15
リリリン、という鈴の音で俺は目を覚ました。夏芽が出勤する時間だった。
劇団の公演中は気にしてやれなかったが、兄に負けずちゃんと働いているらしいとキーホルダーの音でわかった。
今日の俺は休日。久しぶりに何も予定がない。千秋楽で打ち上がるのを前提に仕事を入れてもらえなかったのだとしたら気を回し過ぎだ。NGは入れていなかったのに。
昨日は終始穏やかに飲んだ。家に帰るまでが公演です、と心に念じ続けていた。最後に醜態をさらしたくなかったから。
公演中は精神の安寧を守るために放置しておいた美紗のトーク。確認しなくちゃいけないとは思っている。
それでも見たくなくて俺は洗濯機を回し、〈喫茶・天〉で先生が淹れるコーヒーとは比ぶるべくもないインスタントをマグカップに注ぎ、その時を引き延ばした。だけどやることがなくなり、仕方なく俺はスマホを手に取った。
未読は一通のまま。一口コーヒーを飲むと相変わらず旨くなかった。
〈伝えられなかったけど〉
開くとそう、飛び込んできた。コーヒーはもう一口飲んでも美味しくない。少しさかのぼって読み直した。
〈つきあったのなら〉
〈気持ち、ないのおかしくない?〉
〈悠貴だからだよ〉
〈悠貴とつながりたかった〉
〈つながってたから〉
〈生きてたの〉
〈嫌だった?〉
〈つきあってもいいって〉
〈うそだったんだ〉
〈通じてなかったのね〉
〈さいしょから〉
〈わたし〉
〈伝えられなかったけど〉
そこでメッセージは途切れていた。俺が既読にしなかったからだ。
「――何をだよ」
つぶやくと心がザワとした。知ってるだろう俺は。美紗がぶつけられなかった言葉。
俺とのつながりがギリギリ世界とのつながりで、それは心でも体でも言えることで、それほど必死に求めていることを悟らせないようにうわべを取り繕っていたのは上っ面な俺の彼女として最高にお似合いだった。
お似合い過ぎて俺たちは踏み込み合えず、何もさらけ出すことなく終わってしまった。いや、俺にはさらけ出すものすら何もなかった。空っぽだったから。
「――どうすりゃよかった」
絞り出す声は苦しかった。ああこれも俺の言葉だなと思った。
だけど本当に俺にできたことが何かあるのかわからない。
こんなに俺に心の在りかを教えてくれた美紗なのに俺はなんてひどいんだろう。こうして未読のまま三日半放置したことも甘えでしかない。美紗ならば本番中なのをわかっているはずだというのは勝手な言い分だ。
とはいえどんなに考えても俺が美紗にできることなんて思いつかない。俺は美紗のことを恋したり愛したりという存在として見られなかった。せいぜいが仲間。役者同士。ならば体の関係などつなげなきゃよかったのに、流されたのが間違いだとのそしりは受ける。俺は馬鹿だ。
でも〈つながっていたから生きていた〉なんて告白されたら戦慄する。傷つけたことについては喉が締めつけられる気分になるが、美紗と過ごしたすべての履歴を消去してしまいたいとも思った。
きちんと読み直し考え直してみたら俺を鎧っていたブリックパックはあっさり潰れ、俺は中身をぶちまけて形をなくした。やはり公演中に手をつけなくて正解だった。
「……出かけよ」
もう部屋にはろくな食べ物もない。先生に朝昼兼用の何かを作ってもらい、帰りに買い物すればいい。そう思ったんだ。
思ったのに。
洗濯物を干してから俺はぶらぶらと部屋を出た。もう昼近い。駅の方に向かい〈アトリエ喫茶・天〉にたどり着くと、何故か〈close〉の札が出ていた。今日は定休日じゃないと思ったが。
夏芽は出かけて行ったのだからアトリエかな、とドアの前で考えていたら店から人が出てきて俺を手招いた。白髪のご老人は熊田さんだった。
