19
沈丁花が香る早春、夏芽はさらりと引っ越していく。今日はアトリエの物を搬出し、そのまま新居に入る日だった。
部屋にあった荷物よりアトリエの物の方が多いのは若い女性としてどうなのかと笑った。だが電動ろくろや電気窯まで先生から譲り受けたのだし仕方がないか。
隣の部屋はもう昨日不動産屋に引き渡していて、俺の部屋に夏芽はいた。
「夏芽――」
俺は玄関に向かう夏芽の名を呼んだが、それ以上は何も言えなかった。気持ちが自分の中にあふれているのは確かなのだが。
わからないんだ。恋だとか愛だとか好きだとか、俺の気持ちはそういう言葉に当てはまるものなのか。
黙り込んだら夏芽は一歩近づき頭突きしてきた。その髪をワシワシとかき回す。
俺が言える言葉なんて何もない。気持ちを伝えるのにこれぐらいしかできなかった。せめて行動で表現しなきゃ夏芽だって不安になるから。
最初に夜を過ごした次の日、夏芽が軽やかに言ってくれた「好き」。
俺がどういう意味なのか受け取りそこねて答えられなかったのが、その後一ヶ月ただの隣人であり続けた理由だ。
夏芽は混乱した感情のはけ口としてなし崩したことが申し訳なくて「利用した」と表現したらしい。誰でもいいのではなく俺だからだったと、どこかで聞いたようなことを言われたが今回は信じられた。
対して俺の態度は好意的だが積極的ではなく、さすがの夏芽も一晩限りのものかと思ったそうだ。なのにいきなり正月はどうしてるだの実家だの俺といるかだの言われ意味がわからなかったと怒られた。本当に悪かった。
今はちゃんと俺自身、夏芽がそばにいてほしいと感じている。と思う。でも相応しい言葉はわからない。だから黙る。
仕方ないだろう。自分の言葉なんてどこにもない俺だけど、これだけは他人の言葉に乗せるわけにはいかないんだ。俺の心だから。
「引っ越しの手伝いもしてくれないとか、かがみん冷たいよ」
「昼過ぎの仕事入ったんだからしょうがないだろ」
それについては申し訳ない。彼女の引っ越しという理由でスケジュールNGを入れるのは恥ずかしすぎたんだ。夏芽は俺の胸を頭でグリグリしてから顔を上げた。
「まあいいや。休みの日に遊びに来なよ?」
「わかってる」
「んじゃ、行くね」
そう言うと夏芽はあっさり歩き出す。ドアからはみ出して見送る俺に、階段の前で軽く手を振ってきた。
一人になった部屋の中はとてもガランと感じた。いつもと何ひとつ変わっていないはずなのに。
これが寂しいとか虚ろとかいうものか。俺はまたひとつ学んだ。
『はぁい、ナタリーこと、外山璃乃です。今日遊びに来てくれたのは――騎士団長アラン様でーす! パチパチパチー!』
『上司キター! おれ落ち着かないなあ』
『なんだ、私に見られて何かまずいのか?』
『うわあぁ、やめてって(笑)』
『(笑)というわけで本日のゲストは、アラン団長役の各務悠貴さんです!』
『どうも、アラン役の各務悠貴です』
『普通にアランのまま名乗るのやめようよ各務さぁん』
『えーとごめん、めちゃくちゃ緊張してる』
――このあたりはほぼ台本通り。大丈夫なんとかなる。頑張れ俺。
春アニメ『人みしり第七王女は名探偵』の放送開始と時を同じくして公式動画チャンネル『ナナたんラジオ!』の配信も始まった。
俺が呼ばれたのは第四回の録音。主役二人は慣れてヘラヘラ話しているが、俺は逃げたくて仕方なかった。
『スタジオでも各務さん、あんま話さないよなあ』
『各務さんがどれだけ緊張しているかというとですねえ、今日のフリートークで何を訊かれるのか事前リサーチして、回答を書き起こしてあるぐらいです』
『あの外山さん、それバラすのやめて』
『マジ!? アランのイメージ崩れるんだけど!』
『イメー……あ、本当にごめん、アランはできる男だし、だとおも、うよそこは』
『噛むのやめて(爆笑)』
『声小さいですよー(クスクス)』
くそ、なんの拷問だ。こんなはずかしめを受けるいわれは。とか考えているともっと噛む。しっかりしないと。
だが今、パーソナリティの二人は俺をいじり倒すことに決めたらしい。外山さんがとてもいい笑顔になった。
