隣の席の伏美碧生は誰が見ても特別だ。
「真崎巡これを答えてくれ」
シャーペンの先から芯がぽとりと落ちたと同時に先生に名指しをされた。出し切った芯を隠すようにノートの端に追いやり、私は席から「はい」と立ち上がる。教室にいる友人たちが私の顔を見て「めぐ、うける」と少しにやけている。私はそんな彼女らに最悪だよ、という風に笑って教卓の近くまで歩いた。
黒板にチョークを走らせる。前に立たされるのは嫌な時間だ。背中に視線が刺さる感じが変に緊張するし焦る。溜息が零れそうになったところで、手持ち無沙汰になったらしい先生が「お前らもちゃんと解けたのかぁ」と教室を歩き出した。
「あ、せんせー! 伏美くんが寝てまーす!」
すると不意に、誰かが話を遮るように彼の名前を呼んだ。
「またか。伏美ー、おい。起きろ」
先生が彼の机を軽く叩く。
黒いパーカーを頭まで被ったその生徒は、その音に身体をのそのそと動かした。
少しだけ覗く白い髪の毛の下、「なに、せんせ」と伸びをしながら答えるのはこのクラス、いや。学校一特別な生徒、伏美碧生だった。
目にはお洒落な色付きサングラスをかけ、いかにも厳つい容姿をした彼を先生は怒ることもなく、ただ呆れたように見下ろしていた。
「お前が問2を書いてこい」
「えー……なんで俺」
「本気で言ってるなら、今日の問題は全てお前に答えてもらうからな」
全く、と溜息を吐く先生を横目に「伏美くん、どんまーい」とクラスのみんなが彼を揶揄うと「人を売るなよな」と怠そうな声で答えていた。みんなの注目が一気に彼に向く。その間に早く書いてしまいたい。
カッカッと黒板に傷をつけるようにチョークを走らせていると、彼は私の隣に来て同じように黒板に答えを書き始めた。
真っ黒な異様な恰好の彼を横目に見れば、そのサングラスの下、伏美と目が合った。
「どんまい」と他のクラスメイトと同じように声を掛ければ、伏美はそれを無視して、顔を背けてそのまま答えの続きを書いていた。
「めぐ、無視されてね?」
「あはは、可哀想。もっと優しくしてやんなよ、伏美~」
ふざけたクラスメイトすら無視して、伏美は先に答えを書き終えると自分の席に戻って行った。
本当にむかつく、なんなのあの態度。と思いながらも、私は平然とした顔で答えを書き終え、自分の席に戻ることにした。
伏美碧生は特別だ。髪の色と、目の色と、肌の色がそれを物語っている。そのパーカーの下に隠れた、絹糸のような白く綺麗な髪を見れば、初対面であれば誰もがはっと息を呑むだろう。髪の下から覗く肌は雪のように白く、サングラスの下にある瞳は、ビー玉を思わせるほど薄い色をしていた。
その全てが彼の持っている〝病気〟から来ていることはこの学校の生徒なら誰もが知っている。体内のメラニン色素が生まれつき欠乏しているのだと、以前誰かに教えてもらった。高校のみんなはそんな彼が放つ特異な部分を「格好いい」と称賛し「特別だ」と羨望の眼差しを送っていた。髪を染めたくてカラコンを入れたくて、とにかく見た目にしか頓着のない生徒たちは「羨ましい」と口を揃えて彼に言う。
「ばーか。お前らには無理」
伏美は彼らの身勝手な欲望を簡単に受け流して、のらりくらりと生きていた。その姿はみんなにはより格好良く映るらしく人気は絶大なものだった。
そんな人気者に、私は嫌われている。理由はわからない。同じクラスになってから特別よく話した覚えなんてない。どうしてかわからないまま、私は彼に無視され続けている。
「あれ? 伏美は?」
昼休みになり、クラスで私が仲良くしているグループの一人、麻衣が声を掛けてきた。「さあ」と答えれば「めぐいいなあ、伏美の隣の席なんて。交換してほしい」と彼女は言う。それを笑って流しながらいつもの場所でお昼を食べるために席を移動した。
「今日もさ、お昼食べ終わったら体育館行かない?」
廊下側の一番後ろの席で、パンの入った袋を漁りながら友人の一人、加奈子が言う。長い髪は明るく、わかりやすく目立つ彼女は頭髪検査によく引っ掛かっている。
「昨日も行ったのに?」
「いいじゃん、お願い! 寺田がバスケしてるの」
「本当、さっさと早く告れよなぁ」
加奈子の隣に座っている彼女は早紀と言って加奈子と一番の仲良しだ。ミディアムヘアにいつも前髪をピンで止めている彼女は化粧もしていて、加奈子といるとより派手に見えた。そんな彼女たちに麻衣は「私はいいよ。ね? めぐ」と答えながら私に話を振った。私は笑顔を作って「うん、もちろん」と答える。
そんな私を、加奈子はじっと見つめながら「本当に?」と首を傾げた。
その様子を早紀も麻衣も横目で見る。私は「本当本当」と笑顔で答えながら、胃の中がぐるぐると気持ち悪かった。
「早紀の言う通り、もう告っちゃえばいいのにってずっと思ってるよ」
「ほら~。ね? めぐもこう言ってるじゃん」
早紀が加奈子に顔を向ける。
「えーでも、自信ないし」
「加奈子ならいけるって」
唇を尖らせて、俯く加奈子に麻衣が続けて言った。私はその空気に合わせて、「うん、いけるよ」と続けた。
「だって加奈子って可愛いし! 寺田くんのタイプだと思う」
「えー、めぐ、本当に思ってる?」
「思ってるって。加奈子ってスタイルもいいじゃん? だからどこ行っても目立ってるし、男子から人気高いから、きっと寺田くんも焦ってるんじゃないかな」
「やだもう、褒め上手すぎ。これだから、めぐ好き」
加奈子が嬉しそうに私を見る。
「出た、めぐの褒めちぎり」