「夏芽ちゃんの友だちだったね?」
「……はあ。今日お店、休みなんですか」
「いいから入りなさい」
迎え入れられた店内には夏芽だけだった。カウンターに座り込んで泣いていた。泣いて。
「え……おまえどうしたの」
「岳さんが倒れたんだよ」
熊田さんが困った顔で教えてくれた。いやガクさんて誰だ。俺はそんなこともわからないのだった。
近づいた俺に気づいた夏芽が目を見開き、ポロポロと大粒の涙がこぼれた。座ったまま手を伸ばし俺のシャツをつかむとしゃくりあげる。さすがに振り払えなかった。
岳さんとは先生の名前だった。
今朝も店を開けたのだが、しばらくして胸を押さえてうずくまり救急車で搬送されたそうだ。つきそいは奥さんが行った。そういえばサイレンが聞こえたが、あれは先生を運ぶものだったのか。
「心臓の何かだろ。みんなのいる所だったし対応が早かったから、きっと助かる。でも夏芽ちゃんがこの通りで」
夏芽は俺にしがみついたまま震えている。無理もないが、このままでは熊田さんも帰るに帰れなかった。俺は少し厳しく言った。
「しゃんとしろ。店の片づけしたか? 先生いないなら今日は休みにするしかないんだろ?」
「そうだよ、お店を閉めておいてって奥さんに頼まれたじゃないか」
熊田さんも言ってくれる。体の弱い奥さんは取り乱しながらも夏芽に謝っていたそうだ。しばらくお店は開けられないだろうから働けなくて申し訳ないと。心臓発作を起こした人をすぐ復帰させるわけにはいかない。
「……うん。掃除、する」
夏芽はズルズルと立ち上がった。俺のシャツは握られた形にすっかりシワになっていた。動き出した夏芽に熊田さんはホッとしたようだ。
「よかった。ああ悪かったね、お仕事とか大丈夫かい? 若い人に手間取らせちゃってすまなんだ」
「いえ、今日は休みで。ここで何か食べようと思ったんです……」
「かがみん、食べに来たの?」
キッチンに入った夏芽が顔を上げた。
「そうだけど」
「何か、つくる」
「え、いやいいよ。勝手にそんな」
「ああでも、生鮮食品はなんとかした方がいい。置いといても腐らせるから、夏芽ちゃんが持って帰るなりして処分しないと」
とても現実的な提案を熊田さんがしてくれた。すぐにそんなところまで気が回るのは、さすがの人生経験。そんな熊田さんと俺で夏芽を手伝い、なんとか店を閉めた。
のろのろとしか進められなかった閉店作業をなんとかクリアし、置いておけなそうな食品を袋詰めして夏芽を連れ帰ったのは午後遅くなってからだ。すでに夕日の気配。なんて休日だろう。腹が減って死にそうだった。
夏芽は言葉少ない。やや白い顔をして、ゆっくりと歩いていた。その危うさに、倒れる前の美紗もこんなだったかもと想像して胸がつぶれた。俺は本当になんてことをしてきたんだ。
誰かと心をつなぐというのはこんなに難しく、悲しい。
一方通行でも相互でも、気持ちの行く先が突然に失われることはままあるのだった。こうして途方に暮れる心は放っておけば死んでしまいかねない。
死にかけた美紗がどうなっているのか。
夏芽はこれから死んでいくのか。
そして俺には何ができるのか。
とにかく、夏芽を送り届けたらしばらく隣を気にしよう。それと、分けてもらった食材で何か食べたら美紗のトークをまた開こうと思った。俺からも言えることはないか考えなくてはいけない。
「ほら、鍵あるか」
夏芽の部屋の前で声を掛けたら夏芽は黙ってカバンの中を探った。取り出した鍵がリン、という。
鍵穴に差そうとした手が震えて止まり、リリ、リリと鈴がうるさく鳴った。
「――」
俺は夏芽の手を取って、一緒に鍵を開けた。ドアの中に夏芽を押し込む。俺は初めて隣の部屋に入り、狭い三和土にくっついて立った。
