【奥村翔太】
居間の隣にある八畳の和室。
小さなローテーブルの上には、モダンな面持ちをした仏壇が置かれていた。
中には大場菜月の写真が飾られており、制服姿で微笑んでいる。
奥村翔太はりんを鳴らした後、丁寧に手を合わせる。
目を瞑ると線香の香りが一層強く感じ、幼馴染の死を改めて実感した。
「笑ってる写真がこれしかなかったの」
菜月の母である美穂が、翔太の隣に座って言った。
目を開いて写真に視線を合わせると、ざわめくように胸中が揺れたのが分かった。
「翔太くん、来てくれてありがとね」
皺を強調させた笑みが、翔太の胸に刺さる。
「いえ」
「でも毎日来なくてもいいのよ。子供の頃からの付き合いとはいえ、そこまでしなくてもいい」
「はい……」
翔太は顔を俯かせ、絞るように声を出した。
「おばさん。言わないといけないことがあって……」
「何?」
「菜月は……」
そこから言葉に詰まった。
喉元に引っ掛かり、うまく出せない。
「どうしたの? 翔太くん」
「いえ、なんでもないです。もう帰りますね」
そう言い残して、翔太は家を後にした。
雨と日曜日が重なり、今日はいつも以上に客足が悪かった。
翔太のバイト先である居酒屋は、駅から十分以上歩くため、週末以外は飛び込みの客は少ない。
先輩二人と翔太は店長に早上がりを告げられ、予定よりも二時間ほど早く切り上げることになった。
更衣室を出ると、着替え終わるのを待っていた先輩たちが視界に入る。
「お待たせしました」
「この後、カラオケ行くんだけど、翔太くんもどう?」
束ねていた栗色の髪を解きながら、女の先輩が聞いてきた。
「ごめんなさい、今日は帰ります」
「そっか、また今度誘うね」
「はい。お疲れ様です」
会釈してその場を去ろうとすると、二人の会話が背中から聞こえてくる。
「あいつ最近、付き合い悪いな」
「幼馴染が亡くなったんだって」
「そうなんだ」
「しかも自殺らしい」
「マジ」
二人の声が鼓膜に触れると、波紋のように黒い何かが感情に広がっていった。
胸の中を蝕むように這いずりまわり、心臓が大きく波を打つ。
傷口に言葉が付着し、自責という炎症を起こして、ジワジワと痛みが浸透していく。
自分のことを知っている人の側から早く離れたい。
そう思い、翔太は足早に店を出ていった。
糸を引くような細い雨が、ガードレール下の献花を濡らしていた。
花弁から滴り落ちる雫が、まるで泣いているように見える。
国道の交差点。
幼馴染が車に轢かれた場所。
傘を差しながら、翔太は献花を見下ろしていた。
そして記憶を辿る。
後悔が滲む、菜月との最後の日を。
「ここで最近、人が死んだらしいよ」
「えっ、また」
後ろを通った女性二人の話し声が、雨音を縫って翔太の耳に入る。
心臓にヒビが入るように痛みが拡散していく。
罪悪感が感情に影を作り、死神が囁くように産み落とす。
黒く濁った、死という名の腫瘍を。
【泉梨紗】
悲観を纏う雨雲が、境界線のように空と地上を二分する。
曇ってはいるが、今日の空は泣いていなかった。
今にも涙を零しそうだが。
玄関で靴を履き替えていると、バタバタとした足音が後ろから聞こえた。
「間に合った。はい、これ」
直樹くんは肌触りのいいベージュの巾着を渡してきた。
持ってみると少し重い。
「何これ?」
「お弁当。飲み物は好きなもの買って」
五千円札が目の前に差し出された。
前とは肖像が変わり、新しい女性が描かれている。
「こんなに貰えない」
「今月のお小遣い。高校生にどれだけ渡していいか分からないから、真由美さんと相談して、とりあえず五千円にした。友達と遊ぶなら足りないかな?」
「大丈夫」
友達なんていないから。
「ありがとう」
私がそう言うと、直樹くんは微笑んだ。
五千円を財布に仕舞い、鞄に入れる。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
久しく聞いていなかったその言葉。
いつ以来かさえ覚えていない。
「行ってきます」
私は戸惑いを見せながら、玄関のドアを開けた。
静かな教室には筆記音が響く。
黒板に書かれた数式を、生徒たちがノートに写している。
私は後で見ても理解できるように、矢印を使いながら補足を追記する。
余白を多めにとり、最後は要約を添えた。
顔を上げた時、後頭部に何かが当たる。
下を見ると丸められた紙が落ちていた。
そして煩わしい笑い声が耳に入る。
きっと藤本だろう。
今日も下駄箱に紙パックのジュースが捨てられていた。
見慣れた光景だから、もう気にすることもなくったが。
チャイムが鳴ると、生徒たちの顔が晴れるたように明るくなった。
次は昼休みだからだろう。
「次回はここの続きから始めるからな」
教師が出ていくと、生徒たちの声が四方から聞こえ出す。
私は鞄を持ち、存在を消すように扉の方へと向かった。
「泉」
悪魔の声が背中を叩く。
足音を携えて、死の匂いを撒き散らしながら。
「財布忘れたから、お金貸して」
振り向くと藤本がいた。後ろには中山もいる。
「こないだの分、返してもらってない」
「あれは奢ってくれたんじゃん。美味しかったよ、クリームパン」
「人聞きの悪い言い方はよくないよ。私たちが泉のこといじめてるみたいじゃん」
中山は笑みを浮かべながら、顔を近づけてきた。
「お金ないから、買ってこれない」
言下、藤本が私の鞄をひったくる。
「やめて」
取り返そうとするが、中山に羽交い締めをされ身動きが取れなくなる。
藤本は楽しそうな顔で鞄の中を漁り、財布を取り出した。
周りの生徒たちは見てみぬふりをする。
いじめられる前の私と一緒。
だから助けてなんて言えない。
藤本は中を開け、五千円札を手に取った。
「なんで嘘つくの? 私たちのこと騙したんだ」
「それは絶対にダメ。返して」
取りに行こうとするが、中山の力が強まり近づけない。
藤本は私の言葉を無視して五千円札をブレザーに仕舞い、さらに鞄の中を漁った。
そして巾着に入った弁当を取り出す。
「弁当じゃん。珍しいね、泉」
机に弁当箱を置き、蓋を開ける。
色彩豊なおかずが並び、丁寧に作られたのが分かるほど、綺麗なレイアウトだった。
「もっと美味しくしてあげるよ」
藤本は近くの生徒の筆箱を手に取った。
奪われた子は何も言えず俯いている。
中からシャーペンの芯が入ったケースを取り出すと、中身を全部取り出し、折り始めた。
何をするか一瞬で想像がついた。
それだけはさせてはいけない。
「やめて」
大声を上げると、中山は私を投げ飛ばした。
「うるせえよ泉。黙って見てろ」
顔を上げると、藤本は細かく折ったシャー芯を弁当にかけていた。
「わあ、美味しそう」
中山が手を叩きながら言う。
藤本はかけ終わると、床に尻を着く私の前に弁当を置いた。
季節の花を散らすように、黒ずんだ雨が色彩を奪っていた。
あれだけ美しかったものが、簡単に汚れてしまう。
もしこの世界に神様がいるのなら問い掛けたい。
なぜ、壊す側の方が景色を決めれるのか?
なぜ、人は他人の平穏に影を差すのか?
なぜ、死にゆく体に命を与えたのか?
もはや神は無関心なのかもしれない。
小さい世界の片隅で生きる、価値の無い人間には。
「美味しそうでしょ?」
そう尋ねる藤本の顔は笑っていた。
沈黙で返すと、藤本は私の頬を掴む。
「美味しそうだよね? そういう時はなんて言うの? 私が丹精込めたんだよ」
「……ありがとう」
藤本は手を離し、満足そうな顔をした。
「お前、ヤバっ」
中山のほくそ笑んだ顔が視界に映る。
「早く購買行こうぜ」
「明日香も行こ……」
「待って」
二人の会話に誰かが声を挟んだ。
視線を移すと、財布を持った樋口さんが藤本たちの前に立っていた。
「私が貸す」
そう言って、樋口さんは千円札を取り出して藤本に差し出した。
「は? いらねえよ」
「五千円ってことは、今月分のお小遣いかもしれない。それを全部取ったら泉さんが何もできなくなる。それに、これだけ大勢の人が見てるなら、誰かが先生に言うかもしれない。もうすぐ受験でしょ? そしたら影響するんじゃないかな」
藤本は一考した。
しばらく考えたのち、舌打ちをして樋口さんの千円札を奪うように取った。
五千円はクシャクシャに丸めて私の前に放り投げる。
「良かったね、泉。優しい樋口さんが貸してくれたよ」
吐き捨てるように言った後、藤本と中山は教室を出て行く。
樋口さんを見ると、安堵したように大きく息を吐いていた。
目が合うと、彼女は私の前に来て目線を合わせるように腰を下ろす。
「ねえ、私のお弁当食べる? 今日あまりお腹空いてなくて。食べてくれると助かるんだけど」
私は首を横に振った。
気を遣ってくれてるのが分かったから。
五千円札をブレザーに仕舞い、弁当を持って立ち上がる。
「ありがとう、助かった」
そう言い残し、私は教室を出て行った。
その際、平田の顔が視界に入る。
悍ましい表情で、視線を刺すように送っていた。
私ではなく樋口さんに。
校庭の手洗い場まで行き、おかずの一品、一品を洗う。
シャー芯まみれのご飯は流石に食べれなかったので、ゴミ箱へと廃棄した。
心苦しい思いで。
弁当を受け取った時は顔に出さなかったが、少しだけ感情が跳ねていた。
久しく作ってもらえなかったもの。
だから、おかずだけは口にしたい。
「美味しかった」
その一言を言いたいから。
卵焼きを洗い終え、付いた水滴を指で拭った後、口に運んだ。
冷たかったが、ほんのり甘い家庭的な味が口の中に広がる。
その瞬間、涙が頬を伝った。
残らず消えてしまう、一雫の透明な傷跡。
ずっと堪えてきた雨が、優しさに触れてぽつりと落ちる。
自分のために時間をかけてくれたものを汚してしまったこと、それを守れなかった不甲斐なさ。
その二つが同時に込み上げ、罪悪感が胸中を渦巻いた。
頭に浮かぶ直樹くんに謝罪しながら、再び卵焼きを口に運ぶ。
二口目は、少しだけしょっぱかった。
昇降口を出ると、さめざめとした雨が地面を濡らしていた。
雲が覆う空は、なぜか悲しく見える。
「雨降ってるじゃん」
「最悪」
下校する生徒たちの愚痴が耳に入る。
今日に限って折り畳みの傘を忘れてしまった。
そこまで強くないので走って帰るか、もう少し様子を見て弱まるのを待つか。
迷っていた時、肩にかけていた鞄が誰かに奪われた。
視線を向けると、藤本だった。
私が声を出そうとした時には遅く、鞄は雨の中に飛んでいった。
「よっしゃー、新記録! 鞄投げ大会優勝できるかも」
「そんな競技ないから」
後ろから中山と平田が歩いてきた。
「駅前のカラオケ行かない?」
「昨日も行ったじゃん」
「いいじゃん、行こうよ」
三人は何もなかったかのように傘を差して歩いていく。
笑い声で雨の音など聞こえていないだろう。
涙のように落ちる悲しい音色は、鈍感な人間には届かないから。
昇降口の屋根から体を晒し、濡れながら鞄を拾いに行く。
苦痛を凌ぐ場所にいたとしても、私には関係ない。
どんな所にいようとも、この命は他人の手の中にあるのだから。
空の悲しみ触れながら、私は鞄を見下ろした。
髪の毛も、制服も、荒んだ心も、蝕むように濡れていく。
このまま消えてしまいたい。水面に浮く泡のように。
鞄を拾おうとした時、雨が止んだ。
いや違う、目の前の雨粒は、はっきりと目に映っている。
「持ってて」
声が聞こえ振り向くと、樋口さんが立っていた。
差された傘の柄の部分を、私に差し出している。
言われるように傘を持つと、樋口さんはタオルを取り出し、私の鞄を拭いてくれた。
六十センチほどの雨を凌ぐ小さな世界。
優しさが冷えた心を撫でてくれる。
「はい」
樋口さんは、鞄と傘のケースを渡してきた。
「この雨も去って、いつか笑える日が来る。だから……もう少しだけ待ってて」
傘は使って、と言い残し、樋口さんは雨に濡れながら走り去っていった。
ありがとうとも言えず、私は彼女の背中をただ眺めることしかできなかった。
校門を出ると「梨紗ちゃん」という声が聞こえた。通りに止まった軽自動車が目に入る。
運転席の窓が開いており、直樹くんが手を振っている。
「傘持ってたんだ」
車の側まで行くと、助手席に座る真由美さんにそう聞かれた。
「うん……」
「でも少し濡れてるね。風邪引いちゃうから乗って」
直樹くんに言われ、傘を閉じてから後部座席に乗り込む。
隣には長羽織が置かれていた。
私がビルから飛び降りようとした日、その時に真由美さんが着ていたものだ。
白無地で、高級感が漂う。
「これで拭きな」
真由美さんが鞄からタオルを取り出し、渡してくれた。
ありがとうと言って受け取り、髪の毛を拭く。
「二人はなんでいるの?」
「これから魂の回収に行くんだ。家を出た時に雨が降ってきたから、梨紗ちゃんを迎えにいくついでに、一緒に周ろうと思って」
「魂の回収?」
真由美さんが水晶を掲げた。
「霊納師は魂を見つけることができるの。かっこいいでしょ?」
かっこいいとは思わなかったけど、一応頷いた。
「梨紗ちゃん、勾玉は持ってる?」
「うん」
「それが光ったら教えて。“誰かの死”を教えてくれるから」
「分かった」
「じゃあ行こうか」
しばらく走り、市役所通りに入った。
雨は霧のように変わり、視界を霞ませている。
「あっ」
真由美さんの声が車内に響く。
「反応しました?」
「うん、まだ弱いからもう少し先」
二人が何を話しているか分からず、ただ会話に耳を傾けていると、真由美さんが水晶を見せてきた。
水晶は光っており、弱々しく点滅している。
「魂に反応するの。近づくと光が強くなっていく」
「家からそんなに離れてないから、最近亡くなった魂ってこと?」
近くだったらすでに回収しているはずだ。
でも私は人の死を見てない。それが疑問だった。
「自死した場合、基本的にはその場に留まる。でもね、移動する場合もあるの。それは誰かに伝えたいことがある時。だから回収するのが難しかったりするんだよね」
「あと、魂が霊納師に見つからないようにするため、力を抑えて気を薄める場合もある。これも見つけづらい」
補足するように直樹くんが言った。
伝えたいこと……
それは死んだ後に、未練を残しているということなのだろうか。
せっかく命を放棄できたのに、それでもこの地獄に残る理由はなんなのだろう。
私だったら意識すら残さず、永遠の中で眠っていたい。
住宅街の中に入ると、水晶の光は一層強まった。
緊張感を煽るように、点滅は速度を上げる。
まるで心臓の鼓動のようだ。
「かなり近いね」
車はゆっくりと前進し、一軒、一軒、物色するように通り過ぎる。
「ここだ、止めて」
真由美さんが声を上げると、直樹くんは車を停止させた。
水晶を見ると、光は点滅を止め、常に灯った状態になっている。
真由美さんたちは窓の外を見ていた。
視線を辿ると、ブロック塀に囲まれた二階建ての白い家。グレーの乗用車が置かれており、後ろには小さな庭が見える。
表札には【大場】と記されていた。
「家の中ですかね?」
「たぶんね」
「ここからどうするの?」
素朴な疑問をぶつけると、直樹くんの口が開く。
「家の中に魂がいる場合、大抵が家族なんだ。だから知人のふりをして弔問に来たって言う。線香をあげに来ましたって」
「詐欺師みたい」
「悪いことするわけじゃないか……」
直樹くんが振り返って私を見ると、「あっ」という声を上げた。
「梨紗ちゃん、勾玉」
自分の胸元を見ると、Yシャツから紫の光が透けていた。
首からぶら下げた勾玉を襟もとから取り出すと、幻想的な淡い輝きを放っている。
「握って」
真由美さんに言われ、勾玉を握る。
「目を瞑ると人の死が見える。夢で見ていたように。前と違うのは、私たちもそれを共有できること」
真由美さんと直樹くんは、勾玉を握った私の拳に手を重ねてきた。
「あとは、梨紗ちゃんのタイミングで」
二人は目を閉じている。
私は小さく息を吸ってから、肺に溜まった酸素を静かに吐き出した。
そして、ゆっくりと瞼を閉じる。
*
咽び泣くような雨が夜を濡らしていた。
国道の交差点。
ガードレール下の献花を、傘を差した男の子が見下ろしている。
制服を着ており、歳は私と同じくらいに見える。
虚ろな目が印象的で、表情は暗く落ちていた。
彼は顔を上げると、目の前の道路を眺めた。
死にゆく人間の顔をしながら、絶望の淵に立つように。
交通量はさほど多くなく、見通しが良いからか、速い速度で車が通っていく。
赤い軽自動車が来た時、彼は傘を捨て道路へと飛び出した。
もう避けることができない距離で。
ヘッドライトに照らされていた彼の顔は、無表情に空を仰いでいた。
*
目を開き、現実へと戻る。
誰かの死を見た後は、名状しがたい余韻が残り、希死念慮に火が灯る。
それは今も一緒で、縋るように死に焦がれている。
私も同じように死の淵から飛び出し、命を溶かしてしまいたい。
「男の子ですね」
「うん。梨紗と同い年くらいだね」
真由美さんたちは私の拳から手を離した。
「梨紗、手を開いて」
握っていた手を開くと、勾玉が光りながら宙に浮いた。
そして首に下げていた紐だけを残し、空間に吸い込まれるように消えていった。
「えっ……」
「勾玉と梨紗の魂は連結してるから、どこにあるか感じるでしょ?」
私は家に視線を送った。
「もしかしてこの家から感じる?」
直樹くんが驚いた顔で聞いてきたので、私は痞えるように頷く。
「魂と自死を考えてる人間が同じ場所にいるってことだ」
「そんなことあるんですか?」
直樹くんが真由美さんに問いかける。
「自死した理由と、自死したい理由に関係性があるのかもしれない。だから魂がここに来た」
「早く行きましょう。手遅れになる前に」
「梨紗、長羽織持ってきて」
真由美さんは鞄に水晶を入れた。
二人が車から降りるのを見て、私も長羽織を持って外へと出る。
直樹くんが門扉の隣にあるインターホンを押すと、「はい」という女性の声が返ってきた。
「突然申し訳ありません。知人からご自宅を伺いまして、お線香だけでもと」
言葉の後、沈黙が横たわった。
もしかしたら家族の誰も亡くなっておらず、不審に思われているのかもと思った。
だが数秒の空白を超えると、「お待ちください」という声がスピーカーから聞こえてきた。
「良かった」
