透明な世界で「生きる」を探した僕ら

「成瀬さんは、どうして僕の名前を知っているの?」
 これは、僕が昨日から疑問に思っていたことの一つだった。
 僕はクラスに友達がいなく、教室で名前を呼ばれる機会なんて滅多になかった。僕の高校生活を通して教室で名前を呼ばれた回数なんて、両手の指で数えてもおつりが出るくらいの回数だ。それも先生からのみである。だから僕は、クラスに、というかこの学校の生徒で僕の名前を知っている人なんていないと思っていた。
 それなのに成瀬さんは僕の名前を知っていた。それもフルネームで。僕はそれが本当に不思議だった。
 成瀬さんは僕の質問の意味がうまく理解できていないのか、考えるようなそぶりで黙り込んでいる。
 それから成瀬さんは首を傾げ、やっぱり不思議そうな表情を浮かべながら僕に言ってきた。
「私と山野くんは同じクラスだよ? 覚えてて当然だよ」
 僕は思わず成瀬さんから目をそらした。
 別に今まで、僕は寂しいだとかクラスに友達が欲しいだとか思ったことはなかった。たとえ一人でも、僕なりに不満のない高校生活を送ることができていたから。
 でもなぜか、今の成瀬さんの言葉が、僕にはとても嬉しく感じられて、胸の中にあった重りが一つ、外れた気がした。
「それに私、委員長だから」
 成瀬さんはそんな僕にかまわず、言葉をつけ足した。
 僕がもう一度成瀬さんのほうに目を向けると、彼女は少し誇らしげな笑顔をみせていた。
「いや、そうだね。ごめん、変なこと訊いて」
 彼女が慕われている理由が、少し分かった気がした。
だからと言って、これから彼女と仲良くしようとか言う考えは、僕の頭にはみじんもないんだけど。
 気がつくと夕日はほとんど沈んでおり、駅の蛍光灯がつきはじめた。僕の真上にある蛍光灯は寿命が近いのか、点滅を繰り返している。少し風が吹き始め、若干肌寒くなり始めた。
「まもなく、当駅に電車が参ります。危険ですので、白線の内側まで下がってお待ちください」
 電車の到着を知らせる構内アナウンスが流れた。線路の遠くのほうに、二つの光の点が見えている。
「ねえ、山野くん。私からも一つ、質問してもいいかな」
 成瀬さんは目を閉じて、口角をすこしあげた。
「うん」
 小さかった光の点が、徐々に大きくなってくる。構内には再び、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
 成瀬さんは目を開いて、それでも口元は微笑ませたまま、大切なものを預けるように僕に訊いてくる。
「君は何で、死のうとしたの?」
 電車のブレーキ音がうるさかったはずなのに、僕には成瀬さんのその言葉がはっきりと聞こえた。完全に停車した電車の扉が、炭酸が抜けるような気持のいい音とともに開くと、小太りなサラリーマン風の男性が一人降りてきた。その男性はスーパーの袋を片手にぶら下げながら、小走りで改札のほうへ向かっていった。
 僕も成瀬さんも、ベンチから立ち上がろうとしなかった。
 やがて電車の扉は閉まり、次の駅に向けて走り出していった。
「別に、大した理由なんてないよ。ちょっと魔が差しただけだよ」
「魔が差しただけで、山野くんは、人生を捨てようとしてたの?」
「……そうだよ」
 成瀬さんは「そっか」と言って小さくうなずいている。それからまた口を開いた。
「怖い、とかは思わなかったの?」
「そういう感情は、なかったよ」
 この時点で質問が一つじゃないんだけど、と心の中で突っ込みをいれてから、僕は話を続ける。
「怖いって感情は、場面によって意味合いが違ってくる思うんだけど、死ぬことに対して怖いって思えるのは、その人に生きたいって気持ちがあるからだと思うんだ」
「じゃあ山野くんには、生きたいって気持ちがないってこと?」
 何気ない日常会話をするような穏やかな口調で、成瀬さんは僕に聞いてくる。