「靴脱げ。おまえの分の食材これな。ちゃんと冷蔵庫に入れろ」
言う通りに夏芽は行動する。俺のところと左右が反対な部屋は、女にしては殺風景でガランとしていた。台所には夏芽が作ったのだろう器がいくつかあって、それだけが妙にいい物感がありアンバランスだった。
「ちゃんと何か食べろよ。俺も腹ペコだ」
なるべく明るく言って帰ろうとしたら、夏芽はこちらを見た。捨てられた犬の目。
「……作るから、食べてって」
拒否することはできなかった。
夏芽はちゃんと自炊しているみたいだ。肉を味付けるスパイスも生野菜にかけるドレッシングもちゃんとあって、朝仕掛けたのだろう予約炊飯で米も炊けた。味噌汁は出汁粉だったが作るだけ偉い。そんな風に食事の支度をするのを俺はながめていた。
ひとつひとつの動作を確かめるような夏芽。いつもの速さではないと思う。間違えないように危なくないように気をつけているのだろう姿が痛々しかった。
「いただきます」
「めしあがれ」
こんな風に挨拶して食べるのはいつぶりだろう。人の家で、人が作った食事。美紗の部屋には何か食べてから行き、何も食べずに出るのが普通だった。
いい器に盛られたご飯は美味しかった。夏芽の器ならちゃんと作った食事を盛りたいと考えたことを思い出した。こんな形で実現するなんて思わなかったけど。
ご馳走になったので皿を洗うと申し出てやらせてもらう。後ろでぼんやりしている夏芽が気になって手がすべりかけた。危ない。でも夏芽の方がもっとあやうくて怖い。
「――じゃあ」
手を拭いて、帰ろうかと夏芽に視線をやった。怯えを封じ込めたような無表情がずるかった。頭に手をやってモフった。
「大丈夫、先生元気になって戻るよ。しばらく休暇だと思ってアトリエに通えばいい。たくさん作れるぞ」
「――ん」
ポスンと肩に寄り掛かられた。あごと頬に髪がフワリとしてくすぐったい。美紗とはこんな風にしたことがなかったのに、彼女でもない女との方が近いなんて俺は何をしているんだろう。
「いっしょにいて」
「え、おい」
夏芽はギュと俺に腕を回す。肩から顔も上げずにねだられて俺はため息をついた。
「今度は俺が三和土か」
「……床でいいよ」
「寒いんですがそれは」
「布団あげる」
そこまで譲歩されて見捨てるのもどうしよう。困っていたら部屋の方に引っ張られた。
「え、そっち?」
「いっしょにいてってば」
待てよ一緒って一緒か。さすがにそれはと抵抗したが泣きそうな顔で抱きつかれた。どうすればいい。
ズルと崩れ落ちるのに巻き込まれながら床に座った。膝に乗られて手が俺の顔や首すじをなぞった。シャツの上から肩も、胸も。粘土をかたどる手つきのように。何を確かめられているんだ。
俺は粘土じゃなく血肉のある体。腕が首に回される。夏芽の腕は細いが強い。土をこねる腕が俺をとらえる。唇が寄せられ、ふさがれた。
あ、だめだ。
何年かぶりのキスで俺の理性が飛んだ。
流されてはいけないと胆に銘じたのではなかったのか。貸してもらった布団の中で俺はとろとろと考えた。
夜の部屋の、床ではなくベッドの上。夏芽の掛布団にくるまって、夏芽もその中に一緒で、肌がふれあっていて気持ちいい。こうしていると何も寒くなかった。
のら犬に噛まれたような久しぶりの口づけで俺の脳みそは痺れ、それに応えてしまった。むさぼるように。
二人して互いの体の形をなぞりあい、世界と自分との境界線を認識することでやっと自我を保った。小さくあえぐ声が泣いているようでたくさん泣かせてやりたくて強く抱きしめた。
夏芽と俺の体は混ざりそうで混ざらなくて、二人はそれぞれに存在していて永遠に溶け合うことはないんだろう。俺たちは粘土と釉にはならず決して合一せず、でもだからこそ寄り掛かり合っていられた。