直樹くんは安堵の表情を見せ、大きく息を吐いた。
「やっぱり家族の誰かが亡くなってるってことだ」
「そうですね」
その人は自ら命を絶ち、魂となってこの家の中にいる。
正直、羨ましい。
自分はいつになったら、そっちへ行けるのだろう。
私は死という楽園への切符を一度落としてしまった。
真由美さんたちには悪いが、あの時に死んでいたらと考えてしまう。
生きることから逃げたいし、もう悩んだりすることも疲れてしまった。
静かに眠りたい。それだけを今も祈っている。
玄関の扉が開くと、五十代くらいの女性が出てきた。
真由美さんと直樹くんが頭を下げたので、私も倣う。
女性は目の前まで来ると、私の方に視線を向けた。
「高校のお友達?」
そう問われ、困惑した。
何を聞かれているか分からなかったから。
「ネットで知り合って何度か会ってるんです。彼女は学校は違うんですが、共通の友達から訃報を耳にしたらしく、それで僕たちも一緒にと」
直樹くんは澱みなく答えた。
よくそんなに早く思いつくなと、感心する。
だが今ので理解した。亡くなったのは子供だろう。
歳は私と近いのかもしれない。
「そうですか。ではどうぞ」
母親と見られる人は、門扉を開けて中へと招いてくれた。
真由美さんは親指を立てながら、「ナイス」と直樹くんに囁く。
リビングに案内されると、学生服を着た男性がダイニングに着いていた。
「あっ」
彼がこちらを振り向いた時、思わず声が出た。
勾玉の力で見た人だったから。
交差点で車の前に飛び出し、これから命を絶つであろう男の子。
「翔太くんと知り合い?」
「いえ……」
女性に聞かれ、私は咄嗟に首を振る。
翔太”くん“ということは息子ではないのかもしれない。
彼は背筋を正して座っており、自分の家というよりは他人の家に来ているという感じだ。
シャープな輪郭にキリッとした目、爽やかさがある健全な高校生という印象を受ける。
だが、雨が降る前の曇り空のように、表情には影が見えた。
「この子ですね」
「うん」
真由美さんと直樹くんが小声で話す。
翔太くんは私たちを見ると、会釈をした。
表情は暗いが、死ぬ人のようには思えない。
私には未来ある青年のようにしか見えなかった。
「こちらです」
女性がリビングの隣にある和室へと向かう。
後を付いていくと、小さなローテーブルの上に仏壇が飾られてあった。
中には写真が置いてあり、制服姿の女性が微笑んでいる。
「あっ」
私は再び、声を上げる。
「梨紗、どうした?」
「前に夢で見た人。確か二人目」
交差点で車に飛び出して亡くなった女子高生。
彼女の死の夢を見たのを思い出した。
そういえば、翔太くんが自死する場所も同じだったように思う。
「何かありました?」
「なんでもないです。線香あげさせてもらいますね」
女性に言われ、直樹くんが答える。
私たちは線香を香炉に立てた後、りんを鳴らして手を合わせた。
キーンという残響が耳に残る。
「今、お茶を出すので待っててください」
私たちが顔を上げると、女性が言った。
「おかまいな……」
「ありがとうございます」
直樹くんの言葉を遮り、真由美さんがお礼を言った。
二人の性格が垣間見える。
私たちはリビングに移動し、翔太くんの前に並んで座った。
彼は俯いており、なんとなくだが、目を合わせたくないのかと感じた。
「どうぞ」
沈黙の中、麦茶が運ばれてきた。
それぞれの前にグラスが置かれると、女性は翔太くんの隣に座った。
「わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「この度はお悔やみ申し上げます」
「まさか翔太くん以外に友達がいるとは思いませんでした。菜月は内気な子だったので、他人に心を開くことは滅多になかったから。母としてそれが心配で……」
菜月ちゃんのお母さんは寂しそうな目をして言った。
「そうなんですね。因みに菜月さんと翔太くんはどういった関係?」
翔太くんは顔を上げて直樹くんを見ると、「幼馴染です」と言って、再び顔を伏せた。
「みなさんは菜月とネットで知り合ったんですよね?」
「はい」
「今はそういう時代なんですね。そっちの方が菜月は合ってたのかしら」
あの……と、翔太くんが口を開く。
「菜月、何か言ってませんでした? 悩みだったり、友人関係のこととか。ネットだったらそういうの言いやすいと思うし、もし言っていたなら教えてください」
「何か言ってたような……」
真由美さんは口ごもりながら、視線を彷徨わせている。
「何て言っていました?」
「何て言ってたかな……あっ、そういえば、菜月ちゃんは直樹と仲良かったよね? 何か聞いてたんじゃない」
真由美さんのフリに、直樹くんが戸惑った顔をした。
「えっと……具体的には聞いてないけど、なんか辛そうだったのは感じたかな」
直樹くんは真由美さんを睨むが、知らん顔で受け流している。
「娘は死にたいが口癖で、その度に翔太くんが家まで来てくれていたんです。おかげで私たち家族は助けられていました。もし翔太くんがいなければ、菜月はもっと早くに命を絶っていたかもしれません」
顔の皺を寄せながら、切なげな笑みを浮かべて翔太くんを見た。
「亡くなった場所ってどこですか?」
「近くの交差点です。なんで自ら命を絶ったんだろう。生きていれば、いつか幸せになれるかもしれないのに」
「そのいつかを待つより、今の苦しみから逃げたいの。未来にある希望より、目の前の絶望に耐えられないから」
自然と言葉が出てきた。
空気の読めない発言に、周りが凍りついているのを感じる。
言葉が失われた空間には、どんよりとした重いものが漂っていた。
「死にたいと思うのは悪いことではない」
真由美さんが私の頭をポンポンと二回叩いた。
そのまま話を続ける。
「死は見えないだけで常に隣にいる。どんな人でも。キッカケがあれば簡単に命を失くせるし、追い詰めようと思えば言葉一つで突き落とせる。それぐらい脆いの、私たちの持ってるものは。こんな世知辛い世の中で、死にたいと思うのは普通のこと。口にしないだけで多くの人は抱えているんじゃないかな。その一歩を超えるか、超えないかの違いだけだよ。みんなバランスを取りながら境界線の上を歩いている。死にたいって言葉は間違いではないよ」
そんなこと言っちゃダメ。
そう言われると思った。
私の感情を肯定してくれたのかは分からないが、少しだけ救われた。
死の否定は、私にとって痛みが伴うことだから。
翔太くんを見ると、表情を覆う影がさっきよりも色濃く出ていた。
俯いた顔に死相を感じる。
「翔太くん、お母さん、菜月ちゃんに会ってみます?」
真由美さんがそう言うと、二人は怪訝に顔を見合わせた。
「娘に会う? どういうことですか」
真由美さんは鞄のファスナーを開けると、水晶を取り出した。
白い光を力強く放っている。
「何これ……」
菜月ちゃんのお母さんは、驚いた様子で光を見ている。
「菜月ちゃんの部屋は二階ですか?」
「はい」
「もしかしたらそこにいるかもしれないですね。入らせてもらってもいいですか?」
♦︎
私たちは二階へと上がり、菜月ちゃんの部屋の前に来た。
「ここだね」
水晶が一層光を強める。
「開けますね」
真由美さんは部屋のドアを開けた。
モノトーンで揃えられた八畳ほどの部屋。
ベッドと机と本棚が置かれたシンプルなレイアウトだった。
部屋に足を踏み入れると、視界の隅で何かが落ちた。
目を向けると本棚の前にノートが落ちている。
表紙には『日記』と書かれていた。
翔太くんはノートを拾いあげ、憂いた目で表紙を眺める。
その手は、恐怖を表すかのように震えていた。
「おばさん、言わないといけないことがあります」
「何?」
「菜月が亡くなった日……」
翔太くんが何かを言おうとした時、突風のようなものが勢いよく吹きつけた。
窓は閉まっており、風が吹く隙間もない。
目にかかった前髪を払って翔太くんに視線を戻すと、手に持っていたノートが開かれていた。
今の風で捲られたのかもしれない。
開かれたページに目をやると、
【翔太、ごめんね】
【また迷惑をかけてしまった】
【こんな人間生きてる価値ない】
自責と卑下で埋め尽くされた文章。
そのほとんどが翔太くんに関するものだった。
「菜月……」
翔太くんが零すように嘆いた。その目には薄らと涙が見える。
「梨紗」
真由美さんを見ると、天井の隅を差していた。
指先を目で辿ると、煙状のものを纏った白い球体が浮遊している。
「魂?」
「そう。白いでしょ? これが白」
「菜月ちゃんってこと?」
「それはまだ分からないけど、たぶんそうだと思う」
黒い魂とは雰囲気が違った。こっちはどこか切なさが漂う。
それと、白い魂は翔太くんを見ているように感じた。
何か伝えたいことがあるような、そんな想いも。
「何か見えるんですか?」
菜月ちゃんのお母さんは、怪訝そうに天井の隅を見ていた。
みんな視認していると思ったが、そうではないらしい。
翔太くんも不思議そうに視線を彷徨わせている。
「今から魂を回収します。きっと菜月さんのものだと思われるので、水晶に納めた後、彼女に会えますよ」
直樹くんの言葉に、翔太くんと菜月ちゃんのお母さんは顔を見合わせた。
何を言っているか分からないと言った表情で。
「梨紗、長羽織貸して」
真由美さんに渡すと、直樹くんがこちらを見た。
「この長羽織は魂に憑かれないために羽織るんだ。白の場合なら大抵は大丈夫だけど、たまに霊納師に憑こうと考える魂もいるから」
今日のは大丈夫だと思うけど、と直樹くんは付け加えた。
「みなさん僕の後ろに下がっていてください。何もないと思うけど、一応」
私たちが壁際に寄るのを確認すると、直樹くんは人さし指と中指を立てた。
「現」
そう唱えると、指の間に護符が現れる。
前とは違って文字は書かれていない。
「手品ですか?」
菜月ちゃんのお母さんは目を丸くしながら、直樹くんに問う。
「僕たちは自死専門の霊能者です。それぞれに特殊な力が備わっていて、これはその一つです」
直樹くんの言葉に、菜月ちゃんのお母さんは眉根を寄せる。
「いつでもいいですよ」
直樹くんが言うと、長羽織を羽織った真由美さんは水晶を体の前に突き出した。
「降りてきて。伝えたいことがあるなら」
真由美さんが言った直後、天井の隅にいた魂が下へと降りてくる。
「彷徨いし魂よ、白納式により、現世に繋がれし枷を今外そう。導くは霊納の師。魂を納め霊界へと逓送する」
魂を覆っていた白い煙状のものが人間の形に変わっていく。
「何これ……」
菜月ちゃんのお母さんは表情に驚きを映していた。
翔太くんも言葉を失ったような様子だ。
もしかしたら、今は魂が見えているのかもしれない。
「水晶よ。白き魂を納めたまえ」
言下、魂は徐々に水晶へと吸い込まれていく。
「ここまでよくぞ耐え抜いた。来世の花は清く美しく、強さを持って根を張ることを祈ろう」
切望の込もる言葉から十数秒後、魂は水晶へと納められた。
「終わったよ」
真由美さんは一仕事終えたような顔で直樹くんに言った。
「消」
直樹くんがそう唱えると、指に挟んだ護符が消える。
「この後は霊憑師に魂を預けます。そこで菜月さんに会えると思います」
二人は茫然と立ち尽くしていた。
まるで夢を見ているような、そんな表情で。
「本来なら魂は亡くなった場所に留まるの。ここにいるってことは、何か伝えたいことがあるんだと思う。たぶん翔太くんにじゃないかな」
真由美さんの言葉に翔太くんは反応した。
夢から現実に戻り、失意の底に落ちたように顔を俯かせて。
突如、紫の光が下から照らし出した。
胸元を見ると、光を帯びだ勾玉が浮かんでいる。
指で掴むと光は消え、淡い紫の美しい石に戻った。
【奥村翔太】
翔太たちは真由美の家に来ていた。
十畳ほどの和室が二部屋連なっており、仕切りの襖が開いているため、今は広々としている。
縁側の先には木枠のガラス戸があり、そこから庭が見える。
雨に打たれた淡いブルーの紫陽花が並び、夜の世界に薄らと色彩をもたらしていた。
翔太の心の中では焦燥と自責の念が渦巻いている。
喉元の言葉を携えたまま数週間を過ごし、日を追うごとに自らの心臓をきつく締めていた。
菜月に会えると言われたが、正直疑っている。
だがさっきの光景を見ると、もしかしたらという気持ちもあった。
もし菜月が自分の前に現れたら……
そう考えると、心の中で何かが蠢くようだった。
部屋の隅には、梨紗と真由美が座っている。
真由美は胡座をかいて、畳を小刻みにトントンと叩いていた。
表情からは苛立ちが見てとれる。
入り口の襖が開くと、直樹と菜月の父・大場一郎が入ってきた。
菜月の母である美穂が連絡をし、仕事が終わり次第こちらに来ることになっていた。
「翔太くんまで来てたのか」
翔太は一郎に会釈をする。
「お掛けになってお待ちください」
直樹がそう言うと、困惑した様子で一郎は美穂の隣に座った。
「菜月に会えるってどういうことだ?」
「私もまだよく分からないんだけど、菜月の魂を見たの」
「魂?」
一郎は眉を顰め、訝しがった目で美穂を見た。
「あのバカはいつ来るの」
真由美の怒気を含んだ声が部屋に響く。
「もうすぐ来るとは言ってたんですけど……」
直樹は気まずそうに頭を掻きながら答えた。
「お待たせして申し訳ありません。これから憑霊師と呼ばれる人が来るんですが、その人が魂を憑依させ、菜月さんに会わせてくれます。でも少し遅れているみたいで……」
直樹が翔太たちの前に来て説明した。
詫びた表情で、申し訳なさそうに。
「そういう類のものは否定しません。だけど、そういったものに入るつもりもありません。申し訳ありませんが、今日は帰らせていただきます」
一郎は毅然とした態度で言った後、立ち上がった。
直樹は両手を前に出して、制止するように言葉を繋ぐ。
「待ってください。そういう類のものと言えばそうなんですが、でもそういう類のものでもなくてですね……なんて言えばいいのか窮するんですが……」
「美穂、帰るぞ。翔太くんも」
一郎は直樹の言葉を弾くように翔太たちを促すが、美穂がその腕を掴む。
「大丈夫、信じて。菜月に会えるから」
「菜月が亡くなって辛いのは分かるが、こんなの霊感商法にきま……」
ドンッ、ドンッ
一郎の言葉を遮るように、ガラス戸が叩かれた。
一同が視線を庭の方に向けると、傘を差した三十代半ばの男性が立っている。
黒の法衣を纏い、気怠い表情であくびをしている。
手にはスーパーの袋を持っており、お菓子の箱のようなものが見えた。
「来た」
直樹は縁側に駆けていき、ガラス戸を開ける。
男は傘を閉じガラス戸に立てかけると、裸足で部屋に上がった。
「いやー、近所の婆さんが家に上がっていけって言うから寄ったんだけどさ、まあ、話が長げーの。これ、お土産」
寝癖の付いた髪を掻きながら、スーパーの袋を直樹に渡した。
「ありがとうございま……」
「遅い! 京介」
真由美が怒号を上げた。
「まあそんなカリカリすんなよ。あとでお菓子あげるから」
「いらないから早く始めて」
「分かったからそんな怒るなよ。皺増えるぞ」
「うるせえクソ坊主。手だけ動かせ」
男はため息を吐き、再び気怠そうな顔をする。
「この人が憑霊師の八神京介さんです。こんなんですが、しっかりとやってくれるので安心してください」
直樹にそう言われたが、翔太と菜月の両親の顔には不安が溢れていた。
「水晶は?」
京介が聞くと、真由美が足元にあった水晶を掲げる。
「ん」
京介は手を出して『ちょうだい』というポーズをとる。
「お前が取りに来い」
京介は小さくため息を吐き、水晶を取りにいく。
「ちんたらすんな。早く取れ」
「直樹、こいつにカルシウム摂らせろ」
水晶を手に取った後、京介が言った。
「早くやれ、バカ京介」
「言われなくてもやるよ」
京介は水晶を胸の前に持ってくると目を瞑った。
一同は黙ったまま、視線を京介に集める。
「二体いるけど、どっち?」
数秒の空白を置いた後、目を開いて真由美に聞いた。
「女の子の方」
京介は周りを見渡し、梨紗に視線を固定させると「女子高生、そこ座って」と翔太たちの前を指した。
梨紗は戸惑いを見せながら移動する。
「お前が魂と一番波長が近い。影響なく憑依できる」
「憑依?」
梨紗は何を言われているか分からないようで、ぼんやりと聞き返した。
「憑依させると、その魂が持つ思考や感情が憑依者に伝わってくる。人によっては影響を受けて、精神が乱れる場合があるんだよ。だからできるだけ波長が合う人間が好ましい」
京介の説明を聞いた梨紗は、無言のまま何かを考えるように視線を落とした。
「嫌だったら僕か真由美さんが変わる。波長の問題だから性別関係なくできるし」
直樹の問いかけに、梨紗は首を横に振った。
「……大丈夫、私がやるから」
「ありがとう」
直樹がお礼を言うと、京介は梨紗の後ろに立った。
「じゃあ今から始める。女子高生、準備はいい……」
「あの」
翔太が声を上げた。
「なんだ?」
「始める前に、二人に言っておかないといけないことがあります」
翔太は菜月の両親に体を向ける。
心に不安と恐れが同居し、喉元にある罪悪感が唇を固く閉ざした。
「どうしたの、翔太くん?」
美穂の言葉に翔太は一瞬たじろいたが、恐れを飲み込み口を開く。
「ごめんなさい、菜月が自殺したの俺のせいなんです」
「どういうことだ、翔太くん」
「菜月が亡くなった日、実は会っていたんです。その時に酷いことを言ってしまった。たぶんそれが原因です」
菜月の両親は理解できていない様子だ。
目の前に落とされた言葉を反芻しながら、喉元で詰まらせているように見える。
「あの日、菜月から電話があって……」
翔太は菜月が自死した日のことを話し始めた。
*
翔太はバイト先の人たちとカラオケに来ていた。
六つ上のフリーターの先輩が就職するということで、みんなで送別会を開いていたからだ。
その先輩が歌っているのを聞いていると、スマホに着信が入った。
画面には【菜月】と表示されている。
「すいません、ちょっと出ます」
「うん」
隣に座っていた女の先輩に声をかけ廊下に出た。
部屋から少し離れると、スマホをスワイプして電話に出る。
「もしもし」
――今、何してるの?
