――私は私の名前が嫌いだ。
 長ったらしいし、そして読みずらいからだ。おまけに女の子らしさもない。
 親は、子の名前にはいろんな意味があるからと言っていたが、それほどまでに名前にこだわっているのでは、名前を基準に物事を回さなければならなくなると思う。それほどまでに私の名前にはいろんな意味が込められている、らしい。まともに向き合っていなかったのもあり、調べたこともない。
 だからこそ、高校生になるまで一人として私を下の名前で呼ばなかった。
 別に悲しくはない。そして、親を恨んでいるわけではない。
 行動を見直してほしいとか、そういうのじゃない。ただ、私が子供を授かったとき、せめて子供が困らないように無難に名前をつけようと自戒しているだけだ。
 それだったはずだ。あの時までは。
「それじゃあ次、大森さん」
「はい」
 高校初めのホームルーム、自己紹介で、次が私だ。
 呼ばれて立ち上がり、私は自己紹介する。
「大森…………です。これからお願いします」
 私はその時でさえも名前を出す恥ずかしさと、名前を忘れられた時の恥ずかしさを受けないようになるたけ下の名前を小さく言った。きっと誰にも聞こえていないと自負した。――その時は。
 彼は違った。
「谷正人です」
 そう名乗った少年は、こちらを一瞥して席に着いた。――それも一瞬、見たかどうか錯覚するほど、一瞬。
 だが私はしっかりと見られたと感じた。これでも動体視力は優れている方だ。
 彼はおちゃらけた様子でもなく、一見するとがり勉なんかに見える、いわゆる真面目系な見た目だった。
 彼は涼しい顔をしていた。それが無性に自慢しているように見えてムカついた。
 ――一通り自己紹介が終わり、今度は担任の先生が自己紹介をして、ホームルームは終わった。
 それからの時間は――もちろんと一概に言ってしまえれば楽なのだが、そうもいかないが――授業はなく、やはり楽だと感じてしまった。
 残りは昼休みをまたいで、学年集会があるだけで終わりだ。
 高校最初の昼休み。本来ならだれかを誘って食堂へと行きたいものだが、私は要領が悪く、誰かの名前を覚えるというのは極度の苦手なのだ。教師とか絶対向いてないと思う。
 はぁとため息をついて一人で食堂へ向かう。きっと教室にいても、私の名前を覚えている人なんて片手もいないだろう。
 おかしいな、漢字で覚えるのは簡単だ。なのに、読みがあんなに難しいのか。
「隣、いいですか」
「え――」
 私は、理解できず少し戸惑っていたら、返事を別に聞いてはいないという風に”彼”は私の隣に座ってきた。
「え、っと……?」
 もちろんというには簡単だが、とても失礼なことに私はその人の名前を見事に忘れてしまっていた。
「谷正人。それが僕の名だ」
 ――なんだかクサい喋り方だ。こいつはあれか、ムカついたやつ。
「私は大森。よろしく」
「――下の名前は教えてくれないんだね」
 ――こいつ、私の気持ち考えてんの?
「別に。知りたくもないでしょ。特に仲良くなる間柄じゃないんだから」
「万年青、だったっけ?」
「!」
 何でこいつ、知って……。
 いや、焦るな、聞こえていただけかもしれない。
「覚えてたんだ……」
 あえて聞こえてたんだ、と言わないようにする。おちょくられるかもしれないし。
「そりゃあ覚えるさ。誰よりも特徴的な名前だったから」
 ――こうやって私が傷つくのを知らない。こいつは。
 知らないのが当たり前。そう思うものだが、無性に腹が立つ。感じさえ知らないくせに、よく言える。
「確か一万円の”万”に、年間の”年”、”青”だった気がする」
「! へぇ、知ってんだ」
 それは素直に驚いた。まさか初見で私の漢字をあてるやつがいるなんて。
「知ってる人は知ってるでしょう。僕はたまたまですよ」
 そして、いつの間にか食べ終えていた食器を持って、ごちそうさまと言い残し、彼は――正人は私の元を去った。



