***
「それじゃ、このあと昼練だから」
「はい。お騒がせしてごめんなさい、貴重なお昼休みだったのに」
「いえいえ。またなにかあったら遠慮なく言ってよ。できる限りの協力はするから」
「ありがとうございます」
梶原真菜羽と名乗った田平のクラスメイトは、清々しい笑みを浮かべてお辞儀をし、理紀の前から立ち去った。中庭に残された理紀の表情も晴れやかで、足もとに置いていた水筒を拾い上げると、軽快な足取りで体育館へと向かった。
他のバスケ部員はみんな顔を揃えていて、理紀が一番最後だった。ぐるりと一周コートのほうを見回すと、そこでようやくすずの姿がないことに気がついた。
「保健室へ行ったぞ」
理紀が尋ねる前から、副キャプテンのごっちがすずの居場所を教えてくれた。
「えっ」
「体調がよくないらしい」
ごっちが言い終える前に、理紀は体育館を出ようとした。
けれど、できなかった。ごっちに腕を強く掴まれ、それ以上走ることは許されなかった。
「離せよ」
「ダメだ」
「は?」
「涼仁にそう言われている。おまえにここで練習を仕切らせるようにと」
「すずが」
様子を見に来るな、ということか。すずの言いそうなことだ。
「一人で行ったの」
「そうだ」
「どうして。あいつを一人にしたら……」
「理紀」
腕を掴むごっちの手に力が入る。握力が強いから、腕の筋肉がねじれる感じがして痛んだ。
「おまえの気持ちはよくわかる」
手の力とは裏腹に、ごっちはどこまでも優しいバリトンボイスで言葉を紡いだ。
「だが、涼仁の気持ちも少しは考えてやれ。誰にだって、一人になりたい時ってのがあるものだろう」
一人になりたい時。
すずは今、一人になりたい時なのか。
理紀が言葉を失っていると、ごっちはようやく手を離してくれた。
「たいしたアドバイスはしてやれないが」
控えめな前置きを据えてから、ごっちは理紀の目をまっすぐに見た。
「人の想いってのは、一方的になればなるほど相手の気持ちからは遠ざかる。これまでの自分を振り返ってみろ。おまえは涼仁に寄り添っているようで、ただ涼仁におまえの気持ちを押しつけるだけになっていないか?」
胸に刺さるような痛みを覚え、理紀はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
寄り添っているようで、気持ちを押しつけているだけ?
思考がついていかない。俺はただ、すずのことが好きで――。
瞳を揺らす理紀を前に、ごっちはやれやれといった風に息をついた。
「涼仁は立派だよ。明日死ぬかもしれないという重い病気をかかえながら、自分のことより、おまえのことを一番に考えているんだからな」
「俺のことを」
「そうだ。おれは病気なんだから、と卑屈になることがないだろう、あいつは。普通なら、おれは病気なんだから配慮されて当たり前、気づかわれて当たり前。そう思う気持ちをかかえていても不思議じゃない。でもあいつは、そうした気持ちを一切持たない。自分の周りの人間が、自分の病気に振り回されることなく自由で楽しい時間を過ごせるように。それだけを考えて、自分よりも周りを優先して動こうとしている。もちろんうまくいくことばかりじゃあないが、あいつがその気持ちを忘れたことは一度もない」
おまえが一番よくわかっていることだろう、とごっちは言った。
「涼仁は常に悩んでいる。自分がバスケ部にいてもできることなんてほとんどないが、辞めればおまえも一緒になってバスケを辞めようとしてしまう。自分の無力さにどれだけ絶望しようとあいつがバスケ部を辞めないのは、おまえにバスケを続けてほしいからだ。おまえが心置きなくバスケと向き合えるように、あいつなりに、不自由なからだで必死におまえをサポートしようとしている。わかるか、理紀。あいつはおまえに、バスケをしていてほしいんだよ。自分のせいで、おまえがバスケをできないこと。涼仁にとって、それがなによりもつらく苦しいことなんだ」
ごっちの言葉の一つ一つが、全身に重くのしかかってくるようだった。理紀は指先にかすかな震えを感じ、両手をきゅっと握りしめる。
すずを守っているつもりだった。いつでもそばにいて、病気で苦しくなったら助ける。それができるのは自分だけだと思っていた。すずのためにできることならなんでもする。そう決めていた。
それがごっちの言う、理紀の気持ちだけをすずに押しつけている状況、ということなのか。「俺が守るから」とは言うけれど、すずに「どうしたい?」と訊いたことはない。たぶん、一度も。
すずの言葉を思い出す。――おれ、バスケをしてる時のおまえが一番好きだよ。
自分のことより、周りの人間のことを大切にできる人。
