃元気でいられたのだろうか。
答えなんて出るはずがないのに、時間があるとつい考えてしまう。
鈴の目覚めを待つ時間は、普通の時間と違っていた。
二週間前の五分と、今の五分では流れが全く違う。
じっとしているのは苦痛で、ただひたすらどうするのが正しかったのかを考えた。そして考えると考えるだけ怖くなった。
もしも、もしもこのまま鈴が死んでしまったら。
拓海の精神状態も限界だった。
なんの希望も持てずにベッド脇の椅子に座ってボーっと鈴の顔を眺めていると、突然病室の扉が開いた。
「あっ」
拓海は扉のほうに目を向けた。
扉を開けたのはミルクチョコレート色の制服を着た少女だった。
少女は拓海を見て声を上げ、固まってしまった。中に誰かがいるとは思ってもいなかったようだった。
「どうぞ」
拓海は固まっている少女に声をかけた。少女は一瞬ためらうような仕草をして、小さく頭を下げた後拓海の傍までやってきた。
拓海は椅子に座ったまま、ジロジロと少女を観察した。
肩にかかるくらいの黒髪を二つに結び、眼鏡をかけた少女は頭が良さそうに見える。制服のシャツの第一ボタンをしっかりと留めているし、リボンに緩みもない。
見た目の印象は悪くないけれど、拓海はどうしても少女に先入観を持たずにいられなかった。
「あの、鈴さんのお兄さんですか?」
「はい。兄の、拓海です。君は鈴の友達だね。いつも鈴がお世話になっています」
お世話になっているというのは嫌味だった。
少女は拓海に言われて、気まずそうに貧乏揺すりをしていた。
「えっと、私は鈴さんと同じクラスの、石神知恵です。今日は、千羽鶴を持ってきました。クラスのみんなで、鈴さんのために折ったんです」
少女、石神知恵は持っていた紙袋から千羽鶴を取り出す。そして拓海に差し出した。
拓海は千羽鶴を一瞥して、隅に置いといてと投げやりに言った。知恵は困ったような顔をしながらも頷いて、素直に部屋の隅に千羽鶴の入った紙袋を置いていた。
「毎日友達が来ているって看護師が言っていたけれど、それって石神さんのことなの?」
「えーっと、私が毎日来ているわけじゃなくて、クラスメートみんなが順番で来ることになっているんです。私は一週間前に一回来て、今回が二回目です」
「それって、担任からの提案?」
「いえ、違います。先生から指示されたわけじゃなくて、みんなが自主的に決めたことなんです。大勢で押しかけるのは迷惑だろうから、毎日一人か二人で来ることになっているんです」
「一回目はともかく、二回目、三回目となると、面倒になってくるんじゃないの?」
「少なくとも私は、面倒なんて思っていません。鈴さんに、早く良くなってもらいたいです」
それまで控えめにしていた知恵が、心外そうに反論する。そんな知恵を見て、拓海は鼻で笑いたくなった。
拓海が思うに、少女たちは保身のために病院に足を運んでいた。教室でいじめられていた鈴が思いがけず深刻な事態になって、一応は心配な振りをしていないと不味いと思っているのだろう。自分たちがやっていたいじめが表沙汰になった時のためにも、良い子な一面を見せておく必要があるのだ。
きっと知恵だって例外ではない。一見は良い子そうな知恵も内心ではなにを考えているのかわからなかった。
「だけど、誰も、来なかったじゃねぇか」
拓海は知恵が病室に入ってきてからイライラしていた。ここで知恵を責めても意味はないと思いつつ、つい口が動いた。
「えっ?」
「鈴が学校に行かなくなってから、誰も鈴を迎えに来てくれなかった」
「……それは、家を、知らなかったし……」
「んなの、言い訳になるかよ」
「……すみません」
知恵は眉を下げて、謝罪する。その瞬間、拓海の苛立ちもおさまってしまった。
拓海は大人げない自分に呆れた。
実際に学校でなにが起こっていたのかを知らない。鈴が本当にいじめられていたとして、知恵が首謀者とは思えなかった。鈴を助けてくれなかったことに怒りを覚えるが、最も責めるべきなのは首謀者だった。
とにかく、具体的なことを知らない内に誰かを責め立ててはいけない。
拓海は軽く深呼吸をして、冷静になろうと努めた。
「悪かった。ちょっと、イライラしていて、ついあたってしまった」
「いえ。鈴さんのためになにもしてこなかったのは本当なので。なにか、できたはずなのに。今になって後悔しています。本当に、すみませんでした」
拓海が謝ると、知恵も再び謝罪してくる。
謝罪されると謝罪されるだけ、拓海は知恵にあたった自分が嫌になった。
「ねぇ、学校でさ、鈴ってどんな感じだったの?」
「明るくて、おもしろい子でした」
「俺が昔から知っている鈴も、明るくておもしろいやつだった。なのに、どうしてこうなっちゃったんだろうな」
拓海が言うと、知恵はなんとなくでも理由を知っているのか唇を噛みしめていた。
それから沈黙が続いて、拓海はいい加減居心地が悪くなった。
千羽鶴を持ってきて知恵は役目を終えたはずなのに、なかなか病室を去ろうとしない。もう知恵の相手をしたくない拓海は、ポケットから携帯電話を取り出して誰かからメッセージが届いていないかを確認した。
