静かな寝室に、朝の光が差し込む。寝返りを打つと、目の前にはゆげまる。その奥に、微かに上下する布団の膨らみの頂点が見える。陸の寝息が聞こえる。
陸と一緒のベッドで寝るなんて無理だと思ってたのに、ふかふかのベッドと、陸と俺の間に立ちはだかる巨大ゆげまる抱き枕の壁により、案外すんなり眠ってしまった。
「さて、朝飯作ってやるかー」
起き上がり、掛け布団からはみ出た愛おしい黒髪を見る。
今日も、陸と居れる。幸せ。
簡単に朝食を用意して、寝室のドアに目をやる。アラームは何度か聞こえているけど、陸が起きる気配はない。いつもなら起きてる時間なのに。
寝室に戻ると、陸のスマホが懸命に仕事をしている傍らで、陸はスヤスヤと眠っていた。ふかふかの布団は、陸をより深い眠りに落としているみたい。
仕方ない。
布団の中に隠れている陸の体を揺すった。
「起きろー、脳筋石頭~」
「………スースー…」
「陸、起きろって」
「………スースー…」
ダメだ。こんなんじゃ起きないのか。
迷った末、ちょっとだけ悪いなと、思いながら陸の布団を捲り上げる。
「起きろ、陸!……っ、」
布団の中のモワッとした温かい空気と、陸の匂い。
息を呑んだ。
半袖のシャツから覗く、綺麗な二の腕。
布団の中で温められた薄ピンクの頬。
乱れた前髪から覗く白い額。
…無防備に薄く開かれた唇。
思わず、ゴクリと喉が鳴る。
すると、陸の長いまつ毛がピクリと動き、硬直していた俺の体もビクリと跳ねた。
「…………か、えで?」
ほとんど目が開いてない陸が、寝起きの掠れ声で俺を呼ぶ。布擦れの音。いつもより幼く見える陸。
陸が上半身を起こす。
緩い首元から鎖骨が覗き、ドキリと心臓が跳ねた。
視線が泳ぐ。
いや、陸は男だし!鎖骨なんて、別に見ちゃいけないものじゃないけどさ…!
「………どこだ、ここ」
「……し、寝室、です…」
「……寝室…?……あ!」
眼鏡をかけ、スマホで時間を確認する陸。頼むから一刻も早く、いつものきっちりした感じの陸になってくれ。
寝起きの破壊力、ヤバい…。
自分の体に、熱が集まっているのが分かる。
目の前の陸をそれ以上見ていられなくて、手で顔を隠す。
「…朝飯、できてるから…」
「ああ。ありがとう」
陸を置いて寝室を出た俺は、廊下の手すりにもたれかかり、持て余す熱を吐き出すように、大きくため息をついた。
俺が階段を降りると、陸もすぐに寝室を出てきた。そのままフラフラと洗面所に向かうと、顔を洗い、キリッとした目でダイニングに戻ってきた。
こいつの切り替えスイッチは、どうも洗顔にあるみたい。
「朝食、ありがとう。楓は料理が上手いな」
「いーえ。料理ってほどのものは用意してないけど。」
朝食は、味噌汁と卵焼き。甘い卵焼きは陸の好み。
「卵がもう無いから、今日、食堂にもらい行こーぜ」
そう言って、新たに設置したホワイトボードを指す。ボードには「欲しいもの-卵、パン」というメモ。それと、「朝食・ゴミ出し→楓 風呂・トイレ掃除→陸」と書いてある。
幽霊小屋で生活する俺たちは、朝食時に寮の食堂利用が難しいって前野先生が学校に掛け合ってくれて、食堂から一部食材をもらえるようになっている。食材の他にも、煮物とか漬物とか、鶏そぼろとか鮭のほぐし身とか、食堂のおばちゃんがいろいろ持たせてくれる。助かるけど、朝食だけの量にしてはちょっと多い。詰めるだけの弁当とか作ろうかな…。
「なあ、楓。あれはなんだ?」
陸が眉を顰めて指さしたのは、ホワイトボードの「陸」の名前の横に描かれたイラスト。まごう事なく、俺が描いたゆげまるだ。
「俺の名前の横に…落とした目玉焼きの絵?」
「はあ?お前何言ってんだよ、お前の好きなゆげまるだろ?」
「え!?あれが!?」
「なんだよ、わかんねーの?」
「楓、さすがにあれは違う」
「何言ってんの。ゆげまるそのものだから。メガネの度数見直したほうがいーぜ」