「僕には……やりたいこととかなりたいもの、目標なんてものは何一つないからね。だからこれから先、絶対に生きたいとも思ってないよ」
「……そっか」
 そう言うと成瀬さんは、真剣な面持ちでしばらく黙り込んだ。西のほうを見ると、夕日は完全に見えなくなっていた。
「………よし!」
 突然、成瀬さんが勢いよくベンチから立ち上がった。そして、何かを決意したような顔で僕のほうに歩いてくる。
 思わず僕も立ち上がり、体を成瀬さんのほうに向けた。
 成瀬さんは、僕が目一杯手を伸ばしたら届きそうなくらいの距離で立ち止まった。
 僕たちの間に、妙な緊張感が走り出した。
「手伝ってあげる!」
「……………はい?」
 急な成瀬さんの宣言に、僕の耳がおかしくなったかと思いながら一応聞き返してみた。
「もう一回、言ってもらってもいいですか?」
 意識せずに敬語になってしまった。気温はそんなに高くないはずなのに、僕の額からは汗が滲み出てきた。
「だから、私が手伝ってあげる!」
「だから何を?」
 要領を得ない成瀬さんの発言に再び聞き返しながらも、なにか面倒くさいことになる気がすると僕の中のセンサーが反応している。そのくらい、目の前の成瀬さんが見せてくるこの笑顔が僕にはまぶしすぎた。
 それから成瀬さんは少し息を吸って、それを優しく大気中に返すように口を開いた。
「君の…山野くんの、『生きる理由』探し!」
「…………いや、別にいいよ」
 やっぱり成瀬さんはとんでもないことを言い出した。生きる理由?なにそれ、そんなもの僕には必要ない。
「だってこのままほっといたら、山野くん、また死のうとしちゃいそうだし。だから、生きたいって思えるような何かを、見つけてほしいの!」
 成瀬さんは嬉しそうに続ける。
「そしてその手伝いを、私がするの」
「……僕はそんな理由探さないし、手伝いも必要ないよ」
 僕が断ることを予想してたかのように、成瀬さんは「じゃあ、」と言って……
「命の恩人からのお願いってことで、どうかな」
「……それは、ちょっとずるくないかな」
「何もずるくないよ」
 成瀬さんの笑顔が、段々といたずらっ子のそれに見えてきた。
 命の恩人。そのパワーワードを出してこられると僕は何も反論できない。僕は諦めて軽くため息をついた。
「僕は何をすればいいの?」
「山野くんは、これから自分が生きたいって思えるような何かを探すの。その手助けを私がする。これが、私からのお願いだよ」
 成瀬さんは、真剣な目をしていた。
「…………分かったよ」
「よし!」
 成瀬さんは、今度は無邪気な笑顔をしていた。
「でも、なんで成瀬さんはそんなことをしようとするの?」
「そんなことって、なんで私が山野くんを手伝うのかってこと?」
「うん」
「うーん、そうだなぁ…………」
 成瀬さんは顎を手で支えて少し考えるそぶりを見せた後、何か思いついたように小さく、あ、と声を出した。それから成瀬さんは自分の腰に手を当て、数分前に見た気がする表情で僕を見つめながら言ってきた。
「だって私、委員長だもん」
「……それはまるで魔法の言葉だね」
「ふふっ、そうかもね」
 こうして僕と彼女の、僕の「生きる理由」を探す日々が始まった。
 この時僕たちは、これから僕たちが過ごしていく日々の本当の意味を、心のどこかで理解していたのかもしれない。
 僕には友達と呼べる存在が、少なくとも高校生活においてはいない。
 僕は中学を卒業してから家庭の事情により生まれ育った地を離れ、他県にあったこの高校に進学したため、ここには誰一人として知り合いがいなかった。第一、僕はクラス替えがないので、友達が欲しかったら入学した時点で同じクラスに友達をつくる必要があった。単純に僕がそれをしようとしなかっただけだ。
