「ただいま」
「ただいまー…わあ!」

4日ぶりの幽霊小屋は、玄関ドアを開けた途端、切りたての木材やニスの匂いがした。
床や壁が部分的に新しい木に張り替えられ、カーテンレールも、コルクボードも設置されている。

「すっご!ボロ感が薄れた!」
「ああ、なんか明るくなった気がするな!」

そして、最も部屋の印象を変えているのは、2階に続く階段が綺麗に修復されていること!

「楓!2階に行ってみよう!」
「行く行く!」

帰宅早々、荷物はその辺に放り出し、階段へと急ぐ。
幽霊小屋に初めて陸と来た日、2人で押し合うように登り、崩れ落ちた階段。
今となってはそれも思い出の一つ。陸に続いて、2人で駆け上る。

階段を登った先、真正面は壁。右手の壁には小さな窓があり、左手に伸びる廊下を、日が照らしている。
廊下の片側には壁はなくて柵だけ。だから、一階の吹き抜けからも、ここに並ぶ2部屋は、ドアだけは見えていた。

「手前の部屋から開けてみよう」
「またドアノブ壊すなよ?」
「わ、わかってる!」

サッと頬を染めて、焦った声を出す陸。1ヶ月ほど前、陸が馬鹿力で玄関のドアノブを壊し、窓から出入りしていたのを、既に懐かしく感じる。
陸がそっとドアノブを捻る。
キィ…という音と共に、部屋の中で停滞していた空気が静かに動いた。

「ここは…書斎か?」
「ぽいね。」

部屋の中心には、奥の窓を背にするように、立派な木製デスクが一台置かれている。両側の壁には、天井まである棚。でも棚の中は殆どが空っぽだ。下段に背の高い本のようなものが並べられていて、中段以上は、比較的新しそうな本なんかがスペースを持て余すように平置きされていた。

「これはコップ…?」
「コップにしては使いにくそーだけど。…てか、どっかで見たことあるような…。」

陸が棚に2つ飾られていた木工工芸品のようなものの1つをを手に取る。マグカップのようだけど、持ち手が、取っ手というより穴が空いているだけ。カップの一部が引き伸ばされて、指を通せる穴が2つ空いている。
既視感のある形。俺も1つを手に取り、記憶を辿る。

「…あ。それさ、小日向さんのキーホルダーに似てない?」
「あ、確かにそうだ!」
「この小屋、今の寮に建て替える前までは、寮の管理人が住んでたって、前に前野先生が言ってたじゃん?この部屋とか、小日向さんが使ってたのかも?」
「そうかもしれないな。それじゃあこれは小日向さんのものか?」
「もしかしたらね。これも、今度小日向さんに持っていってあげてもいいかもねー」

無くしたキーホルダーを受け取った時の、小日向さんの慈しむような目を思い出す。
どこかの国のお土産かな。陸が棚にコップを戻すのを尻目に、俺のデスクの上に置かれた一冊の分厚い本に近付いた。
ハードカバーの表紙には「蒼泉台高等学校 卒業アルバム」と書かれている。

「陸、これ30年前の卒業アルバムだ!」
「30年…。なぜそんなものがここに?」
「棚の1番下に、似た背表紙の本が並んでるからさ、ここに住んでた管理人さんが、この部屋に過去のアルバムを保存してたんじゃね?」

分厚い表紙を捲ると、張り付いていたページが剥がれるベリッと言う音がする。

「え、校舎めっちゃ綺麗じゃん?」
「30年前から制服は変わらないんだな。」

見知った景色なのに、どこかが違う。綺麗な校舎に、こざっぱりした森、建設されたばかりの寮。
30年前のこの学校の景色に、タイムトラベルした気分で興味深々にページを捲る。

「え!これ…!」
「小日向さん、先生だったのか…!」

クラスごとのページをめくっていくと、「小日向 晴彦(はるひこ)」という名前と、若い小日向さんの写真が大きく載っていた。30代くらいだろうか。端正な容姿に、今と変わらない優しげな笑顔。健康的に焼けた肌が、溢れる白い歯と白シャツをより爽やかに見せている。