「でもさ、加奈子って意外と奥手だよね」
「わかる。だけど、こういうのって擦れてない方が意外とガンガン行ったりしない?」
麻衣と早紀が頷き合い、揃って私の方へ向いた。
「ねえ、めぐ。今好きな人とかいないの?」
「え、いないけど……」
そう答えると、「今まで彼氏もいなかったんだっけ?」と加奈子が付け足した。
「そうなの? まじで? 超純情ちゃんじゃ~ん」
赤ちゃんに喋りかけるような口調で早紀が言った。私は笑いながら、「あはは、そんなに変かな?」と当たり障りのない口調で続ける。
「変でしょ。だってみんな、彼氏の一人や二人経験してるのに」
当然のように早紀が言えば、「ね」と麻衣が同意した。
「もしかしてめぐって、好きな人もいたことなかったとかある?」
「うっそ? それもなかったら、人としてやばいって!」
「あ、あるよそのくらい! 人をなんだと思ってんの?」
そうは言ったけど、正直な話、好きな人なんて出来たことはない。
だけどそれを馬鹿正直に言ったら、なんて言われるかわかったものじゃない。
だって、こうして、人としてやばいだなんて言われるんだ。
でも誰かを大切に想うだなんて、私にはハードルが高かった。自分のことですら、こんなにままならないのに。
とにかく、取り繕って生きないと。
上手く周囲と馴染むために。
「えー、男子ともよく話してるから、てっきりそういうの好きかと思ったのに」
早紀が悪気なく言う。麻衣が「言いすぎだよ」と笑うから、私も合わせて「もー」と笑った。
「だって仕方ないじゃん。先生から男子とセットで雑用を頼まれることが多いんだよ」
「そうでした、先生からもお気に入りだもんね。めぐは」
早紀の言葉に「だから」と続けようとすれば「なら、そうだ」と加奈子が口を開いた。
「伏美とかどう?」
「え?」
「だってあのビジュアルは無視できないでしょ」
とんでもないことを言われてしまった。
あんな一方的に嫌いオーラ出してくる人なんて、好きになるなんてあり得ないのに。普通に無理に決まってる。大体ここで伏美に興味があります、なんて下手なこと言って見ろ。この輪からいつ追い出されるかわかったものじゃない。
「いや、ないないない! 私、伏美に嫌われてるし」
「そうなの? 全然そんな感じしないけど」
「そうだよ!」
強く否定しておかなければ。人気者には興味ない。異性には興味ない。そういう感じで見せておかなければ、この子たちは安心して私を傍に置いてくれない。
この鎧を、伏美のせいで手放すわけにはいかない。
加奈子も早紀も麻衣も、みんな派手な子たちだから。一緒にいるだけで、誰も私は守られる。弱者だなんて、絶対に思われないはずだ。
だから多少のチクッとする言葉も我慢しなくてはならない。
「あの人、みんなには明るく接してるけど、私に挨拶すら返してくれたこともないんだよ? まじで無愛想だし本当にないって。まあ学校の有名人からしたら、私みたいな一般人、眼中にもいれたくないのかも。ほんと、やな感じ」
これでどうだろう? 私はあなたたちの敵にはならないよ、と上手くアピールできたんじゃないだろうか。我ながら上手いこと言ったなと思って、弁当箱の蓋を開ける。
するとみんなの会話が止まっていることに気が付いて「どうしたの?」と首を傾げた。
「め、めぐ……後ろ」
「後ろ?」
麻衣に肩を叩かれて初めて知る。そこに伏美が立っていたことに。
思わず「あ」と口を開いてしまう。やばい、しまった。
みるみる顔から血の気が引く。伏美はサングラスの下から、いつものように私に無愛想な視線を送っていた。何か言わないと。
でも、言い訳が何も思いつかない。悪口なんて言うつもりなかったのに、最悪だ。
「ふし……」
「人を憶測で話すお前の方がやな感じだわ」
先に言われた。本当にそうだ。そうだけど、タイミングが最悪だ。
「ご、ごめん伏美! 今めぐに、伏美のことどう? って聞いてて、それで、多分、この子の照れ隠しで」
「照れ隠し? 人のことなんて興味あるわけないだろ。こいつが」
勝手にフォローする加奈子を遮り伏美が続ける。まるで私のことを知っているかのような目と口振りが腹立たしかったが、それでも頭を下げた。悪いのは一応私だ。「違うの、伏美。ほんっとごめん」とあまり重すぎないように、だけどふざけた謝罪だと思われないように。少し申し訳なさそうに謝った。
「謝罪なんて、クソほども考えてないくせに。適当に謝んな」
なのに、伏美はそれを受け入れてくれなかった。
「その顔、死ぬほど嫌いだわ」
歩いて行ってしまう。彼の出て行った教室は暫く重い沈黙が続き「伏美が怒ったの初めて見た」「いや怒るだろ。女子うるさかったし」「つかさぁ、真崎のくせに伏美の悪口なんて言うから」「加奈子たちと一緒にいて勘違いしてんじゃねえの?」と次から次へと会話が飛び交う。
「大丈夫、めぐ?」
麻衣に言われて「うん」と頷く。
「いやめぐ、今のはまずかったっしょ」
「謝りに行った方がいいんじゃね?」
次に加奈子と早紀に言われて「え?」と首を傾げてしまう。謝ったのにまだ謝らないといけないのか。そんなことを思ってしまって、口からは少し気の抜けた声が出た。
「えーだって伏美に嫌われたらまずくない? うちが同じ立場なら生きていけない」
「わかる。伏美に嫌われてるって思ったらさ、なんかそいつのこと嫌になるもんね」
