そして俺が食いつなぐ希望がもたらされた。アニメに通ったそうだ。

「各務さん、やりましたよ! 『人みしり第七王女は名探偵』入りました!」
「え……?」

 事務所に顔を出すなり座間さんに言われてフリーズした。それはなんだっけ、といえば直近で座間さんと関係する件はアニメのオーディションだった。あれに受かったのか。オーディションてのは落ちるものだと相場が決まっているはずでは。

「あ、えっと、本当ですか」
「本当ですよぅ。しかもアラン団長役です」
「団長?」

 座間さんはニッコニコだ。対して俺は困惑の極にいた。悪役じゃなく、こっちもやってみてと言われたついでのアレに通っただと。

「あのイケメンな騎士団長……?」
「そうです。いやあアラン様、女性人気ありますからね。いい役取れました」
「詳しいんですね」
「原作ファンなんです!」

 グッとガッツポーズする座間さんが生き生きしている理由がわかった。好きな作品に関わるのはこんな業界にいるなら夢だ。そうか、叶ったのか。

「……よかったですね」
「やだなあ、よかったのは各務さんじゃないですか。私も嬉しいですけど、おめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます」
「なんかパキッとしないんですよねえ、各務さんて」

 笑われてしまった。ピンとこないのは仕方なくないか。俺は別にその『人みしり第七王女は名探偵』――『七タン』に思い入れはないのだから。
 だがこの後のことを聞かされて少し青ざめた。単発の映画吹き替えやマイナードラマとはさすがに違う。
 春アニメなので収録はまだ先だ。だがPVを第四弾まで作って順に配信。キャスト情報もそれと連動して出していくから解禁までは口外禁止。

「鍵アカでもバラしちゃ駄目ですよ。どこから漏れるかわからないですから」
「SNSやってないです……」
「一個も? 逆にそれはちょっと……名前売るチャンスなんで、宣伝しませんか」

 そして放送が近くなったら公式動画チャンネルを開設し主役二人によるラジオ風の番組をやるので、そこにゲスト出演してトーク。

「トーク⁉」
「生配信じゃないから大丈夫ですって。マズイこと言ったら編集できます」

 座間さんはあっさり言うが、そもそも俺が声優をやっているのはセリフがもらえて安心してしゃべれるからなのに。

「台本的なのはありますよね」
「そりゃあ作るでしょう」
「でも俺……あ、まさか顔出しですか?」
「んー、まだわからないです」

 なんだか死にそうな気分になってきた。顔写真は事務所ホームページのプロフィールに載せているんだし今さらだが、素でしゃべっているところを撮られて配信されるのは嫌だ。せめて声だけにしてくれ。俺は精神的によろめきながらなんとか答えた。

「……とにかく、原作を履修します」
「お願いします! ああでも各務さんがアラン団長にハマるなんて予想外でした」

 原作ファンの座間さんは見たことのないウットリ具合だ。既婚者で母親でもある人だけど、ちょっとかわいくて笑ってしまう。

「予想外ですみません。座間さんに振られた役とは違いましたね」
「それはね、あの時の名乗りですよ」
「名乗り」

 喉がひらかなくて声が出なかった、という記憶しかないんだが。

「静かな抑えた調子がよかったみたいです。それで急にアランも聞きたいって言ってもらえて。アラン様は厳しい中でホロッと優しさがこぼれるギャップ萌えキャラなんです。勉強してきた皆さんは優しい声が甘すぎちゃって。各務さんのは貫くような上司感がキュンときました」

 力説されて目が点になった。原作があるならファンの想像するものに寄せて供給するのが制作サイドの命題だ。声優だってそこに乗らなきゃいけない。そのため萌えポイントにフォーカスする演者が多かった中、知らずにやった俺が通ったと。運がよかっただけじゃないか。