「わー、爽やかイケメンじゃん」
「楓!こっちは前野先生だ!」
「え!?わっ、本当だ!」

小日向さんの写真の横に、副担任として小さく写っていた赤いネクタイに七三分け男性教師は、「前野 大輔」と書かれている。間違いなく、若かりし頃の前野先生の姿。今では力強い目と、厳しさを感じる太眉が印象的だけど、それらも、当時はくりっとした瞳と真面目そうなキリッとした眉。どことなく、愛嬌のある青年という印象を受ける。

「時間って恐ろしいわ…」
「だいぶ印象が変わったな。」
「これ、まだ新任かな?今は多分、50代くらいだもんね。流石に赤ジャージはまだ着てなかったか~」
「そうだな。社会人の娘がいると言っていたから、多分そのくらいだろう」
「…え、お前、前野先生とそんなこと話してんの?」

俺の知らぬ間に脳筋同盟でもできていたのか、二人は思ったより仲が良いらしい。
またペリペリとページを剥がして捲る。30年前の流行の髪型とか、制服の着崩し方とか、そんな話をしながら見ていくと、最後のクラスのページで陸が1人の生徒を指差す。

「この人、すごく綺麗だ」
「エリアス・リンドストローム…って」

朧げな記憶を確かめるため、ポケットからスマホを出し、蒼泉台高校のホームページにアクセスする。

「やっぱり。陸、これ理事長だ」
「ええ!」

日本人ばかりの顔写真のなか、一際目を引くシルバーに近い金髪にグレーの瞳。中性的な美しい顔立ちは、もはや人形のよう。日本人と比べ、少し大人びて見えはするものの、大人と子供の境目のような危うい美しさを感じる。

「やっぱ美形だなー。ここまで綺麗だと、近寄りがたささえありそーだけど。」

そう言いながら、陸をチラリと見る。
陸もかなり美人だけどね。ただ、行動は脳筋だし、口をひらけば発言は天然だけど。

「そういえば、祐希人も瞳がグレーだったよな」
「あん?」
「え?」
「…陸ってさ、伊吹のグレーの目、好きなの?」

急に出てきたライバルの名前に喧嘩腰な返答をしてしまう。声には不機嫌さが混ざるのを隠せない。
確かに伊吹は、理事長と同じ、日本人らしくない綺麗な髪色や目の色をしている。顔立ちは日本人らしいけど、整っている。…あれが好きだと言われたら、俺に勝ち目なんて、あるの?

アルバムに手をつき、一歩、陸に近付く。あの日、伊吹が陸に触れたときのことを思い出す。
伊吹が触れたように、俺も…。
陸の耳元に、躊躇いながら手を伸ばす。ゆらり揺れた黒い瞳には、拒絶の意思はない。そっと、その黒い髪を指で梳かす。陸に触れる指先が熱い。今だけ、時間がゆっくり流れているように感じる。

「…っ」

指先が耳を掠めた瞬間、陸がビクッと小さく体を震わせる。そんな反応が、俺の焦がれと嫉妬心を強く煽る。
逸る心を抑え、そのまま、陸の顎を持ち上げた。風のない水面のように、美しく澄んだ黒い瞳を覗き込む。

「陸はさ…、どんなことされたら、意識する…?」

微かに震える、低い声で呟いた。
俺が、陸の心を揺らしたい。
陸の瞳に映るのは、俺だけがいい。

「え…?」
「だから、なんてゆーか…」

次第に緊張で指先が冷たくなる。けど顔は熱い。陸に、どう伝えよう。
言葉を探しているうちに、視線が落ちていく。

「…どんなことされると、ドキドキするってゆーか…、その…好きになっちゃう?…恋愛の、意味で…」
「れ、恋愛の意味で!?ええっと…?」

肩を跳ねさせ、一歩後退りする陸。素で驚いた反応。
頬を染めた陸の顔が一歩分遠ざかり、何も支えるものがなくなった俺の右手は、大人しく体の横に戻る。

「うーん…。」

照れを滲ませながら、真剣に考える陸。その間の時間が、妙に長く感じる。先ほどのゆったりした時間とは違い、もどかしさが募る時間。鼓動が早くなる。
しばらくすると、陸は眉尻を下げて残念そうに口を開いた。