彼女たちが口を揃えて「わかるー」と言う。自分の好き嫌いを、他人の評価で決めるというのか。ああでもそうか。あの人が好きだから好き。流行っているから好き。売れているから好き。世の中なんてそんなものだ。
脆くて、くだらない。そんな輪の中で、どうして必死に取り繕わないといけないのだろう。
わかっているのに、次に口から出る言葉は決まっていた。
「じゃあ、謝ってこようかな」
肩に付かないくらいの髪を手櫛で掻きながら、私はへらりと笑う。そんな私に彼女たちは「早く行ってきなー」と声をかけた。
教室を出て、私は不服ながらも伏美を探した。バスケを見に行かなくてよくなったのはありがたいけど、わざわざこんなことをしないといけない理由がわからなかった。
昼休みが終わりに近づいても、伏美は見つからなかった。それもそうだ。私は真剣に彼を探していない。ただ、〝伏美に謝るために探しに行った〟という事実があれば十分だった。
ああ、最悪。お腹空いた。お弁当、持って来ればよかった。
不意に横を見ると、空気を入れ替えているのか。ドアが開きっぱなしの音楽室が目に映った。カーテンが風に揺らされている。窓も開いてるんだ。
なんとなく足を運ぶ。ここは校舎の三階。屋上に出ることができないこの学校で、この場所は一番高いところにある。音楽室はうるさいからと住宅街の方に向けては作られておらず、ただただ木と草の生えた茂った校舎裏が窓の外には広がっていた。縁に両手を乗せ、窓の下を覗き込む。ちゃんと高いけど、中途半端に高い。こんなんじゃ、
「……死ねなそう」
呟いた瞬間、風が強く吹く。梅雨も終わりもうすぐ夏だ。照り付ける日差しが私の手の甲を焦がし始めた時、不意に。
「死ねないだろ、そこじゃ」
声を掛けられた。びっくりして振り返ると、さっきまでずっと探していた伏美が立っていた。
「え……」
「無駄に骨折って大怪我に決まってる」
私がいる隣の窓から、同じように窓の下を覗き込み、パーカーのフードの下から少しだけ見える白髪が、さらりと初夏の風に吹かれている。
「お前知ってる? 女が選ぶ自殺に飛び降りは多いって」
「急に来てどうしたの?」
「いきなり物騒なこと言わないでよ」と笑って伝えれば伏美はこちらを横目に見て、「お前こそ急に取り繕って何?」と気だるげに呟いた。
「取り繕ってなんかないけど……」
「あっそう。でも、お前、ずっとそんなんじゃん。生きるの面倒くさそうだな」
「…………」
思わず口を閉じると、溜息を吐かれた。
「いちいち空気読んでんじゃねえよ」
表情筋からも力が抜けて馬鹿馬鹿しくなる。
「……あのさ、私のことが嫌いなのはわかるけど、そうやってわざわざ嫌味言う必要ある?」
「何? なんか間違ってんの」
「空気読んで何が悪いの?」
「じゃあ、空気読んで人を悪く言ってもいいんだ?」
「……」
何も言えなくて拳を握る。やっぱりむかつく。なんなんだ、この男。
「……あのさ、教室に戻ってくれない? 伏美のせいでろくにお昼も食べられなかったんだけど」
「俺のせい? 人のせいにすんなよ、自業自得だろ」
初めてこんなに伏美と喋っている。挨拶すら返さないくせに、こういう嫌味だけは返してくるらしい。
うざい。嫌い、嫌いだ。
「私、何かした? そこまで言われる筋合いないんだけど」
どんなに望んだ言葉をかけたって、こいつには少しも響かない。
「薄っぺらいんだよ、お前」
ああ、うるさい。
「だから、目障り」
うるさいうるさい。
ーー瞬間、思わず握った拳を振り上げた。そして、それがそいつの肩にめり込んだとき、ああ、最悪だ。と思ったものの、取り返しのつかない事態になっていたので、何もかもどうでもいい気分だった。
だらり、と拳を下げる私を、伏美はどんな顔で見ているのだろう。フードとサングラスと……いや、下を私が向いているせいで、表情などわかりもしなかった。
「……もういい」
顔を背けて、そのまま歩き出す。
「消えたらいいんでしょ、あんたの目の前から」
変な格好しているくせに。サングラスを外して、まともに顔を合わせたこともないくせに。
「このくそったれ」
人の努力を、勝手に薄っぺらいとか決めつけるなよ。
「……あ、めぐ帰って来た。伏美どうだった? 見つけた?」
教室に戻ってすぐに言われた言葉に顔が引き攣る。この学校は、どこへ行ってもあいつの存在で溢れている。
「うん。ちゃんと会って、謝って来たよ」
笑顔で言いながらも、腹が立ちっぱなしだ。
机の上に置かれっぱなしのお弁当箱を持つと、中身は重いままだった。
◇
――やっと一日の授業が終わった頃、お昼を食べ損ねたせいか身体がなんだか疲れていた。
伏美とは一切目も合わせていない。今までずっとそうだったが、今日はこちらからそれを徹底した。
さて。と立ち上がってそのまま鞄を持つ。帰り際、加奈子たちから声を掛けられたけど当たり障りのないことを言って私は教室を後にした。
昇降口で靴を履き、そのまま校門を出て暫く歩いたところで「真崎」と声を掛けられる。振り返れば、鞄を持った伏美がそこにいた。
「え……な、に?」
「お前さ、今からどこ行くの?」
「……」
なんだこいつ。昼間の出来事を、もう忘れたとでも言うのだろうか。
「どこ行くのかって、聞いてるんだけど」
「……いや、どこって、帰るんだけど」
今までずっと無視してきた癖に、なんでこんなタイミングで声を掛けてくるんだろう。わけがわからなくて「じゃ、二度と話しかけないで」とそのまま立ち去ろうとすれば、彼が後ろについて「どこ行くんだよ」とさらに続けた。は? 聞いてる?
