十一月にもなると朝はそれなりに冷えるようになった。俺が出掛けるのは早くても九時なので日が当たって暖まるが、布団は気持ちいい。そこから気合を入れて起き上がり、インスタントコーヒーを飲んで外に出た。たまには美味しいモーニングをと思うが仕事が朝イチじゃない時がいい。
 商店街を駅に向かっていると見覚えのある人がいた。大家さんぽい大矢さんだ。道の端にある町内の掲示板に何かを貼っている。後ろを通りすぎようかと思ったが、ピンで留められたチラシに目を奪われた。橘さん。

「おや、おはようさん」
「おはようございます」

 気づかれてしまったので挨拶を返す。チラシは(あた)り屋で開催する落語会の案内だった。荒くコピーされた写真は橘さんというか、松葉家さの助。そうだった、来いとは言われていないがこれも気になっていたのだ。

「夏芽ちゃんに聞いたよ、さの助さんの知り合いなんだって?」
「はあ。大学の先輩で」
「よかったら聴きにおいで。ご招待でいいから」
「いえそんな」

 すばやくチラシを確認すると、定席の木戸銭よりも少し高い。だが蕎麦と天ぷらなどがつくのだから良心的な設定だった。

「この日は……今のとこ空いてます。ただ仕事が急に入るかもしれないので、定員いっぱいなら遠慮しておきますが」
「いやあ、埋まらないからチラシ貼ってるんでね。仕事が平気そうなら当日でもいいから連絡おくれ。夏芽ちゃんに伝えてくれてもいいし――なんだかあの子、ここんとこふさいでてさ。声かけてやってよ」
「え、そうなんですか」

 暗い顔の夏芽。そんなもの想像できなくて面食らう。

「かがみんと喧嘩でもしたのかと思ったけど違うのかい」
「してませんよ。だいたい俺はただのお隣さんです」
「なんだ彼氏じゃないのかあ。つまらないねえ」
「……世話焼きの大家さんみたいなこと言わないで下さいよ」

 苦笑いで返したら思いきり笑われた。大家なんてものは店子(たなこ)の面倒をよくみて縁談をまとめたりするものだ。大矢さんはそれを地でいっていた。

「だってあたしァ〈オオヤ〉だからね。そんじゃ落語、おいでよ」

 軽く会釈して俺は歩き出した。電車一本遅れたかもしれない。まあ余裕はあるからいいのだが。

 案の定予定とずれた電車に乗り、俺は少し憂鬱になった。
 お座敷の落語会か。たぶん一席聴いてから蕎麦御膳をいただく流れになるのだろう。さの助さんをお客さまが囲んで。ならば俺とも話すことになる。知り合いだと席主にバレているのだからお声がかかるのは必至だった。
 まあ、いい。別に俺には、やましいことも臆することもないんだ。
 俺だってちゃんとやれることをやっている。仕事を積み重ねている。橘さんとは違う方向性ではあるけれど。俺の中におかしみがないと言われようとなんだろうと、何かしらはあるのだと信じるしかないのだった。
 それでも冴えない気分を切り替えるためにメッセージを開いた。聴きに行くと橘さんに伝えよう。そう決めてしまえば腹がくくれる。

〈そば屋の会、行きます〉

 それだけ送ってからいちおう付け加えた。

〈仕事がはいらなければ〉

 素っ気ないが、あの人相手ならこれでいいのだ。向こうだって今さら俺に慇懃な態度を求めてやしない。時候の挨拶など入れたら逆に気持ち悪がられるだろう。
 アプリを閉じかけて思い直し、美紗のトーク画面を開いた。昨日の夜に俺が送ったメッセージはまだ未読のままだった。完全に無視なのか。ならばこちらから削除してしまおうかとも考えたが大人げないのでやめる。ずっと何も言えなかった俺も悪い。

「めんどくさ……」

 口の中でつぶやいた。線路脇の桜並木はいつの間にか葉をかなり落としていた。まだまだ暖かいのに、急に冬めく景色に青空が白ちゃけて見えて気がめいった。
 ポコンと通知が鳴った。確認すると橘さんからのスタンプだった。扇子を持って蕎麦をたぐっている姿にズゾゾーッの文字。汎用性の低いスタンプだと思った。だが一瞬後に、その潔さが落語だよなとなんだか納得した。


 向かった仕事はラブコメのモブだった。高校生のドキドキイチャイチャにときめいていられるほど初心ではないので、かわいいね、ぐらいの気持ちだったのだが、行ってみたらそこに関根がいた。関根は俺を見るなり隣にやってきてささやく。

