また人が死ぬ。夢の中で。
ビルの淵で佇む女性。
遠くには、夜を照らす三角形に配置された三棟のタワーマンション。
女性の足元にはヒールが綺麗に揃えられており、踵の部分を重石にして、白い封筒が置かれていた。
きっと最後の言葉を綴った手紙だろう。
絶望という想いを筆に染めた、遺書という名の片道切符。
私は彼女の後ろ姿を羨望する。
この穢れた世界から散ってゆけるのだから。
背中を押すような風が吹くと、彼女は掴んでいた手すりを離した。
そして体を前方に傾けると、白いワンピースを纏った痩躯が、屋上から姿を消す。
とても静かに、一瞬で霧散するように、始めからそこに何もなかったように。
空が眠る雨の中。
星すら見えない夜の底で、一つの灯火が吹き消された。
エンドロールのない物語にピリオドを打って。
*
目を覚ますと、窓を叩く雨が鼓膜に響いた。
啜り泣くように小さく打ちつける音は感情に雲をかける。
人が死ぬ夢はこれで三度目だ。
見始めたのは二ヶ月前。
一度目は、車内で煉炭を焚いた男性。
二度目は、交差点に飛び出した同い年くらいの女性。
なぜか分からないが、夢の中だというのに意識ははっきりとある。
そして三回とも自死だった。
正直羨ましい。
知らない誰かが消えていくたび、その誰かがいつか自分であったらと思う。
夢ではなく、この穢れた世界で。
ベッドから起き上がり、壁にかけてある制服に手を伸ばす。
シャツ、スカート、リボン、ブレザー、その一つ一つを身につけるたび、憂鬱が肩を叩いてくるようだ。
この世界で唯一の居場所である自分の部屋。
ここから出て行けば雨に晒される。
その無慈悲で冷たい悲しみは、傘を持たない人間の心に死を咲かせる。
曇った視界に映る朽ちた花を、今すぐにでも摘んであげたい。
苦しみながら生きるより、消えてしまった方が楽だから。
着替えが終わり、階段を静かに下りる。
存在を消し、一段一段ゆっくりと。
一階に着き、玄関に向かおうとすると、リビングから声が聞こえた。
父と母、そして弟の楽しそうな会話だ。
「駿が中間テストで学年一位だったの」
「お母さんはしゃぎすぎだよ。学年で一位取るくらい、誰にだってできるよ。それよりも模試で結果を出さないと」
「その通りだ駿。偏差値の低い奴なんて社会のゴミだ。学歴がなければ誰にも認めてもらえない。お前の姉みたいに受験で失敗し、肥溜めみたいな学校に行くような奴は一生家畜のような生き方になる。一度道から外れれば、いくらでも補充の利く人間として扱われ、必要とされずに落ちぶれていくぞ」
「僕は大丈夫だよ。逆にどう生きたら、あんな底辺に堕ちるのかを聞いてみたい」
「なんで梨紗みたいな子が産まれたのかしら。駿は良い高校に入って、西大に合格してね」
「当然だよ」
穢れた言の葉が雨のように降りかかる。
心臓をきつく締め、また一枚花びらを落とす。
むしろ躊躇いなく枯れてほしい。
色褪せた醜い命に価値なんてないのだから。
駅のホームには天国と地獄の境界線がある。
黄色い点字ブロックが一直線に並ぶ、世界を分断する境界線。
地獄側にはたくさんの人たちが列をなしており、陰鬱な雰囲気が立ち込めている。
隣に立つスーツを着た男性。
その顔はくたびれており、萎れた背中が希死念慮を煽る。
大人になっても希望なんてない――そう言われてるようだった。
生きていても絶望が繰り返されるだけで、幸せなんてものは幻想の中にしか存在しない。
人が溢れる朝と夜のホームには、死ぬ理由が敷き詰められていた。
アナウンスが鳴ると、天国の切符を携えた電車が視界に映る。
右足をゆっくりと境界線の上に乗せ、天国の淵へと一歩近づく。
――なんで梨紗みたいな子が産まれたのかしら
母の言葉が頭の中に響く。
産んでほしいなんて頼んでいない。もし選択できるのなら、私はこの世界に存在していないだろう。
死ぬことができたら、傷が付くことも悲しみに溺れることもない。
何も感じないことが、私にとっての幸せだ。
左足を前に出そうとした時、急に恐怖心が湧き上がった。
両足が竦み、前に踏み出せない。
死にたいはずなのに、心と体が拒んでいるようだった。
自分の意思すら持てない。望んでいるものすら手にできない。
死という希望が遠のいていき、絶望の底へと再び落とされた。
瞬間、前髪が靡く。
顔を上げると電車が目の前を通過していった。
天国の切符が、今日も指からすり抜ける。
誰かと戦う勇敢さ、何度躓いても立ち上がれる強さ。そんな力はもう望まない。
たった一歩、その一歩を踏み出せる勇気が欲しい。
パンの空袋、飲み干された紙パックのジュース、潰された空き缶。
下駄箱の中には、いつもの光景が広がっていた。
廃棄物に埋もれると、上履きすらも汚れたものに見える。
普段から自分が履いているものだとしても。
捨てられたゴミを下駄箱脇のゴミ箱に戻す。
これが学校に来て、一番初めにやることだ。日課と言ってもいい。
靴を履き替えた後、教室へと向かうため階段を上る。
喧騒を浴びながら、一段一段ゆっくりと。
会話に花を咲かせる生徒たちの声は、煩わしい蝉の声と似ている。
夏の暑さを強調するようなノイズ。
仲睦まじそうに笑う声が孤独を一層、際立たせる。
「大学どこ行く?」
前を歩く二人組の声が耳に入る。
「西大」
「いや、無理でしょ。うちの学校では」
心臓に突き刺さるようだった。自分を否定されてるようで。
普通はそう思うことはないだろう。
だが学歴主義の家庭で育った私にとって、傷を抉られるような言葉だった。
本当は競い合いたくない。ただ普通に生きたかった。
友達と青春を謳歌し、何でもないことで笑いあう。
小学生の頃はそんな日々を夢見ていたが、父は英才教育という名の鎖で私を縛り付けた。
――凡人と付き合っていたらお前も馬鹿になる
――あいつらみたいに遊んでいたら将来苦労する
――友達なんてただの飾りだ。優秀な人間とだけ時間を過ごせ
鞭のように叩きつけられた言葉で、私は友達を作ることはおろか、遊ぶことさえも許されなかった。
今は弟に全てを賭けているようで、家では空気のように扱われている。
この女子校でも同じようなものだが。
三階に着くと、「泉さん」と後ろから声をかけられた。
振り向くと、同じクラスの樋口琴葉が階段を駆け上がってきた。
艶のあるミディアムボムを揺らし、透き通った肌が辺りを照らしているようだった。
「おはよう」
彼女は潤んだ唇を上げ、澄んだ目を輝かせて言った。
「……おはよう」
樋口さんとは友達ではない。
でも彼女はいつも声をかけてくる。こんな価値のない私に。
「梅雨はジメジメするから嫌だね」
「……うん」
肩を並べながら、一番奥にある教室へと向かう。
朝の廊下には笑声が咲き誇り、色とりどりの音色が鼓膜の中へと注がれていく。
私にとっては卑屈の度数が高すぎる。
他人の笑い声を聞くと感情が悪酔いするから。
四組から出てくる三人組が目に入り、いつものように無意識に顔が下がった。
周りで咲いていた声も萎れ、会話のボリュームが小さくなっていく。
壁際に寄る生徒たちが視界の隅に映り、私と樋口さんも同じように道を開ける。
壁に沿いながら目線を合わせないように、ゆっくりと歩く。
闊歩する彼女たちが近づいてくると、恐怖心で体が縮こまっていった。塩をかけられたカタツムリのように。
すれ違い様、三人組の一人が肩をぶつけてきた。壁際にいたのに。
顔を上げると、藤本千尋が見下ろしている。
隣には嘲笑を浮かべた中山愛美と、無機質な表情の平田明日香。
「何か言うことは?」
“ぶつかってきた”藤本が言った。
「……ごめん」
私が謝ると、中山が頭を撫でてくる。
「偉いね、謝れて。でも次は気をつけてね。存在自体が邪魔なんだから」
藤本と中山の劈くような笑い声が耳に入る。
「あっ、こいつタトゥー入れてる」
藤本は私の左手を取り、宙に掲げた。
左手の小指には、糸でリボン結びされた、タトゥーのようなものが施されている。
「何これ、自分でいれたの?」
「違う」
藤本の問いに答えた後、すぐさま左手を引っ込めた。
このタトゥーのようなものは、いつの間にか小指に刻まれていた。
たぶん、人の死ぬ夢を見始めた辺りから。
「隠すなら入れるなよ」
「あんまり調子にのっちゃダメだよ。泉みたいなゴミは」
「言えてる」
罵詈雑言を吐き捨て、三人は去っていった。まるで嵐のように。
これも日課のようなものだ。
被害を最小限にするため、ただ受け止める。
反発すれば傷が付くだけ。無駄に争う必要はない。
「ごめんね……」
零れた言葉を拾うように振り向くと、樋口さんは顔を歪めて俯いており、その拳は強く握り締められていた。
「頼んだのと違うんだけど」
ひび割れた声が女子トイレに響く。
「私が頼んだのはクリームパンじゃなくておにぎり。日本語も分からないのかよ。このゴミは」
「泉には少し難しすぎたかな。日本語って難しいもんね」
「いや、流石に間違えないっしょ」
藤本と中山は笑った。
片方の口角だけを上げ、見下していることが明らかな目で。
二人の後ろには平田が立っている。
感情すら見えない冷えた視線を向けており、何を考えているかは分からなかった。
「クリームパンって言ってた。間違いなく」
つい反論してしまった。火の中に油を注ぐようなものだ。
「言い訳するの? ゴミのくせに。自分のことを棚に上げて人のせいにするんだ。そんな奴だとは思わなかったわ」
藤本は不快そうな顔で袋を開封し、パンを取り出した。
半分に千切ると、私の肩の辺りに思いっきり投げつけてきた。
ブレザーにクリームがべったりと付く。
「ムカつくからさ、歯向かわないで。次は許さないから」
苛立った顔を近づかせ、吐き捨てるように藤本は言った。
「こいつの顔見てるとストレス溜まるから行こうぜ」
もう片方のクリームパンを食べながら、藤本は去っていった。
「結局食うのかよ」中山が後に続く。
顔を上げると、平田が冷え切った目でこちらを見ていた。
凍りついた瞳は、一言で言うと無関心。
私の目にはそう映った。
そして黙ったまま横を通り過ぎていく。
そこに何もいなかったかのように。
外は小雨が降っていた。
霧のような儚い水滴が肌に触れる。
私はブレザーに付いたクリームを洗い場で落としていた。
指で拭った後、ハンカチを水に濡らし優しく叩く。
シミにはならなそうだが、また一つ心に傷を作った。
瘡蓋にすらなれない痛み。
腐食していく感情は、喜びと怒りを忘れさせる。
始まりは、長い雨が降る一年前の六月だった。
「成績が良いからって、あんまり調子に乗るなよ」
藤本が言ったこの言葉から、私の学校生活には雲がかかり始めた。
入学してからテストは常に一番だった。
負けたくないとか、自尊心を守りたいとか、そんな理由ではない。
父に罵声を浴びせられるから。これだけだ。
怒られないために勉強を続け、ただひたすら机に向かう。
私の青春は教科書に埋もれていた。
二年生にあがり、藤本たちと同じクラスになった。
彼女たちは意味もなくターゲットを決め、侮辱という娯楽で悦に浸っていた。
一年の時からずっと。
だから関わらないように生きてきた。
学校という狭い世界。
その片隅で身を潜め、なるべく目立たないように影を歩く。
特別なものよりも、何もない平穏を願っていたから。
一学期の中間テストが返却され、順位が廊下に張り出された。
「また泉さんだ」
「本当に頭良いよね」
一番上には私の名前、その下には平田明日香。
一年の時から変わらない風景だったが、彼女たちは不満に思っていたらしい。
「調子に乗るなよ」
藤本たちに呼び出され校舎裏に行くと、そう言われた。
「明日香さ、今回は一位取るって頑張ったんだよ。なのに、なんでいつも邪魔するのかな?」
中山が詰め寄ってきて、壁際に追いやられる。
周りを見るが平田の姿はなかった。
どうやらこの二人だけらしい。
「邪魔なんてしてない」
「明日香はさ、バイトもしてるの。塾だけ行ってればいい、お前とは違う。それって不公平じゃない?」
藤本が顔を近づけて言ってきた。香水の匂いが鼻に刺さる。
「そんなこと言われても……」
「おい!」
藤本の手が私の顔を掠め、壁を強く叩いた。
「期末で明日香より上に行ったら、どうなるか分かるよね?」
この世界は理不尽だ。
勝手に雨を降らせ、傘すらも取り上げる。
命は色褪せていくのに、それでも迎合させようとしてくる。
私が小さく頷くと、藤本たちは満足そうな顔で去っていった。
一学期の期末は順位を一つ下げ、二番目に着いた。
わざと問題を間違え、点数を調整したから。
「勉強しか取り柄がないのに、もう何も無くなっちゃったね」
藤本が嘲笑しながら言ってきた。
悔しかったが、何も言わずに耐えることにした。
平穏が欲しいから。
家に帰り、順位を父に報告すると激怒された。
「お前には今後一切、金をかけない。塾も行かなくていい。全部駿に回す。俺の顔に何度泥をかければ済むんだ」
受験を失敗した時から失望されていたが、今回は見捨てられたと言っていい。
