8
午後ゆっくりと仕事に出たら、途中の〈アトリエ喫茶・天〉は定休日だった。ということは夏芽はアトリエにいるのだろうか。朝、キーホルダーの鈴がリリンと大きな音をたてていたから外には行ったはずだ。
今日は店員の仕事ではなく陶芸家として土に向き合っているのかもしれない。中学か高校のジャージ姿で無心に粘土を見つめる夏芽の眼差しが浮かんだ。
そこを通りすぎ、駅に向かう俺の今日の仕事は二時間スペシャルバラエティのVTRだった。
スタジオに入ったら後半の原稿はまだできていなかったがそんなの通常運転だ。担当の役を割り振られ原稿をチェックして、録れるところから収録する。海外からの面白映像のセリフやナレーションだったので少々テンション高めでないとOKが出ない。沈んだ気分の俺は必死で腹に力を入れた。
視聴者として観るなら興味のない番組や、好きでもない作品。そんなものでも俺はしゃべる。与えられたセリフを懸命に。俺の声は商品だから。
心からの言葉でなくとも、役になりきっていなくとも、それらしければNGにはならない。だがそれでもどこかに俺の本当の言葉があるんじゃないかと期待しながら、俺は毎日しゃべってきた。
そうしたらどうだ、まさか付き合った女を拒絶する言葉の中に俺の真実があるなんて。求めていたのはそんなのじゃなかった。
研ぎ澄ました道を行く、アトリエでの夏芽の指先。そして高座から客を支配する、橘さんの目配り。俺が欲しかったのはそういうものだったのに。
「お疲れさまっしたー!」
男性三人女性三人でさんざん演じ分けて結構な量を収録した。途中でやってきた本村さんがまた一人ずつ労ってくれるが、ブースを出た俺の顔を見て苦笑いされた。
「どんよりだね各務くん」
「はあ。まあそうかもです」
「疲れてる? 仕事多いっけ」
「いえ。仕事は余裕あります。どうぞ入れて下さい」
どんよりしているのは私生活の方――いや客演の関係なら公なのだろうか、よくわからない。そしたら本村さんが知らずに核心を突いた。
「舞台、一ヶ月後だよな」
「――はあ。でもちょっとトラブって代役が立ったんで、俺は今週稽古ナシです。代役の抜き稽古だけ集中してやるんですけど、俺は絡みないんで」
「おお。たいへんだなジョーカさん」
こんな時期に通し稽古ができないのは正直痛いところだろう。劇団員それぞれにだって生活があるから稽古は毎日ではない。俺なんか週二しか参加していなかった。代役のために臨時で招集をかけると言っていたが、みんな一杯いっぱいだった。
それに稽古以外でもフライヤーの出演者訂正シール貼りもあったし、軽く合わせた衣装の手直しや舞台監督との打ち合わせなどバタバタのはず。だが客演の俺はそういうことから隔離されている。仕事をしていた方が気がまぎれていいんだ。すると顔を寄せた本村さんが小声で言った。
「各務くん、たぶん仕事増えるよ。動画の方で座間が張り切ってる」
「――え」
ぎょっとする俺に、本村さんはニヤリとした。
「お疲れ」
肩をポンとされた俺は、ぼんやりと拾い主である本村さんを見送った。
俺はどうやら、飼い主となった事務所全体から商品価値を認められつつあるらしい。
面倒くさくなって夕飯は駅前のコンビニで弁当を買った。最近不摂生だと思っているが、やる気が出ない。米を炊くのすらダルかった。
暗い商店街を歩いているとカバンの中でメッセージが鳴った気がした。また夏芽かな、となんとなく思った。〈喫茶・天〉の近くだったから。今日はアトリエで陶芸だったのだろうし、前に俺が作った小皿はどうなったのか気になる。片手でスマホを探り出して見たら違った。
「……ンだよ」
喉の奥から吐き捨てた。橘さんだ。送信者名だけで肝を冷やしてくれる人は他になかなかいない。仕方なく開いた。
〈こんどおざしきやるのおまえんちのちかく〉
〈あたりや〉
〈そばやな〉
「変換してくんないかな……」
この近所で蕎麦屋のお座敷に呼ばれたということだろうか。
二ツ目の噺家は定席の寄席に出る機会が少ないので自分から仕事を作りに動かなくてはならないのだ。仲間と勉強会を開いたり、ご贔屓さんに呼んでいただいてお座敷をつとめたりする。座布団一枚あれば披露できる落語は出張に便利な芸だ。
〈うまいそばたべたい〉
「勝手に食べてくれ」
