夏休み半ば。帰省から戻った陸は、行きよりも増えた荷物を持って、幽霊小屋に帰ってきた。

「ただいま…」

彼を迎える返事はない。夏休みに突入してから、彼の同居人である楓の生活の中心は、舞台練習になっていた。陸の帰省前も、楓は朝早くから夜遅くまで不在にしており、今も、この幽霊小屋にその姿は無かった。

「…暑いな」

一人呟き、窓を開ける。ほぼ森の中にあるこの幽霊小屋は、夏でも木陰から爽やかな風が吹き込む。緑のカーテンが揺れ、陸は静かに一息ついた。

荷解きをして、ダイニングテーブルに腰掛ける。時刻は13時過ぎ。帰り際に母親に持たされたお弁当を開き、昼食を摂る。
食べ慣れた味を箸で運びながら、視線はキッチンに向かう。そこにはいない、誰かの後ろ姿を探しているようだった。

「…ごちそうさま、でした」

弁当箱を片付け、テーブルに戻る。時刻は14時。祭りの集合時間まで、まだ3時間あった。

「楓は、何時に戻るんだろうか…」

机に体を預け、陸は呟いた。
蝉の声と、木々のざわめき。緑と土の匂いだけが、そこには満ちていた。



そのままテーブルで寝ていた陸は、スマホの呼び出し音で目覚めた。スマホを手に取り、開ききらない目で画面を確認する。

「…?しの、おか…?」

いつも賑やかな友人、篠岡玲央からの通話呼出。時刻は15時。祭りの約束の時間までは、あと2時間ある。
机に突っ伏したまま、緩慢な動作で通話に応じた。

「よっすー!今どこ?」
「……ゆうれい、ごや…」
「あ、寝てた?なぁなぁ、先に祭り行ってね?」
「…でも、やくそくの…じかん…」
「時間より早ぇけどさー、マジ暇なんだよ~。いこーぜー?どーせ千秋も天音先輩のとこなんだろ?」
「!」

陸の目が開かれ、体が起き上がる。楓の名前に反応したのか、先輩の名か、もしくはその両方か。

「30分後、寮の前集合な!」
「わかった」
「よっしゃー!じゃあ後でな~!」

通話が切れると、陸は楓とのSNSトーク画面を開き、篠岡と先に祭りに向かう旨を送る。
直前のやりとりは、今朝。朝の挨拶。楓は、陸の帰省中、毎日メッセージを送ってきていた。内容はなんでもない、おはようと、おやすみの挨拶。
陸は目を伏せ、しばらくトーク画面を見つめていたが、机にそっとスマホを置くと、外出の準備を始めた。







少し傾いた夏の陽の中、灰霞町の駅前は、いつも通り潮と硫黄の匂い。そして今日は、立ち並ぶ屋台から、ソースの焼ける匂いや綿菓子の甘い匂いも漂っていた。

「うわー、祭りだああ!テンション上がるなぁ!」
「そうだな!祭りなんて子供の時以来だ!」

いつも以上の人混みの中、鉄板をヘラで叩く音、客を呼び込む威勢のいい声、うるさいほどに賑やかな空間が2人を囲む。

「あ、そうだ篠岡。これ、土産だ」
「おー、さんきゅ。あ、俺、土産買ってねーわ。スマン!」
「篠岡も帰省したのか?」
「ちょーっとだけな!家いてもつまんねーし、すぐ帰ってきた!」

ニカっと笑い、ブイサインを陸に向ける篠岡。

「篠岡の実家は…」
「なあオイ!あれ見ろよ!」

陸の言葉を遮り、驚愕の表情で篠岡が指差した先は、かき氷の屋台。

「シロップ、セルフサービスだぜ!全色掛けは、男の夢だよな!?これは行くしかない、行こうぜ!」
「ああ、丁度喉が渇いてたんだ。行こう!」

ツッコミ不在の暴走コンビを止める人間はいない。屋台に駆け寄り、かき氷を注文した二人は、宣言通り、全ての色のシロップを手に取った。

「できた!玲央レインボースペシャル!」
「篠岡、上手いな!…俺はぐちゃぐちゃになってしまった…」

綺麗なグラデーションかき氷に仕上げた篠岡に対し、陸のかき氷は色が混ざり恐ろしい見た目になっていた。

「うははは!お前のヤバ!コンクリートみたいな色してんぞ!生コンかき氷!あははは!…いやまて、『生』ってつくとなんか美味そうな気がするな?」
「確かに。生クリームとか、生キャラメルとか、『生』ってつくもんな。…これもそう思えば……」