その日から、家では空気のように扱われるようになった。
それは学校でも同様だった。
関わりたくなかったのに、藤本たちは私を虐げるように罵声を浴びせる。
「バカが来た」
「ゴミ同然」
「お前がいると空気が汚れる」
なんのために、点数を落としたのか分からない。
失っただけで、得るものなんてなかった。
彼女たちは嫌がる人間の顔を見ては、楽しそうに笑みを浮かべる。
だから私は反応しなかった。その方がすぐに止むと思ったから。
でも降り続いた。六月の雨のように。
誰にも助けは求められない。私も見て見ぬふりを続けた。
自分に害が及ばないように、息を殺しながら日常を過ごしてきた。
残された道は“命を絶つ”だけ。
この穢れた世界から早く消えてしまいたい。
私が神様に頼むことは一つだけ。
死ぬ勇気をどうか授けてほしい。
それ以外に何も望まないから。
放課後の喧騒を縫って昇降口まで辿り着く。
長い一日を終える瞬間が、唯一の至福とも言える。
靴を取り出そうとした時、丸められた紙が下駄箱に投下された。
後に続くように、紙パックのジュースも。
「ここにゴミ箱欲しかったんだよね」
「分かる。でも靴入ってなかった?」
「それもゴミでしょ」
藤本と中山が、笑いながら靴を履き替える。
自分の所有物ですら他人にゴミだと決めつけられてしまう。
この場所では意思すら持てないみたいだ。
「ファミレス行くの?」
後から来た平田が、二人に問いかける。
「もち」と、藤本が返す。
私は立ち尽くすだけだった。
それ以外の選択肢はない。
ただ過ぎ去るのを待つだけ。
そうすれば雲は流れていき、雨は別の場所へと移動する。
三人の声が遠ざかるのを感じ、下駄箱に入れられた廃棄物をゴミ箱へと捨てる。
こんな風に簡単に命を投げ捨てられたら、どれだけ幸せなのだろうか。
そんな想いを抱きながら、ゆっくりと昇降口を出た。
青を奪う灰色の空は今にも泣き出しそうだ。
色彩を散らせ、無彩色で視界を染めていく。
不安定な表情を見せる曖昧な空は、私の心を描いているようだった。
駅前に着いた時、空の涙腺が緩んだ。
感情を高ぶらせるように、土砂降りの雨が針のように肌を突き刺す。
まるで人間みたい。
笑ってたかと思えば急に泣くし、突然怒号を響かせたりもする。
こんな気ままに感情を出せたら、どんなに楽なんだろう。
周りにいた人たちは急いで駅に向かっていく。
濡れるのを嫌がるように。
人は雨を避ける。打たれない居場所を探し、止むまで待ち続ける。
でもそんな場所、この世界のどこにあるのだろうか。
傘を持てない私は、死ぬことでしか雨宿りできない。
色褪せていく命を守るためには、命を捨てて傷が付かないようにするしかない。
それが唯一、救われる方法だから。
【北川真由美】
仏壇には二十代前半の男性の写真が飾ってあった。
満面の笑みを浮かべ、ピースサインをしている。
北川真由美と遠藤直樹は線香をあげた後、両の手を合わせ目を瞑った。
「二年くらい会ってなかったんです。まさか自殺するなんて……」
真由美たちがダイニングに着いた後、亡くなった男性の母がそう言った。
彼は二ヶ月前、樹海で首を縊った。
有名な自殺の名所だ。
遺書には人間関係に悩んだ末、命を絶ったと書かれていらしい。
「元気で優しい子でした。友達にも慕われていて、家族想いだった。それなのに……」
男性の母は歯を食いしばった。涙を堪えようとしているのが、目に見えて分かる。
「心中お察しします」
直樹は寄り添うように言葉をかけた。
「息子さんの左手の小指に、糸でリボン結びされたような印があったとお聞きしたんですが」
真由美が尋ねると、男性の母は目を拭って「ええ」と答えた。
「遺体を見たときに初めて知ったんです。タトゥーを入れたのかと思って驚きました。そんなの入れるような子ではないので。でも……」
「でも?」
言葉が澱み、直樹が合いの手を入れる。
「火葬の時には消えていたんです。その糸みたいな印が」
シールだったのかしら、と男性の母は首を傾げている。
「他に変わったところはありませんでしたか?」
直樹の問いに一考した後、思い出したように女性は口を開いた。
「賢治には小学校の時から仲の良いお友達がいるんです。その子から聞いたんですが、“人が死ぬ夢“をよく見るようになったと言っていたらしんです」
「賢治くんが?」
「はい。それも全部自殺だったらしくて……もしかしたらその夢に引っ張られたのかも」
真由美と直樹は顔を見合わせた。
「夢を見るようになったのが、いつ頃からか分かりますか?」
「一年前だと聞きました。友達の子が言うには、その時から自殺を考えていたんじゃないかって……」
真由美は仏壇に飾ってある写真に視線を向ける。
「不条理だよね、この世界は」
早すぎる死を弔いながら囁いた。
フロントガラスに付いた雨粒をワイパーが弾く。
目の前の景色が鮮明に映るが、降り続く雨によって、すぐに視界が曇る。
拭っても止まない涙のように。
「やっぱり生梦葵でしたね」
運転席の直樹が言った。
「うん」
助手席に座る真由美は、ぼんやりと外を眺めながら答える。
「早く見つけないといけないのに、ほとんど共通点がないですよね。性別も年齢もバラバラだし、出身地も違う。唯一同じなのは……」
「死にたいと思っていること」
真由美は語尾を縫い合わせるように言葉を繋げた。
「なんで自死を考えている人間に継承するんだろう」
「分からない。でも意味があるんだと思う。死を纏った人間を選ぶ理由が」
「真由美さんは生梦葵に会ったことあります?」
「一度だけね。でもすぐに会えなくなった」
「なんでですか?」
真由美は少し間を置いた後、
「命を終わらせたから。自らの手で」と零すように言った。
聞いたことを申し訳ないと思ったのか、直樹は噤むように口元を固く閉じた。
「京介や司と出会ってすぐだったから、十年くらい前だったかな」
「そうだったんですね……」
「生梦葵に選ばれた人間はいつ命を絶つか分からない。それほど、死と近い位置にいる。だから次会った時は救ってみせる。絶対に」
直樹の表情に陰りが見えたため、真由美は語尾のトーンを上げた。
「そうですね。早く見つけましょう。その人のためにも」
直樹の顔に陽が差す。
「昼飯は焼肉行くか」
「ダイエットするって言ってませんでした?」
「明日からやってみせる。絶対に」
「そのトーンで言わないでください。良いセリフが台無しです」
「どうぞ」
「サンキュー」
直樹がちゃぶ台に湯呑みを置くと、畳で寝転んでいた真由美は体を起こした。
セーターの袖を指先まで上げ、湯気の立った湯呑みを両手で持つ。
フーっと、三回ほど息を吹きかけた後、真由美はお茶を口に運んだ。
「テレビ付けていいですか?」
「うん」
直樹がテレビを付けるとドラマが流れた。
時間帯的に再放送なのだろう。
学園モノのようで、若い俳優たちがメインとなっている。
真由美はあまりテレビを見ていないので、ほとんど知らない人だった。
「この子、最近よく出てますよね」
直樹が指したのは、二十代前半と見られる女優だった。
シャープな輪郭にくっきりとした大きな目。
筋の通った鼻筋の下には、ふっくらとした紅い唇がバランスよく配置されている。
胸元まで伸びた黒髪は、芸能人を象徴とするような艶やかさがあった。
彼女だけ明らかに周りとは違う。
凛とした雰囲気が、場を支配しているようだった。
「綺麗な子だね」
「確か、神原優花って名前だったかな」
「へー、若い頃の私に似てる」
直樹が怪訝な目で真由美を見た。
「その目はなんだ。目ん玉引っこ抜いて庭に埋めるぞ」
「なんで抜くんですか。それと庭に埋める必要ないでしょ」
「来年の今頃には、立派な目ん玉が咲くから」
「気持ち悪いのでやめてください」
再びテレビに視線を戻すと、神原優花が笑顔を咲かせて演技をしていた。
真由美はその笑顔に、どこか寂しさを覚える。
今にも枯れてしまいそうな儚い花のようで。
「真由美さん、明日魂の回収に行きますから、ちゃんと起きてくださいよ」
「えー、昼からじゃダメ?」
「この間、飛び降りがあったビル、今年で二回目らしいです。魂が黒に変わってる可能性があるので、できるだけ早く回収しましょう」
「それなら、しゃあないか」
真由美は再びお茶を口に運んだ。
視界には神原優花が映る。
【泉梨紗】
窓を撫でるように落ちていく雫を、ただ静かに眺めていた。
小雨が降る土曜日。
部屋の中に差す灰色の光。
すりガラスから見る外の世界は、ぼやけてくすんでいる。
私の瞳と一緒だ。
生まれてから今日まで、晴れた景色を覚えていない。
青い空を最後に見たのはいつだったのだろう。
そもそも見たことがないのかもしれない。
もはや、それすらどうでもいい。
学校が休みの日は一日中、部屋の中で過ごす。
この空間だけが唯一の居場所だ。
外の世界を遮断する四畳半の天国。
誰にも邪魔されないし、誰にも会わなくて済む。
家族が旅行に行っている時は尚良い。
ベッドに横たわりながら、お気に入りのプレイリストを聴く。
死を分かち合えるような曲目を永遠にループさせ、一枚、一枚、花びらを落とす。
命という花の。
ドンッ
部屋の扉が急に開き、父が入ってきた。ノックもせずに。
「おい」
イヤホンを外し、ベッドから体を起こす。
「学もない奴が、なに寝てるんだよ。お前みたいな社会の底辺は、人の何倍も努力しないと生きてる価値なんてないぞ」
罵倒という雨が私の世界に降り注ぐ。
そしてまた、心が色褪せ枯れていく。
「あんな学校で一番も取れない奴が、よくこの家に居れるな。親族の恥なんだよ、お前は」
唯一の居場所である自分の部屋ですら、平穏に過ごすことができない。
いっそのこと殺してほしい。
必要のない人間なら廃棄すればいい。
苦しんで生きるぐらいなら、雨が降り続くなら、こんな命など消えてしまえばいい。
「ちょっとあなた、そんな大声あげないでよ。可哀想じゃない」
母の言葉で雨が降り止んだ。
溜まった水が抜けると、私は自然と大きく息を吸った。
「こんな奴を庇うのか? 無能の役立たずを」
「違うわよ。駿が勉強してるから集中できないでしょ? それに近所の人に聞かれたら困るじゃない。学もない人間が、うちに居るなんて知られたら」
少しだけ期待したのが間違いだった。
母も父と一緒だ。
学歴がすべて。それ以外は空気と変わらない。
だから私はこの家では存在しない。
不必要な人間だから。
「確かにそうだな」
父はポケットから千円札を取り出し、私の前に放り投げた。
「適当につまみ買ってこい。馬鹿でもそれくらいはできるだろう」
父と母は部屋から出て行った。
安寧の地に大雨を降らせ、荒廃という余韻を残して。
部屋着を着替えた後、コンビニに向かうため玄関に向かった。
靴を履き替えていると、弟が二階から降りてきて私を一瞥する。
「フンッ」
鼻で笑い、そのままリビングへと入っていった。
消えてしまいたい。
泡のように弾けて、初めから何もなかったように。
涙のような雨が傘を叩く。
憂いながら、ぽろぽろと泣くように。
灰色に覆われた住宅街は、異様な静けさだった。
人工的な音が一切感じられない独特な空気感。
啜り泣く雨のみが鼓膜に届く。
死ぬならこんな日がいい。
誰にも気づかれず、知られないまま、ただ静かに命を廃棄する。
生きていたことを周りに忘れ去られるような、そんな消え方をしたい。
ずっと勇気が欲しいと願っていたが、今日ならできるかもしれない
稚拙な物語を破り捨て、醜い花を泡沫のように散らせる。
そんな勇気が持てそうだった。
マンションが並ぶ通りに来ると、古びた雑居ビルが目に入った。
壁は剥がれ、ところどころにヒビが入ってる。
入り口のところには献花が供えられており、雨に打たれて萎れていた。
先日、女性が飛び降りて亡くなったらしい。
二十代の女性だと近所の人が話していた。
今年の頭にも男性が飛び降り、今では自殺の名所とも囁かれている。
私は献花の前に立ち、花を見下ろした。
白い百合が濡れながら俯いている。
まるで涙を流しているみたいだ。
これ以上雨に打たれないように、差していたビニール傘を地面に置いた。
羨望を抱きながら立ち去ろうとした時、黒い煙のようなものが、目の前を通り過ぎていった。
視線で追うと、ビルを這うように屋上へと昇り、姿が見なくなる。
私を呼んでいる――なぜだかそう感じた。それに望みを叶えてくれそうな気も。
私の足は自然とビルの中へと向かっていた。何かに引き寄せられるように。
五階まで上ると、両脇の手すりを結ぶように鎖が繋がれていた。
立ち入り禁止と書かれた看板が鎖からぶら下がっており、この先は侵入できないようになっている。
だが、お構いなしに私は進んだ。
その先に感じる希望を手にしたかったから。
階段を上がると、錆びついた白い扉が見えた。
握りを捻るが鍵がかかっている。
飛び降りた人間がいれば、閉まっているのは当然だった。