母親から一件の着信があり、友達から複数のメッセージが届いている。母親からの着信はおそらく帰宅が遅くなるという連絡だろうと予測した。そして友達からのメッセージは、新発売のコンビニのお菓子が美味いとか、漫画を貸してくれとか、くだらない内容だった。
「あ、あのっ」
拓海が友達にメッセージを返していると、それまで黙り込んでいた知恵が口を開いた。
「なに?」
「あの、私は、鈴さんと同じグループにいたわけじゃなくて、特別に仲が良かったわけでもないです。それでもたまに鈴さんと話すことがあって、私、嬉しかったです。鈴さんは、クラスの中心的な人物の一人でしたから。私なんか釣り合わないと思っていたけれど、鈴さんは地味な私の前でも態度を変えることなく接してくれました」
いきなり語り出した知恵に戸惑いつつ、拓海は話を遮らずに続きを待つ。知恵は言葉を選びながら、一生懸命話しているのがわかった。
「私、鈴さんのことが好きでした。憧れていました。だから、鈴さんが学校に来なくなった時、なにがあったんだろうってすごく気になっていたんです。でも、鈴さんと同じグループの人達は鈴さんがいなくても普通にしていました。それが、不思議でした。鈴さんがいないのが当然であるような顔をしていたんです。鈴さんが学校に来なくなった原因を知っているとしたら、彼女たちだと思いました。だけど彼女たちは鈴さんのように私と普通に会話をしてくれるような人たちではなくて、話しかけても無視されて、結局鈴さんが学校に来なくなった理由を知ることはできていません」
いじめの主犯は、鈴が以前一緒に行動していたグループの人間なのだろうか。
拓海は頭の中に、複数の少女の顔を思い浮かべた。
少し前まで三人の少女が頻繁に家に遊びに来ていた。彼女たちは居間にいた拓海にちゃんと挨拶をしてくれて、母親も気に入っていた。
「二週間前、鈴さんが久しぶりに学校に来て、クラスメートは驚いていました。鈴さんと同じグループにいた人達は、鈴さんに話しかけることなく遠巻きに見ていました。私はそれで、やっぱりあのグループ内でなにかあったのだと確信しました。その後も誰も鈴さんに話しかけることなく、朝のホームルームと一時間目の授業が終わりました。そして二時間目の休み時間に、思い切って鈴さんに話しかけてみました。私が久しぶりだねって言うと、鈴さんは驚いた顔をして、小さい声でそうだねと答えてくれました。色々話したいことがあったけれど、なにを話していいのかわからなくて、とりあえず、スタートのIDを教えてほしいと頼みました。すると携帯を持っていないからと断られました」
スタートとは、日本全体で流行っている通信アプリだ。携帯電話、主にスマートフォンと呼ばれる端末を持っている若者のほぼ七割が利用していて、社会人にとっても重要なアプリであると度々新聞や雑誌で特集されるほど人気がある。
拓海も日常的に利用し、ちょうど今もスタートで友達とメッセージのやり取りをしていたところだった。拓海にはスタートなしの生活はもはや想像できなかった。そして確か鈴もスタートを利用していた。
「あの、鈴さんの携帯は、今どこにあるんですか?」
知恵にたずねられて、拓海は首を傾げる。
事故当時、鈴が携帯電話を持っていたのかどうかを拓海は知らなかった。そして少し考えてみて、持っていたはずだと思った。
元気だった頃の鈴は携帯電話に依存気味で、肌身離さずに持っていた。ならば事故後、鈴の携帯電話はどこに行ってしまったのか。
事故の時に鈴が着ていた制服は母親がクリーニングに出している。携帯電話もきっと母親がどこかにしまっているのだろうと思った。
「たぶん家にあるよ」
「そうなんですか。私、二年生の頃、授業中に携帯電話を弄っている鈴さんの姿をよく見ました。先生から何度も注意されていて、だから鈴さんが携帯電話を利用しているのは知っていたんです。それなのに携帯を持っていないと断られた時は結構ショックでした。鈴さんは私なんかと、仲良くしたくなかったんですよね。ならわかりやすい嘘なんてつかないで、教えたくないとはっきりと断られたほうがまだ気持ちが楽でした」
断られた時のことを思い出しているのか、知恵は落ち込む。
拓海は知恵の話を聞きながら、鈴はなぜそんな嘘をついたのだろうかと疑問に思った。
鈴といえば携帯電話というイメージを持っていた。それは知恵も同じようだ。だけど学校へ行かなくなった鈴はあまり携帯電話を弄っていなかったかもしれないと、拓海は最近の記憶を辿って気づいた。そしてひょっとしたら嫌がらせのメールが届くようになっていたのかもしれないと思った。だとしたら携帯電話から手が遠のくのも頷けた。
「鈴は、授業中に突然教室を飛び出したって聞いたけど、その時、教室でなにが起こっていたの?」
拓海と母親は鈴の担任からある程度の説明を受けている。
その時は数学の授業中で、話していたのは数学の教師だけだったらしい。
生徒たちの多くは真面目に授業を受けていて、鈴も熱心に板書していたそうだ。だけど授業の後半、気分が悪くなったのか鈴は突然席を立ち、教室を飛び出して行ってしまった。教師は鈴を追いかけて、生徒たちはその場に待機していた。そして鈴はトラックにひかれた。