「どこだっていいでしょ。ってかついて来ないでよ。あんたと一緒にいたら、後で何言われるか」
「別によくね? 何言われても」
「……あんたは言われ慣れてるだろうけど。伏美みたいに特別じゃない人間は、みんなに溶け込んで生きていたいの」
まあ、こんなこと言ったって。わかるわけないか。伏美は人と違うから。
その上、無神経で非常識で、普通じゃない。
「とにかく嫌いならもう二度と私に話しかけないで。私ももう声かけないから、じゃあね」
吐き捨てるように言って、歩を進めれば、「いや、話しかけられねえだろ。だってお前」と声がかかった。
「今から死ぬ気なのに」
足を止めて振り返る。
「は、なんで……」
驚愕する私に、伏美はスマホを持って「このアカウントお前だろ」ととあるSNSを見せてきた。
「〝#死にたい〟で探してたら出てきた。お前さぁ、こういう愚痴垢っていうの? 鍵でもかけろよ。名前も『mm』なんてわかりやすすぎだし」
少し得意げな伏美。名探偵にでもなったつもりなんだろうか。
「……いや、なに、そのアカウント。知らないんだけど?」
「それはない。お前が呟いてる文、全部うちの学校と共通点多いし、お前がよく愚痴ってる人間もお前とよく連るんでる友達のイニシャルだろ。あとお前さ」
『若いくせに白髪だし。隣の席の男、パーカーも鬱陶しい。ダサすぎ』
『さっさと消えろ、ナルシスト野郎。キモいサングラスしてくんなよ』
「これ、俺のことだろ。ふざけんな」
スマホの画面をさらに近くで見せつけられて、どんな言い訳をしようか考えた。
でもすぐに面倒臭くなる。どうせ明日になったら見ない顔だ。……仕方ない。
「……何、悪い?」
「出た本性。お前、人に合わせてにこにこしてる癖に、このアカウントだとまじで性格悪いよな」
「あんたも人の気持ち考えないでずけずけ言ってくるくせに。陰でこそこそ私のアカウント見てたの? 何それキモすぎ」
また歩を進める。今度は振り返らない。私は今から忙しいんだから。
「おい」
「……」
「おい、真崎」
ああ、うるさいうるさい。本当に。なんなんだ。
「何よ、また殴られ……」
「手伝ってやろうか、死ぬの」
遮られて、思わず足を止める。なんだまさか、殺したいほど私が嫌いだとでも言うのかこの男は。
「……なんで」
「俺も死のうかなって」
その軽々しい口調に、「はぁ?」と思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
周囲の視線がこちらに向く。しまったと思うと同時に「じゃ、行くかぁ」と今度は伏美が私を追い抜いて先を歩き出した。その黒いパーカーの表面がオレンジ色に染まっていた。な、なんなの。
「で。どこ行く気だったの?」
「あのさ伏美、冗談で付き合ってんなら今すぐかえ……」
「冗談じゃねえよ」
隣に並べば伏見が流すように私を見る。茶化すような雰囲気でもない。あまりに真剣な口調に何も言えなくなった。
「……意味わかんない」
「早く言えよ。どこ行く気だったんだよ」
「……海、だけど」
「海? なんで」
「……あんた、さっき飛び降りがどうとか言ってたけど私、高いところ嫌いだし、痛いのもやだ」
「でも苦しいだろ」
「それは対策済み」
「……意味わかんね」
私と同じように彼が言うから「正直、お小遣いが無駄に残ってんの勿体ないから今から遠出して少しは使っておきたいだけ。海はちょうどいいなって」と続けた。
海まではここから電車で片道二時間半。きっと海につく頃には日も暮れているだろう。
「変なやつ」
「あんたもね」
言い合いをしながら駅までの道のりを歩く。いつもは会話を交わさなくても嫌な感じなのに、私が本音を言えば言うほど彼は軽く言葉を返してくれた。
「――あのさ、どうして私のこと嫌いなの」
電車に乗っている間、私は伏美に訊いてみた。
「綺麗ごとばっかだから」
「は?」
「思ってもないことぺらぺら喋って、誰からも嫌われないように気を付けて」
伏美が私を見る。
「中身がないんだよ、ずっと」
何も返す言葉がない。何も言わない私に、「あとこれ」と先ほどのアカウント見せられた。
「やめてよ」と言えば「このアカウント。信じられないくらい口悪いし、俺の悪口もすごいし」と続けられる。
「それはあんたが私だけ無視するから」
「あとこのタグ」
「はあ、今度はな……」
に、と言おうとして、見せられた文言に口を閉じた。
「死にたい、とかどの口が言ってんだよって。贅沢ばか女だと思ったわ」
「……言わせておけば」
どの口が言ってるんだよ。
「自分だって贅沢ばか男でしょ。幸せに囲まれてんのに死のうかなって軽々しく言いやがって、あんたの人生がどれだけ羨ましいか」
「じゃあ変わるか」
「は?」
「俺はお前の方が何百倍も羨ましいけど」
電車が屋根付きのホームに入る。陰りを差した車内でも、彼は誰よりも目立っていた。伏美はただ立っているだけで、ここにいる誰よりも視線を浴びてしまう。
今はその不審者みたいな恰好も原因だろうけど、本来はそれだけじゃない。
好奇の目に晒されても尚、伏美は慣れているとばかりに窓の外を眺めていた。
思えば伏美がどれだけ特別でも、彼自身が特別であろうとしたことは一度もない。
思えば周りが、私が、勝手に決めつけていただけだ。
「気にしてないと思ってた」
「何が」
「……誰かに注目されること」
