「あんたなんか結婚に逃げたくせに!」

 劇団ジョーカの稽古場。開始十五分前に余裕をもって到着したら、なんか修羅場っていた。しかも飛び込んできたそのセリフは美紗の声。相手は同期生の女のようだ。にらみ合い、劇団員が遠巻きにしている。

「各務さ……!」

 入り口付近にいた若手がヒッと顔をひきつらせた。俺が来たことでさらに困らせたなと思った。
 美紗と対峙している同期生はこの間入籍の予定を報告したばかりだった。
 同じく声優になりたくて劇団に入り切磋琢磨してきたはずの女の「いち抜けた」宣言。報告した本人は劇団もやめないし俳優声優業を仕事にできるよう頑張ると言っていたが美紗は「逃げた」ように感じたのだろう。ここに至るまでの言い争いがどんなものだったのかわからないが、たぶん聞くに耐えないものだ。

「美紗」

 俺は冷ややかに呼んだ。振り返った美紗は般若の顔のままだ。

「何やってんの。稽古前の空気を考えろよ」

 俺にびびっていた若いのが今度はすがる表情になる。わかってるよ、ちょっと美紗を連れ出して稽古しやすくしてやるから。
 結婚だのなんだの、付き合っている男からすれば地雷のような話題だから俺が現れてここにいる全員が緊張したはずだった。だけどなんだろう、俺はもう美紗との関係がどうなるとかより劇団という公がうまく回る方を気にしていた。
 終わってる。
 だって「結婚に逃げた」という発言で俺は安心したんだ。じゃあ美紗に結婚を迫られることは絶対にないんだ、言質を取ったと。

「おっはよーございまーす!」

 氷点下の空気を切り裂いて到着したのはジョーカさんだった。口もとは笑っているが目は点検するように稽古場を一周見渡した。何かあったのは気づいてるらしい。

「鮎原さーん。と乃木さーん」

 原因になった二人を呼ぶ。バツが悪そうに向き直るのを指先で止め、ニヤリとした。

「荒立ち、できるね。セリフ入ってる?」
「あ……はい」
「もちろんです」

 同期の乃木さんがおずおず答えたのを見下すように美紗は居丈高だった。

「んじゃさっさとしよう。みんな動けよー」

 ジョーカさんは何もなかったかに平然とパイプ椅子を出してくる。まだ様子をうかがうような劇団員たちの気配で、俺はジョーカさんに言ってみた。

「片方、連れ出しますか」
「いらんよ」

 即答だ。

「スタジオならさあ、そんなの通用しないだろ。大嫌いな奴と親友やるし、離婚したばっかの相手とだって愛をささやくじゃん。稽古ぐらいできないでどうすんの」

 俺と話す体だが団員たちに言っているのだ。甘えんな、金をもらって演じる身分になりたいんだろ、と。

「……そうですね」

 まったくその通りだった。
 でも結局この日の稽古はセリフも動きも硬い奴と逆に熱くなって空回りする者とでギクシャクした。その中で一応の安定感をキープする俺は「やっぱプロだよね」というジョーカさんの評価を得る。
 そりゃ、な。
 どうせ俺の口から出るものなんて何もかも嘘だから。周りがどうでも関係なくしゃべることはできる。
 だって俺の大元は高座。あれは独りで上がるものだ。誰も助けてくれない。真っ白になってしまったら「勉強し直して参ります」と手をついて引っ込むだけだった。
 独りでなんとか切り抜けるため、借り物の言葉を素知らぬ顔で俺はしゃべる。
 だが、それを受け入れて笑うかどうかは、客の自由だ。



 その日の美紗は稽古場を離れるまでずっとツンケンしていた。それならそれでと俺は声もかけずに出てきた。
 どうしたものか。
 元から恋愛じゃなかった。「声優の彼」というアクセサリーにすぎない俺はブランドバッグに近いもの。その見返りとしてたまに体を重ねるにすぎない。そこにあるのはほんの少しの情だけ。