落胆なのか、感情が落ちるような気分だ。
私は踵を返して下の階へと戻る。
すると『ガチャ』という音が後ろから聞こえた。
鍵の開くような音。
振り返り扉を見るが、変化は感じられない。
ゆっくりと近づき再び握りを回すと、扉が開いた。
隙間から湿った風が頬にぶつかる。
屋上に足を運ぶと、室外機のみが置かれた殺風景な場所だった。
ビルの淵の前には黒い鉄製の柵。高さは腰ぐらいで簡単に登れそうだ。
雨脚はさっきより強くなっている。
濡れる髪に重さを感じながら柵の前まで歩を進ませると、私は希望を掴むように、錆びついた手すりに指をかけた。
すると、恐怖が心臓を叩く。
指先が震えて足先まで伝染する。
私は咄嗟に手を離し、後退りした。
情けない。
死にたいと思っているのに、まるで生きたいと願うみたいだ。
なぜ抵抗するのだろう。
防衛本能でそうするのなら、余計なお世話だ。
死なせてほしい。
生きていても意味がない。
どうか、勇気を授けて。
一歩踏み出すだけの、小さなものでいいから。
死を願った時、先ほど見た黒い煙が目の前を通った。
旋回するように、私の周りを飛んでいる。
何周かした後、顔の前で止まった。
よく見ると中央に球体があり、黒い煙状のものが覆っている形だ。
正体不明のそれに、なぜだか安心を覚える。
導いてくれるような期待感、すべてを受け止めてくれるような肯定感。
固く閉ざされていた死の門の鍵が、眼前に現れたように思った。
私は迷いなく右手を伸ばし、球体に触れる。
すると、黒い煙状のものが指先を伝って全身を包んでいった。
先ほどまでの恐怖が消え、死にたいという想いが湧き出るように溢れてくる。
――今ならできる
いつのまにか球体は姿を消していた。
でもそんなことはどうでもいい。
やっとこの世界から消えることができる。
ずっと思い続けていた死に指先がかかった。
震えが止まった足が、一歩ずつ天国へと近づいていく。
柵を乗り越え、ビルの淵に立つ。
遠くには三角形に配置された三棟のタワーマンションが見える。
灰色の空が纏う、くすんだ景色。
もう見なくていい。
もう傷を負わなくていい。
これでやっと、雨が止む。
目を瞑り、右足を踏み出そうとした時だった。
体の中に衝撃が走り、何かが胸の辺りから出ていく感覚がした。
「結」
後ろから男性の力強い声が聞こえ、足を戻す。
目を開くと、透明の壁のようなものが私の周りに張られている。
まるで結界みたいだ。
半径三メートルほどの球体の中に私はいる。
体を見ると、纏っていた黒い煙が消えていた。
「ギリギリでしたね」
声が聞こえ振り返ると、白い長羽織を羽織った女性と、二十代半ばくらいの男性が立っていた。
男性は右手を前に出しており、人さし指と中指の間にお札のようなものを挟んでいる。
お札の上部には『結』という文字が書かれており、下部には梵字のようなものが見える。
「怨念が強いね、ちょっと手こずるかも」
女性は私の上を見ていった。
視線を辿ると、黒い煙を覆った球体が結界に体当たりをしている。
中に入ろうとしているようだ。
「待っててね、なるべく早く終わらせるから」
女性は私に向けて言った後、一歩前へと出る。
瞬間、球体は体当たりを止め、纏っていた黒い煙を大きく広げた。
まるで女性を威嚇するように。
「元気がいいね。でも帰ってもらう」
女性は手に持っていた透明の水晶を、体の前に突き出した。
「厭悪に繋がれし魂よ、黒納の式により、憎しみで染まる邪念を鎮めよう。導くは霊納の師。魂を納め霊界へと逓送する」
女性が唱えると、水晶が光りだす。
「水晶よ、黒き魂を納めたまえ」
言下、黒い煙が水晶の方へと吸い寄せられていく。
が、抵抗するように球体は反対方向へと進もうとしている。
初めは均衡していたが、徐々に形勢は女性の方に傾いていった。
後ろ髪を引っ張られるように、球体を覆う黒い煙が少しづつ水晶へと引き寄せられていく。
「ギャァァァァァァァー」
球体は耳を劈くような、けたたましい声を上げた。
鼓膜を突き破られると思い、私は耳を塞ぐ。
「抗うな。お前の居場所はここじゃない」
女性がそう言った後、水晶は一層強い光を放つ。
球体はどんどん引き摺り込まれていくが、それでも抵抗をやめない。
「ここまでよくぞ耐え抜いた。その闇夜の鎖はここで断ち切る。だが、苦しみの果てに残した因果は我が心に刻もう」
女性の言葉で球体の抵抗力が落ちたように見えた。まるで諦めたかのように。
最後は唸り声を上げながら、悲しい余韻を残して水晶の中へと納められた。
透明だった水晶が黒く濁る。
「よし、終わり。後宜しく」
「はい」
男性は顔の前に札を持ってくると、
「護符よ、漂う陰の気を祓い彷徨う魂を守りたまえ。明」
お札の文字が『結』から『明』に変わると、男性は地面にお札を貼る。
すると、私の周りに張っていた透明の壁が、泡が弾けるように消えていった。
先程までは重く暗い雰囲気だったが、今は靄が晴れたような感覚がある。
いつの間にか雨は弱まっていた。
「空気が変わったでしょ?」
女性が私のそばまでくると、笑顔を向けてそう言ってきた。
大人びた顔立ちの中に可愛さも居住する。
年齢は三十代前半くらいだろうか。
華やかさがあり、綺麗な人だった。
「今のは自殺した魂。あなたを死に導こうとしていた」
さっきの黒い球体のことを言っているのだろうか。
「自殺した魂は現世に留まるの。まあ、それだけだったらいいんだけど、怨念がこもっていたり、長い間彷徨っていると、黒と言われる魂に変わる。黒は死を考えてる人間を引き寄せて自死へと導く。さっきのがまさにそう」
確かに死のうとした。
今までできなかったのに、なぜか恐怖心が消えた。
この人の言うことが本当なら、私は導びかれていたということだ。
「ちなみに、黒に変わる前の魂は白って言うんだ」
男性が来てそう言った。
表情に優しさが滲み出ており、柔らかく安心させるような声だった。
「自殺の名所ってよく人が亡くなるでしょ? あそこまでいくと回収するのが難しいんだよね。強すぎてこっちが憑かれるから」
「真由美さん、まずは彼女をこっち側にこさせた方が……」
「ああ、そうだった。危ないからおいで」
そう言われ、自分が淵に立っていることを思い出した。
下を見ると濡れたアスファルトが見える。
その瞬間、恐怖心が舞い戻ってきた。
咄嗟に手すりに掴まり、力強く握り締める。
まだ私は生きたいと思っているのだろうか。
ずっと死にたいと願っているのに、無意識に拒否反応を起こす。
こんな価値のない命なのに。
「あっ!」
女性が急に大声を出した。それに驚き私の肩がビクッと動く。
「直樹、これ」
彼女は私の左手の小指を差した。リボン結びが描かれたタトゥーのような印を。
「あっ!」
男性も同じように声を上げた。
二人は、口を半開きにしながら顔を見合わせている。
この印に何か意味があるのだろうか。
そう思っていると、女性が私に視線を向け、優しく微笑んだ。
「やっと見つけた」
閑静な住宅街から少し離れた所に、年季の入った日本家屋があった。
ここが彼女たちの家らしい。
二十分ほど車で揺られただろうか。
私の住んでいる所よりも、もっと静かな場所。
表札には神谷と彫られていた。
二人のどちらかの苗字なのだろうか。
夫婦には見えない。男性は女性に対し敬語だ。
玄関の中に案内されると、男性がバスタオルを持ってきてくれた。
濡れた髪や衣服を拭き、靴下を脱いでから家に上がる。
「それ乾かしとくから貸して」
バスタオルの上に靴下を置き、男性に渡す。
「温かいお茶淹れるから、居間で待ってて」
「直樹、霊師の本も持ってきて。この子に説明するから」
「分かりました」
男性は奥へと消えていった。
軋む廊下を真っ直ぐ進み、居間と思われる場所に案内された。
十二、三畳ほどの和室には、大きなちゃぶ台と格子がデザインされたローボード。その上にテレビが置かれていた。
女性は部屋に入るなり、障子を開ける。
そこには縁側があり、木枠のガラス戸の先には庭が見えた。
「綺麗でしょ」
女性は振り返り、笑みを浮かべて言った。
淡いブルーが寄り添い合う、濡れた紫陽花がしっとりと咲いている。
どこか儚く、切なさを纏う六月の花。
だがそこには悲しみさえも美しく思えるような、しおらしさがある。
まるで雨の形容詞のように。
「紫陽花って土の酸度によって色が変わるの。まるで人間みたいじゃない? どこで生きるかでその人の色が決まる。花も人も一緒。咲いては枯れてを繰り返しながら生きている」
紫陽花のような儚さが、彼女の表情に咲いていた。
色んな物語を見てきた人の顔。そう思った。
「とりあえず座って」
そう言われ、ちゃぶ台に着く。
彼女は私の前に座ると、澄んだ目でじっと見つめてきた。まつ毛が長い。
私は目のやりどころに困り、視線を俯かせる。
「そういえば名前言ってなかったよね?」
小さく頷く。
「私は北川真由美。さっきの優男は遠藤直樹。呼ぶ時は、真由美でいいよ。もう一人住んでるんだけど、そいつはほとんど家にはいないの。帰ってきた時に紹介する」
再度、小さく頷く。
その人が神谷だろうか。
「えっと……あなたの名前は?」
「いず……」
名乗ろうとした時、さっきの男性が入ってきた。
湯呑みを乗せたお盆を持っており、脇に古びた書物のようなものを挟んでいる。
「お待たせ」
湯気の立った湯呑みを、私と真由美さんの前に置いた。
「ありがとうございます……」
「そんな畏まらないで。それと敬語は使わなくていい」
姉がいたらこんな感じなのだろうか、ふとそう思った。
男性が脇に挟んだ書物をちゃぶ台に置き、私に視線を合わせてくる。
「そう言えば名前言ってなかったよね? 僕は……」
「今、私が言った」
「じゃあ改めて。僕は遠藤直樹って言います」
「直樹くんでいいから。そっちの方が話しやすいでしょ?」
真由美さんは朗らかに言った。
直樹くんは、優しく微笑んでいる。
「じゃあ説明しようか」
真由美さんは色褪せた書物を捲り、目の前に差し出した。
そこには、
【霊納師】 魂を納める者
【守霊師】 魂の守護者
【憑霊師】 魂を宿らせる者
【霊導師】 魂を導く者
【生梦葵】 生の道を作る者
と書かれている。
「私たちは霊師と言って、自死専門の霊能者。この霊納師って言うのが私で、魂を回収するのが務め。さっき見たでしょ?」
さっきは急すぎて状況が飲み込めなかった。
今思い返すと、視界に映ったすべてが信じられない光景だった。
あの黒い煙を覆った球体が人の魂……
「ちなみに僕は守霊師。魂を守るのが務め」
直樹くんは書物を指して言った。
「自殺した場所って陰の気が満ちるんだ。そこで命を絶つと、魂は黒になりやすい。回収できたとしても黒は怨念を残すから、後追いのように自死者が続く。だから護符を貼って気を浄化させるんだ」
「あのビルでは二人飛び降りてる。だとしたら魂は二つじゃないの?」
あの場には一つしかなかった。じゃあもう一人の魂はどこへいったのだろう。
「喰われたの」
真由美さんが言った。感情が剥落したような口調で。
「怨念の強い魂は別の魂を喰らい力を増す。さっきのは複合体。だから……もう一人の魂はもう帰ってこない」
死んだのなら帰ってくるはずがない。
なぜそんな言い方をしたのかが分からなかった。
「死者を増やそうとするのは、力を蓄えるためなんだ」
「その黒って言うのが、死にたいと思ってる人間を自殺させるんでしょ?」
直樹くんは頷く。
「なら死なせてあげればいい。それで解放されるんだから」
私の言葉が冷たい風のように部屋の空気を一変させた。
真由美さんも直樹くんも悲しそうに俯く。萎れた花のように。
「魂は霊界に行った後、次の体に宿り、来世を迎える。自殺した魂は脆い心で生まれてくるの。だから救う。また同じ道を歩まないように」
もう帰ってこない。
その意味は魂が無くなり、来世に命を引き継げないということだった。
「こんな不条理な世界に生まれるくらいなら、あの場で死んで魂を喰われた方がマシ。なんで……私のことを助けたの」
沈黙が降り、雨音が部屋を濡らす。
この人たちはきっと後悔しているだろう。
感謝すらしない人間を救ってしまったのだから。
あのまま死んでしまいたかった。
生きる気力もないし、永遠の中で眠っていたい。
もう誰も、私の命に触れないでほしい。
「でもね……」
真由美さんが、そっと口を開いた。
「魂は障害や困難を乗り越えると強度が増すの。ガラスのように繊細で割れやすかったとしても人は強くなれる。だから生きているうちに救わなければいけない。それをできるのが……」
真由美さんは私を指し、「君なの」と言った。
「名前は?」
「泉梨紗」
「梨紗はこれ」
真由美さんは書物に書いてある【生梦葵】を指した。
「結びの印が生梦葵の証」
左手の小指にある、糸で結ばれたような印。
知らない間に刻まれていたこれが、その証らしい。
