「ヤバくね」
「えー、キモい」
太陽が幻のように消え、澄んだ青は灰色に変わっていた。
空は不穏な色に染められ、今にも泣き出しそうだ。
実験室では顕微鏡を覗く生徒たちのはしゃいだ声が響いていた。
クラスの人たちがいくつかのグループに分かれており、私は実験台の隅で縮こまるように周りを眺めている。
壁際の席にいる平田たちは、笑顔を浮かべながら楽しそうに話していた。
何もない平穏な日常を過ごすように。
実験室に樋口さんの姿はない。
今は四限目だが、朝に教室を出て行ってから戻ってくることはなかった。
笑いながら話している生徒たちを見ると、誰も気にしていないように思える。
樋口さんは一人でいることが多かった。仲の良いクラスメイトはいないのかもしれない。
だから、いなくなっても変わらない。
実験室の騒がしさがそう言ってるようで、心が苦しくなった。
ガラガラ、と後ろの扉が開く。
視線をやると、樋口さんが入ってきたのが見えた。
表情は沈み、肩を落としている。
生気の抜けた雰囲気だった。
それを見て、強風に煽られたように感情がざわつく。
「樋口、どうした?」
前にいる教師が尋ねると、生徒たちが一斉に振り向く。
「具合が悪くて、保健室にいました」
確かに顔色は悪い。雲がかかった空のように。
「無理しなくていいぞ」
「大丈夫です」
「じゃあ、ここ入って」
教師は中央の一番前の席を指した。
「はい」
樋口さんが席に着くと、生徒たちは再び顕微鏡を覗きはじめた。
少しだけ抑えられた騒がしさ。
彼女にはどう聞こえているのだろうか。
声の雨を浴びている横顔は灰色に覆われている。
雨模様の目に映る世界。
そこに太陽はない。
朝にあった出来事をクラスのみんなが認識している。
きっと樋口さんも分かっているはずだ。
だから理解する。
日常と変わらない風景は、その雨の長さを知ることができるから。
これからも続く、六月のような雨を。
前の扉が開くと、新任教師が慌てふためいた様子で入ってきた。
「先生のクラスの子が貧血で倒れちゃて、今、保健室にいるんですけど……」
焦っているのか、言葉がバタバタと駆け足で迫ってくるようだった。
生物教師は力強く手を叩いた。
生徒たちの視線は微生物から人へと変わる。
「みんな聞いてくれ。ちょっと外すから、そのまま観察しててくれ」
そう言い残して、教師たちは実験室から出て行った。
「やったー」
「ラッキー」
扉が閉まってから数秒後、甲高い弾んだ声が歓声のように上がった。
何人かはスマホを取り出し、自由行動を始める。
話し声がだんだんと大きくなるに連れ、観察していた微生物の存在が忘れられていく。
プレパラートに押しつぶされ、高倍率でレンズから覗かれる。
普段は存在すら知らない“それ”を、さっきまでは楽しそうに騒ぎながら見ていた。
だが今は、youtubeや流行りのアプリの話に夢中になっている。
もし人の感情も同じように知ることができても、すぐに風化されてしまうのだろか。
たとえ知ったとしても、対岸の火事のように面白半分で見過ごされてしまうのだろうか。
今も真剣に顕微鏡を見てる人もいる。
ノートを取りながら、見たものを忘れないようにして。
「やめて」
その声で教室が静まり返る。
視線を移すと、藤本と中山が、樋口さんをテーブルに押し付けていた。
樋口さんの対面には平田が立っており、水の入ったコニカルビーカーを手にしている。
一緒のグループの子たちは席から離れ、火の粉が降りかからない距離で眺めていた。
実験室は静寂に覆われ、周りの視線が彼女たちに向いている。
「喉乾いたでしょ?」
平田は片方の口角だけを上げ、歪んだ笑みを浮かべた。
「お願いだから、やめて」
抵抗しているが、二人に抑えられてるため身動きができていない。
「一人じゃ飲めないだろうから、私が飲ませてあげ……」
「ダメ!」
樋口さんの頭の上に水がかけられる寸前、私は平田の持っているビーカーを奪い取った。
ほとんど無意識に近かった。
手と足が震えている。
でも助けないとと思った。
私を唯一見てくれていた人だから。
「樋口さんは関係ないし、こんなの間違ってるよ。いじめなんかしたって、何も生み出さない。もう終わりに……」
ドンッ
鈍い音が響いた。
頭がジーンとし、耳鳴りのようなキーンとした音が鼓膜に残る。
平田は語尾を絡めとるようにして、私の頭を叩いた。
その衝撃で言葉を見失う。
「気持ち悪いから指図しないで。それ樋口にかけてよ」
平田は私の手の中にあるビーカーに視線を送った。
「……」
声を出せなかった。
暴力というものは言葉を殺す。
たった一言でも発したら、また殴られる。
そう思うと、私の命が口を固く閉ざさせた。
樋口さんの顔は怯えていた。震える唇が心を表している。
どうしていいのか分からない。
助けたい。
でも殴られるのは怖い。
願いと恐怖が交差して思考が渋滞する。
私はただ、震えて立つことしかできなかった。
「ねえ、聞こえてる?」
平田の声が耳に入り、背筋が凍りつく。
「……」
「聞こえんてんの?」
「できな……」
ドンッ
二度目はさっきよりも強さを増していた。
恐怖以外の感情が枯れ落ち、この場から逃げ出したいという気持ちが思考を侵食する。
「やってよ」
「……」
「やって」
「……」
「やれ」
「……」
「早くやれって言ってんだよ!」
平田が手を振り上げたとき、私の手が反応した。
傷が付かないように。
命が濡れないように。
死から逃れるように。
私は守った。
樋口さん……ではなく、私のことを。
ビーカーに入っていた水は空になっていた。
注ぎ口からは水滴が静かに滴り落ちる。
私の目に映ったのは、雨が降ったように濡れている樋口さんの姿だった。
「ふざけんなよ、泉。私たちにまでかかったじゃん」
「本当、最悪。樋口にだけかけろよ」
藤本と中山の声が、真っ白になった頭の中に入ってくる。
「せっかく助けてくれたのに、あんた最低だね」
平田は私の耳元でそう囁いた。
「教室行こうぜ。ジャージに着替えたい」
藤本たちは制服を手ではたきながら、冷たい空気を残して出て行った。
実験室は声一つない静けさが漂っている。
その場に縛り付けられているかのように体が動かない。
周りも誰一人として動く気配がない。
重力を感じるような空間
心に重いものがのしかかり、時間が止まっているみたいだ。
「ごめん……」
声を震わせながら絞り出して言うと、樋口さんは何も言わずに実験室を出て行った。
心臓の音がはっきりと聞こえてくる。
ドクン、ドクンと脈打つように。
波のように押し寄せてくる喪失感と罪悪感。
自分が虐げられているときとは違う苦しさが、酸素の濃度を薄くさせる。
――謝らないと
震える足を無理やり動かして廊下に出ると、薄暗い中を一人歩く、樋口さんの背中が映った。
足跡のように零れ落ちる水滴が、傷跡のように見える。
悲しみが具現化し、感情の花弁を散らせながら命を削っているみたいに。
「待って」
乱れていた呼吸を整え、立ち止まっている樋口さんの背中に向かって言葉を繋げる。
「本当にごめん、私……」
樋口さんが振り向いてこちらを見たため、言葉を止めた。
「分かってる。だからもういい」
その目は哀しみに染まっている。
胸中の感情を零さないように言葉で蓋をしたが、それが目から溢れてしまった。そんな風に感じた。
樋口さんはその言葉だけを残し去っていく。
心のどこかに傷が入ったのを感じた。
付けられたものではなく自傷のような傷。
今までとは違う痛みが、胸のあたりをギュッと握ってくる。
追いかけないといけないのに、私は追いかけられなかった。
悲痛の滲む背中が足に釘を打ち、一歩も踏み出すことが出来ない。
樋口さんに傷を付けてしまった。
傘をさしてくれた人を私は裏切った。
自分を守るために。
恐怖から逃れるために。
彼女を傘にして、雨に打たれないために。
その後、樋口さんが教室に戻ってくることはなかった。
学校が終わり、帰路についていた。
ぽっかりと空いた穴には虚無感が佇み、視界は空と同じように薄暗かった。
雨は止んだ。
墜栗花から続いた重く湿った空気は乾き、白を映えさせるような夏めく空を見ることができた。
だが、私に降っていた雨は樋口さんの上に流れ、陰鬱な灰色を描いた。
鞄の中にある折り畳み傘。
私が濡れないよう、樋口さんが貸してくれた。
それなのに、泥水を撥ねさせ彼女の心を汚してしまった。
自分が醜い。
愚かで卑劣で忌々しいこの命を、今すぐにでも枯らしてしまいたい。
なんでこんな自分が生きてるのだろう。
私が死んでいれば、彼女に雨が降ることはなかった。
私のような価値のない人間が生きているから、誰かが傷ついてしまう。
私が産まれてこなければ、苛立ちや悲しみもなかっただろう。
全部……私のせいだ。
家の前の通りに差し掛かると、突然雨が降り出した。
視覚と聴覚を支配するほどの大粒の雨。
激しく地面を叩く針のような雫が、全身を隈なく刺していく。
天秤の上の生と死が揺れる。
私のような人間は傘をさしてはいけない。
この染みついた穢れをすべて洗い流さなければ。
それでも落とせないというなら朽ちてしまえばいい。
体も、心も、命も、魂も、全部。
止まない雨はない。
確かにそうかもしれない。
でも雨は何度だって降る。
施された束の間の安息は、再び雲に覆われた。
崩れてしまうなら、空の青さなんて知らなければよかった。
「どうしたの?」
玄関の前で立ち尽くしていると、真由美さんが家の中から出てきた。
「風引くから早く中にはい……梨紗」
目から流れているものが何か分からなかったが、真由美さんの表情を見て、涙だと分かった。
心配そうな視線が、私の双眸に向いていたから。
「強くなりたい。自分を守るためじゃなく誰かを守れるように。でも怖い。嫌だってはっきり言えばいいのに勇気すら持てない。そのうえ逃げ出したいと思ってる。どうしてこんなに弱いんだろう。自分という存在が本当に憎い。変わりたい……変わりたいよ、真由美さん。でもどうすればいいか分からない」
真由美さんは私の前に立つと、そっと抱きしめてくれた。
自分も体を濡らしながら、傷んだ心まで濡れないように優しく包む。
「弱さを責めなくていい。人ってそんなに強くないから。それと、変わりたいと思ってる自分は褒めてあげて。前に進もうとしてる自分まで否定しなくていいよ」
真由美さんの言の葉が濡れた心に傘をさした。
人の温もりを感じる。
心臓が波に揺られているみたいだ。
不安と安心が重なり合う、白と黒が混ざったような感情。
曇った瞳からは、空を知らない雨が降りしきる。
ずっと求めていた“これ”を、私はなんて呼んだらいいのか分からなかった。
受けたこともなければ、名前すらも知らない。
初めて手渡された形のない贈り物は、優しさとは違う温かさがあった。
髪の毛を乾かして寝巻きに着替えた後、居間へと向かった。
今日は真由美さんが買い物に行く予定だったらしいが、代わりに直樹くんが行ってくれたみたいだ。
濡れた姿を見て驚いていたが、私の顔を見ると何かを察したように、自ら代役を引き受けた。
驟雨が弱まっていたため、木枠の窓を開けて縁側に腰を下ろす。
雨垂れは涙のように、ぽつりぽつりと地面に落ちる。
空が泣き、雨が鳴く六月。
隙間から見せた青は泡沫のように消え、白と黒が産み落とす境界線のような灰色が視界を覆う。
悲しみにも種類があることを知った。
同じ傷でも痛みが変わることも知った。
なぜ苦しまないと知れないのだろう。
平穏に過ごすことができない人生に辟易する。
今は死にたいというより生きたくない。
だが生きなければならない。
一人残して、私だけ楽になるわけにはいかないから。
「本当、雨って自分勝手だよね」
寝巻きに着替えた真由美さんが隣に座った。
不安定な感情が微睡み、眠るように静まっていく。
「私いじめられてたの。他にも被害を受けた子はいたけど、私は関わりたくなかったから見て見ぬフリをしていた。だから人に助けを求めることはできない。そう思ってた」
ここまでの経緯を話した。
真由美さんは何も言わず、私の言葉を受け取ってくれていた。
誰かに話すなんて考えていなかったが、真由美さんには言いたかった。
何かを求めるとか、何かをしてほしいとかではなく、ただ聞いてもらいたかったんだと思う。
自分だけが抱える感情を、この人には知ってもらいたかった。
「私は彼女を傷付けてしまった。自分を犠牲にしてくれた人を」
自分の言葉に胸が疼く。
最低な行動をした記憶が蘇り、嫌悪が腹の底から這い上がってくる。
「平田の言うことに抵抗だってできた。でも自分を守るために樋口さんに水をかけた。もう戻りたくないって気持ちがあったんだと思う。だから私は裏切った。外の世界にいる、たった一人の恩人を」
最後に見た樋口さんの顔が忘れられない。
色彩を奪われてしまったような目をしていた。
すべての花が枯れ、荒廃した景色が映っている。そんな目だった。
「人って誰かを傷付けとき、言い訳したり嘘をつく。認めてしまったら罪悪感に駆られて苦しむから。だから自分の行いを受け止めるって難しいことなの。生きていれば傷付くこともあるし、傷付けられることもある。大事なのは誰かを傷を付けてしまった後のこと」
「後?」
「相手は一生消えない傷を背負うことになる。だから傷を負わせた側も同じように背負っていかなければならない。その上でどう生きていくかを考えるの。降り続く雨を止めることはできなくても、傘をさすことはできるでしょ?」
樋口さんは私に傘をさしてくれた。
自分が濡れることも厭わずに。
「人を守るって簡単にできることではない。でも寄り添うだけでも支えにはなる。梨紗ができるやり方でいいんだよ」
私にできるやり方……
翔太くんも優花さんも特別な力を使って救ってきた。
知らない人の死を離れた場所から見てきたが、今回は違う。
死が触れるより先に私が手を掴まなければならない。
希死念慮は呪いのようなものだ。
忌まわしく付き纏い、徐々に命を蝕んでいく。
守りたい。
彼女がそうしてくれたように。
次は私が傘をさして、共に雨の中を歩きたい。
理不尽が蔓延るあの場所で、災害のような激しい雨が降る場所で、何もせずに枯らさせてはいけない。
この命を、片隅で泣いている一輪のために使いたい。
昇降口に入り、下駄箱から上履きを取り出す。
前と比べると工程が一つ減った。
この間まではゴミを処理してから靴を履き替えていたが、昨日からそれがなくなった。
だが心苦しさは変わってない。
むしろ余計に辛い。
ため息を吐いてから階段へ向かおうとした時、誰かの下駄箱から空き缶が落下した。
落ちた場所を覗くと、紙パックのジュース、パンの袋、ビニール袋などが上履きの上に積まれていた。
名前を見ると【樋口琴葉】と表記されている。
無くなったのではない、漂流しただけだ。
目の前の景色が綺麗になったとしても、ゴミを捨てる人間がいる限り、汚れというものは消えることはない。
下駄箱に入っている廃棄物を脇のゴミ箱へと捨てる。
彼女に見せてはいけない。
その辛さを私は知ってるから。
同じように苦しんでほしくない。
暗闇の中を彷徨い、あてもなく歩いた先には“死”が待ち構えているから。
だから光は絶やしてはいけない。
私が灯火となり、道を照らし続けるんだ。
教室へ入ろうとした時、平田たちとすれ違った。
いつもならシミを付けていくのだが、今日は何一つ言われなかった。
もはや私には無関心なのかもしれない。