「そんなことないです。名乗った声だけでアラン役をと思わせたんですから、各務さんの魅力ですよ。自信持ってビシバシ団長やって下さい」

 そう座間さんは言ってくれた。だがそれは俺の力なのか。俺の〈ふら〉か。だってあの時の俺は、橘さんに囚われてしゃべっていたんだ。
 彼の見透かす視線。探るような言葉。寄席の隅々まで支配する駆け引き。
 二ツ目の噺家が投影された結果、イケメン騎士団長のできあがり――原作ファンの座間さんにはとても言えない秘密だった。



 まさかのアニメレギュラー獲得に伴い、俺は大きな書店に寄ってから帰った。原作小説と漫画を入手しておきたかったのだ。どうせなら紙がいい。電子書籍だとあちこち見比べるのが面倒で、資料としては使いにくい。

「あ――先生」
「おや各務君。お帰りなさい」

 暗くなった商店街の中程で、店じまいする〈アトリエ喫茶・天〉のマスターにばったり会った。
 そういえば俺はこの人の名前を知らない。だから夏目に倣い、先生と呼んでみたのだが普通に返事してくれた。

「あの、俺この間やらせてもらった粘土の代金を払ってなくて」
「なんだそんなこと。あれは夏芽君の資材だから私はノータッチだね。たぶんあの子も気にしてないと思いますよ」

 ドアの札を〈close〉にして、小さな看板を中に入れる。そして先生はそのまま呼び掛けた。

「夏芽君、各務君が来てるよ」
「はあい?」

 キッチンの掃除をしながら夏目が顔を上げた。俺を見てニカッとし、低い声になる。

「お客さーん、もう閉店ですよ」
「通りすがりに先生がいて思い出したんだ。粘土代どうすればいい?」

 昔のドラマみたいなノリを繰り出すのを無視して必要事項を伝えた。夏目は一瞬素に戻ったのに再び悪そうな顔を作る。しつこいな。

「おうおうおう、じゃあ体で払ってもらおうか」
「おまえ昭和すぎ……」
「そうか、今日は熊田さんが任侠映画を語ってたね」

 先生が笑いながらモップを取り出して掃除を始めた。なるほど、夏目は客との話題につられてるのか。どうやらここの客の熊さんは、熊五郎ではなく熊田さんだったようだ。

「なんか手伝って返せばいいか?」
「ああ、それなら夏芽君を送って下さい」

 カバンを置こうとする俺を先生がとめる。

「いつも暗い中を帰すのが心配で」
「もう。私子どもじゃないですぅ」
「子どもじゃないから心配なんだよ」

 先生が夏目を見る目は柔らかい。だが娘か孫を眺めるような視線だと俺には思えた。もっとも夏目の方からの思慕の念も色恋といえるのかわからない。

「どうせ隣だから一緒に帰りますけど。待ってる間、何かやります」
「ああ駄目なんです。自分で順番通りにしないとね、何か間違えたり忘れたりするんですよ」
「……ルーティンに手出しは無用なんですね」

 そう言われてはどうしようもない。俺は二人の仕事を見守った。
 無駄口もなく、テキパキと働く二人の息はぴったりだった。そこには積み上げた時間がある。
 ちゃらんぽらんでガサツに見える夏目も実は繊細な作業をこなす芸術家だと、俺はもう知っていた。こうして働いていても皿やカップをガチャガチャいわせることなく片付けていく。その所作はやはり芸事のように美しかった。
 毎日繰り返すことで物事は洗練されていく。喫茶店も陶芸も、噺も。磨き抜かれ、無駄なく、切れよく。それに比べて俺のしていることといったらどうだ。
 テスト、ラステス、本番。基本三回しか口にしない言葉。誰かの与えてくれたセリフ。どこにも真実のない気持ち。
 俺に嘘じゃない言葉はあるのだろうか。



「この間よりカバン重そう」

 暗い商店街を帰りながら言われた。
 店からだと家まで五分。近いが夜道を気づかう先生に従い、ちゃんと並んで歩いた。汚ジャージじゃなければ夏目もいちおう女性に見える。