「人が亡くなる夢を見るでしょ? あれは予知夢。今は力が不安定だから、どのタイミングで見るかは分からない」
「あっ」
「どうした?」
「さっきのビルで、女性が飛び降りた夢を見た」
前に夢で見た、ビルから飛び降りた女性。
白いワンピースを着て、遺書を遺していた人。
さっきのビルは夢で見た場所だ。
遠くに見えた三棟のタワーマンション。確か三角形に配置されていた。
高さ的にも同じくらいだったはず。
「自分の近くで亡くなる人を見るの。その人を救うために」
真由美さんはそう言った後、格子がデザインされたローボードを開けて、小さな木箱を取り出した。
「そこに仕舞ってたんですか?」
「文句ある?」
「もっと大切に保管してくださいよ」
「うるさいな」
真由美さんは口を尖らせながら蓋を開けると、中には綿に包まれた透明の勾玉が入っていた。
紐を通すのか、小さな穴が空いている。
「生梦葵だけが扱える勾玉。これを持ってると、夢で見る死を止めることができる」
「止める?」
真由美さんは勾玉を取り、私に差し出してきた。
「まずは握って」
そう言われ、勾玉を握る。
すると手の中で光が溢れた。指先から光線が漏れ、四方に散らばる。
あまりの眩しさに、手で目を覆う。
数秒後、光は眩さを徐々にしぼませ消失した。
「開けてみて」
真由美さんに言われ、ゆっくりと手を開く。
透明だった勾玉は薄い紫に変わっていた。
淡く優しい、柔らかな色。
「勾玉は梨紗ちゃんの魂と繋がっていて、力をもたらしてくれる。今までは夢で人の死を見ていたと思うけど、勾玉を通じて現実世界で見れるようになる。しかも、僕たちも共有できるようになるんだ」
「もう一人で見なくていいし、抱えなくていい。私たちも一緒」
直樹くんが言った後、繋ぐように真由美さんが言葉を添えた。
枯れかけた命に寄り添うように。
外は雨が止み、夜の帳を下ろしていた。
雲がかかっているため星は眠っている。
だが雲間から月の光が顔を覗かせ、陰鬱な暗闇をわずかに照らしていた。
私は車の後部座席から夜を見上げている。
心地よく揺れる車内では、真由美さんと直樹くんが明日の朝食について話しており、ごはんかパンかで争っている。
BGM程度に二人のやりとりを聞きながら、首にかけた勾玉をTシャツの中から取り出す。
直樹くんが無くさないようにと紐を通してくた。
淡い紫は、ときおり差し込む月の明かりで美しく輝く。
魂と繋がっていると言われたが、特別何かを感じるわけではない。
でも不思議と引き寄せられる。
まるで自分の命を見ているようで。
「そこを右」
住宅街に入り、坂を下った突き当たりを右折すると、二階建ての白い家が見えた。
私の家。
いや、逃げる場所のない空気の薄い監獄。
心臓が悲鳴を上げるように、鼓動が早くなる。
帰りたくはないが、ここ以外に私の戻れる場所はなかった。
家の前に着くと、前に座る二人が振り向く。
「ごめんね、遅くまで」
真由美さんたちから説明を受けた後、私は眠ってしまった。
急に疲労感に襲われ、知らない間に目を閉じていた。
起きた時に聞いたのだが、黒の魂に憑かれと精気が吸い取られるらしい。
今もまだ倦怠感が残っている。
「ねえ、連絡先教えてよ」
真由美さんがスマホを掲げた。
「家にあるから、取ってくる」
車から降り、音を立てずに門扉を通る。
踵から下ろし、徐々に足裏の設置面を増やしていく。
静けさを壊さないようにしながら、空気のように。
ポケットから鍵を取り出し後、ゆっくりと玄関ドア開けた。
リビングの扉は閉まっているが、すりガラスから明かりが漏れているため、そこに人がいるのが分かる。
また出て行くので、鍵は開けたままにした。
靴を脱ぎ、すり足で階段を上がろうとした時、
「クシュん」
雨に濡れたからだろうか、くしゃみが出た。
咄嗟に口を押さえるが、もう遅い。
「おい、つまみ買うのに何時間かかってるんだよ。本当に無能だな、お前は」
リビングから父が出てきて、“お帰り”の代わりに罵声を浴びせられた。
心が凍りつくような冷たい温度で。
「ごめん……」
父は私の手元を見た。
見下げた瞳が温度を灯し、沸騰していくのが分かる。
「買ってもねえのか?」
ポケットからシワだらけの千円札を取り出し、父に返す。
「色々あって、買えなかった。ごめ……」
言い切る前に、父が平手で頬を叩いてきた。
熱く痺れた感覚が、じわじわと肌の表面へと上がってくる。
言葉が出なかった。今まで罵倒されたことはたくさんあったが、手を出されたのは初めてだ。
怖い――全身が震え、体が硬直する。
「来い、クソ女」
父は私の髪の毛を掴み、そのままリビングへと向かっていく。
(やめて)
そう言いたかったが、声がでない。
髪の毛が引きちぎられるかと思うほど、強い力で引っ張られれている。
リビングに入ると母がダイニングでくつろいでいたが、この光景に目を丸くし、唖然としている。
「ちょっとあなた、何やってるの」
「馬鹿は力で躾けないと理解できないらしい」
そう言った後、父はダイニングテーブルに私の顔を押し付けた。
抵抗して顔を上げようとするが、びくともしない。
「てめえみたいな出来損ない、早く死んじまえ」
怒声を上げながら、父はさらに力を強めてテーブルに押し付ける。
「あなた、近所に聞こえる」
「なんでお前みたいな奴が産まれてきたんだよ。なあ、早く死んでくれよ」
母の言葉を無視し、父は暴言を降らせる。
「餌だけ食って、何も生み出さない牛以下のクソが。こんな不良品を養ってるこっちの身になってみろ。何も考えずに生きてるから、毎日楽しいだろう? いいよな、育ててもらってるだけの家畜は。寝てるだけでいいもんな」
「あなた、声を小くして。聞こえちゃうから」
母は止めようとはしなかった。
娘よりも体裁の方が大事らしい。
「殺してよ……そうしてくれたら楽になれるから」
どんな道を進もうと、私が望むのは死だ。
それさえあれば、もう他になにもいらない。
「そうか、分かった」
父はそう言うと、私を壁際に投げ飛ばした。
サイドボードに腰を打ち付け、上に乗っていた犬の置き物が床に落ちる。
視線を父に向けると、テーブルに置いてあったマグカップを手に取っていた。
冷酷な目で私を見ており、殺気すら感じ取れる。
声も、心臓も、感情も支配されているようだった。
すべてが色を失ったように真っ白になる。
――殺される
そう思った時、父はマグカップを投げつけてきた。
頭を腕で覆い、咄嗟に体を竦める。
すると、パリーンという音が部屋に響いた。
後ろにある小窓が割れており、マグカップより一回り大きい穴を開けていた。
「もうやめて、近所の人が警察呼んじゃう」
母が必死に制止しているが、父の形相は変わらない。
殺気を込めながら、こちらへと歩いてくる。
体が動かなかった。
恐怖が鎖のように纏わりつき、全身を拘束する。
足が痙攣するように震え、口元からは言葉を失った息だけが漏れていた。
父は私の前に来ると、襟を掴んで床へと押し倒した。
そして私の首を絞めて、汚れた言葉で息を詰まらせる。
「お前みたいな人間は生きてる価値なんてない」
意識が遠のいていく。
母が何か声を上げてるが、ぼやけて聞き取れない。
でもやっと死ねる。
こんな形ではあるが、この世界から存在を消せる。
現世という地獄から抜け出せるなら、私はゴミのような命を喜んで差し出す。
もう産まれたくない。
楽にさせてほしい。
生きていても、死んでるようなものだから……
「おい、コラ!」
声と同時に、上に乗っていた父が誰かに蹴られ、私の視界から消えていった。
絞められていた気管に酸素が送られてくる。
「大丈夫、梨紗」
喉を抑え咳き込んでいる私に、女性が話しかけてきた。
霞んでいた視界の解像度が上がり、真由美さんだと分かる。
後ろには心配そうな表情をした、直樹くんが立っていた。
「ちょっと誰なの?」
母が困惑した様子で真由美さんと直樹くんを見てる。
「何やってるの?」
真由美さんは激しい剣幕で父を睨んだ。
「誰だ、お前ら! 人の家に勝手に入って……」
「あんた父親だろ! 自分の娘になにしてるのか分かってんの」
「警察呼びますね」
母はテーブルの上にあったスマホに手を伸ばす。
「呼んだら。娘に暴力振るってた理由が説明できるならね」
真由美さんの言葉で、母の指は止まる。
「梨紗はうちで預かる。死なせないためにも」
「そんなの誘拐じゃない」
「誘拐? これは保護っていうの。どの面が被害者ぶってんだよ」
「じゃあ……」
倒れていた父はゆっくりと立ち上がった。
「こいつの学費や、その他諸々の経費、お前が全部払えよ」
自分の娘に使うお金を経費と呼ぶのは、世界でこの人だけだろう。
「全部払ってやるよ。大学に行きたいって言ったら行かせる。やりたいことがあったら応援する。好きな人ができたら相談にのる。あんたが親としてできなかったことを私がやってやるよ。だから金輪際、この子には近づくな。もし目の前に現れたら、その腕と首へし折って玄関に飾りつけるからな。分かったかクソ親父」
真由美さんは最後に中指を上げ、睨みを利かせた。
ほとんどチンピラだった。
でも嬉しかった。
その言葉ひとつ、ひとつが、枯れた心に水を与えてくれるようで。
「梨紗ちゃん、起きれる」
直樹くんの優しい声が耳もとに響く。
小さく頷いた後、直樹くんは背中に手を添えて、起き上がるのを手伝ってくれた。
「梨紗、荷物まとめて。こんな肥溜め出て行くよ」
「お前らも、二度と近づくんじゃねーぞ」
「言われなくてもそうするよ、クソ親父」
真由美さんたちと二階に上がると、自分の部屋のドアの隙間から、弟が覗いているのが見えた。
目が合うと、ドアを急いで締めた。
たぶん一連の流れを聞いていただろう。
どう思っていたかは知らないが、その目は怯えているように見えた。
これからもっと勉強に励むかもしれない。
私みたいにならないように。
薄暗い六畳の和室には月の明かりが差し込んでいた。
暗闇を照らすように、窓の外から一筋の道を描いている。
――今日からここが梨紗の家だから
真由美さんはそう言ってくれた。
生まれて初めて、自分の居場所ができたような気がする。
着替えや教科書などが入った大きなボストンバックと学生鞄。
壁にかけられた制服。
中央に敷かれた布団。
私は部屋の隅で体育座りをしながら眺めていた。
殺風景だが、心はどこか暖かい。
梅雨闇に吹いた風は雲を拭い、空の輪郭の一部を見せてくれた。
この穢れた世界には、まだ芽が育つ場所があるのかもしれない。
「梨紗、入っていい」
「うん」
襖が開くと、寝巻き姿の真由美さんが入ってきた。
私の隣に腰を下ろすと、シャンプーの甘い香りが鼻をかすめる。
隣に誰かがいることで安心するのは初めてかもしれない。
欠けてしまっていたものが、何かで埋められているようだった。
「私の親ね、アル中だったの。毎日のように私を罵ってくる最低の人間だった。だから高校を卒業してすぐに家を出た。あんな所にいたくなかったから」
私も高校を卒業したら、家を出る予定だった。
それまで生きていればの話だが。
「昔からあんな酷いことされてたの?」
「手を上げられたのは今日が初めて。それまでは私も罵られてた。子供の頃から厳しくて、テストで一問でも間違えると怒られる。褒めてもらいたくて勉強に明け暮れたけど、『できて当たり前』という言葉で全部片された」
その頃は親だけを見てた。
どんなことをすれば喜ぶのか、どんなことをしたら怒るのか、顔色を伺いながら生きていた。
「両親は学歴がすべてだから、幼い頃から成績だけで見られてるような気がしてた。紙の上に記された数字だけが自分の居場所なんだなって。だから確認したかったの。わざと受験を失敗して、親がどう反応するかを。もしかしたら私の勘違いかもしれないから」
結果は見ての通りだ。
私はただの数字でしかない。
人ではなく、親の自尊心を高めるための道具。
それを確認することができた。
「それから言葉は激しさを増した。『お前は社会のゴミ』、何度も何度も頭の中に刷り込まれた。でもその通りだと思う。私には価値なんてない。だから死ぬことだけが希望なんだよ」
救われなくてもいい。
ただ、静かに消えてしまいたい。
今の私はそれだけを願っている。
「人ってさ、自分じゃ測れないものは否定するの。文句ばかり垂れてる人間は持ってる物差しが短いんだよ。そんな奴の言うことなんて気にしなくていい。否定されるってことは、それだけ大きいってこと。梨紗が悪いわけじゃない」
初めて自分という存在が肯定された。
産まれてはいけない人間。
そう思いながら今日まで過ごしてきた。
こんな私でも生きていいんだろうか。
そんな疑問まで頭の中に湧いてくる。
「ここには梨紗を否定する人はいない。だから好きなように生きればいい。辛い時は、私や直樹がいるから」
おやすみ、そう言い残して真由美さんは部屋を出て行った。
心の中で何かが揺らいでいる。
でもそれが何かは分からなかった。
部屋に差す月の明かりが、いつもより綺麗に見えた。