「すまない、そういう風に人を好きになったことがないから…分からない」

陸の回答を頭の中で2,3度反復して、はぁっと息を吐く。いつの間にか止めてたみたい。

「…そーですか」

俺としては、結構勇気を持って聞いたんだけど、収穫はなし。陸は申し訳そうにしながらも、「なぜ突然そんなことを?」と聞いてくる。全然ピンときてないし。
正直、もう全く興味を持てないアルバムに視線を戻す。ただページを剥がすだけの作業。

「楓はどうなんだ?」

陸の声はいつも通りのトーン。世間話の一つとして振られてるだけなのが悲しい。

「俺は…、」

チラッと陸を見る。アルバムを眺める横顔に日がかかり、白い肌と黒髪が眩しいほどに照らされている。
陸を意識したきっかけ。目の前に広がる、花びらと水飛沫の景色。
あの瞬間から、俺は陸のことが好きだったんだろう。俺が守ってきた「他人との距離」に飛び込んできた、初めての人。

「…押し倒されたら、かな」

陸と初めて出会ったとき。
俺が陸を好きだと自覚したとき。
陸は2回も、俺に飛び込んできたんだ。

「お、押し倒…っ!?」

顔を真っ赤にして、丸い目で俺を見る陸。

「なんというか…、積極的なアプローチが好きなんだな…?」

赤い顔のまま視線を逸らし、ゴホンと咳払いをする陸。
お前のことだよ、という言葉は飲み込む。
俺にとっては大きな出来事だったけど、陸には心当たりがないみたい。陸にとっては、取るに足らないことってわけね。分かってはいたけど、残念な気持ちが膨らむ。
唇を尖らせ、手元のアルバムをパタンと閉じる。まだ途中だったアルバムを急に閉じた俺を、陸は不思議そうに見つめた。

「次の部屋いこーぜ」 

陸を避けて、大股で部屋を出る。一拍遅れて陸も部屋を出て、俺に追いついた。

「待ってくれ、楓」
「はーい、開けるからねー」

つまらない気持ちを切り替えようと、ドアノブを捻る。ガチャリという音と共に、薄暗い部屋が開かれた。
目の前に現れたのは、部屋の真ん中に鎮座する、一台のキングサイズベッド。

「げ」
「おお、ベッドがあるというのは本当だったんだな。良かったな楓!毎日、敷布団で身体が痛いと嘆いていたじゃないか」
「…ムリ」
「ん?」
「だって、い、一台しかないじゃん!」
「でも大きいぞ?これなら2人で寝れるだろ」
「あー!もー…」

好きなやつと同じベッドで、寝られるわけないじゃん!
心の中では思いっきりツッコミつつ、口から出た意味のない声は小さく消えていく。
そのまま黙ってその場にしゃがみ込んだ。

俺ばっかり、陸の言動に振り回される…。

片思いってもどかしい。どうしたら陸に意識してもらえるんだろ?
俺の挙動を心配したのか、陸が一緒にしゃがみ込んで肩に手を置く。

「…楓、さっきからどうしたんだ。大丈夫か?」
「だいじょ…ばない」
「…そうか。わかった。じゃあ、俺は今まで通り下で寝るから、楓が一人でこのベッドを使うといい。それでいいか?」

バッと顔を上げる。いいわけない。違う。陸と同じベッドが嫌なわけじゃ無い。むしろ嬉しい。一緒に寝たい。でも…!
もし寝返りを打って目の前に陸の寝顔があったら?鼓動が聞こえるくらい密着しちゃったら?
桃色なご都合妄想が、爆発的に頭を駆け巡る。

「お前は、気にしねーの?寝てるあいだに…ぶつかったりするかもだけど…」

「ぶつかる」とは、この場合、事故以外の接触も含んでいる。下心を抑えきれない自分にちょっと自己嫌悪。後ろめたさから、陸から目を逸らしてしまう。

「なんだ、そんなことか。待ってろ」

安堵したように微笑むと、どこか嬉しそうに部屋を出て階段を駆け降りていく陸。膨らんだ妄想と罪悪感と共に部屋に置き去りにされる俺。
陸は階下でガサガサと音を立てて、すぐに元気よく階段を駆け上って戻ってきた。