「本を買った。資料用」
「声優さんて勉強あるの? ああそうだ、かがみんの名前を訊かなくちゃと思ってたんだった」
「そんなもの、なんで」

 夏目は何故かガッツポーズでキラキラと答えた。

「検索しようと思って!」
「目立つ仕事はしてないからいいよ」

 夏目が普段どんなものを観ているのか知らない。もしかしたら俺の声を耳にしたことがあるかもしれない。だけどそんなもの気づいてくれなくていいんだ。

「そうなの? でも名前ぐらい教えなさい。普通に友だちじゃん」

 夏目の中で俺たちはすでに友人なのか。まあそれでもかまわないけど。

「おまえの名前だって知らないぞ」
「何言ってんの。呼び捨てしてるくせに」
「え?」
「私、夏芽。八田夏芽だよ」
「八田? なんだそれ、初耳」

 俺は仰天した。初対面で名乗られたのは「ナツメ」。それだけ言われれば苗字だと思うだろう。

「そうだっけ? あの時眠かったからなあ」
「眠気のせいにするな」
「――嘘だよ。苗字嫌いなの」

 それはどういう。深く尋ねにくいことをサラリと言って、夏目――夏芽は小さく笑った。

「名前でいい。周りみんなそうだし」

 そうだ。先生も大矢さんも夏芽という名前で呼んでいた。それは親しく可愛がられているか、何か事情があるかだ。

「……悠貴」

 仕方なく俺の名前も教えた。べつに突っぱねるようなことじゃない。

「ゆうき。かがみゆうき。芸名? 本名? 昔の名前で出てたりするの?」
「……ええと、なんのネタ?」

 きっと古い何かなんだろう。こいつはいつも突飛なことばかり言うし、する。おかげで俺は時々口ごもるはめになるのだ。

「かがみんは何も知らんのだねえ」
「おまえも三和土を知らなかっただろ」

 年配の客と先生に囲まれて、巻き戻った昭和の中にいる夏芽。それでも知識はいびつだ。軽さをよそおう中に無理が見えた気がした。

「――先生って独身?」

 別れ際、ドアの前で鍵を取り出しながらふと確認してみた。成就したら不倫になったりするのかと思いついたんだ。
 夏芽はやわらかい。傷つけたらスルリと深くまで切れるのじゃないか。糸で切り出す粘土のように。

「え? 奥さんいるけど――」

 リリン。夏芽のキーホルダーがうるさく鳴った。普通に答えながら途中で質問の意図に気づいたのだろう、スウと表情が硬くなる。

「そうか。おやすみ」

 俺はさっさと部屋に逃げ込んだ。
 夏芽の周囲のおじさん、お爺さんたちが気づいているのかわからない。でも気持ちが駄々洩れないよう気をつけろよと言外に伝えたつもりだ。余計なお世話だろうが。
 どうしてこう、ややこしい気持ちを人は抱くのか。
 でも夏芽の心は真実だ。偽らないぶん、俺より偉い。




「各務さんの立稽古を見てると、たまに手をクルンてするんですけど。あれ、なんですか?」

 劇団ジョーカーの稽古途中、休憩してるパイプ椅子の前に内田くんがやってきて訊かれた。飲みかけのペットボトルの蓋を閉めて顔を向ける。
 俺の代役をやってくれる内田くんはいつも稽古をじっくり見ていた。おかげで俺は気が抜けない。客演で、プロだから。常にまともな物を出さなきゃいけない。だけど繰り返し稽古するこの舞台で、俺は何かをつかみたいと思っていた。緊張感はいいことだった。