ビルの淵で佇む女性。
遠くには、夜を照らす三角形に配置された三棟のタワーマンション。
女性の足元にはヒールが綺麗に揃えられており、踵の部分を重石にして、白い封筒が置かれていた。
きっと最後の言葉を綴った手紙だろう。
絶望という想いを筆に染めた、遺書という名の片道切符。
私は彼女の後ろ姿を羨望する。
この穢れた世界から散ってゆけるのだから。
背中を押すような風が吹くと、彼女は掴んでいた手すりを離した。
そして体を前方に傾けると、白いワンピースを纏った痩躯が、屋上から姿を消す。
とても静かに、一瞬で霧散するように、始めからそこに何もなかったように。
空が眠る雨の中。
星すら見えない夜の底で、一つの灯火が吹き消された。
エンドロールのない物語にピリオドを打って。
*
目を覚ますと、窓を叩く雨が鼓膜に響いた。
啜り泣くように小さく打ちつける音は感情に雲をかける。
人が死ぬ夢はこれで三度目だ。
見始めたのは二ヶ月前。
一度目は、車内で煉炭を焚いた男性。
二度目は、交差点に飛び出した同い年くらいの女性。
なぜか分からないが、夢の中だというのに意識ははっきりとある。
そして三回とも自死だった。
正直羨ましい。
知らない誰かが消えていくたび、その誰かがいつか自分であったらと思う。
夢ではなく、この穢れた世界で。
ベッドから起き上がり、壁にかけてある制服に手を伸ばす。
シャツ、スカート、リボン、ブレザー、その一つ一つを身につけるたび、憂鬱が肩を叩いてくるようだ。
この世界で唯一の居場所である自分の部屋。
ここから出て行けば雨に晒される。
その無慈悲で冷たい悲しみは、傘を持たない人間の心に死を咲かせる。
曇った視界に映る朽ちた花を、今すぐにでも摘んであげたい。
苦しみながら生きるより、消えてしまった方が楽だから。
着替えが終わり、階段を静かに下りる。
存在を消し、一段一段ゆっくりと。
一階に着き、玄関に向かおうとすると、リビングから声が聞こえた。
父と母、そして弟の楽しそうな会話だ。
「駿が中間テストで学年一位だったの」
「お母さんはしゃぎすぎだよ。学年で一位取るくらい、誰にだってできるよ。それよりも模試で結果を出さないと」
「その通りだ駿。偏差値の低い奴なんて社会のゴミだ。学歴がなければ誰にも認めてもらえない。お前の姉みたいに受験で失敗し、肥溜めみたいな学校に行くような奴は一生家畜のような生き方になる。一度道から外れれば、いくらでも補充の利く人間として扱われ、必要とされずに落ちぶれていくぞ」
「僕は大丈夫だよ。逆にどう生きたら、あんな底辺に堕ちるのかを聞いてみたい」
「なんで梨紗みたいな子が産まれたのかしら。駿は良い高校に入って、西大に合格してね」
「当然だよ」
穢れた言の葉が雨のように降りかかる。
心臓をきつく締め、また一枚花びらを落とす。
むしろ躊躇いなく枯れてほしい。
色褪せた醜い命に価値なんてないのだから。
駅のホームには天国と地獄の境界線がある。
黄色い点字ブロックが一直線に並ぶ、世界を分断する境界線。
地獄側にはたくさんの人たちが列をなしており、陰鬱な雰囲気が立ち込めている。
隣に立つスーツを着た男性。
その顔はくたびれており、萎れた背中が希死念慮を煽る。
大人になっても希望なんてない――そう言われてるようだった。
生きていても絶望が繰り返されるだけで、幸せなんてものは幻想の中にしか存在しない。
人が溢れる朝と夜のホームには、死ぬ理由が敷き詰められていた。
アナウンスが鳴ると、天国の切符を携えた電車が視界に映る。
右足をゆっくりと境界線の上に乗せ、天国の淵へと一歩近づく。
――なんで梨紗みたいな子が産まれたのかしら
母の言葉が頭の中に響く。
産んでほしいなんて頼んでいない。もし選択できるのなら、私はこの世界に存在していないだろう。
死ぬことができたら、傷が付くことも悲しみに溺れることもない。
何も感じないことが、私にとっての幸せだ。
左足を前に出そうとした時、急に恐怖心が湧き上がった。
両足が竦み、前に踏み出せない。
死にたいはずなのに、心と体が拒んでいるようだった。
自分の意思すら持てない。望んでいるものすら手にできない。
死という希望が遠のいていき、絶望の底へと再び落とされた。
瞬間、前髪が靡く。
顔を上げると電車が目の前を通過していった。
天国の切符が、今日も指からすり抜ける。
誰かと戦う勇敢さ、何度躓いても立ち上がれる強さ。そんな力はもう望まない。
たった一歩、その一歩を踏み出せる勇気が欲しい。
パンの空袋、飲み干された紙パックのジュース、潰された空き缶。
下駄箱の中には、いつもの光景が広がっていた。
廃棄物に埋もれると、上履きすらも汚れたものに見える。
普段から自分が履いているものだとしても。
捨てられたゴミを下駄箱脇のゴミ箱に戻す。
これが学校に来て、一番初めにやることだ。日課と言ってもいい。
靴を履き替えた後、教室へと向かうため階段を上る。
喧騒を浴びながら、一段一段ゆっくりと。
会話に花を咲かせる生徒たちの声は、煩わしい蝉の声と似ている。
夏の暑さを強調するようなノイズ。
仲睦まじそうに笑う声が孤独を一層、際立たせる。
「大学どこ行く?」
前を歩く二人組の声が耳に入る。
「西大」
「いや、無理でしょ。うちの学校では」
心臓に突き刺さるようだった。自分を否定されてるようで。
普通はそう思うことはないだろう。
だが学歴主義の家庭で育った私にとって、傷を抉られるような言葉だった。
本当は競い合いたくない。ただ普通に生きたかった。
友達と青春を謳歌し、何でもないことで笑いあう。
小学生の頃はそんな日々を夢見ていたが、父は英才教育という名の鎖で私を縛り付けた。
――凡人と付き合っていたらお前も馬鹿になる
――あいつらみたいに遊んでいたら将来苦労する
――友達なんてただの飾りだ。優秀な人間とだけ時間を過ごせ
鞭のように叩きつけられた言葉で、私は友達を作ることはおろか、遊ぶことさえも許されなかった。
今は弟に全てを賭けているようで、家では空気のように扱われている。
この女子校でも同じようなものだが。
三階に着くと、「泉さん」と後ろから声をかけられた。
振り向くと、同じクラスの樋口琴葉が階段を駆け上がってきた。
艶のあるミディアムボムを揺らし、透き通った肌が辺りを照らしているようだった。
「おはよう」
彼女は潤んだ唇を上げ、澄んだ目を輝かせて言った。
「……おはよう」
樋口さんとは友達ではない。
でも彼女はいつも声をかけてくる。こんな価値のない私に。
「梅雨はジメジメするから嫌だね」
「……うん」
肩を並べながら、一番奥にある教室へと向かう。
朝の廊下には笑声が咲き誇り、色とりどりの音色が鼓膜の中へと注がれていく。
私にとっては卑屈の度数が高すぎる。
他人の笑い声を聞くと感情が悪酔いするから。
四組から出てくる三人組が目に入り、いつものように無意識に顔が下がった。
周りで咲いていた声も萎れ、会話のボリュームが小さくなっていく。
壁際に寄る生徒たちが視界の隅に映り、私と樋口さんも同じように道を開ける。
壁に沿いながら目線を合わせないように、ゆっくりと歩く。
闊歩する彼女たちが近づいてくると、恐怖心で体が縮こまっていった。塩をかけられたカタツムリのように。
すれ違い様、三人組の一人が肩をぶつけてきた。壁際にいたのに。
顔を上げると、藤本千尋が見下ろしている。
隣には嘲笑を浮かべた中山愛美と、無機質な表情の平田明日香。
「何か言うことは?」
“ぶつかってきた”藤本が言った。
「……ごめん」
私が謝ると、中山が頭を撫でてくる。
「偉いね、謝れて。でも次は気をつけてね。存在自体が邪魔なんだから」
藤本と中山の劈くような笑い声が耳に入る。
「あっ、こいつタトゥー入れてる」
藤本は私の左手を取り、宙に掲げた。
左手の小指には、糸でリボン結びされた、タトゥーのようなものが施されている。
「何これ、自分でいれたの?」
「違う」
藤本の問いに答えた後、すぐさま左手を引っ込めた。
このタトゥーのようなものは、いつの間にか小指に刻まれていた。
たぶん、人の死ぬ夢を見始めた辺りから。
「隠すなら入れるなよ」
「あんまり調子にのっちゃダメだよ。泉みたいなゴミは」
「言えてる」
罵詈雑言を吐き捨て、三人は去っていった。まるで嵐のように。
これも日課のようなものだ。
被害を最小限にするため、ただ受け止める。
反発すれば傷が付くだけ。無駄に争う必要はない。
「ごめんね……」
零れた言葉を拾うように振り向くと、樋口さんは顔を歪めて俯いており、その拳は強く握り締められていた。
「頼んだのと違うんだけど」
ひび割れた声が女子トイレに響く。
「私が頼んだのはクリームパンじゃなくておにぎり。日本語も分からないのかよ。このゴミは」
「泉には少し難しすぎたかな。日本語って難しいもんね」
「いや、流石に間違えないっしょ」
藤本と中山は笑った。
片方の口角だけを上げ、見下していることが明らかな目で。
二人の後ろには平田が立っている。
感情すら見えない冷えた視線を向けており、何を考えているかは分からなかった。
「クリームパンって言ってた。間違いなく」
つい反論してしまった。火の中に油を注ぐようなものだ。
「言い訳するの? ゴミのくせに。自分のことを棚に上げて人のせいにするんだ。そんな奴だとは思わなかったわ」
藤本は不快そうな顔で袋を開封し、パンを取り出した。
半分に千切ると、私の肩の辺りに思いっきり投げつけてきた。
ブレザーにクリームがべったりと付く。
「ムカつくからさ、歯向かわないで。次は許さないから」
苛立った顔を近づかせ、吐き捨てるように藤本は言った。
「こいつの顔見てるとストレス溜まるから行こうぜ」
もう片方のクリームパンを食べながら、藤本は去っていった。
「結局食うのかよ」中山が後に続く。
顔を上げると、平田が冷え切った目でこちらを見ていた。
凍りついた瞳は、一言で言うと無関心。
私の目にはそう映った。
そして黙ったまま横を通り過ぎていく。
そこに何もいなかったかのように。
外は小雨が降っていた。
霧のような儚い水滴が肌に触れる。
私はブレザーに付いたクリームを洗い場で落としていた。
指で拭った後、ハンカチを水に濡らし優しく叩く。
シミにはならなそうだが、また一つ心に傷を作った。
瘡蓋にすらなれない痛み。
腐食していく感情は、喜びと怒りを忘れさせる。
始まりは、長い雨が降る一年前の六月だった。
「成績が良いからって、あんまり調子に乗るなよ」
藤本が言ったこの言葉から、私の学校生活には雲がかかり始めた。
入学してからテストは常に一番だった。
負けたくないとか、自尊心を守りたいとか、そんな理由ではない。
父に罵声を浴びせられるから。これだけだ。
怒られないために勉強を続け、ただひたすら机に向かう。
私の青春は教科書に埋もれていた。
二年生にあがり、藤本たちと同じクラスになった。
彼女たちは意味もなくターゲットを決め、侮辱という娯楽で悦に浸っていた。
一年の時からずっと。
だから関わらないように生きてきた。
学校という狭い世界。
その片隅で身を潜め、なるべく目立たないように影を歩く。
特別なものよりも、何もない平穏を願っていたから。
一学期の中間テストが返却され、順位が廊下に張り出された。
「また泉さんだ」
「本当に頭良いよね」
一番上には私の名前、その下には平田明日香。
一年の時から変わらない風景だったが、彼女たちは不満に思っていたらしい。
「調子に乗るなよ」
藤本たちに呼び出され校舎裏に行くと、そう言われた。
「明日香さ、今回は一位取るって頑張ったんだよ。なのに、なんでいつも邪魔するのかな?」
中山が詰め寄ってきて、壁際に追いやられる。
周りを見るが平田の姿はなかった。
どうやらこの二人だけらしい。
「邪魔なんてしてない」
「明日香はさ、バイトもしてるの。塾だけ行ってればいい、お前とは違う。それって不公平じゃない?」
藤本が顔を近づけて言ってきた。香水の匂いが鼻に刺さる。
「そんなこと言われても……」
「おい!」
藤本の手が私の顔を掠め、壁を強く叩いた。
「期末で明日香より上に行ったら、どうなるか分かるよね?」
この世界は理不尽だ。
勝手に雨を降らせ、傘すらも取り上げる。
命は色褪せていくのに、それでも迎合させようとしてくる。
私が小さく頷くと、藤本たちは満足そうな顔で去っていった。
一学期の期末は順位を一つ下げ、二番目に着いた。
わざと問題を間違え、点数を調整したから。
「勉強しか取り柄がないのに、もう何も無くなっちゃったね」
藤本が嘲笑しながら言ってきた。
悔しかったが、何も言わずに耐えることにした。
平穏が欲しいから。
家に帰り、順位を父に報告すると激怒された。
「お前には今後一切、金をかけない。塾も行かなくていい。全部駿に回す。俺の顔に何度泥をかければ済むんだ」
受験を失敗した時から失望されていたが、今回は見捨てられたと言っていい。
