放課後、前野先生に呼び出された俺たちは社会科準備室に来ていた。

「え、取り壊し…?」
「折角、お前たちに綺麗にしてもらったのに、すまないな…」

なんとなく予感はしていたけど、嫌な予感ほどよく当たるって、なんでだろう。
前野先生の話によると、やはり幽霊小屋は取り壊されるらしい。

「でも、どうしてですか?今までも、ずっと使われないのに残ってたじゃないですか」

俺の質問に、前野先生は口を固く結んだ。視線を逸らし、苦い顔をする。

「…理事長にも、考えがあるんだろう」

いつものデカい声はどうしたのか、前野先生にしてはなんとも頼りない、小さな声でそう呟いただけだった。

来月から寮生活に戻れるよう、今月末には移動だと言われ、部屋を出る。
覚悟はしていたけど、やっぱり腑に落ちない。
隣の陸を見ると、黙ったまま何か考え込んでいるようだった。
やがて、独り言のように口を開く。

「…取り壊すことになったのは、俺たちのせいなんだろうか?」
「え?」
「分からないけど…、もしかしたら、篠岡の言う通り…」

そこで言葉を切り、陸は再び黙ってしまった。
横顔は、硬い表情。

「いーや、それなら最初からあそこを使わせないでしょ。地下のことは、知らなかったと思う」
「…そっか、それもそうだな。」

少しだけやわらかな空気を取り戻して、小さく微笑んだ。陸の頭を軽く叩く。

「ほら、明日は小日向さんも来るし、帰って片付け始めよーぜ。お前のゆげまるグッズ、寮に戻ったら、しまうところねーからな?」
「え!?」
「『え!?』じゃねーよ」

目を見開く陸に、思わず声を出して笑った。

「あー…、特に、抱き枕は、早く片付けたほうがいいと思うなー?」
「なんでだ?」
「………」

俺と陸の間にあって邪魔だからでしょーが!
何キョトンとしてんだよ。

「……ゆげまるがそう言ってた」

ゆげまるのせいにしてみる。
ゆげまるの言うことなら、陸もきくかもだし?

「楓…」

眉を下げ、悲しげに俺を見る陸。

「抱き枕は喋らないぞ…」
「うるせーよ!」





翌日。小日向さんとの、約束の日。今日も窓の外は雨が降っている。

「小日向さんのマグカップ、まだ上だっけ?取って来る」
「ありがとう。頼んだ」

使い慣れた階段を上って、書斎に入る。なんだかんだこの部屋は、アルバムを見つけた時以来入っていない。
そうだ。このアルバムも、小日向さんのものなら一緒に渡したほうがいいかも。
そう思って、アルバムを手に取ると何かが床に落ちる。

「…手紙?」

一枚の、書きかけの手紙。
広げられたままの便箋に、悪いと思いながらも目が文字を拾ってしまう。

「これ…小日向さん宛だ」

差出人の名前は書かれていないけど、宛先は小日向さんのようだ。
「あの言葉は忘れて欲しい。」「もうあんなことは言わない。」「もう一度、ここに戻ってきて欲しい。」
便箋に並ぶ言葉は、ひたすらに小日向さんに謝罪している。
短い内容にも関わらず、読んでいて胸が切なくなるほどだった。

「楓、大丈夫か?それは何だ?」

戻りが遅い俺を心配したのか、部屋に入ってきた陸が俺の手元を覗き込む。

「小日向さん宛の手紙みたいなんだけど、差出人の名前がないんだよね」
「…ああ…」

他人の手紙だと分かると目を逸らす陸。
ブレずに真面目。そういうところ、陸らしいよな。

「差出人が分からないなら、返しようがないな。捨てるのも、忍びないが…」
「そーだね」

手の中の紙切れを眺める。
切々と綴られた言葉。きっと、この誰かは、小日向さんと喧嘩でもしたのだろう。
感情を詰め込むように、丁寧に書かれた文字。
便箋から、書いた人の手の温度が伝わるようだった。