だから俺は、すずのことが好きなのか。すずは俺のことを、誰よりも大事に思ってくれているから。
「そろそろネタ切れだな」
ぐるぐるとめぐる思考と格闘している理紀の耳に、ごっちのつぶやく声が聞こえてきた。「え?」と言って顔を上げると、ごっちは肩をすくめ、体育館の壁にぶら下がる時計に目を向けた。
「『どんな手を使ってもいいから、おまえを昼練に行かせろ』と涼仁から言われてな。しゃべっているうちに時間が過ぎればいいと思ったが、あまりうまい方法じゃあなかったか」
一時六分。昼練の開始時刻はとうに過ぎているけれど、おそらくすずが望んだのは時間いっぱいの足止め。そういう意味で、ごっちは手段の選択ミスを悟ったようだった。
ごっちは掴んでいた理紀の腕から手を離した。
「おまえが決めろ。保健室へ行くか、ここに残るか。オレは涼仁だけの味方をするつもりも、おまえだけの肩を持つつもりもない。おまえたちのもめごとは、おまえたちで解決してくれ」
その言葉を最後に、ごっちはすでに始まっている昼練の輪の中へと入っていった。自分も行くべきだろうか、と一歩踏み出し、理紀はすぐに足を止めた。
すずは無事に保健室へたどり着けただろうか。ごっちは大丈夫だと言ったけれど、昨日の夜、副作用のある強い薬を飲んでいる。そうしなければならないほど容態が悪かったのだ。今までの感じだと、あまり悪いようなら入院治療になって、いつまた学校に行けるかわからない。
ダメだ。理紀は静かに目を閉じた。
ごっちの話も、すずの気持ちも理解はできる。けれど、自分の心に嘘はつけない。今はとても、バスケの練習なんてしていられない。
「ごっち」
理紀はシュート練習を始めたごっちに、サイドラインの外から声をかけた。ごっちはボールを持ってかまえた手を止め、理紀と向き合ってくれる。
「もし、ゆりかちゃんがすずと同じ状況だったら、ごっちはどうする?」
もしも大切な人が、誰にも頼れず、一人どこかで病に苦しんでいるとしたら。
ごっちはしばらく考えて、やがてこう答えた。
「最初に言ったはずだ。おまえの気持ちはよくわかる、と」
紛れもなく、理紀の背中を押す一言だった。ごっちの優しさ、いや、情に弱いところが、今だけは理紀の味方をした。
理紀は体育館を飛び出した。頼むから、無事に保健室にいてくれ。それだけ確認したら昼練に戻る。そう決めて。
「それじゃ、このあと昼練だから」
「はい。お騒がせしてごめんなさい、貴重なお昼休みだったのに」
「いえいえ。またなにかあったら遠慮なく言ってよ。できる限りの協力はするから」
「ありがとうございます」
梶原真菜羽と名乗った田平のクラスメイトは、清々しい笑みを浮かべてお辞儀をし、理紀の前から立ち去った。中庭に残された理紀の表情も晴れやかで、足もとに置いていた水筒を拾い上げると、軽快な足取りで体育館へと向かった。
他のバスケ部員はみんな顔を揃えていて、理紀が一番最後だった。ぐるりと一周コートのほうを見回すと、そこでようやくすずの姿がないことに気がついた。
「保健室へ行ったぞ」
理紀が尋ねる前から、副キャプテンのごっちがすずの居場所を教えてくれた。
「えっ」
「体調がよくないらしい」
ごっちが言い終える前に、理紀は体育館を出ようとした。
けれど、できなかった。ごっちに腕を強く掴まれ、それ以上走ることは許されなかった。
「離せよ」
「ダメだ」
「は?」
「涼仁にそう言われている。おまえにここで練習を仕切らせるようにと」
「すずが」
様子を見に来るな、ということか。すずの言いそうなことだ。
「一人で行ったの」
「そうだ」
「どうして。あいつを一人にしたら……」
「理紀」
腕を掴むごっちの手に力が入る。握力が強いから、腕の筋肉がねじれる感じがして痛んだ。
「おまえの気持ちはよくわかる」
手の力とは裏腹に、ごっちはどこまでも優しいバリトンボイスで言葉を紡いだ。
「だが、涼仁の気持ちも少しは考えてやれ。誰にだって、一人になりたい時ってのがあるものだろう」
一人になりたい時。
すずは今、一人になりたい時なのか。
理紀が言葉を失っていると、ごっちはようやく手を離してくれた。
「たいしたアドバイスはしてやれないが」
控えめな前置きを据えてから、ごっちは理紀の目をまっすぐに見た。
「人の想いってのは、一方的になればなるほど相手の気持ちからは遠ざかる。これまでの自分を振り返ってみろ。おまえは涼仁に寄り添っているようで、ただ涼仁におまえの気持ちを押しつけるだけになっていないか?」
胸に刺さるような痛みを覚え、理紀はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
寄り添っているようで、気持ちを押しつけているだけ?
