病室で本を読む時間が好きだった。最近はバスケと勉強と理紀の相手が忙しくて、本を読めるのはこうして何日か入院することになった時くらいに限られていた。

 静かな午後だった。今日は難しい検査もなく、ひたすら静養すればいいだけの時間だ。本を読みすぎても「疲れるからダメ」と看護師さんに怒られるけれど、他にやりたいことは特にない。昼寝をするほど疲れてもいないし、やっぱり本を読むしかなかった。

 休憩がてら、日が長くなったな、と窓の向こうの夕刻の空に目を向けていると、誰かが病室のドアをノックした。僕の返事を待たずドアは開かれ、理紀が嬉しそうに入ってきた。

「よっ」

 なにが『よっ』だ。僕は反射的に理紀をにらんだ。

「部活は」
「ん?」
「『ん?』じゃない」
「だって、ごっちが休んでいいって言ったから」

 ごっちのヤツ、と僕は目を眇める。間違ってもキャプテンに部活をサボっていいなどと言ってはいけないというのに。まったく、あいつはどこまでも理紀に甘いから困る。甘やかし王だ。理紀だけでなく、みんなに優しいのがごっちのいいところではあるのだけれど。

「すず」

 いつものスポーツバッグを放り出すように床へ下ろすと、理紀は僕の右側に立ち、僕の髪をそっとかき上げた。

「よかった。顔色は悪くないな」

 あらわになった僕の額に、理紀は静かに唇を寄せる。僕らの他に誰もいないのをいいことに、理紀は額だけじゃ飽き足らず、僕の唇まで奪いに来た。
 すぅっと吸い込まれるように目を閉じる。柔らかな感触が心地よい。このまま理紀のくれるぬくもりに浸っていたいな、なんてことをつい思う。恥ずかしさはあるけれど、今はただ、理紀がそばにいてくれることを実感できる時間が愛おしかった。

 挨拶代わりの短い口づけを終えると、理紀は僕に尋ねた。

「調子はどう?」
「いいよ。明日の検査結果次第だけど、よければ明後日には帰れるんじゃないかな」
「期待できそうなのか」
「さぁ。おれの心臓は気まぐれだから」

 今日が絶好調だからといって、明日もそうとは限らない。タイミングが悪いと検査で引っ掛かり、再検査でOKが出るまで入院生活が続く。僕にできることは、今回がそうならないことを祈るだけだ。あとは、できるだけ出歩かず、安静にしていること。それくらいだ。

「早く帰ってきてくれよ」

 すずは部屋の壁際に寄せてあった丸椅子を引き寄せ、腰掛けながら僕の右手を握った。

「朝、一人で学校行くのさみしい」
「ごめん。がんばるよ。おれもこんなとこにいつまでもいたくないからさ」

 早く退院したいな、と強く思った。理紀の悲しそうな顔をこれ以上見ていたくない。

「ごめん、本当に」

 時間が経てば経つほど、昨日、おとといの愚かな自分が嫌いになった。僕は自然と顔を下げる。

「どうかしてた。いろいろしんどくて、体調も悪くなるばっかりだし、このまま死んだほうがマシかもって……久々に、思った」

 たまに思うことがある。僕のいない世界のほうがずっと平和で、ならばいっそ、僕は消えてしまったほうがいいのではないか、と。
 つらくなったら理紀に相談するのがいつもの僕だったけれど、その理紀とケンカして、なぜかうまく謝れなくて、気づけばこのザマだ。情けない。
 もっと早く理紀の胸に飛び込んでおけばよかった。理紀はきっと手放しで僕を受け止め、すべてを許してくれたはずなのだから。

「そっか」

 理紀は僕の手を握ったまま、暗い顔をしてつぶやいた。

「そこまで追い詰めてたのか、俺は。おまえのことを」
「理紀」
「ごめんな。しんどかったこと、気づいてやれなくて」
「違う。おまえはなにも……」

 言いかけた僕を遮るように、理紀は首を横に振った。

「ごっちに叱られたんだ。俺は、俺の気持ちばっかりをすずに押しつけすぎだって。すずの気持ちを全然考えてないって」

 ごっちが理紀にそんなことを。僕は素直に驚いた。
 顔を上げた理紀と目が合う。後悔して、けれどその場所で立ち止まらず、理紀の瞳は次のステップへ進もうとする強い光を湛えていた。

「これからは、もっとおまえの話を聞く。おまえの気持ちを大事にする。俺だけが満足する答えを求めない。俺たちは、二人で一つだから」

 僕に伝えてくれているようで、理紀自身に言い聞かせているのだなと僕には感じられた。
 悪いことじゃない。変わろうとしたり、なにかを変えようとしたりするにはパワーがいる。もちろん、理紀一人じゃ成し得ない。僕も協力して、成し遂げる。
 なんと言っても理紀と僕は、二人で一つなのだから。

「できるの?」

 理紀があまりにも健気な顔をするものだから、僕は少しだけ、理紀にいじわるをしたくなった。

「おまえ、本っ当におれの話聞かないけど」
「聞く。今日から」
「無理じゃない?」
「できる」

 親を説得する子どもみたいな顔をする理紀。いじらしくて、どこまでもかわいい。僕が声を立てて笑うと、「バカにするな」と理紀はむくれた。

「やるって決めたらやるからな、俺は」
「へぇ。それは楽しみだ」
「思ってないだろ、絶対」
「思ってる、思ってる」
「思ってない」

 理紀がスッと腰を上げる。なにをするかと思えば、大きな右手で僕の両頬をぶにゅ、とつかみ、ぐっと顔を近づけてきた。

「あんまりうるさいと、その口、ふさぐよ?」

 僕はなにも言わなかった。理紀はどうするかな、と様子を窺っていたけれど、手の力が緩んだ瞬間、僕の唇をそっと奪った。
 結局ふさぐんだ、と心の中だけで思いつつ、僕は理紀のしたいようにさせた。いつものことだ。僕から離れ、満足そうに笑った理紀の顔を見ればなお、こうさせておくのが正解だったのだと思える。