2人で陸の手元のかき氷を見つめる。雨上がりの泥水のような汁が、一筋、容器の端から陸の手に伝った。

「…ねーわ!」
「…ないな。」

ぶっ、と吹き出し二人は笑い合う。

「溶けてきてるから早く食おーぜ」
「色は微妙だが、味は美味い」
「…全部同じ味だもんな」
「そうなのか!?」
「おーよ!常識だぜ!?」

かき氷を食べながら、プラプラと道を進んで行く。どこに寄るわけでもなく、ただ祭りの雰囲気を味わっていた。

「見ろよ、あそこの浴衣女子、かわいくね?」
「え?!あ…、そ、そうだな…。」
「いーよな~!今日天音先輩とか来てねぇかな?!浴衣姿見てーぇ!」

天音の名前に、陸の顔が曇った。前を向く篠岡は、陸の変化には気付かず、そのまま話し続けた。

「くっそー、千秋の奴は毎日、天音先輩と会ってるっていうのに!」
「…篠岡も、同好会が一緒だろ?会うんじゃないのか?」
「それが全然、会えねぇんだよ。天音先輩、舞台練習あるから、こっちには全く来ねぇの。」
「…そうか。…俺も、楓と、あまり会えてない…な」
「マジかよ、アイツそんなに練習行ってんの?…確かにそんなに通ってんなら、『千秋楓は天音先輩と付き合ってるらしい』って噂が流れてるのも、仕方ない気ぃするよな~」

陸の目が見開かれる。瞳が揺れ、足元に視線が落ちた。

「楓は、先輩と、…つ、付き合ってるの、か…」

陸の手にある空のかき氷カップが、クシャ、と音を立てた。
その様子を、そっと見つめる篠岡。いつもおどけた調子の彼だが、黙っていると、琥珀色の三白眼がどこかアンニュイな雰囲気を纏った。誰も、彼の真意は読み取れない。

「…お前、今、千秋とどんな感じなの?」
「ん?どんな感じって…どういうことだ?」
「…ま、いいや。なぁなぁ、天音先輩と付き合ってるかどうか、直接本人に聞いといてくんね?」
「ええ…!?俺がか?」
「おー!2人の時あんだろ?コソッと聞いといてくれよ!」

ニッと笑ってウインクを投げる篠岡。陸は複雑な表情を浮かべながらも、頼まれごととなると断れない。小さく、「…わかった。」と返事をした。

「頼むぜー!…あ、あっちに巫女さんがいるぜ!?見失う前に追いかけようぜ!」

篠岡が声を上げ、人混みを避けながら進み出した。陸もその後ろをついていく。
辿り着いた場所は、今日の集合場所に指定していた、駅前広場だった。広場に設置された小さなテント横には「翠和神社」ののぼり。文字通り、翠和神社のご朱印帳や、ゆげまるコラボ品を売っていた。

「あれ?祐希人…?」
「え?」

陸の目の前には、売り子としてカウンターの向こうに立つ、袴姿の少年。顔は伊吹と瓜二つだが、グレーの瞳とグレージュの髪ではなく、どちらも陸と同じ、深く澄んだ黒色だった。

「目と髪の色が…」
「あ、陸先輩!」

テント裏から、もう一人、袴姿の少年が顔を出す。宝石のように輝くグレーの瞳、夕日に煌めくグレージュの髪。見る人を溶かすような、優しい笑顔を浮かべ駆け寄る少年は、陸のよく知る伊吹祐希人そのもの。祐希人は、自分とよく似た少年を、陸に紹介した。

「こちらは、僕の弟の、陽凪大(ひなた)です。僕達は年子なので、陽凪大は、陸先輩の2個下になりますね。」
「はじめまして、陽凪大です!なんだー、おにぃの知り合いだったんだー!」

陽凪大と名乗った少年は、祐希人と1歳しか違わないにも関わらず、大分子供っぽい印象を与える雰囲気があった。祐希人が年齢にそぐわず大人びているのも要因の一つとも言えそうだった。

「弟がいたんだな、知らなかった。」
「…陽凪大は、学校が忙しいので、あまり家の手伝いには出られませんので…」
「おにぃがやり過ぎなんだよ!もっと楽すれば良いのに~。手伝いばっかで、俺とも全然遊んでくんないしさー?」
「…そうだね。ごめんね、陽凪大。」