「切れてもいいけどさ……」

 そうすると劇団ジョーカーに関わりづらくなる。しょせん声優劇団だろ、と舞台人からは笑われているかもしれないが俺にとっては演劇の範疇にあるし、生で客の反応を見る数少ない機会なのだった。無いよりはある方がいい。

「悠貴」

 後ろから呼ばれた。来るのかよ。立ち止まると小走りで美紗が近づく。

「今日ごめんね。私」
「謝るの俺にじゃないだろ」

 面倒になって言った。ほんと終わってる。関係を続けなきゃという気づかいができない。

「――うち来てよ。明日仕事ないでしょ」

 珍しい申し出にむしろ眉をひそめた。こいつそうまでして俺をつなぎとめたいのか。いや、付き合ってる同士がセックスするぐらいで「そうまでして」っていうのもおかしいが、美紗にとって他人の肌に触れるのは苦行のはずだ。

「いいのかよ」
「いいの」

 確認したのは行きたい、したいからじゃない。心を無にして俺のものを受け入れて、それでいいのかと訊きたいんだ。どうしてそんなことするんだと。美紗のことなど、たぶん俺はひとつもわかっていない。
 行ってみればやはり念入りにシャワーを浴びたうえで口づけのひとつもせず、ただ及んで果てるだけだった。その後はまたシャワーに直行。泊めてもらえるだけありがたい。朝にはシーツをはがして洗濯し、部屋中を掃除したうえで布団に消臭スプレーを吹きつけるのだが。
 一人でするのとどっちが充足感あるかというと、もうよくわからない。
 相手は人形か修行僧か。そして俺は最初からずっと嘘つきだ。



 なんの清々しさもない朝。朝食は駅の立ち食いソバの匂いに釣られて食べた。それをたぐる手つきで〈たまには寄席こい〉というメッセージを思い出しソバがまずくなる。落ち着け。俺が持っているのは割り箸だ、扇子じゃない。
 電車を待ちながら今日やっている寄席を検索しかけてやめた。松葉家さの助が出ていたら観に行くのか。行きたくない。こんなグダグダな気分で行ったところで腹が立つだけだ。
 今日の予定は何もなかった。仕事がないのは憂うべきことだが暇なのは嬉しい。何もかも帰ってから考えよう。そう思って商店街を家に向かっていたら向こうからヒラヒラと手を振られた。妖怪・高校ジャージだった。

「かがみん、朝帰り」

 いえーい、とハイタッチを求める手を俺は無視した。空振りした夏目はうへへと笑う。

「なあに寝不足? そんなに頑張ったのかねキミィ」
「……午前中から女が言うネタじゃないぞ」
「おっと差別的」
「男が言っても引くから平等」

 俺がどんよりしているせいか、夏目のふわふわ感が際立った。それに言葉の端々に昭和が漂う。キミィ、てモーレツかよ。

「夏目って中身オッサンだな」

 言ってみたのは誰かを傷つけたかったのかもしれない。だが夏目はケロリとしていた。

「そうねえ。今まわりにいるのってオジサンおじいちゃんばっかりかも。大矢さんとか話し方が独特だしね」
「ああ大家さん。おまえあの人から落語っぽい影響受けてそう――え、オオヤさん?」
「大矢さんだよ」

 先日の落語好きは大矢という名だそうだ。文字違い。

「素で大家さんぽいのに大矢さんとか反則……」
「何言ってるのかわかんない」

 耳で聞いてる分には確かにわからない。うっかりノリツッコミしたぐらいに同じだ。あまりの馬鹿々々しさに俺の中でドロドロしていたものが乾いていく気がした。それでもまだ俺は皮肉な笑い方しかできなかった。