「…俺、この手紙書いた人の気持ち、少し分かる気がする。」

呟いた言葉に、陸が俺を見る。

「こんなに切実に気持ちを吐露した手紙を、渡せなくなる気持ちも」

便箋を机に置き、丁寧な文字を指でなぞる。

「素直に伝えて、それで許されなかったら、もう本当に終わりだって、思っちゃう。立ち直れない。俺は、陸だったから、自分自身を打ち明けることができた。でも…、陸に出会ってなかったら、…本当の気持ちを伝える勇気は、出なかったと思う」
「楓…」

陸の黒い瞳を見つめる。

「陸、この手紙を受け取るかどうかは、小日向さんに託さない?小日向さんなら、きっと心当たりがあるだろうしさ」

陸は黙ったまま、でもしっかりと頷いた。
同時に、玄関ドアがノックされる音。小日向さんだ。

マグカップと、手紙を持って下に戻り、小日向さんを迎え入れた。

「お邪魔するね。…わあ、なんだか懐かしいなぁ」

部屋に入り、暖炉前で懐かしそうに目を細める小日向さん。
手の中の便箋を、そっと握り締めた。

「君たちが綺麗にしてくれたんだね。この部屋もきっと嬉しかっただろうねえ」
「中、少し見て行きますか?」
「いいや、君たちの生活スペースにもなっているんだろう?ここだけでいいよ」

そう言って、窓から外の景色を見る。小日向さんは、雨に濡れる緑を、優しく見つめていた。

「小日向さん、これ、例のマグカップです」
「ああ、ありがとう。これも…、大切な思い出…なんだ。ちゃんと持って帰ろうと思ってね」
「よかったです。この小屋が取り壊される前に、このマグカップが持ち主のところに戻って」

清々しく言う陸の言葉に、小日向さんは目を見開いた。

「え…取り壊し?」
「はい。理事長が、そう決めたらしいです」

俺と陸の顔を呆然と見て、口を開いたまま、また窓の外へ視線を移す。小日向さんはソファに腰を下ろすと、静かに「そう…なんだね…」とだけ呟いた。

「小日向さん、あと、これを」

小日向さんに近づき、先ほど見つけた手紙を差し出す。
小日向さんはぼんやりとその手紙を見た。

「2階に置いてあった、小日向さん宛の手紙です。…書きかけで、封もされていなくて、ごめんなさい、俺たち、読んでしまいました」
「…その字…、」

手紙を持つ俺を見上げる。

「差出人の名前は書いてなくて、あえて渡さなかったものなら勝手に渡すのもどうかと思ったんですが…。」
「…」
「胸がいっぱいになるほどの気持ちが詰まっていて、このまま捨てることもできなくて」

ゆっくりと小日向さんの手が手紙に伸びる。その手は、震えている。

「…もらっても、いいかな。」

手紙に少し皺の濃い、小日向さんの指がかかる。カサっと便箋が鳴った。
受け取った手紙を読んで、小日向さんは、そっと目を閉じた。

「ああ…君たち…、」

苦しげに息を吐いた。

「こんなこと、頼んでしまって申し訳ないが…、君たちに頼んでもいいかい?」

いつも優しげな小日向さんの目は、涙で潤んでいた。
切実なその表情に、俺たちは息を呑む。

「この小屋の取り壊しをやめるよう、リアを…、エリアス理事長を説得して欲しい」






学校全体を見渡せるこの理事長室から、外を見る。窓の外は、雨が降っている。
しとしとと降り続く雨。こんな日は、つい、あの小屋の方を見てしまう。
煙が昇っていないか、確認してしまうんだ。

冷たい窓枠から手を離し、プレジデントデスクに戻る。机上には愛する妻と娘の写真。
焦茶色の重い引き出しを開けると、一枚の写真を取り出した。
写っているのは、学生時代の自分と、彼。修学旅行の時のものだ。彼との写真は、この一枚しかない。
その写真を、少し見つめ、くしゃっと丸める。勢いのままゴミ箱に入れようとして、手が止まった。
いつも、ここで止まってしまう。
ため息をつき、また写真のシワを伸ばす。
理事長として、夫として、父として。もうこんな過去の思いは、いつまでも持っていてはダメだと頭では分かっていながら、いつまでも捨てられない。
唇を噛んだ。

