長く続いた雨は過ぎ去り、蝉の時雨が降りしきっていた。
 今年は例年よりも早く梅雨が明け、夏休みを迎える前に空は青を描いた。
 授業中の教室を照らす太陽の光。
 窓から見える入道雲。
 平穏を取り戻したこの場所には、新しい季節がやってきた。
 あれから三週間。
 私の周りは四季以上の変化があった。
 生徒たちの証言もあり、いじめが発覚。
 担任の木下は事実を隠していたとして停職処分をくらった。
 後から聞いた話だが、いじめがあったら共有することが義務づけられていたらしい。
 だが木下は「面倒くさい」「自分の時間が削られる」そんな理由で、報告をしていなかったみたいだ。
 それを聞いた時、怒りよりも情けなさが勝った。
 意外だったのは、他の教師が親身になって話を聞いてくれたことだ。
 両親を見て、大人は信用できないと決めつけていた。
 木下を見て、教師は生徒には無関心と決めつけていた。
 だが、実際は違った。
 真由美さんたちのような人もいれば、涙を流してくれる教師もいる。
 狭い場所で生きていると、そこの住人で世界を測ってしまう。
 周りを見渡せば、様々な色調で鮮やかに彩られている。
 すべての人が同じ色に見えていたのは、きっと視界が曇っていたからだ。
 それは駅のホームでもそうだった。
 今までは澱んだ大人の顔を見て、将来への希望をへし折っていた。
 だがよく見れば、そんな大人ばかりではない。
 死を纏うと、引き寄せられるように黒ずんだ部分にフォーカスを当ててしまう。
 それを解くのは一人では難しい。自分の力だけでは生きることすら困難だった。
 もし真由美さんたちや樋口さんに出会ってなかったら、この夏の暑さを煩わしいと感じることもなかっただろう。
 長く降り続く雨の中で、きっと命を枯らしていたから。
 春に舞う桜。
 夏の太陽を見上げる向日葵。
 秋の木々を赤らめる紅葉。
 冬を白く染める六花。
 雨の中では四季を知ることはできない。
 その先に咲く、美しい花があるということも。
 そしてもう一つ、大きな変化があった。
 教室に空席が三つできたことだ。
 あの三人はその後……
「平田たち、住所と家の電話番号まで晒されてるよ」
「マジ?」
 教師にバレないよう、囁く声で話す生徒の声が聞こえた。
 私はスマホを取り出し、SNSを開く。
 #いじめ首謀者
 #暴力・傷害
 #犯罪者
 #この女たちに罰を
 #制裁
 #私刑
 #一生許すな
 #地獄行き
 平田たちはハッシュタグを付けられ、顔写真や家の住所、スマホと家の電話番号などが晒されていた。
「終わったね、あいつら」
「自業自得でしょ」
「藤本の家、窓ガラス割られたらしいよ」
「やった奴、ナイス」
 樋口さんの言う通り、人は鏡だ。
 何かのキッカケで溜まっていた鬱憤は溢れ出し、今までの行いがすべて返ってくる。
 ネットの時代では、いじめている側にもリスクはある。
 もしそれが晒されれば、一生消えない傷を負うことになるから。
 就職もままならないだろうし、恋人を作ることも難しくなる。
 名前を検索すれば知られたくない過去が見られ、人生という道に大きな壁ができる。
 誰かをむやみに傷付けてはいけない。
 自分を傷付けてもいいという免罪符を与えることになるから。
 鞘から刀を抜けば、目の前の人間は怯えて従うかもしれない。
 だが、その後ろにも刃を向けている人間がいる。
 一人が抜けば、また別の誰かが抜き、争いの螺旋は永遠と続く。
 生きるということが難しいのは、他人の境界線を知らないうちに踏んでいたり、避けていても自分のもとまで迫ってくるからだ。
 それと、命の先にはまた別の命がある。
 一人の命が誰かの道になり、その先でまた誰かが救われるかもしれない。
 存在し得なかった生きたいと思える場所。
 もし一つでも見つけることができたなら、境界線から自分を守ることができる。
 屋根の下で見る雨は、悲しみや苦悩を、優しさと成長に変えてくれるからだ。



「泉さん」
 学校前の通りで声をかけられた。
