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「おはようございます各務さん。舞台、本村がほめてましたよ! やっぱり私も観ればよかったです」
「そんなことは。ジョーカさんの演出と他の俳優さん方のおかげですから」

 今日は座間さんが入れてくれたアニメ。まだまだ動画に慣れるために勉強中の若葉マークなので気が抜けない。
 スタジオ内での立ち位置にも戸惑いがちだったが中に入ると浦さんが座っていて、あ、と手招きしてくれた。ユニットの仕事のありがたさだ。

「公演お疲れさまでした」
「いえ、ご来場ありがとうございました」
「あのお祖母ちゃんやられた方、調べたらまだ五十代なんですね。すごかったです」
「二ノ宮さんね……」

 苦笑いしてしまう。舞台に生き、芸を楽しんでいるあの人には困らされたが、凄みは感じた。裏の素顔を見ていない浦さんにもそれは伝わったらしい。

「ああいうのできたら、長く生き残れますかね。私チャワチャワと子ダヌキ役とかやってますけど。そんなの一年目のジュニアに投げれば安く済むんだし、すぐ用なしですもん」
「あ、ええと……」
「すみません、朝から毒吐きました」

 隣に座っての小声ではあるがスタジオ内でそれは。慌てる俺に申し訳なさそうにして浦さんは口をつぐんだ。たぶん何か去就について思うことがあるんだろう。一度デビューしたからといってそのまま声優としてやっていける人の方が少ないのだから。
 この人は美紗と同い年ぐらいかな、とチラ見した。やはり考える頃合いなのか。



 美紗に何か返信をと思っていたのはできていない。
 ちゃんと向き合おうとした矢先に他の女と流される俺は大馬鹿野郎だ。どちらにも失礼極まりない。
 襲われたのは俺で、なし崩されたのも俺。だけど応えたのは俺だ。節操がないと非難されても仕方なかった。
 仕事を終えてスタジオを出ながらスマホを確認した。事務所からは何もなし。メッセージを見ると美紗からも夏芽からも一通ずつ届いていた。ぶわ、と汗が出た。

「――はあぁ」

 ため息が震えたのは自業自得だ。だけどなんだか怖い。
 立ち止まって見上げた空に風が乾いていた。もうすぐ師走か。そんなことを思ったが、逃避していられないので迷った末に夏芽のから開いた。

〈ごぶさただったんでダルい〉

 吹き出してしまった。あいつは。

「何言ってんだよ……」

 とたんに気が楽になった。店は開けられないのだし今日はゆっくりしていればいい。先生のことは心配だろうが、俺にすがりついて何かしら変化はあっただろうか。

〈なんというか、ごめん〉

 どうとも取れる言い方を俺は送信した。
 ただ体を疲れさせたことについてか、流されて抱いたことか、気持ちはどこにあるのか。そんなことを何も言わずにおくのは自分でもわからないからだ。
 俺の心とは。スマホを握ってしばらく考え込んだ。
 俺は夏芽をどう思っている。近所の犬のままなのか。
 するとポコンとメッセージが返ってきた。目を落とすうちに続けざまもう一通受信。

〈私もごめん〉
〈利用して〉

 凍りついた。これはやんわりした拒絶?
 あくまで俺を便利に使っただけで、一晩だけの関係にすぎなくて、これから先どうこうという気はないのだと機先を制してきた、そういう意味にも取れる。
 ――まあそうなんだろう。夏芽が心を寄せるのは先生だ。その人が倒れたからといってそこは変わるものじゃない。なら何故俺に、といえばただそこにいたから助けを求めただけだ。
 俺だって同じく、グズグズに崩れた何かを夏芽の手で形作ってもらいたかったのかもしれなくて、そのおかげで今日は平らかだったじゃないか。傷つくのはお門違いだ。
 いや傷ついたのか俺は。まずそこだ。そこでまた問いが元に戻る。