教室に入ると、周りの目が樋口さんの席に集まっていた。
何かと思い彼女の机を見ると、
【早く死んで】
【お前がいると空気が汚れる】
【ゴミ女】
など、いくつか書かれていた。
樋口さんが登校してくる前に消さないといけない。
だが油性だったら時間が足りないし、あいつらが帰ってきたら止められる。
私は一考した後、自分の机と樋口さんの机を入れ替えることにした。
席は隣の列の斜め後ろだ。
そこまで時間はかからない。
周りの視線を感じながら素早く移動させる。
幸い、机の中身には何も入っていなかったため、場所を変えるだけで済んだ。
机の上に教科書を置き、鋭利な言葉に蓋をした。
もしかしたら自分への言葉だと気づくかもしれない。
だから樋口さんには見せたくなかった。
すべての傷を防ぐことはできないだろう。
だけど、なるべく付かないように私が守らなければ。
自分ができる最大限のやり方で。
ショートホームルームの直前に樋口さんは登校してきた。
どんよりとした表情には、胸中の憂鬱が描かれているように見えた。
「おはよう、樋口さん」
昨日のことがあり気まずかったが、言葉をかけた。
「おはよう……」
消え入る声だったが、反応をくれたことにほっとした。
平田たちは悪意が込もる薄ら笑いを浮かべていたが、樋口さんがなんのリアクションも見せずに席に着くと、顔を見合わせ不思議がっていた。
机を交換したことを平田たちは知らない。
バレるかもとヒヤヒヤしていたが、三人は教室に戻ってくるなり、一番後ろの席で雑談を始めた。
そのおかげでなんとか乗り切ることができた。
知られる前に消さないといけない。
ショートホームルームの時、見えないように指で擦っていると、隣の席の伊藤さんがこっそりと何かを差し出してきた。
見るとウエットティッシュだった。
思わぬ優しさを享受して戸惑ったが、とりあえず「ありがとう」と囁き声で返す。
全部は消せなかったが、目立つ部分は痕跡が残らないまでには戻せた。
一限目は移動教室だっため、クラスの子たちは会話しながら準備している。
樋口さんはすぐに教室を出ていった。
なるべく被害に合わないようにだと思う。
私は残された文字を消そうとしたが、平田たちが樋口さんの机に向かってきたため、消せていない机の傷を教科書で隠した。
「は? 消えてるじゃん」
「だから油性で書こうっていったんだよ」
「油性だと“他の”先生にバレるから」
中山と藤本が機嫌悪そうに話している。
私は準備をしながら、何も知らないでいることを装った。
ドクッ
心臓に何かが突き立てられたような気がした。
寒気が全身を走る。
顔を上げると、平田が私を見ていた。
なるべく自然に視線を逸らす。
机の中に何かを探すようにしながら、表情を引き攣らせないようにする。
「泉」
平田の声だった。
動揺を見せないように鼻だけで深呼吸する。
「何?」
「消してないよね?」
平田の目は感情が消えているかのように色がない。
それが恐怖心にバフをかける。
「何を?」
平田は私の机に視線を送った。
消せていないのは角に書かれた【ゴミ女】【お前がいると空気が汚れる】の二つだ。
今は教科書で隠している。
平田はじっくりと舐めるような視線で机を見ていた。
心音が豪雨のように鼓膜に響く。
心臓を吐き出してしまいたい。それほどの緊張感が狭い空間にはあった。
平田が手を伸ばした。
その先には、角に置いてあった教科書。
下には汚れた言葉。
もし見つかったら、何をされるか分からない。
平田の指が教科書を挟むと、全身が総毛立ち、思考が凍りついた。
バレるーーそう思ったとき、
「あっ!」
藤本が大声を上げた。
「トイレに財布置き忘れた」
「ヤバ、盗られるよ」
「盗った奴がいたら、ぶっとばすし」
「とりあえずトイレ直行しよ。明日香、行こう」
平田は教科書を離し、藤本たちと教室を出て行った。
締め付けていた緊張が緩み、私は胸に詰まっていたものを全部出すように息を吐いた。
机の中から先ほど借りたウェットティッシュを取り出し、残りの汚れた言葉を消す。
「私たちも手伝う」
顔を上げると、伊藤さんだった。
その後ろには、いつも一緒にいる三井さん。
彼女たちは一緒になって傷を消してくれた。
「ありがとう……」
今までこんなことはなかったから、不思議な気持ちが心に漂っていた。
なぜ手伝ってくれたかは分からない。
でも嬉しかった。
全員が無関心ではないと知れたから。
屋根に当たる雨の音をかき消すように、コート上で歓声があがる。
二限目の体育はバレーボールだった。チームに分かれ試合をしている。
私たちのチームは休憩に入り、体育館の隅で見ていた。
私は球技は好きじゃない。
グループに分けられると孤独を感じるし、その輪の中に入ることも苦手だ。
でも今はそんなことどうでもいい。
運良く、樋口さんと同じチームになれた。
なるべく彼女の近くにいたい。
共に雨に濡れ、一人じゃないと知ってほしい。
裏切った私が言えることではないが、せめて寄り添いたかった。
「集まれ」
試合が終わると、教師が集合をかける。
時計を見ると授業が終わる五分前だった。
「来週からバスケな」
教師の言葉に一部の生徒が嬉々とした声をあげる。
「じゃあみんなで片付けをしてから、教室に戻るように」
そう言って教師は体育館を出て行った。
生徒たちは散らばり、支柱やネット、床のボールを片づけ始める。
「樋口にやらせればいいよ」
平田の一言で、一斉に動きが止まった。
まるで犬笛のようだ。
その声は外の世界の人間には聞こえないであろう、恐怖という周波数がある。
「手伝ったら、そいつみたいになるから」
平田の視線は樋口さんに向いていた。
湿った空気に澱んだものが入り混じり、質量が大きくなったように感じる。
体育館には枯れた表情が散見し、冬ざれの景色が映った。
「ごめんね」
一人の生徒がボールを樋口さんに渡す。
それが合図となるように、他の生徒は持ち場を離れて出入り口の方へ向かっていった。
平田たちはそれを見て満足したのか、したり顔で去っていく。
一人ひとり消えていく体育館には、私と樋口さんだけが残った。
彼女は黙々とボールを籠の中へと入れていく。
何を思っているのかは分からない。
どんな気持ちで、どんな想いで、どんな言葉を胸に抱えているのか。
知ることはできないが、私ができるやり方で寄り添いたい。
隅っこにあったボールを拾い、籠の中にいれる。
次の授業に遅れないよう、なるべく素早く。
「いいよ、やらなくて」
ネットを片そうとした時だった。
樋口さんは手を止めて、私を見ていた。
その言葉を無視し、作業を続ける。
「またやられるよ」
先ほどよりも大きな声で樋口さんは言った。
それも無視して作業を続ける。
「だからしなくていいよ! やっと解放されたんだから、また戻らなくていい」
二人だけの空間に響いた声は、空虚感が滲む沈黙を引き連れた。
「……でも無くなったわけじゃない。私のもとから去っただけ。それは終わりとは言えない。私は何があっても樋口さんのそばにいる。自分が傷付いてまで助けてくれた人だから、絶対に一人にはさせない。そう決めたから」
再び片づけを開始する。
樋口さんはボールを手に持ったまましばらく動かなかった。
片づけが終わり、二人で教室へと向かう。
私たちの間に言葉はなく、雨音と喧騒だけが鼓膜に触れていた。
教室に入ると暗い雰囲気が漂っており、みんな席に着いている。
その静けさが悪寒に近い震えを背筋に起こす。
近くに座っていた子の目が黒板へ向かう。その先を辿ると、
【気持ち悪い樋口さん、どうか死んでください。みんなそう思ってます】
とチョークで書かれていた。
樋口さんの顔は血の気が引いたように青ざめている。
藤本の笑い声が耳に入った。
やすりのような、ざらついた質感。
傷に染みるような汚れた音。
見なくても誰だかすぐに分かる。
黒板消しを手に取った時、木下が入ってきた。
私たちの担任であり、国語の教師。
気怠そうな顔で教卓に着くと、教科書を開いた。
「先生……」
木下は私を見た後、黒板に視線を移す。
書かれた文字を見ると、
「あー、これ消しといて」
そう言って、教科書に視線を戻した。
黒板消しを握る手が強くなる。
木下は生徒には無関心だ。
いじめがあろうがなかろうが関係ない。
自分に火の粉が降りかからなければいい。
自分に迷惑さえかからなければいい。
そんな人間だった。
黒板の文字を私と樋口さんで消す。
おかしな光景だ。
本来なら書いた本人がやるべきことなのに、被害にあった人間が後処理をしている。
傷を治すのは大変なのに、傷を作るのはなんでこんなに簡単なのだろう。
神様が人間を作ったことが本当ならば、膝をついて祈るような価値なんてない。
命を軽視した、もっとも愚かな存在なのだから。
放課後になり、職員室へと向かっていた。
四限目からは樋口さんの姿は見えなくなり、クラスには穴の空いたような空席が目立った。
たぶんだが、昼休みを迎えたくなかったのかもしれない。
私を見ていたら、どうなるかが想像できたはずだ。
「先生」
職員室の前へと来ると、木下が出てきたので声をかけた。
「何?」
「樋口さんのことで……」
「待て、こっちで話そう」
私が言い終わる前に木下は遮った。表情には焦燥が見える。
職員室の近くの応接室に案内され、ソファーに腰を下ろす。
ドアが閉められると外の声が消え、静寂が部屋を包んでいるようだった。
木下が顔を向き合わせる形で座り、一拍置いてから私は口を開いた。
「先生から平田さんたちに言ってほしいんです」
頼んでも仕方がないかもしれない。
でも今は縋れるものには縋りたい。
彼女を助けられるなら、僅かな希望でも信じたいから。
「私も、樋口さんもいじめられています。正確に言えば、今は樋口さんだけですけど。止めてほしいんです。このままだと彼女は……」
「原因があるからいじめられるんだろ? お前と樋口に問題があるんじゃないか?」
耳を疑った。
目の前の大人は傷を付けられる側に問題があると言う。
仮にあったとしても、まず話を聞いてから答えるべきだ。
それすらしないのは、関わりたくないからだろう。
「樋口さんは私を助けたからいじめられたんです。原因なんてない」
気に入らない。
だから唾を吐き、踏み潰す。
理念を捻じ曲げ、尊厳を否定し、恣意的に振る舞い、他者を蹂躙する。
意味のないことに時間を費やす愚かさ。
それすらも分かっていない。
「あのな……」
木下は呆れたような顔でため息を吐いた。
「こっちは大変なんだよ。残業ばかりで土日は部活、ろくな休みも無い。保護者はちょっとしたことで難癖つけてくるし、子供の怠慢を学校のせいにしてくる。お前らの育て方が悪いのに、それを棚に上げて押し付けてくるんだぞ? それで二十人も三十人も見ろって無理だろ。おまけにバカ親まで付いてくる。いじめくらい自分たちでなんとかしてくれ。これ以上仕事を増やすな。生徒を助けても評価はされないんだよ」
木下の言葉で少しだけ世界が理解できた。
いじめをしている人間が幸せを享受するのは、周りが配慮してその人間を立てるからだ。
だから痛みを伴わずに楽しめる。
自分が絶対的に正しいと思えてしまうし、それを周りも看過する。
反論すれば傷が付けられるし、被害が拡大していく。
理不尽なことを大声で言える人ほど、都合よく世界が回る。
だが、その埋め合わせをするのは樋口さんのような人間だ。
誰かのために犠牲を選んでも、ただ虐げられるだけ。
――関わらないようにする
結果、これが一番穏便に人生を歩むことができる。
でも……手ぐらいは差し伸べてほしい。
「分かりました。他の先生に頼むのでいいです」
可能性が一つ潰れたが、まだ望みはあるかもしれない。
それに賭けよう。
教師は信用できないけど、他の人なら……
応接室のドアノブに手をかけた時、木下が呼び止めた。
「他の教師に言ったところで何も変わらない。俺たちはな、いじめがあると評価が下がるんだよ。学校っていう場所は“いじめてる奴”よりも“いじめられてる奴”の方が邪魔なんだよ。『お前らが消えてくれた方が早い』みんなそう思ってる。面倒くさいだけだから、あんまり事を大きくするな」
世界とは不条理だ。常識という共通言語はここにはないらしい。
自分が良ければ。
自分たちが楽しめれば。
自分が一番になれれば。
誰かを中心としたルールで学校は回っている。
大人たちは道徳紛いの言葉を並べ、見せかけだけの体裁で自己満に浸る。
子供たちはカーストという階層を作って、陰と陽で世界を二分する
狂った歯車で回り続ける狭い世界。
そこでは正常な歯車ほど不良品とみなされる。
この瞬間、希望は枯れ、絶望が咲いた。
傘に触れる雨音が、どこか悲しく聞こえる。
誰かが涙を流しているような、そんな音色。
雨の降る放課後は寂寞に覆われ、喧騒が消えた静けさが胸元を撫でた。
「梨紗」
校門をくぐると、傘をさした真由美さんと直樹くんが視界に入った。
「どうしたの?」
「いじめてる奴をぶっ飛ばしに来た」
真由美さんは握った拳を掲げる。
「違うでしょ。担任の先生に僕たちから言ってみようと思って」
直樹くんは真由美さんの拳を下ろさせる。
「今、言ってきた」
「どうだった?」
直樹くんを一瞥した後、私は小さく首を振った。
「私が言ってくる」
真由美さんは意気揚々と校舎へと向かおうとするが、私はその腕を掴んで進行を止めた。
「学校には頼らない。言ったとしても、余計に樋口さんを苦しめることになる。だから、私の力でなんとかする」
「最低だね、その教師」
真由美さんは、よく分からない色をした飲み物を飲んでいた。
ドリンクバーで色々混ぜたのだと思う。
木下との会話を二人に話すと、真由美さんは般若のような顔つきになっていた。
フライドポテトを持ってきた店員が、ギョッとした顔をしている。
「全部とは言わないですけど、教育現場って成果主義なところもありますからね。書面の数字で評価が決まるから、いじめがあっても0って報告する」
「汚い部屋の掃除と一緒じゃん。余計なものはクローゼットに押し込んで、『綺麗になりました』『すごいですね』ってことでしょ? 見えなくしただけじゃん」
私や樋口さんは、学校からしてみたらゴミと変わらない。
汚れているのはいじめをしている側ではなく、虐げられている方だ。
「見えなければ無いのと一緒。そういう環境で生きていれば、それが正解になる。人って脆い生き物だから、環境次第で天使にもなれば悪魔にも変わるんですよね」
直樹くんの言葉が胸に刺さり、痛みが走る。
「私も木下と変わらないのかも。藤本たちが他の子をいじめてても、見て見ぬふりをしてきた。関わらなければ火の粉は飛んでこないから。結局、自分が一番可愛かったんだと思う。私さえ良ければって心の底では考えてた」
私も悪魔側だ。
平田たちと遜色ない汚れた人間。
生きていない方が役に立つ、そんな醜い存在。
「関わらないって選択は自分を守るためにも必要なこと。だから間違ってはない。そもそもいじめをする人間が一番悪いし、それを止められる立場の人間が機能してないことが問題なの。抵抗するって命を削ることだから、簡単にできることではない。それと責める相手を間違ってはいけない。一番得をするのは無慈悲に傷を付ける人間。根本から思考が逸れれば、悪人が肩で風を切って歩けてしまう。そうなれば、善人は隅で生きていくことを強いられる。そんなのおかしいでしょ?」
平田たちを責めるより、自分を責める方が楽だった。