弟の言葉に、眉尻を下げ微笑む祐希人は、誰から見ても弟思いの兄といった様子だった。しかし、祐希人の袖の下では、強く手が握り込まれていた。それに気づく者は、いない。

「さぁ、陽凪大。もう休憩の時間だよ。あとは僕が引き継ぐから、お祭り、楽しんでおいで。」
「やったー!それじゃ、おにぃよろしく~!」
「うん。いってらっしゃい」

元気な笑顔を振り撒き、売り場を離れる陽凪大を、祐希人は穏やかな笑みで送り出した。微笑ましく見える兄弟のやりとりを、陸は見たまま受け取り、口を開いた。

「祐希人が以前、『黒い髪が好き』と俺に教えてくれたのは、弟くんのことだったんだな」

陸の言葉に、一瞬、祐希人の顔が強張った。僅かな変化だった。
直ぐに、いつも通りの綺麗な笑顔を浮かべ、陸を見る。陸の問いかけに対する答えは、その笑みだけだった。
その様子を、半歩引いたところから眺めていた篠岡は、二人の間に漂う空気が静止した一瞬を突いて会話に割って入った。

「なー、俺のこと忘れてね?俺は篠岡玲央先輩だ!よろしくぅ!」
「はい、篠岡玲央先輩。よろしくお願いします。」

祐希人は穏やかな調子で、簡単に篠岡に挨拶を返す。それから辺りを見回した。

「今日は、楓先輩はいないんですか?」
「楓は、後で合流することになっている。…そういえば、そろそろ約束の時間だな。祐希人、楓に何か用事か?もうじきここに来るぞ」
「いいえ、僕が用があるのは、いつだって陸先輩だけです」

微かに首を傾げ、グレージュの柔らかな髪がサラリと揺れる。カウンターにそっと手をつき、美しい瞳で陸を見上げる姿は健気な美少年そのもの。大抵の人間は、彼にそのように見つめられたら、ときめかずにはいられないだろう。
…ただし、陸には、祐希人の“それ”が通用しなかった。

「なんだ、俺に何か用があったのか?なんでも言ってくれ。できることなら力になろう!」
「ブッ…」

陸の真面目すぎる返答に、傍で見ていた篠岡が噴き出した。
その声に、祐希人は眉をピクリと動かす。鋭い視線が素早く篠岡を刺した。
しかし祐希人の視線など物ともせず、篠岡はカウンターに身を乗り出し、祐希人に顔を近づけた。

「なあ~、ユキちゃん」
「ユ、ユキちゃ…!?…ゴホン、…なんですか、玲央先輩。」
「親切で教えてやるけどな、お前、千秋には勝てねぇぞ」
「…」
「篠岡、なんの話だ?」

急に親しげに祐希人と話し始めた篠岡に、陸はキョトンとした顔を向けた。

「…な?お前の“それ”も、ぜーんぜん通用してねーし」
「…アドバイス、ありがとうございます。」

伏せ気味の瞼から覗く、琥珀色の三白眼が祐希人を見下す。負けじと祐希人も、睨むような視線を篠岡にぶつけた。

祭り屋台の煙を含んだ潮風が、三人の間を静かに通り抜けていった。
















舞台練習後、解散の挨拶が終わるや否や、俺は練習室を飛び出して、急足で幽霊小屋に戻っていた。
いつもの自主練は、今日はお休み。
なんたって、今日は陸が帰ってくる日だから!

幽霊の玄関ドアの前まで来ると、ドアを開ける前に一度立ち止まる。汗を拭って、髪も手櫛で軽く整えて、呼吸を整える。瞼を閉じると、部屋で「おかえり」と声をかけてくれる陸のイメージが出てくる。
会える、会える。やっと陸に会える!
自然に緩む頬。期待を膨らませて、ドアを開いた。

「ただいま。…あれ?」

陸の姿がない。てゆーか、靴がない。部屋に人気がない。
不思議に思い、ポケットのスマホを取り出す。確かに昼頃には戻ってると聞いたはずなのに。
その時初めて陸からの連絡に気付いた。

「なんだよ、篠岡と先に行くって…」

肩を落として近くの壁にもたれかかる。

…俺が、一番に会いたかったのに。

はあ、とため息をつき、シャワーに向かう。
まあ、この後は灯籠の片付けボランティアだから、また直ぐに汚れるんだけど。

シャワーから戻ると、スマホに通知が入っていた。玉置からだ。置いていかれた俺ら二人で一緒に集合場所まで行こうという内容だった。
承知の旨の返事をし、一息。部屋の中を見渡す。
昨日まで無かった、陸の荷物がある。
それだけで、この室内に温かみが戻った気がする。沈んでた気持ちが、少し持ち直す。頬が緩んだ。
あー、早く会いたい。


