「芸能クラス、絶対優勝するぞ!オー!!」
「「「オォォーー!!」」」
総合祭初日。開会式の後、真っ直ぐに芸能クラスに向かった俺は、円陣に加わっていた。
百合羽先輩の掛け声に、約80名の芸能クラスの生徒が続く。耳の奥がキンとする、空気を割るような掛け声だった。
「ジュリエットとロミオ」は、1日目の午前と、2日目の午後に開演。言わずもがな、百合羽先輩で始まり、百合羽先輩で終わるという流れになっている。そのほかの出し物は、詩の朗読とダンスを掛け合わせたものと、ライブアート。それぞれ時間をずらして行われる。
歓声の余韻を残しつつ、各々が自分の準備にとりかかる中、ざわめきがサッと割れ、百合羽先輩が俺の前に現れた。華奢な手で、でも力強く、俺の手を掴んだ。
「楓くん、今日明日で全てを出し切ろっ!最後まで、一緒に頑張ろう!ね?」
「はい。よろしくお願いします、百合羽先輩。」
ピンクの唇が可憐に弧を描いた。
俺を姉貴に見立て、踏み越えようとする百合羽先輩のやり方は、正直ウザい。けど、この人の実力も努力も、本物だってことは、一緒に練習を重ねる間に痛感した。
この人には、この人なりのプライドや正義がある。それに直向きなところは、尊敬の念すら感じていた。
「もうお客さんきてる!」
「客席係、急いで!」
「衣装ほつれてる!服飾班、誰か手空いてない!?」
芸能クラスには、特別施設として小さなホールが設けられている。舞台裏では、衣装準備や演奏準備で忙しなく人が行き交う。俺も、着替えをして、舞台に出る準備を整える。
二日間。終われば、陸からの返事が待っている。
この胸の高鳴りは、舞台に臨む緊張だけじゃない。
ぎゅっと唇を結び、両手で顔を叩いた。
「よしっ、やってやるか!」
照明と、沈黙が落ちる舞台へ、震える足で踏み込んだ。
午前中から、中庭テラスは来場者のざわめきで満ちていた。
「涼海くん、そっちのパネル、ここまで持って来れる?」
「はい!」
先輩の手伝いの合間に、時計を盗み見る。そろそろ楓の舞台が始まる時間だ。
地域クラスの手伝いを申し出た俺は、総合祭1日目は地域クラスで研究発表の手伝いをしていた。
楓の舞台は、2日目の午後にもある。その時に絶対に観に行くと、楓と約束した。
地域クラスは、地域交流も盛んなクラスで、特別施設として、カフェとして使えるような屋内の多目的スペースと、調理設備が整っている。昼休みに解放される中庭テラスも地域クラスの管理だ。
総合祭では、多目的スペースと中庭テラスの2箇所を使う。観光協会や商店街連合と打ち合わせを重ねて考案した、新B級グルメを楽しんでもらいながら、研究発表をすることになっていた。
「やあ。『おたすけ部』くん。地域振興クラスは何をやっているのかな?」
「り、理事長先生…!」
上等なスーツに艶のある革靴。モデルのような、すらりとした立ち姿。グレーの瞳が俺を見て、優しげに細められた。
「あ、良かったら理事長先生も食べてください!『カリカリしらす天ぷら温泉まんじゅう』です!」
「…それは甘いのかね?しょっぱいのかね?」
「甘さ控えめの塩入餡の温泉まんじゅうに、しらすをまぶして揚げてあるものです。甘しょっぱい系です!」
「はは、分かった。一ついただこう。」
まんじゅうを一つ用意して、理事長の元へ戻る。
遠くに見える海を背景に、長い脚を組んで腰掛ける理事長の姿は、海外映画のポスターのようだった。
「お待たせしました。」
「ありがとう。…君の相棒くんは、今日はいないのかい?」
突然、楓の話題になり心臓が止まる。
今朝会ったばかりの楓。瞳の奥に力強い光を宿して、「いってくる」と俺から離れていった楓。
頬がじわりと熱を持つ。
──もう、会いたい。
「えっと…。楓は、芸能クラスに行ってます…」
喉の奥につっかえる寂しさを飲み込んで、答えた。
そんな俺の様子を、理事長は柔らかく見つめる。その視線は、どこか遠くに思いを馳せるような、切なささえ含んでいた。
「そ、そうだ。今から先輩たちの発表も始まりますから、ぜひ、聞いていってほしいです。」
「そうしよう。…あ、ところで」
立ち去ろうとしたところで、再び理事長に呼び止められる。「はい!」と返事をして理事長に振り返った。
「君たちの部屋。121号室と一年生の共有スペースのクリーニングがそろそろ終わるそうだ。」
「そうなんですね!あの…、迷惑をかけて、すみませんでした…。」
「それは構わないよ。もともと修繕が必要だったんだ。こちらこそ、不便をかけてすまなかったね。」
「そんなこと…!」
目尻に小さな皺を作り、優しい微笑みを向ける理事長。
包み込むような、慈悲に満ちた声に、緊張が緩んだ時だった。
「そうなると、あの小屋は、もう必要ない。そうだね?」
「え…」
グレーの瞳が静かに光る。
息が止まった。
一瞬にして、周りの音が遠のく。
理事長、今、何て…?