変えられない未来よりも、自分が消えてしまう方が楽だった。
暗闇に立つと行き先を見失う。
迷って光を探すより、抱えているものを放棄できる道を選びたくなる。
死が希望に見えるのは、自分に背中を向けられるからだ。
「どうやったら、樋口さんを助けられるのかな」
「僕たちが直接言ってもいいけど……」
「それは逆効果だと思う。余計に悪化する」
「学校には頼れない……本人に直接は言えない…うーん」
直樹くんは頭を抱えて悩んでいた。
壁にぶつかり憤りを感じているが、一緒に苦しんでくれる人がいると思うと、少し心強かった。
「多くの人に声を届けることができたら変わるかもしれない」
真由美さんの言葉が、沈黙していた空間に降った。
「世界って一つではない。家庭、学校、会社、趣味などのコミュニティー。数えたらキリがないくらい無数に世界はあるの。でも自分で狭めてしまい、そこで躓くと未来が澱んでいく。梨紗は私たちと会うって想像できた?」
私は首を横に振った。
「この先に何があるかなんて分からないし、目の前にはいくつも選択肢がある。だけどそのほとんどが見えない。だから人は迷って死を選ぶ。その道しかないと決めるから。正直言うと、私もどうしたらいいかは分からない。でも絶対に助けられる方法があるはず。考えよう、私たちも力を貸すから」
他の大人に言われていたら、きっと絶望したと思う。
答えがないのかと。
でもこの人たちとなら見つけられる気がした。
人生には見えないものがたくさんあり、今日その一つを知った。
信頼するということが生きる糧になることを。
樋口さんにも知ってもらいたい。
そのためには、私がならなければ。
彼女の希望に。
家に帰り、居間の襖を開けると男性がお茶を飲んでいた。
静謐な雰囲気を纏っており、その場だけ別の空間に感じさせるような整った面立ち。
品もあるが、奥に影もある神秘的な人だった。
年齢は三十前後くらい。真由美さんよりも下に見える。
「帰ってたんだ」
真由美さんが言うと、男性は微笑んだ。
その顔が視界に映った時、感情が凪ぐような穏やかさがあった。
土砂降りの雨が晴れたような感覚。
「さっき帰ってきました」
そう言った後、男性は私に視線を向ける。
「この子は泉梨紗。生梦葵だよ」
真由美さんが紹介してくれたので、とりあえず会釈した。
「この人は霊導師の司さん。魂を霊界に導く人。優秀な霊導師は除霊やその人の前世が見える。司さんはその界隈では有名な人で、全国から依頼がくるんだ」
「私たちは霊導師から力を借りてるの。直樹も京介も。ちなみにここは司の家」
直樹くんが説明した後、真由美さんが補足した。
「二人はもともと力を持ってなかったってこと?」
「うん。そういうこと。簡単に言えば霊導師の補佐みたいなもんかな。私も直樹も、司と会ってからここに住むようになったの。それと同時に能力も授かった」
「みなさん座ってください。僕だけ座ってるのも気が引けるので」
司さんに言われ、ちゃぶ台を囲むように私たちは座った。
「司、お土産は?」
「台所にあります。何買っていいのか分からなかったので赤福にしました」
「カスタードクリームをカステラ生地で包んだ饅頭型の菓子だ。萩の咲き乱れる宮城野の空、そこに浮かぶ名月をイメージしたやつでしょ?」
「それは萩の月です。赤福は餅の上にこし餡をのせた餅菓子です。こし餡の形は五十鈴川のせせらぎをかたどっているみたいですよ」
二人はなぜか、ウィキペディアみたいな会話をしていた。
もしかしたらこの二人が書いているのかもしれない。
司さんを見ると、優しい顔で会話を聞いていた。
私がここに来る前は、こんな空気感だったのかもしれない。
今もそこまで変わらないが。
「梨紗さん、はじめまして。僕は神谷司と言います。直樹くんがさっき紹介してくれましたが、霊導師と呼ばれる霊能者です」
ふと目が合った時、司さんが自己紹介をした。
「……泉梨紗です」
はじめて会う人は緊張する。
私は視線を彷徨わせながら名乗った。
「霊師とは、もともとは霊導師だけを指した言葉なんです。でも一人の力だけでは大変なので、力を分散し協力してもらうことにした。そこから霊納師などの言葉が生まれ、総称して霊師と呼ばれるようになったんです」
「私の力も?」
「生梦葵だけは別です。予知夢という能力を私たちは持っていませんから。なぜ自死を望む人を選ぶのか? 今でもその力の詳細は解明されていないんです」
私は死ぬことを望んでいた。
そこに選ぶ理由があるのだとしたら、一体なぜなんだろう。
死に憑かれた人間に、どんな意味があるのか……
「勾玉を見せてもらってもいいですか?」
黙考していると、司さんの声が耳に入った。
首にかけていた勾玉を渡すと、司さんは手のひらに乗せてじっと見据えた。
「生梦葵の勾玉は人によって色が変わるんです。この色はラベンダーアメジストと言います。アメジストが長い間にわたり、紫外線に晒されて薄くなったもの。綺麗でしょ? 色褪せても」
透明感のある薄紫。
この色は気に入っていた。褪せていても美しいから。
「梨紗さん、前世を見てもいいですか?」
そういえば、さっき直樹くんが言っていた。
優秀な霊導師は前世が見えると。
気になったが、怖さもあった。
自死した魂は心が脆くなって生まれてくる。
もしかしたら……
不安が募り、表情が暗くなっていくのが自分でも分かった。
「見てもらったら。今の生き方に何かヒントをくれるかも」
真由美さんが言うように、今はどんなものでもいいからきっかけがほしい。
樋口さんを救える何かが。
私が頷くと、司さんは勾玉を握った。
「梨紗ちゃんの魂と繋がってるから、勾玉から前世を見ることができる」
直樹くんがそう言った後。司さんが目を瞑る。
すると、指の隙間から紫の光が漏れた。
静寂な時間が緊張感を生む。
窓に触れる雨音。
ときおり鳴く風。
言葉が眠る空間。
司さんはしばらく目を瞑ったまま、微動すらしなかった。
自分の手を見ると、汗で滲んでいる。
前世と今を重ねるつもりはないが、それでも怖さはある。
この心が壊れていたと知るのは。
しばらくすると勾玉の光が消えた。司さんはゆっくりと目を開く。
糸が張り詰め、今にも千切れそうな空気が振動する。
「とりあえず、前世の最後だけ見ました」
私の喉が鳴り、沈黙の中に響く。
「梨紗さんは前世で自死しています」
予想はしていたが、鼓膜に触れると感情が萎れる。
「同じ苦悩でも人によってその大きさは変わります。魂の器がそれぞれ違うから。自死した魂が脆くなるのは聞きましたか?」
「うん……」
「梨紗さんの器は小さくなってます。ここまで生きていたのが不思議なくらいに」
何度も死のうと思った。
最初は一年に一度くらい。
その次は四季を跨ぐごとに。
そして一ヶ月、一週間、毎日、毎秒と、死が押し寄せてくるようになった。
感情が漏れるほど、心に穴が空いていたと思う。
「でも器は大きくすることができます。真由美さん、回収した魂はありますか?」
「あるよ」
「これから、魂を霊界に送ります。一緒に来てください」
苔むした長い石段を登った先にお寺が見えた。
森に囲まれていること、年月を経たであろう木造の風合い、しっとりと降る雨が相まって幽玄に佇んでいる。
「行くぞ」
本堂の脇から傘をさした京介さんが歩いてきた。
京介さんはここの住職らしい。来る途中に真由美さんから聞いた。
「どこに行くの?」
真由美さんに聞くと、奥にある森を指した。
♦︎
森の中に入ると雨の匂いが鼻腔に触れた。土や木が混ざる自然を感じる匂い。
緩やかに鼓動が静まっていく。
木々の葉は空を隠すように覆っており、雨に濡れないように傘の代わりになってくれていた。
薄暗いが、怖さよりも守られているような安心感を感じる。
表現するなら“神聖な場所”。この言葉が近いように思う。
奥まで来ると、高さが二メートルほどある、祠のようなものが視界に映った。
木造の簡素な作りではあるが、長い間にわたってこの場にいるような佇まいを感じさせる。まるで森の一部みたいだ。
注連縄が張られた格子があり、奥は暗くて見えない。
この世界とは違う何かを醸し出している。
その先に足を踏み入れてはいけない何か。
「この祠の先が霊界になってます。今から僕が魂を導き、本来の場所へと帰します」
司さんがそう言うと、真由美さんが水晶を渡す。
「じゃあ、始めますね」
司さんが祠の前に立つ。
「お寺なのに祠なの?」
「神様を祀ってるわけじゃないから」
「地蔵菩薩を安置してる祠もあるけどな」
直樹くんが言った後、京介さんが続いた。
言下、急に風が吹く。
前髪が靡き、全身に纏わりつくような冷たさだ。
祠の方を見ると、司さんが水晶を持つ手を、体の前に出していた。
木々の葉は揺れるのを止め、空は口を塞ぎ音を消す。
静寂が落ちた空間は、動くことすら憚れるような空気感だった。
「天と地を結ぶ霊師の長が、彷徨う魂を帰すため門を開くことを承認する」
司さんが唱えると祠の格子が開いた。
中は暗く、その先は何も見えないままだが、明らかにこの世界とは別の空気を感じる。
「納師より授かりし魂よ、天昇の儀により霊界へと引き渡す。導くは霊導の師。背負いし煩悶を祓い、その最後を見送ろう」
白い煙を覆った三体の球体が、水晶から出てきた。
「黒いのはどこ行ったの?」
「水晶の中で浄化されるの。だから一緒の場所にいても喰われたりしない」
私が小声で聞くと、真由美さんも小声で返答した。
再び視線を魂へと移す。
一つは私をビルから落とそうとした魂。
もう二つは菜月ちゃんと、その命を奪った魂だ。
「諸行無常。悲しき呪縛の螺旋はいずれ種となり蕾に変わる。来世に繋げしその魂が、翠雨により鮮やかに彩ることを祈ろう」
三つの魂は吸い込まれるように祠の中へと入っていった。
この世界から一度旅立ち、再び別の体で戻ってくる。
どんな場所で生まれ、どんな人生を送るのだろう。
悲しみが連鎖するのか、居場所を変え咲くことになるのか。
自問自答するように、私は魂を見送った。
「なんで特上頼むんだよ」
「ケチケチすんな」
ダイニングテーブルの上には、漆塗りの桶に入ったお寿司が置かれている。
鮮やかな彩りで並んでおり、その輝きは宝石のようだった。
住職の住まいのことを庫裏と言うらしい。
本堂から少し離れた場所にあり、京介さんはここに住んでいるみたいだ。
「五人なのになんで十人前なんだよ」
「持って帰って明日食べるんだよ」
「お前の方がケチくせーじゃねえか」
「私は可愛いからいいんだよ」
「自分で言うな。とりあえず後で金返せよ」
「うるせえ、髪切ってこい」
「うちの宗派いいんだよ」
「あの、もう食べません?」
真由美さんと京介さんの口争いを直樹くんが止める。
「直樹に救われたな、京介」
「なんも救われてねーよ。俺の懐が寂しくなっただけだ」
「とりあえず食べましょう」
また始まるのかなと思ったが、次は司さんが間に入った。
真由美さんと京介さんは仲が良いのか、悪いのかはよく分からない。
でもこんな関係性を築けるのは、ちょっと羨ましかった。
「うっしゃ、いただきます」
真由美さんがよく分からない掛け声と共に、一番乗りで箸をつける。
「うっま!」
中トロを頬張る真由美さんの表情からは幸福が零れ、顔全体が蕩けている。
「梨紗も遠慮せずに食べな」
「いただきます」
♦︎
「梨紗さんが二人の命を救ったみたいですね。直樹くんから聞きました」
桶に入ったお寿司が半分くらいになった時、司さんに話しかけられた。
「私は何もしてない。真由美さんたちがいなければ、その二人の命は今はなかった」
翔太くんと優花さんは新しい道へと進んだ。
真由美さんたちが言葉という傘をさし、二人の上に降る雨を凌いだからだ。
「死を考えてる人を救うには、何が大切か分かりますか?」
自分自身の胸に耳を傾ける。
今は死にたいという願いはない。
ないというより忘れていたに近い。
樋口さんを助けたいという想いが、希死念慮を眠らせていた。
「別の道をその人に教えることができたら、死を忘れられる」
「半分正解です」
「半分?」
「救えたとしても、その先でまた躓く可能性があります。そしたら死にたいという気持ちは再現されます。一度死を考えると、選択肢の中に現れるようになるから」
確かにそうかもしれない。
失望や悲しみが感情に触れるたび、私は死にたいと思うようになっていた。
心に死が縫い合わされ、解くことができなくなる。
そして日々の苦痛と共にキツく締め付けられ、絶望という景色が視界を染める。
「大事なのは雨上がりを待つ忍耐力より、雨の中でも歩き続ける強さを持たせることです。自死がよぎると、選択肢はあるのに死に近づく道を選んでしまう。避けるためにはその人の中に縋れるものを作ること。何かを持てれば道となります。そうなれば、たとえ躓いても自分の足で立ち上がって歩いていける。僕たちがすべきことはそのきっかけを作ることです」
その人の中に縋れるものを作れば救うことができる……
私自身、何も持っていない。
そんな人間がきっかけを作れるとは思えなかった。
「私は強さというものを知らない。でも救いたい人がいる。その人のために力がほしい。特別なものではなく、何も持たない私でも誰かの支えになれる力が」
映画に出てくるヒーローじゃなくていい。
多くの人から賞賛され、愛され、世界を救うような存在になりたいわけじゃない。
世界の片隅で、誰にも知られずに泣いてる人の涙を拭えるようになりたい。
一人じゃないと知ってほしい。
同じようように濡れて、共に雨の中を歩きたい。
小さな光だとしても、苦しんでいる人を照らせる希望になれたら。
「梨紗は強いよ」
真由美さんの声が耳に入り、顔を上げる。
「助けてくれた人を裏切ったって言ってたでしょ? その状況なら自分は悪くないって言えたはず。でもそうしなかったし、変わろうとまでした。それが強さだよ。梨紗は痛みを知ることができて、受け止めることもできる。そして、変わろうと思える力も」
人生を振り返ると、自分を変えようと思ったことはなかった。
親に褒められたい、認められたいということはあったが。
私自身、今は別の道を歩いているのかもしれない。
この道がいつか、生きたいと思える場所に繋がれたら……
「梨紗ちゃんは優しい。でもその優しさが時に自分を苦しめてしまう。背負わなくていいものを背負ってしまうから。真面目な人ほど生き辛さを感じるのは、自分の容量を知らずにすべて受け止めてしまうから。そういう環境で過ごしてきたのも関係してると思う」
直樹くんが言った通り、両親は私の中にすべてを詰め込もうとしてきた。
抱えきれないほどの重圧で耐えられなくなっても、自分の弱さのせいだと思った。
だが別の世界に根を植えたら、目に映る一つひとつの色が変わった。
白黒だった景色。
今は優しい色彩が灯されている。
「自ら命を放棄した人間は来世でも死を選びやすい。その螺旋から降りるには考え方を変える必要があります。生きるということに対しての。それが器を大きくすると言うことです。死にたいと願うことで視界は狭まりますが、そこでしか見えないもの、拾えないものがあります。まだ種だから、すぐには価値を見出せないかもしれない。その花が咲いたときに“死にたかった自分”に意味が付くんです。思考は言葉を変化させ、やがて新たな道となる。いずれ力になるので覚えといてください。自分自身と、救いたいと思っている人のためにも」
何もないと思っていたが“死にたいと願っていた自分”がいた。
