【神原優花】
数台の大きなレンズと大勢の大人たちの視線が、彼女たちに向かっていた。
華やかなセットを背景に、神原優花たちはアナウンサーから質問を受けている。
テレビドラマの番宣のため、撮影の合間に生放送の番組に出演。
最初はドラマの話だったが、今は個人の質問へと変わっていた。
「神原さんは好感度ランキングでも上位に選出されていて、笑顔が素敵というイメージなんですが、今日初めてお会いさせていただいて、やっぱり素敵だなと思いました」
「ありがとうございます」
優花は期待されたように笑顔を振る舞う。
「撮影現場でもその笑顔は癒しになっていますか?」
「優花ちゃんがいつも笑ってくれているから、疲れていても頑張ろうって思えます。撮影はものすごく大変なので、かなり助けられてますね」
優花の隣に座っている橋本裕也が答えた。
彼は共演者の一人で、今をときめく若手俳優だ。
端正な顔立ちから、女性ファンを多く抱えている。
「そういう方がいてくれると、現場も明るくなりますね」
「はい」
橋本は今にも風が吹いてきそうな爽やかな笑顔で答えた。
「稲葉さんはどうですか?」
稲葉彩。彼女も共演者の一人で、優花とは同じ事務所の先輩だった。
歳は二つ上の二十四歳。
若手実力派と言われるほど演技力が熟練されており、優花が一番憧れてる役者だ。
「笑たいときは笑えばいいし、辛いときは無理に笑わなくていい。イメージを押し付けるのは好きじゃないです」
その回答に、刹那の沈黙が産み落とされる。
「そうー……ですよね。はい、自分の好きなときに笑った方がいいですよね」
アナウンサーは慌てて、言葉を繋げた。
その顔は笑顔を作ってはいるが、口元は引きつっている。
優花はスタジオの隅にいるマネージャーの菊池を見た。
明らかに顔が強張っている。
睨みを効かせるように彩を見ているが、当の本人は毅然とした態度でアナウンサーを見ていた。
「では、次の質問にいきたいと思います。みなさんは休みの日、どう過ごして……」
「バカやろう、仕事なんだからちゃんとやれ」
控室に怒号が響いた。
マネージャーの菊池が、彩に対し激怒している。
「そんな態度だったら仕事なくなるぞ」
「本当のことを言っただけです」
彩は真っ直ぐな目で言い返した。
優花は二人の様子を不安げに見ている。
「女優はただ笑って答えてりゃいいんだよ。お前らは商品なんだから、売れることだけ考えてろ」
「売れることがそんなに大事ですか? それよりも、どう売れるかじゃないですか。お芝居でしっかりと見せますよ」
彩の芝居は同世代の中でも頭一つ抜けている。
今回のドラマは若手ばかりだが、彩がストーリーに奥行きを与え、重厚感を生み出していた。
SNSで話題に上がるのは、優花の容姿と彩の芝居だ。
だからこそ、彼女の言葉には説得力があった。
「芝居が上手いだけじゃダメなんだよ。SNS見たか? さっきのお前の態度が悪いって書かれてるぞ。ファンが付かないと、芸能人に価値なんてないんだよ」
「言わせておけばいいですよ。私は実力で黙らせます。女優なので」
「そういう生意気な態度が……」
扉が開き、番組のプロデューサーが入ってきた。
「今日は大変申し訳ありませんでした。今、こいつに言っていたところで……」
菊池は先ほどとは打って変わり、腰を低くして外用の顔を作る。
「いいの、いいの」
プロデューサーは笑いながら、菊池の肩を叩く。
「先にバス乗ってます」
彩は鞄を肩にかけ、控室を去っていった。
「大変だね、変な女優を持つと」
「そうなんですよ。ちょっと芝居が上手いからって、調子に乗ってるんです」
「その点、優花ちゃんは大丈夫そうだね」
「ええ、神原は言われたことだけやりますから」
「こっちとして、その方が助かるよ」
優花の事務所にはタレントも数名おり、菊池はこのプロデューサーと長い付き合いらしい。
テレビ局に来た時は必ず挨拶をする。
「そうだ、優花ちゃんまたCM決まったんだってね」
「はい。おかげさまで」
「儲かってるね」
「ええ」
二人は下卑た笑いを浮かべる。
「じゃあ、頑張ってね」
「ありがとうございます」
プロデューサーが出ていくと、菊池は椅子に腰を下ろしてため息をついた。
「神原、稲葉みたいにはなるなよ。芸能人はイメージがすべてだからな」
菊池はスーツのボタンを外し、大きく足を開いて言った。
「でも羨ましい」
「何?」
「いえ、なんでもないです」
ぼそっと言ったから、菊池の耳には入っていなかったようだ。
「お前には好感度があるんだから絶対下げるなよ。嫌なことがあっても、笑って頷いてろ。容姿がいいんだから、それだけやってりゃいい」
「私のお芝居ってどうですかね?」
優花は俯きながら、不安げに聞いた。
「お前の芝居が上手いかどうかより、売れてるか売れてないかだろ。視聴者なんて役者の顔を見てるんだから」
「そうなんですかね……」
「そんなもんだよ。芝居の上手さなんて対して関係ねーよ。SNSのほとんどが、かっこいいと可愛いだけだろ。稲葉は芝居のこと言われてるけど、結局、顔が良ければなんだっていいんだよ」
優花の心に靄が張った。
女優としての価値が自分にあるのかが分からなかったから。
ハイエースバンに乗り、優花たちは撮影現場へと向かっていた。
一番後ろの席は二名席と一名席に分かれており、二名席の方には橋本と橋本のマネージャー。一名席には菊池。
前の二名席には優花と彩が座っている。
先ほどまで晴れていた空は機嫌を悪くしたのか、沛雨が窓を叩いていた。
優花は鞄からスマホを開き、SNSを覗く。
自分の名前を入れ検索すると、
【優花ちゃん可愛い】
【目の保養になる】
【優花ちゃん目当てでドラマ見てる。容姿マジ神】
好意的な投稿が続いていたが、ある言葉が目に入り、表情が曇っていく。
【主演の神原優花って顔はいいけど、芝居下手くそじゃね?】
スワイプする指が止まる。
その投稿のコメント欄には百以上の返信が来ていた。
スマホを握る手が震え、鼓動が早くなる。
無視して他の投稿を確認しようとした。
だが何を書かれているのか気になり、戻ってコメント欄を開く。
【わかる! 顔だけだよね】
【喋らなければ一流。口を開けば三流】
【稲葉彩が主演した方がいい】
【才能ないからやめろ】
批判的なコメントがひしめく中、言葉はだんだんと過激さを増していく。
【あいつの笑った顔ムリ】
【それな。なんか作ってるというか、媚び売ってるように見える】
【好感度だけのお人形】
【あいつ整形してるよ。もともとブスな上に芝居もブス】
【マジ? なんか怪しいと思ってた】
優花は唇を噛んだ。
芝居のことを言われるのは仕方ない。
だが批判を超えて誹謗に変わっていくと、傷口が疼きだす。
ましてや整形などしていない。
そんな嘘を誰かが信じ、的に目掛けて罵詈雑言を突き立てる。
初めてテレビに出てから四年、何百もの汚れた言葉が優花の心臓に突き刺さったままだ。
優花の目に涙が零れかけた時、持っていたスマホがひっくり返りされた。
「言いたい奴には言わせておけばいい。自分に集中して。雑音に生き方を預けてはいけない」
隣に座る彩が、雨を弾くように言ってきた。
その目には、一点の曇りもない。
「はい……」
優花が頷くと、彩は手を離して再び前を見た。
「出番が来たら、呼びに来ますので」
「はい」
助監督が忙しそうに控室から出ていく。
撮影現場に戻り、優花と彩は待機していた。
二人とも学生服を着ている。
廃校を使って撮影しているため、控室は空いている教室だ。
今は優花と彩、橋本を除いた生徒役の子だけで撮影しているため、教室には二人だけだった。
優花は一番後ろの窓際に座っており、台本を念入りに確認して次のシーンに備えていた。
控室に制服姿の橋本が入ってきた。
雑誌を手に優花の前に座る。
表紙には【好感度ランキング】と記載されていた。
「神原って好感度五位なんだ」
雑誌を読みながら、足を組んで聞いてきた。
「たまたまです」
台本から視線を上げ、笑顔を作って答える。
「いいよな女は。容姿が良ければ、ヘラヘラ笑って、はいはい言ってりゃ、好感度が付くから」
「そうですよね……」
優花の表情が曇り、首が萎れるように下へと落ちていく。
「あのさ」
隣に座る彩が、怒気を含んだ声をあげた。
「どう思うのかは自由だけど、わざわざ本人に言う必要ある?」
「お前はネットでボロクソ言われてるもんな。『芝居は良いけど生意気』『人間性が終わってる』『調子こいた勘違い』。まずは愛嬌身につけろよ」
橋本は雑誌を閉じ、机の前に投げ捨てた。
「あんたみたいに、薄汚れた面を隠して良い人ぶるくらいなら、嫌われてもいいから私は私でいる。それに、良い芝居をするのが女優の仕事。物語に命を吹き込み、見る人に影響を与える。それが私の生き方」
彩の信念に優花の心が揺らいだ。
なんのためにこの仕事をして、どうなりたいのかが分からなくなっていたから。
自分の生きる意味とは……
「もういっぺん言ってみろよ、クソ女」
「品性って言葉にでるね」
「てめえな」
嫌悪がぶつかり、一触即発の空気が立ち込める。
「やめましょう。これ以上はなにも良いことないですから」
優花が二人を宥めると、橋本は立ち上がった。
「こういう奴がいると、テンション下がるわ」
「は? それ自分のことでしょ」
「彩さん」
立ちあがろうとする彩を、優花は手で制止する。
「お前もヘラヘラ笑っててムカつくんだよ。なんも考えてねーんだろ? いいよな、悩みがない奴は。顔だけで主演張れるんだもんな」
「橋本!」
彩が怒声を上げるが、橋本はそれを無視して前室から去っていった。
「あんな奴の言葉、気にしなくていいか……」
優花はスカートを強く握りしめていた。
目には雲がかかり、今にも雨が降り出しそうだ。
「優花……」
「大丈夫……大丈夫なので」
自分に言い聞かせるように、涙の代わりに言葉を零した。
「あんな態度をとってしまってごめん。お前の気持ちに気づけなかった」
橋本は真剣な眼差しで優花を見ていた。
二人きりの教室には、緊張感のある張り詰めた空気が流れている。
「私はずっと辛かった。なんでそんなことを言うんだろうって」
「ごめん……」
「ちゃんと見てほしかった。頑張ったねって言ってほしかった。報われないことばかりだけど、たった一つの言葉で救われることだってある。それが生きる原動力になるから」
橋本は口を閉ざした。沈黙が二人の間に彷徨う。
「俺、お前のことが好きなんだ。だから、もう一度チャンスがほしい」
沈黙を捲り、橋本が言葉を綴る。
「私は一人で戦うって決めたの。だから……」
教室の扉が開き、彩が入ってくる。
「今の話、全部聞いた」
彩はそう言った後、優花の前に立った。
そして手のひらで優花の頬を叩く。
「えっ……」
突然のことに、優花の表情は固まり立ち尽くす。
「あんたなんだ、たぶらかしたの。人の男に手を出しといて、よく澄ました顔でいられるね。それで清純ぶってるのマジむかつくんだけど。これからは、もっとたくさんいじめてあげるから、覚悟しといて」
彩は優花の胸ぐらを掴み、怒りを込めた目で睨みつける。
「すればいい……」
「何?」
「好きにすればいい! 私はもう負けない。どんなことをされようが、屈辱を受けようが、私は私でいつづける。だから覚悟しといて、あなたも」
静寂が包む教室には、三人の視線が絡みあっていた。
「カット!」
隣の教室でモニターを見ている監督の声が響いてきた。
優花は不安気な表情を浮かべ、祈りながら目を瞑る。
「優花ちゃん」
目を開くと、監督がこちらへ向かって来るのが見えた。
その後ろには、台本を開いて何かを確認している助監督。
「さっきも言ったけどさ、今のセリフは沸々と湧き上がるように言ってほしいんだよ。こうもっと、心の奥から出てくるような感じ。分かる?」
「……はい、ごめんなさい」
「時間ないけど、一回休憩入れるか」
「一旦、休憩入ります」
助監督が全員に知らせるように大声で言うと、廊下にいるスタッフの会話が耳に入る。
「体育館のシーンに出るエキストラの子って学生もいたよね?」
「はい」