菜月の声には陰りがあった。
この瞬間に翔太は察する。
「バイトの送別会でカラオケに来てる」
――そうなんだ。いいね、友達が多いと
不貞腐れたような声が鼓膜に響く。
「用が無いなら切るけど」
――もう生きてるの疲れちゃった
やっぱりそうだった。
菜月は死にたい気持ちが出ると、翔太に電話をかけてくる。
最近はそれに辟易としていた。
翔太自身も心が引きずられるようで、一緒にいることが耐えられなくなっていたから。
「次、翔太くんだよ」
声がして振り返ると、女の先輩が扉から顔を出していた。
「今、行きます」
翔太は電話に戻ると、「また後でかける」と言って切ろうとした。
――そっちを取るんだ。全然いいけど
菜月の声が翔太の指を止める。
「別に取るとかじゃない。優先順位とかないから」
――バイトの人たちを優先して。私は今日で死ぬから
翔太は頭を抱えた。
どこにも行けないように、言葉で足元を縛り付ける。
侵食していくように心が荒んでゆくのが自分でも分かった。
まるで呪いだ。もう、耐えられない。
このままでは自分が落ちていってしまう。
そうなる前に、決別をしなければいけない。
たとえ見えない暗闇に突き落すことになっても。
「今から行くから、待ってて」
星も月も姿を消した静かな夜の公園。
翔太は覚悟を編みながら、街灯が照らすベンチで菜月を待っていた。
「来てくれたんだ」
声に視線を合わすと、菜月の姿が目に入った。
隣まで来て、ベンチに腰を下ろす。
「ごめんね、いつも迷惑かけて」
翔太は息を吐いた。喉元の言葉を押し上げるように。
「分かってるなら、もうやめてくれないかな」
菜月は一瞬思考が止まったのか、キョトンした顔で翔太を見ていた。
「死にたいとか疲れたとか、うんざりなんだよ。こっちだって付き合いがある。いい加減一人で背負ってくれよ。もう耐えられない」
「でも……私には翔太しかいないし」
「そっちの学校で友達を作ればいいだろ。なんでいちいち俺に頼るんだよ。幼馴染っていっても、ただ家が近いだけだろ? 限界だよ、お前といるのは」
菜月の涙腺に涙が灯る。
それを見て感情が揺らいだが、強引に押さえつけて翔太は言葉を繋げる。
「構ってほしいだけだろ? 死にたいなら勝手に死んでくれ。どうせ死にはしないだろうけど」
菜月は何かを堪えるように唇を噛んでいた。
翔太の視界の隅にその姿が映り、再び心が揺らぐ。
「分かった……」
菜月は立ち上がると、そのまま背中を向けて去っていった。
声をかけようか迷ったが、それを見込んでの行動だと思い、翔太は言葉が出ないように口を固く閉じた。
「翔太」
菜月が振り向いて、こちらを見た。
「ごめんね、迷惑かけて」
夜に落ちた一雫の雨が、キラリと光って地面を濡らす。
菜月は目を拭い、静かに去っていく。
灯火が徐々に消えていくように、萎れた背中は夜に溶け込んでいった。
この一時間後、菜月は人生という物語にピリオドを打つ。
自らの手で。
*
翔太が話し終えると、沈黙が部屋を包んだ。
先ほどよりも強まった雨音が静寂を強調させる。
「あんなこと言わなければ、今も生きていたかもしれない。俺が菜月を殺したんです」
菜月の両親は言葉を失っていた。
その表情に、翔太の胸には痛みが走る。
「どういう事情があれ、生きてる時と死んだ後じゃ見えるものが変わる。そいつの今の言葉を聞いて、背負うもんを決めろ」
「はい……」
京介の言葉に、翔太は小さく頷いた。
「女子高生、今からお前の体に魂を憑依させる。憑依されてる間は意識はあるが、体を動かすことも話すこともできない。説明するのは、それくらいか」
「ごめんね、梨紗ちゃん。こんな大役を任せちゃって」
直樹が言うと、梨紗は視線を落としたまま口を開いた。
「菜月ちゃんの感情が知りたい。もしかしたら、同じものを持っているかもしれないから」
表情には憂いが見えるが、口調には希望のようなものが混じっていた。
青と灰色が絡みあうような、そんな感情が垣間見える。
「じゃあ、始めるぞ」
梨紗の後ろに立った京介が、水晶を突き出す。
「白納により納められし魂よ、これより転置の儀を執り行う。執行を務めるは憑霊の師。この儀にて万物の霊長へと魂を納める」
水晶から白い煙が出てくると、少しずつ梨紗に纏わりついていく。
「なんだこれは……」
一郎は驚愕していた。開いた口が微かに震えている。
煙は全身を覆い、梨紗の姿を見えなくした。
後ろに立っている京介がその場を離れると、煙が徐々に薄くなっていく。
翔太の鼓動は早まった。
ドクン、ドクンと心臓が波打ち、手のひらは雨に濡れたように汗をかいている。
隔てていた煙が霧散すると、翔太と菜月の両親は声を上げた。
死んだはずの菜月が現れたから。
翔太が知っている憑依とは違った。
意識だけが降りてきて姿形は変わらない。
だが目の前にいるのは、どこからどう見ても菜月だ。
色素の薄い青みがかった瞳、日を浴びたことがなような白い肌、つぼまったような薄い唇。
髪の毛は腰のあたりまで伸びており、憑依というより変身だった。
「菜月……」
翔太の漏れた声に反応するように、菜月は顔を上げる。
「菜月なの?」
美穂が言うと、菜月は薄い唇を開いた。
「うん、そうだよ」
美穂は目に涙を浮かべ、口を押さえている。
「久しぶり、翔太」
菜月は優しく微笑み、翔太に目を向けた。
「ごめん菜月。あの時ちゃんと向き合っていれば、今もお前は……」
「翔太のせいじゃない」
翔太は下げていた頭を上げ、再び菜月を見る。
「翔太には色んなものを背負わせちゃったね。ダメだって分かってたのに、その優しさに甘えてた。本当にごめん」
翔太は罪悪感から顔を俯かせた。
心に埋め尽くされた自責の念で、菜月の言葉を受け止めることができなかったから。
「たくさん迷惑かけて縛り付けたのは私。だから自分を責めないで。翔太がいたから、ここまで生きてこれた。感謝してる、今も」
「でも、俺があんなに酷いことを言ったから、菜月を死なせてしまった。殺したのは俺だよ」
――言葉一つで突き落とせる
真由美の言っていた言葉が脳裏を掠めた。
幼馴染を自分が殺した。
こんな人間が生きてていいのか。
菜月が亡くなってから今日まで、罪悪感と共に過ごしてきた。
それは命を圧迫するように翔太の中で肥大し続け、いつからか死というものが見えるようになった。
今も心臓に手をかけ、いつでも握り潰せる位置で待機している。
「私が死んだのは翔太のせいじゃない。あの後、もう一度謝ろうと思ったの。でも交差点を通った時、急に死にたいって気持ちが出てきた。そしたら、道路に飛び出してたの。でも翔太の言葉がきっかけになったわけじゃない。これだけは絶対に言える。死んでからも縛り付けたくないから、もう忘れて。それと、死のうなんて考えないで。翔太には生きていてほしい」
表情や言葉から察したのか、それとも心を見透かしているのかは分からないが、菜月は翔太の気持ちを感じ取っていた。
それが救いのように思えた。
澱んでいた感情に隙間ができ、そこに言葉が注ぎ込まれ、未来という芽が育つ。
暗闇を歩いていた翔太は、一筋の光を当てられたようだった。
「本当にごめん」
翔太の目から涙が零れた。
感情と想いが詰め合わされた、梅雨のような雨が。
「謝らないで。追い詰めてたのは私だから。自分のことばかりで、翔太のことを考えてあげられなかった。本当にごめんね。こんな私のそばにいてくれて感謝してる。ありがとう」
翔太は無言で首を振った。
「救えなくてごめん」
「ううん、十分救ってくれたよ」
生きていたときには見れなかった菜月の穏やかな笑顔。
雨上がりに映る、澄んだ空のようだった。
「お母さんとお父さんにも、たくさん苦労かけちゃったね」
「そんなことない」
美穂は目を拭いながら答える。
「私を産んだことを後悔していると思う。死にたいって言葉を繰り返しては、お母さんを泣かせて、勝手に癇癪を起こしては、お父さんに八つ当たりする。最低な娘だった。せめて親孝行の一つくらいできたら良かったけど、それもできずに死んじゃった。ごめんね、二人から幸せを奪ってしまって」
一郎と美穂の啜り泣く声が部屋に降る。
その音が切なく、場の空気すら湿らせているようだった。
「菜月とは喧嘩ばかりだったが、産まれてきてくれて感謝してる」
「私もお父さんと一緒。私たちの娘が菜月で良かった」
ありがとう、菜月は笑顔で返した。
「私が生きてるときは旅行とかできなかったでしょ? お母さんは北海道に行きたいみたいだから、連れてってあげて。確か温泉入りたいって言ってたよね? 私調べたんだよ。定山渓ってところが有名みたいで、札幌市街地から一時間くらいかかるみたいなんだけど、紅葉が見れるんだって。きっと料理も美味しいだろうし、ゆっくりできると思う」
「分かった。必ず連れていく」
一郎は声を震わせながら頷いた。
「お願い」
菜月はそう言った後、翔太に視線を送った。
「翔太にもお願いがあるの」
「何?」
「この体を借りてる子を助けてあげて。生きてるときの私と似てる」
翔太はその意味が分からなかった。
「今は精神が繋がってる。だからさっきの女子高生の感情が、この子にも分かるんだよ」
怪訝な顔でいたからか、京介が補足するように言葉を発した。
「すごく悲しんでる。今にも死にそうなくらい。そういう時って、どうやったら死ねるかで頭が埋め尽くされる。それ以外に絶望から逃げる術を持っていないから。私は死んでから考え方が変わった。もっとお洒落しとけばよかったって後悔してるし、好きな人とデートして、たくさん思い出を作りたかったって思う。でも死にたいって時は、そんなことを考えるスペースがないの。この子はもうすぐ埋め尽くされる。生きていても辛いことばかりで苦しいけど、私みたいにはなってほしくない。この子が救われる場所を作ってあげて。後悔は生きてるときにしてほしい。まだ掴むことができるから」
「分かった」
翔太が力強く返答すると、菜月の指から白い煙が出始める。
「これは?」
一郎が京介に問いかける。
「憑依者の精神が拒絶してる。ここらが限界だな」
「もう終わりってことですか?」
「これ以上憑依を続けると精神がもたない。言い残したことはないか?」
菜月は両親に目を向ける。
「お父さん、お母さん、ここまで育ててくれてありがとう。二人の娘になれて良かった」
「その言葉だけで救われる」
「ああ」
最後に別れの言葉を聞けたからか、二人の表情に陰りはなかった。
菜月は翔太に視線を移動させる。
「翔太、もう背負わないで。散々わがままを聞いてもらったけど、これが最後のお願い。それと……幸せになってね」
「ありがとう、菜月」
菜月は屈託のない笑顔を見せた。
別れを惜しむのではなく、背中を押すように。
「もういいか?」
「はい」
京介は菜月の後ろに立ち、水晶を前に出した。
「万物の霊長に宿りし魂よ、転置の儀・返納により、その魂を水晶へと帰す。現世での最後の刻、見届けるは霊憑の師。来世の空では黎明の光が射すことを祈ろう」
京介が唱えると、菜月の全身から煙が出始めた。
次第に量が増え、徐々に姿が見えなくなってくる。
翔太は目に焼きていた。
これから覚悟を持って生きるために。
自分が課せられた約束を守るために。
胸の中で蠢いていた死は、今は息を潜めている。
いずれ動き出すかもしれないが、隣にある小さな芽を育て、自らの力で光を灯せるようにしたい。
翔太はそんな想いを抱きながら、幼馴染に視線を送っていた。
「バイバイ」
菜月の最後の言葉が合図になるように、煙は勢いよく渦を巻き、全身を覆って姿を見えなくした。
そして、水晶の中に吸い込まれていき、煙の中からは梨紗が現れた。
「お疲れ様。終わったよ」
煙がすべて納まると、直樹が声をかけた。
梨紗はゆっくりと目を開き、顔を上げる。
その表情は草臥れた花のように、どこか憂鬱気だった。
【泉梨紗】
「本当にありがとうございました」
玄関に並ぶ、翔太くんと菜月ちゃんの両親。
大人二人の顔は澄んだ空のように晴れていた。
翔太くんは何か言いたそうに、唇を噛んでいる。
「少し楽になりました。最後に菜月の笑顔が見れて良かったです」
菜月ちゃんのお父さんは嬉々として言った。
「いーえ、お構いなく」
「なんでお前が言うんだよ」
真由美さんが誇らしげに言うと、京介さんが頭に手刀を入れた。
「頭叩くんじゃねー、バカ京介」
「うるせえ、バカ美」
「やるかこの野郎、表出ろ」
「ああ、やってやるよ」
「恥ずかしいんで、後にしてもらえます」
直樹くんが言うと、二人は舌打ちをして罵り合いをやめた。
「じゃあ、私たちはこれで」
菜月ちゃんの両親は頭を下げ、玄関から出て行こうとした。
だが翔太くんはその場に留まっている。
「翔太くん、帰ろう」
「先に帰ってください。少し話したいので」
翔太くんは菜月ちゃんのお母さんに言った後、私に視線を向けた。
夜に降る雨は涙に似ている。
悲しみを携え、啜り泣くような音で鼓膜を濡らす。
私と翔太くんは縁側に座り、雨粒に打たれる紫陽花を見ていた。
居間では真由美さんたちがお茶を飲んでくつろいでいる。
「菜月の感情って、どんな感じだった?」
雨音の隙間を縫うように、翔太くんが聞いていた。
「温かい。温度はないけどそんな感じだった」
求めていたものとは違う感情。
その温かさでは、私は息をすることもできない。
ただ溺れていくだけ。
今も心苦しく、胸の中で悶えている。
「悲しみや痛みを感じたかったの。そうしたら少しは楽になれるから。だけどより孤独が強くなった。私の上だけに雨が降っているようで」
雨のように冷たく、泥のように濁った、そんな想いに浸かりたかった。
もっと死に触れたい。
自分だけじゃないと分かれば、この痛みも和らぐような気がするから。
「菜月は俺のことを許してくれた。だけどこの先、心の底から喜べることはないかもしれない。幸せを感じることがあっても、『自分だけいいのか』って気持ちは出てくると思うから」
菜月ちゃんは翔太くんを責めていなかった。
それは言葉から判断したのではなく、感情が澄んでいたから。
曇りなく言葉を伝えていた彼女に、澱んだ気持ちが見当たらなかった。
翔太くんのこれからを案じ、幸せを願う想いで溢れていた。
死ぬことができたら、私もそうなれるんだろうか。
「菜月は違うって言ってたけど、俺の言葉が引き金になったのは事実だと思う。これからはその報いとして、人を救えるような人になりたい。今日まで死にたいって考えてた。罪悪感に耐えられなくて逃げ出したかったから。そう思う日がまた来るかもしれない。でもその時に、同じ想いを持っていた人が今も生きてるって知れば、躓いても立ち上がれると思う。だから……生きていてほしい」
切望が編み込まれた言葉が、目の前に差し出された。
縫い目は拙いが、懸命さは伝わる。
だけど、どうしたらいいのかは分からない。
私自身が死にたいと望んでいるから。
「生きろとか簡単に言うべきではないけど、今はそれ以外に言葉が見つからない」
さっきまで同じ想いを抱いていた。
だが彼は、違う道を指して私に手を差し伸べようとしている。
もし掴むことができたら、私は救われるのだろうか。
こんなガラクタが生きていていいのだろうか。
私に価値なんてない――
死に背中を向けようとすると、そんな言葉が頭をよぎる。
そしてまた振り向いて、希死念慮に足を踏み入れる。
自分でもどうしたいのか分からない。
死以外に望むものは?
本当に欲しいものは?
生きた先で求めるものは?
産まれてすぐに死にたいって思ってた?
もし苦しみがないなら生きたいと思う?