帰り着いた俺は返信を後回しにした。弁当もほったらかしてシャワーを浴びる。食事もベッドに座って摂るので着替えてからでないと汚い気がして身についた習慣だ。この辺は別に美紗の影響ではなく、感染症を持ち込まないための自衛策。喉をやったら食い詰める仕事柄によるものだった。
「あたりや……?」
部屋着のスウェットを着てから首をひねった。近所の飲食店のことは本当に知らなかった。外食はしょっちゅうだから、むしろ家で食べられるなら家にいたい。検索しようかと思ったが、ふとメッセージを送った。
〈あたりや、てソバ屋知ってる?〉
夏芽にだ。あいつなら商店街がホームグラウンド、この辺の店に詳しいだろう。そう思っただけなのだが隣のドアの音がした。うちのインターホンが鳴る。応答する前にドア越しで声がした。
「かがみん、開けな」
なんで命令形なんだ。呆れながら言う通りにするとスマホを手にイエイ、とにっこりされた。得意げに教えてくれる。
「中り屋はねえ、大矢さんのお蕎麦屋さんだよ」
「大矢さん――あ、矢か。それで中り」
あの落語好きな大家さんぽい大矢さん。矢が当たることのゲン担ぎで縁起のいい名前である〈中り屋〉を自分の名前とかけて店名にしているのだろう。なるほど落語会を開くに相応しい場所だった。
「大矢さん蕎麦屋だったんだ」
「うん。何、お蕎麦食べたいの」
「いや。知り合いの噺家がそこで落語やるって」
「あ、お蕎麦と落語の夕べをやるから聴きにおいでって誘われてる。かがみんの友だちなんだ?」
「大学の先輩」
「じゃあ絶対行かなくちゃ」
目をキラキラされて、しくじったことに俺は気づいた。昔のかがみんの話を聞いちゃおうとワクワク顔の夏芽を部屋から叩き出そうとすると抵抗される。「お皿なんだけど」と言われて動きを止めた。
「今日やっと素焼きしたの。出来上がりまでまだ時間かかる。ごめんね」
「……素焼き?」
陶芸には粘土を形作ってから幾つもの工程があるらしい。生乾きを削り整え、じっくり乾燥させ、素焼きして、釉を掛け、本焼き。
「一窯分の作品がなかなか揃わなくて」
「まあ、喫茶店やりながらだしな」
「納得できる物でないともったいないから、潰しちゃったのも結構ある」
「潰す?」
「素焼き前なら粘土に戻せるもん」
だから待っててね、と夏芽は自分の部屋に戻っていった。
ちょうど訊きたかった小皿の消息が知れたのはよかったが、なんとなく悔しくなった。夏芽は世に出す作品を自ら吟味することができるのだった。
納得してもしなくても、しゃべってOKが出ればそこで人手に渡る俺の声。関わる作品を選ぶこともできず、指示のまま原稿のままにしゃべる俺は機械と何が違うんだろう。そのうち読み上げAIに取って代わられて俺たちは不要になるんじゃないかと、たまに思う。
「あ、そうだ。返信」
既読スルーだと思われても橘さんに後々ごねられる。
〈ご店主は落語好きのいい人
大家さんぽい感じの〉
それだけ送って弁当を温めながら野菜ジュースを飲んでいたら、ポコンと返ってきた。着物の男が座布団に正座しケタケタ爆笑しているスタンプだった。噺家スタンプなんてあるんだ。感心したが、考えてみれば本人が笑うより客を笑わせるのが商売なのでは。
俺、夏芽、橘さん。それぞれの仕事は見事にバラバラで向き合うものも全然違う。
マイク、土、生の客。共通点はたぶん、浮き草稼業というところだけだった。
俺が所属するオフィス・エイムは大手ではないが、そこそこの歴史と規模を持つ事務所だった。だから俺みたいのを拾って飼っておく余裕があるわけで。
制作会社とのつながりと信頼により、企画段階から噛む作品やキャスティングを委託される作品もある。メインだけはオーディションで決定しても、ゲストやモブは自事務所のタレントを起用することができるのだった。座間さんが俺をねじ込もうとしているのはそういうユニットの仕事。
「だってアニメに慣れていただかなくちゃいけませんからね」
「はあ。その通りです」
俺はナレーション以外だと原音のある仕事が多かった。日本で制作された新作アニメの場合もちろん声などついていないし、絵ができていないこともしょっちゅう。完成品を吹き替えるのとはわけが違う。
今日連れてこられたのは異世界ものの深夜アニメだ。魔族に襲われる村の村長さん役。なんとなく勝手がわからぬまま音響監督の指示をメモる。
「カット24と25テレコです。カット30から42まで静止画なので村長さん青い線で。赤がガイ、緑がシェル」
「はい」
