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「ごめんなさい舞台初日に仕事入れちゃって」
「いえ。なんか売れっ子のような感じで気分が上がります」

 全然悪いと思ってなさそうな座間さんに、俺は軽く敬礼の仕草で応えた。
 劇団ジョーカー公演初日はソワレ、つまり夜の回だけだった。楽屋入りは十四時でいい。事務所NGも午後のみにしていたら、朝イチ十時の収録を入れたいんですけどと座間さんに言われたのが一週間前だった。

「ちゃんと十二時出しになってますから」
「少し押しても平気です」
「舞台、観てみたいなあ。明日は私も休みですけど家族サービスってものが」
「いや、ご主人とお子さんを大切にして下さいよ」

 つらつらと適当に会話する能力というのは大事だった。今の俺は本気で上っ面を固めている。でないと昨日のいろいろでメンタルがボロボロなのだった。

 昨夜は弱った夏芽を部屋に押し込んで隣に帰った。
 あいつが大丈夫なのかわからないが、寄り添う余裕は俺にもない。もう兄貴は戻らないだろうが何かあったら壁ドンして呼べと言い含めておいた。夏芽からのでもメッセージアプリは開きたくなかった。
 美紗とのトークは帰宅途中で既読にして以降閉じている。悪いけど俺にも仕事と舞台という都合があった。美紗を受けとめるなんて自傷行為を続けていられないと我に返ったのだった。

 今日呼んでもらったのは音響監督辰巳さんのアニメだった。
 彼が手掛ける来春クールが、アラン騎士団長で出演する女性向け恋愛『七タン』。冬クールが番組レギュラーに入れてもらった少年異能バトル『ブレない僕らの』。そして秋クールに担当しているのが男性バディの活躍する異世界転移アクション、この『ホーリー・ホロウ』だった。

「おはようございまーす」

 座間さんと並んで副調整室に挨拶に行きオーディションぶりの辰巳さんと相対した。物腰柔らかで控えめな雰囲気だった。

「各務さん今日舞台ですってね。すいません仕事打診して」
「とんでもないです。夜公演なので間に合いますし、呼んでいただいて嬉しいです」
「僕は観に行く時間なくて申し訳ないですけど。中原さんの劇団の出身なんですか」
「違いますが時々混ぜてもらってて」

 ジョーカさんを中原さんと呼ぶ人を初めて見たかもしれない。きちんと一線を引く人なのだろう。
 なあなあの仕事はできない、と気持ちを引き締めた。今日の俺の内心はグダグダだが、それでも声にだけは芯がなきゃいけない。

「あの、今日の役はけっこう江戸弁な感じでしょうか」
「そうです。落語されるんですよね、プロフィールにあったんで」
「あ、それで」

 確認した俺に辰巳さんはニコニコと答えてくれた。今日の台本は和風異世界に迷い込む筋立てだった。俺はそこにいるべらんめえ口調の男の役だ。

「……やってたのが上方落語じゃなくてよかったです」
「うわ! その可能性考えてなかった!」

 ハッとなった辰巳さんが叫んで周囲がガックリした。もしかしたら意外とうっかりさんなのかもしれない。

「俺、江戸落語です。頑張ります」
「よかったあ。お願いしまーす」

 きまり悪そうな辰巳さんにペコリとして俺はブースに移動した。もう来ていた声優たちに向けて挨拶し、尋ねる。

「どこ座れますか」

 レギュラー陣は使う椅子やマイクがほぼ決まっている。ゲスト出演の場合その邪魔をしてはいけないのだった。ちょい、と隣を示してくれたのは俺と同年輩の女性だった。

「こちらどうぞ」
「ありがとうございます」
「……各務さんて『七タン』入ってますよね」
「はあ」
「んじゃそっちもよろしくです。私ナタリー役の外山璃乃です」

 ナタリーとは『七タン』のヒロインの名前だった。主役って他の出演者までチェックしてるのかと思ったら首を振られた。

「PV制作の話で聞いたんです。第一弾でナタリーは一言だけで、ナレーションはアランにやらせるって」
「え? それ知らないです」
「ふふふ。そこではキャスト発表ナタリーだけにしてナレーションしゃべってる人も役も秘密にするとか。あおってますよね」
「なん、なんでそんな」
「各務さんアニメあまりやってきてないでしょう。聞き覚えがない声が出たらファンが声優当てクイズ始めるじゃないですか」
「……絶対わからないやつ」