 振り向くと、下校する生徒たちを縫って樋口さんが走ってくる。
「一緒に帰ろう」
「うん」
 友達と呼んでいいのかは分からないが、たまにこうして一緒に帰ることがある。
 前は自分と同じように、樋口さんも学校では一人で過ごしていた。
 中学時代のことがトラウマとなり、人と接するのが怖かったのかもしれない。
 でも平田たちがいなくなってからは、クラスの子とも交流を持つようになっていた。
 楽しそうに会話する姿を見て、純粋に良かったなと思える。
 私もクラスの子に話しかけられるようになったが、まだ距離感が分からない。
 今も一人でいることが多いが、それでも孤独感は感じていなかった。
 私には雨宿りできる場所があるからだと思う。
「SNS見た?」
 樋口さんが唐突に聞いてきた。
 たぶん平田たちのことだろう。
「うん」
「正直言えば、可哀想だなんて思わないし、むしろスッキリする。でも、そこに参加してはいけないなって思った。誰かを傷付けることに鈍感になれば、私も平田さんたちみたいになる可能性があるから。せっかく優しさを知れたのに、それを手放したくない。今までの苦痛がぜんぶ無駄になるから」
 自分の中にルールを作ったのかもしれない。
 境界線を自ら引き、そこから先へはいかないようにするために。
 人は簡単に一線を超えてしまう。
 一度超えればその線は消え、新たな場所へと引かれていく。
 それが繰り返されれば、いつか痛みを忘れてしまうようになる。
 苦痛が無駄になるというのは、傷だけが残るという意味かもしれない。
「私も一緒。平田たちが苦しむことに慈悲をかけるつもりもないし、同じように痛みを知るべきだと思ってる。でも、誰でも“あちら側”に立つ可能性があるということを知っていないと、自分が他人を傷付けた時に痛みに気付けなくなる。言うべき時と言わない時、何を言うかと何を言わないか。そこに明確な線を引かないと自分自身を見失う」
 善と悪は時に同じ顔をしてやってくる。
 見極めなければ、知らないうちにあちら側へと足を踏み入れてしまう。
 正当化は自分を神と同等の立場に置き、個人の裁量で侵略を赦免(しゃめん)する。
 線を引くのは、自分だけではなく他人を守るためにも必要なこと。
 感情だけに身を任すのは、命を晒しているのと同じだ。
「それに気付けただけでも、苦しんだことに意味はあったのかも。いや、そうであってほしい。傷を傷のままにはしたくないから」
 そう言った後、樋口さんは空を見上げた。
「中学の時、死のうと決めたことがあるの。もう耐えられなくて、逃げてしまいたかったから。そんな時、空が目に入った。久しぶりに見た空は、今日みたいに綺麗だった。だから、もう一度頑張ってみようと思えたの。くだらない理由かも知れないけど、あのとき死ななくてよかった。また青空が見れたから」
 樋口さんも私と同じように死に触れていた。
 命を晒してまで助けてくれた彼女の強さは、そこから来ていたのかもしれない。
「些細なことだとしても、生きてみようと思えるならくだらない理由じゃない。”空が綺麗だった“それだけでも生きる意味になるんだよ」
「そうだね。意味なんてなんでもいいんだよね」
「うん」



 土曜日、夏めく空の下を車で走っていた。
 私の心は快晴の空とは裏腹に、どんよりとしている。
 助手席に座る真由美さんも、運転している直樹くんも言葉を発しない。
 残された雨雲がそうさせているんだろう。
 住宅街に入り、坂を下った突き当たりを右に曲がると、二階建ての白い家が見えた。
 その瞬間、鼓動が早まり、暗雲が立ち込めるように感情が萎れていくのが分かった。
「無理しなくていいよ。辛い思い出の方が多いでしょ?」
 家の前に車を止めると、直樹くんが振り返って言った。
「大丈夫、ちゃんと話さないといけないから」
「しんどくなったら、車に戻ってもいいからね」
 頷くと、真由美さんは笑顔を見せてくれた。
 その顔を見たら、かかっていた雲の隙間に少しだけ光が射す。
「じゃあ行こうか」
 直樹くんの言葉で車を降りた。