その日から、家では空気のように扱われるようになった。
それは学校でも同様だった。
関わりたくなかったのに、藤本たちは私を虐げるように罵声を浴びせる。
「バカが来た」
「ゴミ同然」
「お前がいると空気が汚れる」
なんのために、点数を落としたのか分からない。
失っただけで、得るものなんてなかった。
彼女たちは嫌がる人間の顔を見ては、楽しそうに笑みを浮かべる。
だから私は反応しなかった。その方がすぐに止むと思ったから。
でも降り続いた。六月の雨のように。
誰にも助けは求められない。私も見て見ぬふりを続けた。
自分に害が及ばないように、息を殺しながら日常を過ごしてきた。
残された道は“命を絶つ”だけ。
この穢れた世界から早く消えてしまいたい。
私が神様に頼むことは一つだけ。
死ぬ勇気をどうか授けてほしい。
それ以外に何も望まないから。
放課後の喧騒を縫って昇降口まで辿り着く。
長い一日を終える瞬間が、唯一の至福とも言える。
靴を取り出そうとした時、丸められた紙が下駄箱に投下された。
後に続くように、紙パックのジュースも。
「ここにゴミ箱欲しかったんだよね」
「分かる。でも靴入ってなかった?」
「それもゴミでしょ」
藤本と中山が、笑いながら靴を履き替える。
自分の所有物ですら他人にゴミだと決めつけられてしまう。
この場所では意思すら持てないみたいだ。
「ファミレス行くの?」
後から来た平田が、二人に問いかける。
「もち」と、藤本が返す。
私は立ち尽くすだけだった。
それ以外の選択肢はない。
ただ過ぎ去るのを待つだけ。
そうすれば雲は流れていき、雨は別の場所へと移動する。
三人の声が遠ざかるのを感じ、下駄箱に入れられた廃棄物をゴミ箱へと捨てる。
こんな風に簡単に命を投げ捨てられたら、どれだけ幸せなのだろうか。
そんな想いを抱きながら、ゆっくりと昇降口を出た。
青を奪う灰色の空は今にも泣き出しそうだ。
色彩を散らせ、無彩色で視界を染めていく。
不安定な表情を見せる曖昧な空は、私の心を描いているようだった。
駅前に着いた時、空の涙腺が緩んだ。
感情を高ぶらせるように、土砂降りの雨が針のように肌を突き刺す。
まるで人間みたい。
笑ってたかと思えば急に泣くし、突然怒号を響かせたりもする。
こんな気ままに感情を出せたら、どんなに楽なんだろう。
周りにいた人たちは急いで駅に向かっていく。
濡れるのを嫌がるように。
人は雨を避ける。打たれない居場所を探し、止むまで待ち続ける。
でもそんな場所、この世界のどこにあるのだろうか。
傘を持てない私は、死ぬことでしか雨宿りできない。
色褪せていく命を守るためには、命を捨てて傷が付かないようにするしかない。
それが唯一、救われる方法だから。
【北川真由美】
仏壇には二十代前半の男性の写真が飾ってあった。
満面の笑みを浮かべ、ピースサインをしている。
北川真由美と遠藤直樹は線香をあげた後、両の手を合わせ目を瞑った。
「二年くらい会ってなかったんです。まさか自殺するなんて……」
真由美たちがダイニングに着いた後、亡くなった男性の母がそう言った。
彼は二ヶ月前、樹海で首を縊った。
有名な自殺の名所だ。
遺書には人間関係に悩んだ末、命を絶ったと書かれていらしい。
「元気で優しい子でした。友達にも慕われていて、家族想いだった。それなのに……」
男性の母は歯を食いしばった。涙を堪えようとしているのが、目に見えて分かる。
「心中お察しします」
直樹は寄り添うように言葉をかけた。
「息子さんの左手の小指に、糸でリボン結びされたような印があったとお聞きしたんですが」
真由美が尋ねると、男性の母は目を拭って「ええ」と答えた。
「遺体を見たときに初めて知ったんです。タトゥーを入れたのかと思って驚きました。そんなの入れるような子ではないので。でも……」
「でも?」
言葉が澱み、直樹が合いの手を入れる。
「火葬の時には消えていたんです。その糸みたいな印が」
シールだったのかしら、と男性の母は首を傾げている。
「他に変わったところはありませんでしたか?」
直樹の問いに一考した後、思い出したように女性は口を開いた。
「賢治には小学校の時から仲の良いお友達がいるんです。その子から聞いたんですが、“人が死ぬ夢“をよく見るようになったと言っていたらしんです」
「賢治くんが?」
「はい。それも全部自殺だったらしくて……もしかしたらその夢に引っ張られたのかも」
真由美と直樹は顔を見合わせた。
「夢を見るようになったのが、いつ頃からか分かりますか?」
「一年前だと聞きました。友達の子が言うには、その時から自殺を考えていたんじゃないかって……」
真由美は仏壇に飾ってある写真に視線を向ける。
「不条理だよね、この世界は」
早すぎる死を弔いながら囁いた。
フロントガラスに付いた雨粒をワイパーが弾く。
目の前の景色が鮮明に映るが、降り続く雨によって、すぐに視界が曇る。
拭っても止まない涙のように。
「やっぱり生梦葵でしたね」
運転席の直樹が言った。
「うん」
助手席に座る真由美は、ぼんやりと外を眺めながら答える。
「早く見つけないといけないのに、ほとんど共通点がないですよね。性別も年齢もバラバラだし、出身地も違う。唯一同じなのは……」
「死にたいと思っていること」
真由美は語尾を縫い合わせるように言葉を繋げた。
「なんで自死を考えている人間に継承するんだろう」
「分からない。でも意味があるんだと思う。死を纏った人間を選ぶ理由が」
「真由美さんは生梦葵に会ったことあります?」
「一度だけね。でもすぐに会えなくなった」
「なんでですか?」
真由美は少し間を置いた後、
「命を終わらせたから。自らの手で」と零すように言った。
聞いたことを申し訳ないと思ったのか、直樹は噤むように口元を固く閉じた。
「京介や司と出会ってすぐだったから、十年くらい前だったかな」
「そうだったんですね……」
「生梦葵に選ばれた人間はいつ命を絶つか分からない。それほど、死と近い位置にいる。だから次会った時は救ってみせる。絶対に」
直樹の表情に陰りが見えたため、真由美は語尾のトーンを上げた。
「そうですね。早く見つけましょう。その人のためにも」
直樹の顔に陽が差す。
「昼飯は焼肉行くか」
「ダイエットするって言ってませんでした?」
「明日からやってみせる。絶対に」
「そのトーンで言わないでください。良いセリフが台無しです」
「どうぞ」
「サンキュー」
直樹がちゃぶ台に湯呑みを置くと、畳で寝転んでいた真由美は体を起こした。
セーターの袖を指先まで上げ、湯気の立った湯呑みを両手で持つ。
フーっと、三回ほど息を吹きかけた後、真由美はお茶を口に運んだ。
「テレビ付けていいですか?」
「うん」
直樹がテレビを付けるとドラマが流れた。
時間帯的に再放送なのだろう。
学園モノのようで、若い俳優たちがメインとなっている。
真由美はあまりテレビを見ていないので、ほとんど知らない人だった。
「この子、最近よく出てますよね」
直樹が指したのは、二十代前半と見られる女優だった。
シャープな輪郭にくっきりとした大きな目。
筋の通った鼻筋の下には、ふっくらとした紅い唇がバランスよく配置されている。
胸元まで伸びた黒髪は、芸能人を象徴とするような艶やかさがあった。
彼女だけ明らかに周りとは違う。
凛とした雰囲気が、場を支配しているようだった。
「綺麗な子だね」
「確か、神原優花って名前だったかな」
「へー、若い頃の私に似てる」
直樹が怪訝な目で真由美を見た。
「その目はなんだ。目ん玉引っこ抜いて庭に埋めるぞ」
「なんで抜くんですか。それと庭に埋める必要ないでしょ」
「来年の今頃には、立派な目ん玉が咲くから」
「気持ち悪いのでやめてください」
再びテレビに視線を戻すと、神原優花が笑顔を咲かせて演技をしていた。
真由美はその笑顔に、どこか寂しさを覚える。
今にも枯れてしまいそうな儚い花のようで。
「真由美さん、明日魂の回収に行きますから、ちゃんと起きてくださいよ」
「えー、昼からじゃダメ?」
「この間、飛び降りがあったビル、今年で二回目らしいです。魂が黒に変わってる可能性があるので、できるだけ早く回収しましょう」
「それなら、しゃあないか」
真由美は再びお茶を口に運んだ。
視界には神原優花が映る。
【泉梨紗】
窓を撫でるように落ちていく雫を、ただ静かに眺めていた。
小雨が降る土曜日。
部屋の中に差す灰色の光。
すりガラスから見る外の世界は、ぼやけてくすんでいる。
私の瞳と一緒だ。
生まれてから今日まで、晴れた景色を覚えていない。
青い空を最後に見たのはいつだったのだろう。
そもそも見たことがないのかもしれない。
もはや、それすらどうでもいい。
学校が休みの日は一日中、部屋の中で過ごす。
この空間だけが唯一の居場所だ。
外の世界を遮断する四畳半の天国。
誰にも邪魔されないし、誰にも会わなくて済む。
家族が旅行に行っている時は尚良い。
ベッドに横たわりながら、お気に入りのプレイリストを聴く。
死を分かち合えるような曲目を永遠にループさせ、一枚、一枚、花びらを落とす。
命という花の。
ドンッ
部屋の扉が急に開き、父が入ってきた。ノックもせずに。
「おい」
イヤホンを外し、ベッドから体を起こす。
「学もない奴が、なに寝てるんだよ。お前みたいな社会の底辺は、人の何倍も努力しないと生きてる価値なんてないぞ」
罵倒という雨が私の世界に降り注ぐ。
そしてまた、心が色褪せ枯れていく。
「あんな学校で一番も取れない奴が、よくこの家に居れるな。親族の恥なんだよ、お前は」
唯一の居場所である自分の部屋ですら、平穏に過ごすことができない。
いっそのこと殺してほしい。
必要のない人間なら廃棄すればいい。
苦しんで生きるぐらいなら、雨が降り続くなら、こんな命など消えてしまえばいい。
「ちょっとあなた、そんな大声あげないでよ。可哀想じゃない」
母の言葉で雨が降り止んだ。
溜まった水が抜けると、私は自然と大きく息を吸った。
「こんな奴を庇うのか? 無能の役立たずを」
「違うわよ。駿が勉強してるから集中できないでしょ? それに近所の人に聞かれたら困るじゃない。学もない人間が、うちに居るなんて知られたら」
少しだけ期待したのが間違いだった。
母も父と一緒だ。
学歴がすべて。それ以外は空気と変わらない。
だから私はこの家では存在しない。
不必要な人間だから。
「確かにそうだな」
父はポケットから千円札を取り出し、私の前に放り投げた。
「適当につまみ買ってこい。馬鹿でもそれくらいはできるだろう」
父と母は部屋から出て行った。
安寧の地に大雨を降らせ、荒廃という余韻を残して。
部屋着を着替えた後、コンビニに向かうため玄関に向かった。
靴を履き替えていると、弟が二階から降りてきて私を一瞥する。
「フンッ」
鼻で笑い、そのままリビングへと入っていった。
消えてしまいたい。
泡のように弾けて、初めから何もなかったように。
涙のような雨が傘を叩く。
憂いながら、ぽろぽろと泣くように。
灰色に覆われた住宅街は、異様な静けさだった。
人工的な音が一切感じられない独特な空気感。
啜り泣く雨のみが鼓膜に届く。
死ぬならこんな日がいい。
誰にも気づかれず、知られないまま、ただ静かに命を廃棄する。
生きていたことを周りに忘れ去られるような、そんな消え方をしたい。
ずっと勇気が欲しいと願っていたが、今日ならできるかもしれない
稚拙な物語を破り捨て、醜い花を泡沫のように散らせる。
そんな勇気が持てそうだった。
マンションが並ぶ通りに来ると、古びた雑居ビルが目に入った。
壁は剥がれ、ところどころにヒビが入ってる。
入り口のところには献花が供えられており、雨に打たれて萎れていた。
先日、女性が飛び降りて亡くなったらしい。
二十代の女性だと近所の人が話していた。
今年の頭にも男性が飛び降り、今では自殺の名所とも囁かれている。
私は献花の前に立ち、花を見下ろした。
白い百合が濡れながら俯いている。
まるで涙を流しているみたいだ。
これ以上雨に打たれないように、差していたビニール傘を地面に置いた。
羨望を抱きながら立ち去ろうとした時、黒い煙のようなものが、目の前を通り過ぎていった。
視線で追うと、ビルを這うように屋上へと昇り、姿が見なくなる。
私を呼んでいる――なぜだかそう感じた。それに望みを叶えてくれそうな気も。
私の足は自然とビルの中へと向かっていた。何かに引き寄せられるように。
五階まで上ると、両脇の手すりを結ぶように鎖が繋がれていた。
立ち入り禁止と書かれた看板が鎖からぶら下がっており、この先は侵入できないようになっている。
だが、お構いなしに私は進んだ。
その先に感じる希望を手にしたかったから。
階段を上がると、錆びついた白い扉が見えた。
握りを捻るが鍵がかかっている。
飛び降りた人間がいれば、閉まっているのは当然だった。