担任は生徒全員から当時の様子を聞き出し、数学の教師の証言と特別に食い違う点はなかったと言っていた。
拓海は担任が嘘をついているとは思っていなかった。その上で、事故が起こる前のことを知恵の口から聞いてみたいと思った。
「えっと、鈴さんの席は、教室の、窓側の、一番後ろなんです。学校に来なくなって、席を後ろに移されました。私の席は窓側の真ん中で、後ろの席を見ることはできません。だから、授業中、鈴さんがなにをしていたのかわかりません」
「授業は通常通り進んでいたそうだね」
「はい。テストが近いこともあり、みんな比較的真面目に授業を受けていました。ただ、私の斜め前の席の小田さん。えっと、小田さんは、以前鈴さんと同じグループにいて、鈴さんと仲が良かった子の一人です。その小田さんが、机の下で携帯電話を弄っているのを見ました。内容までは見えなかったけれど、たぶん、他のクラスメートとメッセージのやり取りをしていたんだと思います。二年生の頃から、鈴さんと、小田さんと、あと、加賀美さんと、江口さんは授業中に携帯電話を弄っては先生から怒られていたんです。だからあの時も鈴さんを除いた三人でやり取りをしていたんだと思います」
「鈴は一番後ろの席にいたから、三人が携帯電話を弄っているのが見えていたのかな」
「そうですね。見えていた可能性が高いです。だけど内容まではわからなかったと思いますよ」
鈴は他の三人が仲良くしているのを見ているのが辛くて、耐えられなかったのか。
一人だけ仲間外れにされて悲しくなる気持ちはわかるが、教室を飛び出すほどかと拓海は思う。
拓海には女同士の友情がよく理解できなくて、目の前の知恵も不思議そうな顔をしていた。
「あの、鈴さんが学校に来なかったことと関係があるのかわかりませんが、数か月前に、後輩が新宿で鈴さんを見かけたと言っていました」
「そういえば、時々どこかに出かけていたな。学校に行かなくても、コンビニとかにはしょっちゅう行っていた。その時も普通に買い物に行ったんじゃないかな。それにしても、不登校の生徒がふらふらしているとやっぱり気になるか」
「その後輩は、鈴さんの存在を知っているものの不登校になっていることは知りませんでした。だから不登校のはずの鈴さんを見かけて気になったというわけじゃないんです。その時、鈴さんは、茶髪の若い男と歩いていたそうです」
「茶髪の若い男?」
「若い男といっても、たぶん高校生じゃなくて、高そうなスーツを着ていたと後輩は言っていました。まるでホストみたいな男で、だから後輩はわざわざ私に報告してくれたんです。鈴さんはなにか危ないことに巻き込まれているんじゃないかと心配していました。私はきっと見間違えだったんだよと後輩に忘れるように言いました。変な噂が流れたら、鈴さんは余計に学校に行きづらくなるんじゃないかと思ったんです。私は鈴さんにはお兄さんがいると以前聞いていたから、スーツの男は実のお兄さんだと思うようにしていました」
「その男は、俺じゃない」
「そうみたいですね。だとしたら、男は何者なんでしょうか。もしも後輩の見間違いではなかったとしたら、鈴さんは学校以外でもなにか問題を抱えていたのかもしれません」
「なにかって、なんなんだよ。学校で起こっていたこともよくわからないのに、増々謎が増えるのかよ」
拓海は鈴がこうなった原因の根本は同級生によるいじめだと確信していた。それなのに学校関係者とは考え難い若い男の存在を教えられて眩暈がした。
「あの、私にできることがあるのならば、なんでもします。もしも鈴さんがこうなってしまった原因を調べようと思っているのならば、私に協力させてください」
知恵は、真っ直ぐと拓海を見つめて言う。
拓海はどうして鈴のことを知ってやれなかったのかと自己嫌悪に陥りながら、知恵から今やるべきことを教えられた。
鈴はどうしてこうなってしまったのかを調べる必要がある。
これまでもたくさん考えて、なんとなく原因を導き出して、だからどうするというわけでもなかった。そして今、色々と思い違いをしていたことに気づいた。
今までのままではいけない。自ら動かなければ真実はわからない。
拓海は謎を明かす決意をして、知恵とスタートのIDを交換した。
IDを交換した後、知恵は帰宅した。知恵が去ったことで、病室は急に静かになった。
拓海は沈黙を破らない鈴の頭を撫でた。そしてもしもその頭の中を覗けたらと思って、鈴の携帯電話の中身が気になった。
帰宅した拓海は適当に夕食を済ませてから鈴の部屋に入ってみた。
鈴の部屋は白を基調とした家具が置かれ、全体的に雰囲気は明るかった。引きこもっている間もちゃんと掃除をしていたようで、拓海の部屋のように床にプリントが散乱していたり、本が積み重なったりはしていない。ベッドシーツも綺麗に整えられている。そしてなんだかいい匂いがした。
拓海は軽く全体を見回した後、鈴の勉強机の引き出しを開けてみた。するとさっそく携帯電話を見つけて手に取った。
画面に目立つ傷はない。とりあえず電源を入れようとしたものの、画面はいつまでも黒いままだった。