疑問が思考に絡みつき、出口の見えない森の中に入ったようだった。
「よいしょ」
京介さんが、私と翔太くんの間に座った。
「死を考えてる人間からしたら、暗闇の中を歩いているのと一緒だ。先も見えねえし、逃げる場所も探せない。でも死だけははっきりと見える。救うためには光を射して死をぼやけさせ、新しい道を見つけさせる」
確かに死ははっきりと見える。
あとは掴むだけ。
「俺は生きろなんて言葉は使わない。死にたい人間からしたら重荷でしかないからな」
翔太くんが俯くと、京介さんは頭をポンポンと叩いた。
「だけどな、長い雨を歩き続けた奴の言葉なら、同じ言葉でも色が変わる。そいつなら、胸につっかえてるもんを外せるかもしれねえな」
あとこれも覚えとけ、と京介さんは付言する。
「死を纏った人間の言葉には力が宿り、それがいつか誰かの道に変わる。だからお前は生梦葵に選ばれた。まあ、俺の持論だけど」
京介さんは私の小指にある、リボン結びの印を見ていた。
「じゃあ、帰るわ」
「送って行きますよ」
京介さんが立ち上がるのに合わせ、直樹くんが言った。
「いいよ。それよりも行かなきゃなんねえ場所があるだろ」
京介さんは真由美さんを見た。
場所とは? そう思っていると真由美さんが立ち上がる。
「行こうか、菜月ちゃんが亡くなった場所に」
しとしと、と雨が降る国道の交差点。
陰鬱な空気が立ち込めており、心臓に手をかける死がギュッと掴んできたような気がした。
交差点に入ってくる赤い軽自動車のヘッドライトが、傘を差す私たちを照らして通り過ぎていく。
ここで菜月ちゃんは命を破り捨てた。これ以上物語を綴れないように。
「やっぱりそうか」
真由美さんはガードレール下の献花を見ている。
微かだが、黒い煙が漂っている。
「前にここで自殺した人間がいる。その魂が菜月ちゃんを引っ張っていった」
黒い煙は黒という魂だった。
怨念を宿し、他者の魂を喰らう。
「なんで分かるんですか?」
「生きてる人間を死へと導こうとする魂がいるんだ。僕たちはそれを黒と呼んでる。しかもこの魂は霊師に見つからないように、陰の気を最小限に留めている。死を抱えていた菜月ちゃんは、運悪く見つかってしまった」
翔太くんの問いに、直樹くんが答えた。
「もしここにいたら、魂が喰われてたの?」
続けて私が質問する。
「うん、そうなるね。でも伝えたいことがあったから、この場から離れることができた」
そうなっていたら、彼女は来世で産まれてこない。
心の片隅に羨望が湧いた。
生きなくてもいいと宣言されているから。
でも彼女はどうなのだろう。
死にたいと願って現世を彷徨っていたが、死んだ後はそう見えなかった。
生きているときに纏わりついていたものが堕ちたからだろうか。
だが、自死した後の魂は脆くなると真由美さんが言っていた。
結局、地獄に戻ってくることになるなら、喰われてしまったほうが良かったのかもしれない。
「翔太くんがいなかったら、きっと菜月ちゃんに会うことはできなかったと思う。ご両親も」
直樹くんは優しさを滲ませた口調で言った。
「菜月ちゃんはもう一度謝ろうとしてたって言ったでしょ?」
真由美さんは翔太くんに視線を向けた。そのまま話を続ける。
「だけどここに来たら、急に死にたい気持ちが出てきた。それは黒に憑かれたからであって、翔太くんの言葉が引き金になったわけじゃない。だから背負う必要はないよ」
「そうかもしれません、だけど……」
翔太くんは献花を見下ろした。
「それでも背負っていきます。菜月の分まで生きないといけないから。それにもう一人じゃない。前よりは軽くなったので」
翔太くんは私に目をやった。
その目には、意志が宿っているような力強さが見える。
「『追い詰めようと思えば言葉一つで突き落とせる』私がそう言ったの覚えてる?」
「はい」
「これは逆もしかり。言葉一つで誰かを救うこともできる。特に今の翔太くんなら」
「そうなれるように頑張ります」
真由美さんと直樹くんは微笑んでいた。
死を超えた人間を出迎えるように。
「じゃあ俺は歩いて帰ります。家すぐそこなので」
「気をつけて」
「はい」
翔太くんが再び私を見る。
「何かできるわけじゃないけど、愚痴くらいは聞けるから」
そう言い残して、彼は去っていった。
「じゃあ、回収するか」
「水晶と長羽織持ってきますね」
直樹くんは道路脇に停めていた車へと向かう。
「死は超えられる。少し道を逸れれば、生きる理由を作れるから」
真由美さんは零すように、私の耳に言葉を添えた。
魂の回収が終わり、車で家へと向かう。
雨はいつの間にか止んでおり、濡れた街に街灯の明かりが反射していた。
「梨紗のおかげで一人救われたね」
助手席に座る真由美さんは手に水晶を持っている。
透明だった水晶は黒い煙で充満していた。
「私は何もしてない」
ただ勾玉に導かれただけだ。
「梨紗ちゃんが翔太くんのことを見つけたんだよ。だから変えることができた」
変えたのは菜月ちゃんや京介さんだ。
価値のない私では、誰かの人生を灯すことなどできない。
「救ったとしても、その先に何かあるのかな?」
二人に聞いたというより自問に近かった。
もし今の苦しみから抜け出すことができても、また新しい苦しみがやってくる。
人生はその繰り返し。
駅のホームに立つ大人たちの顔を見れば、希望などないと分かる。
「無かったはずの道を交差させ、行けなかった場所へと導く。その先で救われる命もあるし、生きていて良かったって思える人もいる。たった一人かもしれないけど、その命が新しい命を授けることだってあるし、誰かの生きる道に変わることもある。命の先には、また別の命があるの。梨紗だから作れたんだよ。その道の始まりを」
”梨紗だから“この言葉に少しだけ甘えたい。
否定を浴びながら生きてきた自分にとって、存在を肯定してもらえることは特別なことだから。
少しだけ心の痛みが和らいだような気がした。
「その指の印は、人を繋ぎ、変化を与え、命を結ぶ。そういう意味があるんだ。僕たちは魂を見つけることはできても、死にたいと思う人間を探すことはできない。梨紗ちゃんがいなければ翔太くんは死を選んでいた。生きることは難しいことだけど、それでも彼は生の舵をとった。そして今は、梨紗ちゃんが生きる理由になってる。人を救いたいという道を見つけて」
誰かの人生に私がいる。
石ころのような存在だった私が。
不思議な感覚を携えた心が、光を探しながらゆらゆらと彷徨っているようだった。
居間で朝食をとる。
普通の出来事かもしれないが、私にとっては非日常だった。
あの場所にいたときは家族と顔を合わせたくなかったから、起きてすぐに家を出た。
かと言って学校に早く着けば、再び息苦しい檻の中に入ることになる。
だから歩を遅め、時間ギリギリに辿り着くよう調整した。
でも今は、屋根のある場所でゆっくりと過ごすことができる。
冷たい雨を凌ぎながら。
「はい、これ」
居間に入ってきた直樹くんが巾着を渡してきた。
中はお弁当だろう。
「ありがとう」
「弁当箱洗わなくていいからね。そのまま置いといていいよ」
藤本たちにシャー芯を入れられため、学校の洗い場で綺麗に洗った。
直樹くんには知られないよう、入念に。
「偉いね、梨紗。私なら、直樹に洗えって押し付けるけど」
前に座ってる真由美さんが、モグモグしながら言った。
「真由美さんはちゃんと家事してください。昨日も食器洗ってなかったでしょ?」
「本当は洗いたいんだけど、この綺麗な指が荒れるのは直樹も嫌でしょ? だから仕方なく」
「荒らしてください。なんなら荒廃してほしいです」
直樹くんが言うと、真由美さんは私の肩にもたれかかった。
「ひどい男だよね。こんな綺麗なお姉さん相手に荒廃しろだって。たぶん私はシンデレラの生まれ変わりなんだ」
真由美さんは嘆きながら、卵焼きを口にした。
「シンデレラは家事やってましたから。どちらかと言ったら僕の方が生まれ変わりです」
「おいコラ、カボチャの馬車で町内引きずり回すぞ」
「真由美さんは絶対、継母の方です」
家族というのはこんな風に会話をするのだろうか。
冗談を言ったり、ふざけあったり、穏やかな言の葉を交わしながら、なんでもない会話に花を咲かせる。
自分が歩んできた道を振り返ると、萎れた花ばかりが並んでいた。
触れば傷が付くような、痛みを伴う花。
偉人やスポーツ選手などの名言は、きっと誰かの背中を押すのだろうと思う。
でも私にとっては、道ばたに咲く小さな花の方がとても美しく見えた。
「直樹くん」
「何?」
「……お弁当美味しかった」
汚されてしまったが、それでも食べた。
そして言いたかった。
私のために作ってくれたものだから。
「ありがとう」
直樹くんではなく、なぜか真由美さんが言った。
「僕が作ったんですけど」
「なんで言うの? 言わなければ分からないのに」
「じゃあ、明日は真由美さんが作ってください」
「やっぱり私はシンデレラの生まれ変わりなんだわ」
真由美さんが私の肩に顔を埋める。
「虐げられた演出はいらないので、早く食べてください。どうせ食器を洗うの僕なんですから」
「早くガラスの靴がほしい。今日買いに行こう」
「自分で買うものではないですから。王子が持ってくるんですよ」
「じゃあ王子とセットで買おう」
「王子売ってないですから。早く食べてください」
平穏な日常が私の前に広がっていた。
凪いだ海のような心休まる景色。
目には見えない傷口が、少しだけ塞がったような気がした。
今にも雨が降りそうな空の下を歩き、昇降口へと入る。
下駄箱を見ると、いつもの景色が目に入った。
廃棄されるはずのゴミたちが、私の上履きに降り積もる。
数センチの幸せを感じた朝だったが、すぐに雨に流されていく。
先ほどまでの光景が悠遠のようだ。
ゴミに手を伸ばそうとした時、後ろから声をかけられた。
「泉さん、おはよう」
樋口さんが笑顔を携えて歩いてくる。
「おはよう……」
挨拶を返すと、樋口さんの顔が強張った。
何か怒らせるようなことをした?
だが考えてもなにも見当たらない。
樋口さんは私の方へと歩み寄り、右腕を伸ばしてきた。
――お前みたいな人間は生きてる価値なんてない
父に首を絞められたことが頭をよぎり、咄嗟に首元を守る。
樋口さんの手は私の首――を通り過ぎて、下駄箱に捨てられたゴミを掴んでいた。
「これ捨てとくね」
紙パックのジュースやペットボトル、空き缶にビニール袋。
それらを抱え、下駄箱脇のゴミ箱へと捨てた。
「本当に暇だよね。もっと有効に時間を使えばいいのに」
「ありがとう」
樋口さんは澱みのない笑顔を見せてきた。
気にしなくていいよ、そんな風に言われているような気がした。
「あっ」
樋口さんのブレザーの袖には液体のようなものが付いていた。
「汚れてる……」
「ああ、これね。さっきジュース飲んでたらこぼしちゃって。高校生にもなって子供みたいだよね」
優しい嘘だった。
そんなシミは付いていなかったし、明らかに今付いたものだと分かる。
本当なら私が汚れないといけない。
彼女は関係ないのだから。
「ごめん……」
「行こうか」
私の言葉は聞こえていたはずだった。だが彼女は反応しなかった。
何も言わず共に濡れてくれる。それが嬉しかった。
教室へと向かうため階段を上がっていると、藤本たちが上から降りてきた。
私と樋口さんは壁際に寄り、顔を見ないように上る。
「あんたよく学校来れるね」
藤本の嗄れた声が、鼓膜を引っ掻く。
「バカって鈍感だから、傷付かないんだよ」
追従するように、中山が侮辱を吐き捨てる。
なぜこの人たちは、他人の気持ちを見ようとしないのだろうか。
たとえ傷口が浅く見えても、その深さは私にしか分からない。
藤本と中山の嘲笑う声が遠ざかっていき、忘れていた息をフーっと吐くと、ざわめいていた不安と恐怖が腰を下ろした。
「ごめんね、何も言えなくて」
前にいた樋口さんが背中越しに言ってきた。
その肩は怯えるように震えていた。
昼休みになり、鞄を持ってすぐさま教室を出ようとした。
また弁当を汚されたくなかったから。
「泉」
その声に希死念慮が胸の中で蠢く。
恐る恐る振り向くと、藤本と中山が歪んだ笑みを浮かべながら近づいてくる。
寒気がゾワっと背中をなぞる。
藤本はノートの間に指を入れ、もう片方の手を下に添えている。
中に何か入っているのか、零さないように慎重に歩いていた。
「見て」
私の前に来ると、藤本はノートを広げた。
そこには大量の消しカスが山積みされている。
「泉のためにたくさん作ったんだよ。美味しそうでしょ?」
狂ってる。
なんでこんな無駄な労力を使うのだろう。
暇を潰したいなら、いくらでもあるはずなのに。
「弁当出して、かけてあげる」
「ダメ……」
直樹くんが私のために作ってくれたものだ。
もう無駄にはしたくない。
「そっか、仕方ないね」
思っていた反応とは違った。
潔く諦めたんだろうか。
私は藤本の顔を見た。
彼女は笑みを浮かべている。
それが恐怖心に火を付けた。悍ましさを感じたから。
「じゃあ……直接食べて」
語尾を跳ねさせ、ぶりっ子のような口調で言った。
「できない……」
自分の声が震えていた。
連動するように、指先も小刻みに揺れる。
「早く食べなよ」
中山が煽る。
「それは食べるものじゃない」
なんでこんな当たり前のことを言わないといけないのだろうか。
もう高校生だ。
そんなこと知っているはずなのに。
いつの間にか周りは静かになっていた。
教室を出ていく生徒もいる。
何人かの生徒の視線を感じるが、関わりたくないというのが空気感で伝わってくる。
「は?」
藤本の声は怒気を帯びていた。
「じゃあさ、食べさせて上げようよ」
中山がそう言うと、藤本は片方の口角を上げた。
「そうだね。泉は甘えん坊だから、食べさせてほしいんだね」
言下、中山が私を羽交い締めにした。
肩にかけていた鞄が床に落ちる。
「やめて」
「早く口開いてよ。食べれないでしょ」
中山が楽しそうな声で言う。
糸で結ぶように固く閉じていたが、藤本が口に指を入れてきて、無理やり開かされる。
「よく噛んで食べてね。梨紗ちゃん」
ノートが傾きかけ、山積みにされた消しカスが微かに動いた時だった。
「もうやめよう」
その声に藤本の手が止まる。
同時に、中山の手が緩んだのを感じ、その隙に腕を振り解いて離れる。
「なんだよ、樋口」
藤本の視線の先には、顔を引きつらせて立っている樋口さんがいた。
その目には強い怒りが宿っているように見える。
「こんなことしても、なんの意味もない」
樋口さんの声は震えている。
「は?」
藤本が苛立ちを見せながら聞き返す。
「人のことを傷つけたら、自分たちが傷付くだけだよ。人は鏡だから、その行いは必ず返ってくる。他人の痛みなんて外からじゃ分からない。勝手に判断して、見ようとしないだけでしょ。心に痛みが伴う傷は一生消えないの。お願いだから、これで終わりにして」
静寂に包まれた教室の視線は、樋口さんに集まっていた。
窓から入り込む風が、ビューっと音を立てて通り過ぎていく。
私の心の中にある言葉を彼女が代弁してくれたからか、いくつもの見えない傷が反応する。
積りに積もった汚れた言葉たちが溶け始め、埋もれていた感情に光が射すようだった。
「調子に乗んなよ、樋口」
藤本は持っていたノートを床に叩きつけた。
消しカスが散らばり、黒い海ができる。
「偉そうに説教垂れてんじゃねーぞ。そういうの一番ムカつくんだよ」
藤本は樋口さんの胸ぐらを掴むと、
「マジで、やってやろうか」
と、脅しをかけた。
樋口さんは藤本の目を真っ直ぐ見ていた。
だが手は震えている。
「こいつ、やっちゃっていいよね?」
藤本は中山を見て言った。
「いいよ。やっちゃって」
藤本は再び樋口さんを見ると、手を振り上げた。
そして、そのまま振り下ろす。
「ダメ!」
藤本の手のひらは、樋口さんの頬に当たる寸前で止まった。
人生で初めてだったかもしれない。
こんなに大きな声を出したのは。
「もうやめて、樋口さんは関係ないから」
藤本は私の方へと足を向ける。
目の前まで来ると、苛立ちを浮かべながら口を開く。
「じゃあ、お前ならいいんだな」
そう言って手を振り上げた。
私は目を瞑り、歯を食いしばる。
だが、振り下ろされることはなかった。
目を開けると、振り上がった藤本の手を平田が掴んでいた。
「明日香?」
「樋口の言う通りだよ」
「え?」
藤本は困惑している。中山も同様に目を瞬かせていた。
私も状況が飲み込めず、茫然と立ち尽くすだけだ。
「今までやり過ぎた。もう泉には手を出させない」
そう言い残して、平田は教室を出ていった。
「ちょっと明日香、どういうこと」
藤本と中山も教室を出ていくと、急に全身の力が抜けて、私は床に膝をついた。
「大丈夫、泉さん」
樋口さんが駆け寄ってきて、心配そうに尋ねてきた。
「うん……」
彼女たちがいなくなった教室には、名状し難い余白が残された。
放課後になると覆っていた灰色の雲は消え、陽の光が地上へと降り注いでいた。
憂うような六月に、夏の足音が聞こえてきそうな青空が広がる。
荒れていた感情は落ち着きを取り戻し、心音は凪いだ海のように、のどやかに波を打つ。
「泉さん」
下校する生徒たちに混じり校門をくぐると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、樋口さんが走ってくるのが見えた。
「一緒に帰らない?」
その言葉に感情が揺れる。
でもいつものような青ざめるものではなく、春が装飾するような青い揺れ方だ。
「うん……」
高校に入学してから、学校の人と肩を並べて下校することはなかった。
普通のことなのかもしれないが、私にとってはイベントに近い。
何を話していいかも分からず、緊張の糸が絡まるようだった。
頭の中で言葉を探がしていると、藤本に貸した千円のことを思い出した。
私のお金が奪われそうになった時、樋口さんが代わりに差し出した千円。
孤独に降る冷たい雨の中に飛び込み、私に傘をさしてくれた。
あの優しさは、絶対に忘れない。
「これ」
お財布から取り出した千円札を渡そうとすると、彼女は首を横に振った。
「泉さんに貸したわけじゃないから」
「でも……」
「大丈夫」
樋口さんは笑顔を浮かべた。温かさを感じる太陽のような笑み。
私はどうしていいか分からず、お札を持った手が宙を彷徨っていた。
「仕舞って、本当に大丈夫だから」
「うん……」
千円札をお財布に仕舞い、鞄に戻す。
「これからは、普通に学校来れるね」
昼休み以降、藤本たちに何かをされるということはなかった。
昇降口で遭遇したときも、空き缶をゴミ箱に捨てていて驚いた。
それは当たり前なのだが。
「樋口さんのおかげ」
「ううん、泉さんが今日まで耐えてきたからだよ。だから私も勇気を出すことができた。ごめんね、もっと早く助けられなくて」
普通なら見て見ぬふりをする。
雨を避け、濡れない場所で傍観しながら、ただ時間が経つのを待つ。
私はそうしてきた。
彼女たちと混じり合わないように。
だからこそ自分の上に雨が降った時、私は助けを求められなかった。
都合よく、傘を貸してとは言えないから。
「私は樋口さんみたいにはなれない。誰かに手を差し伸べるって簡単なことではないから。ありがとう、樋口さんがいてくれて助かった」
「うん……」
樋口さんは頬を赤らめていた。
照れ隠しなのか、彼女は少しだけ足を早めて空を見上げた。
「いい天気だね」
視線を上げると、澄んだ青が微笑んでいた。
灰色に満ちていた世界には白い雲が浮かび、空を泳ぐように流れている。
