フロアラグの上に脱ぎ捨てていたジーパンを履くと、大雅《たいが》はローテーブルの前にどっかり腰を下ろし、傍らの煙草に手を伸ばした。
ジッポを開けるカチン、という金属音が、しんとした部屋に響く。
そして火を付けると、ゆっくり吸い込んだ煙を、やっぱりゆっくりと吐く。
ベッドの上でただそれを見ているだけの、この沈黙の時間が一番嫌い。
さっきまでは夢だとでも言うように、熱が冷めきった時間が静かに重くのしかかる。
「シャワー浴びてくるね」
その沈黙を破って私が言うと、彼はこちらに視線を投げて「ん」とだけ答えた。
今日も、いつもと同じ。
特別なことは、きっと起きない。
軽くため息をつきながら、蛇口を捻った。
想定よりも温度の高いお湯が、シャワーヘッドから勢いよく飛び出して、思わず「あつっ」と小さく声を漏らした。
でもそんな声なんて、シャワーの音に掻き消されて、大雅には届かない。
やっぱり今日も、特別なことは起きない。
「んじゃ、俺帰るよ」
バスルームのドアの外から、いつもの台詞。
「うん、おやすみー」
私もいつもと同じ言葉を返して、熱いシャワーを頭から被った。
中学の同級生だった大雅と再会したのは、2ヶ月程前のことだ。
その日私は、旦那と喧嘩したという職場の先輩の酒に付き合わされ、散々愚痴られ、おまけにしこたま飲まされて、まあ早い話、結構酔っ払っていた。
先輩にやっと解放された時には、軽く千鳥足。
フラつきながら、駅へ続く大きな通りを歩く。
この辺りはオフィス街だ。
無駄に高いビルばかりが立ち並び、業務終了と共にその明かりが消えていくから、なんとなく薄暗いし、人通りも少ない。
だから、盛大に油断していたのだ。
ちょうど駅前に着いた辺りで、突然、ドンッ! という衝撃が体を襲った。
「いたたた……」
思わず尻もちをつくと、
「大丈夫ですか?」
私の目の前に、すっと手が差し出された。
どうやら前方から歩いて来た人にぶつかってしまったらしい。
「す、すいません。大丈夫で……」
答えながらその手の主を見上げる。
折しも、大きなトラックが道路を通り過ぎ、その人物の顔がヘッドライトで明るく照らされた。
「……!」
思わず息を飲む。
心臓が止まるかと思った。
「…………もしかして、大雅?」
大きく大きく見開いた、彼の猫みたいな目が、私を真っ直ぐに捉える。
「お前……瑠奈《るな》?」
中学を卒業する頃に、うちの親が隣の市にできたマンションを購入し、そこに移り住んだ。
高校は別で、大雅に全く会わなかったし、おまけに卒業して以来、私は家を出て一人暮らし。
だから、かれこれ10年間、ずっと会っていなかったのだ。
「久しぶり、瑠奈」
変わらない、人懐っこい笑顔。
突然の再会に、もう十分過ぎるアルコールが、余計にクラクラと脳に回った気がした。
南 大雅《みなみ たいが》、彼は私の初恋の人だった。
そこから先は、あまり覚えていない。
折角だから飲みに行こうか、という話になって、その辺のバーに入った気がする。
きっと10年ぶりの再会で、私は舞い上がってしまっていたのだろう。
ただでさえ酔っ払っていたのに、そこからまた勢いよく酒を煽ったせいで、バーでどんな話をしたのかも殆ど覚えていないのだ。
昔と変わらない笑顔だとか、綺麗なアッシュグレーの髪だとか、ジッポライターで煙草に火をつける仕草だとか、そんなことが断片的に記憶にあるだけ。
私はすっかり泥酔していたのだと思う。
だから、何がどうなったのかわからない。
気づいたら私はラブホテルのベッドの上にいて、大雅に抱かれていた。
情けないことに、その行為の記憶さえも朧げだ。
翌朝、恥ずかしさと少しの気まずさと、二日酔いによる体調不良の中、そそくさと身支度を整えてホテルを出た。
でも別れ際、大雅が私に言った。
「次いつ会える?」
10年前、ただの片想いのまま何もできなかった初恋が、突然ハッピーエンドに向かい始めた。