さっそく出たな「青い線」。これは線だったり口だったりするが、画面上で各色の線が表示されているタイミングでしゃべるもの。口部分だけが色線で強調されつつパクパク動いたりもするらしい。
できんのかな、と不安を抱えて俺はマイクの前に立った。
「――うん、大丈夫ですね。しばらく幾つかアニメ回しますから頑張ってみて下さい」
「ありがとうございます」
結果、なんとかなった。
普通に出来上がった絵が無音で流れているのも面白いが、そこから急にラフな白絵になるのも初めて見て吹き出しそうになった。タイミングでしゃべるのは同じことだとわかったし、すぐ慣れるだろう。
まだスタジオに残るという座間さんと別れ一人で外に出た。もう十月も終わり、東京の日中はちょうど爽やかなぐらいだ。今日から劇団ジョーカーの稽古に復帰なので夜まで時間が空くが、一度家に帰るほどの暇はなかった。
稽古場の最寄駅まで移動して、近くの大きめな公園を目指した。そこで本でも読むか、ぼんやりしようと思ったのだ。脳みそをゆるめて楽になりたい。
だが行ってみると、そこに俺の代役内田くんと主演の堀さんがいた。自主練だ。堀さんとそんな状態に持ち込むとは内田くんめちゃくちゃ頑張ったんだなと感心したが、見てみれば彼の努力は恋愛だけじゃなかった。
内田くんは俺の役だけじゃなく他のすべてのセリフをそらんじていた。そして堀さんと絡みのある役の位置にサッと入って相手をする。
なんだこれ。もしかしてこの舞台でいちばん成長したのは内田くんなんじゃないか。公園の入り口で呆然としていると二人に気づかれた。
「各務さん!」
「きゃ、おはようございます!」
申し訳ない気がしたが、見つかっては仕方ない。二人の間を少しだけ邪魔しよう。
「のぞいてごめん。時間調整しに来たんだ」
「いえ、こんなとこ見つかっちゃって」
「内田くんすごいな。今、全役やってただろ」
「あ、はい。完コピまではいかないですけど、少しでも練習相手になれればと思って」
「女役もちゃんとしてたと思う」
「ほんとですか? やった!」
俺がほめたら隣の堀さんもパアッと笑った。それを見もせずに内田くんは言う。
「ジョーカ先生が言ったじゃないですか、各務さんは女もやれるって。だから形だけでもいいから俺もやってみなきゃなって」
「そうか……」
堀さんのためだけじゃないんだ。自分のために、やれることを精一杯工夫して試してこうなった。今回は役がもらえなかったけど、内田くんなりに芸に向き合ったのだ。俺がぐじぐじと下を向いている間に。
「堀さんも、熱心だね」
「とにかく役をちゃんとやらないと、ほら見ろってなっちゃうんで」
しれっと言うことになかなか棘があって俺は笑いそうになった。
「ずいぶんひどいこと言われてるんだろ。大丈夫?」
「うーん、陰口だから……何言ってるか私は聞いてないんで、平気です」
ケロリと言い切られて鼻白んだ。
自分のやるべきことだけを見てそこに向かうことができるこの二人は今、劇団員の誰よりも強いのではと思った。
一週間ぶりに合流した稽古は衣装合わせだった。久しぶりの通し稽古だが、制作的なところも同時に進めないと時間がない。
ドーランをスポンジで肌に叩いてテカリを抑え、色の濃淡で凹凸を作る。ペンシルで眉を描き目の形をくっきりさせる。遠くからでも表情がわかるように。だが俺の役は実年齢とあまり変わらないのでメイクは軽くていいし着物は自分で着られる。のんびりしたものだった。
「こら両親、おまえら老けすぎ」
ジョーカさんが嘆くのは四十代真ん中設定の父と母。演者が二十代後半なのでどうしても老けメイクをせざるを得ない。でも五十代のジョーカさんは「俺より若くしろよ」と言うのだった。
「ジョーカちゃんが若作りだからいけないのよぉ」
ヘアシルバーで白髪にした二ノ宮さんは、ほうれい線と目じりの皺、さらにシミを顔に書き足しながら文句を言った。
「そんなチャラい服着ていいなら若くできるけど」
「葬式だっつってんでしょ」
「こうして揃ってみるとホント辛気臭い見た目よねえ。やだやだ」
「陽気な葬式って何?」
喪服じゃないのは高校制服の主役と葬儀社の駄目社員と火葬場の有能社員、デリバリーの軽薄兄ちゃん、そして俺。半数以上が黒ずくめで本当に暗い絵面だ。ジョーカさんがぼやいた。
「レナちゃんの制服スカート、ピンクのチェックとかにすればよかった」
レナというのは堀さんの役名だ。美紗の代役に立つ曽根さんがケラケラと笑った。