 俺は夏芽をどう思っている。

 この先夏芽とどう接していけばいいのか。
 向こうがどう考えているのか知らないが、大事なのは俺がどうしたいかだ。なのにそれがはっきりわからない俺がいる。仕方なく俺はせめてもの誠意を送信した。

〈利用されたなんて思ってない
 俺も助かった〉
〈ありがとう〉

 すぐに既読はついた。だが待っても返信はなかった。
 だよな、俺が何に打ちのめされていて何故助かったのか夏芽は知らない。何も返せないだろう。それでいい。
 そうしておいて俺は、美紗のトーク画面を開いた。一通の未読は。

〈悠貴がほしかった〉

「――」

 激しく直接的な言葉に殴られた。美紗ならばもう少しやんわり言うと思っていた。

〈わたし〉
〈伝えられなかったけど〉

 の続きがこれか。俺は瞠目した。情念。
 美紗が火縄銃を持って追ってくるような気がして息が上がった。『鰍沢』のような恋しい男の復讐ではなく、心中でもするために。
 なんてずるい。そんな熱は感じさせなかったくせに、こうなってから開陳するのか。卑怯だ。
 だがその怒りはぶつけてはいけないものだった。俺にも非がたんまりとあった。深呼吸してから数分考えた。

〈できない〉
〈悪かった〉

 そう送った。
 スマホをカバンに放り込み駅まで歩く。帰る電車の中で通知が鳴った。

〈知ってる〉
〈さよなら〉

 短いやりとりで俺たちは終わった。



 誰かとの関わりを終わらせるのは重いものなのだと俺は思い知らされていた。足がトボトボとしか動かない。駅に降り商店街を歩き始めても、気の早いクリスマスソングが青空に流れても、一向に心は晴れなかった。
 家に帰れば隣にはうっかり関係してしまったばかりの夏芽が暮らしている。昨夜の互いの意図は不明だ。
 俺の心はどこにある。わからない。
 何かの勢いだったと、利用しただけだと言い訳するのか。今朝はなんだか幸せに布団にくるまっていた気がするが、夜が明けて俺は我に返ったらしい。そしてたぶん夏芽も。
 〈喫茶・天〉の前でふと立ち止まった。先生の容態はどうなったろうか。もう夏芽には連絡が入ったかもしれない。店のドアには「店主急病のためしばらく休業いたします」という昨日貼った紙がそのままだった。

 真っ直ぐ部屋に帰ってきてはみたが、夏芽の所在がわからなかった。アトリエをのぞけばよかったと少し後悔する。隣は静かだ。だが会っても何を言えばいい。
 部屋着に着替え、昨日もらった食材で何が作れるかと考えてみた。いやその前に台本チェックをしなくては。明日はレギュラーの吹き替えドラマが最終回の収録だ。
 ゴソゴソしていると隣で物音がし、鍵を開けたのが聞こえた。あいつ、いたのか。
 ドアは開いたがリリンというキーホルダーは鳴らない。ということは鍵を掛ける必要のない用事――ウチだ。立ち上がったところでインターホンが押された。

「夏芽?」

 呼びながらドアを開けた。困ったような怒ったような顔で立っているのはどういう感情なんだろう。

「静かだから出かけたのかと思ってた」
「……ダルいって言ったでしょ」

 ムスッとうつむかれる。そういう苦情を直接言われると居たたまれない。

「ごめんて」
「先生、大丈夫だった」

 夏芽が突然言ってハッと息を飲んだ。

「……よかった」

 処置が早かったおかげだろうか。俺は心底安堵したのだが、夏芽はまだ迷うように目を揺らしていた。手招いたが夏芽はドアの内側に挟まるだけで三和土にも上がらなかった。

「命はとりとめた、てだけよ」
「でもよかった。人目のあるお店でだったから助かったのかな。運がいい」
「そう、ね」

 浮かべた笑みは苦しげだった。どうした。

「お店はどうするかわからないって」
「あ――ああ」
「私さ」

 夏芽は唇をとがらせて、拗ねた子どものようだ。だけど組み合わせた両手を強く握り、指がギュと白くなっていた。

「――もう先生にしがみつくのやめる」
「え」
「ちゃんとする。自分で逃げる」
「逃げる?」
「かがみん言ったでしょ。逃げていいって。八田の家は嫌いだから、戻らないで逃げる。けど、ここにはもういられない」