 私は、彼とはそれっきり、だと勝手に思い込んでいた。
 彼はあれっきり私になれなれしく私のことを「万年青さん」と呼び続けた。ことあるごとにそう呼ぶので、――たぶんうれしいことに――私の下の名前は瞬く間に広まっていった。書き方自体は簡単なので、読み方さえ気を付ければ誰でも呼ぶように、また書くようになった。元凶は彼のせい。
「どうして私を下の名前で呼ぶの?」
 彼とももう半年近く昼休みを食堂で過ごしている。
 何を思っているわけでもなく、ただ隣に来る彼を私が拒まないだけの関係。
「そんなに気になるなら教えてもいいが――理由は簡単だ。女性というのはほとんど、ほとんどの人が結婚したら苗字が変わるものだろう? その時に名字が違ったら恥をかくだろうと中学の時に気づいて以来、女性の名前は下で呼ぶようにしている。なれなれしいと思われても、かまわない奴には関係ないだろうし、よく呼ぶ仲にはそれなりに呼べる、そして呼ばれる耐性が付くだろう?」
「長ったらしい」
「それに――」
 まだあるのか。
「――君も、友達が欲しかったんじゃないか? 名前になんて縛られず、もどかしさも感じないような友達が」
 覗き込まれて驚いたというのもあるが、私はその顔に――彼が初めて微笑んだ顔に――きゅんとしてしまった。
 顔は赤くなっていないが、心臓がうるさい。
「きょ、今日はあんまおなかすいてないかもっ」
 そう言って私は残っていた食べ物を彼に押し付けてその場を後にした。
「大丈夫、大丈夫……」
 私は、明日からも彼といつも通り昼食できると、自分を律した。
 恋愛なんてしてないと、そう思うために。



 雨の日。彼は休みだった。
 昼休みは一人だった。
 いつもは少し遅れてきていた彼も、来なかった。
「これが普通なんだ」
 彼がいないだけ、ただそれだけのはずなのに。
「なんか、しんどいな……」
 胸がはやる気持ちの正体を、すぐにでも知りたかった。



 この気持ちは、恋、と呼ぶにはあまりに歪すぎる気がする。
 一緒にいたいと聞かれれば、部分的にと答えるしかないし、ずっと彼のことを考えてると聞かれれば、そうでもないと答えるしかない。
 これは――告白してみればわかるものだろうか。
 そう思うと、好奇心がわいてくる。
 とりあえず、一年近く一緒に昼食を共にして分かったのが、彼はがり勉なんかではなく、ただの本好き、文学少年だったこと。それぐらいだ。
 今日も彼が来る。その時にしよう。
 ――どう返事されても、きっと大丈夫だから。
「隣――」
「ちょっといいかなっ」



 少し強引だったかもしれない。私たちの昼休みは、今日はいつもと違うものだ。
 定番中の定番、体育館裏のスペースで私たちは向き合っている。
「あの、さ」
 ――だめだ、私。思ったように口が動かない。
 大丈夫、大丈夫、なはずなのに。
「あの、君が言いたいことあるって言ってたけど、ないなら――」
「あるから!」
「僕が言っちゃうよ?」
「――え?」
 そう言って彼は一歩こちらに寄ってきて、恥ずかしそうに言った。
「君のことが――好き、になったかもしれない……」
 語尾に行くほど声がちいさくなっていたが、それが本心を表していた。
「えっえっ……?」
「君の名前は花だ。その花の花言葉は、たくさんあるが、いくつかに絞ろう。
長寿とか、相続とか……。君はいつか言っていたね。名前を基準に物事を回すって。その、存続とか、僕がいないと、成立しないっていうか、なんていうか……」
「――。ふふっ、あはは」
「なんだよ」
 むすっとする彼を放って、私は笑った。ちっぽけな悩みだなとか思ったわけじゃなくて、ただ。
「二人とも、おんなじこと考えてたんだ」
「――! じゃ、じゃあ」
「確かに私だけじゃ、長生きできないかも」
 ――私はこの名前が、嫌いだ。
「だから――これから、お願いね」
 ――だからこそ、そばに置いておくのもいいかもしれない。
 愛せるように、いつか、愛おしいものになるまで。