「おまたせしました!只今より、地域振興クラスの研究発表を行います!」
パネルにかけられていた幕が一斉に降り、この町の商店街の模型も現れる。先輩の声がマイクを通して響く。テラス内は、拍手に包まれた。
「おお、思っていたより大掛かりだね。今年も楽しめそうだ。」
「…、」
「仕事の邪魔をして悪かったね。ありがとう、涼海陸くん。」
「……はい」
上品に揚げまんじゅうを口に運びながら、研究発表に聞き入る理事長。
俺は、それ以上なにも聞けずに、理事長の元を離れる。
微かに手が震えた。
寮のクリーニングが終わって、寮に戻る。ただそれだけだ。しかも、楓も一緒だ。
…なのに、理事長の声が、表情が、頭から離れない。
「…楓、」
呟くように名前を呼んだ。
何故だろう。ただ漠然とした不安が、胸の中に小さく燻った。
総合祭二日目の朝。
「陸、」
楓の声が聞こえた。
「陸、もう起きろよ」
体を軽く揺すられ、重たい瞼を持ち上げる。眩しい。
楓の、整髪剤の匂いがする。俺の視界の左端に立っている、このぼやけた人の姿は楓だろう。
「俺は先行くけど、舞台、ちゃんと観に来いよー?」
そうか、今日も朝から練習なのか。
昨晩の楓は、舞台の疲れと緊張からか、いつも以上にヘトヘトになって帰ってきて、泥のように眠っていた。
それも今日で終わりか。
今日までよく頑張っていたな…。
ぼやける視界と意識の中、寝返りを打つように体を左に傾けた。
楓に向かって右手を伸ばす。
──ギシッ
楓が俺の手をとり、指を絡める。そのまま体ごと覆い被さってきた。
腕も背中もベッドに押し付けられ、一人分以上の体重に、ベッドのスプリングが軋む。
「かえ…?」
「…帰ったら、返事、聞かせて?陸。」
耳元で低く響いた声に、背中から腰に痺れが走った。
完全に覚醒し、目を見開く。
メガネがなくても分かった。鼻先にある、楓のチョコレート色の瞳。
「じゃ、いってきまーす」
「か、かえ、…い、いってら……」
俺の手を離し、手をヒラヒラ振りながら寝室を出ていく楓。
飛び起きてその姿を目で追うけど、喉が張り付いて、言葉はそれ以上出てこなかった。
心臓がバクバクとうるさい。
手には楓の体温が残るし、耳にはまだ楓の声。体の芯はじんと熱かった。
そうか、今日、言うのか。
楓に、俺も楓が好きだと──。
「うわすっげぇ、さすが芸能クラス。もうホールに人が入りきらねぇじゃん」
「後ろの方は立ち見になってるね。千秋これ大丈夫?緊張してセリフ噛んじゃうんじゃない?」
いたずらっぽく、ふふっと笑う玉置。その玉置の制服のネクタイを篠岡が掴む。
「てか聞けよ、千秋のやつ、なかなか評判よくてさ。なんか女子がきゃあきゃあ言ってやがんの!ムキーッ!」
「痛い痛い痛い、引っ張らないで!」
「そう…、なのか」
玉置から鳩尾に鋭い一撃を喰らった篠岡が「ぐはっ」と声を上げ、静かになった。
楓の頑張りが広く認められるのは嬉しい。でも…。
今朝、楓が握った右手を、自分の左手で包むように握る。
でも、ちょっと…、
──すごく、嫌だ。
首筋がじわりと熱を持つ。
「…好き、だから…。」
「ん?なんか言った?」
玉置のくりっとした瞳が俺を見る。
「…いいや、なんでもない。」
開演のブザーが鳴り、会場の照明が落ちた。
軽快な音楽と共に、役者たちが次々と出てくる。どうやら仮面舞踏会のシーンからのようだ。友人たちを引き連れ、遅れて登場したのが、楓が扮するロミオだ。