電池が切れているのだろうと思った拓海は部屋の隅にあった充電器に携帯電話を繋げた。それから他の引き出しの中を確認して、椅子の上に置かれている鈴の通学鞄に目がついた。
事故当時、鈴は通学鞄を持たずに学校を飛び出していた。だから現在椅子の上にある通学鞄は鈴の担任が事故後に届けてくれたものだった。
通学鞄を開けてみると、中には教科書類と財布が入っていた。教科書をパラパラと捲ってみたところ、破かれたり、悪口を書かれたりしているということはなかった。財布の中にレシートはなくて、小銭と合わせて二千円程度のお金と一枚の名刺が入っていた。そして拓海は名刺の名前を見て首を傾げた。
“西松探偵事務所 西松彼方”
なぜ鈴は探偵事務所の名刺を持っているのか。
拓海はこれまでの人生で探偵事務所に足を運んだことがなければ、探偵という存在と対面したこともなかった。一方でテレビや小説の中で探偵が事件を解決するのはよく目にしていて、だからこそリアリティーのない存在だった。
だけど、鈴は違っていたのか。
探偵事務所の名刺が財布の中にあるからには探偵になんらかの関心、または繋がりを持っていたに違いない。
住所からして探偵事務所は新宿にある。知恵の後輩が新宿で鈴を見かけたことともなにか関係があるのかもしれない。だとしたら、一度探偵事務所を訪れてみる価値はあるだろう。
拓海は重要な手がかりだと思って、名刺を制服のポケットの中に突っ込んだ。そしてまた色々と漁ってみたが、他に手がかりになりそうなものは見つからなかった。
一通りの捜索を終え、充電中だった鈴の携帯電話の電源を再び入れようとした。しかしいくら待っても電源は点かなかった。どうやら壊れているようなので修理に出すことにして、やはりポケットの中にしまった。
拓海が鈴の部屋から出たと同時に、母親が帰宅した。
「ただいま」
「おかえり。焼きそば、母さんのぶんも作っておいたよ」
母親は疲れた顔をして、荷物をソファーの上に置く。拓海がキッチンのほうを指差すと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ありがとう。ごめんね。最近、ろくに夕飯を作ってあげられなくて」
「ガキじゃないんだから、自分でできることは自分でやるよ。俺のことは気にしなくていい。それよりもこの頃ちゃんと眠れてるの? 目の下の隈、かなり酷くなってる。鈴が目を覚ました時に母さんがやつれていたら驚くと思うよ」
「明日休みだから今夜はゆっくり眠るわ。それで、午後病院に行くつもり。拓海は明日、なにか予定があるの?」
「ああ。うん。新宿に行くつもり」
「そう。誰かと遊ぶ約束でもしているの?」
「まあ、そんな感じかな」
「へぇ。拓海も最近遊べてなかったでしょ。いい息抜きになればいいわね」
母親は話しながらキッチンに向かい、拓海が作り置きしていた焼きそばを温め直していた。新宿に行くことに特に疑問を抱いていないようで、たぶん探偵事務所のことも知らないのだろうと拓海は思った。
「ねぇ、母さん、鈴って事故の時にスマホを持ってなかったの?」
「スマホ? 制服のポケットには手鏡とハンカチしか入っていなかったわよ。鞄は後で先生が届けてくれたのは拓海も知っているでしょ。どちらにしても、携帯は家にあったはずよ。あの子の携帯、壊れていたみたいなのよ。事故のだいぶ前から使えなかったの」
拓海が質問すると、母親は何気ない様子で答える。拓海はそんな母親の言葉に驚いた。
「は? それって、本当の話?」
「本当よ。嘘をついてどうするのよ」
「だって、壊れたなら普通は直ぐに修理に出すだろ」
「一応は本人に修理するか新しいのを買うかどうするのって聞いたわよ。でも家から出ないから必要ないって言われたのよ。なにかあったら、家の電話を使えばいいってさ」
「俺、全く知らなかった」
拓海はポケットの中の携帯電話を握り締めた。
そういえば、最近鈴に電話もスタートもしていなかった。家に帰れば鈴がいて、直接顔を合わせてそれなりに言葉を交わしていた。だけど学校の話題は避けていて、中身のない会話しかしていない。携帯電話にあまり触っていないことに気づいていても、まさか壊れているとは思ってもいなかった。
「私も直ぐには気づけなかったわ。あの子の携帯に電話をしたのに繋がらなくて、だから本人に問い詰めたらやっと話してくれたんだけど、それで喧嘩になっちゃったの。どうして早く言わないのよって叱れば、鈴は言いたくなかったんだよと逆ギレしちゃってね。学校に行かない理由を聞いても黙るか怒るだけだったし、反抗期なのかしら。小学生の頃はなんでも話してくれたのに、中学生になったら話す時間が一気に減っちゃった。きっとこれからもどんどん秘密が増えていくのね。しかたないことだとは思うけれど、やっぱり寂しいわ」
母親は温めた焼きそばをテーブルの上に置いて席につく。そして箸で麺をほぐしながら大きなため息をついた。
「鈴はもう小さな子供じゃない。鈴には鈴の世界がある。だからあんまり干渉してはいけないってわかっていたのよ。そしてなるべくそっとしておくことにしたけれど、今は間違っていたのかもしれないと思う。もっと上手く支えてあげる方法があったはずなのよ」