 一年生の五月を迎えるころには、すでにクラス内にいくつかの仲良しグループが出来上がっており、僕は一人になっていた。この時、友達をつくるには自分から行動しなきゃいけないんだなと学びつつも、友達が欲しいとも思っていなかったので、それからも僕は動こうとせず、今まで一人で高校生活を送ってきた。だから決して虐められているというわけでもない。
 逆にここまで友達がいないと『山野は一人でいるのが当たり前』という悪意のないクラスの公認事項みたいなものになっていた。そもそも僕の存在がクラスメイト全員に認識されているのかは、怪しいところではあるんだけど。
 とりあえず、これまでそんな存在だった僕が今、教室内にあるほぼすべての視線の的となっている。今まで僕の事なんか気にも留めてなかったクラスメイト達が、僕の方を見てざわざわしている。いや、正確には僕たちの方だ。
こんなことになっている原因は間違いなく、僕の机の前に立っている彼女にあった。
 僕は朝起きて、いつも通り学校へ来た。教室に入って誰にも挨拶せず、そしてされずに窓際の最後列の自分の席に座った。ここまでは確かにいつも通りだった。
 机に肘をつき顎を支えながら、窓の外の蒼天に描かれた飛行機雲をぼんやり眺めていると、机の前に誰かが来た気配がした。前の席の人が登校してきたのかと思ったが、その人の視線が僕に向けられている気がして、僕もそっちに顔を向けた。
「おはよう、山野くん」
 そこには、温容な笑みを浮かべる成瀬さんが立っていた。
「………おはよう、成瀬さん」
 一瞬、成瀬さんが誰にあいさつしているのか分からずに唖然としてしまったが、すぐにそれが僕へのものだと気づき、とりあえず挨拶を返しす。
「今日の放課後、暇?」
「暇………かな」
「じゃあ、これ観に行こっ!」
 そう言って、成瀬さんは嬉しそうに携帯の画面をみせてきた。そこには映画の情報サイトのようなものが表示されていた。最近テレビのコマーシャルなんかでよく見かける、現在上映中の感動系恋愛映画のものだった。たしか主人公の男の子が、不治の病に侵された女の子を助けようとする内容で、若者の間では人気を浴びていた。
 ただ、ここでいう若者の中に僕は含まれていない。僕はこの映画に全く興味がなかった。
 この時点で教室内の数人は、僕と成瀬さんに気づいてざわざわし始めた。クラスの中心人物である成瀬さんと、クラスの影でもある僕が、まるで友達のように話しているのだから驚くのも無理はないと思う。
 ただそんなことよりも、僕は今のこの状況に愕然としていた。
「成瀬さんがこの映画を観たいのは分かったけど、なんで僕と?」
「だって、昨日約束したじゃん。山野くんの生きる理由探しを手伝うって」
「それと映画を観に行くことに、まるで関係性が見いだせないんだけど」
「楽しいことをしてたら、生きたいって思うようになるかもしれないでしょ?」
 言ってることが滅茶苦茶だとは思ったが、なぜか得意げな顔をしている成瀬さんに対して、反抗するのも面倒くさくなりそうな気がした。
「生きる理由探しって、そういうことなの?」
「逆に、どういうことだと思ってたの?」
「……いや、それは僕もよくわかっていなかったけど」
「こういうことだよっ」
 成瀬さんはやっぱり笑顔でそう言った。これは完全に成瀬さんと映画を観に行く流れになりつつあるなと思いながらも、僕は成瀬さんに訊いてみた。
「一応訊くけど、もし僕が行かないって言ったら?」
「私、命の恩人」
「……分かったよ。観に行くよ」
「よし。それでこそ山野くんだ!」
 僕は一つため息をついて周囲を見渡すと、先ほど生じた違和感がいつの間にか教室中に伝染して、僕たちは教室内のほぼすべての視線を集めていた。成瀬さんは全く気にしている様子はなかったが、僕には一気に緊張の波が押し寄せて、今の無表情を崩さないようにするだけで精いっぱいになった。