「そんなアニメみたいな制服」
「いいじゃん、舞台の嘘だよ」
曽根さんは舞台育ちの人で、演出の勘所を押さえあっという間に役を入れてくれたらしい。劇団と無関係の若い女優が加わったことで堀さんへの風当たりは表向き少し減ったようだ。
本番まで三週間、俺が参加する通し稽古は残り六回だった。劇場に入って仕込んだら、場当たりゲネプロ。そして本番を三日間で四回やったらバラシ。それだけ。
この舞台が終わればもう、俺は劇団ジョーカーに関わらないだろう。美紗と並んで周りに気を遣わせるのは嫌だ。生の舞台ができなくなるのは残念だが、アニメの方にも仕事が広がり忙しくなってくれればいい。
あの言い争いの後、美紗に連絡はしていなかった。俺から謝るようなことは何もないと思っているし、謝ってもらうことも別にない。怪我が落ち着けば向こうが稽古場に顔を出すと思っていたが、まだ来ていないそうだ。
このまま舞台が終われば、顔を合わせることもなくなり二度と会わない。できればその方がいいと考えてしまう俺がいた。本当にクズだ。何かを終わらせるのは、始めるよりよほど難しかった。
美紗はどうするつもりなんだろう。公演は美紗抜きで回っていく。美紗が築いてきたものを曽根さんがあっさり上書きして、いい舞台が出来上がるだろうと思わせる。
いくらでも取り替えのきく女優、鮎原美紗。
代役なんてすぐに見つかるのだった。実際そんなものだし、かけがえのない存在になど簡単にはなれないし、せめて恋人にぐらいそう思ってもらいたかったかもしれないが俺にはできなかった。
唯一無二、てなんだ。誰か教えてくれ。
誰かとヒョイと取り替えられないよう、俺は淡々と仕事をこなしていた。
吹き替えドラマは間もなく最終回だった。半年に及んだレギュラーがなくなる。お願いだからシーズンツーも制作・輸入してほしい。ほとんど定期的に呼んでくれる音響監督米沢さんの映画だって結局は単発の仕事だし、月に二、三回じゃボロマンションの家賃にもならなかった。
ちょこまかと本村さんが入れてくれるボイスオーバーやドラマ、それと地味なナレーションのおかげで俺は今まで食ってきたのだが、ここにきて座間さんが回してくれるアニメのゲストが強力な財布になりそうだった。しくじるわけにはいかない。子ども向けアニメでは友だちのお父さん。ラブコメだとモブのチンピラ。立て続けに入った予定に座間さんの本気を感じた。
ありがとう、アラン。騎士団長のおかげで俺は生き延びるかもしれない。
「冬アニメの番組レギュラー、決まりましたよ」
「――は?」
告げられたのはラブコメの台本を取りに事務所に寄った時だった。座間さんの周りでデスクたちが小さく拍手する。
「作品は『ブレない僕らの救いの手』。〈管理者〉っていう固定の役もついてますけど、そっちは出番少なくて」
「え、えーと、うちのユニットですか」
「いえ」
呆気に取られてどもってしまった俺に、座間さんはドヤ顔で微笑んだ。
「辰巳さんのご指名です」
「たつ……あ」
それは『七タン』の音響監督さんだ。アランからの流れか。どうりで座間さんが得意げなわけだった。
「毎週いろんな役を振っていただけると思うんでガツンといきましょう。辰巳さんに食い込めば強いです」
「――はい」
辰巳さんは切れ目なく人気作を手掛けている。音響監督としては中堅どころといえるだろうが、だからこそ自分の手駒の若手を欲しがっているに違いなかった。大御所声優に無茶ぶりはしにくいから。
ここで使えると思われればコンスタントに彼のアニメに入れるかもしれない。そうなれば他の監督にも波及する。
これはたぶん、俺がこの世界で生き残るかどうかの正念場だった。
午後収録の子ども向けアニメを終えて帰宅した俺は、心を入れ替えて弁当ではなく惣菜を買った。サラダも。米は炊く。よし、偉い。大丈夫、俺は生きていける。
一つのことを繰り返しきわめていく芸事とは違うものだが、俺のやっていることは無駄ではない。
誰かの娯楽になる点では落語と同じだ。
そしてアニメでも映画でも、観て生活が豊かになるのなら気に入りの器で食事するのと同じこと。
橘さんにも夏芽にも、恥じることなどないんだ。
少し気持ちを強くした俺は、三週間も懸案だったことに手をつけた。美紗へのメッセージ。
アプリを開いたまま何を言うか長いこと迷った。でも結局たいしたことは打てなかった。
〈調子どうだ〉
その日、既読はつかなかった。