「…楓にも苦手なものがあるんだな」
憐れむような視線。そんなにひどい?俺から見たらどうみてもゆげまるだけど。
ゆげまるオタク過ぎて、陸はゆげまるの見え方がちょっと違うのかもしれない。
…俺が陸をかわいく思えるように。
なーんて。
甘い卵焼きを、1つ口に運んだ。
支度を終えると、いつものように校舎に行き、授業を受ける。ゴールデンウィーク明けということもあり、なんとなくクラス全体が、まだ勉強モードになりきれてないような感じは否めない。それでも、来週には中間テストがある。入学して初めての定期テスト。
まだ1週間あるという心の余裕からか、昼休みまで勉強をしようとするクラスメイトはいない。と、思ってたけど…。
「玉置、テスト勉強してるのか?」
「う゛~…」
陸が焼きそばパンの袋を開けながら玉置に聞いた。玉置は未開封のパスタサラダを机の脇に置いたまま教科書と睨めっこしている。
「玉置はガチだぜ?昨日も夜中までカリカリ勉強してたし。ガリ勉キャラか?って感じ~」
カツサンドに噛みつきながら篠岡が言う。今日も今日とて安定のカツサンド。最早、誰も突っ込まない。
「玉置って、勉強好きなタイプ?それともヤバい系?」
俺もコロッケパンの袋を開けながら玉置に聞く。玉置がつぶらな瞳で俺たちを見上げた。
「…された…」
「「え?」」
「先生に、呼び出された…」
「入学して1ヶ月で!?ハハハ!もー諦めろって!」
ヤバい系だった。
玉置の言葉に快活に笑う篠岡。いや、諦めるのは早過ぎでしょ。
あえて詳細まで語らない玉置に、事態の深刻さを察する。玉置の言う呼び出しは、この前の小テストの結果かなー。確か小テストをしていたのは、英語と数学、化学だったよな。
「呼び出しって、どれで?英語?」
「…全部」
「あちゃー…」
「コンプリートかよ!ヤバいな!ははは」
意外。少なくとも篠岡よりは、真面目に授業を受けてる印象だったのに。
「てか玉置さ、来年からの特別クラス、自然科学クラス行きたいって言ってなかった?あそこガリ勉ばっかだからバカだと無理だぞ?」
「ええ~、そうなの…?」
玉置の落ち込みを気にせず追い打ちをかける篠岡。篠岡のバカ発言を否定することすらできないみたい。
篠岡の言う通り、特別クラスは成績によって優先的に入ることができる。基本的には。
「テストで無理なら、クラス長からのスカウト枠狙うしかないよなー!夏休み中に総合祭の手伝いして、顔を売っとけ!」
「篠岡、総合祭って何だ?」
3人の視線が陸に集まる。
キョトン顔の陸。
え、マジで知らねーの?
「涼海マジかよ!?この学校の目玉イベントじゃん!」
「そうだよ!総合祭があるから、うちは文化祭も体育祭も無いんだよ?」
「そうなのか。」
篠岡と玉置に「初めて聞きました」って顔を向ける陸。学校案内のパンフレットにも、学校説明会でも、名前が出てるのに、知らないんだ…。
本当にこいつは、ゆげまるだけを目当てに入学したんじゃないかって疑っちゃう。
俺も口を挟む。
「総合祭は、特別クラスごとに企画発表して、最後に投票で一位のクラス決めるっていうイベント。一位になると、備品とかクラス予算とかを、理事長に直接交渉できんの。だからもー、どのクラスも張り切ってやるわけ。」
陸は、焼きそばパンを咀嚼しながら、興味深そうに俺を見る。
玉置も、ひとまず食事を優先することにしたのか、教科書を机に置きパスタサラダにフォークを入れながら話す。
「誰でも見に来れるから、この辺に住んでる人とか、卒業生とかも遊びにくるみたいだよ?僕も中3の時、見に行ったよ」
「そうなのか」と言って、陸がまた一口、焼きそばパンに噛みつこうとするも、途中で止め、篠岡に質問する。
「2・3年の特別クラスごとの発表だけど、1年生も手伝いをするのか?」
「そー。自由参加だけどな。見学兼ねて好きなクラス行く奴もいるって、先輩が言ってぜ?まー、手伝いって殆どパシリだろうし、ただ当日楽しむだけって奴が多いと思うけど。」