落胆なのか、感情が落ちるような気分だ。
私は踵を返して下の階へと戻る。
すると『ガチャ』という音が後ろから聞こえた。
鍵の開くような音。
振り返り扉を見るが、変化は感じられない。
ゆっくりと近づき再び握りを回すと、扉が開いた。
隙間から湿った風が頬にぶつかる。
屋上に足を運ぶと、室外機のみが置かれた殺風景な場所だった。
ビルの淵の前には黒い鉄製の柵。高さは腰ぐらいで簡単に登れそうだ。
雨脚はさっきより強くなっている。
濡れる髪に重さを感じながら柵の前まで歩を進ませると、私は希望を掴むように、錆びついた手すりに指をかけた。
すると、恐怖が心臓を叩く。
指先が震えて足先まで伝染する。
私は咄嗟に手を離し、後退りした。
情けない。
死にたいと思っているのに、まるで生きたいと願うみたいだ。
なぜ抵抗するのだろう。
防衛本能でそうするのなら、余計なお世話だ。
死なせてほしい。
生きていても意味がない。
どうか、勇気を授けて。
一歩踏み出すだけの、小さなものでいいから。
死を願った時、先ほど見た黒い煙が目の前を通った。
旋回するように、私の周りを飛んでいる。
何周かした後、顔の前で止まった。
よく見ると中央に球体があり、黒い煙状のものが覆っている形だ。
正体不明のそれに、なぜだか安心を覚える。
導いてくれるような期待感、すべてを受け止めてくれるような肯定感。
固く閉ざされていた死の門の鍵が、眼前に現れたように思った。
私は迷いなく右手を伸ばし、球体に触れる。
すると、黒い煙状のものが指先を伝って全身を包んでいった。
先ほどまでの恐怖が消え、死にたいという想いが湧き出るように溢れてくる。
――今ならできる
いつのまにか球体は姿を消していた。
でもそんなことはどうでもいい。
やっとこの世界から消えることができる。
ずっと思い続けていた死に指先がかかった。
震えが止まった足が、一歩ずつ天国へと近づいていく。
柵を乗り越え、ビルの淵に立つ。
遠くには三角形に配置された三棟のタワーマンションが見える。
灰色の空が纏う、くすんだ景色。
もう見なくていい。
もう傷を負わなくていい。
これでやっと、雨が止む。
目を瞑り、右足を踏み出そうとした時だった。
体の中に衝撃が走り、何かが胸の辺りから出ていく感覚がした。
「結」
後ろから男性の力強い声が聞こえ、足を戻す。
目を開くと、透明の壁のようなものが私の周りに張られている。
まるで結界みたいだ。
半径三メートルほどの球体の中に私はいる。
体を見ると、纏っていた黒い煙が消えていた。
「ギリギリでしたね」
声が聞こえ振り返ると、白い長羽織を羽織った女性と、二十代半ばくらいの男性が立っていた。
男性は右手を前に出しており、人さし指と中指の間にお札のようなものを挟んでいる。
お札の上部には『結』という文字が書かれており、下部には梵字のようなものが見える。
「怨念が強いね、ちょっと手こずるかも」
女性は私の上を見ていった。
視線を辿ると、黒い煙を覆った球体が結界に体当たりをしている。
中に入ろうとしているようだ。
「待っててね、なるべく早く終わらせるから」
女性は私に向けて言った後、一歩前へと出る。
瞬間、球体は体当たりを止め、纏っていた黒い煙を大きく広げた。
まるで女性を威嚇するように。
「元気がいいね。でも帰ってもらう」
女性は手に持っていた透明の水晶を、体の前に突き出した。
「厭悪に繋がれし魂よ、黒納の式により、憎しみで染まる邪念を鎮めよう。導くは霊納の師。魂を納め霊界へと逓送する」
女性が唱えると、水晶が光りだす。
「水晶よ、黒き魂を納めたまえ」
言下、黒い煙が水晶の方へと吸い寄せられていく。
が、抵抗するように球体は反対方向へと進もうとしている。
初めは均衡していたが、徐々に形勢は女性の方に傾いていった。
後ろ髪を引っ張られるように、球体を覆う黒い煙が少しづつ水晶へと引き寄せられていく。
「ギャァァァァァァァー」
球体は耳を劈くような、けたたましい声を上げた。
鼓膜を突き破られると思い、私は耳を塞ぐ。
「抗うな。お前の居場所はここじゃない」
女性がそう言った後、水晶は一層強い光を放つ。
球体はどんどん引き摺り込まれていくが、それでも抵抗をやめない。
「ここまでよくぞ耐え抜いた。その闇夜の鎖はここで断ち切る。だが、苦しみの果てに残した因果は我が心に刻もう」
女性の言葉で球体の抵抗力が落ちたように見えた。まるで諦めたかのように。
最後は唸り声を上げながら、悲しい余韻を残して水晶の中へと納められた。
透明だった水晶が黒く濁る。
「よし、終わり。後宜しく」
「はい」
男性は顔の前に札を持ってくると、
「護符よ、漂う陰の気を祓い彷徨う魂を守りたまえ。明」
お札の文字が『結』から『明』に変わると、男性は地面にお札を貼る。
すると、私の周りに張っていた透明の壁が、泡が弾けるように消えていった。
先程までは重く暗い雰囲気だったが、今は靄が晴れたような感覚がある。
いつの間にか雨は弱まっていた。
「空気が変わったでしょ?」
女性が私のそばまでくると、笑顔を向けてそう言ってきた。
大人びた顔立ちの中に可愛さも居住する。
年齢は三十代前半くらいだろうか。
華やかさがあり、綺麗な人だった。
「今のは自殺した魂。あなたを死に導こうとしていた」
さっきの黒い球体のことを言っているのだろうか。
「自殺した魂は現世に留まるの。まあ、それだけだったらいいんだけど、怨念がこもっていたり、長い間彷徨っていると、黒と言われる魂に変わる。黒は死を考えてる人間を引き寄せて自死へと導く。さっきのがまさにそう」
確かに死のうとした。
今までできなかったのに、なぜか恐怖心が消えた。
この人の言うことが本当なら、私は導びかれていたということだ。
「ちなみに、黒に変わる前の魂は白って言うんだ」
男性が来てそう言った。
表情に優しさが滲み出ており、柔らかく安心させるような声だった。
「自殺の名所ってよく人が亡くなるでしょ? あそこまでいくと回収するのが難しいんだよね。強すぎてこっちが憑かれるから」
「真由美さん、まずは彼女をこっち側にこさせた方が……」
「ああ、そうだった。危ないからおいで」
そう言われ、自分が淵に立っていることを思い出した。
下を見ると濡れたアスファルトが見える。
その瞬間、恐怖心が舞い戻ってきた。
咄嗟に手すりに掴まり、力強く握り締める。
まだ私は生きたいと思っているのだろうか。
ずっと死にたいと願っているのに、無意識に拒否反応を起こす。
こんな価値のない命なのに。
「あっ!」
女性が急に大声を出した。それに驚き私の肩がビクッと動く。
「直樹、これ」
彼女は私の左手の小指を差した。リボン結びが描かれたタトゥーのような印を。
「あっ!」
男性も同じように声を上げた。
二人は、口を半開きにしながら顔を見合わせている。
この印に何か意味があるのだろうか。
そう思っていると、女性が私に視線を向け、優しく微笑んだ。
「やっと見つけた」
閑静な住宅街から少し離れた所に、年季の入った日本家屋があった。
ここが彼女たちの家らしい。
二十分ほど車で揺られただろうか。
私の住んでいる所よりも、もっと静かな場所。
表札には神谷と彫られていた。
二人のどちらかの苗字なのだろうか。
夫婦には見えない。男性は女性に対し敬語だ。
玄関の中に案内されると、男性がバスタオルを持ってきてくれた。
濡れた髪や衣服を拭き、靴下を脱いでから家に上がる。
「それ乾かしとくから貸して」
バスタオルの上に靴下を置き、男性に渡す。
「温かいお茶淹れるから、居間で待ってて」
「直樹、霊師の本も持ってきて。この子に説明するから」
「分かりました」
男性は奥へと消えていった。
軋む廊下を真っ直ぐ進み、居間と思われる場所に案内された。
十二、三畳ほどの和室には、大きなちゃぶ台と格子がデザインされたローボード。その上にテレビが置かれていた。
女性は部屋に入るなり、障子を開ける。
そこには縁側があり、木枠のガラス戸の先には庭が見えた。
「綺麗でしょ」
女性は振り返り、笑みを浮かべて言った。
淡いブルーが寄り添い合う、濡れた紫陽花がしっとりと咲いている。
どこか儚く、切なさを纏う六月の花。
だがそこには悲しみさえも美しく思えるような、しおらしさがある。
まるで雨の形容詞のように。
「紫陽花って土の酸度によって色が変わるの。まるで人間みたいじゃない? どこで生きるかでその人の色が決まる。花も人も一緒。咲いては枯れてを繰り返しながら生きている」
紫陽花のような儚さが、彼女の表情に咲いていた。
色んな物語を見てきた人の顔。そう思った。
「とりあえず座って」
そう言われ、ちゃぶ台に着く。
彼女は私の前に座ると、澄んだ目でじっと見つめてきた。まつ毛が長い。
私は目のやりどころに困り、視線を俯かせる。
「そういえば名前言ってなかったよね?」
小さく頷く。
「私は北川真由美。さっきの優男は遠藤直樹。呼ぶ時は、真由美でいいよ。もう一人住んでるんだけど、そいつはほとんど家にはいないの。帰ってきた時に紹介する」
再度、小さく頷く。
その人が神谷だろうか。
「えっと……あなたの名前は?」
「いず……」
名乗ろうとした時、さっきの男性が入ってきた。
湯呑みを乗せたお盆を持っており、脇に古びた書物のようなものを挟んでいる。
「お待たせ」
湯気の立った湯呑みを、私と真由美さんの前に置いた。
「ありがとうございます……」
「そんな畏まらないで。それと敬語は使わなくていい」
姉がいたらこんな感じなのだろうか、ふとそう思った。
男性が脇に挟んだ書物をちゃぶ台に置き、私に視線を合わせてくる。
「そう言えば名前言ってなかったよね? 僕は……」
「今、私が言った」
「じゃあ改めて。僕は遠藤直樹って言います」
「直樹くんでいいから。そっちの方が話しやすいでしょ?」
真由美さんは朗らかに言った。
直樹くんは、優しく微笑んでいる。
「じゃあ説明しようか」
真由美さんは色褪せた書物を捲り、目の前に差し出した。
そこには、
【霊納師】 魂を納める者
【守霊師】 魂の守護者
【憑霊師】 魂を宿らせる者
【霊導師】 魂を導く者
【生梦葵】 生の道を作る者
と書かれている。
「私たちは霊師と言って、自死専門の霊能者。この霊納師って言うのが私で、魂を回収するのが務め。さっき見たでしょ?」
さっきは急すぎて状況が飲み込めなかった。
今思い返すと、視界に映ったすべてが信じられない光景だった。
あの黒い煙を覆った球体が人の魂……
「ちなみに僕は守霊師。魂を守るのが務め」
直樹くんは書物を指して言った。
「自殺した場所って陰の気が満ちるんだ。そこで命を絶つと、魂は黒になりやすい。回収できたとしても黒は怨念を残すから、後追いのように自死者が続く。だから護符を貼って気を浄化させるんだ」
「あのビルでは二人飛び降りてる。だとしたら魂は二つじゃないの?」
あの場には一つしかなかった。じゃあもう一人の魂はどこへいったのだろう。
「喰われたの」
真由美さんが言った。感情が剥落したような口調で。
「怨念の強い魂は別の魂を喰らい力を増す。さっきのは複合体。だから……もう一人の魂はもう帰ってこない」
死んだのなら帰ってくるはずがない。
なぜそんな言い方をしたのかが分からなかった。
「死者を増やそうとするのは、力を蓄えるためなんだ」
「その黒って言うのが、死にたいと思ってる人間を自殺させるんでしょ?」
直樹くんは頷く。
「なら死なせてあげればいい。それで解放されるんだから」
私の言葉が冷たい風のように部屋の空気を一変させた。
真由美さんも直樹くんも悲しそうに俯く。萎れた花のように。
「魂は霊界に行った後、次の体に宿り、来世を迎える。自殺した魂は脆い心で生まれてくるの。だから救う。また同じ道を歩まないように」
もう帰ってこない。
その意味は魂が無くなり、来世に命を引き継げないということだった。
「こんな不条理な世界に生まれるくらいなら、あの場で死んで魂を喰われた方がマシ。なんで……私のことを助けたの」
沈黙が降り、雨音が部屋を濡らす。
この人たちはきっと後悔しているだろう。
感謝すらしない人間を救ってしまったのだから。
あのまま死んでしまいたかった。
生きる気力もないし、永遠の中で眠っていたい。
もう誰も、私の命に触れないでほしい。
「でもね……」
真由美さんが、そっと口を開いた。
「魂は障害や困難を乗り越えると強度が増すの。ガラスのように繊細で割れやすかったとしても人は強くなれる。だから生きているうちに救わなければいけない。それをできるのが……」
真由美さんは私を指し、「君なの」と言った。
「名前は?」
「泉梨紗」
「梨紗はこれ」
真由美さんは書物に書いてある【生梦葵】を指した。
「結びの印が生梦葵の証」
左手の小指にある、糸で結ばれたような印。
知らない間に刻まれていたこれが、その証らしい。
「人が亡くなる夢を見るでしょ? あれは予知夢。今は力が不安定だから、どのタイミングで見るかは分からない」