「…、」
目元は仮面で隠れているが、煌びやかな衣装に身を包んだ楓は、ただ立っているだけでも、かっこよかった。
楓が好きだからそう思うのだろうか。
その声が、表情が、指の先まで洗練された立ち振る舞いが、全てが俺を魅了する。
すると、音楽が一瞬止まり、スポットライトが舞台の中心だけを照らした。
満を持して、舞台に一輪の花のように咲いたのは、輝く白いドレスを纏った天音先輩。ジュリエットだ。
その登場だけで、ホール内に拍手が満ちた。
「すごいね…」
「さすが天音先輩って感じすんなぁ」
玉置と篠岡が囁く。
一瞬でステージの全てを自分の世界に染めた天音先輩の演技に、俺たちもその世界に没入していった。
舞台が終わる頃には、登場人物たちに感情移入し、涙なしには観られない程だった。
幕が降りると同時に、会場内に割れんばかりの拍手が響く。
鼻を啜る音も混じり聞こえる。
「あー、これはもう、優勝は芸能クラスで決まりだな!」
「確かに。昨日他のクラスも見たけど、お客さんの反応が一番大きい気がする。」
「あ、ああ…。」
「?、どうかした?涼海」
「コンタクトが…」
涙でコンタクトが浮いて、落ちてしまった。ぼやける方の視界を片手で塞ぎ、もう片目と手探りで辺りを探す。
「わー、大変!」
「お前コンタクトだったんだな?知らなかった~」
スマホのライトを座席下にかざしながら、コンタクト捜索を手伝ってくれる二人。
終演後のホール内は、出口に向かう人たちでざわついていて、これはもう、もし見つかっても割れてしまっているかもしれない。
しばらく探して、ホール内の人もまばらになった頃。
「これを探してる?」
凛とした女性の声が頭上で聞こえ、三人とも立ち上がった。
そこには、パンツスーツ姿の、スラっとした長身の女性。隣には同じく長身の男性がいた。
差し出した手のひらには、キラッと光る透明の粒。
「あ、ありがとうございます!」
「よかった。じゃあね。」
耳の高さでまとめられた焦茶の髪を揺らし颯爽と立ち去る。その後ろ姿も、背筋がピンと伸びていて、自信に満ち溢れている。
「うっわ!なんだ今の美男美女!モデル!?」
「でもあの二人、なんか…。あ、」
何かを言いかけた玉置が指を差す。その先には、舞台袖から出てきた楓の姿。
「楓!」
「…陸!」
たまらず声をかけると、顔を綻ばせ、ステージから飛び降り駆け寄る。急いで着替えたのか、シャツのボタンも首元が開いているし、ネクタイも手に持ったままだ。
弾む息のまま俺の目の前で立ち止まる。
チョコレート色の瞳は、キラキラと輝いていた。
「陸…」
「楓、おつか…」
「あ、楓~!やっと出てきた!」
「お、ロミオじゃないか!」
「げ。姉貴…と、兄貴も…」
楓に一歩踏み出したところで、背後からの声に足が止まる。
声の元に目をやった楓の顔が、面倒くさそうに歪んだ。そこにいたのは、先ほどの美男美女。
「え、楓のお姉さんとお兄さん!?」
「やっぱり!なんか似てると思ったー!」
楓は、お兄さんに頭をワシワシと撫でられ、お姉さんに背中をバシバシ叩かれて、「やめろよ」と拗ねたように唇を尖らせながら、でも照れ臭そうに耳を赤くしている。
舞台に立っていた時の楓は、ひどく大人びて見えたのに、今は逆に、すごく子供っぽい。
俺の知らない楓の顔が、まだたくさんあるんだと思うと、胸の中に焦りに似た何かが渦巻いた。
「陸、目、どうかした?」