 門扉の隣には表札があり【泉】と掘られている。
 久しぶりに帰ってきた家。懐かしさよりも嫌悪の方が強い。
 直樹くんが母とやりとりをし、会う約束を取り付けた。
 最初は真由美さんと直樹くんの二人だけで来る予定だったが、私も行きたいとお願いした。
 すべてを清算したかったし、今の自分を知ってほしい。
 そんな気持ちが私の中に芽生えていた。
 真由美さんがインターホンを押すと「今、行きます」と、母の声が聞こえてきた。
 同時に、今までの記憶が掘り起こされるように頭の中に流れる。
 浴びせられた罵声の数々。
 虐げられ、否定され、死を毎夜祈っていた。
 今の環境や自分の変化は、あの時からは想像できない。
 空が青いことすら知らなかったのだから。
 玄関のドアが開き、母がでてきた。
 私を一瞥した目が、まるで疎ましいものを見るようだった。
「どうぞ」
 真由美さんたちを見ることもせず、母は言った。
 門扉を開き、私たちは家の中へと入る。
 リビングに足を踏み入れると父の姿が見えた。
 ダイニングに肘をつきながらテレビを見ている。
「お掛けください」
 父の隣に母が座り、私たちは対面に腰掛ける。
 父がマグカップを投げて割った小窓は直されていた。
 あの小さな穴がなければ、私は今もここにいたのかもしれない。
 いや、この世界にいなかったかもしれない。
「それで話って?」
 父はテーブルの上に置いてあったリモコンでテレビを消す。
「梨紗ちゃんの今後のことです」
「そっちで面倒みるんだろ?」
 直樹くんに対し、父は唾を吐き捨てるように言った。
「ええ、今までと同様に僕たちの家に住ませます。つきましては……」
「こんな不良品、欲しけりゃくれてやるよ」
 父は蔑んだ目で私を見た。
 子に対しての視線ではなく、言った通りの“不良品”。
 私たちの間に親子という結びつきはないと、改めて確認できた。
「あんた親でしょ? よく自分の娘にそんなこと言えるね」
 真由美さんは声を抑えているが、怒りが滲んでいるとこがはっきりと伝わる。
 それだけで十分だ。
 今までの私には、なかったものだから。
「こっちが金かけてやったのに、成果も出せないバカなんだよ、こいつは。あんな三流の学校に行って、おまけに一番も取れない。自分が情けないと思わないのか? 恥をかくのはお前じゃなくて、俺なんだぞ。もう少し親孝行してくれよ。家にいても空気を汚すだけで、なんの役にも立たない。こんなもん娘じゃねーよ、ゴミだろ」
「おいクソ親父、二度とその臭い口を開けないようにしてやるから、歯食いしばれ」
「真由美さん、落ち着いて」
 立ち上がった真由美さんを直樹くんが抑える。
「初めて娘に同情するよ。こんな人間にしか拾ってもらえないんだからな。やっぱり糞にはハエがたかるな」
「てめえ、もういっぺん……」
「真由美さん」
 鬼の面を付けたような顔で熱り立つ真由美さんを、私は制止させた。
 壁に掛けられた時計の秒針が、鮮明に耳に入る。
「ありがとう、もういい。今日限りで、この家族とは縁を切る」
 真由美さんと直樹くんは、再び椅子に腰掛ける。
「長い雨の中をずっと一人で歩いてきた。苦しくても助けは求められなかったし、死ぬ以外に救われる方法なはいと思ってた。でも傘をさしてくれる人と出会うことができた。その人たちは雨が止むまで隣にいてくれて、こんな自分でも生きていていいんだって思わせてくれたの。私は無価値で、生きる理由なんてないと考えていたけど、どんな人間でも意味を持てるとを教えてもらった。この家で得られないものが、外の世界にはたくさんある。初めて見た景色も、知らなかった感情も、自分を支える言葉も、ここでは触れることすらできなかった。私にはもう家族はいない。傷が残っただけだった。だけど、一つだけ感謝してる」
 私は父に視線を向ける。
「産んでくれてありがとう。だからこの人たちと出会うことができた」
 雨の中で枯れていく命を眺めながら、ずっと死にたいと願っていた。
 でも今は違う。
 祈りは言葉へと変化し、希死念慮は寄り添うための傘になった。