「時間来たら帰らせないといけないから、そっちから撮った方がいいかもな」
「そうですね」
優花の表情に陰りが見える。
「ほんといい迷惑だわ。下手くそがいると時間かかるから嫌なんだよ」
橋本が気怠そうな顔で言った。
「ごめんなさい……」
「レッスンからやり直せば? まだ現場来るレベルじゃないんだよ。台本の理解もできないのに、よく主演受けたな。学園祭じゃなくて仕事だぞ。分かってんの?」
「はい、ごめんなさい」
優花は謝るたびに頭を下げた。
実際、彩ほどではないが、橋本も芝居は上手い。
だからこそ、ひとつひとつの言葉が胸に刺さる。
「もういいんじゃない、本人が一番分かってるよ。それと、優花はオファーを貰ったから受けてる。文句言うならプロデューサーにじゃない?」
彩が間に入り、言葉を挟む。
橋本は舌打ちをし、言葉を見失ったかのように口を閉ざした。
「あんたも休んだら、控室で」
「分かってるならちゃんとやってくれよ。顔だけで選ばれてるんだからよ」
そう言い残して、橋本は教室を出ていった。
重たい空気が優花の胸にのしかかる。その重圧で、今にも心が朽ちていきそうだった。
「さっき、監督が言ってたこと分かった?」
彩にそう聞かれ、優花は視線を泳がせる。
「正直に言って」
「……わかりません」
彩を見ることができず、優花は俯いた。
「さっきのは感情をそのままぶつけすぎ。あれじゃあ、ヒステリックに見える。クラスで虐げられている主人公が決意を見せるシーンでしょ? 視聴には応援したいって気持ちを持たせないといけない。あの言い方だと引いちゃう人もいる。大声で言わなくても意思は示せる。声は抑えて、その代わり目で訴える。キャラクターの覚悟を。そしたら芝居を受けやすくなる。私の演じてるキャラは、あの言われ方だと反論してしまうから」
「はい」
「視聴者は目と耳で芝居を判断する。要はいかに視覚と聴覚に落とし込めるか。内面を作るだけでもダメ、感情を込めるだけでもダメ。それをしっかりとデザインすること。優花のファンなら読み取ろうとしてくれるかもしれないけど、ほとんどの人は表面に現れる部分で判断する。今は感情を押し付けて、一人よがりになってる。どういう印象を与えればいいかを客観的に考えて。言葉って、何を言うかより誰が言うかが大事だから」
「ごめんなさい……」
自分の才能の無さに優花は心が折れそうだった。
相手のことを考えずに自分よがりな芝居をしてしまったこと。
周りに迷惑をかけ、実力に見合わぬ役を貰っていること。
罪悪感が胸を締め付け、頭の中は真っ白になっていた。
「想いがあるから伝わるわけではない。どうやったら相手に届くかも考えて。それと、何を伝えたいのかも」
「はい」
一番尊敬する先輩の言葉を、優花は真っ直ぐに受け取れていなかった。
橋本のように自分を嫌悪していて、迷惑を被りたくないから芝居を教えているのかもしれない。
自分よりも実力のない、ましてや同じ事務所の後輩が主演。
そのことに怒りを覚え、いなくなってほしいと思っているかもしれない。
優花は降り積もった不安により、彩の言葉の裏側を探ろうとしていた。
それは四年間の誹謗による副作用。
周りの人が自分を厭わしいと思っており、消えてしまえばいいと思っている。
きっと彩も……
優花はその日の撮影を終え、控室で帰る支度をしていた。
鞄の中に充電器を仕舞おうとしたとき、錠剤の入った瓶が目に入った。
手に取ると、無気力に眺める。
「風引いてるの?」
振り向くと、彩が後ろに立っていた。
瓶に視線を向けていたため、優花は慌てて仕舞う。
「いえ、お守りみたいなものです」
彩は一瞬、怪訝な顔をしたが、仕切り直すように表情を戻す。
「ねえ、明日は昼からでしょ? この後、ご飯行かない?」
「ごめんなさい。今日は……」
優花の顔には精気がなかった。
声も萎れており、今にも枯れそうな目で答える。
「……分かった。また今度行こう」
「はい、すいません」
「ううん、いいの」
彩は優しく微笑んで、首を横に振った。
「おい、お前ら帰るぞ」
控室に入ってきた菊池が二人に声をかける。
「私はバスで帰ります」
優花は虚ろな表情で言った。
「家まで送ってくぞ」
「いえ、今日は一人で帰りたいので」
「まあ、お前がそうしたいならいいけど。明日は十一時入りだからな」
「はい」
菊池が控室から出ると、優花は後を追いかけた。
「あの……」
周りに人がいないことを確認した後、菊池に声をかける。
「なんだ?」
「今入ってるお仕事が終わったら、休ませてほしいです」
菊池の眉間に皺が寄った。
その顔には苛立ちが含まれているのが見て取れる。
「ダメに決まってるだろ。一度休んだら忘れられる。そしたら仕事が入らなくなるぞ」
「お芝居の勉強がしたいんです。今の私じゃ、プロのレベルに達してないから」
「さっきも言ったろ。芝居が上手いかどうかなんて視聴者は気にしてない。お前は“顔はいいから”それだけでやっていける。それに現場で覚えればいいだろ、芝居なんて。プロの中で揉まれるから上達するんだよ。稼ぎ時に甘えたこと言うな」
最後は吐き捨てるようにして、菊池は去っていった。
優花の頭には絶望の二文字が刻み込まれる。
六月のような長い雨を、これからも浴び続けなければいけない。
器に注がれた水は淵から溢れ、涙のように滴り落ちた。
夜が泣く。大粒の涙を零しながら慟哭するように。
バス停の通路シェルターで、一人ポツンと佇む優花。
このまま暗闇に溶けてしまえたら、そう思いながら雨を眺める。
「すごいね、雨」
声の方に視線を移すと、彩の姿が映った。
傘を閉じ、濡れた肩をはたいている。
「私もバスで帰ろうと思って」
怪訝な顔の優花を見て、彩はそう言った。
「そうですか……」
正直に言えば、一人になりたかった。
今は誰かと話せる気分ではないから。
優花の心情は陰に傾き、自分の存在すら疎ましいと思っていた。
――もし自分が消えたら、どうなるんだろう
そんな想いが思考を染めていた。
彩は無言のまま隣で立っており、沈黙に響く雨音だけが二人の間を取り持っていた。
今日はたくさん迷惑をかけたから、きっと怒っているはず。
ここに来たのも、説教するためかもしれない。
今は言うタイミングを計っているだけで、心の中には沸々と煮えたぎるものがあるはずだ。
自分がいなくなれば、誰にも迷惑をかけずに済む。
みんながそう考えているに違いない。
誹謗中傷を受けても仕方のない人間。
だって、ぜんぶ私が悪いんだから。
悲観という思考が憂鬱に染められると、優花の頭の中で死の輪郭が描かれ始めた。
バスが停留所に入ってくると、車内に二人組の若い男性が見えたため、優花たちは帽子を深く被る。
扉が開き中に入ると、男二人は車内の前側、横向きのシートに座っていた。
優花たちは顔を見られないようにしながら、一番後ろの席に腰を下ろす。
男性二人は笑いながら話している。
車内の乗客は優花たちを含め四人。そのため、声は後ろまで響いてくる。
ドアが閉まり発車すると、男性たちの会話が方向を変え、優花に衝突してきた。
「神原優花って性格悪いらしいよ」
「マジ?」
優花の表情が曇る。
「ネットの記事に書いてあった」
「言われてみれば、そんな感じするわ」
「てかあいつさ、芝居下手だよな」
「確かに、顔だけだよな」
優花の視線が、自然と下へと落ちる。
「気にしなくていいからね」
彩が表情を変えずに囁いた。
声は小さいが、力強さがある。
「顔がいい奴は、人生楽でいいよな」
「実力なくても金稼げるもんな」
「芝居は下手だし、話も面白くない。可愛くなかったら、終わってね?」
「確かに。終わってるわ」
男性二人のつんざくような笑いが、優花の胸に傷をいれる。
女優としては見られていない。
才能がなければ、向けられる言葉は鋭利になる。
この仕事をしているから、それは覚悟していた。
だが実際に耳にすると心苦しい。
急に酸素が薄くなったように感じ、息が詰まるようだった。
「言ってくる」
彩はそう言って立ち上がったが、優花に袖を掴まれる。
「大丈夫です。慣れてますから」
「でも……」
「お芝居が上手ければ、あんな風に言われないですから。ぜんぶ……自分が悪いんです」
優花は精一杯の笑顔を作った。
だが、自分でも頬が引き攣っているのが分かる。
彩は腰を下ろし、心配気に優花を見ていた。
「ねえ、今日うちに泊まらない?」
彩が言うと、優花は首を振った。
「今日は帰ります」
気遣いで言ってくれたのかもしれないが、これ以上迷惑をかけたくなかった。
その後も男性二人は、優花をつまみに話を続けた。
人間否定も混ざった罵声は、聞くに耐えないものだった。
すでに溢れている器。
そこに注がれる汚れた言葉。
容量を超えた忍耐は、死を過剰摂取する。
目的地の停留所に着く前にバスを降りた。
正確には彩が降車ボタンを押し、そこからタクシーで自宅まで帰ろうと言った。
今は通路シェルターにおり、彩が電話でタクシーを呼んでいる。
「五分くらいでタクシー来るって」
電話を切った後、彩は優花に向けて言った。
「やっぱり歩いて帰ります。家まで遠くないので」
彩は降りしきる雨を一瞥した。
「この雨じゃ、タクシーで帰った方がいいよ。優花の家、ここから二十分くらいかかるでしょ? 風引いちゃ……」
「大丈夫です」
普段ならするであろう会釈もせず、優花は傘をさしてシェルターを出た。
感情が欠落した無彩色の声。
霞んだ景色には雨が映る。
先も見えない滂沱の中。
打ち付けるような雨音だけが、鼓膜の中に響いていた。
十分ほど歩くと、大学生くらいのカップルが目の前から走ってきた。
「神原優花でしょ? 一緒に写真撮ってよ」
油断していた。
意識が遠のいていたからか、顔を上げて歩いてた。
「ごめんなさい、事務所から写真は断るよう言われてるので」
笑顔を作ろうとしたが、表情が動かなかった。
声も顔も無愛想だったなと、優花は目の前の二人に申し訳なく思う。
「態度悪くね?」
「売れてるから勘違いしてるんでしょ」
「もう行こう、ガッカリだわ」
二人は優花を睨め付けながら去っていった。
「好感度ある芸能人て裏ではヤバいって聞くけど、マジだったな」
「SNSでつぶやくわ。神原優花って性格終わってるって」
背中から聞こえる声が、器にヒビを入れる。
――もう死にたい
誰にも知られない心の中で優花はつぶやく。
イメージを大切にしていたからこそ、本音には鍵をかけていた。
自分みたいな才能のない人間は辛くても笑うしかない。
それしか認めてもらう方法がないから。
傷付いても「大丈夫」としか言ってはいけない。
全部自分のせいだから。
だけどもう……どうでもいい。
歩道橋を渡っていると着信が入り、ポケットに仕舞っていたスマホを取り出す。
画面には「母」と表示されている。
感情が再び灯った。
ずっと応援してくれていた母は、優花にとって一番の支えだったから。
首元を締める希死念慮が少しだけ緩み、モノクロの世界に微かな光が射す。
出るか迷ったが声を聞きたかった。愛情が滲むその声を。
死の淵に腰をかけながら、彷徨う親指が通話ボタンを押した。
「もしもし」
――テレビ見たばい
「うん」
――近所ん人に自慢してもうた。うちん子が主演でドラマ出とーって
「恥ずかしかけん、やめんしゃい」
――あげん内気な子が芸能人か、最初はすごか心配しとったけん。ばってん、テレビで笑いよー顔見よったら、楽しそうでよかった
「……」
――芸能人て大変なんやろ? 嫌な人とかおらん?
優花の目に涙が浮かぶ。
――優花?
「……大丈夫、良い人ばっかりやけん」
――それ聞いて安心した
「応援してくるー、人もおるし、良か先輩もおる」
――そっか、優花は自慢の娘ばい
堪えていた涙が溢れ、一欠片の感情の結晶が頬を流れた。
「……お母しゃん」
――何?
「ありがとう。ほんなこつ感謝しとー」
――どげんした急に?
「言いたかっただけ」
――体には気ばつけんしゃい
「ちゃんとやれとーけん、大丈夫。じゃあもう切るね」
――もう少しよかろう?
「これから撮影やけん」
――こんな時間までやっとーと?
