翌朝、私は決意を胸にいつもより少しだけ早く目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む、淡いオレンジ色の朝日が、部屋の埃をきらきらと輝かせている。窓の外では、小鳥たちが軽快なさえずりを奏で、新しい一日が始まったことを告げている。
(話すって決めたの。だから、ちゃんと向き合わなきゃ。)
そんな事を考えながら学校へむかった。通学路はもう初夏に咲く花々が、色とりどりの小さな絨毯のように咲き始めていた。並木道も、桜の淡いピンクから、生命力溢れる緑色の葉っぱへと変わり始めている。学校に着くと、誰もいない教室にカバンを置き、手に馴染んだ文庫本を抱えて図書室に向かった。
(放課後に話すって決めたのに、迷ってしまう。でも、もう逃げない)
図書室は、朝の静寂に包まれ、古びた本のインクと紙の匂いが鼻をくすぐる。私は、窓際の陽だまりのような席に座り、持ってきた文庫本を開いた。しかし、ページをめくっても、文字はただの記号のようにしか見えず、内容は全く頭に入ってこない。
(何を話そう。どう伝えよう。あの時のことを、ちゃんと分かってくれるだろうか。)
ページをめくる手が止まる。文庫本を閉じ、私は窓の外に目を向けた。校庭では、朝練に励む生徒たちの、元気な声が響いている。
(あの子たちみたいに、何も考えずに過ごせたらいいのに。)
私は、小さくため息をつき、再び文庫本を開いた。その時、書架に並ぶ一冊の本が、私の目に飛び込んできた。『伝えたい気持ち』という、手書き風のタイトルだった。私はその本を手に取り、パラパラとページをめくった。そこには、様々な伝え方が書かれていた。手紙、言葉、表情、態度。
(そうか、伝え方は一つじゃないんだ。)
私は、心の中に、ほんの小さな希望の光が灯った気がした。
(でも、やっぱり怖い。)
私は、本を胸に抱きしめ、目を閉じた。
(大丈夫。私は、ちゃんと向き合うって決めたんだ。)
私は深呼吸をし、本を再び開いた。
(手紙って書いてあったけど、面と向かってしっかりと向き合いたい。手紙は、どこか逃げているみたいだ。)
私はそう思い、手紙で伝えるという選択肢をなくし、面と向かって話すことにした。時計を見ると、朝読が始まる時間まであと少しだった。私は本を持ち歩き用ポーチに入れ、カバンにしまった。そして、図書室を出た。
(さあ、行こう。)
私は、ほんの少しだけ前向きな気持ちで、教室へと向かった。教室に入ると、ざわめきがまるで生き物のように蠢いていた。生徒たちの笑い声や話し声が、耳をつんざくほどに響く。
(ここは、私には違う世界のようだ。)
私は、いつもそう感じていた。クラスの中で、私は一人だけ浮いているようだった。
(誰も、私に話しかけてこない。)
私は、孤独を感じた。
(でも、仕方がない。)
私は、そう思うようにしていた。
(どうせ、私なんか…)
私は、自己肯定感が低かった。
(誰かに嫌われるのが怖い。)
私は、いつも周囲の目を気にしていた。
(だから、誰とも深く関わらないようにしていた。)
私は、そうやって自分を守っていた。
(でも、本当は、誰かと話したい。)
私は、心の奥底でそう思っていた。
(誰かと笑い合いたい。)
私は、そう願っていた。
(でも、どうすればいいのか分からない。)
私は、いつも一人だった。
(そんな私でも、話したいと思える人がいる。)
私は、太智先輩のことを思い浮かべた。
(彼は、私とは違う。)