 なんだか悲しそうにつまらなそうに言う意味がわからない。

「いられないって、どうして」
「お店を閉めるなら、アトリエもなくなるかもしれないの」

 ――そうか。夏芽は居場所を失うんだ。
 あそこは先生が兄弟で受け継いできた店とアトリエだ。先生にお子さんはいないそうだし、元の経営者の兄の子どもたちも継ぐ気はないらしい。店だけを借りて利用してくれる人が現れない限り、売却して建て替えなんてこともあり得るのだった。
 夏芽にとっては金銭的な支えであり芸術家としての製作の場でもあった〈アトリエ喫茶・天〉。
 先生が与えてくれたものは大きすぎて、そのうえ才能を認め横暴な実家から守ってくれて。そうだよな、そりゃ恋い慕うのもわかる。

「ずうっと先生に甘えてたんだもん、そんなんじゃ駄目だよね。自分でなんとかしなきゃ」
「なんとかって、どうするんだよ」
「アトリエにできる所、探す。その近くでバイトも見つけて」
「そんな急に」
「急でもないよ。しばらく考えてた。かがみんに先生のこと言われて、お兄ちゃんもうるさく連絡してくるようになって、私なにやってんのかなあって思ってた」

 俺。俺もか。バレバレだぞと注意したかっただけだが行く末を考えさせたのか。

「そしたら、これだもん。もうそういうことなんだよ。全部吹っ切れ、ていう時なんだよね」

 そう言う夏芽は笑ってみせたが、同時に泣きそうでもあった。

「夏――」
「私、先生んちの子に生まれたかったなあ」

 俺に何も言わせずに夏芽は一歩下がる。ドアから入る空気が冷たかった。
 親から与えられなかった愛情の代わり。先生への思慕をそう規定してみせても真実はわからない。どんな感情だったのかなんて本人にも定かではないのだろう。人の心の在り方は一色ではないし一言に表せるものでもなかった。夏芽は奔放なふりで笑った。

「そういうの振り切るために利用したの。だから怒っていいよ」
「――怒らない。俺も助かったって言ったろ」
「そうなの?」
「ああ」

 俺も少し笑ってみせる。本当のことだから。
 美紗の拒絶と執着に傷つけられグズグズに崩れた俺をこねて形作ってくれたのは夏芽の手。あたたかい体。夏芽と溶け合いかけたことで俺は俺に戻れた。

「俺も、かなりキツかったんだ。利用したのは俺の方」
「――そ? じゃあ、いいのか」

 いい。
 ――のか?
 こうして互いに一歩ずつ下がって。あったことを有耶無耶にして。
 焦燥にかられた俺がしゃべるために息を吸った時、夏芽が先に口を開いた。

「でも私、かがみんのこと好きよ。こんな風に頼るくらいに」

 俺はまた何も言えなくなり夏芽を見つめる。あっさりと言い切る夏芽の「好き」がわからなくて。
 言葉としての「好き」にこめられた心の重さを量りかね、受けとめかねて黙り込む俺を夏芽はどう思う。昨日の夜には泣いていて、なんとか俺が世界につなぎとめていたはずのこの女はどうしてこんなに強い。

「かがみんは、優しいね」

 微笑んでスルリとドアの向こうに消えた夏芽を俺は引き留められなかった。
 だから俺の言葉はどこにある。
 俺に言えることはなんだ。
 いいかげんにしろよ。動け、口。
 焦っても声は出てこなくて、俺はピクリともできなくて、そのうちに隣のドアが閉まり、鍵が掛けられた。