寮の前で玉置と落ち合い、バスに揺られ山を下る。
夏休み期間だけあって、観光客も多く、バスの中はいつもより混雑していた。浴衣姿の男女や、小さい子供連れの家族もいる。大方、祭りに向かう人がほとんどだろう。駅前に近づくにつれて乗客が増えていくから、俺たちは少し手前で降りて、歩いて駅前まで向かった。

「あー、暑いー」
「学校の方がちょっと涼しい気がするよねー」

シャツの襟元をパタパタと仰ぎながら歩く。玉置は準備よく、うちわを持参していた。
俺たち以外にも、歩いて向かう人たちが多くいて、祭り会場まで疎な列ができていた。

「もう告白した?」
「はぁっ!?」

玉置の唐突な質問に動揺する。玉置は、唇を結んだまま、小さく弧を描くように微笑んで俺を見ていた。

「あ、まだなんだ。千秋の好き好きオーラが日に日に増してたから、もう告ったかと思ってた。」
「…好き好きオーラって何だよ」

丸い目をニヤッと細めていたずらっぽく笑う。可愛い顔して、言うことは結構ストレートだよな、こいつ。
ザリッと、コンクリートの上の砂を、靴底が擦った。

「…陸は、告白されたら断るって、言ってた」
「え!そうなの!?千秋は告る前に、もうフラれてるってこと?」
「うるせーよ」

さっきまでの笑顔は消えて、丸い目を大きく開いて問い詰める玉置。うちわで俺を指すな。

「でも…、ちゃんと伝えようとは…思ってる。」
「…」

俺より下にある玉置の顔を視線だけで見下ろす。玉置はまた口を閉じて、ジッと俺を見上げていた。

「…そっか。それが良いと思う。千秋がどうやって涼海に聞いたかは知らないけどさ、あの鈍感には、ストレートに言わないと通じないと思うよ?」

前を向き直し、それでも俺に伝わるようにハッキリ話す。緩やかな下り坂。傾いた陽が俺たちの影を長く映していた。

「僕は、二人は上手くいくって思ってるよ。応援してる」

そう言って、円らな瞳が俺を見上げた。うちわの風が、玉置のブラウンの髪を柔らかく揺らした。

「…、さんきゅ」

胸の内側がくすぐったくて、玉置から目を逸らす。
こんな風に、他人に相談に乗ってもらうのは、初めてだった。背中を押されるのも。
素直に打ち明けるって気恥ずかしいけど、玉置の応援は、俺の中で、重いプレッシャーではなくて、力強い勇気になった気がした。

「玉置こそ、夏休みは補習漬け?がんばれ…、」
「えっ!?もしかして、マコトさん!?」
「…げっ、」

俺からも、玉置に応援の言葉を贈ってやろうと言いかけたところで、近くを通り過ぎた、男子高校生っぽい集団の1人が声をかけてきた。
髪型も服装も、なんだかガラの悪そうなグループ…。

「え、嘘!?マコトって、『狂犬マコト』!?」
「うっわー!マジだ!本物だ!」
「おいッ、お前指差すなよ!死ぬぞ!?」
「なんでここにいるんスか!?てか金髪やめたんスね!」

どゆこと?なにこれ?
玉置を指差し、勝手に盛り上がる彼ら。
話題の中心と思われる玉置に目をやると、露骨に嫌そうな、気まずそうな顔をしている。

「えっと…、玉置の知り合い?」

玉置は俺を見上げると曖昧に笑う。

「うーん…、千秋、悪いけど、先行っててくれるかな…?僕、ちょーっと用事ができちゃったみたい。…ごめんね?」

引き攣った笑みでそう言うと、ガラ悪集団に向き直り、ゆっくり俺から離れていくブラウンの頭。

「あ、そうだ」

無垢な丸い瞳が、俺を振り返った。

「このことは……忘れてね?」

玉置から感じる圧力が、一瞬、周りの雑音を遠ざけた。
囁くような低い声。
背筋に寒気が走る。

「…は、ハイ…」

俺の返事に、目を細め、唇に人差し指を当てて、ニッと笑う玉置。いつもの可愛らしい笑顔ではなく、悪ガキのような顔。口元から覗いた右犬歯がギラッと光った。

何が起こっているのか、全く理解が追いつかない俺を置いて、玉置はガラ悪集団と去っていく。
立ち止まったままの俺を、祭りに向かう楽しそうな声が追い抜いていく。

「……え、なにあれ。」

やっと発した言葉は、和やかなざわめきの中に消えていった。