「俺が言うのもなんだけど、なにかするのは、今からでも遅くないんじゃないかな。鈴は別に、母さんのことが嫌いだったわけじゃないと思う。ただ素直になれないだけだったんだ。目が覚めたら、もう一度聞いてみなよ。今までなにに悩んでいたのか。例え答えてくれなくても、傍にいてやればいいと思う。実は俺も後悔しているんだ。今度はもっと真剣に鈴と向き合ってみるよ」
母親の箸は進まない。目の下に隈があるだけじゃなく全体的に小さくなったように見える母親のことが拓海は心配だった。だから少しでも元気になってもらいたくて、普段なら照れくさくて言えない本心を口にした。
「もしかして、お母さんを慰めてくれてるの?」
「慰めになるといいけど」
「十分よ。拓海、色々とごめんね。一緒に、頑張ろうね」
拓海は当然だと頷く。それから母親と軽く学校の話をしてから自分の部屋に戻った。
翌日、拓海は寝ている母親を起こさないように家を出た。そして新宿に向かい、携帯ショップに足を運んだ。
携帯ショップでは休日ということもあってか先客が多数いて一時間近く待たされた。やっと順番が回って来て、携帯電話の電源が点かないことを伝えると店員は早速確認してくれた。
しばらくして、水没してしまったようだと教えられた。店員は続けて修理に出してもデータを復旧できるかどうかわからないと説明した。
拓海は鈴が携帯電話の修理を望んでいなかったことを母親から聞いてしまったので、また日を改めて修理をお願いすることにした。
続いて向かった西松探偵事務所は繁華街から少し外れたところにあった。
事務所はビルの三階に入っていて、一階と二階は空きテナントとなっている。
拓海はビルを見上げて、本当にここが西松探偵事務所なのかと不安になった。
ビルは全体的に古く、外壁には蔓が這っていた。目立つところに看板はなくて、三階も空きテナントのように見えた。それでも階段横にあるポストには西松探偵事務所というラベルが貼られていたので、目的地で間違いないようだった。
エレベーターがないため、階段を使って上へ行く。そして三階に辿り着くと、西松探偵事務所という銀色のプレートがかかった扉が目に入った。
拓海は少し緊張しながら扉の横にあるチャイムを押した。しかし故障しているのか、押しごたえがほとんどなく音も聞こえなかったため直接扉をノックした。そしてしばらく待ってみたものの、中からはなんの応答もなく、思い切って扉を開いてみた。
途端に、強い煙草のにおいに包まれる。
普段煙草を吸う人間が身近にいない拓海はそのにおいに耐えきれず、思わず鼻を摘まんだ。
「いらっしゃい。ご用件は?」
拓海が鼻を摘んだまま固まっていると、中から男が近づいてきた。男は火の点いた煙草を片手に、やる気のなさそうな声で拓海にたずねた。
拓海は男の姿を見て、こいつが鈴と接触していた人間なのだろうと瞬時にわかった。
男は黒いスーツを着て、明るい茶髪をホストみたいに盛っている。ネクタイは首からぶらさげているだけで、第二ボタンどころかシャツのボタンはすべて外れていた。
知り合いがこんな男と一緒にいるところを見かけたら、当然戸惑うはずだ。
知恵の後輩が不安がっていたのも理解できた。
「……あの、妹が、ここの事務所の名刺を持っていて、それで、今日来ました」
「妹? とりあえず中に入れよ。珈琲でもいれてやるよ」
「いや、お気遣いなく。俺、珈琲飲めないんです」
「ガキかよ。まぁいい。どちらにしても中に入れ」
男に促されて、拓海はとりあえず事務所の中に入る。事務所の中は殺風景で、真ん中にローテーブルとソファーが二つあるだけだった。奥の部屋はわからないが、とても真面目に探偵業務をしている様子ではなかった。
「座って」
拓海は男に言われるがままソファーに座って、ポケットから事務所の名刺を取り出した。そして改めて名刺の名前を確認した。
「俺は、町村拓海といいます。あなたは、西松彼方さんで合っていますか?」
「そうだよ」
男、西松彼方は向かい側のソファーに座って足を組む。話しながらも煙草を吸うのを止めないで、気怠そうに煙を吐き出した。
拓海は煙草のにおいに慣れずに、気分が悪くなった。長く居るつもりはなくて、さっそく本題を切り出した。
「あなたは俺の妹、町村鈴と会ったことがありますか?」
「さぁね。妹の年齢は?」
「中学三年生、十四歳です」
「十四? 俺に十四歳の友人なんていないはずだけどなぁ」
「友人かどうかを聞いているわけじゃないです。鈴はもしかして、あなたの依頼者だったんじゃないですか? あなたと鈴が一緒にいるところを知り合いが見かけているんです。実際に鈴はあなたの名刺を持っていた。だから全くの無関係なわけがないんです。どこで鈴と出会ったのか教えてください。誤魔化しても無駄です。場合によっては警察に相談しますよ」
「はぁ? なんでいきなり警察が出てくるんだよ。俺は悪いことも、良いこともしない主義なんだよ。毎日事務所に来て煙草を吸って家に帰る。基本的に人とほとんど接することはない。お前の妹のことは、本当に知らねぇんだよ」