午後ゆっくりと仕事に出たら、途中の〈アトリエ喫茶・天〉は定休日だった。ということは夏芽はアトリエにいるのだろうか。朝、キーホルダーの鈴がリリンと大きな音をたてていたから外には行ったはずだ。
今日は店員の仕事ではなく陶芸家として土に向き合っているのかもしれない。中学か高校のジャージ姿で無心に粘土を見つめる夏芽の眼差しが浮かんだ。
そこを通りすぎ、駅に向かう俺の今日の仕事は二時間スペシャルバラエティのVTRだった。
スタジオに入ったら後半の原稿はまだできていなかったがそんなの通常運転だ。担当の役を割り振られ原稿をチェックして、録れるところから収録する。海外からの面白映像のセリフやナレーションだったので少々テンション高めでないとOKが出ない。沈んだ気分の俺は必死で腹に力を入れた。
視聴者として観るなら興味のない番組や、好きでもない作品。そんなものでも俺はしゃべる。与えられたセリフを懸命に。俺の声は商品だから。
心からの言葉でなくとも、役になりきっていなくとも、それらしければNGにはならない。だがそれでもどこかに俺の本当の言葉があるんじゃないかと期待しながら、俺は毎日しゃべってきた。
そうしたらどうだ、まさか付き合った女を拒絶する言葉の中に俺の真実があるなんて。求めていたのはそんなのじゃなかった。
研ぎ澄ました道を行く、アトリエでの夏芽の指先。そして高座から客を支配する、橘さんの目配り。俺が欲しかったのはそういうものだったのに。
「お疲れさまっしたー!」
男性三人女性三人でさんざん演じ分けて結構な量を収録した。途中でやってきた本村さんがまた一人ずつ労ってくれるが、ブースを出た俺の顔を見て苦笑いされた。
「どんよりだね各務くん」
「はあ。まあそうかもです」
「疲れてる? 仕事多いっけ」
「いえ。仕事は余裕あります。どうぞ入れて下さい」
どんよりしているのは私生活の方――いや客演の関係なら公なのだろうか、よくわからない。そしたら本村さんが知らずに核心を突いた。
「舞台、一ヶ月後だよな」
「――はあ。でもちょっとトラブって代役が立ったんで、俺は今週稽古ナシです。代役の抜き稽古だけ集中してやるんですけど、俺は絡みないんで」
「おお。たいへんだなジョーカさん」
こんな時期に通し稽古ができないのは正直痛いところだろう。劇団員それぞれにだって生活があるから稽古は毎日ではない。俺なんか週二しか参加していなかった。代役のために臨時で招集をかけると言っていたが、みんな一杯いっぱいだった。
それに稽古以外でもフライヤーの出演者訂正シール貼りもあったし、軽く合わせた衣装の手直しや舞台監督との打ち合わせなどバタバタのはず。だが客演の俺はそういうことから隔離されている。仕事をしていた方が気がまぎれていいんだ。すると顔を寄せた本村さんが小声で言った。
「各務くん、たぶん仕事増えるよ。動画の方で座間が張り切ってる」
「――え」
ぎょっとする俺に、本村さんはニヤリとした。
「お疲れ」
肩をポンとされた俺は、ぼんやりと拾い主である本村さんを見送った。
俺はどうやら、飼い主となった事務所全体から商品価値を認められつつあるらしい。
面倒くさくなって夕飯は駅前のコンビニで弁当を買った。最近不摂生だと思っているが、やる気が出ない。米を炊くのすらダルかった。
暗い商店街を歩いているとカバンの中でメッセージが鳴った気がした。また夏芽かな、となんとなく思った。〈喫茶・天〉の近くだったから。今日はアトリエで陶芸だったのだろうし、前に俺が作った小皿はどうなったのか気になる。片手でスマホを探り出して見たら違った。
「……ンだよ」
喉の奥から吐き捨てた。橘さんだ。送信者名だけで肝を冷やしてくれる人は他になかなかいない。仕方なく開いた。
〈こんどおざしきやるのおまえんちのちかく〉
〈あたりや〉
〈そばやな〉
「変換してくんないかな……」
この近所で蕎麦屋のお座敷に呼ばれたということだろうか。
二ツ目の噺家は定席の寄席に出る機会が少ないので自分から仕事を作りに動かなくてはならないのだ。仲間と勉強会を開いたり、ご贔屓さんに呼んでいただいてお座敷をつとめたりする。座布団一枚あれば披露できる落語は出張に便利な芸だ。
〈うまいそばたべたい〉
「勝手に食べてくれ」