「ちょっと各務さぁん。『七タン』入ったんじゃないですかっ」
「あ……ああ」

 騎士団長アランの件をどこかから聞きつけたのか。不満そうにふくれた関根の情報力に驚く。

「なんで僕に内緒だったんです? そりゃ僕も受けた役だったけど」
「……キャスト口外禁止って言われたから」
「そうでしょうけど、僕だって業界のヒトですから! リークしないし!」
「ああいいのか。そういうの初めてでわかんなくて」
「もう各務さんさあ……かわいいですか」

 もだえるような顔で引き下がられたが、関根にかわいいと言われても嬉しくなかった。
 迷った時に言い淀み黙ってしまうのは、昔からの俺の習性のようなもので自分では嫌な部分。かわいげになっているからとスルーなのもいいトシした男がどうなんだ。

「俺はっきりしなくて、悪い」
「いやいやもう、それが各務さんなんで」
「関根くんみたいにパキッとできなくてさ」
「んーまあ。キャラ違うし、共存共栄できるといいですよね」

 ハハハとさわやかな笑顔でいなされた。こいつのこういう愛嬌はたしかに俺とはまったく違う。今日の役柄も関根はヒロインにグイグイ絡んでいく他校の不良生徒。俺はそいつらを脅すが最終的にやられる町のチンピラだった。悪役でもベクトルが違う気がした。
 そしてどうでもいいことだが、ヒロインの制服がピンクのチェックスカートとベージュのブレザーだった。

「制服で葬式か……」

 ジョーカさんのぼやきを思い出した。こんな華やかな制服、いくら舞台の嘘でも場違いすぎる。
 本番はあと二週間ほどに迫り、稽古は着々と積み重ねられ、美紗は顔を見せない。俺が送信した言葉はいつまでも宙ぶらりんのままだった。



 残り四回となった劇団ジョーカーの稽古はうまく回っているように思えた。
 堀さんは過不足なく安定していて、先輩からも同輩からも文句をつけられる隙を与えていない。代役の曽根さんと他の俳優陣もすっかり馴染み、ここまでくるとあとは練度を上げるだけ。本番で空気をつかみ客と向き合うための余裕を求めて同じことを繰り返しているのだった。それは落語の稽古と同じ感じだ。

 最近別ジャンルの仕事が舞い込み始めた俺は、声優の仕事も実は積み重ねているのだと思うようになった。落語は一つの噺を繰り返し重ねていく。俺の仕事はその場かぎりだが、そのひとつひとつが重なり次の糧となっていた。
 テスト、ラステス、本番。
 たった三回でOKをもぎ取るのは瞬発力勝負に思えたが、その一瞬の力を出すにも訓練が必要だ。たくさんの引きだしを作り、持つことで声優は出来上がっていくのだった。

「各務」

 稽古後、帰り支度をした俺のことをジョーカさんがチョイと呼んだ。その隣には乃木さんもいる。嫌な予感がした。

「なんですか」
「外で」

 小声で言われ、乃木さんが悲しげな、すまなそうな顔で頭を下げた。美紗に何かあったなとわかった。

「じゃ、先に出てます」

 そう言うしかなかった。
 貸し稽古場の入り口から少し離れた暗がりにたたずみ深呼吸した。あまりひどいことじゃないといい。

「お待たせ」

 ヒョヒョイと寄ってくるジョーカさんの足どりは不自然に軽かった。ヤバいのかなと思った。乃木さんは稽古の後からずっと申し訳なさそうだ。

「鮎原さん入院したんだと」

 何故か微笑んでジョーカさんは言った。

「入院」
「なんかいろいろ受けつけなくなったって――乃木さん」
「はい」

 説明を引き継いで乃木さんが俺の前に出た。
 事故から三週間。捻挫程度ならとっくに動けるはずなのに、美紗は事務のアルバイトに復職しなかったそうだ。このままではクビだと通告する職場からの電話にも応答しなくなり、様子がおかしいと心配した上司が自宅を訪問してくれた。そこでも反応がなく警察に通報、立ち会いのもとドアを開けたら衰弱し倒れていたというわけだ。

