翌日は仕事もなく、俺は息を殺していた。ため息をつけば揺らいでしまう気がした。出した着物を羽織り、シュルと帯を締めると背すじが伸びた。俺は大丈夫だ。
 美紗の電話を着拒にする。メッセージ通知はオフ。ぐちぐち言われても嫌だし、お互い少し頭を冷やした方がいいんだ。

 さらに次の日、俺はいつもの吹き替えドラマの収録に行った。唯一のレギュラー作品。慣れた現場がありがたかった。
 何があったって録音は待ってくれない。たかが女とどうこうしたぐらい、実際なんでもないことだ。それで俺の声が劇的に変わるなんてことは起こりえない。だけど収録後、本村さんは言った。

「おまえ、少しすごみが出たかもな」
「はい?」
「この間のオーディションでも思ったけど、なんだか声が強くなった。いいんじゃないか」
「ありがとうございます……」

 ポンと肩を叩かれて、俺は釈然としない。本村さんはスタジオにいる事務所の連中に順に声を掛けていった。今日の良かった点、改善点。ちゃんと全員のことを観察し把握する歴戦のマネージャーの言うことだから信用せざるを得ないが、チクリと胸が痛んだ。
 だが待て、先日からそうだと言われただろう。別にあの言い争いのおかげじゃない。俺が強くなったのなら、それは俺の中の何かだ。嘘くさい言葉しか出てこない自分への苛立ちとか、この業界で生き残れるかという焦燥とか、そんなものが俺を後押ししているだけ。

「おっつかれさまでーす、各務さん。こないだのアニメ、どうでした?」

 自販機の脇でコーヒーを飲んでいたらフラフラと関根が寄ってきた。ガコンとミルクティーを買いながら、まだ炭酸飲めないなあとつぶやく。この後も仕事があると言いたいらしい。

「アニメ? ああ」
「『王女は名探偵』のやつ。僕、騎士団長玉砕で」
「俺は……悪役宰相、落ちたよ」

 俺は迷いながら答えた。嘘は言ってない、宰相は駄目だったんだ。
 だが関根が玉砕した騎士団長アランに入ったのは俺なわけで、それは黙っておくべきなのだろうか。キャスティングに守秘義務があると言われたのはどこまでなんだ。

「いやー、オーディションて基本落ちますよねー」

 スマホをいじりながら言う関根は俺も落ちたと聞いてホッとしたのだろう。まあここで嫉妬をあおっても仕方ないので何も教えずにおく。公式発表で気づいたら文句を言われるかもしれないが、その時はその時だ。

「はあっ!?」

 スマホを確認していた関根が唐突に叫んだ。メッセージの文面を二度見してから俺を振り向く。

「え、マジで。ちょっと各務さん大変じゃないすか」
「何が」
「鮎原さん事故ったって劇団内ので回ってきましたよ」
「え」

 事故。そんなの聞いてない。固まった俺に関根も真顔になった。

「そっち連絡ないんですか」
「知らない。どうしたって」
「おとといの夜、原チャで車と接触事故で怪我して入院したって」

 俺は自分のスマホを出した。美紗本人からの連絡に気づくはずはなかった。俺がそう設定したのだから。だが調べてもなんの通知もなかった。

「……来てない」
「うわー。鮎原さん、各務さんにぐらい一言さあ。まあなんて言うか突っ張らかる感じの人ではありますけど」

 一昨日。俺と別れた後、スクーターで帰宅途中の事故ってことになる。
 てことはあれか、俺が原因なんだろうか。少なくともその一つ。美紗の精神状態に何も関与してなかったなんてあり得ないし、運転に影響は与えたと思う。ぐるぐると考えながら俺は絞り出した。

「……怪我の具合は?」
「えーと、念のための検査でもう退院したそうです。でも足をくじいたって――舞台やばいんじゃ」




「おう、ヤバいぜぇ」

 と言いつつジョーカさんはケケケ、と笑った。

「やらかしてくれたよなあ、今からキャスト変更って誰をつけりゃいいの。チラシ印刷終わってるし、みんなで訂正シール貼りだ」
「内田くんが泣きますね」

 俺は冷静に応じた。
 稽古の前にちょっと来い、と早めに呼び出されたのはやはり美紗の件だった。
 美紗は一日で退院したものの、仕事も休んで家に引きこもっているらしい。伝聞なのは俺に直接の連絡がないから。着拒は解いたのだが何も言ってこない。俺もこちらから接触する気にはなれなかった。
 公演まで日はまだある。本番前に美紗の怪我は治るはずなのだが、本人から降板の希望があったそうだ。長く稽古に参加できず迷惑をかけてしまう、という理由だ。