影を祓うような光が、曇った目に差し込み、濁りを濾過して景色の純度を上げる。
止まない雨はない。
ずっと厭わしかったその言葉が、今日は優しく感情を撫でる。
太陽なんて見れないと思っていた。
晴れた空はこんなにも綺麗で、私が知らない色を教えてくれた。
家に着き、居間の襖を開けると、真由美さんと直樹くんがお茶を飲みながらテレビを見ていた。
「おかえり」
二人の声が重なって耳に届いた。
「ただいま」
何気ないやりとりに花が咲く。
日常の中に当たり前に落ちているものは、私にとっては価値のあるものだ。
道端の石ころでさえ、今はダイアモンドのように輝いている。
腰を下ろし、テレビに目を向ける。
生放送の番組で若手俳優がインタビューを受けていた。私は芸能に疎いので名前は分からない。
「晩御飯作るの面倒くさいから、食べに行かない?」
「いつも作ってるの僕なんですけど」
「こないだ作ったじゃん」
「レトルトでしょ」
「愛情込めて、電子レンジに入れたから」
「その愛情届いてないです」
二人のやり取りを耳に入れていると、テレビに女の人が映った。
すごく綺麗な人だった。凛としていて佇まいも美しい。
インタビューを受けているので、女優の人なんだと思う。
「梨紗、この人知ってる? 最近よく出てるんだよ」
「それ僕が教えたんでしょ」
「あんまりテレビ見ない」
「神田川洋子っていうんだよ」
「神原優花です。誰ですか洋子って」
そうなんだと思っていると、胸のあたりから紫を帯びた光が視界に入った。
首にぶら下げていた勾玉をYシャツから取り出す。
二人も光に気づいたようで、勾玉に視線を送っている。
「来たか」
「来ましたね」
勾玉が光を放つときは、誰かが死を選ぼうとしている。
私の役目はそれを止めること。
「梨紗ちゃん、大丈夫?」
「うん」
勾玉を握ると、二人が手を重ねてきた。
「見るね」
私はそう言った後、息を吐いてからゆっくりと目を瞑った。
*
部屋にはカーテンが開かれた大きな窓があり、夜景の光が暗い部屋を照らしている。
見下ろすようにビルなどが建っており、高い階層に住んでいることが分かる。
ソファの前には女性が座っており、ローテーブルには市販薬と思われる錠剤の瓶が大量に置かれていた。
すべての蓋は空けられている。
彼女はその中の一つ手に取り、勢いよく口に運ぶと、次々と薬を口の中へと流し込む。
テレビボードに置いてあるデジタル時計は23時17分と表示されていた。
*
目を開くと、真由美さんと直樹くんはテレビに視線を送っていた。
そこには、インタビューを受ける一人の女性が映っている。
「ですよね」
「うん、この子だ」
二人は驚きを隠せない様子だった。
それは私も一緒だ。
勾玉が見せた死は、女優の神原優花だった。
居間の隣にある八畳の和室。
小さなローテーブルの上には、モダンな面持ちをした仏壇が置かれていた。
中には大場菜月の写真が飾られており、制服姿で微笑んでいる。
奥村翔太はりんを鳴らした後、丁寧に手を合わせる。
目を瞑ると線香の香りが一層強く感じ、幼馴染の死を改めて実感した。
「笑ってる写真がこれしかなかったの」
菜月の母である美穂が、翔太の隣に座って言った。
目を開いて写真に視線を合わせると、ざわめくように胸中が揺れたのが分かった。
「翔太くん、来てくれてありがとね」
皺を強調させた笑みが、翔太の胸に刺さる。
「いえ」
「でも毎日来なくてもいいのよ。子供の頃からの付き合いとはいえ、そこまでしなくてもいい」
「はい……」
翔太は顔を俯かせ、絞るように声を出した。
「おばさん。言わないといけないことがあって……」
「何?」
「菜月は……」
そこから言葉に詰まった。
喉元に引っ掛かり、うまく出せない。
「どうしたの? 翔太くん」
「いえ、なんでもないです。もう帰りますね」
そう言い残して、翔太は家を後にした。
雨と日曜日が重なり、今日はいつも以上に客足が悪かった。
翔太のバイト先である居酒屋は、駅から十分以上歩くため、週末以外は飛び込みの客は少ない。
先輩二人と翔太は店長に早上がりを告げられ、予定よりも二時間ほど早く切り上げることになった。
更衣室を出ると、着替え終わるのを待っていた先輩たちが視界に入る。
「お待たせしました」
「この後、カラオケ行くんだけど、翔太くんもどう?」
束ねていた栗色の髪を解きながら、女の先輩が聞いてきた。
「ごめんなさい、今日は帰ります」
「そっか、また今度誘うね」
「はい。お疲れ様です」
会釈してその場を去ろうとすると、二人の会話が背中から聞こえてくる。
「あいつ最近、付き合い悪いな」
「幼馴染が亡くなったんだって」
「そうなんだ」
「しかも自殺らしい」
「マジ」
二人の声が鼓膜に触れると、波紋のように黒い何かが感情に広がっていった。
胸の中を蝕むように這いずりまわり、心臓が大きく波を打つ。
傷口に言葉が付着し、自責という炎症を起こして、ジワジワと痛みが浸透していく。
自分のことを知っている人の側から早く離れたい。
そう思い、翔太は足早に店を出ていった。
糸を引くような細い雨が、ガードレール下の献花を濡らしていた。
花弁から滴り落ちる雫が、まるで泣いているように見える。
国道の交差点。
幼馴染が車に轢かれた場所。
傘を差しながら、翔太は献花を見下ろしていた。
そして記憶を辿る。
後悔が滲む、菜月との最後の日を。
「ここで最近、人が死んだらしいよ」
「えっ、また」
後ろを通った女性二人の話し声が、雨音を縫って翔太の耳に入る。
心臓にヒビが入るように痛みが拡散していく。
罪悪感が感情に影を作り、死神が囁くように産み落とす。
黒く濁った、死という名の腫瘍を。
【泉梨紗】
悲観を纏う雨雲が、境界線のように空と地上を二分する。
曇ってはいるが、今日の空は泣いていなかった。
今にも涙を零しそうだが。
玄関で靴を履き替えていると、バタバタとした足音が後ろから聞こえた。
「間に合った。はい、これ」
直樹くんは肌触りのいいベージュの巾着を渡してきた。
持ってみると少し重い。
「何これ?」
「お弁当。飲み物は好きなもの買って」
五千円札が目の前に差し出された。
前とは肖像が変わり、新しい女性が描かれている。
「こんなに貰えない」
「今月のお小遣い。高校生にどれだけ渡していいか分からないから、真由美さんと相談して、とりあえず五千円にした。友達と遊ぶなら足りないかな?」
「大丈夫」
友達なんていないから。
「ありがとう」
私がそう言うと、直樹くんは微笑んだ。
五千円を財布に仕舞い、鞄に入れる。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
久しく聞いていなかったその言葉。
いつ以来かさえ覚えていない。
「行ってきます」
私は戸惑いを見せながら、玄関のドアを開けた。
静かな教室には筆記音が響く。
黒板に書かれた数式を、生徒たちがノートに写している。
私は後で見ても理解できるように、矢印を使いながら補足を追記する。
余白を多めにとり、最後は要約を添えた。
顔を上げた時、後頭部に何かが当たる。
下を見ると丸められた紙が落ちていた。
そして煩わしい笑い声が耳に入る。
きっと藤本だろう。
今日も下駄箱に紙パックのジュースが捨てられていた。
見慣れた光景だから、もう気にすることもなくったが。
チャイムが鳴ると、生徒たちの顔が晴れるたように明るくなった。
次は昼休みだからだろう。
「次回はここの続きから始めるからな」
教師が出ていくと、生徒たちの声が四方から聞こえ出す。
私は鞄を持ち、存在を消すように扉の方へと向かった。
「泉」
悪魔の声が背中を叩く。
足音を携えて、死の匂いを撒き散らしながら。
「財布忘れたから、お金貸して」
振り向くと藤本がいた。後ろには中山もいる。
「こないだの分、返してもらってない」
「あれは奢ってくれたんじゃん。美味しかったよ、クリームパン」
「人聞きの悪い言い方はよくないよ。私たちが泉のこといじめてるみたいじゃん」
中山は笑みを浮かべながら、顔を近づけてきた。
「お金ないから、買ってこれない」
言下、藤本が私の鞄をひったくる。
「やめて」
取り返そうとするが、中山に羽交い締めをされ身動きが取れなくなる。
藤本は楽しそうな顔で鞄の中を漁り、財布を取り出した。
周りの生徒たちは見てみぬふりをする。
いじめられる前の私と一緒。
だから助けてなんて言えない。
藤本は中を開け、五千円札を手に取った。
「なんで嘘つくの? 私たちのこと騙したんだ」
「それは絶対にダメ。返して」
取りに行こうとするが、中山の力が強まり近づけない。
藤本は私の言葉を無視して五千円札をブレザーに仕舞い、さらに鞄の中を漁った。
そして巾着に入った弁当を取り出す。
「弁当じゃん。珍しいね、泉」
机に弁当箱を置き、蓋を開ける。
色彩豊なおかずが並び、丁寧に作られたのが分かるほど、綺麗なレイアウトだった。
「もっと美味しくしてあげるよ」
藤本は近くの生徒の筆箱を手に取った。
奪われた子は何も言えず俯いている。
中からシャーペンの芯が入ったケースを取り出すと、中身を全部取り出し、折り始めた。
何をするか一瞬で想像がついた。
それだけはさせてはいけない。
「やめて」
大声を上げると、中山は私を投げ飛ばした。
「うるせえよ泉。黙って見てろ」
顔を上げると、藤本は細かく折ったシャー芯を弁当にかけていた。
「わあ、美味しそう」
中山が手を叩きながら言う。
藤本はかけ終わると、床に尻を着く私の前に弁当を置いた。
季節の花を散らすように、黒ずんだ雨が色彩を奪っていた。
あれだけ美しかったものが、簡単に汚れてしまう。
もしこの世界に神様がいるのなら問い掛けたい。
なぜ、壊す側の方が景色を決めれるのか?
なぜ、人は他人の平穏に影を差すのか?
なぜ、死にゆく体に命を与えたのか?
もはや神は無関心なのかもしれない。
小さい世界の片隅で生きる、価値の無い人間には。
「美味しそうでしょ?」
そう尋ねる藤本の顔は笑っていた。
沈黙で返すと、藤本は私の頬を掴む。
「美味しそうだよね? そういう時はなんて言うの? 私が丹精込めたんだよ」
「……ありがとう」
藤本は手を離し、満足そうな顔をした。
「お前、ヤバっ」
中山のほくそ笑んだ顔が視界に映る。
「早く購買行こうぜ」
「明日香も行こ……」
「待って」
二人の会話に誰かが声を挟んだ。
視線を移すと、財布を持った樋口さんが藤本たちの前に立っていた。
「私が貸す」
そう言って、樋口さんは千円札を取り出して藤本に差し出した。
「は? いらねえよ」
「五千円ってことは、今月分のお小遣いかもしれない。それを全部取ったら泉さんが何もできなくなる。それに、これだけ大勢の人が見てるなら、誰かが先生に言うかもしれない。もうすぐ受験でしょ? そしたら影響するんじゃないかな」
藤本は一考した。
しばらく考えたのち、舌打ちをして樋口さんの千円札を奪うように取った。
五千円はクシャクシャに丸めて私の前に放り投げる。
「良かったね、泉。優しい樋口さんが貸してくれたよ」
吐き捨てるように言った後、藤本と中山は教室を出て行く。
樋口さんを見ると、安堵したように大きく息を吐いていた。
目が合うと、彼女は私の前に来て目線を合わせるように腰を下ろす。
「ねえ、私のお弁当食べる? 今日あまりお腹空いてなくて。食べてくれると助かるんだけど」
私は首を横に振った。
気を遣ってくれてるのが分かったから。
五千円札をブレザーに仕舞い、弁当を持って立ち上がる。
「ありがとう、助かった」
そう言い残し、私は教室を出て行った。
その際、平田の顔が視界に入る。
悍ましい表情で、視線を刺すように送っていた。
私ではなく樋口さんに。
校庭の手洗い場まで行き、おかずの一品、一品を洗う。
シャー芯まみれのご飯は流石に食べれなかったので、ゴミ箱へと廃棄した。
心苦しい思いで。
弁当を受け取った時は顔に出さなかったが、少しだけ感情が跳ねていた。
久しく作ってもらえなかったもの。
だから、おかずだけは口にしたい。
「美味しかった」
その一言を言いたいから。
卵焼きを洗い終え、付いた水滴を指で拭った後、口に運んだ。
冷たかったが、ほんのり甘い家庭的な味が口の中に広がる。
その瞬間、涙が頬を伝った。
残らず消えてしまう、一雫の透明な傷跡。
ずっと堪えてきた雨が、優しさに触れてぽつりと落ちる。
自分のために時間をかけてくれたものを汚してしまったこと、それを守れなかった不甲斐なさ。
その二つが同時に込み上げ、罪悪感が胸中を渦巻いた。
頭に浮かぶ直樹くんに謝罪しながら、再び卵焼きを口に運ぶ。
二口目は、少しだけしょっぱかった。
昇降口を出ると、さめざめとした雨が地面を濡らしていた。
雲が覆う空は、なぜか悲しく見える。
「雨降ってるじゃん」
「最悪」
下校する生徒たちの愚痴が耳に入る。
今日に限って折り畳みの傘を忘れてしまった。
そこまで強くないので走って帰るか、もう少し様子を見て弱まるのを待つか。
迷っていた時、肩にかけていた鞄が誰かに奪われた。
視線を向けると、藤本だった。
私が声を出そうとした時には遅く、鞄は雨の中に飛んでいった。
「よっしゃー、新記録! 鞄投げ大会優勝できるかも」
「そんな競技ないから」
後ろから中山と平田が歩いてきた。
「駅前のカラオケ行かない?」
「昨日も行ったじゃん」
「いいじゃん、行こうよ」
三人は何もなかったかのように傘を差して歩いていく。
笑い声で雨の音など聞こえていないだろう。
涙のように落ちる悲しい音色は、鈍感な人間には届かないから。
昇降口の屋根から体を晒し、濡れながら鞄を拾いに行く。
苦痛を凌ぐ場所にいたとしても、私には関係ない。
どんな所にいようとも、この命は他人の手の中にあるのだから。
空の悲しみ触れながら、私は鞄を見下ろした。
髪の毛も、制服も、荒んだ心も、蝕むように濡れていく。
このまま消えてしまいたい。水面に浮く泡のように。
鞄を拾おうとした時、雨が止んだ。
いや違う、目の前の雨粒は、はっきりと目に映っている。
「持ってて」
声が聞こえ振り向くと、樋口さんが立っていた。
差された傘の柄の部分を、私に差し出している。
言われるように傘を持つと、樋口さんはタオルを取り出し、私の鞄を拭いてくれた。
六十センチほどの雨を凌ぐ小さな世界。
優しさが冷えた心を撫でてくれる。
「はい」
樋口さんは、鞄と傘のケースを渡してきた。
「この雨も去って、いつか笑える日が来る。だから……もう少しだけ待ってて」
傘は使って、と言い残し、樋口さんは雨に濡れながら走り去っていった。
ありがとうとも言えず、私は彼女の背中をただ眺めることしかできなかった。
校門を出ると「梨紗ちゃん」という声が聞こえた。通りに止まった軽自動車が目に入る。
運転席の窓が開いており、直樹くんが手を振っている。
「傘持ってたんだ」
車の側まで行くと、助手席に座る真由美さんにそう聞かれた。
「うん……」
「でも少し濡れてるね。風邪引いちゃうから乗って」
直樹くんに言われ、傘を閉じてから後部座席に乗り込む。
隣には長羽織が置かれていた。
私がビルから飛び降りようとした日、その時に真由美さんが着ていたものだ。
白無地で、高級感が漂う。
「これで拭きな」
真由美さんが鞄からタオルを取り出し、渡してくれた。
ありがとうと言って受け取り、髪の毛を拭く。
「二人はなんでいるの?」
「これから魂の回収に行くんだ。家を出た時に雨が降ってきたから、梨紗ちゃんを迎えにいくついでに、一緒に周ろうと思って」
「魂の回収?」
真由美さんが水晶を掲げた。
「霊納師は魂を見つけることができるの。かっこいいでしょ?」
かっこいいとは思わなかったけど、一応頷いた。
「梨紗ちゃん、勾玉は持ってる?」
「うん」
「それが光ったら教えて。“誰かの死”を教えてくれるから」
「分かった」
「じゃあ行こうか」
しばらく走り、市役所通りに入った。
雨は霧のように変わり、視界を霞ませている。
「あっ」
真由美さんの声が車内に響く。
「反応しました?」
「うん、まだ弱いからもう少し先」
二人が何を話しているか分からず、ただ会話に耳を傾けていると、真由美さんが水晶を見せてきた。
水晶は光っており、弱々しく点滅している。
「魂に反応するの。近づくと光が強くなっていく」
「家からそんなに離れてないから、最近亡くなった魂ってこと?」
近くだったらすでに回収しているはずだ。
でも私は人の死を見てない。それが疑問だった。
「自死した場合、基本的にはその場に留まる。でもね、移動する場合もあるの。それは誰かに伝えたいことがある時。だから回収するのが難しかったりするんだよね」
「あと、魂が霊納師に見つからないようにするため、力を抑えて気を薄める場合もある。これも見つけづらい」
補足するように直樹くんが言った。
伝えたいこと……
それは死んだ後に、未練を残しているということなのだろうか。
せっかく命を放棄できたのに、それでもこの地獄に残る理由はなんなのだろう。
私だったら意識すら残さず、永遠の中で眠っていたい。
住宅街の中に入ると、水晶の光は一層強まった。
緊張感を煽るように、点滅は速度を上げる。
まるで心臓の鼓動のようだ。
「かなり近いね」
車はゆっくりと前進し、一軒、一軒、物色するように通り過ぎる。
「ここだ、止めて」
真由美さんが声を上げると、直樹くんは車を停止させた。
水晶を見ると、光は点滅を止め、常に灯った状態になっている。
真由美さんたちは窓の外を見ていた。
視線を辿ると、ブロック塀に囲まれた二階建ての白い家。グレーの乗用車が置かれており、後ろには小さな庭が見える。
表札には【大場】と記されていた。
「家の中ですかね?」
「たぶんね」
「ここからどうするの?」
素朴な疑問をぶつけると、直樹くんの口が開く。
「家の中に魂がいる場合、大抵が家族なんだ。だから知人のふりをして弔問に来たって言う。線香をあげに来ましたって」
「詐欺師みたい」
「悪いことするわけじゃないか……」
直樹くんが振り返って私を見ると、「あっ」という声を上げた。
「梨紗ちゃん、勾玉」
自分の胸元を見ると、Yシャツから紫の光が透けていた。
首からぶら下げた勾玉を襟もとから取り出すと、幻想的な淡い輝きを放っている。
「握って」
真由美さんに言われ、勾玉を握る。
「目を瞑ると人の死が見える。夢で見ていたように。前と違うのは、私たちもそれを共有できること」
真由美さんと直樹くんは、勾玉を握った私の拳に手を重ねてきた。
「あとは、梨紗ちゃんのタイミングで」
二人は目を閉じている。
私は小さく息を吸ってから、肺に溜まった酸素を静かに吐き出した。
そして、ゆっくりと瞼を閉じる。
*
咽び泣くような雨が夜を濡らしていた。
国道の交差点。
ガードレール下の献花を、傘を差した男の子が見下ろしている。
制服を着ており、歳は私と同じくらいに見える。
虚ろな目が印象的で、表情は暗く落ちていた。
彼は顔を上げると、目の前の道路を眺めた。
死にゆく人間の顔をしながら、絶望の淵に立つように。
交通量はさほど多くなく、見通しが良いからか、速い速度で車が通っていく。
赤い軽自動車が来た時、彼は傘を捨て道路へと飛び出した。
もう避けることができない距離で。
ヘッドライトに照らされていた彼の顔は、無表情に空を仰いでいた。
*
目を開き、現実へと戻る。
誰かの死を見た後は、名状しがたい余韻が残り、希死念慮に火が灯る。
それは今も一緒で、縋るように死に焦がれている。
私も同じように死の淵から飛び出し、命を溶かしてしまいたい。