それが力になるかもしれない。
私だけの言葉がそこにはある。
同じように苦しんでいる人に寄り添える言葉が。
「さっき裏切ったって言ってたな?」
京介さんが口をモグモグさせながら言った。
「うん」
京介さんは水を飲み、お寿司を流し込む。
「人を傷付けた時にはルールが……」
「それはもう、私が言った」
真由美さんは京介さんが言い終わる前に、平然とした顔で語尾を喰らった。
「俺がお前に言ったやつだろ。勝手にパクるな」
「パクリじゃない。サンプリング」
「音源みたいに言うな」
「雨という名のBGMが、私の言葉をリリックに変える」
「黙れ。つーかお前に貸したアルバム返せよ」
「京介は優しい。でもその優しさが自分を苦しめてしまう。借りたアルバムを無くされても許してしまうんだから」
「お前無くしたのかよ。絶対許さねーぞ」
「僕の言葉で遊ばないでくれます」
直樹くんが二人の会話に言葉を挟む。
「買って返せよ」
「そのうちな」
「絶対返す気ないだろ」
「十倍にして返してやるよ」
「言ったな。あれ三千円だから三万にして返せよ」
「こんなでっかいCDで返す」
真由美さんは目一杯、腕を横に広げた。
「大きさじゃねーよ」
「フフ」
二人のやりとりに思わず笑い声が漏れた。
こんな自然に笑ったのはいつ以来だろう。
それすら覚えていない。
急に静かになったので視線を上げると、みんなが私の方を見ていた。
恥ずかしくなり視線を落とす。
「まあいいや。今回は目を瞑ってやるよ」
「強くなったな、京介」
「やっぱり返せ」
「やーだ」
真由美さんは首を傾げ、ぶりっ子のような口調で言った。
「可愛くねーぞ。ババア」
「おいコラ! もういっぺん言ってみろ」
その後も二人は言い合いを続けていた。
直樹くんと司さんは笑いながら見守っている。
誰の記憶にも残らず、静かに消え去りたいと思っていた。
でも周りの人間や生きる場所で人は変わっていく。
雨の中でも美しく染まる、六月の紫陽花のように。
「今日、全校集会があるじゃん」
「朝からダル」
「早く梅雨終わってくんないかな」
「雨だと髪の毛うねるんだよね」
校門をくぐると、生徒たちの会話が四方から咲いてくる。
雨の中でも枯れない声。
以前なら、耳元で飛び回るハエのように感じていた。
私の上だけに雨が降っているように思えたから。
死に触れると、視覚と聴覚に狂いが生じる。
景色は白と黒で覆われ、なんでもない言葉ですら騒音と化す。
――今日、真由美さんと学校に行って先生に言ってみる。何か変わるかもしれないから
家の玄関を出る時、直樹くんにそう言われた。
今は一人じゃない。
雨宿りできる場所があって、寄り添ってくれる人ができた。
優しさという光が萎れていた心を照らし、悲しみに埋もれていた感情を咲かせてくれた。
死は行き止まりではない。
星や月が消えた夜のように、そこにあるはずのものを見えなくする雲だ。
それに気づければ、自らの力で光を灯すことができる。
たとえ雨が降っていても歩いていける。
「めっちゃ飛んだ」
ガサついた声が聞こえたため顔を上げると、昇降口の前に藤本の姿が見えた。
その後ろには中山と平田。
そして俯いている樋口さん。
樋口さんの足元には、風に煽られたように親骨がひっくり返ったビニール傘。骨の部分は折れているようにも見える。
藤本たちは満足そうな顔をして、昇降口へと入っていった。
雨に濡れる樋口さんは、とぼとぼと反対方向へと歩き出す。
その先に視線を送ると、雨に打たれた学生鞄が萎れたように落ちていた。
藤本が鞄を奪い投げ捨てたのだろう。
私もされたから、すぐに状況が理解できた。
「持ってて」
鞄を見下ろす樋口さんに、傘を差し出した。
彼女が受け取ると、私はタオルを取り出して鞄を拭く。
「見られたら、何されるか分からないよ」
不安気な顔で言う樋口さんに鞄を渡す。
「この雨が止んで、笑える日が来る。あなたが私を救ってくれたように、私もあなたを救ってみせる」
自分の鞄から折り畳み傘を取り出す。
樋口さんから借りた傘。
濡れた私にさしてくれた優しさ。
あの日のことは絶対に忘れない。
「一人じゃない、私もいる。苦しみが伴う道だとしても、傷を付けてでも一緒に歩く。その手だけは何があっても離さないから」
私の言葉の後に、傘の中で雨が降った。
青空を知らない孤独な雫。
悲しみは目で見ることはできないが、目の前には確かに存在する。
降りしきる雨を、私は親指でそっと拭った。
全校生徒が集まった体育館は雨音を掻き消すほど騒がしかった。
端に並ぶ教師たちも雑談をしており、言葉が縦横無尽に行き交う。
私は列の真ん中におり、三人挟んだ前には平田たちがいる。
何もなかったかのように笑っている姿は、自然なほど周りに溶け込んでいる。
何も知らない人間が見ても、彼女たちを悪魔とは思わないだろう。
「だるいから抜けようぜ」
「コンビニ行く?」
「金ない」
藤本と中山の会話が耳に入る。
「いるじゃん」
平田が親指で後ろを指す。
その指の先には、樋口さんがいるとすぐに理解した。
藤本も分かったようで、ニヤついた顔を浮かべる。
三人は列から出て、後方に歩き出した。
私には目もくれず通り過ぎていくと、二人挟んだ後ろで立ち止まる。
「樋口、財布持ってるっしょ? 大事そうにブレザーに入れてたもんね」
「……あるけど、何?」
藤本の脅かしを、樋口さんは震えた声で返す。
怯えているのがはっきり分かった。
それは私自身もだ。
自分の手が小刻みに揺れ、防衛本能が具現する。
「コンビニ行くぞ」
「もうすぐ始まるから……」
「へー、逆らうんだ。それってさ……死にたいってこと?」
「……分かった」
藤本の言葉に観念したのか、樋口さんは三人と共に出入り口へと歩き始めた。
教師たちに視線を送るが誰も気づいていない。
私しかいない。
彼女を救えるのは。
傷が付いても守ると決めた。
もう裏切ったりはしない。
この命に意味をもたせるためにも。
――死を纏った人間の言葉には力が宿り、それがいつか誰かの道に変わる。だからお前は生梦葵に選ばれた
――人を守るって簡単にできることではない。でも寄り添うだけでも支えにはなる。梨紗ができるやり方でいいんだよ
京介さんと真由美さんの言葉が頭の中で響いた。
その言葉を握りしめ、私は足を踏み出す。
「行かせない」
私は平田たちの前に立ち塞がった。
もう指は震えていない。
自分の心に傷が付くより、守りたい人が傷付いてしまう方が怖いから。
「邪魔」
平田は私を押し退けて前に進む。
負けちゃダメ。
なんのために傷を付けてきたんだ。
「行かせない」
回り込み、再度、平田の前に立ち塞がる。
「何なんだよ! またいじめられたいの」
平田の怒声が体育館に響き、全校生徒の視線が私たちに集まる。
「何してるんだ。集会始まるぞ」
教師たちが集まってくると、生徒たちがざわめき始めた。
「面倒かけるな。お前ら早くもど……」
私は、肩を掴んできた木下の手を振り払った。
瞬間、体育館が静まり返る。
「なんで……なんで人の痛みが分からないの。傷を付けられた人間は過去を背負って生きなければならない。何十、何百という時間が過ぎたとしても、その過去に縛られて、前に進めないまま置き去りにされる。たとえ痛みが消えたとしても傷が消えるわけじゃない。見えないところには残ってる。苦しんで、もがいて、声を上げられないまま一人で抱えて、必要のない傷を背負って生きてるの。人って簡単に死ぬんだよ。言葉一つで生かすことも殺すこともできる。毎日死にたいって思いながら生きてた。どこにも居場所が無くて、理解してくれる人もいなかったから。でも、そんな私を救ってくれた人もいる」
届いてほしい。
一人で傷付いているあなたに。
「命の重さなんて私には分からない。でも奪っていいものではない。見下ろしていたら気づかないだろうけど、足元に落ちたガラクタのようなものも、その人にとっては大切な命なの。他人が笑いながら踏み潰せるようなものではない。生きてるんだよ。泥をかけられながら、それでも必死に。枯れかけた命はゴミじゃない、また咲くことができる。人は諦めると、その希望すらも忘れてしまう。弱くても、情けなくても、自分のことが嫌いでも、その命は自分のもの。あなたたちの手の中にはないんだよ。死にたいと願う人間だって、初めからそう思って生まれてきたわけじゃない。苦しさを忘れさせてくれる場所があれば、生きたいと思えるの」
今までの私では、こんな言葉を言えていなかった。
真由美さんたちに出会えたこと。
同じように死にたいと思っている人たちがいたこと。
私に傘をさしてくれる人がいたこと。
そして死にたいと願っていた自分がいたこと。
そのすべてが装飾し、私だけの言葉が咲いた。
静寂が落ちた空間、私は木下に視線を向ける。
「評価が大事なのは分かる。でも子供は数字じゃない。たった三年かもしれないけど、そこで付いた傷は簡単に消せるものではないの。いじめがない学校はすごいと思う。でも、いじめをなくせるのも良い学校だと思う。平等に見ろとは言わない。お気に入りの生徒がいても構わない。だけど、傷付いた生徒は守ってあげてほしい。それで救われる命があるなら」
言いたいことが言えたからか、全身の力が抜けたようだった。
「木下先生、どういうことですか?」
狼狽えながら視線を泳がす木下に、校長が問いかけた。
「いや……私もよく分からないですね」
「ずっといじめられていたんです。平田さんたちに。木下先生にも相談しましたが、『いじめられてる人間の方に責任がある』そう言われ一蹴されました」
平田たちに視線を送ると、居た堪れない様子で立ち尽くしていた。
「いじめがあったら報告してと言いましたよね?」
校長が木下に問いかける。
「いや……なんていうか……その……」
「どういうことですか? 説明してください」
口ごもる木下に、哀れな感情が芽生えた。
私は教師たちのやりとりを余所に、体育館を出て行った。
「梨紗、どうしたの?」
校門を出ると、真由美さんと直樹くんに出会した。
二人は、木下にいじめの件を話してくれると言っていた。
だけど、もう大丈夫かもしれない。
「今日はもう帰る。いじめのことも言わなくていい」
「解決したの?」
直樹くんは目を見張って聞いてきた。
「まだ分からないけど、みんなには知ってもらった」
「そっか、一つ進展って感じだ」
真由美さんの口調には『良かったね』という想いを感じた。
「うん」
私は空を見上げた。
雨は止んだが、まだ灰色の空が残っている。
これからどうなるのかは分からないが、再び青色の景色が広がってくれたらと祈った。
「泉さん」
振り返ると、息を切らしながら走ってくる樋口さんが見えた。
「ありがとう。助かった」
息を整えながら、彼女は言った。
「ううん、樋口さんがいたから私は一歩進むことができた。ありがとう、手を差し伸べてくれて」
樋口さんは白い肌を赤らめた。雪に降る紅葉のように。
「あっ、同じクラスの樋口琴葉と言います。梨紗さんにはお世話になってます」
樋口さんが、真由美さんと直樹くんにお辞儀をする。
「北川真由美です」
「僕は遠藤直樹です」
二人の苗字が違っていたからか、樋口さんは戸惑いながら私を見た。
「色々あって、今は二人と同じ場所に住んでるの」
「そうなんだ……もう帰るの?」
「うん」
「そっか……」
樋口さんは、何か言いたげな顔をしている。
「ねえ」
真由美さんを見ると、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「今日はもうサボろう。いいところに連れてってあげる」
お寺に来た。
お寺と言っても、京介さんのところとは別の場所だ。
正面入り口を真っ直ぐ歩いていくと山門が見える。
その前には長い石段があり、両脇には溢れるように紫陽花が咲いている。
空の代わりを果たすかのように青が敷き詰められ、四季の狭間を美しく灯す。
「綺麗」
日常を忘れさせる景色。樋口さんは表情に花を咲かせる。
その顔に釣られ、私の口元は緩んでいた。
後ろを歩く真由美さんと直樹くんは、スマホで写真を撮っている。
「紫陽花をメインにした方がいいですよ」
「私の方が綺麗だから、京介はこっちの方が喜ぶ」
真由美さんはインカメラで撮影しているが、ずっと自分の顔に焦点を当てている。たぶん紫陽花はほとんど写ってない。
京介さんに送るみたいだが、花の写真を送ってあげた方がいいと思う。
「私ね……」
樋口さんの声が聞こえ、彼女に視線を合わせる。
「中学の時にもいじめられてたの。弱い自分をこの世界から消し去りたかった。だから私を知ってる人がいない場所を選んだの。そこだったら変われると思ったから。でも中々、変えられなかった」
「なんで、私のことを助けてくれたの?」
辛い経験をしていたのに、自ら足を踏み入れ、私を助けたということだ。
普通ならできることではない。
「一人で耐える辛さを知ってるから。それがどれだけ苦しいかを」
中学の時の自分と重ねていたのかもしれない。
同じクラスというだけの私に、手を差し伸べる理由なんてないから。
「悪い人にはいつか罰があたり、虐げられてる人はいつか報われる日がくる。ずっとそう言い聞かせて耐えてきた。じゃないと心が壊れそうだったから」
自分の中に支えになるものを作り、ずっと縋ってきたのかもしれない。
私の場合は死が希望だった。
「誰かの一番になりたかったの。孤独の中で生きてる人に寄り添って、一人じゃないよ、私も同じだよって言ってあげたかった。私がそうされたかったように。ずっと自分の生きる意味を探してた。だから必要とされたかったの。生まれてきて良かったんだって思えるように、こんな命でも役に立つって信じたかった」
人は他人の見えないところで、もがきながら生きている。
意味や価値を見つけるために。
「難しいね、人のために何かをするって。頑張れば頑張るほど、思い描いてたものから離れていく。掴んだとしても手にしたわけじゃないし、少しでも気を抜いたら指の間から落ちていく。また苦しむなら弱いままでいい。ずっとその繰り返し」
樋口さんの表情に影が落ちる。
希望と絶望の間を何度も彷徨っていたのかもしれない。
光を見た後の闇は、より一層暗く感じることを私も知っている。
「私は樋口さんのおかげで救われた。痛みを伴うと知ってて、寄り添ってくれたでしょ? だから別の道を歩くことができた。あのとき傘を差してくれたこと、一生忘れない」
樋口さんは、閉ざさした口元を少しだけ上げた。
そして「私も」と囁くように零す。
「紫陽花ってすごいよね」
樋口さんは立ち止まり、視界の隅に咲く青い花に目を向けた。
「ずっと雨に打たれてるのに綺麗に咲ける。こんな花みたいに生まれたかった」
春と夏という季節の象徴。
その間で咲く六月の花。
雨に縫われた四季の狭間で、涙を拾うように紫陽花は咲く。
もし傷付くたびに優しさを持てていたら、もっと早く咲けていたのかもしれない。
「綺麗なものを見続けている人間には、本当の美しさは分からない」
振り向くと、真由美さんが後ろに立っていた。
「傷を負って痛みを知り、その中で強さと優しさを学ぶ。でも多くの人は心が折れて枯れていく。だけどその先には、幾多の色を纏った鮮やかな世界が待っている。本当に美しい花は、長い雨の中で咲き誇る」
「だから綺麗なんだ」
樋口さんは、澄んだ青色の花を眺めていた。
その目には希望のような輝きが見える。
雨上がりの太陽の下で咲く紫陽花のような、そんな綺麗な瞳だった。