私の呟きとドアが開く音が重なる。「あ、椅子空いた。座るか」と伏美が普通のトーンで続けた。聞こえてなかったんだろうか。いや、それならそれで有難い。
隣同士に座る。隣の席なのに、電車の椅子での隣同士はなんだか窮屈で変な感じ。
「気にしてるに決まってんだろ」
何か話題を切り出そうと思っていた時にそれが返ってくる。驚いて横を見ると、溜息を吐いて彼は「うざ」と小さく呟いた。
意外だった。私の中の伏美は、特別で、何でも出来て、人望があって、悩みなんて、これっぽっちもないのかと思っていた。
「あんなに格好いいって、羨ましいって言われてるのに?」
「それは他人事だからだろ。自分がなったら笑えねえよ」
それはそうかもしれない。みんな結局他人事だから。彼の悩みは私にも、そして周りの人間にも一生涯かけても理解できないものなのだろう。虚しいけれど本当の苦しみは当事者にしか分かり得ないのだ。
「こんな不審者みたいな恰好、普通だったら耐えられないだろ」
「自覚あったんだ」
「だけど、こうでもしないと、しんどいんだよ」
電車の走行音に紛れて、伏美は言った。
何気ない口調のせいで、ぼうっとしていたら聞き逃してしまいそうだった。
「太陽に気を許せば、肌は赤くなって日焼けだってするし皮だって、べらべら剥ける」
「………」
「将来、皮膚がんになるかもしれないし、目だってどんどん見えなくなるかもしれない」
車内のアナウンスが、随分と遠くに聞こえる。
「希望のない未来がわかっていて、毎日ただ笑って過ごせるわけないだろ」
だって、伏美がいつも平気そうだったから。
なんでもない顔をして、ただただ人より秀でているから、そんな透かして、大人っぽく過ごして。
「それでも普通にしないと心配されるから、そうしてるだけ」
人を馬鹿にしてるんだと思っていた。
「今日死ななくたって、お前たちよりずっと早くこの世からいなくなるのにな。俺は」
だけど違った。ただ、楽しくないだけだったのかもしれない。
毎日が。過ぎ行く日々が。
嫌われて当然だ。
取り繕って、自分を守って、挙句、明日を捨てようとしている、私のことなんて。
「そんなリスクを背負ってるってわかっても、お前は俺が羨ましいって言うの?」
何も言えない。私の悩みなんて、彼からしたら大したことないかもしれなくて。
「ほら、いつもの綺麗ごとはどうした」
自分を守れない。ずけずけと踏み入ってくる、この男の言葉から。
「言ってみろよ、羨ましい。俺になりたいって」
「伏美……」
「お前は結局さ、当たり障りのないことを言って溶け込みたいんじゃなくて」
「やめてって……」
「誰かの記憶に残りたいから、そんな必死なんだよ」
「もう、やめてって」
「無害な顔して、承認欲求の塊野郎」
「やめてって言ってるでしょ!」
立ち上がった私を、周囲の人間たちが見た。はっとする。
不思議そうな顔、怪訝そうな顔が、一気に向けられる。
空気を読むのは得意だった。それなのに、こんな。
こんな風に、注目を浴びてしまうだなんて。
同時に、電車のドアが開いた。逃げるように電車から降りれば、その後を伏見が追いかけて来た。
「真崎! 走るなって」
「追いかけてこないでよ」
「待てって」
人混みを縫うようにして急ぐ。ちょうど向かいの電車がやってきて、そちらに向かおうとしたらちょうど歩いていたサラリーマンにぶつかって、私はホームの下に落ちそうになった。
パーッ! と警笛が鳴り、あ、と思考が一気に鈍くなる。全身が電車のヘッドライトに照らされていた。耳が劈くような音がしているのに、私の身体がスローモーションでホームの下に落ちていく。
すべては一瞬だった。
「っ、真崎!」
手が取られる。信じられない強さで、ぐんっと引っ張られて、背中から倒れ込んだ伏美の身体に抱き留められるようにしながら、私の身体はホームの上に戻っていた。
瞬間、一気にあぶら汗がぶわりと溢れて止まっていた呼吸が再開した。「はっ……はっ」と速く鳴る心臓と共に浅い呼吸が繰り返される。
「逃げるなよな」
私に下敷きにされたそいつが言う。
焦りを滲ませて、怒ったような、安堵したような、そんな声音で。
「俺を人殺しにする気か、まじで」
フードが外れたそこからは、あの星のように美しい白髪が覗いていた。
「一緒にって約束したのに、一人で死ぬのは違うだろ」
ずれたサングラスから、この世の尊いものを詰め込んだような色素の薄い瞳が私を見上げていた。
途端、懐かしい気持ちになる。
その昔、私は一度だけ、その目を真正面から見たことがある。
「いや、約束なんて……」
して、ないしと続けようとしたその時。
「きみたち! 大丈夫!?」
大人たちが駆け寄ってきて、私たちは身体を起こした。
「怪我はしてない?」
「すみません、大丈夫です。ご迷惑おかけしました」
伏美が答える。こんな風に、この男も取り繕うことができるんだと思った。
「ほら、真崎」
手を差し出されて、私はそれを見上げる。
「行くぞ」
頷く代わりに、ゆっくりとその手を握った。
◇
「――で。どうだった、人に注目される気分は」
「最悪。やっぱり当たり障りなく生きてる方が、私には性に合ってるって思った」
「はは、ほら」
腹立たしいことを言われている。それなのに、いつもみたいにむかつかないのはどうしてだろう。
人の目がないから? それとも、誰かの意見に呑まれず、この伏美と対等に話せているから?