「男の子ですね」
「うん。梨紗と同い年くらいだね」
真由美さんたちは私の拳から手を離した。
「梨紗、手を開いて」
握っていた手を開くと、勾玉が光りながら宙に浮いた。
そして首に下げていた紐だけを残し、空間に吸い込まれるように消えていった。
「えっ……」
「勾玉と梨紗の魂は連結してるから、どこにあるか感じるでしょ?」
私は家に視線を送った。
「もしかしてこの家から感じる?」
直樹くんが驚いた顔で聞いてきたので、私は痞えるように頷く。
「魂と自死を考えてる人間が同じ場所にいるってことだ」
「そんなことあるんですか?」
直樹くんが真由美さんに問いかける。
「自死した理由と、自死したい理由に関係性があるのかもしれない。だから魂がここに来た」
「早く行きましょう。手遅れになる前に」
「梨紗、長羽織持ってきて」
真由美さんは鞄に水晶を入れた。
二人が車から降りるのを見て、私も長羽織を持って外へと出る。
直樹くんが門扉の隣にあるインターホンを押すと、「はい」という女性の声が返ってきた。
「突然申し訳ありません。知人からご自宅を伺いまして、お線香だけでもと」
言葉の後、沈黙が横たわった。
もしかしたら家族の誰も亡くなっておらず、不審に思われているのかもと思った。
だが数秒の空白を超えると、「お待ちください」という声がスピーカーから聞こえてきた。
「良かった」
直樹くんは安堵の表情を見せ、大きく息を吐いた。
「やっぱり家族の誰かが亡くなってるってことだ」
「そうですね」
その人は自ら命を絶ち、魂となってこの家の中にいる。
正直、羨ましい。
自分はいつになったら、そっちへ行けるのだろう。
私は死という楽園への切符を一度落としてしまった。
真由美さんたちには悪いが、あの時に死んでいたらと考えてしまう。
生きることから逃げたいし、もう悩んだりすることも疲れてしまった。
静かに眠りたい。それだけを今も祈っている。
玄関の扉が開くと、五十代くらいの女性が出てきた。
真由美さんと直樹くんが頭を下げたので、私も倣う。
女性は目の前まで来ると、私の方に視線を向けた。
「高校のお友達?」
そう問われ、困惑した。
何を聞かれているか分からなかったから。
「ネットで知り合って何度か会ってるんです。彼女は学校は違うんですが、共通の友達から訃報を耳にしたらしく、それで僕たちも一緒にと」
直樹くんは澱みなく答えた。
よくそんなに早く思いつくなと、感心する。
だが今ので理解した。亡くなったのは子供だろう。
歳は私と近いのかもしれない。
「そうですか。ではどうぞ」
母親と見られる人は、門扉を開けて中へと招いてくれた。
真由美さんは親指を立てながら、「ナイス」と直樹くんに囁く。
リビングに案内されると、学生服を着た男性がダイニングに着いていた。
「あっ」
彼がこちらを振り向いた時、思わず声が出た。
勾玉の力で見た人だったから。
交差点で車の前に飛び出し、これから命を絶つであろう男の子。
「翔太くんと知り合い?」
「いえ……」
女性に聞かれ、私は咄嗟に首を振る。
翔太”くん“ということは息子ではないのかもしれない。
彼は背筋を正して座っており、自分の家というよりは他人の家に来ているという感じだ。
シャープな輪郭にキリッとした目、爽やかさがある健全な高校生という印象を受ける。
だが、雨が降る前の曇り空のように、表情には影が見えた。
「この子ですね」
「うん」
真由美さんと直樹くんが小声で話す。
翔太くんは私たちを見ると、会釈をした。
表情は暗いが、死ぬ人のようには思えない。
私には未来ある青年のようにしか見えなかった。
「こちらです」
女性がリビングの隣にある和室へと向かう。
後を付いていくと、小さなローテーブルの上に仏壇が飾られてあった。
中には写真が置いてあり、制服姿の女性が微笑んでいる。
「あっ」
私は再び、声を上げる。
「梨紗、どうした?」
「前に夢で見た人。確か二人目」
交差点で車に飛び出して亡くなった女子高生。
彼女の死の夢を見たのを思い出した。
そういえば、翔太くんが自死する場所も同じだったように思う。
「何かありました?」
「なんでもないです。線香あげさせてもらいますね」
女性に言われ、直樹くんが答える。
私たちは線香を香炉に立てた後、りんを鳴らして手を合わせた。
キーンという残響が耳に残る。
「今、お茶を出すので待っててください」
私たちが顔を上げると、女性が言った。
「おかまいな……」
「ありがとうございます」
直樹くんの言葉を遮り、真由美さんがお礼を言った。
二人の性格が垣間見える。
私たちはリビングに移動し、翔太くんの前に並んで座った。
彼は俯いており、なんとなくだが、目を合わせたくないのかと感じた。
「どうぞ」
沈黙の中、麦茶が運ばれてきた。
それぞれの前にグラスが置かれると、女性は翔太くんの隣に座った。
「わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「この度はお悔やみ申し上げます」
「まさか翔太くん以外に友達がいるとは思いませんでした。菜月は内気な子だったので、他人に心を開くことは滅多になかったから。母としてそれが心配で……」
菜月ちゃんのお母さんは寂しそうな目をして言った。
「そうなんですね。因みに菜月さんと翔太くんはどういった関係?」
翔太くんは顔を上げて直樹くんを見ると、「幼馴染です」と言って、再び顔を伏せた。
「みなさんは菜月とネットで知り合ったんですよね?」
「はい」
「今はそういう時代なんですね。そっちの方が菜月は合ってたのかしら」
あの……と、翔太くんが口を開く。
「菜月、何か言ってませんでした? 悩みだったり、友人関係のこととか。ネットだったらそういうの言いやすいと思うし、もし言っていたなら教えてください」
「何か言ってたような……」
真由美さんは口ごもりながら、視線を彷徨わせている。
「何て言っていました?」
「何て言ってたかな……あっ、そういえば、菜月ちゃんは直樹と仲良かったよね? 何か聞いてたんじゃない」
真由美さんのフリに、直樹くんが戸惑った顔をした。
「えっと……具体的には聞いてないけど、なんか辛そうだったのは感じたかな」
直樹くんは真由美さんを睨むが、知らん顔で受け流している。
「娘は死にたいが口癖で、その度に翔太くんが家まで来てくれていたんです。おかげで私たち家族は助けられていました。もし翔太くんがいなければ、菜月はもっと早くに命を絶っていたかもしれません」
顔の皺を寄せながら、切なげな笑みを浮かべて翔太くんを見た。
「亡くなった場所ってどこですか?」
「近くの交差点です。なんで自ら命を絶ったんだろう。生きていれば、いつか幸せになれるかもしれないのに」
「そのいつかを待つより、今の苦しみから逃げたいの。未来にある希望より、目の前の絶望に耐えられないから」
自然と言葉が出てきた。
空気の読めない発言に、周りが凍りついているのを感じる。
言葉が失われた空間には、どんよりとした重いものが漂っていた。
「死にたいと思うのは悪いことではない」
真由美さんが私の頭をポンポンと二回叩いた。
そのまま話を続ける。
「死は見えないだけで常に隣にいる。どんな人でも。キッカケがあれば簡単に命を失くせるし、追い詰めようと思えば言葉一つで突き落とせる。それぐらい脆いの、私たちの持ってるものは。こんな世知辛い世の中で、死にたいと思うのは普通のこと。口にしないだけで多くの人は抱えているんじゃないかな。その一歩を超えるか、超えないかの違いだけだよ。みんなバランスを取りながら境界線の上を歩いている。死にたいって言葉は間違いではないよ」
そんなこと言っちゃダメ。
そう言われると思った。
私の感情を肯定してくれたのかは分からないが、少しだけ救われた。
死の否定は、私にとって痛みが伴うことだから。
翔太くんを見ると、表情を覆う影がさっきよりも色濃く出ていた。
俯いた顔に死相を感じる。
「翔太くん、お母さん、菜月ちゃんに会ってみます?」
真由美さんがそう言うと、二人は怪訝に顔を見合わせた。
「娘に会う? どういうことですか」
真由美さんは鞄のファスナーを開けると、水晶を取り出した。
白い光を力強く放っている。
「何これ……」
菜月ちゃんのお母さんは、驚いた様子で光を見ている。
「菜月ちゃんの部屋は二階ですか?」
「はい」
「もしかしたらそこにいるかもしれないですね。入らせてもらってもいいですか?」
♦︎
私たちは二階へと上がり、菜月ちゃんの部屋の前に来た。
「ここだね」
水晶が一層光を強める。
「開けますね」
真由美さんは部屋のドアを開けた。
モノトーンで揃えられた八畳ほどの部屋。
ベッドと机と本棚が置かれたシンプルなレイアウトだった。
部屋に足を踏み入れると、視界の隅で何かが落ちた。
目を向けると本棚の前にノートが落ちている。
表紙には『日記』と書かれていた。
翔太くんはノートを拾いあげ、憂いた目で表紙を眺める。
その手は、恐怖を表すかのように震えていた。
「おばさん、言わないといけないことがあります」
「何?」
「菜月が亡くなった日……」
翔太くんが何かを言おうとした時、突風のようなものが勢いよく吹きつけた。
窓は閉まっており、風が吹く隙間もない。
目にかかった前髪を払って翔太くんに視線を戻すと、手に持っていたノートが開かれていた。
今の風で捲られたのかもしれない。
開かれたページに目をやると、
【翔太、ごめんね】
【また迷惑をかけてしまった】
【こんな人間生きてる価値ない】
自責と卑下で埋め尽くされた文章。
そのほとんどが翔太くんに関するものだった。
「菜月……」
翔太くんが零すように嘆いた。その目には薄らと涙が見える。
「梨紗」
真由美さんを見ると、天井の隅を差していた。
指先を目で辿ると、煙状のものを纏った白い球体が浮遊している。
「魂?」
「そう。白いでしょ? これが白」
「菜月ちゃんってこと?」
「それはまだ分からないけど、たぶんそうだと思う」
黒い魂とは雰囲気が違った。こっちはどこか切なさが漂う。
それと、白い魂は翔太くんを見ているように感じた。
何か伝えたいことがあるような、そんな想いも。
「何か見えるんですか?」
菜月ちゃんのお母さんは、怪訝そうに天井の隅を見ていた。
みんな視認していると思ったが、そうではないらしい。
翔太くんも不思議そうに視線を彷徨わせている。
「今から魂を回収します。きっと菜月さんのものだと思われるので、水晶に納めた後、彼女に会えますよ」
直樹くんの言葉に、翔太くんと菜月ちゃんのお母さんは顔を見合わせた。
何を言っているか分からないと言った表情で。
「梨紗、長羽織貸して」
真由美さんに渡すと、直樹くんがこちらを見た。
「この長羽織は魂に憑かれないために羽織るんだ。白の場合なら大抵は大丈夫だけど、たまに霊納師に憑こうと考える魂もいるから」
今日のは大丈夫だと思うけど、と直樹くんは付け加えた。
「みなさん僕の後ろに下がっていてください。何もないと思うけど、一応」
私たちが壁際に寄るのを確認すると、直樹くんは人さし指と中指を立てた。
「現」
そう唱えると、指の間に護符が現れる。
前とは違って文字は書かれていない。
「手品ですか?」
菜月ちゃんのお母さんは目を丸くしながら、直樹くんに問う。
「僕たちは自死専門の霊能者です。それぞれに特殊な力が備わっていて、これはその一つです」
直樹くんの言葉に、菜月ちゃんのお母さんは眉根を寄せる。
「いつでもいいですよ」
直樹くんが言うと、長羽織を羽織った真由美さんは水晶を体の前に突き出した。
「降りてきて。伝えたいことがあるなら」
真由美さんが言った直後、天井の隅にいた魂が下へと降りてくる。
「彷徨いし魂よ、白納式により、現世に繋がれし枷を今外そう。導くは霊納の師。魂を納め霊界へと逓送する」
魂を覆っていた白い煙状のものが人間の形に変わっていく。
「何これ……」
菜月ちゃんのお母さんは表情に驚きを映していた。
翔太くんも言葉を失ったような様子だ。
もしかしたら、今は魂が見えているのかもしれない。
「水晶よ。白き魂を納めたまえ」
言下、魂は徐々に水晶へと吸い込まれていく。
「ここまでよくぞ耐え抜いた。来世の花は清く美しく、強さを持って根を張ることを祈ろう」
切望の込もる言葉から十数秒後、魂は水晶へと納められた。
「終わったよ」
真由美さんは一仕事終えたような顔で直樹くんに言った。
「消」
直樹くんがそう唱えると、指に挟んだ護符が消える。
「この後は霊憑師に魂を預けます。そこで菜月さんに会えると思います」
二人は茫然と立ち尽くしていた。
まるで夢を見ているような、そんな表情で。
「本来なら魂は亡くなった場所に留まるの。ここにいるってことは、何か伝えたいことがあるんだと思う。たぶん翔太くんにじゃないかな」
真由美さんの言葉に翔太くんは反応した。
夢から現実に戻り、失意の底に落ちたように顔を俯かせて。
突如、紫の光が下から照らし出した。
胸元を見ると、光を帯びだ勾玉が浮かんでいる。
指で掴むと光は消え、淡い紫の美しい石に戻った。
【奥村翔太】
翔太たちは真由美の家に来ていた。
十畳ほどの和室が二部屋連なっており、仕切りの襖が開いているため、今は広々としている。
縁側の先には木枠のガラス戸があり、そこから庭が見える。
雨に打たれた淡いブルーの紫陽花が並び、夜の世界に薄らと色彩をもたらしていた。
翔太の心の中では焦燥と自責の念が渦巻いている。
喉元の言葉を携えたまま数週間を過ごし、日を追うごとに自らの心臓をきつく締めていた。
菜月に会えると言われたが、正直疑っている。
だがさっきの光景を見ると、もしかしたらという気持ちもあった。
もし菜月が自分の前に現れたら……
そう考えると、心の中で何かが蠢くようだった。
部屋の隅には、梨紗と真由美が座っている。
真由美は胡座をかいて、畳を小刻みにトントンと叩いていた。
表情からは苛立ちが見てとれる。
入り口の襖が開くと、直樹と菜月の父・大場一郎が入ってきた。
菜月の母である美穂が連絡をし、仕事が終わり次第こちらに来ることになっていた。
「翔太くんまで来てたのか」
翔太は一郎に会釈をする。
「お掛けになってお待ちください」
直樹がそう言うと、困惑した様子で一郎は美穂の隣に座った。
「菜月に会えるってどういうことだ?」
「私もまだよく分からないんだけど、菜月の魂を見たの」
「魂?」
一郎は眉を顰め、訝しがった目で美穂を見た。
「あのバカはいつ来るの」
真由美の怒気を含んだ声が部屋に響く。
「もうすぐ来るとは言ってたんですけど……」
直樹は気まずそうに頭を掻きながら答えた。
「お待たせして申し訳ありません。これから憑霊師と呼ばれる人が来るんですが、その人が魂を憑依させ、菜月さんに会わせてくれます。でも少し遅れているみたいで……」
直樹が翔太たちの前に来て説明した。
詫びた表情で、申し訳なさそうに。
「そういう類のものは否定しません。だけど、そういったものに入るつもりもありません。申し訳ありませんが、今日は帰らせていただきます」
一郎は毅然とした態度で言った後、立ち上がった。
直樹は両手を前に出して、制止するように言葉を繋ぐ。
「待ってください。そういう類のものと言えばそうなんですが、でもそういう類のものでもなくてですね……なんて言えばいいのか窮するんですが……」
「美穂、帰るぞ。翔太くんも」
一郎は直樹の言葉を弾くように翔太たちを促すが、美穂がその腕を掴む。
「大丈夫、信じて。菜月に会えるから」
「菜月が亡くなって辛いのは分かるが、こんなの霊感商法にきま……」
ドンッ、ドンッ
一郎の言葉を遮るように、ガラス戸が叩かれた。
一同が視線を庭の方に向けると、傘を差した三十代半ばの男性が立っている。
黒の法衣を纏い、気怠い表情であくびをしている。
手にはスーパーの袋を持っており、お菓子の箱のようなものが見えた。
「来た」
直樹は縁側に駆けていき、ガラス戸を開ける。
男は傘を閉じガラス戸に立てかけると、裸足で部屋に上がった。
「いやー、近所の婆さんが家に上がっていけって言うから寄ったんだけどさ、まあ、話が長げーの。これ、お土産」
寝癖の付いた髪を掻きながら、スーパーの袋を直樹に渡した。
「ありがとうございま……」
「遅い! 京介」
真由美が怒号を上げた。
「まあそんなカリカリすんなよ。あとでお菓子あげるから」
「いらないから早く始めて」
「分かったからそんな怒るなよ。皺増えるぞ」
「うるせえクソ坊主。手だけ動かせ」
男はため息を吐き、再び気怠そうな顔をする。
「この人が憑霊師の八神京介さんです。こんなんですが、しっかりとやってくれるので安心してください」
直樹にそう言われたが、翔太と菜月の両親の顔には不安が溢れていた。
「水晶は?」
京介が聞くと、真由美が足元にあった水晶を掲げる。
「ん」
京介は手を出して『ちょうだい』というポーズをとる。
「お前が取りに来い」
京介は小さくため息を吐き、水晶を取りにいく。
「ちんたらすんな。早く取れ」
「直樹、こいつにカルシウム摂らせろ」
水晶を手に取った後、京介が言った。
「早くやれ、バカ京介」
「言われなくてもやるよ」
京介は水晶を胸の前に持ってくると目を瞑った。
一同は黙ったまま、視線を京介に集める。
「二体いるけど、どっち?」
数秒の空白を置いた後、目を開いて真由美に聞いた。
「女の子の方」
京介は周りを見渡し、梨紗に視線を固定させると「女子高生、そこ座って」と翔太たちの前を指した。
梨紗は戸惑いを見せながら移動する。
「お前が魂と一番波長が近い。影響なく憑依できる」
「憑依?」
梨紗は何を言われているか分からないようで、ぼんやりと聞き返した。
「憑依させると、その魂が持つ思考や感情が憑依者に伝わってくる。人によっては影響を受けて、精神が乱れる場合があるんだよ。だからできるだけ波長が合う人間が好ましい」
京介の説明を聞いた梨紗は、無言のまま何かを考えるように視線を落とした。
「嫌だったら僕か真由美さんが変わる。波長の問題だから性別関係なくできるし」
直樹の問いかけに、梨紗は首を横に振った。
「……大丈夫、私がやるから」
「ありがとう」
直樹がお礼を言うと、京介は梨紗の後ろに立った。
「じゃあ今から始める。女子高生、準備はいい……」
「あの」
翔太が声を上げた。
「なんだ?」
「始める前に、二人に言っておかないといけないことがあります」
翔太は菜月の両親に体を向ける。
心に不安と恐れが同居し、喉元にある罪悪感が唇を固く閉ざした。
「どうしたの、翔太くん?」
美穂の言葉に翔太は一瞬たじろいたが、恐れを飲み込み口を開く。
「ごめんなさい、菜月が自殺したの俺のせいなんです」
「どういうことだ、翔太くん」
「菜月が亡くなった日、実は会っていたんです。その時に酷いことを言ってしまった。たぶんそれが原因です」
菜月の両親は理解できていない様子だ。
目の前に落とされた言葉を反芻しながら、喉元で詰まらせているように見える。
「あの日、菜月から電話があって……」
翔太は菜月が自死した日のことを話し始めた。
*
翔太はバイト先の人たちとカラオケに来ていた。
六つ上のフリーターの先輩が就職するということで、みんなで送別会を開いていたからだ。
その先輩が歌っているのを聞いていると、スマホに着信が入った。
画面には【菜月】と表示されている。
「すいません、ちょっと出ます」
「うん」
隣に座っていた女の先輩に声をかけ廊下に出た。
部屋から少し離れると、スマホをスワイプして電話に出る。
「もしもし」
――今、何してるの?