 僕は注目されることが嫌いだ。これだけ言うと、まるで今まで注目を浴び続けたみたいに思うかもしれないが、全くそういう訳ではない。むしろその逆だ。注目を浴びたくなかったから高校生活では静かにひっそりと生きてきた。その結果友達はできなかったけど、同時に、平穏を手にすることができていた。
 それが今、成瀬さんと話しただけでこうなってしまった。改めて、人生は一瞬で変わってしまうことを思い知らされた気がした。
 僕は深呼吸をする。
「成瀬さん、もう少しで一限目が始まるよ」
「そうだね。じゃあ山野くん、放課後忘れないでね」
そう言って成瀬さんは嬉しそうに自分の席の方へ歩いて行った。やっぱり自分が映画を観たいだけなんじゃないか、と突っ込みをいれたくなったがこらえた。
 着席した成瀬さんの周りにはすぐに人が集まり、質問攻めをうけていた。「花菜ってあの子と…」「えー、いつからー」みたいな声が聞こえてくるので、僕との関係を訊かれているようだった。それだけなら別にいいのだが、質問するたびにその子たちがちらちらと僕の方を見てくるからあまりいい気はしなかった。成瀬さんは笑いながら「あはは、別にそういうのじゃないよー」とだけ答えていた。
「はい、席ついてー。日直、号令お願い」
 一限目を担当している、若干こわい教師が教室にやってきたので、成瀬さんの周囲にできてていた人だかりは、牧羊犬に追われる羊のようにそれぞれの席へと戻っていった。
 それからも、休み時間に入るたびに成瀬さんの周りには、人が群がっては質問を繰り返していたが、それも昼休みになったころにはおさまり教室内はいつも通りの景色になっていた。ちなみに、僕の方に何か訊きに来たりしようとする人は一人もいなかった。
 成瀬さんとも、朝の会話以降は特に絡むことはなかった。
 そんなわけで、朝の出来事を除けばいつもと何ら変わりない一日が過ぎてゆき、あっという間に放課後がやってきた。僕は掃除当番にあたっていたので、終礼後、教室に残って掃除をしていた。
 ふと教室を見渡すと、成瀬さんの姿が見当たらない。もしかしたら成瀬さんは僕との約束を忘れて帰ったのかもしれない、それか成瀬さんにとって朝の約束はただの気まぐれだったのかもしれない、そんな淡い期待が僕の中に湧き上がってきた。
「あ、掃除お疲れさまー」
 そんな僕の期待もむなしく、校門で僕を待っていた成瀬さんはひらひらと手を振っている。
 多分普通の男の子だったら、これは夢のようなシチュエーションに感じると思う。満開の桜の木の下、こんな美少女が自分のことを待ってくれているのだから。でもあいにく、僕にこのシチュエーションは喜べなかった。たしかに目の前の状況だけ見たら多少はドキッとするところではあるけど、僕が今からしようとしていることは命の恩人と興味のない映画を観に行くことだ。正直、笑いさえこみあげてくる。
「帰ったのかと思ってたよ」
「そんなわけないよ。だって山野くん、すごく映画観に行きたそうにしてたじゃん」
「……僕がいつ、そんな素振りみせたかな」
「ほら、……昼休みとか?」
「なんで疑問形」
「まぁ、そんなことどうだっていいよ」
 成瀬さんは両手の手のひらを合わせ、気持ちのいい音を出した。
「じゃ、山野くんの生きる理由、探しに行こうか」
「ただ映画を観に行くだけじゃないか」
 一通りの会話を済ませ、僕たちは駅へ向かい歩き始めた。
 少し不思議な気分だった。学校から駅につながるこの道を誰かと一緒に歩くことは、僕にとって初めての経験だった。歩いている道や見えている風景、周囲はいつもと変わらないのに、隣を誰かが歩いているというだけで、まるで初めて通る場所のように感じた。まだ少し肌寒い風が自然の香りをはこんできた。
「山野くんって、部活動とかには入ってないの?」
「入ってないよ。特に、やりたいこともなかったし」
「へー、ちょっと意外かも。なんか、スポーツとかやってた雰囲気あるのに」