「うん」
――そっか、頑張りんしゃい
「おやすみ」
優花は電話を切ると、地面に膝をついた。
傘の中で降る雨は激しさを増し、霞んだ視界は光を消した。
母にすら言えない。
胸臆の想いを言葉に結べず、微かな希望が解けていく。
糸のような細い命綱が手からすり抜け、闇夜の底へと彼女は落ちた。
小さな希望と大きな絶望を繰り返しながらシーソーは揺れる。
そして希望が闇に紛れたとき、死は無情に肩を叩いて、こう囁く。
「他に道はない」
【泉梨紗】
神原優花の死を見てから数時間が経っていた。
翔太くんの時は勾玉が吸い込まれるように消えていき、彼の居場所を教えてくれた。
だが今は、手の中で光が帯びているだけで一向に変化がない。
真由美さんたちと共に居間で待機しているが、本当に神原優花が死を選択するのか疑念が出てきた。
「なんで、何も起きないの?」
「タイミングが大事だから」
私の質問に真由美さんが答えた。
「大半は知らない人の死を止めなきゃいけない。でも私たちがいきなり行って『死んじゃダメ』って言ったとしても、誰? ってなるだけでしょ。だからどのタイミングで手を差し伸べるのかが大事なの」
確かにそうかもしれない。
私が二人と会ったのは、ビルから飛び降りようとした時だった。
もし別のタイミングで話しかけらていたら、きっと無視していたと思う。
「勾玉が一番いいタイミングで導いてくれる。それまで待とう」
直樹くんが、気持ちを落ち着かせるような口調で言った。
「うん」
と私が返した時、勾玉が宙に浮いた。
「来た」
直樹くんが声を上げると同時に、勾玉は空間に吸い込まれて消えていった。
結んでいた紐が取り残されるように、ちゃぶ台の上に落ちる。
「勾玉の気は感じる?」
真由美さんに向かって、私は頷いた。
大雨の中を車は走っていた。
雨礫が窓を強く叩き、その音が緊張感を煽る。
「そこを左」
私が言うと、直樹くんがハンドルを切った。
大通りを曲がると、三角形に配置された三棟のタワーマンションが見えた。
夜を照らし、威厳を放つようにそびえ立っている。
「左側のマンションから気を感じる」
「あれか」
助手席に座っている真由美さんが言った。
車はマンション前の通り、正面玄関が見える位置に停止した。
車内に表示されてる時計を見ると、23時7分と表示されている。
勾玉で彼女を見たとき、部屋の時計は23時17分となっていた。
薬を飲む前に手を差し伸べなければ、たとえ救えたとしても後遺症が残るかもしれない。植物状態になる可能性だってある。
あと十分。
死の淵に足を置く彼女は、すでに片足を上げているだろう。
「どうするの?」
「時間的に見れば、今行くのがベストだと思う」
直樹くんはそう答えたが疑問がある。
「どうやって中に入るの?」
「直樹がいるから、物理的に入れる場所なら問題ない」
どういうことか分からなかったが、二人が車から降りたので、私もそれに倣い降車した。
降りしきる雨の中を走ってエントランスに入ると、来客用のインターホンの前に女性が立っていた。
帽子を深く被り、スマホを耳に当てている。
「どうします?」
直樹くんが小声で真由美さんに聞いた。
「まあしゃあないか。人の命がかかってるし」
直樹くんが左手の人さし指と中指を立てた。
たぶん護符を出すのだろう。
「げ……」
直樹くんが唱えようとすると、ロビーから男性が出て来て自動ドアが開いた。
「こんばんわ」
真由美さんは瞬時に笑顔を作り、住人と思われる人に挨拶をする。
男性が通り過ぎていと、すぐさま真由美さんはロビーに向かった。
私と直樹くんも後を付いていく。
直樹くんはその際、インターホンの前に立つ女性の顔を一瞥すると、
「そういうことか」と囁いた。
「おい! タクシーまだ来ないじゃないか」
ロビーに入ると、コンシェルジュと思われる女性が高齢の男性に怒鳴られていた。
女性は何度も頭を下げており、私たちの存在には気づいていない。
「だからギリギリだったんだ」
「これも直前で呼んだ理由ですね」
直樹くんの言葉に違和感を覚えながら、怒られている女性を横目に、私たちは足早に進んだ。
奥に行くとエレベーターが三基設置されており、上行きのボタンを押すと右側の扉が開いた。
三人で乗り込み、私はかご操作盤の前に立つ。
ボタンを押そうとしたが、そもそも神原優花が住む階層が分からない。
「どうしたら……」
言いかけた時、エントランにいた女性がエレベーターに入ってきた。
そして最上階のボタンを押す。
「梨紗ちゃん、閉めて」
「いいの?」
直樹くんが頷いたため【閉】のボタンを押すと、扉が閉まり上昇していく。
スマホを見ると、23時12分と表示されている。
あと五分で彼女は命に傷を入れる。自らの手で。
「稲葉彩さんですよね」
十五階を過ぎたあたりで直樹くん言った。
女性は帽子をさらに深く被り、「違います」と答える。
「知り合い?」
真由美さんが聞くと、直樹くんは首を振る。
「神原優花と一緒にドラマに出てる女優です。そうですよね、稲葉さん」
彼女はエレベーターのボタンに手を伸ばした。
「待って」
真由美さんが声を上げると、彼女の指は【18】と表記されたボタンの手前で制止した。
今は十七階だから、次で降りようとしたのだろう。
「神原優花はこれから自殺する。大量の薬を飲んで」
女性は振り返り、真由美さんを見る。
“自殺”というワードではなく“薬”に反応したように感じた。
「その反応を見る限り、思い当たる節があるんでしょ? 私たちはそれを止めに来たの」
彼女は真由美さんに背を向け、何かを考えるように険しい顔をした。
今の言葉に対する疑心というより、予兆があったという不安げな表情に見える。
「時間がないから細かいことは後で説明する。私たちが運命を変えるから、あなたはその先の道を造ってあげて」
「優花とどういう関係ですか?」
「まったくの他人。話したこともなければ、会ったこともない。神原優花を知ったのだって最近。でも私たちは、知らない誰かの命を救う。直樹」
真由美さんの言葉に反応し、直樹さんは人さし指と中指を立てた。
「現」
唱えると、指の間に護符が現出した。
「えっ……」
驚きと混乱が混ざったような声が彼女の口から漏れる。
「私たちは自死専門の霊能者。そこにいる子は、これから自死する人間を見ることができるの。だから私たちはここに来た」
稲葉さんは私を見た。
今は信じられないといった表情だ。
最上階に着くとエレベーターの扉が開き、私たちは廊下に出る。
まるでホテルのようだった。カーペットが敷かれた床が奥まで続いてる。
「梨紗ちゃん、どこの部屋か分かる?」
「うん」
「行こう。稲葉さんも来て」
彼女は戸惑っていたが、時間がないので私は勾玉の気を感じる部屋まで走った。
スマホを見ると23時16分と表示されていた。
あと一分で、彼女は死へと踏み込む。
「ここ」
一番奥の部屋の前に立って指をさした。
直樹くん、真由美さんと続き、その後ろには稲葉さんもいた。
「直樹」
「はい」
直樹くんは扉の前に立つと、指に挟んだ護符を胸の前に出した。
「護符よ、命絶つ者を救うため力を貸したまえ。鉄の錠を外し、魂を肉体に繋ぎ止める」
護符を扉に貼ると、【解】という文字が浮かび上がる。
「解」
直樹くんが唱えると、ガチャっという音がした。
「入って」
真由美さんの声で直樹くんがドアノブを引くと、扉が開く。
「うそ……」
稲葉さんの声をよそに、直樹くんが部屋に入っていく。
「正面の部屋から感じる」
真っ暗な廊下を進み、ドアを開くと、美しい夜景が目に飛び込んだ。
勾玉で見た景色と一緒だ。
視線を下ろすと、ソファーの前に神原優花が座っていた。
口を開け、唖然とした表情でこちらを見ている。
夜景に照らされたその手には、錠剤の入った瓶が握られていた。
直樹くんは神原優花の手から錠剤を奪い、大きく息を吐く。
「間に合った」
リビングに稲葉さんと真由美さんが入ってくる。
「彩さん……なんで」
稲葉さんの視線はローテーブルに向けられていた。
そこには大量の錠剤の入った瓶が置かれている。
「優花……なんで」
重苦しい空気が漂い、二人の間には形容しがたい何かがあった。
突如、私の胸元から紫の光が照らし出される。
宙に浮く勾玉。
それを手に取ると、一仕事を終えたかのように光は消え、勾玉は眠りについた。
テレビボードに置いてあるデジタル時計は23時17分と表示されている。
【神原優花】
優花は真由美に連れられ、彼女たちの住む家に来ていた。
「一人ではいさせられない」そう言われて。
彼女らは彩の知り合いなのかと思ったが違うらしい。
たまたまマンションで出会い、優花が自死すると言われたみたいだ。
ここまでは車で来たのだが、車内では彩も戸惑いを見せており、終始無言だった。
なぜ自分が死のうとしていたことを知っているのか?
車の中で尋ねたら、詳細は家に着いてからと真由美に言われ、三人の名前と【自死専門の霊能者】ということだけが告げられた。
「よかったら飲んで」
直樹が居間に入ってくると、人数分のお茶をちゃぶ台に置いた。
「ありがとうございます」
優花と彩は、軽く頭を下げる。
直樹が座ると、真由美が口を開いた。
「車内でも言ったけど、私たちは自死専門の霊能者で、あなたの死ぬ場面をこの子が見たの。オーバドーズするところを」
真由美は梨紗を指した。
高校生くらいだろうか。どこか影があり、どこか儚さがある。
今にも消えてしまいそう――
そんな印象を受けた。自分と同じように。
「まあ、信じてとは言わない。私が優花ちゃんの立場なら絶対信じないから」
真由美は表情に微笑みを灯した。
なんでも受け止めてくれそうな、優しく柔らかな雰囲気がある。
その顔を見て、胸の中で吹き荒れていた風が少し穏やかになったような気がした。
その後、魂の話を聞いた。
彼女たちが言うには、自死した人間の魂はその場に留まり、黒と言われる邪念の塊に変化するらしい。
死を考えてる人間を導き、連鎖させるように命を奪う。
そして回収された後は新たな肉体に宿り、脆くなった精神で来世を生きることになる。
御伽話を聞いているようだった。正直、信じられない。
だが、優花の死を予知して家まで来た。
それは紛れもない事実だ。
たまたまにしては都合がよすぎる。
横目で彩を見ると、黙って真由美の話を聞いていた。
鵜呑みにしているのか、疑念を抱いているのかは分からないが、その眼差しは真剣だった。
「……まあ、そんな感じかな」
真由美は話を終えると、お茶を啜った。
「ねえ、優花」
彩が口を開いたため、視線を合わせる。
「なんで死のうとしたの?」
囁くように言ってきたが、はっきりと言葉が聞き取れる。
小さな声でも部屋全体に響く。
発声の良さからだろうと優花は思った。
それが胸をギュッと締め付けた。
「……幼い頃から周りの顔ばかり気にしていました。何を言われても笑って頷いて、言いたいことがあっても胸の中に仕舞う。そんな自分が嫌いでした。だから女優になろうって思ったんです。物語の中では違う自分になれるし、言いたいこともはっきり言える。それを繰り返してたら、いつか自分も変われるんじゃないかって思った。でも……何も変えられなかった。ただ傷が増えていくだけ。芸能人はイメージですべてが決まる。嫌なことがあっても嘘の笑顔を作って、どれだけ苦しくても、それを知ってほしくても、その仮面が傷を隠す」
優花の顔に影が落ちだが、それを隠すように微笑が浮かんだ。
根っこに染みついた自分が無意識に口角を上げ、人工的な光で表情を照らす。
「私たちの仕事って逃げる場所がないんです。外では知らない人に写真を撮られ、ありもしない噂で他人が私を作り上げる。家にいても、一人でいても、何を思われているか気になって世間の声を聞いてしまう。見なければいいのに、どうなるか分かってるのに、それでも自ら傷を付けにいく。声をあげても傷が増えるだけ。私たちは商品だから、傷が付いたら取り替えればいい。特に私みたいな人間は」
芝居のレッスンは受けていたが、事務所に所属してすぐにオーディションに合格してしまった。
本来なら喜ばしいことだと思うが、それが逆に優花を苦しめることになる。
世間に醜態を晒し、誹謗が飛び交う道を歩むことになったから。
女優としての自分に価値なんてない。
それだけが心に刻まれ、命を蝕んでいた。
「本音を言うと、何かのせいにしたかった。まだお芝居が下手なのに宣材写真を送ったマネージャー。顔だけで私を選んだプロデューサー。批判と誹謗の境界線も分からない画面の向こうの人たち。外に理由を作れたらもっと楽に生きられるのに、それができなかった。だってどう考えても、自分の実力が足りないのが原因だから。言い訳なんてできない。それをしてしまったら、きっと自分を許せないから」
優花は唇を噛み締めた。
自分に対しての厭わしさからくるものでもあったが、根っこの自分を殺してしまいたいという表れでもあった。
「顔だけ”は“いい。SNSでもよく言われていました。でもお芝居で選ばれるようにならないと意味がない。役者を生かすために物語があるのではなく、物語を生かすために役者がいる。今の私ではキャラクターに命を吹き込むことすらできていない。それが……心の底から悔しい」
優花の目に涙が浮かぶ。
それは曇った空のように、今にも悲しく降り出しそうだった。
「誹謗中傷ってさ、一生無くならないんだと思う」
優花は真由美に視線を向けた。
「『あいつが悪い』『芸能人だから』『言われたくないなら辞めればいい』。傷を付けていい理由を探しては自分を正当化する。それで誰かが命を絶ったとしても。同じことを繰り返していけば、善悪の分別も分からなくなる。傷を付ける痛みを知らない限り、人は人を傷付ける」
批判は仕方ないものだと思っている。
それがプロの世界に足を踏み入れた者の宿命だから。
だが一線を超えた言葉は命にまで手が届く。
役者としてではなく、その人間を否定するもの。
画面の向こうの人たちは、どんな想いでその言葉を打っているのだろうか?