わからない。わからないけど、この男の隣を歩く気分は悪いものではなかった。
あれから私たちは一旦、駅を出ることにした。
というのも、大人たちに救護室に連れて行かれそうになったからだ。
ゆっくりしているわけにはいかない。空も大分暗くなっている。
どうせ目的の駅まで、あと一駅だ。
歩くのも悪くないだろう。スマホの地図を確認する。
充電の残量はもう僅かだった。
「潮の匂いがしてくる」
犬のようなことを言っている伏美を横目に見る。
もうフードも、サングラスもつけていないこの男は、夜が近づけば近づくほど、ありのままに戻るらしい。
夜に染まりつつ白髪の下、凹凸のはっきりしたどこか遠くを眺めている。
伏美の素顔を、こんなに長い間見るのは初めてだ。
「……綺麗」
「ん?」
「え? あ、ああ、ほら! そ、空が……」
咄嗟に空を指差せば、伏美が「逢魔時って感じだな」と答えた。
「逢魔時って?」
「昼と夜の境目。魔物とか妖怪とかに会う時間」
さらりと答えるから、微妙な顔をすれば「お前が話振ったんだろ」と告げた。
「なんかやな例え。せっかく綺麗だと思ったのに」
「綺麗は綺麗だろ」
なんでもない話をしながら、伏美と歩く。なんだか変な気分だった。
「それもそっか」
あれだけ嫌いだった伏美を、やっぱり綺麗だと思うように。
どれだけ歪なものでも、綺麗なものは綺麗なのだと思い知る。
「……ふっ」
吹き出すようにして笑えば、伏美が「は」と私を見た。
「何笑ってんだよ」
「だって不思議だし」
「何が」
「だって今まで伏美とろくに話したことないのに、こんな本音みたいな」
「本音で話してんだから、当たり前だろ」
顔を背けたあと、彼は「それにどうせ死ぬしな」と続けた。
「確かにね」
「っていうかさ、お前は」
「え?」
「なんで死にたいって思ったんだよ」
伏美に言われて、私は一瞬だけ肩を強張らせた。
けれど隠し事をしても仕方がないので、「あー」と足元を見下ろした。
「私さ、加奈子たちと仲がいいでしょ」
「……仲いいか?」
「やっぱり、伏美にもそう見えてるんだ」
鼻で笑いながら、話を続ける。
「たまたまさ、学年が上がった時に麻衣と席が近くなって話すようになってさ、あのグループにいるために、私、必死だったの」
「……なんで」
「だって、気の強いあの子たちといたら、守られてる気分になったから」
伏美が不思議そうな顔をした。守られてる、って何から? と言いたげだった。
「私ってさ、中学までずっといじめられてたの」
「……」
「だから自分を変えるために高校は誰も知り合いのいないところを選んだんだけど、新しい自分になりきれなかったの。そんな時、加奈子たちに出会って、一緒にいることでようやく私は普通になれたんだって思った」
「……それで、薄っぺらいお前が出来上がったってわけね」
「そんな言い方やめてよ、私だって必死だったんだからさ」
「はあ? 知らねえよ」とでも言われるかなと思ったけれど、意外にも伏美は「それは悪い」と素直に謝った。
なんだかその反応に慣れなくて「きも」と言えば、「は?」と不機嫌そうな声が返って来た。
「で、ある時、加奈子が好きな、他のクラスの人とたまたま委員が重なって、一緒にいるところ見られたことがあったんけど」
「続くのかよ」
「それからはずっと悪口言われてる。私が何をしてても気に食わないみたいで、居心地最悪」
「……」
「チクチク嫌味言われんのも、まじでウザい。時々、自分たちの方が偉いとばかりに助言してくるも本当に嫌。好きな人いないの? 彼氏いないの? 男好き? それ普通じゃないよ。ダサいからオシャレしたら? ……とか。何もかもがくだらない。これ以上、背伸びするのは限界だなって思った」
「原因はそれだけ?」
それだけ? という言い方にイラっとしながら、「んなわけないでしょ」と続けた。
そして袖を捲り上げて、腕を見せた。
「は……痣? お前、あいつらに暴力振るわれたの?」
「加奈子たちじゃない。これは兄がやったの」
「兄?」
「そう」
袖を元に戻しながら、何でもない顔で歩き続ける。
「お兄ちゃんさ、就職失敗してずっと家に引きこもってるんだけど、癇癪持ちでちょっと面倒くさいんだよね。文句を言うと殴られることもあるから、私も親も、極力兄を怒らせないように顔色を伺ってばっかり。変な話、学校よりも反吐が出る」
「……」
「だから、人の顔色を伺うのは慣れてるんだけど、もういいかなって。あんな兄に殺されるくらいなら、自分で死んだ方がマシだよ」
「ふーん、そう」
「訊いといて何その反応」
「いやだって、お前のアカウント同じようなこと言ってたし」
「あ。そうだった。勝手に見ないでよ。っていうか、なんで探したの」
「探してねえよ、タグで見つかったって言っただろ」
「うわぁ引く」
でも、そっか。〝#死にたい〟で検索したのかこの人。
段々と、今まで特別だと思っていた伏美碧生という人を知っていく。
「まあでも、よく頑張ったじゃん。お前」
「……え」
考えたこともなかった、自分が頑張っただなんて。
ただ、そうして。取り繕って、自分の生きる世界を守っていただけだったから。
必死に、そう生きてきただけだから。
「俺もお前も、ままならないな」
思い通りにいかなくても、それが当たり前だって諦めていたから。
「……ね」
そうだね、本当に。と言いたかったのに、涙が滲みそうで言葉にならなかった。
