舞台は立ち稽古に入った。
 今の劇団ジョーカーは正直言って居心地よくない。だが最近落っこち気味の俺は、こうなったら徹底的にへこんでおこうという修行のようなノリで参加していた。マゾではなく、どんな環境でもやるべきことをやるしかないからだ。

 あの「結婚に逃げたくせに」の言い争いは俺もきっかけだったらしい。
 研究生の女の子の陰口が発端だった。美紗に対して思うところがあったんだろう。俺と美紗は本当に付き合っているのかとか、俺の仕事なんて聞いたことないとかヒソヒソしているのを乃木さんが聞きとがめた。注意していると美紗がきつい口を挟み、それにも乃木さんが注意して、という流れ。女同士の力関係に劣等感と優越感と反感と焦りとをブレンドした蟲毒だったわけで、そりゃ後輩の男たちがビビるはずだ。
 そして勝ち残った蟲はいない。美紗と俺も少々体を重ねたところで気まずさは拭いきれず、次の稽古でも空気は白々しかった。傍目にもそれはわかったはずだ。
 そんななので、以来俺はなんとなく劇団員から遠巻きにされている。そんなことでいいのかといえば、たぶん駄目だ。客演に呼んでいただいた身で非常によろしくない。
 だが、これ俺のせいだろうか。


「各務さん、〈協力〉に載せる事務所名、これでよかったですか」

 果敢に俺と話してくれるのは劇団員の内田くん。今回はフライヤー制作、つまりチラシ作り担当スタッフに甘んじて役はもらえなかったが、俺が不在時の代役にずっと立ってくれている。

「ん、OKです――気ィつかってくれなくても大丈夫だよ」

 内田くんが見せてきた原稿を確認してから、後半は小声で言った。

「いえ、でも。基本は内部のことなのにご迷惑おかけしてるなって」
「男たちがその認識なら救われる」

 こそこそと話して笑い合う。そう、これは女性団員のパワーバランス問題がベースなのだ。もちろん男優の一部があおり立てている面はあるのだが。
 美紗も同期の乃木さんも劇団内ではかなり先輩格だった。でもそれは、そうなってなお鳴かず飛ばずの身ということでもある。声優の仕事をするようになり劇団活動から離れる関根みたいなのが後輩たちの理想だ。プロにもなれていないくせに客演声優の彼女面だけはする美紗が反感をかうのもわかる。俺への批判はその流れ弾。
 そして今回の主演が研究生の女の子だというのも波紋を広げていた。まだ十九歳といったか、正式な団員でもないのに大抜擢された彼女もバッシングにさらされている。上からも、同期からもだ。端的に言えばジョーカさん相手に枕営業して役をもらったという悪口なのだった。実力なんかないくせに、と。

「……そう言っちゃうとさ、使えない主演を立てて舞台ひとつ棒に振るような演出家だ、て意味になるんだよな」
「ですよね、ですよね!」

 ひそかに私見を述べれば内田くんは食いつくようにうなずいた。

「ジョーカ先生はそんな人じゃないし、堀さんだってそんな子じゃないです」

 堀さんというのが主演の女の子だ。彼女のことを俺はよく知らない。内田くんは堀さん推し、と――ジョーカさんが今、別の中堅劇団員に手を出していることは、内田くんに教えないでおこうと思った。



「各務ぃ、おまえ神になってない? さわらぬ方がいいヤツ」

 うけけ、と笑うジョーカさんに連れられて、俺は稽古終わりに飲みに来ていた。小さな居酒屋の座敷席。
 今日は演出と客演限定と宣言されて劇団員はいない。もう一人の客演の二ノ宮さんと三人だ。おそらくジョーカさんと同年輩の舞台女優である二ノ宮さんは、梅干し入りの焼酎お湯割りをチビチビしながらめちゃくちゃ楽しそうだった。若い男の子が困ってるのって眼福だよね、と言われた。

「たたりませんよ俺。それにあれ、俺のせいじゃないです」
「ジョーカちゃんのせいだよねえ」

 二ノ宮さんはジョーカさんを「ちゃん」呼ばわりする。いろいろを積み上げてきたのであろう先輩方に挟まれて、俺は苦笑いするしかなかった。

「俺かあ? 俺かなあ。だって女の争いをどうにもできないよ」
「小娘を引っ張るなら周りにフォローがいるでしょうが。気のつかえない男だわ」
「適任だから役つけただけなんだけど。他に女子高生できる女優、うちにいないし」

 とうの立った制服コスプレなんて見たかないだろ、とジョーカさんが力説する。そこだけ声を張るのはやめてほしかった。しかも無駄にイケボで。

 今回の芝居は火葬場とその付属の葬儀場を舞台にした家族もののハートフルコメディだ。
 祖父の葬儀に参列している女子高生役が研究生の堀さん。痴呆が入っている祖母役を二ノ宮さん。葬儀に参列するのだが父親と何か曰くありげな謎の女を美紗。その他もろもろ。
 そして俺は葬儀場のロビーや入り口の外にたたずむ不思議な男の役だった。他の人々と視線も合わさず関わらず、絶妙にすれ違う。しかも着物姿なもんで幽霊が見えてしまったかと主役の女子高生をあたふたさせるという役どころ。実は隣の葬儀の関係者で、ただのコミュ症なのだった。人との絡みが少ないので稽古場が微妙な空気でも問題なかったりはする。

「この台本読んだ時、ああこれ各務にやらせてえな、て思ったんだよね」
「なんでですか」
「ううん、あたしもわかるぅ。セリフ少ないし声優呼んどいて失礼じゃないのって思ったけど、各務くんおもしろいよ」