今まで言われ続けた誹謗を反芻しながら、優花は真由美の言葉を受け取った。
「芸能人て自分は商品だって言うけど、その言葉嫌いなんだよね。確かに商品っていう言葉が当てはまる部分はあるよ。でも、人と物は違う。あなたには感情があって、言葉も発せられる。自分で自分の価値下げなくていいよ。人間は傷が付いたからといって廃棄されるものではない。その傷が誰かの道となり、自分の価値に変えることができる。それが人なの」
――お前は商品なんだからな
この仕事を始めてからずっと言われ続けていたことだった。
優花自身もそう思っていたし、疑うことすらしなかった。
どこかで感覚が麻痺していたのかもしれない。
私は物ではなく人。
当たり前のことだが、真由美に言われて気がついた。
「私はお芝居のことはまったく分からない。表情と台詞でなんとなく上手いんだろうなって思うくらいの人間。でも一つだけ言えることがある。下手だとしても、批判を受けたとしても、自分の力で人は変われる。最初から上手い人が『やればできる』って言うのと、下手だった人が上達して『やればできる』って言うのでは、受け取る側の印象は違うでしょ? これからあなたが評価されるようになれば、多くの人の希望になれる。『自分も頑張ればできるようになれる』って。そういう力を優花ちゃんは持ってるの」
傷は傷でしかない。
ただ痛みを伴い、人の命を蝕むもの。
そう思っていた。
正面から言葉を受け取り、その意味のまま心臓へと送る。
そして命に傷を付け、死に引き寄せられる。
そんな生き方だった。幼い頃からずっと。
「私は言葉自体に力はないと思ってる。受け取る側のバックボーンや今の環境、それと性格に価値観。それらが言葉を装飾することで、美しくもなるし綺麗事にも変わる。言う側がどんな人なのか、それも含めて。言葉に価値を作るのも、価値を見出すのも、全部人が決めることだからね。そんな曖昧なものに左右されながら、私たちは生きてるの。今持ってるものだけで自分を判断しないで。見えていない部分に可能性は存在する」
優花はこれから歩むべき道について考えていた。
自分ができること、この先でどうなりたいか。
言葉は曖昧なものだが、それは時として光に変わる。
暗闇の中に埋もれていた道が少しだけ見えた気がした。
「ずっと苦しかった。良い人でいないと私自身の価値は保てない。だから嫌われないように生きてきたんです。いつからだろう、周りの言葉で自分の価値を測るようになったのは」
「価値観なんて人それぞれ違います。それに耳を傾けてたら自分が分からなくなる。大切なのは、自分が何をしたいのかを見つけること。それが生きる支えになります。自分のためでも、人のためでもいい」
でも……と、直樹は話を続ける。
「幅広い視野を持ってください。狭い価値観は人を測るようになる。目に見えるものだけがすべてはない。見えていない部分に生きる本質が隠されてるんだと思います。多面的に視点を置くことができれば、きっと見つかりますよ。生きていく理由が」
優花は芸能人としての価値をずっと考えてきた。
それは彩のように芝居ができることだと思っていた。
だが視点を変えれば、“自分なりの見せ方”だってあることに気付く。
今日初めて出会った人たちは、雨の中に枯れない花を添え、優花の人生に色を付けた。
雨の中でも美しい、紫陽花のような彩りを。
「すいません、お風呂まで貸してもらって」
彩が言うと、真由美は顔の前で手を横に振る。
「いいの、いいの。それより、私の寝巻きサイズ合ってた?」
「はい、ちょうどです」
「女優と同じ体型っていうことか。明日直樹に自慢してやろう」
真由美はしたり顔で言う。
「朝ごはんも作るから、起きたらさっきの場所に来て」
「はい、ありがとうございます」
優花と彩が頭を下げると、真由美は優しい笑みを浮かべ客間を出ていった。
二人だけになった部屋には沈黙が降る。
優花はいたたまれない気持ちだった。
彩とどう話していいのか分からない。
頭の中で言葉を探すが、彷徨うだけで何も掴むことができなかった。
「……もう寝よっか」
気まずさがあるのは向こうも一緒なのかもしれない。
さっきから目が合わないし、会話という会話もほどんどなかった。
そして今も、彩の視線はうろついている。
「……はい」
彩は木枠のペンダントライトの紐を引き、電気を消した。
ここは二階だったため、窓には夜空が映る。
家に来る前よりも雨足を弱っており、ザーザーと突き刺すような音から、しとしとと零れる柔らかい音色に変化していた。
「ごめん」
雨音の中に混じる彩の声。
顔を向けるべきか悩んでいると、彩は言葉を繋いだ。
「優花の真面目な性格なら、意識を高める言葉の方がいいって決めつけてた。そっちの方が役者としても成長するって思ったし、優花なら付いてきてくれると考えてた。でも、知らないうちに追い詰めてたんだね」
悲しさが滲んだ口調だった。
「そんなことないです、彩さんは私の憧れですから。でも迷惑かけてたから、嫌われてると思ってました。だから、ちゃんと言葉を受け取れていなかったです。アドバイスも『足を引っ張るなよ』って意味で捉えてた。そんな人じゃないって分かってるのに、悪い方へと考えてしまう。本当にダメですよね、私」
人は死を纏うと、言葉の色すら曇って見えてしまう。
それが光を帯びていても、希死念慮というフィルターで遮光する。
暗闇の中に放り込まれれば、小さくなっていく命の灯火を眺めるだけ。
抵抗する力すらも湧かないのだから。
「優花がずっと自分と向き合っていたことを知ってる。そんな人を嫌いにはならない。才能って、与えらえるものではなく育てるものだと思うの。人よりもスタート地点が後ろだったとしても、速度は考え方で変わるし、前に進めないわけじゃない。アクセルの踏み方が分からないだけなのに、才能を否定する人もいるけど、そんな言葉は耳にいれなくていい。その真面目な性格があれば、きっと成長できる。私の言葉と見えない場所で言う人の言葉、どっちを信じる?」
安心からか、優花は涙を流した。
胸臆にある暗い感情を濾過し、透明な一雫の想いが溢れる。
「彩さんです」
声を潤ませながら、優花は言った。
「今日まで頑張ったんだから、もう一人で抱え込まないで」
彩は優花をそっと抱きしめ、耳元で優しさを添えた。
「はい」
啜り泣く声と、外から聞こえる雨音が入り混じる。
二つの雨は、途切れた会話を繋ぐように降り続けた。
「雨、止みますかね」
「止むよ、きっと」
着替えを済ませた後、優花と彩は居間へと来た。
ちゃぶ台には白米に味噌汁、お新香と焼き鮭といった家庭的な朝食が並んでいる。
優花は母の顔を思い出し、昨夜の自分の行いに罪悪感を抱く。
「座って」
直樹に言われ、優花たちは席に着く。
梨紗はすでに朝食に手をつけており、制服を着ていた。
「ねっむい」
そう言いながら、パジャマ姿の真由美が居間へと入ってきた。
髪の毛には寝癖が付いていおり、頭を掻きながら席に着く。
「おはようございます」
「おはよう」
真由美は重たそうな眠り目を開き、表情を咲かせた。
「晴れたね」
真由美の視線を辿ると、縁側の先にある庭が見えた。
淡いブルーの六月の花が、灰色の季節に色を灯している。
木枠の窓は開いており、湿った風が部屋へと流れてきた。
「紫陽花の花言葉って知ってる?」
「分かりません」
真由美に聞かれ、優花は首を振った。
「冷淡、移り気、無情。色が変わったり、雨に耐え忍んで咲いてることが由来なんだって。こんな綺麗な花なのにイメージだけで悪い言葉を付けられる。どんな花だって美しく咲こうとしてるのにね」
真由美の言う通り、美しい花だった。
雨に耐え続け、儚げにも凛と咲いている。
花は自分がどう思われているかは知らない。悪い言葉を付けられていることも。
ただ咲き誇る。そのことだけに命を費やすからこそ、雨の中でも美しくいられるのかもしれない。
「昨日、SNSで優花ちゃんのこと検索した」
優花は真由美を見た。不安気な表情を浮かべて。
「人間否定してる輩もいるけど、優花ちゃんはそいつらに何かした?」
優花は首を振る。
「誰かを虐げたり、法に触れるようなことは?」
再度、優花は首を振る。
「だったら堂々と生きていればいい。罵声を浴びせるだけの人間に屈することはない。自分の生き方に信念を持っていれば認めてくれる人もいる。人の美しさというものは心に置いてあるもので決まるから。今はそれを育てることに集中して。知らないうちに綺麗に咲いてるから」
「はい」
視界の隅で、彩の笑っている顔が見えた。
朝食を済ませた後、真由美たちは玄関まで見送ってくれた。
「お世話になりました」
優花と彩は土間で頭を下げる。
「今日ぐらい休めばいいのに」
「もう大丈夫です。知らない誰かの言葉ではなく、信じてる人や自分の言葉で歩いていきますから」
彩に視線を送ると、微笑みを浮かべ頷いた。
「好きなときに遊びに来てね。雨が降ったら、ここで雨宿りしていけばいい。自分の居場所だと思っていいから」
「ありがとうございます」
「じゃあ、私たちはこれで」
彩がそう言うと、真由美と直樹は笑みを零して手を振る。
「梨紗ちゃんも、またね」
優花に言われると、梨紗は小さく頷いた。
家を出ると、泣き止んだ空が青く微笑み、太陽の光が道を照らすように射していた。
「芸能人が亡くなったら、優しい言葉をかけてもらえるでしょ?」
家の前の坂道を下っているとき、彩が言葉を投げかけてきた。
「もし生きてるうちにその声が聞けたら、救えた命もあったのかな」
優花は空を見上げた。
天国と地上を繋ぐ、青い境界線。
澄み渡る空の向こうには、止まない雨に耐えきれず、散らせた命がいくつもある。
一枚ずつ落ちていく花弁は壊死していくように心を枯らせ、最後は自らの手で摘み取っていく。
手にかけた最後の花びら。
もし真由美たちが来なかったら、神原優花という一輪はこの世界から存在を消していただろう。
もう一つの世界線を想像しながら、優花は口を開いた。
「いくつもの綺麗な言葉が並んでいても、たった一つの不浄な言葉で感情は萎れていく。美しく咲くことは難しいけど、枯らすのは簡単だから。でも変われるって信じたいし、変えられるって思ってほしい。成長した自分を見せれば、知らない誰かを救えるような気がするんです。私はそんな女優になりたい」
優花は言葉に覚悟を込めた。
雨の中でも咲き誇れる紫陽花のような一輪。
いつか美しく咲けるようにと、心の中に想いを植える。
「なれるよ、優花なら」
東の空から降り注ぐ光が、二人の笑顔を照らしていた。
【泉梨紗】
一人の人間がまた救われた。
神原優花という女優。
華やかな世界で生きていても、端麗な容姿を持っていても、雨というものは容赦なく人を濡らし、心を散らせようとする。
真由美さんと同様、私も彼女のことをSNSで検索した。
応援する声も多かったが、卑劣な言葉を吐いている人もおり、度を超えたものもいくつか見受けられた。
ネットという海に言葉を吐き捨て、漂流してくる誹謗で心を汚されていく。
ゴミを拾ってくれる人もいるが、より黒ずんだ汚穢を投棄する者もいる。
綺麗な海でも廃棄物が積み重なれば泥水に変わる。
広い可能性を秘めているはずが、使い方を誤り、道端の水溜りのように進行を妨げるものに成り下がる。
ネットとはもともと無色透明な場所。
そこに人が入り、色を付けていく。
誰かを救う避難所にもなれば、誰かを死へと導く処刑台にも変わる。
それを作るのは人だ。
言葉という力を得た、獣よりも少しだけ賢い生き物。
この短期間で地上に咲いた命がいくつか守られた。
翔太くん、優花さん、そして私。
私に関しては正直まだ分からない。
平田はもう手を出さないと言っていたが、半信半疑だ。
今も校門をくぐったとき、動悸のようなものが胸を叩いた。
もう雨は見たくないし、静かな日常を過ごしたい。
特別なものじゃなくていい、波風の無い平穏が来てくれれば。
昇降口に入ると、糸を張ったような緊張感が全身を這い回った。
下駄箱に何も入っていないことを祈りながら、恐る恐る中を除く。
一足の白い上履き。
当たり前の光景に安堵が広がる。
長く降り続いた雨は去り、これからは白日の下を歩けるのかもしれない。
朝はゆっくりと支度をして、眠い目を擦って電車に乗る。
授業に辟易しながら、昼休みの食事を楽しみに待つ。
放課後の開放感、帰り道に寄るカフェ、「おかえり」と出迎えてくれる人たち。
休日は遅い時間に目を覚まし、音楽を聴きながらのんびりと過ごす。
そんな日々が来ることを夢見ていたが、いつからか雲が消えることを祈らなくなっていた。
でも今日からは……
あとは藤本たちと直接顔を合わせたときだ。
そのときに分かる。
空が晴れたのかどうかが。
三年の廊下に着くと、前から藤本と中山が歩いてきた。
壁際に寄り、目を合わせないように顔を下に向ける。
「泉」
ドクッ
心臓が大きく動く。
ゆっくりと視線を上げると、
「おはよう。今日は良い天気だね」