そう思ったのだ、あの時は。
バスルームを出た私は、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、その場でごくごくと飲んだ。
熱いシャワーで少し逆上せ気味になった身体に、キンキンに冷えたビールが痛いくらいに染みていく。
風呂上がりのビールだなんて、いつの間にこんなことが日課になってしまったのだろう。
缶ビールを片手に部屋に戻る。
八畳の部屋のど真ん中に置かれたローテーブルの前、白いラグの上にどっかりと腰を下ろした。
体がまだ火照っているから、長いラグの毛が少し鬱陶しい。
ビールをひと口飲んで、電源が入りっぱなしのノートパソコンを開いた。
私はネット小説を書いていて、寝る前のこの時間は大抵クリエイターの活動で費やすのだ。
ロック解除のパスワードを打ち込む。
『taiga0723』
パソコンだけじゃない、私のネット上のあらゆるパスワードは、大雅に再会する前からずっとコレ。
銀行やらスマホのロックやらの暗証番号は『0723』だ。
パスワードが初恋の人の名前や誕生日だなんて、いい年こいてバカみたい。
再会してからは尚更思う。
本当にバカみたい。
初恋と言えば、私が小説を書き始めたのは、大雅に初恋をした中学生の頃だ。
恋というものを知ったばかりの私は、両思いのひたすら甘い絵空事ばかりを、大学ノートにひたすら書きなぐっていた。
何冊にも及ぶノートは今でも大切に取っておいてあるが、たまにふと読み返してみると、そのあまりの夢物語っぷりにいつも吹き出してしまう。
当時の私の将来の夢は『小説家になりたい』だった。
恥ずかしげもなく卒業文集にまで書いた。
あんなに拙いただの妄想日記みたいなものを書いておきながら、随分大それている。
でも、さすがに低クオリティの自覚があったので、小説を書いていることは公言していたものの、「完結したら読んでね」なんて言って逃げていた。
そういえば、大雅に再会してほどなくした頃、彼が唐突に、
「瑠奈ってさ、まだ小説書いてる?」
と尋ねてきたことがあった。
「あーうん。まあ時々」
「そっか、よかった」
大雅は安心したように笑った。
何が「よかった」なのかわからない。
でも、小説のことを、当時の私のことを、初恋の人が覚えていてくれていたというのはなんとも嬉しいものだ。
とは言え、実は中高生当時からずっと書き続けていたわけではない。
小説家になりたかったはずの私の執筆活動は、高校生になってから徐々に下火になり、大学入学と共に完全に沈黙した。
サークル、バイト、彼氏、友達……現実は日々忙しく、とても充実していて、小説のことなんてすっかり忘れてしまったのだ。
これは最近自覚したことだが、私はどうも、現実が満たされない時に小説を書くらしい。
中学生の頃、大雅に片想いしていた私は、大雅と両想いになりたいという夢を小説にぶつけていた。
そして就職して、仕事と家を往復するだけの退屈な日々が始まった私は、気づけばまた小説を書いている。
大学時代の彼氏とは、就職後ほどなくして別れた。
その後、出会いがないわけではないが、どうも需要と供給が噛み合わない。
決して私の魅力が足りないわけではない…はず。
とにかく、社会人になって以来、恋愛はご無沙汰なのだ。
恋がしたいという欲求が満たされないから、恋愛小説ばかり書いてしまう。
しかし不思議なことに、社会人になった私が書いたものは、何故か中高生が主人公のピュアでハッピーな物語ばかりだ。
しかも、主人公の恋の相手は、そうと意識して書いたわけでもないのに、どれもこれも大雅にそっくり。
どうしてこうも大雅に拘るのか。
私は実らなかった初恋を、今更ハッピーエンドにでもしたいのだろうか。
そんなバカな、もう10年も会っていないのに。
そう思っていたら、大雅に再会した。
……初恋の続きは、ハッピーエンドとはほど遠くて、思っていたよりも苦い。