「じゃあ、なんで鈴は名刺を持っていたんですか?」
「形だけの営業として、年に何度か名刺をばらまいている。その時偶然手に入れたんじゃないのか? 当然配った相手を一々覚えてなんていねぇからな」
「それにしても、奇妙です。妹はレシートとかはちゃんと処分しているのに、この名刺だけは処分せずに残していました。それは、なぜだと思いますか?」
「例えば、名刺のデザインを気に入ったとか?」
「ふざけないでください。そもそも、ここは探偵事務所なんですよね? 普段どんな業務をやっているんですか? 本当に毎日煙草を吸っているだけなんですか?」
拓海は西松のふざけた態度に苛立っていた。
西松は話せば話すほど胡散臭い男で、鈴とは関係なく警察に通報したほうがいいように思えた。
「いったいなにを期待していたんだよ。俺なんかに夢を見るなって。勝手に期待して失望されたような顔をされても困るわ。探偵事務所なんてそこらじゅうにある。俺がわざわざ働かなくても優秀な探偵さんたちが日々人々の悩みを解決してくれているんだよ。お前も本当に解決したい依頼があるなら、他の事務所を当たればいいだろ。ここはただの飾り事務所だ。俺は名ばかりの代表。このビルを所有しているのは俺の祖父でね、つまり税金対策だよ。客が来ても基本的には居留守を使っている。普通はチャイムを鳴らして反応がない時点で帰るんだけど、たまにしつこいやつがいるんだよなぁ。まぁなににしたって、俺は依頼を受けない。その上で聞くが、妹は家出でもしているのか? どうしてここの事務所の名刺を持っているのかなんて本人に聞けば済む話だろ」
「家出なんてする子ではありません」
「家出していないにしても、なにか事件に巻き込まれているんだろ。じゃなきゃ、お兄ちゃんがわざわざこんな所まで来るはずがない。最近の中学生は結構過激だからなぁ。欲望は大人とあまり変わりねぇよ。ただガキはガキだ。一人じゃ自分の尻拭いもできない。俺は小学生も中学生も高校生も嫌いなんだよ。てか、人間が嫌いだ。人混みも当然嫌いで、新宿なんて人がうじゃうじゃいる町に事務所を構えているのを自分でもおかしく思う。どこかに引っ越してぇな。犬と猫しかいない世界で生きてぇよ」
プカプカと煙草を吸いながら、西松の話はだんだん逸れていく。
駄目人間を前にして、拓海はいよいよこの場にいる意味がわからなくなった。
「妹は今、病院にいます」
西松にはもう期待しないことにして、拓海は鈴の状態を打ち明けた。すると西松は、意外そうに片眉を上げた。
「事故にあって、意識がまだ戻りません」
「それは、どんな事故だ?」
「トラックにひかれたんです。妹がいきなり道路に飛び出したそうです」
「なるほどね。つまり妹は事故の前から情緒不安定だった。今更その理由を知りたくてここに来たわけね。だけどどうしてこんなところで知れると思う。お前が知らない妹のことを、他人の俺が知っているわけがないだろ」
「全部を求めているわけじゃないんです。ほんの少しでも、手がかりを得たかったんです」
「へぇ。熱心だなぁ。まぁ頑張れよ。それで、携帯は?」
西松は煙草を灰皿に押しつけて消す。そして少し目を光らせて拓海にたずねた。
「携帯?」
「お前の妹は事故当時携帯電話を持っていたのか?」
「えっと、事故の時は持っていなくて、家にありました。携帯電話は事故の前に壊れていて、そもそも使えない状態でした」
「へぇ。なんで壊れたんだろうな」
「ここに来る前、携帯ショップに寄りました。店員に妹の携帯電話を見せたら水没したようだと言われました」
「トイレか、風呂にでも落としたのか」
「お風呂に落としたんじゃないかと思います。妹は元々携帯に依存気味だったんです。きっとトイレにもお風呂にも持ち込んでいたはずです」
「重要なのは、落としてしまったのか。落としたのかだ」
「妹が自分で水没させたと言いたいんですか?」
「その可能性もあるだろ。めちゃくちゃムカつくメールが届いて、怒りのままに携帯を壊すのは珍しいことじゃない」
「俺はそんな経験ないです」
「俺はある。何度も携帯を壊した結果、持たないことにした」
西松は何気なく言って、新しい煙草を口にくわえる。そしてライターの蓋を開けたものの、火を点けずに閉じた。
「携帯を持ってないんですか? なくてよく暮らせますね」
「持っていないと暮らせないほうが問題だろ。一週間くらい電源を切って過ごしてみろよ。多少の不便はあっても、他人に縛られずに済んで気持ちに余裕ができるぜ。その期間案外着信は一回もなくて、友達がいないことに気づける可能性もある」
「その事実に気づいてどうするんですか。俺だったら気づきたくないです」
「そもそも友達なんてくだらないだろ。あいつらはな、ずっと仲良くしようねとか言いながら、結局自分の利益しか考えていないんだぜ。信じた挙句振り回されて捨てられるのが落ちだ。そうなる前に無駄な繋がりを切り捨ててこそ真の勝ち組だ」
「西松さんに友達がいないのはわかりました。だけど俺の友達は西松さんが言う友達とは違います。みんな良い人なんです」