「えー、キモい」
太陽が幻のように消え、澄んだ青は灰色に変わっていた。
空は不穏な色に染められ、今にも泣き出しそうだ。
実験室では顕微鏡を覗く生徒たちのはしゃいだ声が響いていた。
クラスの人たちがいくつかのグループに分かれており、私は実験台の隅で縮こまるように周りを眺めている。
壁際の席にいる平田たちは、笑顔を浮かべながら楽しそうに話していた。
何もない平穏な日常を過ごすように。
実験室に樋口さんの姿はない。
今は四限目だが、朝に教室を出て行ってから戻ってくることはなかった。
笑いながら話している生徒たちを見ると、誰も気にしていないように思える。
樋口さんは一人でいることが多かった。仲の良いクラスメイトはいないのかもしれない。
だから、いなくなっても変わらない。
実験室の騒がしさがそう言ってるようで、心が苦しくなった。
ガラガラ、と後ろの扉が開く。
視線をやると、樋口さんが入ってきたのが見えた。
表情は沈み、肩を落としている。
生気の抜けた雰囲気だった。
それを見て、強風に煽られたように感情がざわつく。
「樋口、どうした?」
前にいる教師が尋ねると、生徒たちが一斉に振り向く。
「具合が悪くて、保健室にいました」
確かに顔色は悪い。雲がかかった空のように。
「無理しなくていいぞ」
「大丈夫です」
「じゃあ、ここ入って」
教師は中央の一番前の席を指した。
「はい」
樋口さんが席に着くと、生徒たちは再び顕微鏡を覗きはじめた。
少しだけ抑えられた騒がしさ。
彼女にはどう聞こえているのだろうか。
声の雨を浴びている横顔は灰色に覆われている。
雨模様の目に映る世界。
そこに太陽はない。
朝にあった出来事をクラスのみんなが認識している。
きっと樋口さんも分かっているはずだ。
だから理解する。
日常と変わらない風景は、その雨の長さを知ることができるから。
これからも続く、六月のような雨を。
前の扉が開くと、新任教師が慌てふためいた様子で入ってきた。
「先生のクラスの子が貧血で倒れちゃて、今、保健室にいるんですけど……」
焦っているのか、言葉がバタバタと駆け足で迫ってくるようだった。
生物教師は力強く手を叩いた。
生徒たちの視線は微生物から人へと変わる。
「みんな聞いてくれ。ちょっと外すから、そのまま観察しててくれ」
そう言い残して、教師たちは実験室から出て行った。
「やったー」
「ラッキー」
扉が閉まってから数秒後、甲高い弾んだ声が歓声のように上がった。
何人かはスマホを取り出し、自由行動を始める。
話し声がだんだんと大きくなるに連れ、観察していた微生物の存在が忘れられていく。
プレパラートに押しつぶされ、高倍率でレンズから覗かれる。
普段は存在すら知らない“それ”を、さっきまでは楽しそうに騒ぎながら見ていた。
だが今は、youtubeや流行りのアプリの話に夢中になっている。
もし人の感情も同じように知ることができても、すぐに風化されてしまうのだろか。
たとえ知ったとしても、対岸の火事のように面白半分で見過ごされてしまうのだろうか。
今も真剣に顕微鏡を見てる人もいる。
ノートを取りながら、見たものを忘れないようにして。
「やめて」
その声で教室が静まり返る。
視線を移すと、藤本と中山が、樋口さんをテーブルに押し付けていた。
樋口さんの対面には平田が立っており、水の入ったコニカルビーカーを手にしている。
一緒のグループの子たちは席から離れ、火の粉が降りかからない距離で眺めていた。
実験室は静寂に覆われ、周りの視線が彼女たちに向いている。
「喉乾いたでしょ?」
平田は片方の口角だけを上げ、歪んだ笑みを浮かべた。
「お願いだから、やめて」
抵抗しているが、二人に抑えられてるため身動きができていない。
「一人じゃ飲めないだろうから、私が飲ませてあげ……」
「ダメ!」
樋口さんの頭の上に水がかけられる寸前、私は平田の持っているビーカーを奪い取った。
ほとんど無意識に近かった。
手と足が震えている。
でも助けないとと思った。
私を唯一見てくれていた人だから。
「樋口さんは関係ないし、こんなの間違ってるよ。いじめなんかしたって、何も生み出さない。もう終わりに……」
ドンッ
鈍い音が響いた。
頭がジーンとし、耳鳴りのようなキーンとした音が鼓膜に残る。
平田は語尾を絡めとるようにして、私の頭を叩いた。
その衝撃で言葉を見失う。
「気持ち悪いから指図しないで。それ樋口にかけてよ」
平田は私の手の中にあるビーカーに視線を送った。
「……」
声を出せなかった。
暴力というものは言葉を殺す。
たった一言でも発したら、また殴られる。
そう思うと、私の命が口を固く閉ざさせた。
樋口さんの顔は怯えていた。震える唇が心を表している。
どうしていいのか分からない。
助けたい。
でも殴られるのは怖い。
願いと恐怖が交差して思考が渋滞する。
私はただ、震えて立つことしかできなかった。
「ねえ、聞こえてる?」
平田の声が耳に入り、背筋が凍りつく。
「……」
「聞こえんてんの?」
「できな……」
ドンッ
二度目はさっきよりも強さを増していた。
恐怖以外の感情が枯れ落ち、この場から逃げ出したいという気持ちが思考を侵食する。
「やってよ」
「……」
「やって」
「……」
「やれ」
「……」
「早くやれって言ってんだよ!」
平田が手を振り上げたとき、私の手が反応した。
傷が付かないように。
命が濡れないように。
死から逃れるように。
私は守った。
樋口さん……ではなく、私のことを。
ビーカーに入っていた水は空になっていた。
注ぎ口からは水滴が静かに滴り落ちる。
私の目に映ったのは、雨が降ったように濡れている樋口さんの姿だった。
「ふざけんなよ、泉。私たちにまでかかったじゃん」
「本当、最悪。樋口にだけかけろよ」
藤本と中山の声が、真っ白になった頭の中に入ってくる。
「せっかく助けてくれたのに、あんた最低だね」
平田は私の耳元でそう囁いた。
「教室行こうぜ。ジャージに着替えたい」
藤本たちは制服を手ではたきながら、冷たい空気を残して出て行った。
実験室は声一つない静けさが漂っている。
その場に縛り付けられているかのように体が動かない。
周りも誰一人として動く気配がない。
重力を感じるような空間
心に重いものがのしかかり、時間が止まっているみたいだ。
「ごめん……」
声を震わせながら絞り出して言うと、樋口さんは何も言わずに実験室を出て行った。
心臓の音がはっきりと聞こえてくる。
ドクン、ドクンと脈打つように。
波のように押し寄せてくる喪失感と罪悪感。
自分が虐げられているときとは違う苦しさが、酸素の濃度を薄くさせる。
――謝らないと
震える足を無理やり動かして廊下に出ると、薄暗い中を一人歩く、樋口さんの背中が映った。
足跡のように零れ落ちる水滴が、傷跡のように見える。
悲しみが具現化し、感情の花弁を散らせながら命を削っているみたいに。
「待って」
乱れていた呼吸を整え、立ち止まっている樋口さんの背中に向かって言葉を繋げる。
「本当にごめん、私……」
樋口さんが振り向いてこちらを見たため、言葉を止めた。
「分かってる。だからもういい」
その目は哀しみに染まっている。
胸中の感情を零さないように言葉で蓋をしたが、それが目から溢れてしまった。そんな風に感じた。
樋口さんはその言葉だけを残し去っていく。
心のどこかに傷が入ったのを感じた。
付けられたものではなく自傷のような傷。
今までとは違う痛みが、胸のあたりをギュッと握ってくる。
追いかけないといけないのに、私は追いかけられなかった。
悲痛の滲む背中が足に釘を打ち、一歩も踏み出すことが出来ない。
樋口さんに傷を付けてしまった。
傘をさしてくれた人を私は裏切った。
自分を守るために。
恐怖から逃れるために。
彼女を傘にして、雨に打たれないために。
その後、樋口さんが教室に戻ってくることはなかった。
学校が終わり、帰路についていた。
ぽっかりと空いた穴には虚無感が佇み、視界は空と同じように薄暗かった。
雨は止んだ。
墜栗花から続いた重く湿った空気は乾き、白を映えさせるような夏めく空を見ることができた。
だが、私に降っていた雨は樋口さんの上に流れ、陰鬱な灰色を描いた。
鞄の中にある折り畳み傘。
私が濡れないよう、樋口さんが貸してくれた。
それなのに、泥水を撥ねさせ彼女の心を汚してしまった。
自分が醜い。
愚かで卑劣で忌々しいこの命を、今すぐにでも枯らしてしまいたい。
なんでこんな自分が生きてるのだろう。
私が死んでいれば、彼女に雨が降ることはなかった。
私のような価値のない人間が生きているから、誰かが傷ついてしまう。
私が産まれてこなければ、苛立ちや悲しみもなかっただろう。
全部……私のせいだ。
家の前の通りに差し掛かると、突然雨が降り出した。
視覚と聴覚を支配するほどの大粒の雨。
激しく地面を叩く針のような雫が、全身を隈なく刺していく。
天秤の上の生と死が揺れる。
私のような人間は傘をさしてはいけない。
この染みついた穢れをすべて洗い流さなければ。
それでも落とせないというなら朽ちてしまえばいい。
体も、心も、命も、魂も、全部。
止まない雨はない。
確かにそうかもしれない。
でも雨は何度だって降る。
施された束の間の安息は、再び雲に覆われた。
崩れてしまうなら、空の青さなんて知らなければよかった。
「どうしたの?」
玄関の前で立ち尽くしていると、真由美さんが家の中から出てきた。
「風引くから早く中にはい……梨紗」
目から流れているものが何か分からなかったが、真由美さんの表情を見て、涙だと分かった。
心配そうな視線が、私の双眸に向いていたから。
「強くなりたい。自分を守るためじゃなく誰かを守れるように。でも怖い。嫌だってはっきり言えばいいのに勇気すら持てない。そのうえ逃げ出したいと思ってる。どうしてこんなに弱いんだろう。自分という存在が本当に憎い。変わりたい……変わりたいよ、真由美さん。でもどうすればいいか分からない」
真由美さんは私の前に立つと、そっと抱きしめてくれた。
自分も体を濡らしながら、傷んだ心まで濡れないように優しく包む。
「弱さを責めなくていい。人ってそんなに強くないから。それと、変わりたいと思ってる自分は褒めてあげて。前に進もうとしてる自分まで否定しなくていいよ」
真由美さんの言の葉が濡れた心に傘をさした。
人の温もりを感じる。
心臓が波に揺られているみたいだ。
不安と安心が重なり合う、白と黒が混ざったような感情。
曇った瞳からは、空を知らない雨が降りしきる。
ずっと求めていた“これ”を、私はなんて呼んだらいいのか分からなかった。
受けたこともなければ、名前すらも知らない。
初めて手渡された形のない贈り物は、優しさとは違う温かさがあった。
髪の毛を乾かして寝巻きに着替えた後、居間へと向かった。
今日は真由美さんが買い物に行く予定だったらしいが、代わりに直樹くんが行ってくれたみたいだ。
濡れた姿を見て驚いていたが、私の顔を見ると何かを察したように、自ら代役を引き受けた。
驟雨が弱まっていたため、木枠の窓を開けて縁側に腰を下ろす。
雨垂れは涙のように、ぽつりぽつりと地面に落ちる。
空が泣き、雨が鳴く六月。
隙間から見せた青は泡沫のように消え、白と黒が産み落とす境界線のような灰色が視界を覆う。
悲しみにも種類があることを知った。
同じ傷でも痛みが変わることも知った。
なぜ苦しまないと知れないのだろう。
平穏に過ごすことができない人生に辟易する。
今は死にたいというより生きたくない。
だが生きなければならない。
一人残して、私だけ楽になるわけにはいかないから。
「本当、雨って自分勝手だよね」
寝巻きに着替えた真由美さんが隣に座った。
不安定な感情が微睡み、眠るように静まっていく。
「私いじめられてたの。他にも被害を受けた子はいたけど、私は関わりたくなかったから見て見ぬフリをしていた。だから人に助けを求めることはできない。そう思ってた」
ここまでの経緯を話した。
真由美さんは何も言わず、私の言葉を受け取ってくれていた。
誰かに話すなんて考えていなかったが、真由美さんには言いたかった。
何かを求めるとか、何かをしてほしいとかではなく、ただ聞いてもらいたかったんだと思う。
自分だけが抱える感情を、この人には知ってもらいたかった。
「私は彼女を傷付けてしまった。自分を犠牲にしてくれた人を」
自分の言葉に胸が疼く。
最低な行動をした記憶が蘇り、嫌悪が腹の底から這い上がってくる。
「平田の言うことに抵抗だってできた。でも自分を守るために樋口さんに水をかけた。もう戻りたくないって気持ちがあったんだと思う。だから私は裏切った。外の世界にいる、たった一人の恩人を」
最後に見た樋口さんの顔が忘れられない。
色彩を奪われてしまったような目をしていた。
すべての花が枯れ、荒廃した景色が映っている。そんな目だった。
「人って誰かを傷付けとき、言い訳したり嘘をつく。認めてしまったら罪悪感に駆られて苦しむから。だから自分の行いを受け止めるって難しいことなの。生きていれば傷付くこともあるし、傷付けられることもある。大事なのは誰かを傷を付けてしまった後のこと」
「後?」
「相手は一生消えない傷を背負うことになる。だから傷を負わせた側も同じように背負っていかなければならない。その上でどう生きていくかを考えるの。降り続く雨を止めることはできなくても、傘をさすことはできるでしょ?」
樋口さんは私に傘をさしてくれた。
自分が濡れることも厭わずに。
「人を守るって簡単にできることではない。でも寄り添うだけでも支えにはなる。梨紗ができるやり方でいいんだよ」
私にできるやり方……
翔太くんも優花さんも特別な力を使って救ってきた。
知らない人の死を離れた場所から見てきたが、今回は違う。
死が触れるより先に私が手を掴まなければならない。
希死念慮は呪いのようなものだ。
忌まわしく付き纏い、徐々に命を蝕んでいく。
守りたい。
彼女がそうしてくれたように。
次は私が傘をさして、共に雨の中を歩きたい。
理不尽が蔓延るあの場所で、災害のような激しい雨が降る場所で、何もせずに枯らさせてはいけない。
この命を、片隅で泣いている一輪のために使いたい。
昇降口に入り、下駄箱から上履きを取り出す。
前と比べると工程が一つ減った。
この間まではゴミを処理してから靴を履き替えていたが、昨日からそれがなくなった。
だが心苦しさは変わってない。
むしろ余計に辛い。
ため息を吐いてから階段へ向かおうとした時、誰かの下駄箱から空き缶が落下した。
落ちた場所を覗くと、紙パックのジュース、パンの袋、ビニール袋などが上履きの上に積まれていた。
名前を見ると【樋口琴葉】と表記されている。
無くなったのではない、漂流しただけだ。
目の前の景色が綺麗になったとしても、ゴミを捨てる人間がいる限り、汚れというものは消えることはない。
下駄箱に入っている廃棄物を脇のゴミ箱へと捨てる。
彼女に見せてはいけない。
その辛さを私は知ってるから。
同じように苦しんでほしくない。
暗闇の中を彷徨い、あてもなく歩いた先には“死”が待ち構えているから。
だから光は絶やしてはいけない。
私が灯火となり、道を照らし続けるんだ。
教室へ入ろうとした時、平田たちとすれ違った。
いつもならシミを付けていくのだが、今日は何一つ言われなかった。
もはや私には無関心なのかもしれない。