「――なんだよ、突っついたらすぐ謝るかと思ったのに」
「はい?」
「鮎原さんとやり合ったんだろ? なら、すみませんて言うかなってさ。これまでのおまえなら」
「――かもしれません」
「でも言わないんだ」

 あれは稽古のすぐ後だ。誰かが近くにいたのか。見せ物じゃないが、そりゃ居合わせたら遠巻きに窺うのはわかる。

「事故がその影響だというのは否定できませんが」
「政治家の答弁みたいな言い方すんな」

 嫌みじゃなくジョーカさんは笑った。

「大人なんだからさ。事故は鮎原さん自身の責任だ――というのは置いといて、いや俺のせいなんですとか言うかと期待してたのに」
「期待ってなんですか」
「青少年の悩む姿は酒のつまみなんだってばよ」
「二ノ宮さんみたいなことを」

 ちなみに今いるのはカフェチェーン店。ふふんと肩をすくめたジョーカさんはコーヒーをすすりながらふてぶてしかった。

「おまえはそれでいい。男と女がどう向き合って結論を出すかに外野が口挟むもんじゃないからな。劇団内の目がどうでも普通に芝居してくれ」
「もちろんそのつもりです」
「おお、強いじゃん」

 強い。強いか。俺としては冷ややかという表現がしっくりくるのだが。
 心の揺れを殺しながらコーヒーを見つめる。

「謝らないってことは後悔してないってことだ。鮎原さんに言いたいことがあったなら仕方なかろ? 迷わないのは難しいけど、悔やむのは嫌だよな」

 突っ切れよ、と言われて俺は頭を下げた。




 それにしても劇団ジョーカーには若者しかいない。それはそうなるだろう、みんな声優になる夢をみてここにいる。叶えるか、どこかで諦めて辞めていくかだから。

「――そういうわけなんで、臨時オーディション開催するぞー」

 美紗が怪我して降板するという経緯を説明しジョーカさんが宣言したものの、女優陣の反応は微妙だった。
 美紗の役は三十代後半の少々色気のある女。
 この舞台で今のところ役がつかず、スタッフ専任だった女優は何人もいるにはいた。でもまあまあベテランの小太りでファニイな三十代さん以外は、二十歳そこそこの若手だけだった。しかも俺からみてもチャワチャワとしたアニメファンあがりみたいな子が多い。

 声優というものをアニメに声を当てる人と認識し、かわいい声を出せばいいんでしょと考える。その意識が変えられずに、ここにいればなんとかなるかもと在籍している女の子。そんな連中にあの役はつとまらない。
 彼らは等身大の自分でできる役を欲しがるし、そのままの自分を褒めてもらいたいだけだ。
 むしろその図太さに感心する。よほど自分に自信があるんだな、俺は俺自身を舞台でさらけ出したりしたくない。
 堀さんにバッシングが集まったのは唯一の若い役をかっさらったからだ。いちばん若くて小柄で制服に無理がないんだから順当だろうという客観的な意見は、取り残された者たちには通用しない。
 彼女らは自分自身を否定されたと感じその捌け口を求めているだけだった。

 さあ、どうする。俺は稽古場の端から無表情に眺めていた。
 自身とかけ離れた役柄を演じる気構えぐらい見せてみろよ。

「受ける人いない? いきなりだし本番まで急ピッチだけどさあ。主演張りたかった人、チャンスだろ」

 知らん顔でジョーカさんが煽る。

「これけっこう重要な役だぞー」
「男の子でもいいんじゃない。おもしろそう」

 またニヤニヤと二ノ宮さんがまぜっかえした。関係ない顔をしていた男どもがぎょっとする。さすがに俺は苦笑した。

「筋立てが変わりますよ。お父さんの浮気相手疑惑の役なのに」
「〈お父さんに彼氏? お父さんてそっちの人だったの? 世間体だけで嫌々お母さんと結婚して産まれたのが、あたし?〉って感じ。それも楽しいわあ」