「さようなら。この言葉はあなたたちにではない。今までの私に」
 そう言い残し、私はリビングを出た。
 玄関で靴を履き替えていると、階段から覗く弟の姿が見えた。
 彼がこの先どういう人間になるかは分からない。
 でも一つ言えるのは、この狭い世界では本当の美しさを知ることはできないだろう。
 枯れない花では、季節を灯せないのだから。



 車の前で待っていると、十五分ほどして直樹くんたちが家から出てきた。
 真由美さんは私の前に来ると、髪の毛をクシャクシャっと撫でてくる。
「帰るか」
「うん」
「良い天気」
 灰色だった世界には青が広がっている。
 傘を閉じて見る空は、こんなにも綺麗で、こんなにも温かい。
――死のう
――いつ死ねるだろう
 そんな日々を繰り返しながら四季の狭間を彷徨い、辿り着いた場所で小さな花を咲かせた。
 これからは育てていかなければならない。
 たとえ枯れたとしても、再度咲けるような美しい花に。
「今夜は焼肉にしよう」
「先週も行ったじゃないですか」
「今夜は焼肉にしよう」
「同じ言葉だけでゴリ押しするのやめてもらえます?」
「今夜は焼肉にしよう」
「だからそれをやめてください」
 二人のやりとりに、自然と頬が緩む。
 幸せを感じれる自分に嬉しくなったから。
 また一つ思い出を仕舞い、遮るものがない蒼穹を目に焼き付けた。


【神原優花】


 遡ること三週間。
 真由美たちの家から直接現場に向かい、優花と彩は控室で出番を待っていた。
 廃校の教室には太陽の光が差し込み、陰鬱な梅雨を吹き払うような風が頬に触れた。
 少し離れた場所では、橋本があくびをしながらスマホをいじっている。
「じゃあみなさん、お願いします」
 助監督が来て、優花たちに声をかける。
「はい」
 優花が笑顔で答えると、助監督は駆け足で去っていった。
「その薄っぺらい笑顔で媚びてて疲れないの? まあ実力がない奴は仕方ないか。じゃないと仕事取れないもんな」
 橋本は嘲笑いながら、蔑んだ目でこちらを見てきた。
 優花は汚れた言葉を飲み込むと、橋本の前に立つ。
「なんだよ?」
「この仕事って、知らない誰かに中傷されたり、貶されたりします。私は何を言われたかではなく、見てくれる人に何ができるかを大切にするつもりです。だからなんとでも言ってください。もう折れないので」
 橋本は口を半開きにし、目を丸くしながら優花を見ていた。 
「下手なのは事実ですから反論はしません。もっといいお芝居をして、実力で黙らせようと思ってます。私は女優なので」
「お前が上手くなる? 無理だろ。才能ねえから早くやめたほうがいいぞ」
「それはあんたが決めることじゃない」
 彩が優花の隣に立ち、座ってる橋本を見下ろした。
「下手はやめる理由にはならない。上手くなるための方法を今は知らないだけ。要は考え方の問題。だから簡単に否定してはいけない。どんな花が咲くかなんて、誰にも分からないんだから」
 彩の言葉を優花は噛み締めた。
 以前ならきっと折れていただろう。
 言葉に傷付けられ、言葉に溺れてしまっていたから。
 だが今は自分の中に支えを作り、新たな目的地ができた。
 降り注ぐ冷たい雨さえも、花を咲かせるための糧。
 橋本の言葉を優花はそう受け取っていた。
「あんたもちゃんと考えなよ、この仕事の意味。売れてるからって偉いわけじゃない。どれだけ表面を飾りつけても、根が腐っていたらいずれ枯れていく。人からは見えない部分に何を持っているか、それが大事なんだよ」
「うるせえな、余計なお世話なんだよ」
 橋本は悔しそうな表情を浮かべ、教室から出ていった。
「優花、強くなったね」
 二人きりの空間に彩の言葉が響く。
「今までは自分の生き方を他人に委ねていました。だから受け止めるだけで終わって、傷が付くだけだった。でもこれからは自分で作ろうと思います。誰かの道しるべになれるように」
 その道の先で美しい花が咲くように。
 誰かの救われる場所になるように。
 優花はそんな想いを言葉に込めていた。