「――おつ、お疲れさまでした」
「笑っていただけたようで何よりです……」
録音ブースを出てニコニコ顔のスタッフに挨拶した俺は、座間さんと外に出た。
確かに何度も録音を止めたのは俺だけど、担当マネージャーの座間さんまで笑い死ぬことはない。俺のポンコツぶりはそんなにひどかっただろうか。
「はあ、ひどかったですね」
断言される。落ち込みすぎて道路にめり込みたくなった。
「普段は会話できるのにどうしたんです」
「録音してると思うと……配信なんかに使えないんじゃ」
「大丈夫ですよ、切り貼りしてなんとかなります」
「手間をお掛けして……」
「いえ、面白くていいと思います」
俺は面白がられたくなんか。俺個人に中身がないのを晒したくはない。
「だからセリフのない仕事なんて無理なんですよ」
「ごめんなさい、今後は考えますね」
そこは本当にお願いしたい。自分の言葉でしゃべるのは苦手なのだと今回再確認させられた。俺は情けない顔のまま、じゃあ失礼しますと頭を下げた。
「あれ、駅に行かないんですか」
「近くで知り合いが展覧会やってて。顔を出す約束なんです」
「うわあ、絵とか?」
「いえ陶芸です」
それはもちろん夏芽のだ。個展ではなく数人集まっての催しだったが、ギャラリーでの展示即売会。そんなものは初めてで、俺は少し楽しみにしていた。
座間さんと別れて一人歩き出す街はすっかり春。だけど暑いぐらいに感じるのは仕事で汗をかいた余韻かもしれない。俺にはやはり用意された台本が必要なのだ。
これからも俺はしゃべる。他人の言葉で。
それが俺の仕事。誰かが書いたセリフにできる限りの心を重ね、俺はしゃべる。
だけど自分の言葉で語りかけたい相手もいるのだと俺は知ったんだ。
うまくつむげない言葉にもどかしさも感じるが、なるべく嘘のないように俺は心と言葉に向かい合う。夏芽はそれをわかって待ってくれるから。
伝えたい。俺の言葉を。そう願う相手はすぐそこにいる。
その人が待つ場所へ、俺は歩き出した。
了
沈丁花が香る早春、夏芽はさらりと引っ越していく。今日はアトリエの物を搬出し、そのまま新居に入る日だった。
部屋にあった荷物よりアトリエの物の方が多いのは若い女性としてどうなのかと笑った。だが電動ろくろや電気窯まで先生から譲り受けたのだし仕方がないか。
隣の部屋はもう昨日不動産屋に引き渡していて、俺の部屋に夏芽はいた。
「夏芽――」
俺は玄関に向かう夏芽の名を呼んだが、それ以上は何も言えなかった。気持ちが自分の中にあふれているのは確かなのだが。
わからないんだ。恋だとか愛だとか好きだとか、俺の気持ちはそういう言葉に当てはまるものなのか。
黙り込んだら夏芽は一歩近づき頭突きしてきた。その髪をワシワシとかき回す。
俺が言える言葉なんて何もない。気持ちを伝えるのにこれぐらいしかできなかった。せめて行動で表現しなきゃ夏芽だって不安になるから。
最初に夜を過ごした次の日、夏芽が軽やかに言ってくれた「好き」。
俺がどういう意味なのか受け取りそこねて答えられなかったのが、その後一ヶ月ただの隣人であり続けた理由だ。
夏芽は混乱した感情のはけ口としてなし崩したことが申し訳なくて「利用した」と表現したらしい。誰でもいいのではなく俺だからだったと、どこかで聞いたようなことを言われたが今回は信じられた。
対して俺の態度は好意的だが積極的ではなく、さすがの夏芽も一晩限りのものかと思ったそうだ。なのにいきなり正月はどうしてるだの実家だの俺といるかだの言われ意味がわからなかったと怒られた。本当に悪かった。
今はちゃんと俺自身、夏芽がそばにいてほしいと感じている。と思う。でも相応しい言葉はわからない。だから黙る。
仕方ないだろう。自分の言葉なんてどこにもない俺だけど、これだけは他人の言葉に乗せるわけにはいかないんだ。俺の心だから。
「引っ越しの手伝いもしてくれないとか、かがみん冷たいよ」
「昼過ぎの仕事入ったんだからしょうがないだろ」