「あ、ああ…。コンタクトを落として。今、楓のお姉さんに拾ってもらったんだ。」
俯いていた俺を楓が覗き込む。コンタクトが入っている、視力がある方の目が、楓の端正な顔を映す。
「マジで?じゃ、早く行こ」
「え、」
「篠岡と玉置も、ありがと。…兄貴と姉貴も、…ありがとう。投票は芸能クラスに入れといてよー」
「千秋、部屋戻るの?」
「開票見てかねぇのー?」
「それより大事なことがあんの!じゃ!」
そう言って俺の手を取る楓。
「陸、片目は見える?歩ける?」
「…ああ、問題ない」
優しく微笑む楓に手を引かれ、ホールの低く広い階段を登っていく。
一段上がるごとに、鼓動が速くなる。
柔らかく握り込まれた手から、俺のドキドキが伝わってしまうような気がした。
陸の手を引いて、幽霊小屋まで辿り着く。
正直、ここに来るまで、緊張で何度も握る手に力が入ってしまった。
扉を開けて、陸を洗面所まで誘導する。
「洗えば使えるんだよね?」
「ああ。大丈夫だ」
もう片方のコンタクトも外し、メガネをかけると、洗浄液でコンタクトを洗う。
俺はただ、陸の横顔を見つめている。
沈黙の中、水の流れる音だけが響く。
「…ずっと見てるのか?」
「…うん、」
「そ、そうか…」
狭くてボロい洗面所。二人でいるには狭いし、雰囲気もない。洗面ボウルにはひびが入っているし、壁にかけてある鏡も端の方は黒く錆びている。
それでも、今日までずっと、陸といられる時間が少なかったんだ。もう、片時も離れたくない。
コンタクトを保存液に入れた陸が、振り返る。肩がぶつかる。
「終わった、ぞ…」
すでに狭いのに、更に一歩、陸に詰め寄る。片手をボウルにつき、もう片手は陸の背後の壁に。陸がこの狭い空間から出られないように塞いでしまう。
「陸、約束」
「ち、近く、ないか…?」
「陸。」
「…っ、」
背中を反った陸が顔ごと目を逸らし、首筋が晒される。赤く染まっているそこに、唇を寄せたい衝動に駆られる。
「えっと…、楓。俺…、」
「うん」
「楓に、す、好きって言ってもらえて、最初はすごく悩んだ」
「…うん」
「嫌だったわけじゃない。ただ、俺は、その…、」
陸の瞳が揺れる。長いまつ毛が震え、頬に影を作る。
「楓が、俺以外の誰かといるのが寂しくて…、俺は、いつの間にか、楓とずっと一緒にいたいと、思うようになってしまっていて…」
陸の手が、服の裾をぎゅっと掴む。そんな仕草が、俺の胸の内側を苦しくさせる。
「そんな傲慢な気持ち、楓のためにならないと…、思ったんだが…」
潤んだ瞳が俺を見る。喉が鳴った。
「分かったんだ。俺、楓のことが…だ、だ、だい、すき…、うわっ!」
たまらず、抱きしめていた。
心臓が、握りつぶされるように痛い。こんなにも、嬉しいことってあるんだ。
身体全体で、陸を感じる。匂いも、温かさも、呼吸も、鼓動も。
大好きだ。
はぁー、と深く深く息を吐き出した。陸の肩に、額を置いた。
「か、かかか楓ッ!?」
「…りがと」
「え?…ぅぐっ、」
声が掠れる。
愛おしさと安堵と、緊張の緩みと、全部が混ざって、視界が潤んだ。
そのまま更に、ぎゅうっと腕に力を込める。布越しに体温が、心音が、溶け合う。このまま俺とくっついて一つになってしまえばいいのに。
「…えで、くるし…、苦しいっ!」
「痛゛っ!」
ドンと突き放され、後ろの壁に背中を打つ。
忘れてた、こいつの馬鹿力。
「い、い、いきなり、だ、だだ抱きしめ…」
「陸っ!」
──キィ…ガシャーンッ!