 そんなの後日正解発表したら炎上するんじゃないか。俺がとばっちり食うのではと雑談していたら収録が始まってしまった。
 今日俺がやる役は、最初冷ややかに主役たちをあしらい嵌めようとする。だが実は好きな女のために画策奔走している男だった。後半では抑えた愛を語らなくちゃならない。
 俺には愛なんてない。好きな女もいない。それでも参考になるものなら見てきている。
 昨日は重い気持ちを送信された。落語会では人殺しも辞さない情念を聴いた。先生と奥さんの気づかい合う姿にも愛が見えた。そんなものたちを空っぽの俺に詰め込めばしゃべれるんだ。俺は硬く鎧った上っ面のままで強く愛をなぞる。

「――はい、いただきました。ありがとうございました」
「ありがとうございまーす。お疲れさまでーす」

 ミスもなく録音は終わり、俺はあちこちに挨拶しスタジオを出ようとした。そこで呼び止めてきたのは外山さんだった。

「各務さんてアニメ少ないと聞いたんですけど、お芝居とかをやってたんですか」
「……多いのは外画ですね。舞台なら今日これから」
「え」
「中原ジョーカさんの劇団に客演で」

 どうして話しかけられたのかわからないが答えた。小さく会釈して外に出る。昨夜からの雨はやみかけていた。さて劇場に行こう。
 実はこの舞台で演じる遥平も愛に迷う男だった。隣の葬儀場の喪主である年の差夫婦の未亡人に横恋慕して言い出せずにいる。そりゃ年上夫の闘病中から口説くのはハードル高過ぎるが、それでなくても内気で物静かな和カフェ店主という設定だった。

「黙って愛をかもし出すとかさぁ……」

 わりと無茶な要求だ。でも言葉がなくとも愛が見えるのは先生夫婦で実感してしまった。あれをやるしかない。
 不自由で不器用な一方通行といえば、現実でも隣にある。夏芽の恋路は絶対に成就しないだろう。
 少し不憫だった。



 劇場に着く頃、雨は上がっていた。傘を閉じたままで姿を見せた俺に気づいて受付をセットしていた子たちが元気に挨拶してくれる。裏方もみんな高揚しているようだ。

「おはようございます! 雨やみましたか」
「うん、明るくなってきたよ」
「じゃあ傘袋いらないですかねえ」

 うなずき合ってゴソゴソとビニール袋を片付ける。天気がどれほど客足に影響するものか定かではないが、晴れている方がスタッフは楽だ。

「あ、各務さんの扱いで初日のチケット取り置き受けました。タチバナ様です」
「あ……ああ」

 虚を突かれて口ごもった。橘さん。お座敷落語の時にもうすぐ舞台だという話はしたが、劇団に直で連絡してくれたんだ。ていうか来るのか。

「ご招待ですか?」
「ん……いや、お金いただいて下さい」

 こっちも木戸銭払って寄席に行っているんだし遠慮することはない。少し売り上げに貢献してもらおう。
 楽屋に行ってみると本番の不思議な空気がただよっていた。浮わついているのに落ち着きもある。もうやることはやったという、諦念に似た感覚。ここからはタイムテーブルに従い体にプログラムしたことを繰り返すだけだった。
 舞台に上がり、軽く声出し。食事。メイクと着替え。舞台モニターには音響と照明のチェックの様子も映る。舞台監督の瀬戸さんは調光室や音響室や舞台、楽屋、受付までブラブラと回遊して問題が起こっていないか点検していた。
 開場前の楽屋で俺はスマホを取り出した。橘さんには客出しの時に会うだろうから俺にも何か言ってきているのか見ておいた方がいい。だが橘さんからは何もなかった。本当に直接劇団に問い合わせたんだな、あの人。
 美紗のトークに未読が一通あるのにも気づいた。だけど俺はそのままにしてスマホをしまった。