そんなの理解していた。図書室でお友達と話している姿。笑っている姿。全てが、私より遥かに上だった。でも、いつも図書室で一人でいる私に彼は話しかけてきてくれた。優しい、太陽の様な笑顔で。朝読の開始を告げるチャイムが、静寂を切り裂くように鳴り響くと同時に、教室はまるで、一番最初に来た教室の中にいるかのような静けさになった。さっき、図書室で途中まで読み進めた文庫本を開いた。わずか10分という短い時間の朝読。少しだけ周りを見渡すと、朝の時間だからかまだ眠そうに本を読んでいる生徒が何人もいる。中には、机に突っ伏して寝ている人も。私はその様子に、ほんの少しだけ、笑みがこぼれた。朝読の終わりのチャイムが鳴り、先生が朝の挨拶をした。先生が、今日のお知らせをしている。そして、先生が教室から出て行くと、堰を切ったように皆話し始めた。朝なのにお菓子を食べ始めたりする人、鏡を取り出して化粧をする人…いろんな人がいた。チャイムが鳴り響き、先生が教室に入ってきた。
「おはようございます。みんな、席についてください。」
先生の言葉に、生徒たちは慌てて席に戻った。私は、教科書とノートを開いた。
(授業が始まる。)
私は、緊張した。
(ちゃんと、授業に集中できるだろうか。)
私は、太智先輩のことが気になっていた。
(先輩は、今、何をしているだろうか。)
私は、授業中も上の空だった。先生の話が、耳に入ってこない。
(早く、放課後になってほしい。)
私は、何度も時計を見た。数学、体育、国語、英語を受けた。そして、午前最後の授業が終わりを告げた。そして、昼休みになった。生徒たちは、お弁当を広げたり、友達と話したりしている。私は、お弁当を持ち中庭へ向かった。校舎に囲まれた中にできている中庭を抜けると、人気のない駐車場に行ける。そして、いつもの場所に行き腰を下ろした。青々と広がる空は、雲一つなく、初夏特有の太陽が、合服を着ている私の体に照りつける。少し暑さを感じる気温になってきた。
「いただきます」
蓋を開けると、母の作ったお弁当が顔を出す。調理師をやっている母は、彩りやバランスを考え、お弁当をいつも作ってくれる。去年の、今頃はまだ信頼している人からの裏切りの辛さを知らずに、たくさんの人と会話をして笑いながらご飯を食べていた。でも、今は違う。人の裏切りの怖さを知り、孤立しクラスでは浮く存在。男子には悪口を言われるようになって、部活でも孤立するようになった私は、次第に部活にはいかなくなり、教室で口を開く回数も減ってしまった。
(昔はもっとお喋りで、親から怒られたくらいなのに…)
ストレスで食べれなくなったご飯は、少しずつ減らしてもらい、今は半分くらい。未だに戻らない食欲と、親に相談できないもどかしさが、重くなっていく。学校がない日は少し食欲が戻り、食べる量は少し増える。学校が始まると、食べれなくなってしまう。ゆっくりとご飯を楽しみ、スマホで時間を見ると、もうすぐ掃除の時間だった。
「やば。行かなきゃ。」
少し早歩きで教室に向かう。その時。後ろから笑い声が聞こえた。振り返ると、太智先輩とそのお友達が話していた。私の横を素通りしていく。幸せそうに笑う先輩の姿は、微笑ましく羨ましかった。そして前を向き教室に向かった。掃除が無事に終わり、午後の授業が始まる。午後は化学と生物が授業としてある。そして先生が入ってきて化学が始まった。先生の教え方がうまく、授業は凄くわかりやすい。そして早くも化学は終わり、次は最終授業の生物だ。ここが関門だ。先生がとにかくつまんない。教科書を写すだけで、絵も黒板のまとめ方も絵も下手くそ。
「はあ、めんどくさ」
そして、先生が来て授業が始まった。黒板の字が下手くそで読めない。そしてこの授業が一番寝てる人が多い。周りを見ても殆ど寝てる。そして授業が終わり、皆帰りの挨拶をすると教室から飛び出していった。私はカバンを持ち図書室へ向かう。太智先輩に伝えるために。なぜ図書室に居るのか。扉を開くともうすでに先輩は座っていた。扉が開いた音でこっちを向き私に気がついた。そしてこっちに向かってきた。