視線は再び窓の外へ。
記憶の中の景色と重なる。

そこには、一筋の煙が立っている。
あそこは、もともとこの学校の創設者が、家族と住むために建てた家だった。戦禍を乗り越え、何度か建て替え、今のログハウスになったと聞く。

自分が日本に来たのは、小学生になる頃。両親の離婚で日本に来て、特異な見た目から、学校には馴染めないでいた。
中学も、あまり行けなかった。

高校生になって、自分の叔父が理事長を務めるこの学校に入学。

そして私は、小日向晴彦と出会った。


高校生になっても、目立つ見た目と、理事長の親戚であることから、周りから浮く存在に変わりなかった。
寮の同室者とも仲良くなれず孤独な生活が続く中、ある日、学校の敷地奥から煙が昇っているのを見つけた。誘われるように向かった先には、小さなログハウス。
私に声をかけたのは、この学校の教師だった、晴彦だった。

「おや?見つかっちゃったね。ちょっと上がっていくかい?ココアを入れてあげるよ」

「他の子には、内緒だよ」と優しく微笑んだ晴彦の顔を、今も鮮明に覚えている。


晴彦の父はもともとここの男子寮の管理人で、このログハウスで生活していた。寮の建て替えで管理人室が移り、ログハウスが無人になったところを、晴彦はたまにここにやってきて、手入れといいながら暖炉に火を入れ、憩いのひとときを堪能していたらしい。

「暖炉の火を見ると、なぜか心が洗われていく気がするよね」

コーヒーの入ったマグカップを手に、晴彦はよくそう言った。
私にはよく理解できなかったが、ただ、晴彦と暖炉の火を見ながら過ごす時間は、とても居心地が良かった。

日本に来て、初めてだった。こんなに安心できる時間は。

それ以来私は、煙が昇ると、ログハウスへ足を運ぶようになった。
晴彦は温かい人だ。私は、父や兄のように晴彦を慕った。今まで誰にも話せなかったことを、晴彦には、たくさん話した。晴彦は、私の話に一緒に笑い、涙し、怒り…。
そんな晴彦に、私はいつの間にか、信頼以上の気持ちを抱くようになっていた。


「リア、聞いてくれ!」

私が高校3年生になった頃だった。いつものようにログハウスを訪ねた私を見るなり、晴彦は声を弾ませた。

「実は、結婚することになったんだ!」

目尻を下げ、幸せそうな表情を見せる晴彦。覚悟はしていたものの、その瞬間、私は膝から崩れるような感覚がした。

「…おめでとう、先生」
「ありがとう、リア」

必死に足に力を入れて、祝いの言葉を送る。
視界はぼんやり霞んだ。

いつの間にか私は、晴彦を自分だけのものにしたいと思ってしまっていたことに、気付いた。
晴彦がその微笑みを私の知らない誰かに向け、その声で誰かに愛を囁いているのだと思うと、全身が焼け付くような嫉妬と悲しみに襲われた。

しかし、私と晴彦は、生徒と教師の関係。更に同性だ。

こうやってログハウスで会う時間だけは、私だけのものだと、自分を慰めるのが、私のできる精一杯のことだった。


晴彦との時間を失いたくない私は、自分を騙し続け、卒業後も定期的にそこへ足を運んだ。
晴彦が家族の話をするたびに、胸が痛む。晴彦の幸せを祈りたい気持ちと、私だけのものにしたい気持ちが、いつもせめぎ合っていた。

大学卒業後、いずれ理事長の役を継ぐため、この学校に就職した。就職後も何も変わらない。晴彦への想いも、ログハウス通いも。

「リア、どうぞ」
「ありがとう。」

ここに来ると、晴彦はいつも自分にはコーヒーを、私にココアを淹れる。もう大人だというのに、いつまでも私を「可愛い生徒」として扱っている。

「どうしたんだい?そんな気難しい顔をして」
「実は…」

就職から7年、私はもう30歳になっていた。なかなか恋人を作ろうとしない私を心配したのだろう、叔父から見合いを勧められていた。私は断ることもできず、ただただ憂鬱な気持ちになっていた。