藤本が笑顔で言ってきた。
「晴れてよかったね」
中山も笑っている。
「う、うん」
動揺を隠せずに頷いた。
藤本と中山はそのまま去っていく。
思考が絡まっていた。何が起きているのか理解が追いつかない。
少し寒気もしたが、何もされなかったことの方が勝り、安心が胸に腰掛けた。
教室に入ると、樋口さんの姿が目に入った。
自分の席の前で立っている。
というより立ち尽くしているように見える。
教室は静かで、どこか空気が重い。晴れた空と反比例するように。
鞄の中から折りたたみの傘を取り出し、声をかけた。
「樋口さん、おはよう。あと、これ返すの忘れ……」
樋口さんの席の上には花瓶が置かれていた。
挿されていたのは、白い菊の花だった。
クラスの子たちの顔を見ると、口を固く閉ざし俯いている。
自分の目に映さないように。
「あれ、樋口生きてたんだ」
振り返ると、平田が立っていた。
「わざわざ花屋で買ってきたのに」
そう言った後、平田は樋口さんの隣に立ち、耳元で囁いた。
「死んでくれれば、花も無駄にならないのにね」
言下、樋口さんは教室を出ていった。
去り際の表情は曇っており、目が潤んでいた。
「良かったね、泉。これからは平穏に暮らせるよ」
平田はそう言って、立ち去ろうとした。
「何?」
平田は振り返り、自分の腕に視線を向けた。
私の右手に掴まれていたから。
「……」
何も言えなかった。
恐怖が喉元で痞えており、言葉がその先に進めない。
「追っかけてあげれば。あんたの身代わりみたいなもんでしょ」
悔しさを噛み締めながら手を離し、廊下へと出た。
だがそこに、樋口さんの姿はなかった。
耳鳴りのような喧騒。
言葉を持ち合わせない音だけのノイズ。
色褪せていくように感情は散り、春の終わりを告げる。
「なんで……」
窓から入る太陽の光が瘡蓋を剥がし、痛みが走った。
数台の大きなレンズと大勢の大人たちの視線が、彼女たちに向かっていた。
華やかなセットを背景に、神原優花たちはアナウンサーから質問を受けている。
テレビドラマの番宣のため、撮影の合間に生放送の番組に出演。
最初はドラマの話だったが、今は個人の質問へと変わっていた。
「神原さんは好感度ランキングでも上位に選出されていて、笑顔が素敵というイメージなんですが、今日初めてお会いさせていただいて、やっぱり素敵だなと思いました」
「ありがとうございます」
優花は期待されたように笑顔を振る舞う。
「撮影現場でもその笑顔は癒しになっていますか?」
「優花ちゃんがいつも笑ってくれているから、疲れていても頑張ろうって思えます。撮影はものすごく大変なので、かなり助けられてますね」
優花の隣に座っている橋本裕也が答えた。
彼は共演者の一人で、今をときめく若手俳優だ。
端正な顔立ちから、女性ファンを多く抱えている。
「そういう方がいてくれると、現場も明るくなりますね」
「はい」
橋本は今にも風が吹いてきそうな爽やかな笑顔で答えた。
「稲葉さんはどうですか?」
稲葉彩。彼女も共演者の一人で、優花とは同じ事務所の先輩だった。
歳は二つ上の二十四歳。
若手実力派と言われるほど演技力が熟練されており、優花が一番憧れてる役者だ。
「笑たいときは笑えばいいし、辛いときは無理に笑わなくていい。イメージを押し付けるのは好きじゃないです」
その回答に、刹那の沈黙が産み落とされる。
「そうー……ですよね。はい、自分の好きなときに笑った方がいいですよね」
アナウンサーは慌てて、言葉を繋げた。
その顔は笑顔を作ってはいるが、口元は引きつっている。
優花はスタジオの隅にいるマネージャーの菊池を見た。
明らかに顔が強張っている。
睨みを効かせるように彩を見ているが、当の本人は毅然とした態度でアナウンサーを見ていた。
「では、次の質問にいきたいと思います。みなさんは休みの日、どう過ごして……」
「バカやろう、仕事なんだからちゃんとやれ」
控室に怒号が響いた。
マネージャーの菊池が、彩に対し激怒している。
「そんな態度だったら仕事なくなるぞ」
「本当のことを言っただけです」
彩は真っ直ぐな目で言い返した。
優花は二人の様子を不安げに見ている。
「女優はただ笑って答えてりゃいいんだよ。お前らは商品なんだから、売れることだけ考えてろ」
「売れることがそんなに大事ですか? それよりも、どう売れるかじゃないですか。お芝居でしっかりと見せますよ」
彩の芝居は同世代の中でも頭一つ抜けている。
今回のドラマは若手ばかりだが、彩がストーリーに奥行きを与え、重厚感を生み出していた。
SNSで話題に上がるのは、優花の容姿と彩の芝居だ。
だからこそ、彼女の言葉には説得力があった。
「芝居が上手いだけじゃダメなんだよ。SNS見たか? さっきのお前の態度が悪いって書かれてるぞ。ファンが付かないと、芸能人に価値なんてないんだよ」
「言わせておけばいいですよ。私は実力で黙らせます。女優なので」
「そういう生意気な態度が……」
扉が開き、番組のプロデューサーが入ってきた。
「今日は大変申し訳ありませんでした。今、こいつに言っていたところで……」
菊池は先ほどとは打って変わり、腰を低くして外用の顔を作る。
「いいの、いいの」
プロデューサーは笑いながら、菊池の肩を叩く。
「先にバス乗ってます」
彩は鞄を肩にかけ、控室を去っていった。
「大変だね、変な女優を持つと」
「そうなんですよ。ちょっと芝居が上手いからって、調子に乗ってるんです」
「その点、優花ちゃんは大丈夫そうだね」
「ええ、神原は言われたことだけやりますから」
「こっちとして、その方が助かるよ」
優花の事務所にはタレントも数名おり、菊池はこのプロデューサーと長い付き合いらしい。
テレビ局に来た時は必ず挨拶をする。
「そうだ、優花ちゃんまたCM決まったんだってね」
「はい。おかげさまで」
「儲かってるね」
「ええ」
二人は下卑た笑いを浮かべる。
「じゃあ、頑張ってね」
「ありがとうございます」
プロデューサーが出ていくと、菊池は椅子に腰を下ろしてため息をついた。
「神原、稲葉みたいにはなるなよ。芸能人はイメージがすべてだからな」
菊池はスーツのボタンを外し、大きく足を開いて言った。
「でも羨ましい」
「何?」
「いえ、なんでもないです」
ぼそっと言ったから、菊池の耳には入っていなかったようだ。
「お前には好感度があるんだから絶対下げるなよ。嫌なことがあっても、笑って頷いてろ。容姿がいいんだから、それだけやってりゃいい」
「私のお芝居ってどうですかね?」
優花は俯きながら、不安げに聞いた。
「お前の芝居が上手いかどうかより、売れてるか売れてないかだろ。視聴者なんて役者の顔を見てるんだから」
「そうなんですかね……」
「そんなもんだよ。芝居の上手さなんて対して関係ねーよ。SNSのほとんどが、かっこいいと可愛いだけだろ。稲葉は芝居のこと言われてるけど、結局、顔が良ければなんだっていいんだよ」
優花の心に靄が張った。
女優としての価値が自分にあるのかが分からなかったから。
ハイエースバンに乗り、優花たちは撮影現場へと向かっていた。
一番後ろの席は二名席と一名席に分かれており、二名席の方には橋本と橋本のマネージャー。一名席には菊池。
前の二名席には優花と彩が座っている。
先ほどまで晴れていた空は機嫌を悪くしたのか、沛雨が窓を叩いていた。
優花は鞄からスマホを開き、SNSを覗く。
自分の名前を入れ検索すると、
【優花ちゃん可愛い】
【目の保養になる】
【優花ちゃん目当てでドラマ見てる。容姿マジ神】
好意的な投稿が続いていたが、ある言葉が目に入り、表情が曇っていく。
【主演の神原優花って顔はいいけど、芝居下手くそじゃね?】
スワイプする指が止まる。
その投稿のコメント欄には百以上の返信が来ていた。
スマホを握る手が震え、鼓動が早くなる。
無視して他の投稿を確認しようとした。
だが何を書かれているのか気になり、戻ってコメント欄を開く。
【わかる! 顔だけだよね】
【喋らなければ一流。口を開けば三流】
【稲葉彩が主演した方がいい】
【才能ないからやめろ】
批判的なコメントがひしめく中、言葉はだんだんと過激さを増していく。
【あいつの笑った顔ムリ】
【それな。なんか作ってるというか、媚び売ってるように見える】
【好感度だけのお人形】
【あいつ整形してるよ。もともとブスな上に芝居もブス】
【マジ? なんか怪しいと思ってた】
優花は唇を噛んだ。
芝居のことを言われるのは仕方ない。
だが批判を超えて誹謗に変わっていくと、傷口が疼きだす。
ましてや整形などしていない。
そんな嘘を誰かが信じ、的に目掛けて罵詈雑言を突き立てる。
初めてテレビに出てから四年、何百もの汚れた言葉が優花の心臓に突き刺さったままだ。
優花の目に涙が零れかけた時、持っていたスマホがひっくり返りされた。
「言いたい奴には言わせておけばいい。自分に集中して。雑音に生き方を預けてはいけない」
隣に座る彩が、雨を弾くように言ってきた。
その目には、一点の曇りもない。
「はい……」
優花が頷くと、彩は手を離して再び前を見た。
「出番が来たら、呼びに来ますので」
「はい」
助監督が忙しそうに控室から出ていく。
撮影現場に戻り、優花と彩は待機していた。
二人とも学生服を着ている。
廃校を使って撮影しているため、控室は空いている教室だ。
今は優花と彩、橋本を除いた生徒役の子だけで撮影しているため、教室には二人だけだった。
優花は一番後ろの窓際に座っており、台本を念入りに確認して次のシーンに備えていた。
控室に制服姿の橋本が入ってきた。
雑誌を手に優花の前に座る。
表紙には【好感度ランキング】と記載されていた。
「神原って好感度五位なんだ」
雑誌を読みながら、足を組んで聞いてきた。
「たまたまです」
台本から視線を上げ、笑顔を作って答える。
「いいよな女は。容姿が良ければ、ヘラヘラ笑って、はいはい言ってりゃ、好感度が付くから」
「そうですよね……」
優花の表情が曇り、首が萎れるように下へと落ちていく。
「あのさ」
隣に座る彩が、怒気を含んだ声をあげた。
「どう思うのかは自由だけど、わざわざ本人に言う必要ある?」
「お前はネットでボロクソ言われてるもんな。『芝居は良いけど生意気』『人間性が終わってる』『調子こいた勘違い』。まずは愛嬌身につけろよ」
橋本は雑誌を閉じ、机の前に投げ捨てた。
「あんたみたいに、薄汚れた面を隠して良い人ぶるくらいなら、嫌われてもいいから私は私でいる。それに、良い芝居をするのが女優の仕事。物語に命を吹き込み、見る人に影響を与える。それが私の生き方」
彩の信念に優花の心が揺らいだ。
なんのためにこの仕事をして、どうなりたいのかが分からなくなっていたから。
自分の生きる意味とは……
「もういっぺん言ってみろよ、クソ女」
「品性って言葉にでるね」
「てめえな」
嫌悪がぶつかり、一触即発の空気が立ち込める。
「やめましょう。これ以上はなにも良いことないですから」
優花が二人を宥めると、橋本は立ち上がった。
「こういう奴がいると、テンション下がるわ」
「は? それ自分のことでしょ」
「彩さん」
立ちあがろうとする彩を、優花は手で制止する。
「お前もヘラヘラ笑っててムカつくんだよ。なんも考えてねーんだろ? いいよな、悩みがない奴は。顔だけで主演張れるんだもんな」
「橋本!」
彩が怒声を上げるが、橋本はそれを無視して前室から去っていった。
「あんな奴の言葉、気にしなくていいか……」
優花はスカートを強く握りしめていた。
目には雲がかかり、今にも雨が降り出しそうだ。
「優花……」
「大丈夫……大丈夫なので」
自分に言い聞かせるように、涙の代わりに言葉を零した。
「あんな態度をとってしまってごめん。お前の気持ちに気づけなかった」
橋本は真剣な眼差しで優花を見ていた。
二人きりの教室には、緊張感のある張り詰めた空気が流れている。
「私はずっと辛かった。なんでそんなことを言うんだろうって」
「ごめん……」
「ちゃんと見てほしかった。頑張ったねって言ってほしかった。報われないことばかりだけど、たった一つの言葉で救われることだってある。それが生きる原動力になるから」
橋本は口を閉ざした。沈黙が二人の間に彷徨う。
「俺、お前のことが好きなんだ。だから、もう一度チャンスがほしい」
沈黙を捲り、橋本が言葉を綴る。
「私は一人で戦うって決めたの。だから……」
教室の扉が開き、彩が入ってくる。
「今の話、全部聞いた」
彩はそう言った後、優花の前に立った。
そして手のひらで優花の頬を叩く。
「えっ……」
突然のことに、優花の表情は固まり立ち尽くす。
「あんたなんだ、たぶらかしたの。人の男に手を出しといて、よく澄ました顔でいられるね。それで清純ぶってるのマジむかつくんだけど。これからは、もっとたくさんいじめてあげるから、覚悟しといて」
彩は優花の胸ぐらを掴み、怒りを込めた目で睨みつける。
「すればいい……」
「何?」