それについては申し訳ない。彼女の引っ越しという理由でスケジュールNGを入れるのは恥ずかしすぎたんだ。夏芽は俺の胸を頭でグリグリしてから顔を上げた。
「まあいいや。休みの日に遊びに来なよ?」
「わかってる」
「んじゃ、行くね」
そう言うと夏芽はあっさり歩き出す。ドアからはみ出して見送る俺に、階段の前で軽く手を振ってきた。
一人になった部屋の中はとてもガランと感じた。いつもと何ひとつ変わっていないはずなのに。
これが寂しいとか虚ろとかいうものか。俺はまたひとつ学んだ。
『はぁい、ナタリーこと、外山璃乃です。今日遊びに来てくれたのは――騎士団長アラン様でーす! パチパチパチー!』
『上司キター! おれ落ち着かないなあ』
『なんだ、私に見られて何かまずいのか?』
『うわあぁ、やめてって(笑)』
『(笑)というわけで本日のゲストは、アラン団長役の各務悠貴さんです!』
『どうも、アラン役の各務悠貴です』
『普通にアランのまま名乗るのやめようよ各務さぁん』
『えーとごめん、めちゃくちゃ緊張してる』
――このあたりはほぼ台本通り。大丈夫なんとかなる。頑張れ俺。
春アニメ『人みしり第七王女は名探偵』の放送開始と時を同じくして公式動画チャンネル『ナナたんラジオ!』の配信も始まった。
俺が呼ばれたのは第四回の録音。主役二人は慣れてヘラヘラ話しているが、俺は逃げたくて仕方なかった。
『スタジオでも各務さん、あんま話さないよなあ』
『各務さんがどれだけ緊張しているかというとですねえ、今日のフリートークで何を訊かれるのか事前リサーチして、回答を書き起こしてあるぐらいです』
『あの外山さん、それバラすのやめて』
『マジ!? アランのイメージ崩れるんだけど!』
『イメー……あ、本当にごめん、アランはできる男だし、だとおも、うよそこは』
『噛むのやめて(爆笑)』
『声小さいですよー(クスクス)』
くそ、なんの拷問だ。こんなはずかしめを受けるいわれは。とか考えているともっと噛む。しっかりしないと。
だが今、パーソナリティの二人は俺をいじり倒すことに決めたらしい。外山さんがとてもいい笑顔になった。
「――おつ、お疲れさまでした」
「笑っていただけたようで何よりです……」
録音ブースを出てニコニコ顔のスタッフに挨拶した俺は、座間さんと外に出た。
確かに何度も録音を止めたのは俺だけど、担当マネージャーの座間さんまで笑い死ぬことはない。俺のポンコツぶりはそんなにひどかっただろうか。
「はあ、ひどかったですね」
断言される。落ち込みすぎて道路にめり込みたくなった。
「普段は会話できるのにどうしたんです」
「録音してると思うと……配信なんかに使えないんじゃ」
「大丈夫ですよ、切り貼りしてなんとかなります」
「手間をお掛けして……」
「いえ、面白くていいと思います」
俺は面白がられたくなんか。俺個人に中身がないのを晒したくはない。
「だからセリフのない仕事なんて無理なんですよ」
「ごめんなさい、今後は考えますね」
そこは本当にお願いしたい。自分の言葉でしゃべるのは苦手なのだと今回再確認させられた。俺は情けない顔のまま、じゃあ失礼しますと頭を下げた。
「あれ、駅に行かないんですか」
「近くで知り合いが展覧会やってて。顔を出す約束なんです」
「うわあ、絵とか?」
「いえ陶芸です」
それはもちろん夏芽のだ。個展ではなく数人集まっての催しだったが、ギャラリーでの展示即売会。そんなものは初めてで、俺は少し楽しみにしていた。
座間さんと別れて一人歩き出す街はすっかり春。だけど暑いぐらいに感じるのは仕事で汗をかいた余韻かもしれない。俺にはやはり用意された台本が必要なのだ。
これからも俺はしゃべる。他人の言葉で。
それが俺の仕事。誰かが書いたセリフにできる限りの心を重ね、俺はしゃべる。
だけど自分の言葉で語りかけたい相手もいるのだと俺は知ったんだ。
うまくつむげない言葉にもどかしさも感じるが、なるべく嘘のないように俺は心と言葉に向かい合う。夏芽はそれをわかって待ってくれるから。
伝えたい。俺の言葉を。そう願う相手はすぐそこにいる。
その人が待つ場所へ、俺は歩き出した。
了