――目的の場所に着いた頃には、夕陽は落ちかけて夜が始まっていた。空には一番星さえ輝いている。
皮肉なことに、こんな綺麗な空の下で、クラスで一番嫌いな男と、私は死のうとしている。スマホの電源は切り鞄を投げて、靴も靴下も砂浜に脱ぎ捨ててそのまま波打ち際まで向かった。
「真崎、そのまま死ぬの?」
「いや、これ飲んでから」
「何それ」
「睡眠薬。これ飲んでから流されようかなって。苦しいのは対策済みって言ったでしょ」
得意気に言えば、呆れたように息を吐いた伏美は海の方を見て「海に夕陽が落ちんの、初めて見た」と言うので、私も合わせてそちらを見た。
海の中にぽちゃん、と落ちるように太陽が沈んでいく。一日が終わる。光は濃紺に負けて、世界が寝静まる準備を始めていた。
「私、夜の方が好き」
伏美がこちらを見たのがわかった。だって、何も考えなくて済む。誰の顔を見なくてもいい。世界でさえ真っ黒にしてしまう夜は、私の顔を隠してくれる。
「俺も」
彼の白髪が潮風に揺れる。
波の音がその声を少しだけ聞こえ辛くした。光はきっと伏美にとっても敵なのだろう。
「初めて意見が一致した」
「初めてじゃねー…今から一緒に死ぬんだろ」
「確かに」
指を鳴らす私に「ダサ」と伏美は言う。なのにいつもの棘のある口調じゃない。ちゃんと私に対して言葉を返し、吹き出すように笑った。私も思わず笑う。なんかちょっと、勿体ないことをして来たなと初めて思った。
「薬、結構持ってきたんだけど足りるかな」
「足りるだろ。つかそれ誰の」
「お兄ちゃんの」
「ふーん」
取り留めのない会話をしながら、ケースを振って伏美の手のひらにそれを出す。海が波打つ度、私たちの足の甲を攫っていく。夏前とは言え、夜の海はやはり寒い。
ジャラジャラ、と出しすぎて手のひらから何粒かそれが落ちていく。なんだか非現実的。朝はいつもと一緒だったのに、夜にはこんな景色が広がっているなんて想像もしていなかった。ケースを投げ捨てて、一気にそれを口にしようとした瞬間、「なあ」と伏美が口を開いた。
「お前さ、このまま死んで生まれ変わったら何する?」
「え、伏美。そういうの信じてるタイプ?」
「いいから言えよ」
「……特にないかも。人になっても、また同じことを繰り返す気がする。でも、そうだなぁ」
潮風がなんの変哲もない私の黒髪を揺らし、私の世界で一番特別な伏美の白髪を揺らす。
「生まれ変わったら、伏美とは仲良くなっておきたいかも」
そのビー玉のような目に、ただただ月明かりだけが反射して、まるでこの世の全てを映し出しているかのように美しく輝いている。
「また意見があった」
伏美が笑いながら言う。笑う場面でもないのに。なんだかんだ私の最後の記憶は伏美の笑顔になるのか。まあ、それも悪くないか。
「じゃあね、伏美」
「じゃあな。真崎」
私たちはお互いに薬を口に含み、そうしてゆっくりと海に向かって歩き出す。少し朦朧として波に流されてしまいそうなったら、伏美が私の手を掴んだ。
そして、そのまま何となしに手を繋いで、私たちは海に溶けていった。
こうして〝真崎巡〟は死んだ。同じクラスの伏美碧生とともに。私は私を無理やり終わらせた。これでよかったのだ。だけどもし生まれ変わって、新しい自分になったなら、そうだな。私はせめて。
せめて。
◆
去年の入学式。
誰かに馬鹿にされたくなくて、俺はありのままの姿で式に参加していた。
日焼け止めは死ぬほど塗ったけど、限界だ。
空は曇りなのに肌が痛くて、どうしようもない。
体育館から外に出た瞬間、光が眩しくて、家に帰らないとと汗が滲んだ。
ああ、だめだ、早く、暗い場所に。行かないと。
歩が踏み出せないまま、蹲る。そんな俺に、「ねえ、大丈夫?」ととある女子生徒が声をかけた。
顔を上げると真正面から目が合い、「わ……」と驚いたように彼女は告げた。
「あ、いや。大丈夫、じゃないよね。一年、だよね? 先生、呼んでくる」
「っ、いい!」
首を振る。入学早々、身体のことで迷惑をかけたとバレれば、教師に話がいけば、両親にも行く。
せっかく普通に高校を通わせてほしいと説得させたのに。
また、まともに学校へ行かせてもらえなくなったらどうなるのだろう。
必死で得た自由を、こんなところでなくすわけにはいかない。
まだ入学式だと言うのに。悔しい気持ちでいると、彼女は持っていた傘を広げて、俺の頭上に差した。
「これ、雨兼用の日傘なんだ。今日、雨降るって言ってたけど、日焼けもしたくなかったらかさ……」
聞いてもないのに、その子は続ける。
「……それで、聞いてもいい? それって地毛? カラコン? この学校ってオッケーだっけ?」
デリカシーのない女だと思った。でも仕方ない。この学校には入ったばかりで誰も俺の事情など知らないのだから。
「いや、自前だから知らない……」
なんか答え方を間違えた気がした。自前ってなんだよ、と自分に突っ込んでいたら、彼女は「あ、そうなんだ」とあっけらかんと答えた。
「すごく綺麗だね」
気味が悪い、という人が多かったのに。
普通じゃない俺を、変な目で見る人はいても、こんな風に。
綺麗ごとではなく純粋に、褒めてくれる子がいるんだと思った。
「もし何かあったら声かけてね、その辺にいるから」
立ち去るその子の名はわからない。
「その傘もあげる」
ただ、同じ学年の優しく親切な女子だった。