「わからないか。仕方ない、与太郎だし」
「違うもん、せめて女の人にして」
「んじゃ、あらやだおまいさん、て言ってみろよ」

 ひょいと右手で襟元を押さえる仕草をしてみせると夏目は目を輝かせた。

「すご! やあだ、かがみん私よりずっと色っぽいじゃん」
「おまえの色気ってどこにあるの……」
「ええと」

 ジャージの胸元を引っ張ってのぞいても駄目だ。乳が大きくても小さくても、それは色気とは言わない。

「高校のジャージ着てる時点でもう」
「あ、今日のは中学のやつ」
「……物もちいいな」

 俺は『子ほめ』並みに適当にほめた。帰って寝よう。
 軽く手を上げてすれ違おうとしたら、また腕をとられる。なんだよもう、迷惑そうにしてるのわかれよ。

「かがみんも粘土さわってみよ?」
「ねんど?」
「陶芸の。冷たくてツルツルでムニムニで気持ちいいから」

 ニコニコ誘う夏目の瞳は優しい。俺がささくれてるのを感じているよと伝えられた気がして胸にさざ波が立った。

「これからアトリエ行くの。おいで」
「あの先生の?」
「そう。喫茶店は定休日」

 軽く引かれるだけなのにあらがえない。どれだけ弱っているんだ俺は。それとも夏目がそういう奴なのか。するりと人の内側にもぐりこむ。

「いつもアトリエで作らせてもらっててね」
「……子どもの時から通ってた?」
「ううん。高校の先生だった」

 つられるように並んで歩いた。
 美術の授業で陶芸コースを取り、そこで初めて土に触れた。それを忘れられず普通の大学に進みながら町の陶芸教室で勉強したのだそうだ。素人の展覧会に参加するうちに先生と再会し、アトリエを使わせてもらうようになったと。

「そのまんま店員になってチマチマ焼き物も売ってるの」
「ふーん」

 どうでもいいといえばどうでもいい話。誰かの人生なんて手持ち無沙汰な数分の話題にしかならない。俺のたどったこれまでも、たぶん他人にはなんの意味もないもの。そしてそれを話す間もなくアトリエに到着し、夏目はガラ、と扉を開けた。

「お邪魔します」

 俺はいちおう小さく言った。誰もいないがいいのか。喫茶の脇の小道を入っただけで、ここはとても静かだった。

「荷物そこで」

 夏目が示した机にカバンを置き、室内を見回す。

「なあ、この間の夜、ここに来ればよかったんじゃ」
「もう寝るから戸締まりするよ、て言われて帰ったんだもん。鍵開けてって起こすの悪いでしょ」

 先生は早寝早起きらしい。それで俺には迷惑かけたのに夏目はケロリと悪びれなかった。

「なんか作ろ? 何がいいかな、簡単なのだとお皿。手びねりだとコップとかお茶碗とか重くなっちゃうから」
「手びねり?」

 端にあるビニール袋をさっさと開ける夏目に訊き返した。中身は大きな粘土の塊だ。夏目は丈夫そうな糸でそれを切り取る。

「手で形を作るんだよ。ろくろは難しいでしょ。それとも板作りにするか……」

 切った粘土をドンと机に置くと、夏目は腕まくりした。袖にうっすら土がつく。出会った夜の汚ジャージの理由がわかった。あれは作陶用の粘土だったんだ。
 食パン一斤よりも大きい粘土を夏目は迷いなくこね始めた。体重をかけ、端を持ち上げ、わずかに回し。角だったものがあっという間に丸くなり、そして花のように不思議な模様がついていく。

「かがみんも、ほら」
「ええ……」

 場所をゆずられて、口では文句を言いつつ俺は袖をまくった。夏目がこねていた粘土に触れる。それは硬く、冷たかった。

「真似してみて。菊練りっていうの。土の空気を抜くんだよ」

 気泡があると焼いた時に破裂するのだそうだ。簡単そうに言われたが、やってみると難しい。粘土はいうことをきかず、バタバタと横に転がろうとし、夏目がつけた菊花の模様はどこかに消えてしまった。