「好きにすればいい! 私はもう負けない。どんなことをされようが、屈辱を受けようが、私は私でいつづける。だから覚悟しといて、あなたも」
静寂が包む教室には、三人の視線が絡みあっていた。
「カット!」
隣の教室でモニターを見ている監督の声が響いてきた。
優花は不安気な表情を浮かべ、祈りながら目を瞑る。
「優花ちゃん」
目を開くと、監督がこちらへ向かって来るのが見えた。
その後ろには、台本を開いて何かを確認している助監督。
「さっきも言ったけどさ、今のセリフは沸々と湧き上がるように言ってほしいんだよ。こうもっと、心の奥から出てくるような感じ。分かる?」
「……はい、ごめんなさい」
「時間ないけど、一回休憩入れるか」
「一旦、休憩入ります」
助監督が全員に知らせるように大声で言うと、廊下にいるスタッフの会話が耳に入る。
「体育館のシーンに出るエキストラの子って学生もいたよね?」
「はい」
「時間来たら帰らせないといけないから、そっちから撮った方がいいかもな」
「そうですね」
優花の表情に陰りが見える。
「ほんといい迷惑だわ。下手くそがいると時間かかるから嫌なんだよ」
橋本が気怠そうな顔で言った。
「ごめんなさい……」
「レッスンからやり直せば? まだ現場来るレベルじゃないんだよ。台本の理解もできないのに、よく主演受けたな。学園祭じゃなくて仕事だぞ。分かってんの?」
「はい、ごめんなさい」
優花は謝るたびに頭を下げた。
実際、彩ほどではないが、橋本も芝居は上手い。
だからこそ、ひとつひとつの言葉が胸に刺さる。
「もういいんじゃない、本人が一番分かってるよ。それと、優花はオファーを貰ったから受けてる。文句言うならプロデューサーにじゃない?」
彩が間に入り、言葉を挟む。
橋本は舌打ちをし、言葉を見失ったかのように口を閉ざした。
「あんたも休んだら、控室で」
「分かってるならちゃんとやってくれよ。顔だけで選ばれてるんだからよ」
そう言い残して、橋本は教室を出ていった。
重たい空気が優花の胸にのしかかる。その重圧で、今にも心が朽ちていきそうだった。
「さっき、監督が言ってたこと分かった?」
彩にそう聞かれ、優花は視線を泳がせる。
「正直に言って」
「……わかりません」
彩を見ることができず、優花は俯いた。
「さっきのは感情をそのままぶつけすぎ。あれじゃあ、ヒステリックに見える。クラスで虐げられている主人公が決意を見せるシーンでしょ? 視聴には応援したいって気持ちを持たせないといけない。あの言い方だと引いちゃう人もいる。大声で言わなくても意思は示せる。声は抑えて、その代わり目で訴える。キャラクターの覚悟を。そしたら芝居を受けやすくなる。私の演じてるキャラは、あの言われ方だと反論してしまうから」
「はい」
「視聴者は目と耳で芝居を判断する。要はいかに視覚と聴覚に落とし込めるか。内面を作るだけでもダメ、感情を込めるだけでもダメ。それをしっかりとデザインすること。優花のファンなら読み取ろうとしてくれるかもしれないけど、ほとんどの人は表面に現れる部分で判断する。今は感情を押し付けて、一人よがりになってる。どういう印象を与えればいいかを客観的に考えて。言葉って、何を言うかより誰が言うかが大事だから」
「ごめんなさい……」
自分の才能の無さに優花は心が折れそうだった。
相手のことを考えずに自分よがりな芝居をしてしまったこと。
周りに迷惑をかけ、実力に見合わぬ役を貰っていること。
罪悪感が胸を締め付け、頭の中は真っ白になっていた。
「想いがあるから伝わるわけではない。どうやったら相手に届くかも考えて。それと、何を伝えたいのかも」
「はい」
一番尊敬する先輩の言葉を、優花は真っ直ぐに受け取れていなかった。
橋本のように自分を嫌悪していて、迷惑を被りたくないから芝居を教えているのかもしれない。
自分よりも実力のない、ましてや同じ事務所の後輩が主演。
そのことに怒りを覚え、いなくなってほしいと思っているかもしれない。
優花は降り積もった不安により、彩の言葉の裏側を探ろうとしていた。
それは四年間の誹謗による副作用。
周りの人が自分を厭わしいと思っており、消えてしまえばいいと思っている。
きっと彩も……
優花はその日の撮影を終え、控室で帰る支度をしていた。
鞄の中に充電器を仕舞おうとしたとき、錠剤の入った瓶が目に入った。
手に取ると、無気力に眺める。
「風引いてるの?」
振り向くと、彩が後ろに立っていた。
瓶に視線を向けていたため、優花は慌てて仕舞う。
「いえ、お守りみたいなものです」
彩は一瞬、怪訝な顔をしたが、仕切り直すように表情を戻す。
「ねえ、明日は昼からでしょ? この後、ご飯行かない?」
「ごめんなさい。今日は……」
優花の顔には精気がなかった。
声も萎れており、今にも枯れそうな目で答える。
「……分かった。また今度行こう」
「はい、すいません」
「ううん、いいの」
彩は優しく微笑んで、首を横に振った。
「おい、お前ら帰るぞ」
控室に入ってきた菊池が二人に声をかける。
「私はバスで帰ります」
優花は虚ろな表情で言った。
「家まで送ってくぞ」
「いえ、今日は一人で帰りたいので」
「まあ、お前がそうしたいならいいけど。明日は十一時入りだからな」
「はい」
菊池が控室から出ると、優花は後を追いかけた。
「あの……」
周りに人がいないことを確認した後、菊池に声をかける。
「なんだ?」
「今入ってるお仕事が終わったら、休ませてほしいです」
菊池の眉間に皺が寄った。
その顔には苛立ちが含まれているのが見て取れる。
「ダメに決まってるだろ。一度休んだら忘れられる。そしたら仕事が入らなくなるぞ」
「お芝居の勉強がしたいんです。今の私じゃ、プロのレベルに達してないから」
「さっきも言ったろ。芝居が上手いかどうかなんて視聴者は気にしてない。お前は“顔はいいから”それだけでやっていける。それに現場で覚えればいいだろ、芝居なんて。プロの中で揉まれるから上達するんだよ。稼ぎ時に甘えたこと言うな」
最後は吐き捨てるようにして、菊池は去っていった。
優花の頭には絶望の二文字が刻み込まれる。
六月のような長い雨を、これからも浴び続けなければいけない。
器に注がれた水は淵から溢れ、涙のように滴り落ちた。
夜が泣く。大粒の涙を零しながら慟哭するように。
バス停の通路シェルターで、一人ポツンと佇む優花。
このまま暗闇に溶けてしまえたら、そう思いながら雨を眺める。
「すごいね、雨」
声の方に視線を移すと、彩の姿が映った。
傘を閉じ、濡れた肩をはたいている。
「私もバスで帰ろうと思って」
怪訝な顔の優花を見て、彩はそう言った。
「そうですか……」
正直に言えば、一人になりたかった。
今は誰かと話せる気分ではないから。
優花の心情は陰に傾き、自分の存在すら疎ましいと思っていた。
――もし自分が消えたら、どうなるんだろう
そんな想いが思考を染めていた。
彩は無言のまま隣で立っており、沈黙に響く雨音だけが二人の間を取り持っていた。
今日はたくさん迷惑をかけたから、きっと怒っているはず。
ここに来たのも、説教するためかもしれない。
今は言うタイミングを計っているだけで、心の中には沸々と煮えたぎるものがあるはずだ。
自分がいなくなれば、誰にも迷惑をかけずに済む。
みんながそう考えているに違いない。
誹謗中傷を受けても仕方のない人間。
だって、ぜんぶ私が悪いんだから。
悲観という思考が憂鬱に染められると、優花の頭の中で死の輪郭が描かれ始めた。
バスが停留所に入ってくると、車内に二人組の若い男性が見えたため、優花たちは帽子を深く被る。
扉が開き中に入ると、男二人は車内の前側、横向きのシートに座っていた。
優花たちは顔を見られないようにしながら、一番後ろの席に腰を下ろす。
男性二人は笑いながら話している。
車内の乗客は優花たちを含め四人。そのため、声は後ろまで響いてくる。
ドアが閉まり発車すると、男性たちの会話が方向を変え、優花に衝突してきた。
「神原優花って性格悪いらしいよ」
「マジ?」
優花の表情が曇る。
「ネットの記事に書いてあった」
「言われてみれば、そんな感じするわ」
「てかあいつさ、芝居下手だよな」
「確かに、顔だけだよな」
優花の視線が、自然と下へと落ちる。
「気にしなくていいからね」
彩が表情を変えずに囁いた。
声は小さいが、力強さがある。
「顔がいい奴は、人生楽でいいよな」
「実力なくても金稼げるもんな」
「芝居は下手だし、話も面白くない。可愛くなかったら、終わってね?」
「確かに。終わってるわ」
男性二人のつんざくような笑いが、優花の胸に傷をいれる。
女優としては見られていない。
才能がなければ、向けられる言葉は鋭利になる。
この仕事をしているから、それは覚悟していた。
だが実際に耳にすると心苦しい。
急に酸素が薄くなったように感じ、息が詰まるようだった。
「言ってくる」
彩はそう言って立ち上がったが、優花に袖を掴まれる。
「大丈夫です。慣れてますから」
「でも……」
「お芝居が上手ければ、あんな風に言われないですから。ぜんぶ……自分が悪いんです」
優花は精一杯の笑顔を作った。
だが、自分でも頬が引き攣っているのが分かる。
彩は腰を下ろし、心配気に優花を見ていた。
「ねえ、今日うちに泊まらない?」
彩が言うと、優花は首を振った。
「今日は帰ります」
気遣いで言ってくれたのかもしれないが、これ以上迷惑をかけたくなかった。
その後も男性二人は、優花をつまみに話を続けた。
人間否定も混ざった罵声は、聞くに耐えないものだった。
すでに溢れている器。
そこに注がれる汚れた言葉。
容量を超えた忍耐は、死を過剰摂取する。
目的地の停留所に着く前にバスを降りた。
正確には彩が降車ボタンを押し、そこからタクシーで自宅まで帰ろうと言った。
今は通路シェルターにおり、彩が電話でタクシーを呼んでいる。
「五分くらいでタクシー来るって」
電話を切った後、彩は優花に向けて言った。
「やっぱり歩いて帰ります。家まで遠くないので」
彩は降りしきる雨を一瞥した。
「この雨じゃ、タクシーで帰った方がいいよ。優花の家、ここから二十分くらいかかるでしょ? 風引いちゃ……」
「大丈夫です」
普段ならするであろう会釈もせず、優花は傘をさしてシェルターを出た。
感情が欠落した無彩色の声。
霞んだ景色には雨が映る。
先も見えない滂沱の中。
打ち付けるような雨音だけが、鼓膜の中に響いていた。
十分ほど歩くと、大学生くらいのカップルが目の前から走ってきた。
「神原優花でしょ? 一緒に写真撮ってよ」
油断していた。
意識が遠のいていたからか、顔を上げて歩いてた。
「ごめんなさい、事務所から写真は断るよう言われてるので」
笑顔を作ろうとしたが、表情が動かなかった。
声も顔も無愛想だったなと、優花は目の前の二人に申し訳なく思う。
「態度悪くね?」
「売れてるから勘違いしてるんでしょ」
「もう行こう、ガッカリだわ」
二人は優花を睨め付けながら去っていった。
「好感度ある芸能人て裏ではヤバいって聞くけど、マジだったな」
「SNSでつぶやくわ。神原優花って性格終わってるって」
背中から聞こえる声が、器にヒビを入れる。
――もう死にたい
誰にも知られない心の中で優花はつぶやく。
イメージを大切にしていたからこそ、本音には鍵をかけていた。
自分みたいな才能のない人間は辛くても笑うしかない。
それしか認めてもらう方法がないから。
傷付いても「大丈夫」としか言ってはいけない。
全部自分のせいだから。
だけどもう……どうでもいい。
歩道橋を渡っていると着信が入り、ポケットに仕舞っていたスマホを取り出す。
画面には「母」と表示されている。
感情が再び灯った。
ずっと応援してくれていた母は、優花にとって一番の支えだったから。
首元を締める希死念慮が少しだけ緩み、モノクロの世界に微かな光が射す。
出るか迷ったが声を聞きたかった。愛情が滲むその声を。
死の淵に腰をかけながら、彷徨う親指が通話ボタンを押した。
「もしもし」
――テレビ見たばい
「うん」
――近所ん人に自慢してもうた。うちん子が主演でドラマ出とーって
「恥ずかしかけん、やめんしゃい」
――あげん内気な子が芸能人か、最初はすごか心配しとったけん。ばってん、テレビで笑いよー顔見よったら、楽しそうでよかった
「……」
――芸能人て大変なんやろ? 嫌な人とかおらん?
優花の目に涙が浮かぶ。
――優花?
「……大丈夫、良い人ばっかりやけん」
――それ聞いて安心した
「応援してくるー、人もおるし、良か先輩もおる」
――そっか、優花は自慢の娘ばい
堪えていた涙が溢れ、一欠片の感情の結晶が頬を流れた。
「……お母しゃん」
――何?
「ありがとう。ほんなこつ感謝しとー」
――どげんした急に?
「言いたかっただけ」
――体には気ばつけんしゃい
「ちゃんとやれとーけん、大丈夫。じゃあもう切るね」
――もう少しよかろう?
「これから撮影やけん」
――こんな時間までやっとーと?