そんな彼女は、二年生になると、がらりと雰囲気が変わっていた。
遠巻きに俺を見て、容姿をいじる人間がいたら、決まって当たり障りのない顔で、
「私は伏美くんの見た目のことは、あんまり触れない方がいいかなって思ってるから……」
そう告げた。
「えー。でも格好いいでしょ? 正直に答えなって」
「あんたって、結構面食いでしょ? まあでも羨ましいよね。あの髪。私も脱色したーい」
最近よくいる女子たちが口をそろえる。そんな女子たちに、彼女は「いや、そんなこと……」と取り繕うようにして告げた。
「とにかく伏美くんはそう言うのじゃなくない? みんなの人気者には、何とも思わないよ」
「えー? そうなの?」
「うん、だって伏美くんは特別でしょ?」
「まあね。じゃあ、寺田は……」
彼女たちの会話を聞きながら、苛立ちが募った。
だって、そんな風に言ってほしくなかった。
彼女にだけは。
俺を綺麗だと、言ってくれたあの子にだけは。
特別だなんて。
本当は誰かの注目なんて浴びたくない。
もっと静かに、ただただ空気に溶けるように、過ごしたいのに。
ままならない人生が嫌で、SNSで同じような気持ちの人を探したとき。
俺は見つけてしまった、彼女の本音を。
「――私、夜の方が好き」
彼女が告げた。告白でもされているような気分だった。
「俺も」
なあ、真崎。お前、本当は。
本当のところは、どうなんだよ。
ホームに落ちそうになった、今日。
あの時のお前は、死にたくなんてなさそうだったよ。
綺麗ごとでもいい。
ただ、明日を望んでくれないか、そうしてくれたなら。
俺は。
「なあ。お前さ、このまま死んで生まれ変わったら何する?」
「え、伏美。そういうの信じてるタイプ?」
「いいから言えよ」
「……特にないかも。人になっても、また同じことを繰り返す気がする。でも、そうだなぁ」
潮風がなんの変哲もない彼女の黒髪を揺らした。
さらりと、俺と真反対に揺らめく髪が、どうにも綺麗で見惚れてしまいそうだった。
「生まれ変わったら、伏美とは仲良くなっておきたいかも」
何気なく言う彼女の顔に、月明かりが差す。この時ばかりは、光の存在に感謝した。
「また意見があった」
思わず笑うと、彼女もつられて笑う。それがなかなか悪くなかった。
「じゃあね、伏美」
「じゃあな。真崎」
なんとなしに手を繋ぐ。彼女の手は、ずっと温かかった。
◇
目を覚ますといつもの朝だった。私は暫く眠りこけていた身体に鞭を打ち、ベッドの下に足を下ろした。足から少しだけ筋肉が落ちたような気がする。ぼさぼさの髪を掻いて、スマホを開く。私の朝はSNSチェックからはじまる。
―――入水しようかな
@×××
命を大切にしてください
@×××
構ってちゃんですか?w
@×××
メンヘラかな
最後に更新した呟きには反応が三桁来ていた。多分私が毎日のように呟いていたのにずっと更新しなかったからだ。呟きってどうやって全部消すんだっけ。まあいいや、アカウントごと消すか。
古いアカウントを消して、そして新しいアカウントを作る。名前は同じ。IDは似たものだけど、まあいいだろう。
―――今日から学校。ひさびさ
呟いてそのまま放置。どうせ誰からの反応が来るわけでもない。朝の準備をする。着替えて学校に向かおうとすれば家族から声を掛けられた。「送ろうか?」「大丈夫か?」とあんなに心配されたのは初めてだった。
大丈夫だからと言い、私は学校に向かった。なんだろう。足取りが凄い軽やかだ。寝てたから?いや、違うか。信号待ちの時、不意にまたSNSを開く。反応が来ている。前のフォロワーが見つけてくれたのかな。
―――今日から学校。ひさびさ
@×××
新しい朝、おめでとう
朝? 〝アカウント〟という単語でも打ちたかったのだろうか。
暫く画面と睨み合って、私ははっとした。名前が『くそったれ』と書いてある。
こいつ、と内心思った。信号が青になり、探るように歩いていた足取りが、段々と早足になって、いつの間にか駆け出していた。
すれ違う人が私を見る。それもそうだ。別に遅刻しそうな時間でもない。なんなら早朝とも言える時間なのだから。〝死ぬ前の私〟なら、きっとまだまだ眠っているはずだった。
吐き出す息が夏の朝に溶けていく。
―――私は知っていた。
あの時、あの男が本当は薬を口に含んでいなかったことを。私と手を繋ぐ振りをして、もう片方の手で海にそれを捨てていたことを。それだけじゃない。私が倒れて溺れかけた瞬間、私を海から引き上げて病院に連絡してくれたことも、私の親にも彼自身の親にもこっ酷く怒られていたことも、全部、全部知っている。
今日がはじまる朝が嫌いだ。
ずっとずっと嫌いだった。
教室の前までやっと来た時、私はへとへとだった。病み上がりには大分きつい。大体、こんな時間にいるはずがない。わかっている、そんなこと。なのに、私は緊張していた。
『お前さ、このまま死んで生まれ変わったら何する?』
呼吸を整え、意を決してドアに手を掛ける。どくどくと耳まで聞こえる心音に耳を傾けながら、私はそれを横に引いた。
殺風景な教室に、私にとって特別な人間が一人。
椅子に座り、日傘をいじっていた手を止めて、こちらを見る。
朝は嫌い。私も。彼も。
でもそうだ、お互い生まれ変わったら。
「おはよう、伏美」
好きになるのもありかも知れない。
「おはよう。真崎」
彼が初めて返してくれた、その挨拶から。
了