「くるん?」

 訊き返したらヒョイと手つきを真似して見せられた。ハラリと散った葉を拾う場面の手つき。

「たもとを押さえてるんだよ」
「ええと、着物ですか。ぜんぜん着ないからわからなくて」

 目からウロコな顔をされたが、近くにいた連中にも似たようなのが数人いる。聞きつけたジョーカさんがゲンナリした。

「やべえな、こりゃ。一回時代物でもやって叩き込むか」
「日舞か殺陣の講習会でもやればいいわよ。講師紹介しようか?」

 二ノ宮さんも口を出した。講師代からピンハネするんだぁと笑うが、俺たちは同調もツッコミもできないのでやめてほしい。

「各務に落語の講師、頼もうかなあ」
「ジョーカさん、そんな」
「まあ冗談。でもさ、浴衣でいいから稽古で着てみせてくんない? みんなにはおまえの動きの意味伝わってないや。衣装合わせ前に悪いけど」
「……了解です。次回」

 浴衣は持ってない。だが落研時代の着物なら一式きちんとしまってあった。扇子も、手拭いも。あれを引っ張り出すことにしよう。

「……わたしも、一ついいですか」

 おずおずと入ってきたのは堀さんだった。視線は俺の上。
 女性陣からハブられ気味の主演女優は小柄で童顔、確かに劇団の女優たちの中でいちばん高校の制服を着こなせる人材だった。
 でもそれだけじゃない。ちゃんと台本に真っ直ぐぶつかって頑張っているのが俺にもわかる。見てれば真面目な子だとわかるはずなのに、女の嫉妬ってのは怖い。

「何?」
「三場の終わりの方の、幽霊かどうか確かめようとするところ。手を突き出すんじゃなく体ごと行ってみてもいいでしょうか」
「それ演出案件じゃ。ジョーカさん、どうです?」
「んー。目ェつぶってガン、と行ってるのがわかれば。次やってみておもしろければ採用」
「じゃ俺はヌルーっと一定に歩いてくから、ちゃんとすれ違ってね。俺からは避けづらいし」
「はい! ありがとうございます」

 ペコ、と跳ねるように頭を下げられた。そうだよな、ジョーカさんが「あんなコドモに手を出すわけなかろ?」と言うはずだ。高校の演劇部ってこんな感じかもしれない。

「そこだけ今やってみるか」

 言って俺は立ち上がった。三場はさっき通したばかりだ。次といっても今度の稽古まで合わせられない。さっさと決めておいた方がいいだろう。

「え、あ、すみません。いいですか」
「うん、試してみよう。ジョーカさん見てて下さい」
「おーっす」

 床にいくつか貼ってあるバミリを頼りに立ち位置を決める。突然の抜き稽古を全員が見つめていた。ジョーカさんがキューを出すと、テンション高めのセリフとちょこまかした動きが堀さんから飛び出す。

〈いやいやいや嘘だって。ユーレイとかありえないって。いくら火葬場だからって、あたしそういうの見える人じゃないもん!〉

〈でもあの人誰からも見えてないっぽいしワンチャンそうかもしんないし……そだ、さわれるかどうかでわかるよね?〉

〈よ、よし、さりげにぶつかれ――ばッ!〉

 堀さんがギュッと目をつぶった身振りで突進。悩みながら歩いている俺のギリ後ろを通りすぎ振り返ると仁王立ちする。

〈マジ⁉ 当たらなかったじゃん!〉

「はい、そこまでー」

 止めたジョーカさんはうなずいた。

「今のさ、相撲の突っ張り稽古でやってみて」

 こういうの、と動きをやってみせる。脚を広げて中腰のまま両手を交互に前へ。

「はい!」
「脚当たりそうだから進路少し修正よろしく」
「はい!」

 んじゃもういっかーい、とジョーカさんは気の抜けた感じで言った。だが同時に、この抜き稽古を憎々しげににらむ連中がいるのを確認しているのがちゃんとわかった。



 貸稽古場を転々とする劇団ジョーカーは、稽古が進むにつれ荷物が増えていく。主にスタッフ専任の団員たちが持ち道具や各種テープ類、音響機材などを分担して運んでくれていた。そういうものがすべて搬出されるまで、客演ではあるが礼儀として俺も残っていた。