「うん」
――そっか、頑張りんしゃい
「おやすみ」
優花は電話を切ると、地面に膝をついた。
傘の中で降る雨は激しさを増し、霞んだ視界は光を消した。
母にすら言えない。
胸臆の想いを言葉に結べず、微かな希望が解けていく。
糸のような細い命綱が手からすり抜け、闇夜の底へと彼女は落ちた。
小さな希望と大きな絶望を繰り返しながらシーソーは揺れる。
そして希望が闇に紛れたとき、死は無情に肩を叩いて、こう囁く。
「他に道はない」
【泉梨紗】
神原優花の死を見てから数時間が経っていた。
翔太くんの時は勾玉が吸い込まれるように消えていき、彼の居場所を教えてくれた。
だが今は、手の中で光が帯びているだけで一向に変化がない。
真由美さんたちと共に居間で待機しているが、本当に神原優花が死を選択するのか疑念が出てきた。
「なんで、何も起きないの?」
「タイミングが大事だから」
私の質問に真由美さんが答えた。
「大半は知らない人の死を止めなきゃいけない。でも私たちがいきなり行って『死んじゃダメ』って言ったとしても、誰? ってなるだけでしょ。だからどのタイミングで手を差し伸べるのかが大事なの」
確かにそうかもしれない。
私が二人と会ったのは、ビルから飛び降りようとした時だった。
もし別のタイミングで話しかけらていたら、きっと無視していたと思う。
「勾玉が一番いいタイミングで導いてくれる。それまで待とう」
直樹くんが、気持ちを落ち着かせるような口調で言った。
「うん」
と私が返した時、勾玉が宙に浮いた。
「来た」
直樹くんが声を上げると同時に、勾玉は空間に吸い込まれて消えていった。
結んでいた紐が取り残されるように、ちゃぶ台の上に落ちる。
「勾玉の気は感じる?」
真由美さんに向かって、私は頷いた。
大雨の中を車は走っていた。
雨礫が窓を強く叩き、その音が緊張感を煽る。
「そこを左」
私が言うと、直樹くんがハンドルを切った。
大通りを曲がると、三角形に配置された三棟のタワーマンションが見えた。
夜を照らし、威厳を放つようにそびえ立っている。
「左側のマンションから気を感じる」
「あれか」
助手席に座っている真由美さんが言った。
車はマンション前の通り、正面玄関が見える位置に停止した。
車内に表示されてる時計を見ると、23時7分と表示されている。
勾玉で彼女を見たとき、部屋の時計は23時17分となっていた。
薬を飲む前に手を差し伸べなければ、たとえ救えたとしても後遺症が残るかもしれない。植物状態になる可能性だってある。
あと十分。
死の淵に足を置く彼女は、すでに片足を上げているだろう。
「どうするの?」
「時間的に見れば、今行くのがベストだと思う」
直樹くんはそう答えたが疑問がある。
「どうやって中に入るの?」
「直樹がいるから、物理的に入れる場所なら問題ない」
どういうことか分からなかったが、二人が車から降りたので、私もそれに倣い降車した。
降りしきる雨の中を走ってエントランスに入ると、来客用のインターホンの前に女性が立っていた。
帽子を深く被り、スマホを耳に当てている。
「どうします?」
直樹くんが小声で真由美さんに聞いた。
「まあしゃあないか。人の命がかかってるし」
直樹くんが左手の人さし指と中指を立てた。
たぶん護符を出すのだろう。
「げ……」
直樹くんが唱えようとすると、ロビーから男性が出て来て自動ドアが開いた。
「こんばんわ」
真由美さんは瞬時に笑顔を作り、住人と思われる人に挨拶をする。
男性が通り過ぎていと、すぐさま真由美さんはロビーに向かった。
私と直樹くんも後を付いていく。
直樹くんはその際、インターホンの前に立つ女性の顔を一瞥すると、
「そういうことか」と囁いた。
「おい! タクシーまだ来ないじゃないか」
ロビーに入ると、コンシェルジュと思われる女性が高齢の男性に怒鳴られていた。
女性は何度も頭を下げており、私たちの存在には気づいていない。
「だからギリギリだったんだ」
「これも直前で呼んだ理由ですね」
直樹くんの言葉に違和感を覚えながら、怒られている女性を横目に、私たちは足早に進んだ。
奥に行くとエレベーターが三基設置されており、上行きのボタンを押すと右側の扉が開いた。
三人で乗り込み、私はかご操作盤の前に立つ。
ボタンを押そうとしたが、そもそも神原優花が住む階層が分からない。
「どうしたら……」
言いかけた時、エントランにいた女性がエレベーターに入ってきた。
そして最上階のボタンを押す。
「梨紗ちゃん、閉めて」
「いいの?」
直樹くんが頷いたため【閉】のボタンを押すと、扉が閉まり上昇していく。
スマホを見ると、23時12分と表示されている。
あと五分で彼女は命に傷を入れる。自らの手で。
「稲葉彩さんですよね」
十五階を過ぎたあたりで直樹くん言った。
女性は帽子をさらに深く被り、「違います」と答える。
「知り合い?」
真由美さんが聞くと、直樹くんは首を振る。
「神原優花と一緒にドラマに出てる女優です。そうですよね、稲葉さん」
彼女はエレベーターのボタンに手を伸ばした。
「待って」
真由美さんが声を上げると、彼女の指は【18】と表記されたボタンの手前で制止した。
今は十七階だから、次で降りようとしたのだろう。
「神原優花はこれから自殺する。大量の薬を飲んで」
女性は振り返り、真由美さんを見る。
“自殺”というワードではなく“薬”に反応したように感じた。
「その反応を見る限り、思い当たる節があるんでしょ? 私たちはそれを止めに来たの」
彼女は真由美さんに背を向け、何かを考えるように険しい顔をした。
今の言葉に対する疑心というより、予兆があったという不安げな表情に見える。
「時間がないから細かいことは後で説明する。私たちが運命を変えるから、あなたはその先の道を造ってあげて」
「優花とどういう関係ですか?」
「まったくの他人。話したこともなければ、会ったこともない。神原優花を知ったのだって最近。でも私たちは、知らない誰かの命を救う。直樹」
真由美さんの言葉に反応し、直樹さんは人さし指と中指を立てた。
「現」
唱えると、指の間に護符が現出した。
「えっ……」
驚きと混乱が混ざったような声が彼女の口から漏れる。
「私たちは自死専門の霊能者。そこにいる子は、これから自死する人間を見ることができるの。だから私たちはここに来た」
稲葉さんは私を見た。
今は信じられないといった表情だ。
最上階に着くとエレベーターの扉が開き、私たちは廊下に出る。
まるでホテルのようだった。カーペットが敷かれた床が奥まで続いてる。
「梨紗ちゃん、どこの部屋か分かる?」
「うん」
「行こう。稲葉さんも来て」
彼女は戸惑っていたが、時間がないので私は勾玉の気を感じる部屋まで走った。
スマホを見ると23時16分と表示されていた。
あと一分で、彼女は死へと踏み込む。
「ここ」
一番奥の部屋の前に立って指をさした。
直樹くん、真由美さんと続き、その後ろには稲葉さんもいた。
「直樹」
「はい」
直樹くんは扉の前に立つと、指に挟んだ護符を胸の前に出した。
「護符よ、命絶つ者を救うため力を貸したまえ。鉄の錠を外し、魂を肉体に繋ぎ止める」
護符を扉に貼ると、【解】という文字が浮かび上がる。
「解」
直樹くんが唱えると、ガチャっという音がした。
「入って」
真由美さんの声で直樹くんがドアノブを引くと、扉が開く。
「うそ……」
稲葉さんの声をよそに、直樹くんが部屋に入っていく。
「正面の部屋から感じる」
真っ暗な廊下を進み、ドアを開くと、美しい夜景が目に飛び込んだ。
勾玉で見た景色と一緒だ。
視線を下ろすと、ソファーの前に神原優花が座っていた。
口を開け、唖然とした表情でこちらを見ている。
夜景に照らされたその手には、錠剤の入った瓶が握られていた。
直樹くんは神原優花の手から錠剤を奪い、大きく息を吐く。
「間に合った」
リビングに稲葉さんと真由美さんが入ってくる。
「彩さん……なんで」
稲葉さんの視線はローテーブルに向けられていた。
そこには大量の錠剤の入った瓶が置かれている。
「優花……なんで」
重苦しい空気が漂い、二人の間には形容しがたい何かがあった。
突如、私の胸元から紫の光が照らし出される。
宙に浮く勾玉。
それを手に取ると、一仕事を終えたかのように光は消え、勾玉は眠りについた。
テレビボードに置いてあるデジタル時計は23時17分と表示されている。
【神原優花】
優花は真由美に連れられ、彼女たちの住む家に来ていた。
「一人ではいさせられない」そう言われて。
彼女らは彩の知り合いなのかと思ったが違うらしい。
たまたまマンションで出会い、優花が自死すると言われたみたいだ。
ここまでは車で来たのだが、車内では彩も戸惑いを見せており、終始無言だった。
なぜ自分が死のうとしていたことを知っているのか?
車の中で尋ねたら、詳細は家に着いてからと真由美に言われ、三人の名前と【自死専門の霊能者】ということだけが告げられた。
「よかったら飲んで」
直樹が居間に入ってくると、人数分のお茶をちゃぶ台に置いた。
「ありがとうございます」
優花と彩は、軽く頭を下げる。
直樹が座ると、真由美が口を開いた。
「車内でも言ったけど、私たちは自死専門の霊能者で、あなたの死ぬ場面をこの子が見たの。オーバドーズするところを」
真由美は梨紗を指した。
高校生くらいだろうか。どこか影があり、どこか儚さがある。
今にも消えてしまいそう――
そんな印象を受けた。自分と同じように。
「まあ、信じてとは言わない。私が優花ちゃんの立場なら絶対信じないから」
真由美は表情に微笑みを灯した。
なんでも受け止めてくれそうな、優しく柔らかな雰囲気がある。
その顔を見て、胸の中で吹き荒れていた風が少し穏やかになったような気がした。
その後、魂の話を聞いた。
彼女たちが言うには、自死した人間の魂はその場に留まり、黒と言われる邪念の塊に変化するらしい。
死を考えてる人間を導き、連鎖させるように命を奪う。
そして回収された後は新たな肉体に宿り、脆くなった精神で来世を生きることになる。
御伽話を聞いているようだった。正直、信じられない。
だが、優花の死を予知して家まで来た。
それは紛れもない事実だ。
たまたまにしては都合がよすぎる。
横目で彩を見ると、黙って真由美の話を聞いていた。
鵜呑みにしているのか、疑念を抱いているのかは分からないが、その眼差しは真剣だった。
「……まあ、そんな感じかな」
真由美は話を終えると、お茶を啜った。
「ねえ、優花」
彩が口を開いたため、視線を合わせる。
「なんで死のうとしたの?」
囁くように言ってきたが、はっきりと言葉が聞き取れる。
小さな声でも部屋全体に響く。
発声の良さからだろうと優花は思った。
それが胸をギュッと締め付けた。
「……幼い頃から周りの顔ばかり気にしていました。何を言われても笑って頷いて、言いたいことがあっても胸の中に仕舞う。そんな自分が嫌いでした。だから女優になろうって思ったんです。物語の中では違う自分になれるし、言いたいこともはっきり言える。それを繰り返してたら、いつか自分も変われるんじゃないかって思った。でも……何も変えられなかった。ただ傷が増えていくだけ。芸能人はイメージですべてが決まる。嫌なことがあっても嘘の笑顔を作って、どれだけ苦しくても、それを知ってほしくても、その仮面が傷を隠す」
優花の顔に影が落ちだが、それを隠すように微笑が浮かんだ。
根っこに染みついた自分が無意識に口角を上げ、人工的な光で表情を照らす。
「私たちの仕事って逃げる場所がないんです。外では知らない人に写真を撮られ、ありもしない噂で他人が私を作り上げる。家にいても、一人でいても、何を思われているか気になって世間の声を聞いてしまう。見なければいいのに、どうなるか分かってるのに、それでも自ら傷を付けにいく。声をあげても傷が増えるだけ。私たちは商品だから、傷が付いたら取り替えればいい。特に私みたいな人間は」
芝居のレッスンは受けていたが、事務所に所属してすぐにオーディションに合格してしまった。
本来なら喜ばしいことだと思うが、それが逆に優花を苦しめることになる。
世間に醜態を晒し、誹謗が飛び交う道を歩むことになったから。
女優としての自分に価値なんてない。
それだけが心に刻まれ、命を蝕んでいた。
「本音を言うと、何かのせいにしたかった。まだお芝居が下手なのに宣材写真を送ったマネージャー。顔だけで私を選んだプロデューサー。批判と誹謗の境界線も分からない画面の向こうの人たち。外に理由を作れたらもっと楽に生きられるのに、それができなかった。だってどう考えても、自分の実力が足りないのが原因だから。言い訳なんてできない。それをしてしまったら、きっと自分を許せないから」
優花は唇を噛み締めた。
自分に対しての厭わしさからくるものでもあったが、根っこの自分を殺してしまいたいという表れでもあった。
「顔だけ”は“いい。SNSでもよく言われていました。でもお芝居で選ばれるようにならないと意味がない。役者を生かすために物語があるのではなく、物語を生かすために役者がいる。今の私ではキャラクターに命を吹き込むことすらできていない。それが……心の底から悔しい」
優花の目に涙が浮かぶ。
それは曇った空のように、今にも悲しく降り出しそうだった。
「誹謗中傷ってさ、一生無くならないんだと思う」
優花は真由美に視線を向けた。
「『あいつが悪い』『芸能人だから』『言われたくないなら辞めればいい』。傷を付けていい理由を探しては自分を正当化する。それで誰かが命を絶ったとしても。同じことを繰り返していけば、善悪の分別も分からなくなる。傷を付ける痛みを知らない限り、人は人を傷付ける」
批判は仕方ないものだと思っている。
それがプロの世界に足を踏み入れた者の宿命だから。
だが一線を超えた言葉は命にまで手が届く。
役者としてではなく、その人間を否定するもの。
画面の向こうの人たちは、どんな想いでその言葉を打っているのだろうか?