帰り着いた俺は返信を後回しにした。弁当もほったらかしてシャワーを浴びる。食事もベッドに座って摂るので着替えてからでないと汚い気がして身についた習慣だ。この辺は別に美紗の影響ではなく、感染症を持ち込まないための自衛策。喉をやったら食い詰める仕事柄によるものだった。
「あたりや……?」
部屋着のスウェットを着てから首をひねった。近所の飲食店のことは本当に知らなかった。外食はしょっちゅうだから、むしろ家で食べられるなら家にいたい。検索しようかと思ったが、ふとメッセージを送った。
〈あたりや、てソバ屋知ってる?〉
夏芽にだ。あいつなら商店街がホームグラウンド、この辺の店に詳しいだろう。そう思っただけなのだが隣のドアの音がした。うちのインターホンが鳴る。応答する前にドア越しで声がした。
「かがみん、開けな」
なんで命令形なんだ。呆れながら言う通りにするとスマホを手にイエイ、とにっこりされた。得意げに教えてくれる。
「中り屋はねえ、大矢さんのお蕎麦屋さんだよ」
「大矢さん――あ、矢か。それで中り」
あの落語好きな大家さんぽい大矢さん。矢が当たることのゲン担ぎで縁起のいい名前である〈中り屋〉を自分の名前とかけて店名にしているのだろう。なるほど落語会を開くに相応しい場所だった。
「大矢さん蕎麦屋だったんだ」
「うん。何、お蕎麦食べたいの」
「いや。知り合いの噺家がそこで落語やるって」
「あ、お蕎麦と落語の夕べをやるから聴きにおいでって誘われてる。かがみんの友だちなんだ?」
「大学の先輩」
「じゃあ絶対行かなくちゃ」
目をキラキラされて、しくじったことに俺は気づいた。昔のかがみんの話を聞いちゃおうとワクワク顔の夏芽を部屋から叩き出そうとすると抵抗される。「お皿なんだけど」と言われて動きを止めた。
「今日やっと素焼きしたの。出来上がりまでまだ時間かかる。ごめんね」
「……素焼き?」
陶芸には粘土を形作ってから幾つもの工程があるらしい。生乾きを削り整え、じっくり乾燥させ、素焼きして、釉を掛け、本焼き。
「一窯分の作品がなかなか揃わなくて」
「まあ、喫茶店やりながらだしな」
「納得できる物でないともったいないから、潰しちゃったのも結構ある」
「潰す?」
「素焼き前なら粘土に戻せるもん」
だから待っててね、と夏芽は自分の部屋に戻っていった。
ちょうど訊きたかった小皿の消息が知れたのはよかったが、なんとなく悔しくなった。夏芽は世に出す作品を自ら吟味することができるのだった。
納得してもしなくても、しゃべってOKが出ればそこで人手に渡る俺の声。関わる作品を選ぶこともできず、指示のまま原稿のままにしゃべる俺は機械と何が違うんだろう。そのうち読み上げAIに取って代わられて俺たちは不要になるんじゃないかと、たまに思う。
「あ、そうだ。返信」
既読スルーだと思われても橘さんに後々ごねられる。
〈ご店主は落語好きのいい人
大家さんぽい感じの〉
それだけ送って弁当を温めながら野菜ジュースを飲んでいたら、ポコンと返ってきた。着物の男が座布団に正座しケタケタ爆笑しているスタンプだった。噺家スタンプなんてあるんだ。感心したが、考えてみれば本人が笑うより客を笑わせるのが商売なのでは。
俺、夏芽、橘さん。それぞれの仕事は見事にバラバラで向き合うものも全然違う。
マイク、土、生の客。共通点はたぶん、浮き草稼業というところだけだった。
俺が所属するオフィス・エイムは大手ではないが、そこそこの歴史と規模を持つ事務所だった。だから俺みたいのを拾って飼っておく余裕があるわけで。
制作会社とのつながりと信頼により、企画段階から噛む作品やキャスティングを委託される作品もある。メインだけはオーディションで決定しても、ゲストやモブは自事務所のタレントを起用することができるのだった。座間さんが俺をねじ込もうとしているのはそういうユニットの仕事。
「だってアニメに慣れていただかなくちゃいけませんからね」
「はあ。その通りです」
俺はナレーション以外だと原音のある仕事が多かった。日本で制作された新作アニメの場合もちろん声などついていないし、絵ができていないこともしょっちゅう。完成品を吹き替えるのとはわけが違う。
今日連れてこられたのは異世界ものの深夜アニメだ。魔族に襲われる村の村長さん役。なんとなく勝手がわからぬまま音響監督の指示をメモる。
「カット24と25テレコです。カット30から42まで静止画なので村長さん青い線で。赤がガイ、緑がシェル」
「はい」