「お疲れっしたー!」

 全員で挨拶し、散る。するとタタタと堀さんが寄ってきた。主演だけど下っ端な彼女はそこそこの荷物を抱えていた。

「あの、各務さん。今日は抜き稽古ありがとうございました」
「いや。何か思いついたら遠慮なく提案してよ」
「はい」

 ペコリとして歩き出すのを見送ると、内田くんが声をかけるのが見えた。荷物を持とうかと言っているらしい。頑張ってんな。

「悠貴」

 いつの間にか美紗が俺の横に来ていた。横目で応える。

「ん」
「帰ろ?」

 にっこりされた。
 貼りついたような顔だと思った。宣材写真と同じ顔。美紗自身がいちばん綺麗だと信じているのであろう笑顔。

「……帰るよ」

 俺の家に帰る。その意思をこめてしゃべった。
 今のは俺自身の心がのった言葉だなと、ふと感じた。なんてくだらない。
 だがそうか、こんなところに俺の真実はいたのか。真実なんてこんなもんか。
 奇妙な感慨をおぼえていると美紗は駅へと歩き出した。ついてこない俺をうながすように振り向く。俺はゆっくり踏み出した。

「堀さん、元気だよね」

 並んだとたん投げられたその言葉はセリフじみていた。切り出し方を用意していたのだろう。美紗が抜き稽古を直視せず、しらけた顔だったのを俺は知っている。

「主役は元気なのがいいんだよ」
「元気なだけじゃ駄目じゃない?」

 そうだな、とこれまでの俺なら言ったかもしれない。
 他に思うことがあっても一つ肯定を挟んで。美紗に気をつかって。だけど今は。

「あの子、それだけじゃないだろ」

 俺はひと言目で美紗を否定した。今この瞬間、こいつに配慮できなくなった。歩き出してすぐなのに、俺たちは道端に立ち止まる。
 突き放した俺の言い方を美紗はどう受け取っただろう。綺麗な笑顔は凍りつき、醜く崩れた。

「――悠貴もあの子のことかわいいって思うんだ。内田くんにゆずってあげないの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話?」

 かわいいから主役に据えるとか庇うとか、下らない考え方はどこから湧いてくるんだろう。演出家に取り入ったところで芝居が上手くなるわけはないのに。
 女優たちが下世話な噂を言い散らかして溜飲を下げているだけなのは知っている。それに相づちを打つ男優もいる。女は枕ができるからいいよなあといやらしい口を叩くのだって何度も聞いた。
 仕事がもらえない自分。舞台に立てない自分。つらいのも焦るのも苛立ちもわかる。枕営業を十割信じているわけではないと思う。だが、小汚ない。そしてそんな話にのっかる美紗のことを俺は心から軽蔑した。

「芝居の話をしてるんだろ」
「そうだけど、演技どうのよりジョーカ先生と悠貴が味方なら今回の舞台で怖いものないでしょ。だから元気だなあってみんな言ってるの。堀さんは客演の悠貴にも媚びる元気があるって」
「客演に媚びたのはおまえもだったよな」

 聞いていられなくて強く言った。これも俺自身の言葉だった。美紗をののしる言葉。こんなのが俺の心か。ぞわぞわと鳥肌が立った。だけど駄目だ止まらない。

「客演の俺に付き合おうって言ってきたじゃないか。堀さんが俺に演技の相談したからってなんだってんだよ」
「違う! 客演だからじゃない。悠貴だから言ったの」

 キッとにらんで美紗は言い返してきた。鋭い、いいセリフだと思った。

「私は悠貴だから告白したの。決まってるでしょ」
「俺が声優でもなんでもなかったらどうなんだよ。他の劇団の鳴かず飛ばずな俳優なら? それでも俺と付き合おうとしたか?」

 そんなことを責める資格は俺にはないのに。美紗が少しばかり美人でまとわりついてこなくて面倒でもないからズルズル付き合い続けていただけの俺が何か言うのはお門違いだ。

「――今の悠貴が、悠貴だもの。他の悠貴なんてわからない」
「今の堀さんだって、俺もジョーカさんも女優としか思ってない。くだらない陰口で足引っ張るな」
「あの子のせいで悠貴のことまでいろいろ言われるのよ。悠貴と付き合ったってなんにもならないのにとか言われて黙ってられないでしょ!」
「実際なんにもならないんだし俺はいいよ。それにそれは、おまえへの罵倒だろ。俺に伝えてどうしろって?」
「どうしてほしいとかじゃないの!」
「じゃあなんだよ!」