「わかってねぇなぁ。これだからガキは嫌なんだ。てかお前の妹こそ友達と思っていたやつから裏切られて情緒不安定になったんじゃないか?」
なんとなく話していただけなのに自らも疑っていたところに辿り着いて拓海はドキリとする。
もしかして西松は最初からわかっていたのではないかと思って、その顔を見つめた。
当の西松は煙草に火を点け、会話に飽きたのか大きく欠伸をしていた。
「お前さ、スマートとかいうアプリを利用しているか?」
「スタートなら利用しています」
「ああ、それだ。スタート。今じゃ携帯電話を持つほとんどのやつらが利用しているらしいな。利用するのは個人の自由だから勝手にやっていればいい。だけどまるで利用してないのがおかしいみたいな風潮はどうなんだよ。みんなと同じツールを使っていることに安心し、その安心感を更に他人に押しつけることってそんなに正義か? 俺には理解できないね。男なら黙って手紙を書けってんだ」
「手紙じゃ直ぐに想いを伝えられないじゃないですか。スタートは連絡を取るのにかなり便利なんですよ。メールよりも楽です」
「だとしても直ぐに伝えたい想いってそんなにあるか? 緊急なら電話すればいいだろ」
「やり取りの内容は人それぞれだと思います。そもそもちょっとしたメッセージを手軽に送りあえるのがいいんですよ。程よいコミュニケーションになります」
「だからコミュニケーションを取りたいなら相手を前にして直接話せよ。俺は嫌だね。おはよう。おやすみ。さようならなんて文字を毎朝毎晩毎時間ちまちま打つなんて絶対無理」
「まぁ、色んな主義の人がいていいんじゃないですか。西松さんはそれでいいと思います。というか、西松さんのことは驚くくらいどうでもいいです」
「おい、お前、だんだん雑になってきたな。俺を馬鹿にしているよな」
「していませんよ。てか西松さんは、本当に鈴のことを知らないようですね。それなのに無駄なお時間を取らせてすみません。そろそろ帰ります」
西松が再び煙草を吸い出したため、辺りに煙が充満する。拓海はいつまでもそのにおいに慣れなかった。そしてこれ以上事務所にとどまる意味を見出せなくてソファーから立ち上がった。
「次はどこに行くんだよ。マジで他の探偵事務所に乗り換えるのか?」
「最初から探偵事務所に依頼をするお金なんて持っていませんよ。お金をかけずに自分にできることをやるつもりです」
「いいお兄ちゃんだな」
「自分ではそう思いません」
「俺もほしかったよ。都合良くパシれるお兄ちゃん。で、具体的になにをやるんだよ」
「とりあえず妹の同級生と話してみます。午後会う約束をしているんです」
昨夜、知恵にスタートでメッセージを送った。二年生まで鈴と仲が良かった三人と話をしたいと頼めば、知恵は直ぐにその三人と連絡を取ってくれた。一人は用事があるそうだが、二人は今日の午後会うことを了承してくれた。
「女子中学生か。なんかいいな。俺も一緒に行ってやろう」
「は? 普通に迷惑です。遊びじゃないんですよ。てか、子供は嫌いだって言っていたじゃないですか」
「俺は確かにガキが嫌いだ。俺以外の人間は全員嫌いというスタンスで長い間やってきた。だけど女子中学生のにおいは結構好きだ」
「余計に一緒に来てほしくないんですけど」
「まぁ遠慮するな。そうと決まったら早速行こうぜ」
西松は吸いかけの煙草を灰皿に押しつけソファーから立ち上がる。それから全開だったシャツのボタンを一つ一つ留めて身なりを整えていた。
西松は、本気らしい。
拓海は流れについていけずに困惑した。
西松と鈴の関係はまだわかっていない。明らかに怪しい男なのに他の女子中学生に会わせるのは不安だった。だから拓海は途中で西松を撒こうと考えた。
本名は知られてしまったけれど住所はまだ教えていないため、一度撒けば家までついて来る心配はなかった。
「おい、行くぞ」
ネクタイも結び仕度を終えた西松は拓海よりも先に事務所の外に出ようとする。拓海も慌てて事務所を出て西松と一緒に新宿駅まで向かった。
駅までの間、特に話すことはないのでお互い無言だった。
拓海は西松の顔を横からチラチラと観察して、駅に近づくごとに西松の眉間の皺が深くなるのに気づいた。
どうやら人の多さに苛立っているようだ。すれ違う人間も西松のオーラに慄いているのか、どことなく西松を避けて歩いていた。
西松の様子に違和感を覚えながら、あっという間に駅まで辿り着いてしまった。拓海はどのタイミングで西松を撒くべきかわからずに、意味もなく構内をブラブラした。
「おい。電車に乗るんだろ」
事務所を出て、西松が初めて口を開く。西松は拓海がいつも利用している鉄道会社の改札口を指差していた。
新宿駅は多くの電車の中継地点となっていて、改札口が複数ある。それなのに西松はどうしてピンポイントで目的の改札口を差し示すことができるのか。
拓海は驚きを隠せず、西松の顔をまじまじと見つめた。
「なに驚いてんだよ。俺に下手な小細工は通用しねぇんだよ。そこで待ってろ。切符を買って来る」