さっそく出たな「青い線」。これは線だったり口だったりするが、画面上で各色の線が表示されているタイミングでしゃべるもの。口部分だけが色線で強調されつつパクパク動いたりもするらしい。
できんのかな、と不安を抱えて俺はマイクの前に立った。
「――うん、大丈夫ですね。しばらく幾つかアニメ回しますから頑張ってみて下さい」
「ありがとうございます」
結果、なんとかなった。
普通に出来上がった絵が無音で流れているのも面白いが、そこから急にラフな白絵になるのも初めて見て吹き出しそうになった。タイミングでしゃべるのは同じことだとわかったし、すぐ慣れるだろう。
まだスタジオに残るという座間さんと別れ一人で外に出た。もう十月も終わり、東京の日中はちょうど爽やかなぐらいだ。今日から劇団ジョーカーの稽古に復帰なので夜まで時間が空くが、一度家に帰るほどの暇はなかった。
稽古場の最寄駅まで移動して、近くの大きめな公園を目指した。そこで本でも読むか、ぼんやりしようと思ったのだ。脳みそをゆるめて楽になりたい。
だが行ってみると、そこに俺の代役内田くんと主演の堀さんがいた。自主練だ。堀さんとそんな状態に持ち込むとは内田くんめちゃくちゃ頑張ったんだなと感心したが、見てみれば彼の努力は恋愛だけじゃなかった。
内田くんは俺の役だけじゃなく他のすべてのセリフをそらんじていた。そして堀さんと絡みのある役の位置にサッと入って相手をする。
なんだこれ。もしかしてこの舞台でいちばん成長したのは内田くんなんじゃないか。公園の入り口で呆然としていると二人に気づかれた。
「各務さん!」
「きゃ、おはようございます!」
申し訳ない気がしたが、見つかっては仕方ない。二人の間を少しだけ邪魔しよう。
「のぞいてごめん。時間調整しに来たんだ」
「いえ、こんなとこ見つかっちゃって」
「内田くんすごいな。今、全役やってただろ」
「あ、はい。完コピまではいかないですけど、少しでも練習相手になれればと思って」
「女役もちゃんとしてたと思う」
「ほんとですか? やった!」
俺がほめたら隣の堀さんもパアッと笑った。それを見もせずに内田くんは言う。
「ジョーカ先生が言ったじゃないですか、各務さんは女もやれるって。だから形だけでもいいから俺もやってみなきゃなって」
「そうか……」
堀さんのためだけじゃないんだ。自分のために、やれることを精一杯工夫して試してこうなった。今回は役がもらえなかったけど、内田くんなりに芸に向き合ったのだ。俺がぐじぐじと下を向いている間に。
「堀さんも、熱心だね」
「とにかく役をちゃんとやらないと、ほら見ろってなっちゃうんで」
しれっと言うことになかなか棘があって俺は笑いそうになった。
「ずいぶんひどいこと言われてるんだろ。大丈夫?」
「うーん、陰口だから……何言ってるか私は聞いてないんで、平気です」
ケロリと言い切られて鼻白んだ。
自分のやるべきことだけを見てそこに向かうことができるこの二人は今、劇団員の誰よりも強いのではと思った。
一週間ぶりに合流した稽古は衣装合わせだった。久しぶりの通し稽古だが、制作的なところも同時に進めないと時間がない。
ドーランをスポンジで肌に叩いてテカリを抑え、色の濃淡で凹凸を作る。ペンシルで眉を描き目の形をくっきりさせる。遠くからでも表情がわかるように。だが俺の役は実年齢とあまり変わらないのでメイクは軽くていいし着物は自分で着られる。のんびりしたものだった。
「こら両親、おまえら老けすぎ」
ジョーカさんが嘆くのは四十代真ん中設定の父と母。演者が二十代後半なのでどうしても老けメイクをせざるを得ない。でも五十代のジョーカさんは「俺より若くしろよ」と言うのだった。
「ジョーカちゃんが若作りだからいけないのよぉ」
ヘアシルバーで白髪にした二ノ宮さんは、ほうれい線と目じりの皺、さらにシミを顔に書き足しながら文句を言った。
「そんなチャラい服着ていいなら若くできるけど」
「葬式だっつってんでしょ」
「こうして揃ってみるとホント辛気臭い見た目よねえ。やだやだ」
「陽気な葬式って何?」
喪服じゃないのは高校制服の主役と葬儀社の駄目社員と火葬場の有能社員、デリバリーの軽薄兄ちゃん、そして俺。半数以上が黒ずくめで本当に暗い絵面だ。ジョーカさんがぼやいた。
「レナちゃんの制服スカート、ピンクのチェックとかにすればよかった」
レナというのは堀さんの役名だ。美紗の代役に立つ曽根さんがケラケラと笑った。