「ほら、楓!これで安心だろ?」

陸が手にしていた圧縮袋をブチリと開ける。取り出した白い潰れた円柱状のものが、モコモコ膨らんでいく。デカい。それに、…ゆげまるの顔が見えるんだけど。

「それって…」
「家から持ってきていたんだが、邪魔になるかもしれないと思って、ずっと使っていなかったんだ」

ボヨンと膨らんだそれは、ゆげまるがプリントされた、巨大な抱き枕。

「ゆげまるさんを間に置けば大丈夫だろ?」

150㎝ほどあるだろうか、枕を持ち上げる陸の顔を隠すほどのデカさに、俺の桃色妄想も押し潰された。
体の力が抜ける。

「そーだね…はは」

ゆげまるの顔の横には、「煩悩ごと抱きしめるフワ」と書かれている。ゆげまるって、闇があるキャラとは聞いてたけど、そういうこと言う感じなの?
現実逃避のように思考が明後日の方へいく。
すると、ふと、陸が思い出したように「あ、」と声をあげた。ひょこっと、ゆげまるの後ろから顔を出す。

「恋愛とは違うかもしれないが…」

陸がぎゅっと抱き枕を抱きしめる。プリントされているゆげまるの顔が歪む。

「さっき、楓に見つめられた時は、…ちょっとドキドキした…。」
「え…」

胸の中で、甘いさざ波が立つ。
カーテンから滲む仄かな光の中、陸の潤んだ瞳が艶やかに光った。恥ずかしいのか、抱き枕に顔を埋めるようにして、口元を隠す姿がいじらしい。

「祐希人の目も綺麗だとは思うが…。楓の目って、なんだか…甘そうに感じるんだ。…チョコレート色、だからか…?」
「…」
「楓?」
「ふ、ふーん?」

ヤバい、嬉し過ぎる。心拍数が上がる。
全身に幸せがほとばしって、身体の端々が痺れた。勝手に顔がニヤけるし、声も上擦っちゃう。

「陸、俺のこと好きなわけ?」

ニヤけ顔は我慢して、あくまで余裕そうに、冗談めかして聞く。このままの勢いで、好きって言ってくれ!そんな念も込めつつ。

「楓のことは好きだぞ?」
「…」

心臓がギュンとなる。でも違う!陸の言った「好き」は、俺が求めてる「好き」じゃない!
だって、さっきまでのいじらしい感じはどこへ行った?って言いたくなるくらい、恥じらいもなく、真顔で答えてるし!
100%恋愛の「好き」じゃない。陸、さては現国苦手だろ?
俺はガクリと肩を落とした。

「…ありがと」
「ああ。あ、そうだ、下のコルクボードにゆげまるさんステッカー、貼ってもいいか?」
「どーぞ」

巨大抱き枕をベッドに放り出し、階下に戻る陸。俺は廊下に出て、コルクボード前でぴょこぴょこ動く愛おしいつむじを眺め、ため息をつく。
まあ、望みナシってわけじゃ…なさそうだし…。

「楓!まどかちゃんからもらった鍵も、ここに飾るのはどうだろう?」
「いーじゃん!あと、ホワイトボードも掛けるから、スペース空けといてよー」
「わかった!」

俺を見上げて、楽しそうに笑う陸。
片手を軽く振って、「よろしく」と返事すると、寝室に戻り、カーテンを開けた。
溢れるほどの初夏の明るい光が、部屋の中に満ちる。窓も開ければ、埃っぽい空間に、爽やかな風と緑の香りが吹き込む。どこかの木から、楽しげな鳥の囀りも聞こえた。
大きなベッドを振り返り、胸に手を当てる。

ゆっくり、瞳を閉じる。

体の温度が手のひらに移り、高鳴る鼓動が静かに呼吸と溶け合った。

───自分の心に、素直に。

この気持ちは、きっと、陸に渡すためにある。
受け取ってもらえないかもしれないし、そんな未来は、確かに怖い。

でも、俺のこの気持ちは、本物だ。

だから、きっと、陸に伝えよう。
お前のことが、好きなんだって。

初夏の瑞々しい空気の中。
俺は、自分の心と、小さな約束を交わした。