篠岡の言葉を聞いて、玉置がはぁとため息をついた。
「パシリか~。勉強よりは望みあるけどなぁ~」
アーモンドミルクのブリックパックを凹ませながら玉置がぼやく。
なんか、早々に勉強を諦めそうな雰囲気を感じる。そんなに嫌なんだ、勉強すんの。
「そうなのか。あ、それなら…。楓、その総合祭の手伝い、一緒に『地域振興クラス』に参加しないか?」
「!、行く!」
「よかった。『おたすけ部』の活動に通じるものがありそうで、地域クラスに興味がわいてたんだ。楓も一緒なら、もっと楽しそうだ!」
ニコッと無邪気に笑う陸に見惚れる。陸の背後で白いカーテンが風に揺れ、陸は余計綺麗に見えた。
陸から誘ってくれたのも嬉しいし、2年生以降の新しいクラスも一緒にって、そんな未来を約束をしたように感じて胸が高鳴る。今回はただの見学に過ぎないけど、なにより陸が「一緒に」って思ってくれてることに、体がじんわり熱くなる。
「あー…、どうせ2人は一緒に行動するだろうと思ってたけどさ…、そういうのは、2人の時にやってもらっていい?」
「そーだぞ、ここでそういう空気を出すな~」
「あ、すまない。2人ももし良ければ一緒に…」
「「結構です」」
「そういう空気」って何だよ。
息ぴったりな2人のツッコミに、内心ボヤく。2人が俺たちをどう見てるか知らないけど、少なくとも陸に俺の気持ちが伝わる気配は一切ない。
コロッケパンの最後の一口を口に入れた時だった。教室の外がざわついた。
「あ!」
篠岡の声につられて教室の入り口に目をやると、そこには一人の女子生徒がいた。大きな目と、小さな顔。すらっと伸びた手足に、胸まで伸びる大きめウェーブのたおやかな髪。
「こんにちは。楓くんって、いる?」
教室の隅まで届く澄んだ声。それだけで、その場が一気に華やいだ。
「天音先輩!」
「玲央くん。…あ、」
篠岡が立ち上がると、細い手を可憐に振りながら微笑み、そのまま俺とも目が合う。
ピンクの唇に可愛らしい笑みをたたえたまま、真っ直ぐに近付いてくる。
てか天音先輩って…。前に篠岡が話してた芸能芸術クラスのクラス長?
「千秋、楓くん。お話があるの。ちょっと来てくれないかな?」
一瞬の沈黙の後、廊下と教室内で悲鳴が上がる。悲鳴の種類は様々。驚きなのか、興奮なのか。
てか、俺、あんま目立ちたくないんだけど…。
天音先輩から目を逸らし、そっと陸を見る。陸も、俺を見ていた。口を小さく開いて、目も丸くして。
「楓くん。…ね?」
「…はい」
可愛らしく、でも嫌味なく首を傾げる天音先輩。この騒がしい場から逃げる方法はなくて、俺は大人しく天音先輩に従うことにした。
天音先輩に連れてこられたのは、特別クラスエリアにある中庭テラス。天音先輩の指定席でもあるのか、先輩が登場すると、混み合っていたテラス内も、他の生徒等が席を譲るように黙って席を外す。
「楓くん、紫苑さんの弟なんでしょ?」
そう来たか、と思った。
紫苑というのは、俺の6歳上の姉。天音先輩が入学する前の年に、芸能クラスのクラス長を務めていた。
「私、紫苑さんに憧れてこの学校に入ったの。弟くんに会えて嬉しいな」
「憧れって…」
「憧れ。…だけど今は、踏み越えたい存在」
天音先輩の目が、一瞬ギラリと光った。
「紫苑さんの時以来、芸能クラスって、総合祭で優勝できてないの。それに、私みたいに紫苑さんに憧れて入った子も多いから、『紫苑さんの時は~』とか、『紫苑さんなら~』って、紫苑さんを求める声が多くって…。もういないのに、ね?」
困ったなと、眉を寄せて、口元は可愛らしい笑み。でも、最後の一言は、どこか刃物のような鋭さがあって、背中がゾクリとした。
姉貴は目立つのが好きな人間で、良く言えばカリスマ性がある。悪く言えばワンマン気質。まー、ただのわがままでうるさい奴だと、俺は思うけど。