「意外と重いんだな……」
「そりゃあ、粘土だよ?」

 夏目が軽々と扱っていたからだ。俺が崩した菊練りを受け取ると、夏目はまたギュギュ、とこねる。すぐに美しく整った粘土が信じられなくてジッと見つめてしまった。

「お皿。なんのお皿だろ。かがみん何を乗せて食べたい?」
「何って」
「大きさによって使う土の量が違うから」

 皿なんて最近は惣菜を乗せてレンチンするぐらいにしか使っていなかった。その隣に申し訳のレタスをちぎる。そういう皿はもういらない。

「じゃあ――つまみ用の小皿」
「おっけー。じゃあ粘土少なめで」

 また糸を取り出した時、外扉とは別のドアが開いた。

「おや、各務君も来てたのか」
「先生」

 家の方からアトリエをのぞいた先生に夏目が嬉しそうにする。家主がいたことに安堵して頭を下げた。

「お邪魔してます」
「なんかしょんぼりしてたから連れてきました!」
「そうか。夏芽君はそういうの敏感だからね」

 うんうんと目を細める先生に夏目は得意げだ。ごゆっくり、とすぐに引っこむのを見送る夏目の口の端がほんのり笑んでいることに俺は気づいた。
 行ってしまった先生を見送る夏目の瞳に踊る色。俺でもさすがにわかる好意。そういうことなのか。

「――先生って、いくつ」
「んー、七十ぐらい」
「ふーん」

 それはまた。親より上だろうに。
 夏目はほぼ同じ大きさに切った粘土を俺の前に並べ、椅子を勧めた。

「昔やった粘土遊びと同じ。できるだけ厚みは均等にね」
「ん」
「ひび割れそうなら手水つけて」

 ジャア、と水を入れたのは小ぶりのバケツだった。豪快というか雑だ。そして自分も切れ端を一つ手に取り座る。コロコロと手のひらで丸めた粘土は次に柔らかく親指を受けとめて平らに形を変えた。

「おお」

 皿っぽい。

「ふちがあると汁けがこぼれないね」

 ひょいとつまみながら一周回す。

「こんなのどう」
「すごい」

 使いやすそうな小皿がそこにあった。真似してやってみる。が、難しかった。平らにならない。円にならない。ふちの高さも揃わない。仕方なく机の上でゆっくり整える。
 夏目の仕草は静かだ。視線も、手つきも。おそらく心も凪いでいるのだろう。
 土を切り取り、丸め、伸ばし、整え。
 繰り返し繰り返し繰り返し。無心に。
 幾枚かの小皿を作ってしまうと夏目は立ち上がり、また別の粘土で菊練りを始めた。俺はその作業を見ていたくて手を止めた。
 リズミカルに動く腕。かすかにキュ、キュときしんでいた土が三角コーンのように整う。脇にあった布をはがして現れた機械に粘土を据えるとその前に夏目は座った。電動ろくろのスイッチを入れる。
 手に水を取りながら夏目は土を両手で包んだ。ぐらぐらと暴れる粘土が次第に落ち着いていった。
 座った脚を開いて腿に肘をつき、脇をしめ、全身で土と向き合う。
 回る粘土の山を圧し潰し、また締めて上に伸ばす。

「土を殺すのよ」

 見つめられているのがわかったのか、突然つぶやいた。殺す。
 粘土は夏目の手の中で意のままだった。潰され、また立ち上がり。表面が水でゆるみピチピチと音を立てていた。跳ねた泥が夏目のジャージを汚した。
 ゆるみ過ぎた泥をそっとしごくとビチャと捨て、夏目は土の上部を少し分ける。その塊を指と手のひらで包みこむと、つぼみが開くように土の形が変わっていった。
 圧し広げる親指。外側に添え支える四本の指と手。薄くなる土を指先が挟みなぞる。
 静謐。

「――」

 作品から離れてなお土の形をたどる指先は一曲終えたピアニストのようだった。余韻を聴いてから、ろくろは止まった。できた器を糸で土台の粘土から切り離す。夏目がふう、と息をした。