別個のものとしてあるからこそ、つながることもそれで満たされることもできる。だがつながって満たされたいのは俺も夏芽も、美紗だって同じだ。そのギリギリのもろさと応えられなかった自分と応えた今とで背反に吐きそうだった。そんな矛盾のはけ口としてもまた夏芽を求めた。
俺も夏芽も今は流されることが必要で、こうなるのは単に必然だ。そう納得した。これはただ、そういうものなのだった。
「――ん」
身じろぎするとウトウトしていた夏芽が薄く目を開けた。肩をなでるとそのまま眠る。力の抜けた顔だ。
こうして人肌を感じて横たわるのも久しくないことだった。死にそうに心地よくて、だけどそれにすがりたくなる自分に泣きたくなった。
流されてはいけなかったのに、流されてよかったと思ってしまうのが情けなかった。
明くる朝は十時に仕事だった。また気持ちがぐちゃぐちゃになりかねない状況ではあったが、俺はなんだか静穏で満ち足りていた。
「仕事あるから出るよ」
そう夏芽にささやいた時、まだ部屋は暗かった。青白い薄明が窓から漂う。夜早いうちにあんなことになだれ込みそのまま寝入ってしまった俺たちは早くになんとなく目を覚ましていて互いにぼんやりと考え事をしているのが伝わっていた。
昨夜のあれがなんだったのか、どういう意味を持つものなのか、二人で話さないといけないのかもしれない。だけど少し時間がほしかった。
「ん……」
曖昧に返事した夏芽はもう泣いていなくて、むしろ微笑んでいて、それが嬉しい。嬉しいと感じる心は俺のものだ、とまた一つ確認した。
俺は最低限のものだけ身に着けて隣に帰りシャワーだのなんだのを済ませたが、俺が家を出る時間には夏芽の方でも動いている気配がした。ちゃんと起きられたんだと安心した。
リリリン、という鈴の音で俺は目を覚ました。夏芽が出勤する時間だった。
劇団の公演中は気にしてやれなかったが、兄に負けずちゃんと働いているらしいとキーホルダーの音でわかった。
今日の俺は休日。久しぶりに何も予定がない。千秋楽で打ち上がるのを前提に仕事を入れてもらえなかったのだとしたら気を回し過ぎだ。NGは入れていなかったのに。
昨日は終始穏やかに飲んだ。家に帰るまでが公演です、と心に念じ続けていた。最後に醜態をさらしたくなかったから。
公演中は精神の安寧を守るために放置しておいた美紗のトーク。確認しなくちゃいけないとは思っている。
それでも見たくなくて俺は洗濯機を回し、〈喫茶・天〉で先生が淹れるコーヒーとは比ぶるべくもないインスタントをマグカップに注ぎ、その時を引き延ばした。だけどやることがなくなり、仕方なく俺はスマホを手に取った。
未読は一通のまま。一口コーヒーを飲むと相変わらず旨くなかった。
〈伝えられなかったけど〉
開くとそう、飛び込んできた。コーヒーはもう一口飲んでも美味しくない。少しさかのぼって読み直した。
〈つきあったのなら〉
〈気持ち、ないのおかしくない?〉
〈悠貴だからだよ〉
〈悠貴とつながりたかった〉
〈つながってたから〉
〈生きてたの〉
〈嫌だった?〉
〈つきあってもいいって〉
〈うそだったんだ〉
〈通じてなかったのね〉
〈さいしょから〉
〈わたし〉
〈伝えられなかったけど〉
そこでメッセージは途切れていた。俺が既読にしなかったからだ。
「――何をだよ」
つぶやくと心がザワとした。知ってるだろう俺は。美紗がぶつけられなかった言葉。
俺とのつながりがギリギリ世界とのつながりで、それは心でも体でも言えることで、それほど必死に求めていることを悟らせないようにうわべを取り繕っていたのは上っ面な俺の彼女として最高にお似合いだった。