菜月の声には陰りがあった。
この瞬間に翔太は察する。
「バイトの送別会でカラオケに来てる」
――そうなんだ。いいね、友達が多いと
不貞腐れたような声が鼓膜に響く。
「用が無いなら切るけど」
――もう生きてるの疲れちゃった
やっぱりそうだった。
菜月は死にたい気持ちが出ると、翔太に電話をかけてくる。
最近はそれに辟易としていた。
翔太自身も心が引きずられるようで、一緒にいることが耐えられなくなっていたから。
「次、翔太くんだよ」
声がして振り返ると、女の先輩が扉から顔を出していた。
「今、行きます」
翔太は電話に戻ると、「また後でかける」と言って切ろうとした。
――そっちを取るんだ。全然いいけど
菜月の声が翔太の指を止める。
「別に取るとかじゃない。優先順位とかないから」
――バイトの人たちを優先して。私は今日で死ぬから
翔太は頭を抱えた。
どこにも行けないように、言葉で足元を縛り付ける。
侵食していくように心が荒んでゆくのが自分でも分かった。
まるで呪いだ。もう、耐えられない。
このままでは自分が落ちていってしまう。
そうなる前に、決別をしなければいけない。
たとえ見えない暗闇に突き落すことになっても。
「今から行くから、待ってて」
星も月も姿を消した静かな夜の公園。
翔太は覚悟を編みながら、街灯が照らすベンチで菜月を待っていた。
「来てくれたんだ」
声に視線を合わすと、菜月の姿が目に入った。
隣まで来て、ベンチに腰を下ろす。
「ごめんね、いつも迷惑かけて」
翔太は息を吐いた。喉元の言葉を押し上げるように。
「分かってるなら、もうやめてくれないかな」
菜月は一瞬思考が止まったのか、キョトンした顔で翔太を見ていた。
「死にたいとか疲れたとか、うんざりなんだよ。こっちだって付き合いがある。いい加減一人で背負ってくれよ。もう耐えられない」
「でも……私には翔太しかいないし」
「そっちの学校で友達を作ればいいだろ。なんでいちいち俺に頼るんだよ。幼馴染っていっても、ただ家が近いだけだろ? 限界だよ、お前といるのは」
菜月の涙腺に涙が灯る。
それを見て感情が揺らいだが、強引に押さえつけて翔太は言葉を繋げる。
「構ってほしいだけだろ? 死にたいなら勝手に死んでくれ。どうせ死にはしないだろうけど」
菜月は何かを堪えるように唇を噛んでいた。
翔太の視界の隅にその姿が映り、再び心が揺らぐ。
「分かった……」
菜月は立ち上がると、そのまま背中を向けて去っていった。
声をかけようか迷ったが、それを見込んでの行動だと思い、翔太は言葉が出ないように口を固く閉じた。
「翔太」
菜月が振り向いて、こちらを見た。
「ごめんね、迷惑かけて」
夜に落ちた一雫の雨が、キラリと光って地面を濡らす。
菜月は目を拭い、静かに去っていく。
灯火が徐々に消えていくように、萎れた背中は夜に溶け込んでいった。
この一時間後、菜月は人生という物語にピリオドを打つ。
自らの手で。
*
翔太が話し終えると、沈黙が部屋を包んだ。
先ほどよりも強まった雨音が静寂を強調させる。
「あんなこと言わなければ、今も生きていたかもしれない。俺が菜月を殺したんです」
菜月の両親は言葉を失っていた。
その表情に、翔太の胸には痛みが走る。
「どういう事情があれ、生きてる時と死んだ後じゃ見えるものが変わる。そいつの今の言葉を聞いて、背負うもんを決めろ」
「はい……」
京介の言葉に、翔太は小さく頷いた。
「女子高生、今からお前の体に魂を憑依させる。憑依されてる間は意識はあるが、体を動かすことも話すこともできない。説明するのは、それくらいか」
「ごめんね、梨紗ちゃん。こんな大役を任せちゃって」
直樹が言うと、梨紗は視線を落としたまま口を開いた。
「菜月ちゃんの感情が知りたい。もしかしたら、同じものを持っているかもしれないから」
表情には憂いが見えるが、口調には希望のようなものが混じっていた。
青と灰色が絡みあうような、そんな感情が垣間見える。
「じゃあ、始めるぞ」
梨紗の後ろに立った京介が、水晶を突き出す。
「白納により納められし魂よ、これより転置の儀を執り行う。執行を務めるは憑霊の師。この儀にて万物の霊長へと魂を納める」
水晶から白い煙が出てくると、少しずつ梨紗に纏わりついていく。
「なんだこれは……」
一郎は驚愕していた。開いた口が微かに震えている。
煙は全身を覆い、梨紗の姿を見えなくした。
後ろに立っている京介がその場を離れると、煙が徐々に薄くなっていく。
翔太の鼓動は早まった。
ドクン、ドクンと心臓が波打ち、手のひらは雨に濡れたように汗をかいている。
隔てていた煙が霧散すると、翔太と菜月の両親は声を上げた。
死んだはずの菜月が現れたから。
翔太が知っている憑依とは違った。
意識だけが降りてきて姿形は変わらない。
だが目の前にいるのは、どこからどう見ても菜月だ。
色素の薄い青みがかった瞳、日を浴びたことがなような白い肌、つぼまったような薄い唇。
髪の毛は腰のあたりまで伸びており、憑依というより変身だった。
「菜月……」
翔太の漏れた声に反応するように、菜月は顔を上げる。
「菜月なの?」
美穂が言うと、菜月は薄い唇を開いた。
「うん、そうだよ」
美穂は目に涙を浮かべ、口を押さえている。
「久しぶり、翔太」
菜月は優しく微笑み、翔太に目を向けた。
「ごめん菜月。あの時ちゃんと向き合っていれば、今もお前は……」
「翔太のせいじゃない」
翔太は下げていた頭を上げ、再び菜月を見る。
「翔太には色んなものを背負わせちゃったね。ダメだって分かってたのに、その優しさに甘えてた。本当にごめん」
翔太は罪悪感から顔を俯かせた。
心に埋め尽くされた自責の念で、菜月の言葉を受け止めることができなかったから。
「たくさん迷惑かけて縛り付けたのは私。だから自分を責めないで。翔太がいたから、ここまで生きてこれた。感謝してる、今も」
「でも、俺があんなに酷いことを言ったから、菜月を死なせてしまった。殺したのは俺だよ」
――言葉一つで突き落とせる
真由美の言っていた言葉が脳裏を掠めた。
幼馴染を自分が殺した。
こんな人間が生きてていいのか。
菜月が亡くなってから今日まで、罪悪感と共に過ごしてきた。
それは命を圧迫するように翔太の中で肥大し続け、いつからか死というものが見えるようになった。
今も心臓に手をかけ、いつでも握り潰せる位置で待機している。
「私が死んだのは翔太のせいじゃない。あの後、もう一度謝ろうと思ったの。でも交差点を通った時、急に死にたいって気持ちが出てきた。そしたら、道路に飛び出してたの。でも翔太の言葉がきっかけになったわけじゃない。これだけは絶対に言える。死んでからも縛り付けたくないから、もう忘れて。それと、死のうなんて考えないで。翔太には生きていてほしい」
表情や言葉から察したのか、それとも心を見透かしているのかは分からないが、菜月は翔太の気持ちを感じ取っていた。
それが救いのように思えた。
澱んでいた感情に隙間ができ、そこに言葉が注ぎ込まれ、未来という芽が育つ。
暗闇を歩いていた翔太は、一筋の光を当てられたようだった。
「本当にごめん」
翔太の目から涙が零れた。
感情と想いが詰め合わされた、梅雨のような雨が。
「謝らないで。追い詰めてたのは私だから。自分のことばかりで、翔太のことを考えてあげられなかった。本当にごめんね。こんな私のそばにいてくれて感謝してる。ありがとう」
翔太は無言で首を振った。
「救えなくてごめん」
「ううん、十分救ってくれたよ」
生きていたときには見れなかった菜月の穏やかな笑顔。
雨上がりに映る、澄んだ空のようだった。
「お母さんとお父さんにも、たくさん苦労かけちゃったね」
「そんなことない」
美穂は目を拭いながら答える。
「私を産んだことを後悔していると思う。死にたいって言葉を繰り返しては、お母さんを泣かせて、勝手に癇癪を起こしては、お父さんに八つ当たりする。最低な娘だった。せめて親孝行の一つくらいできたら良かったけど、それもできずに死んじゃった。ごめんね、二人から幸せを奪ってしまって」
一郎と美穂の啜り泣く声が部屋に降る。
その音が切なく、場の空気すら湿らせているようだった。
「菜月とは喧嘩ばかりだったが、産まれてきてくれて感謝してる」
「私もお父さんと一緒。私たちの娘が菜月で良かった」
ありがとう、菜月は笑顔で返した。
「私が生きてるときは旅行とかできなかったでしょ? お母さんは北海道に行きたいみたいだから、連れてってあげて。確か温泉入りたいって言ってたよね? 私調べたんだよ。定山渓ってところが有名みたいで、札幌市街地から一時間くらいかかるみたいなんだけど、紅葉が見れるんだって。きっと料理も美味しいだろうし、ゆっくりできると思う」
「分かった。必ず連れていく」
一郎は声を震わせながら頷いた。
「お願い」
菜月はそう言った後、翔太に視線を送った。
「翔太にもお願いがあるの」
「何?」
「この体を借りてる子を助けてあげて。生きてるときの私と似てる」
翔太はその意味が分からなかった。
「今は精神が繋がってる。だからさっきの女子高生の感情が、この子にも分かるんだよ」
怪訝な顔でいたからか、京介が補足するように言葉を発した。
「すごく悲しんでる。今にも死にそうなくらい。そういう時って、どうやったら死ねるかで頭が埋め尽くされる。それ以外に絶望から逃げる術を持っていないから。私は死んでから考え方が変わった。もっとお洒落しとけばよかったって後悔してるし、好きな人とデートして、たくさん思い出を作りたかったって思う。でも死にたいって時は、そんなことを考えるスペースがないの。この子はもうすぐ埋め尽くされる。生きていても辛いことばかりで苦しいけど、私みたいにはなってほしくない。この子が救われる場所を作ってあげて。後悔は生きてるときにしてほしい。まだ掴むことができるから」
「分かった」
翔太が力強く返答すると、菜月の指から白い煙が出始める。
「これは?」
一郎が京介に問いかける。
「憑依者の精神が拒絶してる。ここらが限界だな」
「もう終わりってことですか?」
「これ以上憑依を続けると精神がもたない。言い残したことはないか?」
菜月は両親に目を向ける。
「お父さん、お母さん、ここまで育ててくれてありがとう。二人の娘になれて良かった」
「その言葉だけで救われる」
「ああ」
最後に別れの言葉を聞けたからか、二人の表情に陰りはなかった。
菜月は翔太に視線を移動させる。
「翔太、もう背負わないで。散々わがままを聞いてもらったけど、これが最後のお願い。それと……幸せになってね」
「ありがとう、菜月」
菜月は屈託のない笑顔を見せた。
別れを惜しむのではなく、背中を押すように。
「もういいか?」
「はい」
京介は菜月の後ろに立ち、水晶を前に出した。
「万物の霊長に宿りし魂よ、転置の儀・返納により、その魂を水晶へと帰す。現世での最後の刻、見届けるは霊憑の師。来世の空では黎明の光が射すことを祈ろう」
京介が唱えると、菜月の全身から煙が出始めた。
次第に量が増え、徐々に姿が見えなくなってくる。
翔太は目に焼きていた。
これから覚悟を持って生きるために。
自分が課せられた約束を守るために。
胸の中で蠢いていた死は、今は息を潜めている。
いずれ動き出すかもしれないが、隣にある小さな芽を育て、自らの力で光を灯せるようにしたい。
翔太はそんな想いを抱きながら、幼馴染に視線を送っていた。
「バイバイ」
菜月の最後の言葉が合図になるように、煙は勢いよく渦を巻き、全身を覆って姿を見えなくした。
そして、水晶の中に吸い込まれていき、煙の中からは梨紗が現れた。
「お疲れ様。終わったよ」
煙がすべて納まると、直樹が声をかけた。
梨紗はゆっくりと目を開き、顔を上げる。
その表情は草臥れた花のように、どこか憂鬱気だった。
【泉梨紗】
「本当にありがとうございました」
玄関に並ぶ、翔太くんと菜月ちゃんの両親。
大人二人の顔は澄んだ空のように晴れていた。
翔太くんは何か言いたそうに、唇を噛んでいる。
「少し楽になりました。最後に菜月の笑顔が見れて良かったです」
菜月ちゃんのお父さんは嬉々として言った。
「いーえ、お構いなく」
「なんでお前が言うんだよ」
真由美さんが誇らしげに言うと、京介さんが頭に手刀を入れた。
「頭叩くんじゃねー、バカ京介」
「うるせえ、バカ美」
「やるかこの野郎、表出ろ」
「ああ、やってやるよ」
「恥ずかしいんで、後にしてもらえます」
直樹くんが言うと、二人は舌打ちをして罵り合いをやめた。
「じゃあ、私たちはこれで」
菜月ちゃんの両親は頭を下げ、玄関から出て行こうとした。
だが翔太くんはその場に留まっている。
「翔太くん、帰ろう」
「先に帰ってください。少し話したいので」
翔太くんは菜月ちゃんのお母さんに言った後、私に視線を向けた。
夜に降る雨は涙に似ている。
悲しみを携え、啜り泣くような音で鼓膜を濡らす。
私と翔太くんは縁側に座り、雨粒に打たれる紫陽花を見ていた。
居間では真由美さんたちがお茶を飲んでくつろいでいる。
「菜月の感情って、どんな感じだった?」
雨音の隙間を縫うように、翔太くんが聞いていた。
「温かい。温度はないけどそんな感じだった」
求めていたものとは違う感情。
その温かさでは、私は息をすることもできない。
ただ溺れていくだけ。
今も心苦しく、胸の中で悶えている。
「悲しみや痛みを感じたかったの。そうしたら少しは楽になれるから。だけどより孤独が強くなった。私の上だけに雨が降っているようで」
雨のように冷たく、泥のように濁った、そんな想いに浸かりたかった。
もっと死に触れたい。
自分だけじゃないと分かれば、この痛みも和らぐような気がするから。
「菜月は俺のことを許してくれた。だけどこの先、心の底から喜べることはないかもしれない。幸せを感じることがあっても、『自分だけいいのか』って気持ちは出てくると思うから」
菜月ちゃんは翔太くんを責めていなかった。
それは言葉から判断したのではなく、感情が澄んでいたから。
曇りなく言葉を伝えていた彼女に、澱んだ気持ちが見当たらなかった。
翔太くんのこれからを案じ、幸せを願う想いで溢れていた。
死ぬことができたら、私もそうなれるんだろうか。
「菜月は違うって言ってたけど、俺の言葉が引き金になったのは事実だと思う。これからはその報いとして、人を救えるような人になりたい。今日まで死にたいって考えてた。罪悪感に耐えられなくて逃げ出したかったから。そう思う日がまた来るかもしれない。でもその時に、同じ想いを持っていた人が今も生きてるって知れば、躓いても立ち上がれると思う。だから……生きていてほしい」
切望が編み込まれた言葉が、目の前に差し出された。
縫い目は拙いが、懸命さは伝わる。
だけど、どうしたらいいのかは分からない。
私自身が死にたいと望んでいるから。
「生きろとか簡単に言うべきではないけど、今はそれ以外に言葉が見つからない」
さっきまで同じ想いを抱いていた。
だが彼は、違う道を指して私に手を差し伸べようとしている。
もし掴むことができたら、私は救われるのだろうか。
こんなガラクタが生きていていいのだろうか。
私に価値なんてない――
死に背中を向けようとすると、そんな言葉が頭をよぎる。
そしてまた振り向いて、希死念慮に足を踏み入れる。
自分でもどうしたいのか分からない。
死以外に望むものは?
本当に欲しいものは?
生きた先で求めるものは?
産まれてすぐに死にたいって思ってた?
もし苦しみがないなら生きたいと思う?