「深皿。カレーとかどう?」

 言いながら底に両手の指を添えて横の板に移動させる。そこで乾燥するらしい。

「俺には小さいかな」
「そう? 焼くともっと縮むし……じゃあこれはサラダ用か」

 何を盛りつけるか想像しながら器を作るのか。夏目の作った皿ならレトルトのカレーじゃなく鍋で煮たカレーがいいと思った。しばらくぶりに料理するのもいいかもしれない。

「あれ、切った粘土ほったらかしてる」
「あ、悪い」

 夏目のやる事に目を奪われていたせいだ。自分で下手くそにこねくり回すより完成した所作を見ていたかった。稽古に稽古を重ねた芸事と同じ洗練がそこにあった。

「いいよ。作ったぶんは乾かして焼いてみるね」
「焼くのも、ここでできるのか」
「電気窯があるから。先生のだけど」

 ウヘヘと笑う夏目は先ほどの静けさが嘘のように妖怪・中学ジャージに戻っていた。乾きかけて残った粘土を集め、まとめる。

「気分転換できた?」

 ずぱりと言われた。

「仕事たいへん? 何してるか知らないけど。あ、落語の人か」
「……声優やってる」
「スーパー?」

 せいゆう。それはネタとしてよくある返しだ。こいつこそ小噺を完璧に繰り出してきて「落語の人」並み。たぶん素だけど。

「しゃべるやつ。吹き替えとか」
「ああ! かがみんの声、気持ちいいもん」

 理解したとたんに納得された。でも俺はたいした声じゃないし、耳ざわりのいい声は耳に残らない声でもある。ただすごいと言われるよりは親切な気もするが、職業を告げるのはやはり嬉しいことではなかった。

「で、落研だったんでしょ。しゃべるの好きなんだね」

 不意打ちされて、夏目の横顔を俺は見つめた。

「……いや、苦手」
「えーそんな。苦手なこと仕事にしちゃったの?」
「かも」

 しゃべるのなんて夏目の方がよほど得意だと思う。ふわりスルリと誰の横にでもすべりこむ夏目。
 俺はそれができない。口にする言葉に自信がない。だから他人が書いてくれたセリフがほしい。
 だって書かれた言葉なら、俺には責任がないから。そうやって他人の言葉で俺を上塗りして、俺は嘘をつき続けている。

「――帰るよ。ありがとな」

 ボソリと言った。夏目は何も言わない。軽く手を洗ってカバンを持つと、ふと透き通るような笑顔を向けられた。

「いつでもおいで」

 俺は視線だけで礼をして逃げ出した。
 ガララと扉を閉めて出た表通りはいつもの商店街だった。スピーカーから小さく流れるチャカチャカと明るい音楽に苛立った。
 アトリエは小さな異世界で、別の時間が流れていた。
 そこは職人芸の領域。芸術のあわい。
 ただ一つの道を正しくなぞりたどる極限の場所に〈それっぽい〉俺なんかがいていいものなのかわからない。
 何かを突き詰めることのできる者たちはどうしてあんなに飄々として鋭いんだろうか。

「さの助さんの高座、聴きに行かなきゃな」

 ずるずる帰り着いてドアを閉め、独り言を言った。自分への確認だった。念押しするということはつまり行きたくないのだ。打ちのめされるのが予想できるから。
 ああわかってるよ、橘さん。あんたはすごい。フラフラとその場かぎりのセリフをこねくり回す俺が太刀打ちできない噺で俺を殺してくれ。さっき夏目の手の中でギチギチいっていた粘土のように。
 茫然としていたらすぐ夕方になり廊下でリリンと大きな鈴の音がした。隣のドアがガチャリといい、開き、閉まる。夏目の鍵か。
 土をなぞる夏目の繊細な指先が脳裏をよぎった。あいつの居る場所に俺はまったく届かないのだ。