お似合い過ぎて俺たちは踏み込み合えず、何もさらけ出すことなく終わってしまった。いや、俺にはさらけ出すものすら何もなかった。空っぽだったから。
「――どうすりゃよかった」
絞り出す声は苦しかった。ああこれも俺の言葉だなと思った。
だけど本当に俺にできたことが何かあるのかわからない。
こんなに俺に心の在りかを教えてくれた美紗なのに俺はなんてひどいんだろう。こうして未読のまま三日半放置したことも甘えでしかない。美紗ならば本番中なのをわかっているはずだというのは勝手な言い分だ。
とはいえどんなに考えても俺が美紗にできることなんて思いつかない。俺は美紗のことを恋したり愛したりという存在として見られなかった。せいぜいが仲間。役者同士。ならば体の関係などつなげなきゃよかったのに、流されたのが間違いだとのそしりは受ける。俺は馬鹿だ。
でも〈つながっていたから生きていた〉なんて告白されたら戦慄する。傷つけたことについては喉が締めつけられる気分になるが、美紗と過ごしたすべての履歴を消去してしまいたいとも思った。
きちんと読み直し考え直してみたら俺を鎧っていたブリックパックはあっさり潰れ、俺は中身をぶちまけて形をなくした。やはり公演中に手をつけなくて正解だった。
「……出かけよ」
もう部屋にはろくな食べ物もない。先生に朝昼兼用の何かを作ってもらい、帰りに買い物すればいい。そう思ったんだ。
思ったのに。
洗濯物を干してから俺はぶらぶらと部屋を出た。もう昼近い。駅の方に向かい〈アトリエ喫茶・天〉にたどり着くと、何故か〈close〉の札が出ていた。今日は定休日じゃないと思ったが。
夏芽は出かけて行ったのだからアトリエかな、とドアの前で考えていたら店から人が出てきて俺を手招いた。白髪のご老人は熊田さんだった。
「夏芽ちゃんの友だちだったね?」
「……はあ。今日お店、休みなんですか」
「いいから入りなさい」
迎え入れられた店内には夏芽だけだった。カウンターに座り込んで泣いていた。泣いて。
「え……おまえどうしたの」
「岳さんが倒れたんだよ」
熊田さんが困った顔で教えてくれた。いやガクさんて誰だ。俺はそんなこともわからないのだった。
近づいた俺に気づいた夏芽が目を見開き、ポロポロと大粒の涙がこぼれた。座ったまま手を伸ばし俺のシャツをつかむとしゃくりあげる。さすがに振り払えなかった。
岳さんとは先生の名前だった。
今朝も店を開けたのだが、しばらくして胸を押さえてうずくまり救急車で搬送されたそうだ。つきそいは奥さんが行った。そういえばサイレンが聞こえたが、あれは先生を運ぶものだったのか。
「心臓の何かだろ。みんなのいる所だったし対応が早かったから、きっと助かる。でも夏芽ちゃんがこの通りで」
夏芽は俺にしがみついたまま震えている。無理もないが、このままでは熊田さんも帰るに帰れなかった。俺は少し厳しく言った。
「しゃんとしろ。店の片づけしたか? 先生いないなら今日は休みにするしかないんだろ?」
「そうだよ、お店を閉めておいてって奥さんに頼まれたじゃないか」
熊田さんも言ってくれる。体の弱い奥さんは取り乱しながらも夏芽に謝っていたそうだ。しばらくお店は開けられないだろうから働けなくて申し訳ないと。心臓発作を起こした人をすぐ復帰させるわけにはいかない。
「……うん。掃除、する」
夏芽はズルズルと立ち上がった。俺のシャツは握られた形にすっかりシワになっていた。動き出した夏芽に熊田さんはホッとしたようだ。
「よかった。ああ悪かったね、お仕事とか大丈夫かい? 若い人に手間取らせちゃってすまなんだ」
「いえ、今日は休みで。ここで何か食べようと思ったんです……」
