コーヒーにミルクと砂糖を混ぜてカップに口をつける。程よい苦味が心地よい。やっと肩の力が抜けて、改めて店内をよく見た。
街中のパン屋らしく、店内はどこか懐かしさと温かみがあった。バスケットにはフランスパンが、木製のトレーには惣菜パンや菓子パンが並び、猫の頭の形にカットされた小さなカードには手書きで丁寧な商品説明が書かれている。よく見ると店内のあちこちに猫の置物や肉球のマークがある。
「パ・ドゥ・シャって素敵な名前ですね。お店の雰囲気にもピッタリで」
堪らずそう話しかけると、レジを操作していた穂咲が明るい表情でパッと顔を上げた。
「あれ! もしかして、クラシックバレエ経験者ですか?」
「あ……はい。昔少しだけ。猫のモチーフが沢山あったんでそうかなって。たしか"パ・ドゥ・シャ"って、猫の足取りって意味ですよね」
バレエの動きにパ・ドゥ・シャと呼ばれるものがあった。猫のように軽やかに足を曲げて飛び跳ねる動きでそういう意味があったはずだ。
店名を言い当てられたのが嬉しかったのか穂咲はニコニコと笑いながら手を動かす。忙しそうだったので、会話はそれで終わらせた。
碧に視線を戻した。バスケットにそれなりの量が入っていたはずのパンをもう全部食べきっていた。満足げにジュースを飲見ながら店内をキョロキョロと見回す。
「ママー、ぱんかってかえろ!」
家にはまだ開けたばかりの食パンがあることを思い出す。けれど今ここで「ダメ」と言えば、せっかく直った機嫌がまた急降下するかもしれない。
「一つだけよ」とげると、わぁい、と席を飛び降りた碧は一目散にトレーに駆け寄り金色のトングをカチカチと鳴らした。
その時、ちりんちりんと軽やかな鈴の音色が聞こえた。他の客が来てドアベルがなったのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。
「にゃんにゃん!」
嬉しそうに目を輝かせた碧がレジを指さす。振り向くと赤い首輪をした茶トラ猫がレジの上に座っていた。
「あ、すみません。うちの看板猫の小麦です。毛が入らないようには気を付けてるんですけど、気になるようでしたら戻します」
だから全てのパンが袋詰めされていた上に、店名がパ・ドゥ・シャというわけか。
昔実家でも猫を飼っていたので、そこまで神経質でもない。大丈夫ですと答える。興味津々の碧がレジに乗り出して手を伸ばした。小麦は嫌がる素振りも見せず、乱雑な碧の手つきもお構い無しに毛ずくろいに真剣だった。
「碧、早くパン選んで」
長くなりそうなのでそう声をかける。ちょっと不貞腐れた顔をした碧が戻ってきてトングを取った。店内を一周したあと、「あおくんこれにする!」とひとつ掴む。トレーに置こうとしたそれはピザパンだった。
「それはダメ碧」
輪切りのピーマンが乗っているのに気付いて直ぐにトングを取上げ戻した。一口食べて違うのがいいと泣き出すのが目に見えている。
「あおくんこれがいいの! たべるの!」
「残すからダメ。食べられるものにしなさい」
「あおくん食べれるもん!」
「前にもそう言って結局残したでしょ! 食べ物を粗末にするくらいなら、ママは買わないよ」
たちまち鼻を赤くした碧がふぇ、と唇をへの字に曲げる。思い出したように頭の奥がジンと痛みだす。あらら、と困った顔をした穂咲に一気に居心地が悪くなる。
さっき碧が気に入って食べていたチョコチップが練り込まれたデニッシュパンを掴んでレジに急いだ。財布から金額丁度の小銭を置いて「レシートは結構です」と早口で告げる。袋詰めされたパンをカバンの中に入れていると、小麦の丸い目がこちらを見あげているのに気付いた。
「あの」
「ありがとうございました。また後日お礼に来ます」
碧の手を握り頭を下げる。逃げるように店を出る。ドアベルは変わらず優しい音を立てた。