でも、天音先輩の言う通り、姉貴が3年の時の総合祭で、芸能クラスが1位をとっていたのも、やたら取り巻きみたいのが多かったのも、確か。
「それでね!紫苑さんの弟の楓くんが出てくれるなら、クラスのみんなの士気も上がると思うの!だから、今年こそ、芸能クラスが優勝するために、ぜひ、楓くんに手伝いをして欲しいの」
「…、先輩は、俺を姉貴の代わりに見立てて、姉貴崇拝をぶち壊そうとしてるだけじゃ無いですか?俺で憂さ晴らししたいってことですよね?」
わざと角が立つ言い方をする。醜い嫉妬をストレートに指摘されれば、怒って俺を解放するんじゃない?って思って。
「俺は姉貴とは違うんで。お断りします」
だけど天音先輩は、そんな嫌味は歯牙にも掛けず、眉尻を下げて優しげに微笑んだ。
「憂さ晴らしじゃないよ?でも…そう。楓くんが断るなら…、涼海陸くんにお願いしようかな」
「…なんでそこで陸の名前が出るんですか」
「彼、綺麗だし。楓くんに断られたら、お願いしようと思ってたの。あんな綺麗な子、いるだけで舞台が華やぐよね」
アイドルのような笑顔はそのままに、鋭い目で俺を見る。欲しいものは絶対に掴み取る、そういう気迫を感じる。
天音先輩が姉貴をライバル視するのは勝手だけど、俺を巻き込まないでほしい。
でも、もし本当に陸を芸能クラスにスカウトするなら…。確かに陸の見た目なら人気票は集まると思う。
陸は、手伝いを頼まれたら断らないだろうし…。
焼きそばパンを食べていた陸の姿を思い出す。陸は、地域クラスの見学をしたいって言っていた。俺にそう話してくれたときの、無邪気な笑顔が頭をよぎった。
はぁ、とため息が出た。
目立つのは嫌だって、言ってんのに…。
「…何を手伝えばいいんですか」
「わあ!ありがとう!もちろん、私たちのクラスは舞台披露。楓くんも、キャスティングさせてもらいたいの」
「俺、演技とか歌とか、姉貴と違って全然できないですよ?大道具係とかならやりますけど」
「大丈夫。私がいるから。ね? 練習スケジュールを送るから、連絡先、教えて」
満足そうに、にっこり笑う天音先輩。長い髪をふわりと揺らして、スマホを差し出す。
「それから、私のことは、百合羽って呼んでね。芸能クラスは、あだ名かファーストネーム呼びが慣例なの」
「百合羽…先輩」
「うん!よろしくね、楓くん!」
可憐な手にギュッと握手され、逃げ道を塞がれたような感じがした。
ほんと嫌になる。伊吹といい先輩といい、なんで俺の周りはこんな嘘くさい笑顔の奴ばっかなんだ。
予鈴が鳴り、天音先輩から解放されて、やっと教室に戻る。
クラスメイトの冷やかしを軽く受け流しながら席に着くと、すぐに午後の授業が始まる。
隣の陸は、たまにチラッと俺を見て、目が合うとハッとしたように視線を戻す。「昼休みの一件が気になってます」と、顔に書いてある。陸はほんと分かりやすい。
フッと笑いが溢れる。
そういうところが、好き。
先生から見えないように、そっと机に突っ伏す。
陸と、窓の外の青空を、視界のフレームにおさめながら、頭の中では、百合羽先輩の怪しげな笑顔を思い出し、気が重くなる。
静かに目を閉じる。
ごめん陸。
約束、守れなくなった。
百合羽先輩とのやりとりは、陸が聞いてくるより先に、篠岡と玉置を含めたクラスメイトたちに根掘り葉掘り質問された。
先輩に陸の名前を出されたこと以外を、かいつまんで話し、横で聞いてた陸は、それ以上何も聞いてこなかった。
放課後は、食堂で夕食を摂り、足りない食材と余り物のおかずももらって、陸と幽霊小屋に戻る。
昼休みの出来事以外は、いつも通りの日常。
そして、夜は、まだ慣れない2人一緒のベッド。
「…楓」
月明かりだけの室内。ゆげまる抱き枕で陸の顔は見えないけど、呟くような声で呼ばれたのはわかった。
「あの…、今日の、芸能クラスの話」
「うん」
「…楓は、本当は、地域クラスより芸能クラスに行きたかったのか?」