「なれるよ、優花なら」
「はい」


【泉梨紗】


 夏休みの初日は朝から雨が降っていたが、午後には止み、白が生えるような青が映し出されていた。
 雨上がりの空には虹がかかっており、また一つ、知らない色を知れたような気分になる。
 今日は真由美さんと直樹くんと買い物に行った後、カフェでお茶をしてから家路についた。
 私の服を買ってくれるということだったが、ほとんどが真由美さんの服選びに時間が費やされた。
「梨紗ちゃんの買い物でしたよね?」
「てへ」
「可愛くないです」
「梨紗、直樹が私を侮辱する」
 真由美さんは私の肩に顔を埋めた。
「そんなことより、早く玄関開けてください。真由美さんの買った服で手が塞がれているので」
 直樹くんの両手は紙袋で埋め尽くされている。
 ぜんぶ真由美さんが買ったものだ。
 私はTシャツとスカートを買い、当たり前だが自分で持った。
「直樹は京介に似てきたよ。前はこんな子じゃなかったのに。梨紗はこうはならないでね」
「早く鍵開けて」
「梨紗まで私を侮辱する。こんな美人に生まれたからいけないのね。神様を恨みたくなる」
「侮辱はしてない」
 玄関が開けられると、男性のスニーカーが見えた。
「あっ、来てるね」
「私に会いに来たんだ」
「いや、梨紗ちゃんにでしょ」
 靴を脱ぎ、居間に向かうと、司さんと翔太くんの姿が目に入った。
 ちゃぶ台に着き、お茶を飲んでいる。
「お帰りなさい」
「翔太くん、来てたんだ」
「生存確認しにきました」
 翔太くんは私を見て言った。
「暇人」
「うるせえ」
 荷物を置き、私たちも腰を下ろす。
 翔太くんはたまに家に来るようになった。
 生存確認と冗談で言っているが、本当にそういう気持ちで来ていると思う。
 菜月ちゃんとの約束を果たすために。
「漫画読んだ?」
 先日、翔太くんから漫画を借りた。だが、まだ読んでいない。
「後ろのあらすじは読んだ」
「本編読めよ」
「あらすじで全部理解できた」
「じゃあどんな漫画?」
「薬で小さくなった主人公が海賊王を目指しながら、鬼と戦い事件を解決する」
「ねーよ、そんな漫画」
 私と翔太くんのやりとりを、真由美さんたちは微笑みながら見ていた。
 なんだか照れくさい。
「雨上がりの紫陽花も綺麗ですね」
 直樹くんが庭の方を見て言った。
 木枠の窓は開けられおり、夏を忘れさせるくらいの涼しい風が肌を撫でる。
「雨に打たれてた分、太陽の光が紫陽花を輝かせてる」
 司さんがそう言った後、私は縁側に座り、紫陽花を眺めた。
 恥ずかしさで熱くなった頬を冷ますためでもある。
「紫陽花の花言葉、覚えてる?」
 真由美さんが隣に座り、そう聞いてきた。
「冷淡……移り気……無情」
「あとね、家族って言葉もあるの。小さい花が集まって、家族の結びつきを連想させる。うちの人たちは誰も血が繋がってないでしょ? だから司が植えたの。本当の家族になれるようにって」
 花びらが寄り添うように咲いており、一枚、一枚が傘になっているかのようだ。
 家族とは血の繋がりを指すことだと思うが、心が結ばれているかはまた別。
 法的には他人だとしても、私はこの人たちを家族と言いたい。
 血よりも固い繋がりがあるから。
「真由美さん、コンビニでアイス買ってませんでしたっけ?」
「そうだ、忘れてた」
 真由美さんは慌てながら居間を出ていき、私は再度、紫陽花に目をやる。
 花弁から雫が滴り落ち、淑やかに土壌を濡らす。
 きっとまた雨は降る。
 でも今までとは違う。
 悲しみの連鎖が続く雨の中で、美しく咲くための慈雨を知った。
 傷に染みるような雨ではなく、胸臆の想いを育てるための雨。
 言葉とはいきなり降ってくるものではなく、積み重ねられた経験により生み出されるものだ。
 死にたいと願う自分がいたからこそ、言の葉は色づき景色を変えた。
 澱むように曇っていた世界。
 涙のように悲しみを纏った雨。
 憂いていた感情たちが芽を育たせ、青葉をつけて空へと手を伸ばす。
 そしていつか咲き誇れるよう、私の周りには光が差した。