『開場しまーす!』

 モニターから瀬戸さんの声がした。初日が始まる。
 粛々と客入れが進み、ロビーではジョーカさんが生き生きとお客さまと話しているようだった。俺たちは楽屋のモニター越しに客席が埋まっていくのをチラ見していた。
 開演時間が近づき全員が持ち場に移動すると、舞台袖では小声の「よろしくお願いします」が飛び交う。予約客のほとんどが来場したことを受付で確認し戻った舞台監督がインカムでつぶやいた。

「開演します」

 ブザーと共に客電が落ち、緞帳が上がった。

 客の質は良かった。くすぐれば笑ってくれるし引っ張れば固唾を呑んでくれる。ありがたい。俳優陣は少し調子に乗ったかもしれない。
 でも俺は淡々と、刷り込んだことを繰り返していた。心を揺るがせば何かが壊れると知っていた。自分が今本当は駄目なのだとわかっていた。
 なのにそれは起こった。
 三場の終わりのあたりだ。堀さん演じるレナが、遥平が幽霊かどうか確かめたくてぶつかりに来るシーン。

〈でもあの人誰からも見えてないっぽいしワンチャンそうかもしんないし……そだ、さわれるかどうかでわかるよね?〉
〈よ、よし、さりげにぶつかッ――!〉

 そこで堀さんは、ほんの少し浮いたパンチにつまずいた。
 いや、ぶつかるぞ。
 本来のタイミングより早く俺に向かってつんのめった彼女を、俺はススッと避けた。今はまだ実体だと確信されるわけにいかないのだ。話が壊れる。
 避けた動きのままロビー外設定の下手手前まで早足に出る。真後ろでレナがズベッと転んだ音がした。
 あーあ、と頭の片隅で思いながら、俺はそこに配置してあった落ち葉を拾いサス位置で立ち止まった。
 落ち葉を光に透かして立ち尽くすと同時にサスが軽く入り俺を照らした。照明オペレーター、アドリブに乗ってくるのか。
 俺は切なくため息をついて間を計る。遥平のもどかしい想いを仕草だけで表現して待っていると、後ろのレナがモゴモゴ言った。

〈マ、マジ? あ、当たらなかったぁ!〉

 本線になんとか復帰できただろうか。立ち位置が変わってしまったけど、どうやって戻ろう。
 それにしても白々しいな。叶わぬ恋の切なさなんて俺自身はまったく知らないことなのに。


「すみませんでした……」

 終演し幕を下ろした舞台の上で、堀さんは泣きそうになっていた。緞帳の向こうでは客がザワザワと立ち上がっている。俺はささやき返した。

「客出しだよ。ちゃんとお見送りしよう」
「はい……」
「ほら主役、早く行く!」

 母親役の乃木さんが肩を叩いた。語気は強いが笑顔だ。堀さんはグッと息を整えてうなずいた。
 出演者たちが足早に表へ向かう中、のんびりついていく俺に乃木さんが苦笑いした。

「アドリブお見事でした」
「なんとかつながったかなあ。死ぬかと思った」
「落ち着いてたじゃないですか」
「舞台上ってそんなもんじゃない?」

 どうにかしなきゃという時には反射神経だけで動くものだ。そしてそれがセリフとしては一言も出てこなかったのは、やはり俺。しゃべるのは苦手だ。
 劇場ロビーでは出演者それぞれの呼んだ客が楽しげに話していた。堀さんも友人に囲まれ「あんたマジでコケたでしょ」と爆笑されている。まあ失敗は笑い飛ばしてもらえた方がいい。
 俺も客たちと一言二言交わして来場の礼をしていたら橘さんが近づいてきた。いつもの鋭い目。