「それが一昨日で」
「ああ……そりゃ既読つかないな」
「連絡したんですか」
「一昨日、だったと思う」

 あの時にはもう保護されてたんだろう。俺は手遅れになってから自己満足だけの行動をしたことになる。自分の馬鹿さ加減にうつむいた。

「実家からお母さまが駆けつけて、そちらから連絡くださったので私もさっき知ったんです」
「乃木さん遅刻ギリギリで来たの、そういう理由か」

 力なく笑いながらうなずいてくれる。

「意識は取り戻したんですけど、今は鎮静剤と栄養剤を点滴で入れて眠ってるそうです」
「鎮静剤?」
「あの――診察も嫌がって暴れたって」
「暴れた――」
「――さわらないで、て言ってたらしいです」

 ためらいながらそう告げられて目を閉じた。病院の医療措置を拒否したのか。それは、もう。

「食べ物も水も摂れなくなって倒れたんだろうって。繊細がすぎる」

 ジョーカさんの表情が優しい理由がわかった。その行動は一時的な混乱なのだろうが、普段の美紗がどれほど我慢を重ねていたのかうかがえた。
 潔癖症は強迫神経症。現れ方は人による。美紗のそれは世界への拒絶だったんだ。ずっと馴染みきれなかった世界への否定。
 嫌なもの、怖いものを「きたない」というくくりに入れて、触れたくない理由づけをして生きてきた美紗。
 それでも必死に普通のふりはしていたんだろう。潔癖といえども極端に思われそうな部分は心を殺して我慢し、隠していた。ちゃんと劇団のみんなと交流していた。
 だけど俺のことはどうだったんだ。俺との行為中、人形のように思えたのは心がそこにいなかったからなのか。俺と付き合ったのはやっぱりまやかしだったんだろうか。俺の事が好きだったはずと乃木さんは言ったけど、好きってなんなんだ。

「すみませんでした」

 その乃木さんは泣きそうだった。

「――何が?」
「美紗がそこまで追いつめられてたなら、もう各務さんがどうこうできることじゃなかったです。あの子がすがりつこうとしてたの、依存とかそんなレベルですよね。恋愛じゃない。私が口を出したのは余計でした」

 頭を下げられた。さっきから申し訳なさそうだったのはそれか。曽根さんの歓迎会で詰問された時には、美紗がこんなことになると思っていなかったのだから謝らなくていいのに。
 恋なのか依存なのかはわからないが、美紗が俺に何かを求めていたのは確かだ。俺がそれに応えなかったのもその通り。
 俺には何をする義務もなかったかもしれないが、だったら最初から美紗と付き合ったりしなければよかった。好きでもないのに。それが俺の瑕疵。

「すごいね」
「え?」

 乃木さんの謝罪は流したまま俺は言った。

「今日の稽古、普通にやってたじゃない。一人でそんな話抱えてたのに。やっぱ乃木さんはまともな人だ」
「そんな――」
「公演はちゃんとやる。それでお願いしますジョーカさん」
「もちろん」

 フンとジョーカさんは鼻で笑う。どのみちそうするしかない。
 ハコ入りまであと二週間。チケットも売れている。照明も音響も美術も舞台監督も、専任に依頼して打ち合わせ済み製作済みだ。今さらやめられない。

「劇団員には細かいこと伏せといていいか」

 ジョーカさんが提案した。新しい噂が立つと今うまく回っているものが壊れかねないからだ。

「鮎原さんが復帰しない理由訊かれても単に体調不良が長引いてるって感じで。各務が悪者になりかねない言い訳だけど」
「かまいませんよ俺は」

 どうせ俺は外部の人間だ。少々評判が落ちても問題ない。だが投げやりに聞こえたのかジョーカさんに肩を叩かれた。

「おまえ大丈夫? 仕事いける?」
「当たり前です」

 プロの矜持にかけて即答したが、まあまあ気伏っせいな話だ。だけど乃木さんの前でため息をつきたくない、その一心で俺は強がった。上っ面を取りつくろう癖はなかなか抜けるものではないのだった。
 入院して眠っているという美紗に俺ができることはもう何もなかった。メッセージなども送らずにそっとしておいて下さいと乃木さんに言われた。
 医療機関と家族が引き受けているのだから、他人の出番などない。しかも駆けつけたのは母親――美紗のトラウマになった人だ。出会った当初から美紗はああだったのだしそれと向き合うべきはまず家族なのだが、だからといってホッとしてしまった俺は薄情すぎる。

「私たちはもう、手を出せないんですね」

 俺と違って乃木さんは寂しそうだった。友人に真摯な気持ちをかけられるこの人は本当にまともだ。
 飲みに行くかというジョーカさんの誘いをお断りして帰ると、隣の二○二号室は起きているようだった。遅いというお叱りメッセージでもまた来ないかと思ったが、シャワーを浴びて出てきても今夜は着信がなかった。