 ねー、と納得し合われて俺は意味がわからなかった。何もおもしろくない。

「おまえ着物を着こなすからってのもあるけど」
「へえ、この子和装が似合うんだ? 衣装合わせ楽しみ」
「昔落語やってたんだってさ。でもやっぱ、たたずまい、だな。なんかこう居心地悪そうに生きてるし」
「いやいや、その言い方だとかわいそう。だいじょうぶかなあってヨシヨシしたくなるんだよね」
「おばちゃん! かまわれるの迷惑だから」

 揃ってゲラゲラ笑われる。為すがまま流されるまま困っているのは今がまさにそうだが、いつも同じかもしれない。居心地悪そうに生きているとは言い得て妙。

「おまえいつもどうしていいかわからない顔してんだもん」
「そう。それでなんか気になって振り向くの。二度見?」
「それだ、二度見!」

 二度見したい男、というキャッチフレーズを冠せられた俺はもうただの酒の肴だった。俺じゃなくて、あなたのところの劇団員と研究生のゴタゴタの話じゃなかったか。

「いちばん問題なのって堀さんの孤立じゃないんですか。俺とか美紗はどうでも」
「やー、鮎原さんもさあ、腹くくり時じゃないか」

 ジョーカさんは意地悪い顔でニヤリとするが目は笑ってなかった。美紗もそろそろ決断の頃合い。劇団主宰からはそう見えるのか。

「あの人が声優に向くか、各務はどう思うよ」
「……いえ」

 そこは嘘をつけない。俺だってあれこれ見てきているのだ、美紗が突き抜けるかといえば無理だと判断せざるを得なかった。

「そこそこ美人だがオオッとなる華はない。それにキスシーンどころか抱擁すら嫌じゃ顔出しもキツイしさ」
「ですね」
「舞台ならなんとかやってけるかもな。だけど本人がそれ一本に絞る気になるかどうか」
「あたしみたいに舞台だけにすりゃ長くできるわよ。あんまり食えないけど」

 二ノ宮さんが不敵に笑んだ。あちこちの劇団と舞台人から重宝がられる熟練の舞台女優。ここまでくると味のある脇役としてテレビや映画にもちょこちょこと出演するようになる。そこまで美紗が割り切って生き抜けるかということだ。

「俺は、舞台も好きなんですけどね。生だから」
「やあだ各務くんたら生とか、エッチ」
「二ノ宮さぁん……」

 人が真面目に言ってみれば。
 クイとあおるジョーカさんのコップが空になったので手を出したら止められた。自分で作り始めるお湯割りは濃い目だ。箸でくるくる混ぜながらジョーカさんが言うのもどこまでが冗談なのかわからなかった。

「鮎原さんがこのまま食らいつくならいいさ。でもやめるのも潮時。その時に結婚迫られないように、おまえ生ではすんなよ」
「……結婚に逃げるのはプライドが許さないんじゃないですかね」
「そんな発言あったらしいな」

 ニヤァ、と笑う情報源はきっと「付き合ってる劇団員」だろう。ジョーカさんの恋愛には口出ししないが、枕していると堀さんが叩かれていることに関してはちょっとかわいそうだった。

「ジョーカさんこそ迫られないんですか」
「俺は迫られたら別にいいぜ」
「……うわ」

 軽く嫌味をぶつけたら平然と言い返されて俺はズルと背中まで滑り落ちた。そうだ、ジョーカさん去年離婚して今は独身だった。

「かっけえ……」
「あら駄目よぅ。ほんとにカッコいい男は自分から迫ってキメるの。ジョーカちゃんなんか半端者よ」
「えええ、厳しいなあ」
「だってあんた、キツけりゃまた離婚すればいいやぐらいに思ってるでしょ!」
「そうだけど」
「ほーら、なんの覚悟もないのよこの男」

 ズタボロに言われたジョーカさんはそれでもふへへ、と笑う。

「各務もハッタリでいいからかましてみせな。そしたらおまえ変わるよ」
「――は?」
「二度見じゃなくてさ、最初から目が離せなくなるようなのを出せっつってんの。両方使えるようになりゃ強いぞ。生の反応もらえる舞台やってるうちに、そういうのつかめ」

 ガッと前に出ろよ。
 そう言ってくれたジョーカさんはいつになくまともに見えた。



 俺がマネージャーの本村さんに拾われたのは落語を気に入られたからだった。

『きみ〈ふら〉があるなあ』

 そう声を掛けられたのは学生時代。アニメ好きの友人の付き合いで一般公募のオーディションに行った時だ。
 何故か書類が通って地区予選的なものに行った。そこで一芸披露として俺は短く落語をぶったのだ。それ以外にできることなんて何もなかった。そしてオーディションにはあっさり落ちた。

『ふら、ですか』
『うん。なんか目を引く……というか耳を引く。落語的な愛嬌のふらとは違うかもしれんけど。おもしろいから俺んとこで少しやってみないか』

 人の中でふと目立つのは橘さんが新歓で俺を引っ張った時にもそうだったらしい。俺自身はそれがいいことだと思えなかった。他の人のように世界に馴染めていないだけ。言い換えれば「浮いている」ってことだろう。
 だが本村さんの琴線に引っかかった俺はバイト感覚でスタジオに行くようになった。ちょっとずつ演技に慣れ、仕事が増え、なんかこのまま食えるんじゃないかと思うようになり、実際なんとかギリギリ食えてしまったので就職活動という荒波に身を投じることなく声優を続けている。
 ここで食いつめたら次にどうしようという恐怖は常に心の底にあった。デスクかマネージャーに転向して事務所で雇ってもらえないかとたまに思う。そう訴えても芝居を頑張れと激励されるだけなのがわかっているから口にはしない。
 大学を出たもののつぶしがきかない俺はもう、腹をくくってガツンと前に出るしかないのだった。
 ジョーカさんはたまに本質を突く。
 嫌な、凄い人だ。