 二ノ宮さんが女子高生っぽくセリフを作って遊んだ。その口調が堀さんのやっている主役そっくりなうえ、わりとかわいく聞こえるのがすごい。
 こういうことなんだと思う。なんでも演じてきた女優のすごみだ。

「台本改変の時間あればな。各務、落語出身だから女もいけるでしょ、やる?」
「また悪ノリして」
「おまえの声だとちょっとオバサンぽすぎるか。少年系じゃないもんな」
「真面目に検討しないで下さい」

 一歩引いた立場の俺たちの軽口は、もう一人客演を呼ぶあてがあるとジョーカさんに打ち明けられていたからだった。
 どうせ残ってる女優でやれる奴はいないからと知り合いに打診済み。なのにオーディションするぞとか言って人が悪い。安全な所から不満言ってるだけの連中に無理難題突きつけてやるんだよ、だそうだ。このオーディションはグダグタに終わる予定だった。

「時間もったいないんで、内田くんに着物の所作見せてていいですか」
「あ、持ってきてくれたんだ。悪いね」

 俺はジャケットを脱ぐと荷物を持って立ち上がった。それをクン、と二ノ宮さんが引っ張る。

「……怒ってるねえ」

 何故か優しい笑顔でささやかれた。



 代役には結局三人が立候補したらしい。そして全員ジョーカさんのお眼鏡にはかなわなかった。俺は和装の身のこなしを内田くんに淡々と伝えていて、オーディションを一瞥もしていない。
 意地悪いほどに突き放したのは最近の劇団の状況に苛ついていたからだ。おかげで美紗は変な気をまわし自滅した。俺が堀さんに接近するとでも考えたのか。若い子に乗り換えられるなんてプライドが許さなかったのかもしれない。
 とはいえそんなことはきっかけにすぎず、俺と美紗はもう潮時だった。
 だけどそうだよ二ノ宮さん、俺は怒っているらしい。いろいろなことに。
 負の感情を声や行動に反映させるのは実は簡単なことみたいだ。それをこの数日で俺は痛感した。俺は役者として少し成長した。
 でも先日の夏芽にはひどいことを言ったと思う。先生のことに言及したあれは、俺の抱えた何かの八つ当たりだったかもしれない。俺は何をやっているんだろう。
 劇団の連中はどうでもいいが、夏芽には謝ってみようか。




 夏芽をつかまえるのに隣の部屋を訪ねるのはアウトだと思う。ならば昼間の職場だ。俺は〈アトリエ喫茶・天〉の定休日も営業時間も知らないが、駅に行く途中に見ると開店していて安堵した。今日は昼からの仕事で、その前に何か食べて行きたかったのだ。

「いらっしゃい」

 先生が穏やかに迎えてくれて力が抜けた。ここでは世間と違う時が流れているような気がして俺も不思議とゆるむ。
 でも夏芽の方はなんとも言いがたい顔で無言のままおしぼりをくれた。俺は先生に向かって訊いた。

「朝昼兼用で何か食べたいんですが」
「お食事メニューもありますよ。ナポリタンとか」
「そういや喫茶店のナポリタンて食べたことないです」
「じゃあ作りましょう。大盛り無料でね」
「お願いします」

 引っ込んだ先生を尻目に夏芽を見やった。むう、と口をとがらせて所在なげなのがあからさまに変で笑ってしまった。それを聞きつけて不満そうににらんでくる。

「悪かった」

 俺は小さく、だけどわかりやすく謝った。

「立ち入ったことだった。ごめん」
「バーカ」
「もう言わない」

 それだけ告げて、俺はカバンから本を出した。移動中や待ち時間に『七タン』――『第七王女は名探偵』の原作漫画を履修中なのだ。すると夏芽がヒョイと隣に腰をおろす。なんとも馴れ馴れしい店員だ。

「何読んでるの」
「仕事の原作」
「え、アニメ?」
「ん」
「何、なんてやつ?」
「あ、駄目だ。公式発表まで口外禁止だった」
「いーじゃん教えなよ! あ、少女漫画だ!」

 夏芽はくっついてのぞき込もうとする。
 一方的な謝罪でも許してくれたのか、許さないけど流してくれたのか。とにかくこれまで通りの夏芽がそこにいて、俺の呼吸はいくぶん楽になった。