 いいかげん嫌になって吐き捨てたセリフはこのうえなく俺の言葉で、こんな風に言い争ったことなど人生であったかなと記憶をたどり始めて、そんな思考も現実逃避だなと気づいて、つまり俺は打ちのめされていた。

「――悠貴」

 血の気をうしなった顔の美紗が俺の腕をつかんだ。珍しく、本当に珍しく向こうから触れてきたその手を、俺は肘を引くだけで外した。

「もういいよ、帰る。俺らは俳優だ、次の稽古ではなんの問題もなく役をやる。それでいいだろ」
「――帰るの」
「おまえんちに行ってどうするんだ? おまえ好きじゃないじゃん、するの。べつに俺だってしたくないし。もういいよ、そういうの」

 それが別れの言葉にあたるのか、俺にはわからなかった。性交渉の否定だけで関係の終了を宣言したことになるのなら、それは恋人じゃなくセフレじゃないのか。俺と美紗はなんなのか、ずっと判然としなかったのが、こんなところまできても響いていた。
 フイと背を向けて俺は歩き出した。外された手をおろすでもなく美紗がじっと立っているのが背中でわかった。
 外気と世間の埃にさらされた俺の腕をつかんだ手。それを美紗は帰宅するなりゴシゴシ洗うんだろう。
 洗浄、消毒、漂白。
 何もかもを清めずにはいられない美紗のそれは精神的なものだと理解している。俺のことを汚物と思っているわけじゃないとずっと自分に言い聞かせてきた。だけどその認識は間違いだった。
 俺は汚い。
 これまでにも付き合った女はいた。だけどそれはみんな、向こうから来て勝手にいなくなっただけだった。俺はいつも受け身で誰のことも好きでも嫌いでもなくて、そんな俺に愛想を尽かして別れを告げる女を引き留めることも恨むこともなかった。俺は最低だった。

 今初めて、俺は自分から人を拒絶した。自分の言葉で。
 何かを拒絶する時、否定する時、人はもっとも正直なのだと俺は思い知った。
 向かい合うことから目をそむけ争うことをよしとせず事なかれに生きてきたから、俺には言葉がなかったんだ。
 心がこもった言葉だからいいというものじゃない。
 心をぶつけるというのは、ぶつけた相手を傷つけることにもなるから。
 ――だったらやはり、もらったセリフだけをしゃべっていてもいいんじゃないかと思った。


 家に帰るまでずっと空気が足りない感じだった。もちろん呼吸できているから歩けているのに、その感覚はおさまらなかった。でもここで必死に息を吸えば過呼吸を起こすのだと理性が告げたのでコントロールする。緊張のあまり高座の袖でそうなって倒れた奴がいた落研時代を鮮明に思い出した。ずっと忘れていたのに。
 意識して細く長く吐く息が震えてみっともなかった。いや、みっともないとかそんな外面ばかり考えるから俺は誰とも向き合えないのか。

「喧嘩なんて小学生以来かな――」

 美紗とのあれが喧嘩なのかどうかわからないが、やってしまったものは取り返しがつかない。それはそれとして客演の役割を果たさなければという意識だけはあった。
 帰り着くと隣室の電気がまだ点いていた。夏芽は起きているみたいだ。
 部屋に入った俺はまず衣装ケースを出した。次回の稽古で着てみせる和装一式がその底に眠っている。
 着物、襦袢、股引き、足袋、帯、雪駄、そして扇子。
 それらが橘さんのかたちをとって俺にささやいた。

 いいじゃないか。おまえの真実を見つけ出せ。
 誰をどうしようとかまわない。それが芸のこやしになるのなら。