教室に入ると、周りの目が樋口さんの席に集まっていた。
何かと思い彼女の机を見ると、
【早く死んで】
【お前がいると空気が汚れる】
【ゴミ女】
など、いくつか書かれていた。
樋口さんが登校してくる前に消さないといけない。
だが油性だったら時間が足りないし、あいつらが帰ってきたら止められる。
私は一考した後、自分の机と樋口さんの机を入れ替えることにした。
席は隣の列の斜め後ろだ。
そこまで時間はかからない。
周りの視線を感じながら素早く移動させる。
幸い、机の中身には何も入っていなかったため、場所を変えるだけで済んだ。
机の上に教科書を置き、鋭利な言葉に蓋をした。
もしかしたら自分への言葉だと気づくかもしれない。
だから樋口さんには見せたくなかった。
すべての傷を防ぐことはできないだろう。
だけど、なるべく付かないように私が守らなければ。
自分ができる最大限のやり方で。
ショートホームルームの直前に樋口さんは登校してきた。
どんよりとした表情には、胸中の憂鬱が描かれているように見えた。
「おはよう、樋口さん」
昨日のことがあり気まずかったが、言葉をかけた。
「おはよう……」
消え入る声だったが、反応をくれたことにほっとした。
平田たちは悪意が込もる薄ら笑いを浮かべていたが、樋口さんがなんのリアクションも見せずに席に着くと、顔を見合わせ不思議がっていた。
机を交換したことを平田たちは知らない。
バレるかもとヒヤヒヤしていたが、三人は教室に戻ってくるなり、一番後ろの席で雑談を始めた。
そのおかげでなんとか乗り切ることができた。
知られる前に消さないといけない。
ショートホームルームの時、見えないように指で擦っていると、隣の席の伊藤さんがこっそりと何かを差し出してきた。
見るとウエットティッシュだった。
思わぬ優しさを享受して戸惑ったが、とりあえず「ありがとう」と囁き声で返す。
全部は消せなかったが、目立つ部分は痕跡が残らないまでには戻せた。
一限目は移動教室だっため、クラスの子たちは会話しながら準備している。
樋口さんはすぐに教室を出ていった。
なるべく被害に合わないようにだと思う。
私は残された文字を消そうとしたが、平田たちが樋口さんの机に向かってきたため、消せていない机の傷を教科書で隠した。
「は? 消えてるじゃん」
「だから油性で書こうっていったんだよ」
「油性だと“他の”先生にバレるから」
中山と藤本が機嫌悪そうに話している。
私は準備をしながら、何も知らないでいることを装った。
ドクッ
心臓に何かが突き立てられたような気がした。
寒気が全身を走る。
顔を上げると、平田が私を見ていた。
なるべく自然に視線を逸らす。
机の中に何かを探すようにしながら、表情を引き攣らせないようにする。
「泉」
平田の声だった。
動揺を見せないように鼻だけで深呼吸する。
「何?」
「消してないよね?」
平田の目は感情が消えているかのように色がない。
それが恐怖心にバフをかける。
「何を?」
平田は私の机に視線を送った。
消せていないのは角に書かれた【ゴミ女】【お前がいると空気が汚れる】の二つだ。
今は教科書で隠している。
平田はじっくりと舐めるような視線で机を見ていた。
心音が豪雨のように鼓膜に響く。
心臓を吐き出してしまいたい。それほどの緊張感が狭い空間にはあった。
平田が手を伸ばした。
その先には、角に置いてあった教科書。
下には汚れた言葉。
もし見つかったら、何をされるか分からない。
平田の指が教科書を挟むと、全身が総毛立ち、思考が凍りついた。
バレるーーそう思ったとき、
「あっ!」
藤本が大声を上げた。
「トイレに財布置き忘れた」
「ヤバ、盗られるよ」
「盗った奴がいたら、ぶっとばすし」
「とりあえずトイレ直行しよ。明日香、行こう」
平田は教科書を離し、藤本たちと教室を出て行った。
締め付けていた緊張が緩み、私は胸に詰まっていたものを全部出すように息を吐いた。
机の中から先ほど借りたウェットティッシュを取り出し、残りの汚れた言葉を消す。
「私たちも手伝う」
顔を上げると、伊藤さんだった。
その後ろには、いつも一緒にいる三井さん。
彼女たちは一緒になって傷を消してくれた。
「ありがとう……」
今までこんなことはなかったから、不思議な気持ちが心に漂っていた。
なぜ手伝ってくれたかは分からない。
でも嬉しかった。
全員が無関心ではないと知れたから。
屋根に当たる雨の音をかき消すように、コート上で歓声があがる。
二限目の体育はバレーボールだった。チームに分かれ試合をしている。
私たちのチームは休憩に入り、体育館の隅で見ていた。
私は球技は好きじゃない。
グループに分けられると孤独を感じるし、その輪の中に入ることも苦手だ。
でも今はそんなことどうでもいい。
運良く、樋口さんと同じチームになれた。
なるべく彼女の近くにいたい。
共に雨に濡れ、一人じゃないと知ってほしい。
裏切った私が言えることではないが、せめて寄り添いたかった。
「集まれ」
試合が終わると、教師が集合をかける。
時計を見ると授業が終わる五分前だった。
「来週からバスケな」
教師の言葉に一部の生徒が嬉々とした声をあげる。
「じゃあみんなで片付けをしてから、教室に戻るように」
そう言って教師は体育館を出て行った。
生徒たちは散らばり、支柱やネット、床のボールを片づけ始める。
「樋口にやらせればいいよ」
平田の一言で、一斉に動きが止まった。
まるで犬笛のようだ。
その声は外の世界の人間には聞こえないであろう、恐怖という周波数がある。
「手伝ったら、そいつみたいになるから」
平田の視線は樋口さんに向いていた。
湿った空気に澱んだものが入り混じり、質量が大きくなったように感じる。
体育館には枯れた表情が散見し、冬ざれの景色が映った。
「ごめんね」
一人の生徒がボールを樋口さんに渡す。
それが合図となるように、他の生徒は持ち場を離れて出入り口の方へ向かっていった。
平田たちはそれを見て満足したのか、したり顔で去っていく。
一人ひとり消えていく体育館には、私と樋口さんだけが残った。
彼女は黙々とボールを籠の中へと入れていく。
何を思っているのかは分からない。
どんな気持ちで、どんな想いで、どんな言葉を胸に抱えているのか。
知ることはできないが、私ができるやり方で寄り添いたい。
隅っこにあったボールを拾い、籠の中にいれる。
次の授業に遅れないよう、なるべく素早く。
「いいよ、やらなくて」
ネットを片そうとした時だった。
樋口さんは手を止めて、私を見ていた。
その言葉を無視し、作業を続ける。
「またやられるよ」
先ほどよりも大きな声で樋口さんは言った。
それも無視して作業を続ける。
「だからしなくていいよ! やっと解放されたんだから、また戻らなくていい」
二人だけの空間に響いた声は、空虚感が滲む沈黙を引き連れた。
「……でも無くなったわけじゃない。私のもとから去っただけ。それは終わりとは言えない。私は何があっても樋口さんのそばにいる。自分が傷付いてまで助けてくれた人だから、絶対に一人にはさせない。そう決めたから」
再び片づけを開始する。
樋口さんはボールを手に持ったまましばらく動かなかった。
片づけが終わり、二人で教室へと向かう。
私たちの間に言葉はなく、雨音と喧騒だけが鼓膜に触れていた。
教室に入ると暗い雰囲気が漂っており、みんな席に着いている。
その静けさが悪寒に近い震えを背筋に起こす。
近くに座っていた子の目が黒板へ向かう。その先を辿ると、
【気持ち悪い樋口さん、どうか死んでください。みんなそう思ってます】
とチョークで書かれていた。
樋口さんの顔は血の気が引いたように青ざめている。
藤本の笑い声が耳に入った。
やすりのような、ざらついた質感。
傷に染みるような汚れた音。
見なくても誰だかすぐに分かる。
黒板消しを手に取った時、木下が入ってきた。
私たちの担任であり、国語の教師。
気怠そうな顔で教卓に着くと、教科書を開いた。
「先生……」
木下は私を見た後、黒板に視線を移す。
書かれた文字を見ると、
「あー、これ消しといて」
そう言って、教科書に視線を戻した。
黒板消しを握る手が強くなる。
木下は生徒には無関心だ。
いじめがあろうがなかろうが関係ない。
自分に火の粉が降りかからなければいい。
自分に迷惑さえかからなければいい。
そんな人間だった。
黒板の文字を私と樋口さんで消す。
おかしな光景だ。
本来なら書いた本人がやるべきことなのに、被害にあった人間が後処理をしている。
傷を治すのは大変なのに、傷を作るのはなんでこんなに簡単なのだろう。
神様が人間を作ったことが本当ならば、膝をついて祈るような価値なんてない。
命を軽視した、もっとも愚かな存在なのだから。
放課後になり、職員室へと向かっていた。
四限目からは樋口さんの姿は見えなくなり、クラスには穴の空いたような空席が目立った。
たぶんだが、昼休みを迎えたくなかったのかもしれない。
私を見ていたら、どうなるかが想像できたはずだ。
「先生」
職員室の前へと来ると、木下が出てきたので声をかけた。
「何?」
「樋口さんのことで……」
「待て、こっちで話そう」
私が言い終わる前に木下は遮った。表情には焦燥が見える。
職員室の近くの応接室に案内され、ソファーに腰を下ろす。
ドアが閉められると外の声が消え、静寂が部屋を包んでいるようだった。
木下が顔を向き合わせる形で座り、一拍置いてから私は口を開いた。
「先生から平田さんたちに言ってほしいんです」
頼んでも仕方がないかもしれない。
でも今は縋れるものには縋りたい。
彼女を助けられるなら、僅かな希望でも信じたいから。
「私も、樋口さんもいじめられています。正確に言えば、今は樋口さんだけですけど。止めてほしいんです。このままだと彼女は……」
「原因があるからいじめられるんだろ? お前と樋口に問題があるんじゃないか?」
耳を疑った。
目の前の大人は傷を付けられる側に問題があると言う。
仮にあったとしても、まず話を聞いてから答えるべきだ。
それすらしないのは、関わりたくないからだろう。
「樋口さんは私を助けたからいじめられたんです。原因なんてない」
気に入らない。
だから唾を吐き、踏み潰す。
理念を捻じ曲げ、尊厳を否定し、恣意的に振る舞い、他者を蹂躙する。
意味のないことに時間を費やす愚かさ。
それすらも分かっていない。
「あのな……」
木下は呆れたような顔でため息を吐いた。
「こっちは大変なんだよ。残業ばかりで土日は部活、ろくな休みも無い。保護者はちょっとしたことで難癖つけてくるし、子供の怠慢を学校のせいにしてくる。お前らの育て方が悪いのに、それを棚に上げて押し付けてくるんだぞ? それで二十人も三十人も見ろって無理だろ。おまけにバカ親まで付いてくる。いじめくらい自分たちでなんとかしてくれ。これ以上仕事を増やすな。生徒を助けても評価はされないんだよ」
木下の言葉で少しだけ世界が理解できた。
いじめをしている人間が幸せを享受するのは、周りが配慮してその人間を立てるからだ。
だから痛みを伴わずに楽しめる。
自分が絶対的に正しいと思えてしまうし、それを周りも看過する。
反論すれば傷が付けられるし、被害が拡大していく。
理不尽なことを大声で言える人ほど、都合よく世界が回る。
だが、その埋め合わせをするのは樋口さんのような人間だ。
誰かのために犠牲を選んでも、ただ虐げられるだけ。
――関わらないようにする
結果、これが一番穏便に人生を歩むことができる。
でも……手ぐらいは差し伸べてほしい。
「分かりました。他の先生に頼むのでいいです」
可能性が一つ潰れたが、まだ望みはあるかもしれない。
それに賭けよう。
教師は信用できないけど、他の人なら……
応接室のドアノブに手をかけた時、木下が呼び止めた。
「他の教師に言ったところで何も変わらない。俺たちはな、いじめがあると評価が下がるんだよ。学校っていう場所は“いじめてる奴”よりも“いじめられてる奴”の方が邪魔なんだよ。『お前らが消えてくれた方が早い』みんなそう思ってる。面倒くさいだけだから、あんまり事を大きくするな」
世界とは不条理だ。常識という共通言語はここにはないらしい。
自分が良ければ。
自分たちが楽しめれば。
自分が一番になれれば。
誰かを中心としたルールで学校は回っている。
大人たちは道徳紛いの言葉を並べ、見せかけだけの体裁で自己満に浸る。
子供たちはカーストという階層を作って、陰と陽で世界を二分する
狂った歯車で回り続ける狭い世界。
そこでは正常な歯車ほど不良品とみなされる。
この瞬間、希望は枯れ、絶望が咲いた。
傘に触れる雨音が、どこか悲しく聞こえる。
誰かが涙を流しているような、そんな音色。
雨の降る放課後は寂寞に覆われ、喧騒が消えた静けさが胸元を撫でた。
「梨紗」
校門をくぐると、傘をさした真由美さんと直樹くんが視界に入った。
「どうしたの?」
「いじめてる奴をぶっ飛ばしに来た」
真由美さんは握った拳を掲げる。
「違うでしょ。担任の先生に僕たちから言ってみようと思って」
直樹くんは真由美さんの拳を下ろさせる。
「今、言ってきた」
「どうだった?」
直樹くんを一瞥した後、私は小さく首を振った。
「私が言ってくる」
真由美さんは意気揚々と校舎へと向かおうとするが、私はその腕を掴んで進行を止めた。
「学校には頼らない。言ったとしても、余計に樋口さんを苦しめることになる。だから、私の力でなんとかする」
「最低だね、その教師」
真由美さんは、よく分からない色をした飲み物を飲んでいた。
ドリンクバーで色々混ぜたのだと思う。
木下との会話を二人に話すと、真由美さんは般若のような顔つきになっていた。
フライドポテトを持ってきた店員が、ギョッとした顔をしている。
「全部とは言わないですけど、教育現場って成果主義なところもありますからね。書面の数字で評価が決まるから、いじめがあっても0って報告する」
「汚い部屋の掃除と一緒じゃん。余計なものはクローゼットに押し込んで、『綺麗になりました』『すごいですね』ってことでしょ? 見えなくしただけじゃん」
私や樋口さんは、学校からしてみたらゴミと変わらない。
汚れているのはいじめをしている側ではなく、虐げられている方だ。
「見えなければ無いのと一緒。そういう環境で生きていれば、それが正解になる。人って脆い生き物だから、環境次第で天使にもなれば悪魔にも変わるんですよね」
直樹くんの言葉が胸に刺さり、痛みが走る。
「私も木下と変わらないのかも。藤本たちが他の子をいじめてても、見て見ぬふりをしてきた。関わらなければ火の粉は飛んでこないから。結局、自分が一番可愛かったんだと思う。私さえ良ければって心の底では考えてた」
私も悪魔側だ。
平田たちと遜色ない汚れた人間。
生きていない方が役に立つ、そんな醜い存在。
「関わらないって選択は自分を守るためにも必要なこと。だから間違ってはない。そもそもいじめをする人間が一番悪いし、それを止められる立場の人間が機能してないことが問題なの。抵抗するって命を削ることだから、簡単にできることではない。それと責める相手を間違ってはいけない。一番得をするのは無慈悲に傷を付ける人間。根本から思考が逸れれば、悪人が肩で風を切って歩けてしまう。そうなれば、善人は隅で生きていくことを強いられる。そんなのおかしいでしょ?」
平田たちを責めるより、自分を責める方が楽だった。