「…」
そっか。
過去に陸が言っていたことを思い出す。「いつも一人で突っ走って、気付くと周りに誰もいなくなってしまう」って。
自分が俺を地域クラスに誘ったことが、また自分勝手な押し付けになってたんじゃないかって、思ってんのかも。
「別に?陸との約束が守れなかったのはマジごめんだけど…、でもクラス長の百合羽先輩が直接声かけてれたんだし、悪い気もしないなー、なんて、思っただけ。」
「そう、か…」
ゆっくり、噛み締めるような声。
「なーに?陸クンは、俺と一緒じゃないと嫌だったわけー?」
「そ、そういうわけじゃ…!」
わざとからかうようにいえば、簡単に挑発に乗る陸。否定の言葉と一緒に、体の向きを変えたのだろう、ベッドのスプリングが軋んだ。
「そういうわけじゃ…、ない……と、思う」
最後の方は小さすぎて聞き取れなかった。
「まあ、とりあえず総合祭までだしさ。2年のクラス選択は、別に違うとこでもいーわけだし。」
「…」
「陸は地域クラスの見学行くんでしょ?」
「…ああ」
「どんな感じだったか、また教えてくんね?」
「…」
「陸?」
「…ああ。わかった。」
少しの沈黙の後、また、スプリングが軋む。陸が寝返りを打ったんだなと、思った瞬間、隣のゆげまる抱き枕がずるっと引き下ろされ、陸と目が合った。
視界のフレームに、陸と月明かり。
陸は眉間に皺を寄せ、俺を見つめる。いつもの凛とした目ではなく、どこか悲しげな目。
「…陸、なに…?」
それ、どういう表情なの?
何を思ってるの?
月明かりを背負った陸の瞳が、ゆらりと揺れる。
まるで、迷子のような、泣き出しそうな顔。
そんな顔…。
それって、もしかして
期待して、いい…の?
黙ったままの陸を見つめ、手を伸ばす。
ゆっくり、恐る恐る。
黒髪がかかる白い頬に指先が届くまで、あと20センチ、10センチ…。
陸が小さく息を吸い、眉間の皺を深くした。
「楓、……見えない」
陸から発された言葉は、限りなく不機嫌そうだった。
想定外の反応に、手が止まる。
「…何が」
「やはりホワイトボードのゆげまるさんは、ゆげまるさんには見えない」
「…」
「みてくれ、これが本物だ」
掴んでいたゆげまる抱き枕を、俺の目の前に突きつける陸。
「……一緒じゃん?メガネかけて見てみろって」
「違うだろ!ゆげまるさんは、もっと慈愛に満ちた顔だ!」
「……あっそ」
ゴロンと仰向けになる。陸に伸ばしていた手は、大きく宙を掻いて反対側に投げ出される。
大きく息を吐くと、陸も体制を仰向けに戻す。
天井には、シャンデリア。逆さまのチューリップのような形をしたライトが6つ、円状に並んでいる。明かりは消えていても、月の光を受けたガラスの傘は、静かに輝いている。
しばらくすると、また陸が口を開いた。
「…篠岡が言っていた。芸能クラスは練習もハードだし、気の強い人が多くて、雰囲気に馴染めずにクラス変更を申請する生徒も多いと。」
「んー、確かに。そうかも。」
百合羽先輩の気の強さと、百合羽先輩から送られてきた練習スケジュールを思い出す。今年の夏休みは、帰省は出来なさそうだった。
「でも楓がやると決めたなら…、俺は、応援したい。手伝えることがあれば…、言ってくれ」
陸らしくない、弱々しい声だった。
「ありがと。」
「…あと、」
「?」
「…いや、なんでもない。…おやすみ」
ゆげまる抱き枕を元の位置に戻し、陸は深く布団に潜り込んだ。
頭まですっぽり布団に潜った陸は、言いかけた言葉を聞き返すことを、拒むようだった。
「…おやすみ」
陸に背を向けて、枕に頭を沈める。
抱き枕の向こうの膨らみは、触れたいのに、遠い。
この距離がもどかしい。
陸にもっと近づきたい。近づくことを、許して欲しい。
──好きだって伝えたら、それは叶うのかな…。
視界に滲む月明かりの影。
自分の肩を抱くようにして、俺も眠りについた。