「あっ」
「どうした?」
「さっきのビルで、女性が飛び降りた夢を見た」
前に夢で見た、ビルから飛び降りた女性。
白いワンピースを着て、遺書を遺していた人。
さっきのビルは夢で見た場所だ。
遠くに見えた三棟のタワーマンション。確か三角形に配置されていた。
高さ的にも同じくらいだったはず。
「自分の近くで亡くなる人を見るの。その人を救うために」
真由美さんはそう言った後、格子がデザインされたローボードを開けて、小さな木箱を取り出した。
「そこに仕舞ってたんですか?」
「文句ある?」
「もっと大切に保管してくださいよ」
「うるさいな」
真由美さんは口を尖らせながら蓋を開けると、中には綿に包まれた透明の勾玉が入っていた。
紐を通すのか、小さな穴が空いている。
「生梦葵だけが扱える勾玉。これを持ってると、夢で見る死を止めることができる」
「止める?」
真由美さんは勾玉を取り、私に差し出してきた。
「まずは握って」
そう言われ、勾玉を握る。
すると手の中で光が溢れた。指先から光線が漏れ、四方に散らばる。
あまりの眩しさに、手で目を覆う。
数秒後、光は眩さを徐々にしぼませ消失した。
「開けてみて」
真由美さんに言われ、ゆっくりと手を開く。
透明だった勾玉は薄い紫に変わっていた。
淡く優しい、柔らかな色。
「勾玉は梨紗ちゃんの魂と繋がっていて、力をもたらしてくれる。今までは夢で人の死を見ていたと思うけど、勾玉を通じて現実世界で見れるようになる。しかも、僕たちも共有できるようになるんだ」
「もう一人で見なくていいし、抱えなくていい。私たちも一緒」
直樹くんが言った後、繋ぐように真由美さんが言葉を添えた。
枯れかけた命に寄り添うように。
外は雨が止み、夜の帳を下ろしていた。
雲がかかっているため星は眠っている。
だが雲間から月の光が顔を覗かせ、陰鬱な暗闇をわずかに照らしていた。
私は車の後部座席から夜を見上げている。
心地よく揺れる車内では、真由美さんと直樹くんが明日の朝食について話しており、ごはんかパンかで争っている。
BGM程度に二人のやりとりを聞きながら、首にかけた勾玉をTシャツの中から取り出す。
直樹くんが無くさないようにと紐を通してくた。
淡い紫は、ときおり差し込む月の明かりで美しく輝く。
魂と繋がっていると言われたが、特別何かを感じるわけではない。
でも不思議と引き寄せられる。
まるで自分の命を見ているようで。
「そこを右」
住宅街に入り、坂を下った突き当たりを右折すると、二階建ての白い家が見えた。
私の家。
いや、逃げる場所のない空気の薄い監獄。
心臓が悲鳴を上げるように、鼓動が早くなる。
帰りたくはないが、ここ以外に私の戻れる場所はなかった。
家の前に着くと、前に座る二人が振り向く。
「ごめんね、遅くまで」
真由美さんたちから説明を受けた後、私は眠ってしまった。
急に疲労感に襲われ、知らない間に目を閉じていた。
起きた時に聞いたのだが、黒の魂に憑かれと精気が吸い取られるらしい。
今もまだ倦怠感が残っている。
「ねえ、連絡先教えてよ」
真由美さんがスマホを掲げた。
「家にあるから、取ってくる」
車から降り、音を立てずに門扉を通る。
踵から下ろし、徐々に足裏の設置面を増やしていく。
静けさを壊さないようにしながら、空気のように。
ポケットから鍵を取り出し後、ゆっくりと玄関ドア開けた。
リビングの扉は閉まっているが、すりガラスから明かりが漏れているため、そこに人がいるのが分かる。
また出て行くので、鍵は開けたままにした。
靴を脱ぎ、すり足で階段を上がろうとした時、
「クシュん」
雨に濡れたからだろうか、くしゃみが出た。
咄嗟に口を押さえるが、もう遅い。
「おい、つまみ買うのに何時間かかってるんだよ。本当に無能だな、お前は」
リビングから父が出てきて、“お帰り”の代わりに罵声を浴びせられた。
心が凍りつくような冷たい温度で。
「ごめん……」
父は私の手元を見た。
見下げた瞳が温度を灯し、沸騰していくのが分かる。
「買ってもねえのか?」
ポケットからシワだらけの千円札を取り出し、父に返す。
「色々あって、買えなかった。ごめ……」
言い切る前に、父が平手で頬を叩いてきた。
熱く痺れた感覚が、じわじわと肌の表面へと上がってくる。
言葉が出なかった。今まで罵倒されたことはたくさんあったが、手を出されたのは初めてだ。
怖い――全身が震え、体が硬直する。
「来い、クソ女」
父は私の髪の毛を掴み、そのままリビングへと向かっていく。
(やめて)
そう言いたかったが、声がでない。
髪の毛が引きちぎられるかと思うほど、強い力で引っ張られれている。
リビングに入ると母がダイニングでくつろいでいたが、この光景に目を丸くし、唖然としている。
「ちょっとあなた、何やってるの」
「馬鹿は力で躾けないと理解できないらしい」
そう言った後、父はダイニングテーブルに私の顔を押し付けた。
抵抗して顔を上げようとするが、びくともしない。
「てめえみたいな出来損ない、早く死んじまえ」
怒声を上げながら、父はさらに力を強めてテーブルに押し付ける。
「あなた、近所に聞こえる」
「なんでお前みたいな奴が産まれてきたんだよ。なあ、早く死んでくれよ」
母の言葉を無視し、父は暴言を降らせる。
「餌だけ食って、何も生み出さない牛以下のクソが。こんな不良品を養ってるこっちの身になってみろ。何も考えずに生きてるから、毎日楽しいだろう? いいよな、育ててもらってるだけの家畜は。寝てるだけでいいもんな」
「あなた、声を小くして。聞こえちゃうから」
母は止めようとはしなかった。
娘よりも体裁の方が大事らしい。
「殺してよ……そうしてくれたら楽になれるから」
どんな道を進もうと、私が望むのは死だ。
それさえあれば、もう他になにもいらない。
「そうか、分かった」
父はそう言うと、私を壁際に投げ飛ばした。
サイドボードに腰を打ち付け、上に乗っていた犬の置き物が床に落ちる。
視線を父に向けると、テーブルに置いてあったマグカップを手に取っていた。
冷酷な目で私を見ており、殺気すら感じ取れる。
声も、心臓も、感情も支配されているようだった。
すべてが色を失ったように真っ白になる。
――殺される
そう思った時、父はマグカップを投げつけてきた。
頭を腕で覆い、咄嗟に体を竦める。
すると、パリーンという音が部屋に響いた。
後ろにある小窓が割れており、マグカップより一回り大きい穴を開けていた。
「もうやめて、近所の人が警察呼んじゃう」
母が必死に制止しているが、父の形相は変わらない。
殺気を込めながら、こちらへと歩いてくる。
体が動かなかった。
恐怖が鎖のように纏わりつき、全身を拘束する。
足が痙攣するように震え、口元からは言葉を失った息だけが漏れていた。
父は私の前に来ると、襟を掴んで床へと押し倒した。
そして私の首を絞めて、汚れた言葉で息を詰まらせる。
「お前みたいな人間は生きてる価値なんてない」
意識が遠のいていく。
母が何か声を上げてるが、ぼやけて聞き取れない。
でもやっと死ねる。
こんな形ではあるが、この世界から存在を消せる。
現世という地獄から抜け出せるなら、私はゴミのような命を喜んで差し出す。
もう産まれたくない。
楽にさせてほしい。
生きていても、死んでるようなものだから……
「おい、コラ!」
声と同時に、上に乗っていた父が誰かに蹴られ、私の視界から消えていった。
絞められていた気管に酸素が送られてくる。
「大丈夫、梨紗」
喉を抑え咳き込んでいる私に、女性が話しかけてきた。
霞んでいた視界の解像度が上がり、真由美さんだと分かる。
後ろには心配そうな表情をした、直樹くんが立っていた。
「ちょっと誰なの?」
母が困惑した様子で真由美さんと直樹くんを見てる。
「何やってるの?」
真由美さんは激しい剣幕で父を睨んだ。
「誰だ、お前ら! 人の家に勝手に入って……」
「あんた父親だろ! 自分の娘になにしてるのか分かってんの」
「警察呼びますね」
母はテーブルの上にあったスマホに手を伸ばす。
「呼んだら。娘に暴力振るってた理由が説明できるならね」
真由美さんの言葉で、母の指は止まる。
「梨紗はうちで預かる。死なせないためにも」
「そんなの誘拐じゃない」
「誘拐? これは保護っていうの。どの面が被害者ぶってんだよ」
「じゃあ……」
倒れていた父はゆっくりと立ち上がった。
「こいつの学費や、その他諸々の経費、お前が全部払えよ」
自分の娘に使うお金を経費と呼ぶのは、世界でこの人だけだろう。
「全部払ってやるよ。大学に行きたいって言ったら行かせる。やりたいことがあったら応援する。好きな人ができたら相談にのる。あんたが親としてできなかったことを私がやってやるよ。だから金輪際、この子には近づくな。もし目の前に現れたら、その腕と首へし折って玄関に飾りつけるからな。分かったかクソ親父」
真由美さんは最後に中指を上げ、睨みを利かせた。
ほとんどチンピラだった。
でも嬉しかった。
その言葉ひとつ、ひとつが、枯れた心に水を与えてくれるようで。
「梨紗ちゃん、起きれる」
直樹くんの優しい声が耳もとに響く。
小さく頷いた後、直樹くんは背中に手を添えて、起き上がるのを手伝ってくれた。
「梨紗、荷物まとめて。こんな肥溜め出て行くよ」
「お前らも、二度と近づくんじゃねーぞ」
「言われなくてもそうするよ、クソ親父」
真由美さんたちと二階に上がると、自分の部屋のドアの隙間から、弟が覗いているのが見えた。
目が合うと、ドアを急いで締めた。
たぶん一連の流れを聞いていただろう。
どう思っていたかは知らないが、その目は怯えているように見えた。
これからもっと勉強に励むかもしれない。
私みたいにならないように。
薄暗い六畳の和室には月の明かりが差し込んでいた。
暗闇を照らすように、窓の外から一筋の道を描いている。
――今日からここが梨紗の家だから
真由美さんはそう言ってくれた。
生まれて初めて、自分の居場所ができたような気がする。
着替えや教科書などが入った大きなボストンバックと学生鞄。
壁にかけられた制服。
中央に敷かれた布団。
私は部屋の隅で体育座りをしながら眺めていた。
殺風景だが、心はどこか暖かい。
梅雨闇に吹いた風は雲を拭い、空の輪郭の一部を見せてくれた。
この穢れた世界には、まだ芽が育つ場所があるのかもしれない。
「梨紗、入っていい」
「うん」
襖が開くと、寝巻き姿の真由美さんが入ってきた。
私の隣に腰を下ろすと、シャンプーの甘い香りが鼻をかすめる。
隣に誰かがいることで安心するのは初めてかもしれない。
欠けてしまっていたものが、何かで埋められているようだった。
「私の親ね、アル中だったの。毎日のように私を罵ってくる最低の人間だった。だから高校を卒業してすぐに家を出た。あんな所にいたくなかったから」
私も高校を卒業したら、家を出る予定だった。
それまで生きていればの話だが。
「昔からあんな酷いことされてたの?」
「手を上げられたのは今日が初めて。それまでは私も罵られてた。子供の頃から厳しくて、テストで一問でも間違えると怒られる。褒めてもらいたくて勉強に明け暮れたけど、『できて当たり前』という言葉で全部片された」
その頃は親だけを見てた。
どんなことをすれば喜ぶのか、どんなことをしたら怒るのか、顔色を伺いながら生きていた。
「両親は学歴がすべてだから、幼い頃から成績だけで見られてるような気がしてた。紙の上に記された数字だけが自分の居場所なんだなって。だから確認したかったの。わざと受験を失敗して、親がどう反応するかを。もしかしたら私の勘違いかもしれないから」
結果は見ての通りだ。
私はただの数字でしかない。
人ではなく、親の自尊心を高めるための道具。
それを確認することができた。
「それから言葉は激しさを増した。『お前は社会のゴミ』、何度も何度も頭の中に刷り込まれた。でもその通りだと思う。私には価値なんてない。だから死ぬことだけが希望なんだよ」
救われなくてもいい。
ただ、静かに消えてしまいたい。
今の私はそれだけを願っている。
「人ってさ、自分じゃ測れないものは否定するの。文句ばかり垂れてる人間は持ってる物差しが短いんだよ。そんな奴の言うことなんて気にしなくていい。否定されるってことは、それだけ大きいってこと。梨紗が悪いわけじゃない」
初めて自分という存在が肯定された。
産まれてはいけない人間。
そう思いながら今日まで過ごしてきた。
こんな私でも生きていいんだろうか。
そんな疑問まで頭の中に湧いてくる。
「ここには梨紗を否定する人はいない。だから好きなように生きればいい。辛い時は、私や直樹がいるから」
おやすみ、そう言い残して真由美さんは部屋を出て行った。
心の中で何かが揺らいでいる。
でもそれが何かは分からなかった。
部屋に差す月の明かりが、いつもより綺麗に見えた。