変えられない未来よりも、自分が消えてしまう方が楽だった。
暗闇に立つと行き先を見失う。
迷って光を探すより、抱えているものを放棄できる道を選びたくなる。
死が希望に見えるのは、自分に背中を向けられるからだ。
「どうやったら、樋口さんを助けられるのかな」
「僕たちが直接言ってもいいけど……」
「それは逆効果だと思う。余計に悪化する」
「学校には頼れない……本人に直接は言えない…うーん」
直樹くんは頭を抱えて悩んでいた。
壁にぶつかり憤りを感じているが、一緒に苦しんでくれる人がいると思うと、少し心強かった。
「多くの人に声を届けることができたら変わるかもしれない」
真由美さんの言葉が、沈黙していた空間に降った。
「世界って一つではない。家庭、学校、会社、趣味などのコミュニティー。数えたらキリがないくらい無数に世界はあるの。でも自分で狭めてしまい、そこで躓くと未来が澱んでいく。梨紗は私たちと会うって想像できた?」
私は首を横に振った。
「この先に何があるかなんて分からないし、目の前にはいくつも選択肢がある。だけどそのほとんどが見えない。だから人は迷って死を選ぶ。その道しかないと決めるから。正直言うと、私もどうしたらいいかは分からない。でも絶対に助けられる方法があるはず。考えよう、私たちも力を貸すから」
他の大人に言われていたら、きっと絶望したと思う。
答えがないのかと。
でもこの人たちとなら見つけられる気がした。
人生には見えないものがたくさんあり、今日その一つを知った。
信頼するということが生きる糧になることを。
樋口さんにも知ってもらいたい。
そのためには、私がならなければ。
彼女の希望に。
家に帰り、居間の襖を開けると男性がお茶を飲んでいた。
静謐な雰囲気を纏っており、その場だけ別の空間に感じさせるような整った面立ち。
品もあるが、奥に影もある神秘的な人だった。
年齢は三十前後くらい。真由美さんよりも下に見える。
「帰ってたんだ」
真由美さんが言うと、男性は微笑んだ。
その顔が視界に映った時、感情が凪ぐような穏やかさがあった。
土砂降りの雨が晴れたような感覚。
「さっき帰ってきました」
そう言った後、男性は私に視線を向ける。
「この子は泉梨紗。生梦葵だよ」
真由美さんが紹介してくれたので、とりあえず会釈した。
「この人は霊導師の司さん。魂を霊界に導く人。優秀な霊導師は除霊やその人の前世が見える。司さんはその界隈では有名な人で、全国から依頼がくるんだ」
「私たちは霊導師から力を借りてるの。直樹も京介も。ちなみにここは司の家」
直樹くんが説明した後、真由美さんが補足した。
「二人はもともと力を持ってなかったってこと?」
「うん。そういうこと。簡単に言えば霊導師の補佐みたいなもんかな。私も直樹も、司と会ってからここに住むようになったの。それと同時に能力も授かった」
「みなさん座ってください。僕だけ座ってるのも気が引けるので」
司さんに言われ、ちゃぶ台を囲むように私たちは座った。
「司、お土産は?」
「台所にあります。何買っていいのか分からなかったので赤福にしました」
「カスタードクリームをカステラ生地で包んだ饅頭型の菓子だ。萩の咲き乱れる宮城野の空、そこに浮かぶ名月をイメージしたやつでしょ?」
「それは萩の月です。赤福は餅の上にこし餡をのせた餅菓子です。こし餡の形は五十鈴川のせせらぎをかたどっているみたいですよ」
二人はなぜか、ウィキペディアみたいな会話をしていた。
もしかしたらこの二人が書いているのかもしれない。
司さんを見ると、優しい顔で会話を聞いていた。
私がここに来る前は、こんな空気感だったのかもしれない。
今もそこまで変わらないが。
「梨紗さん、はじめまして。僕は神谷司と言います。直樹くんがさっき紹介してくれましたが、霊導師と呼ばれる霊能者です」
ふと目が合った時、司さんが自己紹介をした。
「……泉梨紗です」
はじめて会う人は緊張する。
私は視線を彷徨わせながら名乗った。
「霊師とは、もともとは霊導師だけを指した言葉なんです。でも一人の力だけでは大変なので、力を分散し協力してもらうことにした。そこから霊納師などの言葉が生まれ、総称して霊師と呼ばれるようになったんです」
「私の力も?」
「生梦葵だけは別です。予知夢という能力を私たちは持っていませんから。なぜ自死を望む人を選ぶのか? 今でもその力の詳細は解明されていないんです」
私は死ぬことを望んでいた。
そこに選ぶ理由があるのだとしたら、一体なぜなんだろう。
死に憑かれた人間に、どんな意味があるのか……
「勾玉を見せてもらってもいいですか?」
黙考していると、司さんの声が耳に入った。
首にかけていた勾玉を渡すと、司さんは手のひらに乗せてじっと見据えた。
「生梦葵の勾玉は人によって色が変わるんです。この色はラベンダーアメジストと言います。アメジストが長い間にわたり、紫外線に晒されて薄くなったもの。綺麗でしょ? 色褪せても」
透明感のある薄紫。
この色は気に入っていた。褪せていても美しいから。
「梨紗さん、前世を見てもいいですか?」
そういえば、さっき直樹くんが言っていた。
優秀な霊導師は前世が見えると。
気になったが、怖さもあった。
自死した魂は心が脆くなって生まれてくる。
もしかしたら……
不安が募り、表情が暗くなっていくのが自分でも分かった。
「見てもらったら。今の生き方に何かヒントをくれるかも」
真由美さんが言うように、今はどんなものでもいいからきっかけがほしい。
樋口さんを救える何かが。
私が頷くと、司さんは勾玉を握った。
「梨紗ちゃんの魂と繋がってるから、勾玉から前世を見ることができる」
直樹くんがそう言った後。司さんが目を瞑る。
すると、指の隙間から紫の光が漏れた。
静寂な時間が緊張感を生む。
窓に触れる雨音。
ときおり鳴く風。
言葉が眠る空間。
司さんはしばらく目を瞑ったまま、微動すらしなかった。
自分の手を見ると、汗で滲んでいる。
前世と今を重ねるつもりはないが、それでも怖さはある。
この心が壊れていたと知るのは。
しばらくすると勾玉の光が消えた。司さんはゆっくりと目を開く。
糸が張り詰め、今にも千切れそうな空気が振動する。
「とりあえず、前世の最後だけ見ました」
私の喉が鳴り、沈黙の中に響く。
「梨紗さんは前世で自死しています」
予想はしていたが、鼓膜に触れると感情が萎れる。
「同じ苦悩でも人によってその大きさは変わります。魂の器がそれぞれ違うから。自死した魂が脆くなるのは聞きましたか?」
「うん……」
「梨紗さんの器は小さくなってます。ここまで生きていたのが不思議なくらいに」
何度も死のうと思った。
最初は一年に一度くらい。
その次は四季を跨ぐごとに。
そして一ヶ月、一週間、毎日、毎秒と、死が押し寄せてくるようになった。
感情が漏れるほど、心に穴が空いていたと思う。
「でも器は大きくすることができます。真由美さん、回収した魂はありますか?」
「あるよ」
「これから、魂を霊界に送ります。一緒に来てください」
苔むした長い石段を登った先にお寺が見えた。
森に囲まれていること、年月を経たであろう木造の風合い、しっとりと降る雨が相まって幽玄に佇んでいる。
「行くぞ」
本堂の脇から傘をさした京介さんが歩いてきた。
京介さんはここの住職らしい。来る途中に真由美さんから聞いた。
「どこに行くの?」
真由美さんに聞くと、奥にある森を指した。
♦︎
森の中に入ると雨の匂いが鼻腔に触れた。土や木が混ざる自然を感じる匂い。
緩やかに鼓動が静まっていく。
木々の葉は空を隠すように覆っており、雨に濡れないように傘の代わりになってくれていた。
薄暗いが、怖さよりも守られているような安心感を感じる。
表現するなら“神聖な場所”。この言葉が近いように思う。
奥まで来ると、高さが二メートルほどある、祠のようなものが視界に映った。
木造の簡素な作りではあるが、長い間にわたってこの場にいるような佇まいを感じさせる。まるで森の一部みたいだ。
注連縄が張られた格子があり、奥は暗くて見えない。
この世界とは違う何かを醸し出している。
その先に足を踏み入れてはいけない何か。
「この祠の先が霊界になってます。今から僕が魂を導き、本来の場所へと帰します」
司さんがそう言うと、真由美さんが水晶を渡す。
「じゃあ、始めますね」
司さんが祠の前に立つ。
「お寺なのに祠なの?」
「神様を祀ってるわけじゃないから」
「地蔵菩薩を安置してる祠もあるけどな」
直樹くんが言った後、京介さんが続いた。
言下、急に風が吹く。
前髪が靡き、全身に纏わりつくような冷たさだ。
祠の方を見ると、司さんが水晶を持つ手を、体の前に出していた。
木々の葉は揺れるのを止め、空は口を塞ぎ音を消す。
静寂が落ちた空間は、動くことすら憚れるような空気感だった。
「天と地を結ぶ霊師の長が、彷徨う魂を帰すため門を開くことを承認する」
司さんが唱えると祠の格子が開いた。
中は暗く、その先は何も見えないままだが、明らかにこの世界とは別の空気を感じる。
「納師より授かりし魂よ、天昇の儀により霊界へと引き渡す。導くは霊導の師。背負いし煩悶を祓い、その最後を見送ろう」
白い煙を覆った三体の球体が、水晶から出てきた。
「黒いのはどこ行ったの?」
「水晶の中で浄化されるの。だから一緒の場所にいても喰われたりしない」
私が小声で聞くと、真由美さんも小声で返答した。
再び視線を魂へと移す。
一つは私をビルから落とそうとした魂。
もう二つは菜月ちゃんと、その命を奪った魂だ。
「諸行無常。悲しき呪縛の螺旋はいずれ種となり蕾に変わる。来世に繋げしその魂が、翠雨により鮮やかに彩ることを祈ろう」
三つの魂は吸い込まれるように祠の中へと入っていった。
この世界から一度旅立ち、再び別の体で戻ってくる。
どんな場所で生まれ、どんな人生を送るのだろう。
悲しみが連鎖するのか、居場所を変え咲くことになるのか。
自問自答するように、私は魂を見送った。
「なんで特上頼むんだよ」
「ケチケチすんな」
ダイニングテーブルの上には、漆塗りの桶に入ったお寿司が置かれている。
鮮やかな彩りで並んでおり、その輝きは宝石のようだった。
住職の住まいのことを庫裏と言うらしい。
本堂から少し離れた場所にあり、京介さんはここに住んでいるみたいだ。
「五人なのになんで十人前なんだよ」
「持って帰って明日食べるんだよ」
「お前の方がケチくせーじゃねえか」
「私は可愛いからいいんだよ」
「自分で言うな。とりあえず後で金返せよ」
「うるせえ、髪切ってこい」
「うちの宗派いいんだよ」
「あの、もう食べません?」
真由美さんと京介さんの口争いを直樹くんが止める。
「直樹に救われたな、京介」
「なんも救われてねーよ。俺の懐が寂しくなっただけだ」
「とりあえず食べましょう」
また始まるのかなと思ったが、次は司さんが間に入った。
真由美さんと京介さんは仲が良いのか、悪いのかはよく分からない。
でもこんな関係性を築けるのは、ちょっと羨ましかった。
「うっしゃ、いただきます」
真由美さんがよく分からない掛け声と共に、一番乗りで箸をつける。
「うっま!」
中トロを頬張る真由美さんの表情からは幸福が零れ、顔全体が蕩けている。
「梨紗も遠慮せずに食べな」
「いただきます」
♦︎
「梨紗さんが二人の命を救ったみたいですね。直樹くんから聞きました」
桶に入ったお寿司が半分くらいになった時、司さんに話しかけられた。
「私は何もしてない。真由美さんたちがいなければ、その二人の命は今はなかった」
翔太くんと優花さんは新しい道へと進んだ。
真由美さんたちが言葉という傘をさし、二人の上に降る雨を凌いだからだ。
「死を考えてる人を救うには、何が大切か分かりますか?」
自分自身の胸に耳を傾ける。
今は死にたいという願いはない。
ないというより忘れていたに近い。
樋口さんを助けたいという想いが、希死念慮を眠らせていた。
「別の道をその人に教えることができたら、死を忘れられる」
「半分正解です」
「半分?」
「救えたとしても、その先でまた躓く可能性があります。そしたら死にたいという気持ちは再現されます。一度死を考えると、選択肢の中に現れるようになるから」
確かにそうかもしれない。
失望や悲しみが感情に触れるたび、私は死にたいと思うようになっていた。
心に死が縫い合わされ、解くことができなくなる。
そして日々の苦痛と共にキツく締め付けられ、絶望という景色が視界を染める。
「大事なのは雨上がりを待つ忍耐力より、雨の中でも歩き続ける強さを持たせることです。自死がよぎると、選択肢はあるのに死に近づく道を選んでしまう。避けるためにはその人の中に縋れるものを作ること。何かを持てれば道となります。そうなれば、たとえ躓いても自分の足で立ち上がって歩いていける。僕たちがすべきことはそのきっかけを作ることです」
その人の中に縋れるものを作れば救うことができる……
私自身、何も持っていない。
そんな人間がきっかけを作れるとは思えなかった。
「私は強さというものを知らない。でも救いたい人がいる。その人のために力がほしい。特別なものではなく、何も持たない私でも誰かの支えになれる力が」
映画に出てくるヒーローじゃなくていい。
多くの人から賞賛され、愛され、世界を救うような存在になりたいわけじゃない。
世界の片隅で、誰にも知られずに泣いてる人の涙を拭えるようになりたい。
一人じゃないと知ってほしい。
同じようように濡れて、共に雨の中を歩きたい。
小さな光だとしても、苦しんでいる人を照らせる希望になれたら。
「梨紗は強いよ」
真由美さんの声が耳に入り、顔を上げる。
「助けてくれた人を裏切ったって言ってたでしょ? その状況なら自分は悪くないって言えたはず。でもそうしなかったし、変わろうとまでした。それが強さだよ。梨紗は痛みを知ることができて、受け止めることもできる。そして、変わろうと思える力も」
人生を振り返ると、自分を変えようと思ったことはなかった。
親に褒められたい、認められたいということはあったが。
私自身、今は別の道を歩いているのかもしれない。
この道がいつか、生きたいと思える場所に繋がれたら……
「梨紗ちゃんは優しい。でもその優しさが時に自分を苦しめてしまう。背負わなくていいものを背負ってしまうから。真面目な人ほど生き辛さを感じるのは、自分の容量を知らずにすべて受け止めてしまうから。そういう環境で過ごしてきたのも関係してると思う」
直樹くんが言った通り、両親は私の中にすべてを詰め込もうとしてきた。
抱えきれないほどの重圧で耐えられなくなっても、自分の弱さのせいだと思った。
だが別の世界に根を植えたら、目に映る一つひとつの色が変わった。
白黒だった景色。
今は優しい色彩が灯されている。
「自ら命を放棄した人間は来世でも死を選びやすい。その螺旋から降りるには考え方を変える必要があります。生きるということに対しての。それが器を大きくすると言うことです。死にたいと願うことで視界は狭まりますが、そこでしか見えないもの、拾えないものがあります。まだ種だから、すぐには価値を見出せないかもしれない。その花が咲いたときに“死にたかった自分”に意味が付くんです。思考は言葉を変化させ、やがて新たな道となる。いずれ力になるので覚えといてください。自分自身と、救いたいと思っている人のためにも」
何もないと思っていたが“死にたいと願っていた自分”がいた。