「よう」
「どうも。来ると思わなかったです」
「んー、おまえのこういう生モノ久しぶりに観ようかと」

 生モノね。確かに録音モノとは違う。

「主役派手にトチったな」
「バレます?」
「そりゃバレるわ」

 橘さんの目つきが険を含んだ。またジーンズのポケットに指を引っ掛けて斜に立つ。俺が着物でこの人がジーンズなのが普段の仕事着と逆でなんだかおかしかった。

「おまえやっぱムカつく」
「はい?」

 唐突にふて腐れたように言われて面食らった。

「なんでも器用にやりやがって。アドリブでスポットライト浴びて見得切ってんじゃねえよ」

 なんでも。器用に。
 冷水を浴びせられた気分になって俺は橘さんをにらみ返した。
 あんたがそれを言うのか。ただひとつの道を極めに行っているあんたが。そうできない俺に高みからご意見ってことなのか。

「ミエを切るってなんです。そんなことしてませんよ」

 喧嘩を売るような橘さんの物言いにも俺は抑えて返した。まだチラホラと他の客も残っているし言い争うわけにはいかない。

「いや歌舞伎ならナントカ屋! ってやってたわ。おまえの立ち姿は目ェ引くんだよ」
「ただ立ってるだけです」
「それがムカつくってんだ」

 ケッと橘さんは吐き捨てた。

「――俺が何百回『鰍沢』を繰り返したか知ってるか。そうやって体に染み込ませ覚え込ませて寄席に掛けてるのに、おまえはふとした仕草だ目配りだで全部かっさらっていきやがる」
「かっさらう……?」

 どうしたんだろう橘さんは。なんでそんな悔しげにするんだ。その場しのぎでしかない俺のアドリブなどに何がある。

「セリフだってそうだ。ヒョイとしゃべってるだけのくせしてなんか耳につくんだよ、おまえの声は!」

 橘さんは小声だが語気荒く俺をにらんだ。
 言われる意味が理解できなくて俺はまじまじと見返す。だけど息が震えた。拳を強く握った。
 ヒョイとしゃべるしかないのは俺がいつも卑屈になっている点だ。それを羨むのか。馬鹿げてる。あんたみたいに一つの道を行ける人の方がよっぽどすごいだろうが!

「あらあら、面白そう」

 にらみ合いに割り込んできたのは二ノ宮さんだった。ハッと周りを見ると客はほとんどいない。そのぶん俺と橘さんのやり取りは目立っていて、大声でなくとも不穏だったのだろう。

「寄席っていうと、こちらのお兄さんはもしかして落語家さん? 芸について熱くなれるならこれから一緒に飲みに行こうか」

 喪服の老婆の扮装のままでそんな誘いをされた橘さんが鼻白んだのがわかった。詰め物をした背を丸めヨタヨタと歩いてきたのはわざとだろう。あざといが俺たちを正気に戻すには十分だった。橘さんは急いで営業用の笑顔を貼り付けた。

「――こりゃすみません。ただの客がそんなわけにも。各務とはまたの機会に話しますわ」
「ああら若い男同士の葛藤なんて、いい酒のアテなのに」
「だからやめて下さいってば」

 微笑んで秋波を送る二ノ宮さんに渋い顔をすると、それを見た橘さんが苦笑いした。毒気を抜かれた顔だ。

「おまえも苦労してるんじゃん」
「おやまあ失礼な。やっぱり飲もうかぁ、君?」
「遠慮しときます」

 ガ、と腕を取った二ノ宮さんの手を丁重に外した橘さんは、もう俺を一瞥もせずに出ていった。勝手が過ぎる客を見送り二ノ宮さんが笑い出す。俺は憮然と立ち尽くした。

「――すみません。見苦しいところを」
「いいのよお。あの彼、もがいてて尖っててかわいいね。ご飯三杯ぐらいいけるわ」
「いちいちツマミとかおかずにするんですね?」
「そういう栄養分で芝居するんでしょ、あたしたちは」