「………成瀬さんは部活動、入ってないの?」
「私も入ってないよ」
 それから成瀬さんは苦虫を噛み潰したような笑顔をみせた。
「勉強、しないといけないから」
 なるほどと思った。たしかに、うちの高校で部活動しながらいい成績をとり続けるのはかなり難易度が高い。とくに成瀬さんは医者を目指しているので、部活動に費やす時間はないはずだ。
「まぁ、山野くんも部活動入ってないんなら、休日も連れまわせるしよかったよ」
 成瀬さんはすぐにいつもの笑顔を取り戻し、恐ろしいことを口にした。
「やっぱり僕、部活動入ってるよ」
「何部?」
「……ワンダーフォーゲル部?」
「うちの高校にそんな部活動はないでーす」
「はぁ……」
 そんな僕をよそに、成瀬さんは上機嫌に歩を進めていった。
 少し歩幅が小さい成瀬さんのペースに合わせて歩いていると、いつもより駅に着くのが遅くなった。それなのになぜかいつもよりも早く着いた気がしたのは、多分気のせいだろう。
 この駅から電車に乗り、僕の家がある方と反対の方向へ三駅行ったところが、この辺りではわりとにぎわっている繁華街となっていた。駅の周辺には大型ショッピングセンターや多数の飲食店、僕たちの目的地である映画館もそこにあった。
 駅を出て空を見上げると、少し薄暗くなってきていた。今日からは普通に授業が行われていたので、学校が終わった時間は夕方ごろだった。夕日はビルに隠れて見えなくなっていた。
「さぁ山野くん! ハンカチの準備はいいかな?」
「僕は別に泣く予定はないよ」
 僕たちは映画のチケットを買って、成瀬さんがポップコーンを食べたいと言い出したので売店の列に並んでいた。
「こんな時間に食べて、帰ってから晩ごはん食べれるの?」
「その点は大丈夫だよ。今日は友達と食べて帰るって言ってるから」
「僕、それ初耳なんだけど」
「じゃあ、今言った」
 誇らしげにこの場で約束を取りつけてきた成瀬さんに言い返す気力もわいてこず、「わかったよ」とだけ答えると、嬉しそうに「ありがと」とだけ返してきた。それから僕はハッと思い出し、ポケットから携帯電話を取り出して、母さんに晩ごはんは不要とのメールを送った。
「もう入る?」
 無事にポップコーンも買えて、そろそろ上映開始の時間になろうとしていた。
「僕トイレ行ってくるから、先に入ってていいよ」
「迷子にならないようにね、三番シアターだからね」
 茶化しているのか本気で言っているのか分からない表情でそう言うと、成瀬さんは先に中へ入っていった。
 僕は周りをみわたして、近くに見つけたソファに腰掛けた。なんだか、久しぶりに自分だけの時間を手に入れた気がした。今日学校が終わってから、成瀬さんと一緒にいた時間はほんの一時間ちょっとのはずなのに、もう長い間、成瀬さんと時間を共にしてきたような感覚だった。
 さっき買ったチケットを見つめながらそんなことを考え、僕は映画館特有の柔らかい暗さに包まれていた。
 別の映画の上映が終わったようで、中からたくさんの人が出てきた。それといれかわるように僕は中へ入り、柔らかい絨毯の上を歩きながら三番シアターを目指した。
 シアタールームに入ると中は一段と暗く、さらに今スクリーンに映し出されている映画の宣伝が丁度暗いシーンだったので、僕は座席までの階段を上がりながら自分が今どこにいるのかが分からなくなった。
「山野くん、こっちだよ」
 僕を呼ぶ声が聞こえたと同時にスクリーンも明るくなり、自分が立っている場所と座席の位置をしっかりと把握することができた。
「ねぇ山野くん、さっきから映画の宣伝がどれも面白そうなのばっかりなんだけど」
「まぁそう思わせるのが宣伝の役目だからね」
 先に入って座っていた成瀬さんの右の座席に腰掛け、心地のいい体勢を探しながら静かに返答した。