拓海は唖然として、発券機に向かう西松の背中を見送る。撒くならば今がチャンスだと思ったが、西松がどこまでの料金の切符を買って来るのか興味が出た。そして戻って来た西松は、拓海の家がある駅までの乗車券を手に握っていた。
偶然か。それとも最初から知っていたのか。
この男はなにか重要なことを隠していると気づいて、拓海は西松を睨みつける。当の西松はより不機嫌そうにして、行くぞとまた拓海よりも先に改札を潜った。
ホームには人が溢れ、多くは次の電車を待って列を作っていた。拓海と西松も列に並んで電車の到着を待った。その時、西松の顔は真っ青になっていた。拓海は西松のことが心配になったが声はかけなかった。それからしばらくして、電車がホームに入ってきた。
扉が開いて、複数の客が下車した後、拓海は早速電車に乗り込んだ。けれど西松はホームに立ったまま動こうとしなかった。
「西松さん?」
他の客が迷惑そうに西松を避けて電車に乗り込む。拓海が動かない西松の名前を呼ぶと、西松はビクリと肩を震わせた。その顔は真っ青だった。
「やべっ、寝てた」
西松は慌てた様子で電車に乗り込む。そしてあまりに無理のある嘘をついた。
「……西松さんは目を開けたまま寝るんですか?」
「俺くらいのレベルになったら余裕だよ」
西松は冗談を言いながらスーツの内ポケットに手を伸ばす。そこから煙草を取り出したので、拓海はギョッとした。
「ちょっと西松さん、電車の中で煙草を吸う気ですか? ありえないですよ」
「うるせぇな。口寂しいからくわえるだけだ」
拓海が止めようとすると、西松は舌打ちする。そして本当に煙草を一本くわえてしまった。その様子を見ていた他の乗客が明らかに引いているのがわかって、拓海は恥ずかしくなった。西松の知り合いだと思われるのが嫌で少しずつ西松から距離を置いた。
数十分後、ようやく目的の駅に辿り着いて、西松は拓海よりも先に電車を降りた。そして改札を出てから一直線に喫煙所へ向かい煙草を吸い出した。
一方、拓海はそんな西松を横目に駅に隣接するファストフード店に入って昼食をとることにした。
しばらくして満足したのか、西松もファストフード店に入ってきた。そして適当に注文をした商品を持って拓海の席までやって来る。顔色はだいぶ良くなっていた。
「電車では体調が悪かったんですか?」
「ああ。ゲロをまき散らしそうだった。今も若干気持ち悪い」
「ならば家に帰って休んだほうがいいんじゃないですか?」
「俺にまたあの電車に乗れと言うのか。今度こそ吐くぞ」
「タクシーで帰ればいいと思います」
「んな金ねぇよ」
「てか、具合が悪い時に煙草を吸うと逆効果になるような気がするんですけど」
「煙草は俺の心の友なんだよ。煙草を吸っていると多くの人間が迷惑そうな顔をして寄って来ないだろ。つまり煙草一本で最高のシチュエーションを演出できる」
「確かに西松さんが煙草をくわえた瞬間、車内の人はみんなドン引きしていました」
「やっぱり煙草って偉大だな。惚れ直したわ」
「だいぶ病んでますね。人間の友達を作ったほうがいいと思いますよ」
「友達ったって、どうやって作るんだよ」
たずねられて、拓海はどうしたら西松に友達ができるのかを考えた。
西松は見た目からして近寄り難いし、楽しく会話ができるようなタイプではない。まず拓海自身西松と友達になりたいとは思えなかった。
「社会人になったらなかなか作りづらいものかもしれませんね。学生時代からの友達は一人もいないんですか?」
「いないな」
西松は即答する。本当に一人の友達もいないようだった。
「もしかして学生時代にいじめられていたんですか?」
「むしろ俺がいじめっ子として有名だった」
「見た目通り最低ですね」
「お前な、目上の人間に対して色々と失礼だぞ。もっと人の気を良くさせるような話術を学べよ。そんなんじゃこの先の人生上手くやっていけないぞ」
西松は煙草の代わりにフライドポテトを指に挟んで偉そうに言う。その言葉は特に拓海の心に響かなかった。
「駄目人間代表みたいな西松さんがある程度やれているのがわかって、将来への不安はほんの少しだけ薄れましたよ。西松さんだって生きられる。ここはそんな優しい世界なんですね」
「本当に失礼だな。まぁ、本心と口に出す言葉が一致しているのは褒めてやる」
「嬉しくないんですけど。普通に嫌味を言っているだけですから、褒められても気持ち悪いだけです」
「ここは素直に喜べよ。俺は俺以外のすべての人間が嫌いで、嫌いな人間の中にもランクがある。俺が一番嫌いなのは、笑顔で甘い言葉を囁きながら腹の中では毒を吐きまくっている人間だ。お前は口にする言葉も腹の中も毒だらけでむしろ気分が良い」
「やっぱり嬉しくないんですけど」
西松と中身のない会話をしている間、拓海はあちこちから視線を感じていた。
西松が目立つ容姿をしているせいか、他の客がチラチラと見てくる。離れた席に拓海と同じクラスに在籍している女子生徒が座っていて、やはり興味深そうにしていた。だけど彼女は拓海に声をかけるでもなく、目が合うと慌てて逸らしていた。
月曜日に学校へ行けばおそらく質問責めにされるだろう。
一緒にいた男の正体を聞かれた時、なんて答えればいいのか拓海はわからなかった。