今まで言われ続けた誹謗を反芻しながら、優花は真由美の言葉を受け取った。
「芸能人て自分は商品だって言うけど、その言葉嫌いなんだよね。確かに商品っていう言葉が当てはまる部分はあるよ。でも、人と物は違う。あなたには感情があって、言葉も発せられる。自分で自分の価値下げなくていいよ。人間は傷が付いたからといって廃棄されるものではない。その傷が誰かの道となり、自分の価値に変えることができる。それが人なの」
――お前は商品なんだからな
この仕事を始めてからずっと言われ続けていたことだった。
優花自身もそう思っていたし、疑うことすらしなかった。
どこかで感覚が麻痺していたのかもしれない。
私は物ではなく人。
当たり前のことだが、真由美に言われて気がついた。
「私はお芝居のことはまったく分からない。表情と台詞でなんとなく上手いんだろうなって思うくらいの人間。でも一つだけ言えることがある。下手だとしても、批判を受けたとしても、自分の力で人は変われる。最初から上手い人が『やればできる』って言うのと、下手だった人が上達して『やればできる』って言うのでは、受け取る側の印象は違うでしょ? これからあなたが評価されるようになれば、多くの人の希望になれる。『自分も頑張ればできるようになれる』って。そういう力を優花ちゃんは持ってるの」
傷は傷でしかない。
ただ痛みを伴い、人の命を蝕むもの。
そう思っていた。
正面から言葉を受け取り、その意味のまま心臓へと送る。
そして命に傷を付け、死に引き寄せられる。
そんな生き方だった。幼い頃からずっと。
「私は言葉自体に力はないと思ってる。受け取る側のバックボーンや今の環境、それと性格に価値観。それらが言葉を装飾することで、美しくもなるし綺麗事にも変わる。言う側がどんな人なのか、それも含めて。言葉に価値を作るのも、価値を見出すのも、全部人が決めることだからね。そんな曖昧なものに左右されながら、私たちは生きてるの。今持ってるものだけで自分を判断しないで。見えていない部分に可能性は存在する」
優花はこれから歩むべき道について考えていた。
自分ができること、この先でどうなりたいか。
言葉は曖昧なものだが、それは時として光に変わる。
暗闇の中に埋もれていた道が少しだけ見えた気がした。
「ずっと苦しかった。良い人でいないと私自身の価値は保てない。だから嫌われないように生きてきたんです。いつからだろう、周りの言葉で自分の価値を測るようになったのは」
「価値観なんて人それぞれ違います。それに耳を傾けてたら自分が分からなくなる。大切なのは、自分が何をしたいのかを見つけること。それが生きる支えになります。自分のためでも、人のためでもいい」
でも……と、直樹は話を続ける。
「幅広い視野を持ってください。狭い価値観は人を測るようになる。目に見えるものだけがすべてはない。見えていない部分に生きる本質が隠されてるんだと思います。多面的に視点を置くことができれば、きっと見つかりますよ。生きていく理由が」
優花は芸能人としての価値をずっと考えてきた。
それは彩のように芝居ができることだと思っていた。
だが視点を変えれば、“自分なりの見せ方”だってあることに気付く。
今日初めて出会った人たちは、雨の中に枯れない花を添え、優花の人生に色を付けた。
雨の中でも美しい、紫陽花のような彩りを。
「すいません、お風呂まで貸してもらって」
彩が言うと、真由美は顔の前で手を横に振る。
「いいの、いいの。それより、私の寝巻きサイズ合ってた?」
「はい、ちょうどです」
「女優と同じ体型っていうことか。明日直樹に自慢してやろう」
真由美はしたり顔で言う。
「朝ごはんも作るから、起きたらさっきの場所に来て」
「はい、ありがとうございます」
優花と彩が頭を下げると、真由美は優しい笑みを浮かべ客間を出ていった。
二人だけになった部屋には沈黙が降る。
優花はいたたまれない気持ちだった。
彩とどう話していいのか分からない。
頭の中で言葉を探すが、彷徨うだけで何も掴むことができなかった。
「……もう寝よっか」
気まずさがあるのは向こうも一緒なのかもしれない。
さっきから目が合わないし、会話という会話もほどんどなかった。
そして今も、彩の視線はうろついている。
「……はい」
彩は木枠のペンダントライトの紐を引き、電気を消した。
ここは二階だったため、窓には夜空が映る。
家に来る前よりも雨足を弱っており、ザーザーと突き刺すような音から、しとしとと零れる柔らかい音色に変化していた。
「ごめん」
雨音の中に混じる彩の声。
顔を向けるべきか悩んでいると、彩は言葉を繋いだ。
「優花の真面目な性格なら、意識を高める言葉の方がいいって決めつけてた。そっちの方が役者としても成長するって思ったし、優花なら付いてきてくれると考えてた。でも、知らないうちに追い詰めてたんだね」
悲しさが滲んだ口調だった。
「そんなことないです、彩さんは私の憧れですから。でも迷惑かけてたから、嫌われてると思ってました。だから、ちゃんと言葉を受け取れていなかったです。アドバイスも『足を引っ張るなよ』って意味で捉えてた。そんな人じゃないって分かってるのに、悪い方へと考えてしまう。本当にダメですよね、私」
人は死を纏うと、言葉の色すら曇って見えてしまう。
それが光を帯びていても、希死念慮というフィルターで遮光する。
暗闇の中に放り込まれれば、小さくなっていく命の灯火を眺めるだけ。
抵抗する力すらも湧かないのだから。
「優花がずっと自分と向き合っていたことを知ってる。そんな人を嫌いにはならない。才能って、与えらえるものではなく育てるものだと思うの。人よりもスタート地点が後ろだったとしても、速度は考え方で変わるし、前に進めないわけじゃない。アクセルの踏み方が分からないだけなのに、才能を否定する人もいるけど、そんな言葉は耳にいれなくていい。その真面目な性格があれば、きっと成長できる。私の言葉と見えない場所で言う人の言葉、どっちを信じる?」
安心からか、優花は涙を流した。
胸臆にある暗い感情を濾過し、透明な一雫の想いが溢れる。
「彩さんです」
声を潤ませながら、優花は言った。
「今日まで頑張ったんだから、もう一人で抱え込まないで」
彩は優花をそっと抱きしめ、耳元で優しさを添えた。
「はい」
啜り泣く声と、外から聞こえる雨音が入り混じる。
二つの雨は、途切れた会話を繋ぐように降り続けた。
「雨、止みますかね」
「止むよ、きっと」
着替えを済ませた後、優花と彩は居間へと来た。
ちゃぶ台には白米に味噌汁、お新香と焼き鮭といった家庭的な朝食が並んでいる。
優花は母の顔を思い出し、昨夜の自分の行いに罪悪感を抱く。
「座って」
直樹に言われ、優花たちは席に着く。
梨紗はすでに朝食に手をつけており、制服を着ていた。
「ねっむい」
そう言いながら、パジャマ姿の真由美が居間へと入ってきた。
髪の毛には寝癖が付いていおり、頭を掻きながら席に着く。
「おはようございます」
「おはよう」
真由美は重たそうな眠り目を開き、表情を咲かせた。
「晴れたね」
真由美の視線を辿ると、縁側の先にある庭が見えた。
淡いブルーの六月の花が、灰色の季節に色を灯している。
木枠の窓は開いており、湿った風が部屋へと流れてきた。
「紫陽花の花言葉って知ってる?」
「分かりません」
真由美に聞かれ、優花は首を振った。
「冷淡、移り気、無情。色が変わったり、雨に耐え忍んで咲いてることが由来なんだって。こんな綺麗な花なのにイメージだけで悪い言葉を付けられる。どんな花だって美しく咲こうとしてるのにね」
真由美の言う通り、美しい花だった。
雨に耐え続け、儚げにも凛と咲いている。
花は自分がどう思われているかは知らない。悪い言葉を付けられていることも。
ただ咲き誇る。そのことだけに命を費やすからこそ、雨の中でも美しくいられるのかもしれない。
「昨日、SNSで優花ちゃんのこと検索した」
優花は真由美を見た。不安気な表情を浮かべて。
「人間否定してる輩もいるけど、優花ちゃんはそいつらに何かした?」
優花は首を振る。
「誰かを虐げたり、法に触れるようなことは?」
再度、優花は首を振る。
「だったら堂々と生きていればいい。罵声を浴びせるだけの人間に屈することはない。自分の生き方に信念を持っていれば認めてくれる人もいる。人の美しさというものは心に置いてあるもので決まるから。今はそれを育てることに集中して。知らないうちに綺麗に咲いてるから」
「はい」
視界の隅で、彩の笑っている顔が見えた。
朝食を済ませた後、真由美たちは玄関まで見送ってくれた。
「お世話になりました」
優花と彩は土間で頭を下げる。
「今日ぐらい休めばいいのに」
「もう大丈夫です。知らない誰かの言葉ではなく、信じてる人や自分の言葉で歩いていきますから」
彩に視線を送ると、微笑みを浮かべ頷いた。
「好きなときに遊びに来てね。雨が降ったら、ここで雨宿りしていけばいい。自分の居場所だと思っていいから」
「ありがとうございます」
「じゃあ、私たちはこれで」
彩がそう言うと、真由美と直樹は笑みを零して手を振る。
「梨紗ちゃんも、またね」
優花に言われると、梨紗は小さく頷いた。
家を出ると、泣き止んだ空が青く微笑み、太陽の光が道を照らすように射していた。
「芸能人が亡くなったら、優しい言葉をかけてもらえるでしょ?」
家の前の坂道を下っているとき、彩が言葉を投げかけてきた。
「もし生きてるうちにその声が聞けたら、救えた命もあったのかな」
優花は空を見上げた。
天国と地上を繋ぐ、青い境界線。
澄み渡る空の向こうには、止まない雨に耐えきれず、散らせた命がいくつもある。
一枚ずつ落ちていく花弁は壊死していくように心を枯らせ、最後は自らの手で摘み取っていく。
手にかけた最後の花びら。
もし真由美たちが来なかったら、神原優花という一輪はこの世界から存在を消していただろう。
もう一つの世界線を想像しながら、優花は口を開いた。
「いくつもの綺麗な言葉が並んでいても、たった一つの不浄な言葉で感情は萎れていく。美しく咲くことは難しいけど、枯らすのは簡単だから。でも変われるって信じたいし、変えられるって思ってほしい。成長した自分を見せれば、知らない誰かを救えるような気がするんです。私はそんな女優になりたい」
優花は言葉に覚悟を込めた。
雨の中でも咲き誇れる紫陽花のような一輪。
いつか美しく咲けるようにと、心の中に想いを植える。
「なれるよ、優花なら」
東の空から降り注ぐ光が、二人の笑顔を照らしていた。
【泉梨紗】
一人の人間がまた救われた。
神原優花という女優。
華やかな世界で生きていても、端麗な容姿を持っていても、雨というものは容赦なく人を濡らし、心を散らせようとする。
真由美さんと同様、私も彼女のことをSNSで検索した。
応援する声も多かったが、卑劣な言葉を吐いている人もおり、度を超えたものもいくつか見受けられた。
ネットという海に言葉を吐き捨て、漂流してくる誹謗で心を汚されていく。
ゴミを拾ってくれる人もいるが、より黒ずんだ汚穢を投棄する者もいる。
綺麗な海でも廃棄物が積み重なれば泥水に変わる。
広い可能性を秘めているはずが、使い方を誤り、道端の水溜りのように進行を妨げるものに成り下がる。
ネットとはもともと無色透明な場所。
そこに人が入り、色を付けていく。
誰かを救う避難所にもなれば、誰かを死へと導く処刑台にも変わる。
それを作るのは人だ。
言葉という力を得た、獣よりも少しだけ賢い生き物。
この短期間で地上に咲いた命がいくつか守られた。
翔太くん、優花さん、そして私。
私に関しては正直まだ分からない。
平田はもう手を出さないと言っていたが、半信半疑だ。
今も校門をくぐったとき、動悸のようなものが胸を叩いた。
もう雨は見たくないし、静かな日常を過ごしたい。
特別なものじゃなくていい、波風の無い平穏が来てくれれば。
昇降口に入ると、糸を張ったような緊張感が全身を這い回った。
下駄箱に何も入っていないことを祈りながら、恐る恐る中を除く。
一足の白い上履き。
当たり前の光景に安堵が広がる。
長く降り続いた雨は去り、これからは白日の下を歩けるのかもしれない。
朝はゆっくりと支度をして、眠い目を擦って電車に乗る。
授業に辟易しながら、昼休みの食事を楽しみに待つ。
放課後の開放感、帰り道に寄るカフェ、「おかえり」と出迎えてくれる人たち。
休日は遅い時間に目を覚まし、音楽を聴きながらのんびりと過ごす。
そんな日々が来ることを夢見ていたが、いつからか雲が消えることを祈らなくなっていた。
でも今日からは……
あとは藤本たちと直接顔を合わせたときだ。
そのときに分かる。
空が晴れたのかどうかが。
三年の廊下に着くと、前から藤本と中山が歩いてきた。
壁際に寄り、目を合わせないように顔を下に向ける。
「泉」
ドクッ
心臓が大きく動く。
ゆっくりと視線を上げると、
「おはよう。今日は良い天気だね」
藤本が笑顔で言ってきた。
「晴れてよかったね」
中山も笑っている。
「う、うん」
動揺を隠せずに頷いた。
藤本と中山はそのまま去っていく。
思考が絡まっていた。何が起きているのか理解が追いつかない。
少し寒気もしたが、何もされなかったことの方が勝り、安心が胸に腰掛けた。
教室に入ると、樋口さんの姿が目に入った。
自分の席の前で立っている。
というより立ち尽くしているように見える。
教室は静かで、どこか空気が重い。晴れた空と反比例するように。
鞄の中から折りたたみの傘を取り出し、声をかけた。
「樋口さん、おはよう。あと、これ返すの忘れ……」
樋口さんの席の上には花瓶が置かれていた。
挿されていたのは、白い菊の花だった。
クラスの子たちの顔を見ると、口を固く閉ざし俯いている。
自分の目に映さないように。
「あれ、樋口生きてたんだ」
振り返ると、平田が立っていた。
「わざわざ花屋で買ってきたのに」
そう言った後、平田は樋口さんの隣に立ち、耳元で囁いた。
「死んでくれれば、花も無駄にならないのにね」
言下、樋口さんは教室を出ていった。
去り際の表情は曇っており、目が潤んでいた。
「良かったね、泉。これからは平穏に暮らせるよ」
平田はそう言って、立ち去ろうとした。
「何?」
平田は振り返り、自分の腕に視線を向けた。
私の右手に掴まれていたから。
「……」
何も言えなかった。
恐怖が喉元で痞えており、言葉がその先に進めない。
「追っかけてあげれば。あんたの身代わりみたいなもんでしょ」
悔しさを噛み締めながら手を離し、廊下へと出た。
だがそこに、樋口さんの姿はなかった。
耳鳴りのような喧騒。
言葉を持ち合わせない音だけのノイズ。
色褪せていくように感情は散り、春の終わりを告げる。
「なんで……」
窓から入る太陽の光が瘡蓋を剥がし、痛みが走った。