思考がついていかない。俺はただ、すずのことが好きで――。
瞳を揺らす理紀を前に、ごっちはやれやれといった風に息をついた。
「涼仁は立派だよ。明日死ぬかもしれないという重い病気をかかえながら、自分のことより、おまえのことを一番に考えているんだからな」
「俺のことを」
「そうだ。おれは病気なんだから、と卑屈になることがないだろう、あいつは。普通なら、おれは病気なんだから配慮されて当たり前、気づかわれて当たり前。そう思う気持ちをかかえていても不思議じゃない。でもあいつは、そうした気持ちを一切持たない。自分の周りの人間が、自分の病気に振り回されることなく自由で楽しい時間を過ごせるように。それだけを考えて、自分よりも周りを優先して動こうとしている。もちろんうまくいくことばかりじゃあないが、あいつがその気持ちを忘れたことは一度もない」
おまえが一番よくわかっていることだろう、とごっちは言った。
「涼仁は常に悩んでいる。自分がバスケ部にいてもできることなんてほとんどないが、辞めればおまえも一緒になってバスケを辞めようとしてしまう。自分の無力さにどれだけ絶望しようとあいつがバスケ部を辞めないのは、おまえにバスケを続けてほしいからだ。おまえが心置きなくバスケと向き合えるように、あいつなりに、不自由なからだで必死におまえをサポートしようとしている。わかるか、理紀。あいつはおまえに、バスケをしていてほしいんだよ。自分のせいで、おまえがバスケをできないこと。涼仁にとって、それがなによりもつらく苦しいことなんだ」
ごっちの言葉の一つ一つが、全身に重くのしかかってくるようだった。理紀は指先にかすかな震えを感じ、両手をきゅっと握りしめる。
すずを守っているつもりだった。いつでもそばにいて、病気で苦しくなったら助ける。それができるのは自分だけだと思っていた。すずのためにできることならなんでもする。そう決めていた。
それがごっちの言う、理紀の気持ちだけをすずに押しつけている状況、ということなのか。「俺が守るから」とは言うけれど、すずに「どうしたい?」と訊いたことはない。たぶん、一度も。
すずの言葉を思い出す。――おれ、バスケをしてる時のおまえが一番好きだよ。
自分のことより、周りの人間のことを大切にできる人。
だから俺は、すずのことが好きなのか。すずは俺のことを、誰よりも大事に思ってくれているから。
「そろそろネタ切れだな」
ぐるぐるとめぐる思考と格闘している理紀の耳に、ごっちのつぶやく声が聞こえてきた。「え?」と言って顔を上げると、ごっちは肩をすくめ、体育館の壁にぶら下がる時計に目を向けた。
「『どんな手を使ってもいいから、おまえを昼練に行かせろ』と涼仁から言われてな。しゃべっているうちに時間が過ぎればいいと思ったが、あまりうまい方法じゃあなかったか」
一時六分。昼練の開始時刻はとうに過ぎているけれど、おそらくすずが望んだのは時間いっぱいの足止め。そういう意味で、ごっちは手段の選択ミスを悟ったようだった。
ごっちは掴んでいた理紀の腕から手を離した。
「おまえが決めろ。保健室へ行くか、ここに残るか。オレは涼仁だけの味方をするつもりも、おまえだけの肩を持つつもりもない。おまえたちのもめごとは、おまえたちで解決してくれ」
その言葉を最後に、ごっちはすでに始まっている昼練の輪の中へと入っていった。自分も行くべきだろうか、と一歩踏み出し、理紀はすぐに足を止めた。
すずは無事に保健室へたどり着けただろうか。ごっちは大丈夫だと言ったけれど、昨日の夜、副作用のある強い薬を飲んでいる。そうしなければならないほど容態が悪かったのだ。今までの感じだと、あまり悪いようなら入院治療になって、いつまた学校に行けるかわからない。
ダメだ。理紀は静かに目を閉じた。
ごっちの話も、すずの気持ちも理解はできる。けれど、自分の心に嘘はつけない。今はとても、バスケの練習なんてしていられない。
「ごっち」
理紀はシュート練習を始めたごっちに、サイドラインの外から声をかけた。ごっちはボールを持ってかまえた手を止め、理紀と向き合ってくれる。
「もし、ゆりかちゃんがすずと同じ状況だったら、ごっちはどうする?」
もしも大切な人が、誰にも頼れず、一人どこかで病に苦しんでいるとしたら。
ごっちはしばらく考えて、やがてこう答えた。
「最初に言ったはずだ。おまえの気持ちはよくわかる、と」
紛れもなく、理紀の背中を押す一言だった。ごっちの優しさ、いや、情に弱いところが、今だけは理紀の味方をした。
理紀は体育館を飛び出した。頼むから、無事に保健室にいてくれ。それだけ確認したら昼練に戻る。そう決めて。