金具の小さく鳴る音と同時に、視界の端で鏡がゆらりと光を反射して、咄嗟に陸の腕を引っ張った。
壁に強い衝撃があった反動で、洗面所の鏡が落ちたんだ。
二人で洗面所前の廊下に倒れ込む。
「ごめ…、怪我、ない?」
「…あ、ああ。…すまない。ありがとう…」
俺の上に乗った、陸の身体。
「陸が俺を押し倒すの、これで3回目」
フッと笑うと、陸の顔が赤くなる。
こんな状況なのに、至近距離にある綺麗な顔に、俺の鼻のあたりも熱くなる。
俺はちょっと、浮かれているかもしれない。だから、しょうがない…よね?
「りく、」
陸の顎を手で引き、俺の方を向かせる。
レンズの奥の黒い瞳が、見開かれる。
そっと、顔を近付け──。
バシッ!
「い゛ッッたァァあ!何すんだよ陸ッ!」
「~っ、だからッ!いきなりそういうことをするなと、さっきも言っただろ!?」
「言ってねーよ!」
「なら今言う!やめろッ!」
なんだよ。唇を尖らせ、陸に叩かれた頭を押さえる。
陸は耳まで真っ赤にさせて、俺の上から立ち退いていく。
「…ケチ」
「そういう問題じゃない!」
「はいはいわかりましたー。ちゃんと聞いてからしまーす」
ズレたメガネを掛け直しながら怒る陸に、思わず吹き出す。
さっきまであんなにしおらしかったのに、いつもの陸だ。
そんな俺を見て、陸もつられて照れるように笑った。
──ああ、好き。
俺の好きな、陸の笑顔。
「じゃあさ、もう一回いい?」
「え」
「抱きしめたい」
「………わかった」
陸が承諾したのを合図に、再び胸の中に閉じ込める。さっきよりもっと熱い。
全身を硬直させていて、すごく緊張してるんだなって分かる。
俺の熱も鼓動も預けるつもりで、更に深く抱き込んだ。
早く、陸の緊張が溶ければいいのに…。
腕を離すと、陸が溜めていた息を吐き出した。
「…えっと…、そうだ、鏡を片付けよう」
「そーだね。俺がやるよ」
「いや、楓は舞台で疲れてるだろ?俺がやろう」
「だーめ。陸、絶対怪我しそうだもん」
「でも、」
「いーから。危ないことしないで」
陸の頭をポンポンと撫でる。
「じゃあ、納屋に行って箒と…、そういえばドレッサー?ぽいのがあった。あの鏡、代わりに持ってこれないかな?」
「ああ、確かに。鏡台のようなものが奥にあったな。一緒に行こう」
二人で、幽霊小屋の更に奥、緑が生い茂った納屋こと、「蔵」に向かう。
隣に思いが通じ合った陸がいる。それだけで、いつもと同じ場所も、昨日までと全く景色が違う。
オレンジ色の陽が、木々の間から光の梯子を下ろし、陸の白い肌を染める。秋の気配を忍ばせた涼しい風が黒い髪を撫でる。そこに陸がいる。それだけで、全てがきらめく瞬間に変わる。
ああ、俺、一生「今」にいたい。
蔵に辿り着き、重い入り口を開ける。ひと足先に冬に突入したかのように冷えた空気が俺たちを迎える。
「あれだな。少し動かせば、接合部をいじれそうだ」
懐中電灯で蔵の奥にある鏡台を照らし、近付く。
「俺がやろう。楓、懐中電灯を持っててくれ」
「はーい」
力仕事は馬鹿力に任せよう。そう思って一歩引く。陸は鏡台の端を持つと思い切り引っ張り──
ズルッ──ドシン!