 そうだ、と理紀はなにかを思い出したように、床に置いたスポーツバッグの中に手を入れた。

「はい、これ。みんなから」

 取り出されたのはペットボトルやジュースの缶だった。色とりどりのそれらはすべて学校の自販機で売っている飲み物たち。本数を数えると、ちょうど僕を除く二年生のバスケ部員の数になった。一人一本、僕へのお見舞いとして買ってくれたらしい。

「ありがとう。うわ、これちょうど飲みたかったやつだ」

 僕はゼリー飲料の小ぶりの缶を取り上げる。ぶどう味で、つるつるした食感が絶品なのだ。けれど「冷やしてからな」と理紀にひょいと奪い取られ、缶たちは一つ残らず理紀によって備え付けの冷蔵庫に収納された。

「みんな待ってるよ。おまえがいないと、練習の準備に手こずるから」
「ホントか? 田平なんかがササッと動いてくれるだろ」

 気の利く後輩がいてくれるおかげで、僕の復帰が遅れてもバスケ部の練習は滞りなく行われるだろうから助かる。性格はおとなしめで穏やかな男だから、理紀のようにみんなを引っ張っていけるタイプではないかもしれないけれど、田平がいればバスケ部の未来は安泰だ。これからもきっと、いいチームのまま続いていく。

「その田平だけどな」

 不意に理紀が表情を緩め、田平の話をし始めた。

「おもしろい話があって」
「おもしろい話?」
「うん。ほら、あいつこの前の部活で、俺にカノジョがいるかどうか訊いてこいって命令されてただろ、同級生の女の子に」
「あぁ、昨日おまえに告ってた子ね」
「それがさぁ、違うんだよ」
「ん?」
「あの子、本当は田平のことが好きなんだってさ」
「えっ」

 思わず前のめりになってしまった。話が見えない。

「どういうこと?」
「その子、梶原さんっていうんだけど、ゆりかちゃんの中学時代の後輩なんだって」

 あぁ、と僕はその先を聞かずとも理紀の言いたいことがわかってしまった。

「ごっちの話か」
「そう。俺にフラれたゆりかちゃんが結局ごっちと付き合ってるっていう話を聞いて、田平もごっちみたいに自分を慰めてくれるか、あわよくば『オレにしなよ』みたいに言ってもらえるか、試そうと思ったんだって」
「それって」

 察した顔で僕が言うと、理紀は「そう」とあきらめたような顔で肩をすくめた。

「俺はあの子に利用されたってわけ。はじめてだよ、二人きりになった瞬間『ごめんなさい』って言われたの」

 僕は声を立てて笑う。「なにもしてないのにフラれた」という理紀の言葉を聞いてさらに笑うと、理紀も一緒になって笑った。
 一方で、僕は一人ホッとしていた。「そういうことか」とつぶやくと、理紀は「え、なに?」と言った。
 僕は静かに首を振る。そう、これは僕側の問題だ。
 だからあの時、理紀の笑顔は生き生きして見えたのだ。好きだと言われるたび、断られる相手の子の気持ちを想って申し訳ないと自分を責めてきた理紀だけれど、今回に限ってはそうならなかった。優しい理紀のことだ、梶原さんというその子の本当の気持ちを知って、むしろ応援してあげたいとすら思ったに違いない。

 なんだ、と僕は安堵して、僕自身に呆れた。僕以外の誰かと楽しそうに笑っている理紀を見て、ただヤキモチを焼いていただけだったなんて。その結果、理紀に大きな心配と迷惑をかけてしまったなんて。

 無意識のうちに理紀の熱を探し、右手を理紀の左手の上に重ねた。理紀はすぐに握り返してくれて、目が合うと、僕に優しく微笑みかけてくれた。

「どうした?」
「別に」
「『別に』ってことないだろ」
「いいの」

 理紀の隣がいい。改めて口にするのは恥ずかしいけれど、きっと理紀にも伝わっていると信じている。
 僕の存在は、今日も変わらず理紀の人生の最優先事項だ。ときどき重いし、明らかにタイミングを間違えている時もあるけれど、それでもやっぱり、理紀が一緒にいてくれると嬉しい。安心できる。明日が無事に来るような気を強く持てる。

 がんばって生きなくちゃな、と改めて思う。無理をせず、理紀に心配をかけないように。
 あわよくば、理紀の心の支えになれるように。理紀が僕をいつでも救ってくれるヒーローであるように、僕も理紀が苦しい時には助けてあげられるように。それは少し、高望みしすぎかもしれないけれど。

 理紀がバスケの話をし始める。僕は楽しそうに語る彼の話を楽しんで聞く。
 いつもの会話。いつものテンポ。
 これがいい。ここが病室でなければもっと最高。

 理紀が笑う。僕も一緒になって笑う。
 こんな日々がずっと続きますように。そう願いながら。


【隣のヒーローくん/了】