それが力になるかもしれない。
私だけの言葉がそこにはある。
同じように苦しんでいる人に寄り添える言葉が。
「さっき裏切ったって言ってたな?」
京介さんが口をモグモグさせながら言った。
「うん」
京介さんは水を飲み、お寿司を流し込む。
「人を傷付けた時にはルールが……」
「それはもう、私が言った」
真由美さんは京介さんが言い終わる前に、平然とした顔で語尾を喰らった。
「俺がお前に言ったやつだろ。勝手にパクるな」
「パクリじゃない。サンプリング」
「音源みたいに言うな」
「雨という名のBGMが、私の言葉をリリックに変える」
「黙れ。つーかお前に貸したアルバム返せよ」
「京介は優しい。でもその優しさが自分を苦しめてしまう。借りたアルバムを無くされても許してしまうんだから」
「お前無くしたのかよ。絶対許さねーぞ」
「僕の言葉で遊ばないでくれます」
直樹くんが二人の会話に言葉を挟む。
「買って返せよ」
「そのうちな」
「絶対返す気ないだろ」
「十倍にして返してやるよ」
「言ったな。あれ三千円だから三万にして返せよ」
「こんなでっかいCDで返す」
真由美さんは目一杯、腕を横に広げた。
「大きさじゃねーよ」
「フフ」
二人のやりとりに思わず笑い声が漏れた。
こんな自然に笑ったのはいつ以来だろう。
それすら覚えていない。
急に静かになったので視線を上げると、みんなが私の方を見ていた。
恥ずかしくなり視線を落とす。
「まあいいや。今回は目を瞑ってやるよ」
「強くなったな、京介」
「やっぱり返せ」
「やーだ」
真由美さんは首を傾げ、ぶりっ子のような口調で言った。
「可愛くねーぞ。ババア」
「おいコラ! もういっぺん言ってみろ」
その後も二人は言い合いを続けていた。
直樹くんと司さんは笑いながら見守っている。
誰の記憶にも残らず、静かに消え去りたいと思っていた。
でも周りの人間や生きる場所で人は変わっていく。
雨の中でも美しく染まる、六月の紫陽花のように。
「今日、全校集会があるじゃん」
「朝からダル」
「早く梅雨終わってくんないかな」
「雨だと髪の毛うねるんだよね」
校門をくぐると、生徒たちの会話が四方から咲いてくる。
雨の中でも枯れない声。
以前なら、耳元で飛び回るハエのように感じていた。
私の上だけに雨が降っているように思えたから。
死に触れると、視覚と聴覚に狂いが生じる。
景色は白と黒で覆われ、なんでもない言葉ですら騒音と化す。
――今日、真由美さんと学校に行って先生に言ってみる。何か変わるかもしれないから
家の玄関を出る時、直樹くんにそう言われた。
今は一人じゃない。
雨宿りできる場所があって、寄り添ってくれる人ができた。
優しさという光が萎れていた心を照らし、悲しみに埋もれていた感情を咲かせてくれた。
死は行き止まりではない。
星や月が消えた夜のように、そこにあるはずのものを見えなくする雲だ。
それに気づければ、自らの力で光を灯すことができる。
たとえ雨が降っていても歩いていける。
「めっちゃ飛んだ」
ガサついた声が聞こえたため顔を上げると、昇降口の前に藤本の姿が見えた。
その後ろには中山と平田。
そして俯いている樋口さん。
樋口さんの足元には、風に煽られたように親骨がひっくり返ったビニール傘。骨の部分は折れているようにも見える。
藤本たちは満足そうな顔をして、昇降口へと入っていった。
雨に濡れる樋口さんは、とぼとぼと反対方向へと歩き出す。
その先に視線を送ると、雨に打たれた学生鞄が萎れたように落ちていた。
藤本が鞄を奪い投げ捨てたのだろう。
私もされたから、すぐに状況が理解できた。
「持ってて」
鞄を見下ろす樋口さんに、傘を差し出した。
彼女が受け取ると、私はタオルを取り出して鞄を拭く。
「見られたら、何されるか分からないよ」
不安気な顔で言う樋口さんに鞄を渡す。
「この雨が止んで、笑える日が来る。あなたが私を救ってくれたように、私もあなたを救ってみせる」
自分の鞄から折り畳み傘を取り出す。
樋口さんから借りた傘。
濡れた私にさしてくれた優しさ。
あの日のことは絶対に忘れない。
「一人じゃない、私もいる。苦しみが伴う道だとしても、傷を付けてでも一緒に歩く。その手だけは何があっても離さないから」
私の言葉の後に、傘の中で雨が降った。
青空を知らない孤独な雫。
悲しみは目で見ることはできないが、目の前には確かに存在する。
降りしきる雨を、私は親指でそっと拭った。
全校生徒が集まった体育館は雨音を掻き消すほど騒がしかった。
端に並ぶ教師たちも雑談をしており、言葉が縦横無尽に行き交う。
私は列の真ん中におり、三人挟んだ前には平田たちがいる。
何もなかったかのように笑っている姿は、自然なほど周りに溶け込んでいる。
何も知らない人間が見ても、彼女たちを悪魔とは思わないだろう。
「だるいから抜けようぜ」
「コンビニ行く?」
「金ない」
藤本と中山の会話が耳に入る。
「いるじゃん」
平田が親指で後ろを指す。
その指の先には、樋口さんがいるとすぐに理解した。
藤本も分かったようで、ニヤついた顔を浮かべる。
三人は列から出て、後方に歩き出した。
私には目もくれず通り過ぎていくと、二人挟んだ後ろで立ち止まる。
「樋口、財布持ってるっしょ? 大事そうにブレザーに入れてたもんね」
「……あるけど、何?」
藤本の脅かしを、樋口さんは震えた声で返す。
怯えているのがはっきり分かった。
それは私自身もだ。
自分の手が小刻みに揺れ、防衛本能が具現する。
「コンビニ行くぞ」
「もうすぐ始まるから……」
「へー、逆らうんだ。それってさ……死にたいってこと?」
「……分かった」
藤本の言葉に観念したのか、樋口さんは三人と共に出入り口へと歩き始めた。
教師たちに視線を送るが誰も気づいていない。
私しかいない。
彼女を救えるのは。
傷が付いても守ると決めた。
もう裏切ったりはしない。
この命に意味をもたせるためにも。
――死を纏った人間の言葉には力が宿り、それがいつか誰かの道に変わる。だからお前は生梦葵に選ばれた
――人を守るって簡単にできることではない。でも寄り添うだけでも支えにはなる。梨紗ができるやり方でいいんだよ
京介さんと真由美さんの言葉が頭の中で響いた。
その言葉を握りしめ、私は足を踏み出す。
「行かせない」
私は平田たちの前に立ち塞がった。
もう指は震えていない。
自分の心に傷が付くより、守りたい人が傷付いてしまう方が怖いから。
「邪魔」
平田は私を押し退けて前に進む。
負けちゃダメ。
なんのために傷を付けてきたんだ。
「行かせない」
回り込み、再度、平田の前に立ち塞がる。
「何なんだよ! またいじめられたいの」
平田の怒声が体育館に響き、全校生徒の視線が私たちに集まる。
「何してるんだ。集会始まるぞ」
教師たちが集まってくると、生徒たちがざわめき始めた。
「面倒かけるな。お前ら早くもど……」
私は、肩を掴んできた木下の手を振り払った。
瞬間、体育館が静まり返る。
「なんで……なんで人の痛みが分からないの。傷を付けられた人間は過去を背負って生きなければならない。何十、何百という時間が過ぎたとしても、その過去に縛られて、前に進めないまま置き去りにされる。たとえ痛みが消えたとしても傷が消えるわけじゃない。見えないところには残ってる。苦しんで、もがいて、声を上げられないまま一人で抱えて、必要のない傷を背負って生きてるの。人って簡単に死ぬんだよ。言葉一つで生かすことも殺すこともできる。毎日死にたいって思いながら生きてた。どこにも居場所が無くて、理解してくれる人もいなかったから。でも、そんな私を救ってくれた人もいる」
届いてほしい。
一人で傷付いているあなたに。
「命の重さなんて私には分からない。でも奪っていいものではない。見下ろしていたら気づかないだろうけど、足元に落ちたガラクタのようなものも、その人にとっては大切な命なの。他人が笑いながら踏み潰せるようなものではない。生きてるんだよ。泥をかけられながら、それでも必死に。枯れかけた命はゴミじゃない、また咲くことができる。人は諦めると、その希望すらも忘れてしまう。弱くても、情けなくても、自分のことが嫌いでも、その命は自分のもの。あなたたちの手の中にはないんだよ。死にたいと願う人間だって、初めからそう思って生まれてきたわけじゃない。苦しさを忘れさせてくれる場所があれば、生きたいと思えるの」
今までの私では、こんな言葉を言えていなかった。
真由美さんたちに出会えたこと。
同じように死にたいと思っている人たちがいたこと。
私に傘をさしてくれる人がいたこと。
そして死にたいと願っていた自分がいたこと。
そのすべてが装飾し、私だけの言葉が咲いた。
静寂が落ちた空間、私は木下に視線を向ける。
「評価が大事なのは分かる。でも子供は数字じゃない。たった三年かもしれないけど、そこで付いた傷は簡単に消せるものではないの。いじめがない学校はすごいと思う。でも、いじめをなくせるのも良い学校だと思う。平等に見ろとは言わない。お気に入りの生徒がいても構わない。だけど、傷付いた生徒は守ってあげてほしい。それで救われる命があるなら」
言いたいことが言えたからか、全身の力が抜けたようだった。
「木下先生、どういうことですか?」
狼狽えながら視線を泳がす木下に、校長が問いかけた。
「いや……私もよく分からないですね」
「ずっといじめられていたんです。平田さんたちに。木下先生にも相談しましたが、『いじめられてる人間の方に責任がある』そう言われ一蹴されました」
平田たちに視線を送ると、居た堪れない様子で立ち尽くしていた。
「いじめがあったら報告してと言いましたよね?」
校長が木下に問いかける。
「いや……なんていうか……その……」
「どういうことですか? 説明してください」
口ごもる木下に、哀れな感情が芽生えた。
私は教師たちのやりとりを余所に、体育館を出て行った。
「梨紗、どうしたの?」
校門を出ると、真由美さんと直樹くんに出会した。
二人は、木下にいじめの件を話してくれると言っていた。
だけど、もう大丈夫かもしれない。
「今日はもう帰る。いじめのことも言わなくていい」
「解決したの?」
直樹くんは目を見張って聞いてきた。
「まだ分からないけど、みんなには知ってもらった」
「そっか、一つ進展って感じだ」
真由美さんの口調には『良かったね』という想いを感じた。
「うん」
私は空を見上げた。
雨は止んだが、まだ灰色の空が残っている。
これからどうなるのかは分からないが、再び青色の景色が広がってくれたらと祈った。
「泉さん」
振り返ると、息を切らしながら走ってくる樋口さんが見えた。
「ありがとう。助かった」
息を整えながら、彼女は言った。
「ううん、樋口さんがいたから私は一歩進むことができた。ありがとう、手を差し伸べてくれて」
樋口さんは白い肌を赤らめた。雪に降る紅葉のように。
「あっ、同じクラスの樋口琴葉と言います。梨紗さんにはお世話になってます」
樋口さんが、真由美さんと直樹くんにお辞儀をする。
「北川真由美です」
「僕は遠藤直樹です」
二人の苗字が違っていたからか、樋口さんは戸惑いながら私を見た。
「色々あって、今は二人と同じ場所に住んでるの」
「そうなんだ……もう帰るの?」
「うん」
「そっか……」
樋口さんは、何か言いたげな顔をしている。
「ねえ」
真由美さんを見ると、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「今日はもうサボろう。いいところに連れてってあげる」
お寺に来た。
お寺と言っても、京介さんのところとは別の場所だ。
正面入り口を真っ直ぐ歩いていくと山門が見える。
その前には長い石段があり、両脇には溢れるように紫陽花が咲いている。
空の代わりを果たすかのように青が敷き詰められ、四季の狭間を美しく灯す。
「綺麗」
日常を忘れさせる景色。樋口さんは表情に花を咲かせる。
その顔に釣られ、私の口元は緩んでいた。
後ろを歩く真由美さんと直樹くんは、スマホで写真を撮っている。
「紫陽花をメインにした方がいいですよ」
「私の方が綺麗だから、京介はこっちの方が喜ぶ」
真由美さんはインカメラで撮影しているが、ずっと自分の顔に焦点を当てている。たぶん紫陽花はほとんど写ってない。
京介さんに送るみたいだが、花の写真を送ってあげた方がいいと思う。
「私ね……」
樋口さんの声が聞こえ、彼女に視線を合わせる。
「中学の時にもいじめられてたの。弱い自分をこの世界から消し去りたかった。だから私を知ってる人がいない場所を選んだの。そこだったら変われると思ったから。でも中々、変えられなかった」
「なんで、私のことを助けてくれたの?」
辛い経験をしていたのに、自ら足を踏み入れ、私を助けたということだ。
普通ならできることではない。
「一人で耐える辛さを知ってるから。それがどれだけ苦しいかを」
中学の時の自分と重ねていたのかもしれない。
同じクラスというだけの私に、手を差し伸べる理由なんてないから。
「悪い人にはいつか罰があたり、虐げられてる人はいつか報われる日がくる。ずっとそう言い聞かせて耐えてきた。じゃないと心が壊れそうだったから」
自分の中に支えになるものを作り、ずっと縋ってきたのかもしれない。
私の場合は死が希望だった。
「誰かの一番になりたかったの。孤独の中で生きてる人に寄り添って、一人じゃないよ、私も同じだよって言ってあげたかった。私がそうされたかったように。ずっと自分の生きる意味を探してた。だから必要とされたかったの。生まれてきて良かったんだって思えるように、こんな命でも役に立つって信じたかった」
人は他人の見えないところで、もがきながら生きている。
意味や価値を見つけるために。
「難しいね、人のために何かをするって。頑張れば頑張るほど、思い描いてたものから離れていく。掴んだとしても手にしたわけじゃないし、少しでも気を抜いたら指の間から落ちていく。また苦しむなら弱いままでいい。ずっとその繰り返し」
樋口さんの表情に影が落ちる。
希望と絶望の間を何度も彷徨っていたのかもしれない。
光を見た後の闇は、より一層暗く感じることを私も知っている。
「私は樋口さんのおかげで救われた。痛みを伴うと知ってて、寄り添ってくれたでしょ? だから別の道を歩くことができた。あのとき傘を差してくれたこと、一生忘れない」
樋口さんは、閉ざさした口元を少しだけ上げた。
そして「私も」と囁くように零す。
「紫陽花ってすごいよね」
樋口さんは立ち止まり、視界の隅に咲く青い花に目を向けた。
「ずっと雨に打たれてるのに綺麗に咲ける。こんな花みたいに生まれたかった」
春と夏という季節の象徴。
その間で咲く六月の花。
雨に縫われた四季の狭間で、涙を拾うように紫陽花は咲く。
もし傷付くたびに優しさを持てていたら、もっと早く咲けていたのかもしれない。
「綺麗なものを見続けている人間には、本当の美しさは分からない」
振り向くと、真由美さんが後ろに立っていた。
「傷を負って痛みを知り、その中で強さと優しさを学ぶ。でも多くの人は心が折れて枯れていく。だけどその先には、幾多の色を纏った鮮やかな世界が待っている。本当に美しい花は、長い雨の中で咲き誇る」
「だから綺麗なんだ」
樋口さんは、澄んだ青色の花を眺めていた。
その目には希望のような輝きが見える。
雨上がりの太陽の下で咲く紫陽花のような、そんな綺麗な瞳だった。