「そんなアニメみたいな制服」
「いいじゃん、舞台の嘘だよ」
曽根さんは舞台育ちの人で、演出の勘所を押さえあっという間に役を入れてくれたらしい。劇団と無関係の若い女優が加わったことで堀さんへの風当たりは表向き少し減ったようだ。
本番まで三週間、俺が参加する通し稽古は残り六回だった。劇場に入って仕込んだら、場当たりゲネプロ。そして本番を三日間で四回やったらバラシ。それだけ。
この舞台が終わればもう、俺は劇団ジョーカーに関わらないだろう。美紗と並んで周りに気を遣わせるのは嫌だ。生の舞台ができなくなるのは残念だが、アニメの方にも仕事が広がり忙しくなってくれればいい。
あの言い争いの後、美紗に連絡はしていなかった。俺から謝るようなことは何もないと思っているし、謝ってもらうことも別にない。怪我が落ち着けば向こうが稽古場に顔を出すと思っていたが、まだ来ていないそうだ。
このまま舞台が終われば、顔を合わせることもなくなり二度と会わない。できればその方がいいと考えてしまう俺がいた。本当にクズだ。何かを終わらせるのは、始めるよりよほど難しかった。
美紗はどうするつもりなんだろう。公演は美紗抜きで回っていく。美紗が築いてきたものを曽根さんがあっさり上書きして、いい舞台が出来上がるだろうと思わせる。
いくらでも取り替えのきく女優、鮎原美紗。
代役なんてすぐに見つかるのだった。実際そんなものだし、かけがえのない存在になど簡単にはなれないし、せめて恋人にぐらいそう思ってもらいたかったかもしれないが俺にはできなかった。
唯一無二、てなんだ。誰か教えてくれ。
誰かとヒョイと取り替えられないよう、俺は淡々と仕事をこなしていた。
吹き替えドラマは間もなく最終回だった。半年に及んだレギュラーがなくなる。お願いだからシーズンツーも制作・輸入してほしい。ほとんど定期的に呼んでくれる音響監督米沢さんの映画だって結局は単発の仕事だし、月に二、三回じゃボロマンションの家賃にもならなかった。
ちょこまかと本村さんが入れてくれるボイスオーバーやドラマ、それと地味なナレーションのおかげで俺は今まで食ってきたのだが、ここにきて座間さんが回してくれるアニメのゲストが強力な財布になりそうだった。しくじるわけにはいかない。子ども向けアニメでは友だちのお父さん。ラブコメだとモブのチンピラ。立て続けに入った予定に座間さんの本気を感じた。
ありがとう、アラン。騎士団長のおかげで俺は生き延びるかもしれない。
「冬アニメの番組レギュラー、決まりましたよ」
「――は?」
告げられたのはラブコメの台本を取りに事務所に寄った時だった。座間さんの周りでデスクたちが小さく拍手する。
「作品は『ブレない僕らの救いの手』。〈管理者〉っていう固定の役もついてますけど、そっちは出番少なくて」
「え、えーと、うちのユニットですか」
「いえ」
呆気に取られてどもってしまった俺に、座間さんはドヤ顔で微笑んだ。
「辰巳さんのご指名です」
「たつ……あ」
それは『七タン』の音響監督さんだ。アランからの流れか。どうりで座間さんが得意げなわけだった。
「毎週いろんな役を振っていただけると思うんでガツンといきましょう。辰巳さんに食い込めば強いです」
「――はい」
辰巳さんは切れ目なく人気作を手掛けている。音響監督としては中堅どころといえるだろうが、だからこそ自分の手駒の若手を欲しがっているに違いなかった。大御所声優に無茶ぶりはしにくいから。
ここで使えると思われればコンスタントに彼のアニメに入れるかもしれない。そうなれば他の監督にも波及する。
これはたぶん、俺がこの世界で生き残るかどうかの正念場だった。
午後収録の子ども向けアニメを終えて帰宅した俺は、心を入れ替えて弁当ではなく惣菜を買った。サラダも。米は炊く。よし、偉い。大丈夫、俺は生きていける。
一つのことを繰り返しきわめていく芸事とは違うものだが、俺のやっていることは無駄ではない。
誰かの娯楽になる点では落語と同じだ。
そしてアニメでも映画でも、観て生活が豊かになるのなら気に入りの器で食事するのと同じこと。
橘さんにも夏芽にも、恥じることなどないんだ。
少し気持ちを強くした俺は、三週間も懸案だったことに手をつけた。美紗へのメッセージ。
アプリを開いたまま何を言うか長いこと迷った。でも結局たいしたことは打てなかった。
〈調子どうだ〉
その日、既読はつかなかった。