「こんにちは、葵ちゃん。」
「こんにちは。約束覚えててくれたんですね。」
「うん!覚えてるよ。当たり前じゃん」
ニコっと笑い、手でグッドサインを作る。その姿にくすっと笑った。
「メールで言った通り話したいことがあるんです。」
すると、先輩は真剣な顔になった
「私、いつも図書室にいる理由は、高1のころにクラスで人間関係で失敗して、部活でも孤立するようになったからなんです。」
「そうなの…?」
「ほんとに、突然でした。テストの点数に嫉妬されて、その日から仲間外れにされて無視されて、なんて初めてでしたよ。そこからです、あんまり人を信用できなくなったのは。部活では、新しい1年生が入ってきて、その1年生の気が強くて合わなくて中々話せなかったのと、同級生と仲が元々よくなくて仲間外れ状態だったんです。それもあって、人間関係を構築するのが難しくなりました。というか、なんかもう、なじめなかったんですよ。1年は気が強いし、同級生はもう仲良くなって輪には入れないし、3年は私のことを名前ですら呼ばないんですよ。もう皆に嫌われたのでいけなくなりました。」
「そっか。」
太智先輩は静かに聞いてくれた。そしてゆっくりと私の隣に座った。
「今は誰もいないし、居るのは俺だけ。だから、泣いていいよ。」
「え…」
「ずっとつらかったよね。そのトラウマと生きていくのって。しかも部活もあるから余計。よく頑張ったね。話してくれてありがとう。」
優しく私の肩を抱いてくれた。その温かさに、堰を切ったように涙が溢れてきた。どのくらいの時間がたっただろうか。太智先輩に起こされた。
「葵ちゃん。もうすぐ図書室閉まるよ。」
「え…。」
優しく微笑んでくれた。
「一緒に帰ろっか」
「はい。」
そして太智先輩と一緒に帰った。
「また明日ね」
「はい。また明日。」
そして太智先輩と別れ家路についた。トラウマを話した日のきょうのそらは、星がきらめき、満月が顔を出していた。まだ、ちゃんとトラウマとは向き合えてないかもしれないけど、前へ進める気がした。でも、一つの疑問があった。先輩は初対面だし、多分同じ中学にもいなかった気がする。なのに、なんで、あんなに私に寄り添うのだろうか。明日にでも聞いてみようかな。 私があんなに寄り添ってもらってるから、私も何か力になりたい。そう思うから。
翌日、私は少しだけ勇気を出して、太智先輩に聞いてみた。
「あの、先輩。聞きたいことがあるんですけど…」
「ん?どうしたの?」
「なんで、あんなに私に寄り添ってくれるんですか?初対面なのに…」
太智先輩は、少し驚いた顔をした後、優しく微笑んだ。
「それはね…」
太智先輩は、ゆっくりと話し始めた。
「俺、中学の時に、友達を裏切ってしまったことがあるんだ。そのせいで、友達を失って、酷く後悔した。だから、葵ちゃんが辛い思いをしているのを見て、放っておけなかったんだ。」
「そうだったんですか…」
私は、太智先輩の過去を初めて知った。
「でも、もう過去のことですよ。先輩は今の先輩で素敵です。」
私は、太智先輩にそう言った。
「ありがとう。葵は本当に優しいね。」
太智先輩は、そう言って微笑んだ。そして、
「あのね、俺、葵のことが好きなんだ。初めて会った時から、葵の優しさに惹かれてた。だから、俺と付き合って欲しい。」
そう言った。
「はい。私も先輩のことが好きです。よろしくお願いします。」
そう言って私たちは見つめ合い、そしてキスをした。夕焼けが私たちを包み込むように赤く染めていた。
それから、私たちは付き合うことになった。太智先輩は、いつも優しく私を支えてくれた。辛い時には、いつもそばにいてくれた。太智先輩のおかげで、私は少しずつ過去のトラウマを克服していくことができた。