「っ!」
「陸!」
思いっきり転けた。
「陸、大丈夫かよ!?」
「す、すまない。身体は大丈夫だが、メガネが…」
陸の手を持って引っ張り起こす。
足元には、敷物があり、陸が踏ん張った力でこれが思いっきりズレて、滑ったようだった。
「コンタクトに続きメガネまで落とすとは…」と、またしゃがみ込んでメガネを探そうとする陸を止める。
「待って、俺が探すから」
「ありがとう。正直よく見えないんだ」
「いーからいーから」
申し訳なさそうなつむじをぽんぽんと撫で、懐中電灯で足元を探す。
「お、メガネ発見…ん?」
大きく捲れた敷物の下に、妙な凹みを見つける。土を払って見ると、2つの鍵穴と取っ手。そしてそれらを大きく囲む四角い枠。
これは、扉だ。
実家にあった床下の点検口兼収納のアレに似ている。
「陸、ちょっとこれ見て」
メガネを掛け直した陸が、俺の向かいにしゃがみ込んで同じように鍵穴と取っ手を見つめる。試しに取っ手を引っ張って開けようとするも、扉はびくともしなかった。
「なあ楓、これ、うちの校章じゃないか?」
「どれ?……確かに。似てる。あ、こっちも」
陸が示したのは鍵穴を縁取るように掘られた模様。もう一つの鍵穴の周りにも、同じように模様が彫られている。
「この模様は…なんだ?」
「なあ、陸、この鏡台にも、あそこにあるタンスにも、同じ模様ついてんの、分かる?」
「…本当だ。引き出しの取っ手との取り付け部分に、似た模様が…」
「多分これは──、」
脳裏にチラつく、この町に伝わる昔話と、コルクボードで鈍く光る2つのスケルトンキー。セピア色の、写真。
「これは、佐倉家の家紋だ」
「あ…」
陸が言葉を失い沈黙する。
懐中電灯を握る指先が冷たい。
心臓の音が耳元で聞こえる。
背後から迫り来る巨大な影に、飲み込まれる。
すごく、大きなものが、俺たちの手の中に託されているような気がした。
「楓」
不意に、手が温かいものに包まれる。陸の手だった。
初めて自分の手が震えていたことに気付く。
「楓、…あの鍵で、開けて、みないか?」
「え、」
陸の目を見つめる。俺を見るその目には、力強さがあった。
「俺は、楓と出会えて本当に良かった。」
「え、なんの話…」
「聞いてくれ。」
ぎゅっと、陸の両手が俺の手を包み込む。
「こういうのを、……運命って、言うのかもしれないとさえ、思うんだ」
「…」
「意図せず、でも、絶対に必要な出会いだった」
陸の手に力が入る。
窓もない薄暗い蔵の中。それなのに陸の瞳は夜空の星のように輝いた。
「あの鍵も、写真も、この扉も。…どの出会いも、…似ていると感じるんだ。」
もう、手の震えはない。背中にまとわりついていた影は陸の光に薙ぎ払われ、手の冷たさも、陸の体温の混ざり合って、溶かされていた。
「はぁー。俺、こうやって一生お前に振り回されて生きていくんだろーなー」
「なっ!?い、一生!?」
「なに?当たり前じゃん。…お前はちげーの?」
「な、な、な…」
思わず本心が口から出てしまって、照れ隠しにちょっと拗ねた言い方になる。
さっきまで力強く俺を見つめていた視線は、右に左にと彷徨う。
「……お、俺も…一生…、だ。」
弱まる語尾に小さく笑う。ほんと、かわいいやつ。
「よし。じゃー、鍵、とってこよーぜ。」
「ああ」
購買いこーぜ、くらいのテンションで陸に言う。陸ははにかんだ笑顔を見せた。
蔵の外に出ると、辺りは暗くなっていて、空の低い位置に、それはそれは大きな満月が浮かんでいた。
──早秋のその晩、俺たちは、
この町の歴史の一端に、手を伸ばした。