 僕が座って間もなく、ながれていた宣伝が終わり、いよいよ本編が始まりそうな雰囲気になってきた。
「そろそろ始まりそうだね」
「そうだね」
 それから成瀬さんはスクリーンを見たままそっとつぶやいた。
「じゃあ山野くん、また二時間後に」
「…うん」
 上映が始まった。
 映画は、僕が思っていた内容とほとんど同じものだった。主人公のA男はちょっと冷たい感じの高校生で、ある日、同じ高校に通っているB子が不治の病にかかっていることを偶然にも知ってしまう。それまで全く接点のなかった二人は、「秘密を共有している」という関係で行動を共にしていくようになり、やがてお互いに惹かれ合っていくようになる。しかし、B子の寿命はもう長くはなかった。A男は何とかB子が死なないようにできないかと考えるも、B子の体は日に日に弱っていった。そして物語は、クライマックスである二人の別れのシーンになった。
『ごめんね、A君。つらい思い、させて』
『俺の方こそ、本当にごめん。死なせないって、約束したのに』
『いいんだよ。私はA君と出会えたことが、短い間だったけど同じ時間を共有できたことが、本当に幸せだったから』
 スクリーンの中では、涙を流すA男と衰弱しきったB子が夜景を見下ろしながら会話している。周囲からは、鼻をすする音が聞こえ始めた。僕も感動こそしていたが、目から涙は出てきてくれなかった。
『だからねA君、最後は笑顔で見送ってほしいな』
 ふと、尻目に左側を見た。
 僕は思わず目を見開く。
 造形物のように整った横顔、宝石のように輝く目からこぼれた雫は頬に一筋の線を描き、重力にその身をゆだねながら下に落ちていった。成瀬さんは泣いていた。その姿は、流れ星やオーロラのような、自然が織りなす神秘的な光景に近い感じがした。
 本当に不思議に思う。なんでこんな子が、僕なんかのためを思って行動してくれるのか。
 成瀬さんは、いったい何を思っているのか。何を考えているのか。それはもしかしたら、僕には一生理解できないことなのかもしれないと思った。
 結局、最後まで僕は泣かなかった。

「いやー、ほんとにいい映画だったねぇ」
「そうだね」
「私はやっぱり泣いちゃった」
「残念ながら、僕は泣けなかったよ」
「……山野くんって、もしかして血通ってないの?」
「……一応通ってるよ」
 映画を観終わった僕たちは映画館を出て、駅に向かう途中にあったファミレスに入っていた。
 正直、あまりおなかは減っていない。自分が食べたいと言い出したのに、映画に集中しすぎてほとんど手がつけられなかったポップコーンを、成瀬さんの代わりに僕が食べる羽目になっていたからだ。
 僕は比較的軽めのものを注文し、成瀬さんはその見た目に反して結構多くの料理を頼んでいた。
「山野くんはどのシーンが印象的だった?」
 水の入ったグラスを右手でゆっくり回転させていると、成瀬さんが訊いてくる。
「しいて言うなら、あのシーンかな。A男が初めてB子に告白して、振られた場面」
「あー、あのシーンは切なかったよね。B子もA男が好きだったのに、自分が死んだ後のA男のことを考えての決断だったもんね」
「逆にあそこで一回振ったからこそ、そこからの展開が面白くなっていったっていうのはあると思うけど」
「ほんとにそれだよね、A男を愛してるって気持ちと、でも悲しませたくないって気持ちの狭間で葛藤してるB子には思わず感情移入しちゃったよ」
「まぁ結局最後はそのどっちの思いも達成できたって感じだったからよかったんじゃない………ってなんでそんなにニヤニヤしてるの」
「え、あ、いや。山野君ちゃんと映画観てたんだなぁって思って」
 成瀬さんがニヤニヤと僕の方を見てくるので、なんだか少し恥ずかしくなってグラスに残っていた水を一気に飲みほした。
「観に来てよかった?」
「……まぁ」
 よかった、と言って成瀬さんは微笑んでいた。