「かがみん、食べに来たの?」
キッチンに入った夏芽が顔を上げた。
「そうだけど」
「何か、つくる」
「え、いやいいよ。勝手にそんな」
「ああでも、生鮮食品はなんとかした方がいい。置いといても腐らせるから、夏芽ちゃんが持って帰るなりして処分しないと」
とても現実的な提案を熊田さんがしてくれた。すぐにそんなところまで気が回るのは、さすがの人生経験。そんな熊田さんと俺で夏芽を手伝い、なんとか店を閉めた。
のろのろとしか進められなかった閉店作業をなんとかクリアし、置いておけなそうな食品を袋詰めして夏芽を連れ帰ったのは午後遅くなってからだ。すでに夕日の気配。なんて休日だろう。腹が減って死にそうだった。
夏芽は言葉少ない。やや白い顔をして、ゆっくりと歩いていた。その危うさに、倒れる前の美紗もこんなだったかもと想像して胸がつぶれた。俺は本当になんてことをしてきたんだ。
誰かと心をつなぐというのはこんなに難しく、悲しい。
一方通行でも相互でも、気持ちの行く先が突然に失われることはままあるのだった。こうして途方に暮れる心は放っておけば死んでしまいかねない。
死にかけた美紗がどうなっているのか。
夏芽はこれから死んでいくのか。
そして俺には何ができるのか。
とにかく、夏芽を送り届けたらしばらく隣を気にしよう。それと、分けてもらった食材で何か食べたら美紗のトークをまた開こうと思った。俺からも言えることはないか考えなくてはいけない。
「ほら、鍵あるか」
夏芽の部屋の前で声を掛けたら夏芽は黙ってカバンの中を探った。取り出した鍵がリン、という。
鍵穴に差そうとした手が震えて止まり、リリ、リリと鈴がうるさく鳴った。
「――」
俺は夏芽の手を取って、一緒に鍵を開けた。ドアの中に夏芽を押し込む。俺は初めて隣の部屋に入り、狭い三和土にくっついて立った。
「靴脱げ。おまえの分の食材これな。ちゃんと冷蔵庫に入れろ」
言う通りに夏芽は行動する。俺のところと左右が反対な部屋は、女にしては殺風景でガランとしていた。台所には夏芽が作ったのだろう器がいくつかあって、それだけが妙にいい物感がありアンバランスだった。
「ちゃんと何か食べろよ。俺も腹ペコだ」
なるべく明るく言って帰ろうとしたら、夏芽はこちらを見た。捨てられた犬の目。
「……作るから、食べてって」
拒否することはできなかった。
夏芽はちゃんと自炊しているみたいだ。肉を味付けるスパイスも生野菜にかけるドレッシングもちゃんとあって、朝仕掛けたのだろう予約炊飯で米も炊けた。味噌汁は出汁粉だったが作るだけ偉い。そんな風に食事の支度をするのを俺はながめていた。
ひとつひとつの動作を確かめるような夏芽。いつもの速さではないと思う。間違えないように危なくないように気をつけているのだろう姿が痛々しかった。
「いただきます」
「めしあがれ」
こんな風に挨拶して食べるのはいつぶりだろう。人の家で、人が作った食事。美紗の部屋には何か食べてから行き、何も食べずに出るのが普通だった。
いい器に盛られたご飯は美味しかった。夏芽の器ならちゃんと作った食事を盛りたいと考えたことを思い出した。こんな形で実現するなんて思わなかったけど。
ご馳走になったので皿を洗うと申し出てやらせてもらう。後ろでぼんやりしている夏芽が気になって手がすべりかけた。危ない。でも夏芽の方がもっとあやうくて怖い。
「――じゃあ」
手を拭いて、帰ろうかと夏芽に視線をやった。怯えを封じ込めたような無表情がずるかった。頭に手をやってモフった。
「大丈夫、先生元気になって戻るよ。しばらく休暇だと思ってアトリエに通えばいい。たくさん作れるぞ」
「――ん」