疑問が思考に絡みつき、出口の見えない森の中に入ったようだった。
「よいしょ」
京介さんが、私と翔太くんの間に座った。
「死を考えてる人間からしたら、暗闇の中を歩いているのと一緒だ。先も見えねえし、逃げる場所も探せない。でも死だけははっきりと見える。救うためには光を射して死をぼやけさせ、新しい道を見つけさせる」
確かに死ははっきりと見える。
あとは掴むだけ。
「俺は生きろなんて言葉は使わない。死にたい人間からしたら重荷でしかないからな」
翔太くんが俯くと、京介さんは頭をポンポンと叩いた。
「だけどな、長い雨を歩き続けた奴の言葉なら、同じ言葉でも色が変わる。そいつなら、胸につっかえてるもんを外せるかもしれねえな」
あとこれも覚えとけ、と京介さんは付言する。
「死を纏った人間の言葉には力が宿り、それがいつか誰かの道に変わる。だからお前は生梦葵に選ばれた。まあ、俺の持論だけど」
京介さんは私の小指にある、リボン結びの印を見ていた。
「じゃあ、帰るわ」
「送って行きますよ」
京介さんが立ち上がるのに合わせ、直樹くんが言った。
「いいよ。それよりも行かなきゃなんねえ場所があるだろ」
京介さんは真由美さんを見た。
場所とは? そう思っていると真由美さんが立ち上がる。
「行こうか、菜月ちゃんが亡くなった場所に」
しとしと、と雨が降る国道の交差点。
陰鬱な空気が立ち込めており、心臓に手をかける死がギュッと掴んできたような気がした。
交差点に入ってくる赤い軽自動車のヘッドライトが、傘を差す私たちを照らして通り過ぎていく。
ここで菜月ちゃんは命を破り捨てた。これ以上物語を綴れないように。
「やっぱりそうか」
真由美さんはガードレール下の献花を見ている。
微かだが、黒い煙が漂っている。
「前にここで自殺した人間がいる。その魂が菜月ちゃんを引っ張っていった」
黒い煙は黒という魂だった。
怨念を宿し、他者の魂を喰らう。
「なんで分かるんですか?」
「生きてる人間を死へと導こうとする魂がいるんだ。僕たちはそれを黒と呼んでる。しかもこの魂は霊師に見つからないように、陰の気を最小限に留めている。死を抱えていた菜月ちゃんは、運悪く見つかってしまった」
翔太くんの問いに、直樹くんが答えた。
「もしここにいたら、魂が喰われてたの?」
続けて私が質問する。
「うん、そうなるね。でも伝えたいことがあったから、この場から離れることができた」
そうなっていたら、彼女は来世で産まれてこない。
心の片隅に羨望が湧いた。
生きなくてもいいと宣言されているから。
でも彼女はどうなのだろう。
死にたいと願って現世を彷徨っていたが、死んだ後はそう見えなかった。
生きているときに纏わりついていたものが堕ちたからだろうか。
だが、自死した後の魂は脆くなると真由美さんが言っていた。
結局、地獄に戻ってくることになるなら、喰われてしまったほうが良かったのかもしれない。
「翔太くんがいなかったら、きっと菜月ちゃんに会うことはできなかったと思う。ご両親も」
直樹くんは優しさを滲ませた口調で言った。
「菜月ちゃんはもう一度謝ろうとしてたって言ったでしょ?」
真由美さんは翔太くんに視線を向けた。そのまま話を続ける。
「だけどここに来たら、急に死にたい気持ちが出てきた。それは黒に憑かれたからであって、翔太くんの言葉が引き金になったわけじゃない。だから背負う必要はないよ」
「そうかもしれません、だけど……」
翔太くんは献花を見下ろした。
「それでも背負っていきます。菜月の分まで生きないといけないから。それにもう一人じゃない。前よりは軽くなったので」
翔太くんは私に目をやった。
その目には、意志が宿っているような力強さが見える。
「『追い詰めようと思えば言葉一つで突き落とせる』私がそう言ったの覚えてる?」
「はい」
「これは逆もしかり。言葉一つで誰かを救うこともできる。特に今の翔太くんなら」
「そうなれるように頑張ります」
真由美さんと直樹くんは微笑んでいた。
死を超えた人間を出迎えるように。
「じゃあ俺は歩いて帰ります。家すぐそこなので」
「気をつけて」
「はい」
翔太くんが再び私を見る。
「何かできるわけじゃないけど、愚痴くらいは聞けるから」
そう言い残して、彼は去っていった。
「じゃあ、回収するか」
「水晶と長羽織持ってきますね」
直樹くんは道路脇に停めていた車へと向かう。
「死は超えられる。少し道を逸れれば、生きる理由を作れるから」
真由美さんは零すように、私の耳に言葉を添えた。
魂の回収が終わり、車で家へと向かう。
雨はいつの間にか止んでおり、濡れた街に街灯の明かりが反射していた。
「梨紗のおかげで一人救われたね」
助手席に座る真由美さんは手に水晶を持っている。
透明だった水晶は黒い煙で充満していた。
「私は何もしてない」
ただ勾玉に導かれただけだ。
「梨紗ちゃんが翔太くんのことを見つけたんだよ。だから変えることができた」
変えたのは菜月ちゃんや京介さんだ。
価値のない私では、誰かの人生を灯すことなどできない。
「救ったとしても、その先に何かあるのかな?」
二人に聞いたというより自問に近かった。
もし今の苦しみから抜け出すことができても、また新しい苦しみがやってくる。
人生はその繰り返し。
駅のホームに立つ大人たちの顔を見れば、希望などないと分かる。
「無かったはずの道を交差させ、行けなかった場所へと導く。その先で救われる命もあるし、生きていて良かったって思える人もいる。たった一人かもしれないけど、その命が新しい命を授けることだってあるし、誰かの生きる道に変わることもある。命の先には、また別の命があるの。梨紗だから作れたんだよ。その道の始まりを」
”梨紗だから“この言葉に少しだけ甘えたい。
否定を浴びながら生きてきた自分にとって、存在を肯定してもらえることは特別なことだから。
少しだけ心の痛みが和らいだような気がした。
「その指の印は、人を繋ぎ、変化を与え、命を結ぶ。そういう意味があるんだ。僕たちは魂を見つけることはできても、死にたいと思う人間を探すことはできない。梨紗ちゃんがいなければ翔太くんは死を選んでいた。生きることは難しいことだけど、それでも彼は生の舵をとった。そして今は、梨紗ちゃんが生きる理由になってる。人を救いたいという道を見つけて」
誰かの人生に私がいる。
石ころのような存在だった私が。
不思議な感覚を携えた心が、光を探しながらゆらゆらと彷徨っているようだった。
居間で朝食をとる。
普通の出来事かもしれないが、私にとっては非日常だった。
あの場所にいたときは家族と顔を合わせたくなかったから、起きてすぐに家を出た。
かと言って学校に早く着けば、再び息苦しい檻の中に入ることになる。
だから歩を遅め、時間ギリギリに辿り着くよう調整した。
でも今は、屋根のある場所でゆっくりと過ごすことができる。
冷たい雨を凌ぎながら。
「はい、これ」
居間に入ってきた直樹くんが巾着を渡してきた。
中はお弁当だろう。
「ありがとう」
「弁当箱洗わなくていいからね。そのまま置いといていいよ」
藤本たちにシャー芯を入れられため、学校の洗い場で綺麗に洗った。
直樹くんには知られないよう、入念に。
「偉いね、梨紗。私なら、直樹に洗えって押し付けるけど」
前に座ってる真由美さんが、モグモグしながら言った。
「真由美さんはちゃんと家事してください。昨日も食器洗ってなかったでしょ?」
「本当は洗いたいんだけど、この綺麗な指が荒れるのは直樹も嫌でしょ? だから仕方なく」
「荒らしてください。なんなら荒廃してほしいです」
直樹くんが言うと、真由美さんは私の肩にもたれかかった。
「ひどい男だよね。こんな綺麗なお姉さん相手に荒廃しろだって。たぶん私はシンデレラの生まれ変わりなんだ」
真由美さんは嘆きながら、卵焼きを口にした。
「シンデレラは家事やってましたから。どちらかと言ったら僕の方が生まれ変わりです」
「おいコラ、カボチャの馬車で町内引きずり回すぞ」
「真由美さんは絶対、継母の方です」
家族というのはこんな風に会話をするのだろうか。
冗談を言ったり、ふざけあったり、穏やかな言の葉を交わしながら、なんでもない会話に花を咲かせる。
自分が歩んできた道を振り返ると、萎れた花ばかりが並んでいた。
触れば傷が付くような、痛みを伴う花。
偉人やスポーツ選手などの名言は、きっと誰かの背中を押すのだろうと思う。
でも私にとっては、道ばたに咲く小さな花の方がとても美しく見えた。
「直樹くん」
「何?」
「……お弁当美味しかった」
汚されてしまったが、それでも食べた。
そして言いたかった。
私のために作ってくれたものだから。
「ありがとう」
直樹くんではなく、なぜか真由美さんが言った。
「僕が作ったんですけど」
「なんで言うの? 言わなければ分からないのに」
「じゃあ、明日は真由美さんが作ってください」
「やっぱり私はシンデレラの生まれ変わりなんだわ」
真由美さんが私の肩に顔を埋める。
「虐げられた演出はいらないので、早く食べてください。どうせ食器を洗うの僕なんですから」
「早くガラスの靴がほしい。今日買いに行こう」
「自分で買うものではないですから。王子が持ってくるんですよ」
「じゃあ王子とセットで買おう」
「王子売ってないですから。早く食べてください」
平穏な日常が私の前に広がっていた。
凪いだ海のような心休まる景色。
目には見えない傷口が、少しだけ塞がったような気がした。
今にも雨が降りそうな空の下を歩き、昇降口へと入る。
下駄箱を見ると、いつもの景色が目に入った。
廃棄されるはずのゴミたちが、私の上履きに降り積もる。
数センチの幸せを感じた朝だったが、すぐに雨に流されていく。
先ほどまでの光景が悠遠のようだ。
ゴミに手を伸ばそうとした時、後ろから声をかけられた。
「泉さん、おはよう」
樋口さんが笑顔を携えて歩いてくる。
「おはよう……」
挨拶を返すと、樋口さんの顔が強張った。
何か怒らせるようなことをした?
だが考えてもなにも見当たらない。
樋口さんは私の方へと歩み寄り、右腕を伸ばしてきた。
――お前みたいな人間は生きてる価値なんてない
父に首を絞められたことが頭をよぎり、咄嗟に首元を守る。
樋口さんの手は私の首――を通り過ぎて、下駄箱に捨てられたゴミを掴んでいた。
「これ捨てとくね」
紙パックのジュースやペットボトル、空き缶にビニール袋。
それらを抱え、下駄箱脇のゴミ箱へと捨てた。
「本当に暇だよね。もっと有効に時間を使えばいいのに」
「ありがとう」
樋口さんは澱みのない笑顔を見せてきた。
気にしなくていいよ、そんな風に言われているような気がした。
「あっ」
樋口さんのブレザーの袖には液体のようなものが付いていた。
「汚れてる……」
「ああ、これね。さっきジュース飲んでたらこぼしちゃって。高校生にもなって子供みたいだよね」
優しい嘘だった。
そんなシミは付いていなかったし、明らかに今付いたものだと分かる。
本当なら私が汚れないといけない。
彼女は関係ないのだから。
「ごめん……」
「行こうか」
私の言葉は聞こえていたはずだった。だが彼女は反応しなかった。
何も言わず共に濡れてくれる。それが嬉しかった。
教室へと向かうため階段を上がっていると、藤本たちが上から降りてきた。
私と樋口さんは壁際に寄り、顔を見ないように上る。
「あんたよく学校来れるね」
藤本の嗄れた声が、鼓膜を引っ掻く。
「バカって鈍感だから、傷付かないんだよ」
追従するように、中山が侮辱を吐き捨てる。
なぜこの人たちは、他人の気持ちを見ようとしないのだろうか。
たとえ傷口が浅く見えても、その深さは私にしか分からない。
藤本と中山の嘲笑う声が遠ざかっていき、忘れていた息をフーっと吐くと、ざわめいていた不安と恐怖が腰を下ろした。
「ごめんね、何も言えなくて」
前にいた樋口さんが背中越しに言ってきた。
その肩は怯えるように震えていた。
昼休みになり、鞄を持ってすぐさま教室を出ようとした。
また弁当を汚されたくなかったから。
「泉」
その声に希死念慮が胸の中で蠢く。
恐る恐る振り向くと、藤本と中山が歪んだ笑みを浮かべながら近づいてくる。
寒気がゾワっと背中をなぞる。
藤本はノートの間に指を入れ、もう片方の手を下に添えている。
中に何か入っているのか、零さないように慎重に歩いていた。
「見て」
私の前に来ると、藤本はノートを広げた。
そこには大量の消しカスが山積みされている。
「泉のためにたくさん作ったんだよ。美味しそうでしょ?」
狂ってる。
なんでこんな無駄な労力を使うのだろう。
暇を潰したいなら、いくらでもあるはずなのに。
「弁当出して、かけてあげる」
「ダメ……」
直樹くんが私のために作ってくれたものだ。
もう無駄にはしたくない。
「そっか、仕方ないね」
思っていた反応とは違った。
潔く諦めたんだろうか。
私は藤本の顔を見た。
彼女は笑みを浮かべている。
それが恐怖心に火を付けた。悍ましさを感じたから。
「じゃあ……直接食べて」
語尾を跳ねさせ、ぶりっ子のような口調で言った。
「できない……」
自分の声が震えていた。
連動するように、指先も小刻みに揺れる。
「早く食べなよ」
中山が煽る。
「それは食べるものじゃない」
なんでこんな当たり前のことを言わないといけないのだろうか。
もう高校生だ。
そんなこと知っているはずなのに。
いつの間にか周りは静かになっていた。
教室を出ていく生徒もいる。
何人かの生徒の視線を感じるが、関わりたくないというのが空気感で伝わってくる。
「は?」
藤本の声は怒気を帯びていた。
「じゃあさ、食べさせて上げようよ」
中山がそう言うと、藤本は片方の口角を上げた。
「そうだね。泉は甘えん坊だから、食べさせてほしいんだね」
言下、中山が私を羽交い締めにした。
肩にかけていた鞄が床に落ちる。
「やめて」
「早く口開いてよ。食べれないでしょ」
中山が楽しそうな声で言う。
糸で結ぶように固く閉じていたが、藤本が口に指を入れてきて、無理やり開かされる。
「よく噛んで食べてね。梨紗ちゃん」
ノートが傾きかけ、山積みにされた消しカスが微かに動いた時だった。
「もうやめよう」
その声に藤本の手が止まる。
同時に、中山の手が緩んだのを感じ、その隙に腕を振り解いて離れる。
「なんだよ、樋口」
藤本の視線の先には、顔を引きつらせて立っている樋口さんがいた。
その目には強い怒りが宿っているように見える。
「こんなことしても、なんの意味もない」
樋口さんの声は震えている。
「は?」
藤本が苛立ちを見せながら聞き返す。
「人のことを傷つけたら、自分たちが傷付くだけだよ。人は鏡だから、その行いは必ず返ってくる。他人の痛みなんて外からじゃ分からない。勝手に判断して、見ようとしないだけでしょ。心に痛みが伴う傷は一生消えないの。お願いだから、これで終わりにして」
静寂に包まれた教室の視線は、樋口さんに集まっていた。
窓から入り込む風が、ビューっと音を立てて通り過ぎていく。
私の心の中にある言葉を彼女が代弁してくれたからか、いくつもの見えない傷が反応する。
積りに積もった汚れた言葉たちが溶け始め、埋もれていた感情に光が射すようだった。
「調子に乗んなよ、樋口」
藤本は持っていたノートを床に叩きつけた。
消しカスが散らばり、黒い海ができる。
「偉そうに説教垂れてんじゃねーぞ。そういうの一番ムカつくんだよ」
藤本は樋口さんの胸ぐらを掴むと、
「マジで、やってやろうか」
と、脅しをかけた。
樋口さんは藤本の目を真っ直ぐ見ていた。
だが手は震えている。
「こいつ、やっちゃっていいよね?」
藤本は中山を見て言った。
「いいよ。やっちゃって」
藤本は再び樋口さんを見ると、手を振り上げた。
そして、そのまま振り下ろす。
「ダメ!」
藤本の手のひらは、樋口さんの頬に当たる寸前で止まった。
人生で初めてだったかもしれない。
こんなに大きな声を出したのは。
「もうやめて、樋口さんは関係ないから」
藤本は私の方へと足を向ける。
目の前まで来ると、苛立ちを浮かべながら口を開く。
「じゃあ、お前ならいいんだな」
そう言って手を振り上げた。
私は目を瞑り、歯を食いしばる。
だが、振り下ろされることはなかった。
目を開けると、振り上がった藤本の手を平田が掴んでいた。
「明日香?」
「樋口の言う通りだよ」
「え?」
藤本は困惑している。中山も同様に目を瞬かせていた。
私も状況が飲み込めず、茫然と立ち尽くすだけだ。
「今までやり過ぎた。もう泉には手を出させない」
そう言い残して、平田は教室を出ていった。
「ちょっと明日香、どういうこと」
藤本と中山も教室を出ていくと、急に全身の力が抜けて、私は床に膝をついた。
「大丈夫、泉さん」
樋口さんが駆け寄ってきて、心配そうに尋ねてきた。
「うん……」
彼女たちがいなくなった教室には、名状し難い余白が残された。
放課後になると覆っていた灰色の雲は消え、陽の光が地上へと降り注いでいた。
憂うような六月に、夏の足音が聞こえてきそうな青空が広がる。
荒れていた感情は落ち着きを取り戻し、心音は凪いだ海のように、のどやかに波を打つ。
「泉さん」
下校する生徒たちに混じり校門をくぐると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、樋口さんが走ってくるのが見えた。
「一緒に帰らない?」
その言葉に感情が揺れる。
でもいつものような青ざめるものではなく、春が装飾するような青い揺れ方だ。
「うん……」
高校に入学してから、学校の人と肩を並べて下校することはなかった。
普通のことなのかもしれないが、私にとってはイベントに近い。
何を話していいかも分からず、緊張の糸が絡まるようだった。
頭の中で言葉を探がしていると、藤本に貸した千円のことを思い出した。
私のお金が奪われそうになった時、樋口さんが代わりに差し出した千円。
孤独に降る冷たい雨の中に飛び込み、私に傘をさしてくれた。
あの優しさは、絶対に忘れない。
「これ」
お財布から取り出した千円札を渡そうとすると、彼女は首を横に振った。
「泉さんに貸したわけじゃないから」
「でも……」
「大丈夫」
樋口さんは笑顔を浮かべた。温かさを感じる太陽のような笑み。
私はどうしていいか分からず、お札を持った手が宙を彷徨っていた。
「仕舞って、本当に大丈夫だから」
「うん……」
千円札をお財布に仕舞い、鞄に戻す。
「これからは、普通に学校来れるね」
昼休み以降、藤本たちに何かをされるということはなかった。
昇降口で遭遇したときも、空き缶をゴミ箱に捨てていて驚いた。
それは当たり前なのだが。
「樋口さんのおかげ」
「ううん、泉さんが今日まで耐えてきたからだよ。だから私も勇気を出すことができた。ごめんね、もっと早く助けられなくて」
普通なら見て見ぬふりをする。
雨を避け、濡れない場所で傍観しながら、ただ時間が経つのを待つ。
私はそうしてきた。
彼女たちと混じり合わないように。
だからこそ自分の上に雨が降った時、私は助けを求められなかった。
都合よく、傘を貸してとは言えないから。
「私は樋口さんみたいにはなれない。誰かに手を差し伸べるって簡単なことではないから。ありがとう、樋口さんがいてくれて助かった」
「うん……」
樋口さんは頬を赤らめていた。
照れ隠しなのか、彼女は少しだけ足を早めて空を見上げた。
「いい天気だね」
視線を上げると、澄んだ青が微笑んでいた。
灰色に満ちていた世界には白い雲が浮かび、空を泳ぐように流れている。
影を祓うような光が、曇った目に差し込み、濁りを濾過して景色の純度を上げる。
止まない雨はない。
ずっと厭わしかったその言葉が、今日は優しく感情を撫でる。
太陽なんて見れないと思っていた。
晴れた空はこんなにも綺麗で、私が知らない色を教えてくれた。
家に着き、居間の襖を開けると、真由美さんと直樹くんがお茶を飲みながらテレビを見ていた。
「おかえり」
二人の声が重なって耳に届いた。
「ただいま」
何気ないやりとりに花が咲く。
日常の中に当たり前に落ちているものは、私にとっては価値のあるものだ。
道端の石ころでさえ、今はダイアモンドのように輝いている。
腰を下ろし、テレビに目を向ける。
生放送の番組で若手俳優がインタビューを受けていた。私は芸能に疎いので名前は分からない。
「晩御飯作るの面倒くさいから、食べに行かない?」
「いつも作ってるの僕なんですけど」
「こないだ作ったじゃん」
「レトルトでしょ」
「愛情込めて、電子レンジに入れたから」
「その愛情届いてないです」
二人のやり取りを耳に入れていると、テレビに女の人が映った。
すごく綺麗な人だった。凛としていて佇まいも美しい。
インタビューを受けているので、女優の人なんだと思う。
「梨紗、この人知ってる? 最近よく出てるんだよ」
「それ僕が教えたんでしょ」
「あんまりテレビ見ない」
「神田川洋子っていうんだよ」
「神原優花です。誰ですか洋子って」
そうなんだと思っていると、胸のあたりから紫を帯びた光が視界に入った。
首にぶら下げていた勾玉をYシャツから取り出す。
二人も光に気づいたようで、勾玉に視線を送っている。
「来たか」
「来ましたね」
勾玉が光を放つときは、誰かが死を選ぼうとしている。
私の役目はそれを止めること。
「梨紗ちゃん、大丈夫?」
「うん」
勾玉を握ると、二人が手を重ねてきた。
「見るね」
私はそう言った後、息を吐いてからゆっくりと目を瞑った。
*
部屋にはカーテンが開かれた大きな窓があり、夜景の光が暗い部屋を照らしている。
見下ろすようにビルなどが建っており、高い階層に住んでいることが分かる。
ソファの前には女性が座っており、ローテーブルには市販薬と思われる錠剤の瓶が大量に置かれていた。
すべての蓋は空けられている。
彼女はその中の一つ手に取り、勢いよく口に運ぶと、次々と薬を口の中へと流し込む。
テレビボードに置いてあるデジタル時計は23時17分と表示されていた。
*
目を開くと、真由美さんと直樹くんはテレビに視線を送っていた。
そこには、インタビューを受ける一人の女性が映っている。
「ですよね」
「うん、この子だ」
二人は驚きを隠せない様子だった。
それは私も一緒だ。
勾玉が見せた死は、女優の神原優花だった。