「お見合い?いいじゃないか、リア」
「晴彦、他人事だからって面白がっているんだろ?」
「ハハ、そんなことないよ」

木製のマグカップでコーヒーを飲む晴彦。私の手にあるマグカップも同じ形。私が、生まれ故郷のスウェーデンで買ってきた土産だ。

「リアが誰かと一緒になって、幸せになってくれたら嬉しいなって思っているんだ」

心が、ズキリと痛んだ。
晴彦の優しさが、私の首を真綿で締める。

「いつまでもオジサンの暇つぶしに付き合ってないで、好い人のところに遊びに行っていいんだよ」

その瞬間、私の中で何かが引きちぎれる音がした。
晴彦を押し倒し、カーペットにはコーヒーがこぼれた。
驚いた表情をする晴彦の顔に、ポタポタと涙が落ちる。

「リ、ア…?」
「私に、誰かと幸せになれとか、この時間を暇つぶしだとか、言わないで、くれ…!」

唇を噛み締める。ココアと微かに鉄の味が混ざった。

「晴彦、晴彦…、私は…、私の幸せは…、晴彦なんだ…っ」
「───っ!」

目を見開く晴彦。喉仏が上下する。
青天の霹靂。そんな様子だった。当たり前だろう、今まで私の気持ちはひた隠しにしてきたから。
いたたまれない私は床に転がる晴彦を置き去りにして、ログハウスから立ち去った。


その後すぐだった。晴彦が辞職したのは。


ログハウスから、煙は上がらなくなった。
3年後、私はお見合い結婚をする。妻は気立ての良い人間で、最初は渋々会っただけであった私も、彼女の明るさに何度も救われるようになった。結婚して2年後には美しい娘も得た。
幸せな生活ではあった。
しかし、心の底では晴彦のことが忘れられない。
最後のあの、やりとりが──。

気付くと、足はログハウスに向かっていた。もちろん、晴彦の姿はない。
ただ、煙突の煙が雨に霞む日なら、私の消せない思いも隠せる気がした。
マグカップにコーヒーとココアを淹れ、暖炉の火を見つめる。無意味と分かりながらも、しかし薪の爆ぜる音と、コーヒーとココアの香りが混ざる空間は、時間が巻き戻ったような錯覚に浸れた。


更に7年後。私は理事長に就任した。最初に行ったことは、晴彦を呼び戻すことだった。
私が直接声をかける勇気はなかった。だから、仲介は、晴彦が新人の頃から面倒を見ていた前野くんに頼んだ。

前野くんの頼みのおかげか、晴彦は「教師ではなく、寮の雑用程度なら」と管理人を引き受けてくれた。私は、それだけで十分だった。以前のように暖炉を囲むことも、冗談を言い合うこともない。ただ、私の近くに晴彦がいる。それだけで、ずっと感じていた胸の痛みが和らいだ。

これ以上の思いは、晴彦をまた遠ざけてしまう。そう思い、私は自分の心に完全に蓋をした。
ログハウス通いも、やめた。

あの場所が、晴彦が、私から見えるところにある。
それだけでよかった。
それだけで…。


今、あそこには2人の生徒が住んでいる。
最初は、あの場所の記憶を塗り替える良い機会だと思った。
しかし、ある日再び昇った煙を見て、気持ちが揺らいだ。
そして先月、再び晴彦から提出された辞職届。

私の心の蓋が、揺れに耐えられず、開きかかっている。

ぎゅっと、唇を噛み締めた。

デスクの隅に置かれたままの書類を取り出す。あのログハウスの、取り壊し処理を進めることを指示した書類。
引き出しに写真をしまい、愛用の万年筆を手に取る。ペンの重みが指先の震えを和らげた。
深く息を吸い込むと、書類の一番下に、理事長名のサインをした。