ポスンと肩に寄り掛かられた。あごと頬に髪がフワリとしてくすぐったい。美紗とはこんな風にしたことがなかったのに、彼女でもない女との方が近いなんて俺は何をしているんだろう。
「いっしょにいて」
「え、おい」
夏芽はギュと俺に腕を回す。肩から顔も上げずにねだられて俺はため息をついた。
「今度は俺が三和土か」
「……床でいいよ」
「寒いんですがそれは」
「布団あげる」
そこまで譲歩されて見捨てるのもどうしよう。困っていたら部屋の方に引っ張られた。
「え、そっち?」
「いっしょにいてってば」
待てよ一緒って一緒か。さすがにそれはと抵抗したが泣きそうな顔で抱きつかれた。どうすればいい。
ズルと崩れ落ちるのに巻き込まれながら床に座った。膝に乗られて手が俺の顔や首すじをなぞった。シャツの上から肩も、胸も。粘土をかたどる手つきのように。何を確かめられているんだ。
俺は粘土じゃなく血肉のある体。腕が首に回される。夏芽の腕は細いが強い。土をこねる腕が俺をとらえる。唇が寄せられ、ふさがれた。
あ、だめだ。
何年かぶりのキスで俺の理性が飛んだ。
流されてはいけないと胆に銘じたのではなかったのか。貸してもらった布団の中で俺はとろとろと考えた。
夜の部屋の、床ではなくベッドの上。夏芽の掛布団にくるまって、夏芽もその中に一緒で、肌がふれあっていて気持ちいい。こうしていると何も寒くなかった。
のら犬に噛まれたような久しぶりの口づけで俺の脳みそは痺れ、それに応えてしまった。むさぼるように。
二人して互いの体の形をなぞりあい、世界と自分との境界線を認識することでやっと自我を保った。小さくあえぐ声が泣いているようでたくさん泣かせてやりたくて強く抱きしめた。
夏芽と俺の体は混ざりそうで混ざらなくて、二人はそれぞれに存在していて永遠に溶け合うことはないんだろう。俺たちは粘土と釉にはならず決して合一せず、でもだからこそ寄り掛かり合っていられた。
別個のものとしてあるからこそ、つながることもそれで満たされることもできる。だがつながって満たされたいのは俺も夏芽も、美紗だって同じだ。そのギリギリのもろさと応えられなかった自分と応えた今とで背反に吐きそうだった。そんな矛盾のはけ口としてもまた夏芽を求めた。
俺も夏芽も今は流されることが必要で、こうなるのは単に必然だ。そう納得した。これはただ、そういうものなのだった。
「――ん」
身じろぎするとウトウトしていた夏芽が薄く目を開けた。肩をなでるとそのまま眠る。力の抜けた顔だ。
こうして人肌を感じて横たわるのも久しくないことだった。死にそうに心地よくて、だけどそれにすがりたくなる自分に泣きたくなった。
流されてはいけなかったのに、流されてよかったと思ってしまうのが情けなかった。
明くる朝は十時に仕事だった。また気持ちがぐちゃぐちゃになりかねない状況ではあったが、俺はなんだか静穏で満ち足りていた。
「仕事あるから出るよ」
そう夏芽にささやいた時、まだ部屋は暗かった。青白い薄明が窓から漂う。夜早いうちにあんなことになだれ込みそのまま寝入ってしまった俺たちは早くになんとなく目を覚ましていて互いにぼんやりと考え事をしているのが伝わっていた。
昨夜のあれがなんだったのか、どういう意味を持つものなのか、二人で話さないといけないのかもしれない。だけど少し時間がほしかった。
「ん……」
曖昧に返事した夏芽はもう泣いていなくて、むしろ微笑んでいて、それが嬉しい。嬉しいと感じる心は俺のものだ、とまた一つ確認した。
俺は最低限のものだけ身に着けて隣に帰りシャワーだのなんだのを済ませたが、俺が家を出る時間には夏芽の方でも動いている気配がした。ちゃんと起きられたんだと安心した。