俺と陸は、小日向さんから語られた、理事長と過ごした日々の話を、ただ静かに聞いていた。
小日向さんが話し終わると、外は、雨が強まってきていた。

「僕は、リアの心が心配だ。でも僕は、彼に何と声をかけたらいいのか…。彼を思い詰めさせてしまったのは、紛れもなく僕自身だ」

過去の話をして、小日向さんの心は一度「その時」に戻ってしまったみたい。
自分のことを「僕」と言いながら俯く小日向さんは、後悔と心残りに唇を震わせた。

「取り壊しなんて、リアは本当に望んでいるのか…。私は、そんなことをしたら、リアは余計に苦しむと、思う…」

小さな声がポツポツと落ちる。
小日向さんと理事長に、そんな過去があったなんて、正直驚き。
理事長の幽霊小屋取り壊しを、前野先生がただ静かに受け入れていたのも、そんな事情を察していたからかもしれない…、なんて考えていると、隣にいた陸が涙を零した。

「陸?」
「あ、すまない…」

慌てて涙を拭った陸は、すぐにいつものキリッとした顔に戻り、小日向さんをしっかりと見つめた。そしてハッキリした口調で伝える。

「小日向さん、分かりました。俺たちで良ければ、力になります」

やっぱり引き受けるよね。陸だもん。
フッと笑みが溢れた。
顔を上げ、陸を見る小日向さんに、俺から付け足す。

「でも、小日向さんからも、理事長と話す機会を持つべきだと思います」
「…そう、だね…」

再び落ちる視線を拾うように首を傾げ、柔らかい声で続ける。

「小日向さん、俺たち、この場所が好きです。半年しか住んでいませんけど、もうたくさんの『捨てられない思い出』があります。…それは、お二人も同じですよね」
「…」
「小日向さんも、ちゃんと伝えないと、きっと後悔する…と、思います。」

ちょっと偉そうに説教じみた言い方をしてしまったなと思っていたら、横の陸が俺に続いた。

「小日向さん!きっと、大丈夫です。俺たちで、理事長を止めましょう。」

力強く前向きな声が、小日向さんも、俺も、勇気づけた。小日向さんは涙をこぼし、小さく頷いた。

雨足が強まり、雨が窓を強く打ち始めた。これ以上ひどくなる前にと、二つのマグカップを渡して、小日向さんを見送った。



風も出てきたのか、幽霊小屋の窓がガタガタと音を立てる。
小日向さんが帰った後、俺と陸はそのままダイニングテーブルに座っていた。

「小日向さんにはああ言ったけどさ、理事長の説得なんて、できるかな…」

正直、理事長の気持ちは痛いほど分かる。
理事長は、自分の気持ちごと、この小屋を無くそうと考えてる。俺も一度は、陸への思いを捨てようとした。それでもできなくて、苦しかった。
今の俺は、自分の本当の気持ちを消すなんてことできっこないって、そんなことしても余計苦しくなるだけだって、知ってるけど。

ぼやく俺に、陸は静かに微笑んだ。

「楓はいつも未来に対して慎重で、やることなすことに責任を持とうとする。そういうところ、尊敬している」
「え、急に何」

突然恋人に褒められて照れる。ニヤけそうになるけど、同時に少し身構える。これは俺の癖。

「説得は…、できるか分からない。でも、俺たちの等身大の、思ったままのこと、考えたことを、一度話してみないか?」

優しく細められた黒い瞳。頭の中で納得する前に、俺はゆっくり頷いていた。陸のいつもの、根拠のない「やればできる!」が、感染しちゃったみたい。
…魔法かよ。

はぁ、と息をついて立ち上がり、チェストの引き出しから、ふたつの鍵を出した。

「自分の心の声を無視して楽になる、なんてこと、ありえないもんな」
「楓…」

陸に片方の鍵を渡す。陸の手は、それをしっかりと受け止めた。

「仕方ない!やってみよーか、理事長の説得」
「ああ!やろう!」

二人してにっと笑った。