 柔らかく笑った二ノ宮さんは魔女のように見えた。若い男の精気を吸い、芸に変えていく女優。あながち間違いでもない気がして冷や汗をかく。
 楽屋に引っ込む二ノ宮さんの足取りは軽やかだ。そうやって何かを奪い取りながらでも生きていく姿勢はいっそ美しく、そして怖かった。

 俺は今日も飲みに行かないことにした。行けるわけがない。美紗に加えて橘さんまで妙な言いがかりをつけてきやがって。
 ちょっとキツいので帰ると言ったら体調が悪いのかとジョーカさんに心配された。

「いえ。さっき来てた先輩だけじゃなく美紗からも恨み言がたくさん着信して」
「うわあ、マジ?」
「酒に飲まれそうな気分なので自粛します」

 あと二日を無事に乗り切るのが第一目標だった。



 二日目は昼のマチネと夜のソワレの二公演。どちらも大きなトラブルはなく幕が下りた。
 タヌキCMで組んだ浦さんがマチネを観に来てくれて、少し演劇の勉強をしたいかもと難しい顔で帰っていった。ソワレの方にはマネージャーの本村さんから席を押さえてと連絡があり受付にご招待をお願いした。
 でもソワレの客出しでまず声を掛けられたのは外山さんだった。『七タン』ヒロイン役の人。

「お疲れさまです各務さん。観に来ちゃいました」
「あれ。ええと、ありがとうございます。なんで」
「わりとみなさん舞台やられるじゃないですか。私、声優養成所出身で、なんかこう、幅が狭いような気がして焦ってて」
「ああ、はあ」
「昨日各務さんのセリフ聞いて、アニメっぽくなくてわざとらしくなくて、不思議だなって思ったんです」

 外山さんは照れたように笑って誤魔化しながら言う。だけどたぶん真剣に悩んでいるのだろう。昨日の今日で来るって。ヒロインに入ったぐらいだからそれなりに仕事量もある中、ギリギリ駆けつけてくれたはず。なんだか申し訳なくなった。

「……参考になりましたかね」
「あ、いろんな方がいらっしゃるなと思いました」
「うんまあ、生粋の舞台演劇の方も出てるし。主役なんてまだ研究生だし」
「そうなんですか……各務さんは昨日の収録のとはぜんぜん違ってて……これ誰だろってなりました」
「はは」

 俺は元が空っぽだから。どこかで見たもの聞いたものを詰め合わせてやっているだけなので、そうなるのも当たり前だ。

「〈遥平さん〉なんだからそれでいいんですよね。すごくおもしろかったです」

 ペコリとして外山さんは帰っていった。なんだかわかったような顔だったが大丈夫なのだろうか。

「今のどこの事務所の子だっけか」

 話し終わるのを見計らって本村さんが寄って来た。

「今度の春アニメで主役やる人です。昨日仕事で会った時に舞台のこと話して」
「へえ、勉強熱心だな」
「です。昼には浦さんも来ましたよ。本村さんこそ忙しいのにありがとうございます」

 本当にありがたいことだった。
 俺はこんなにフラフラしていて自信がなくて自身もなくて、さらに今回はメンタルも豆腐だ。むしろ豆乳レベルに還元しているのを容れ物に充填して保ってるような状態。俺の心の鎧はブリックパック製かもしれない。

「いや。観に来た甲斐があった。おまえ良くなってるよ」
「え……そうですか?」

 うん、と本村さんはうなずいてくれる。

「各務くんの中に、別人を作れるようになってきてるだろ」

 なんだそれは。
 だろ、と言われても俺にはなんの実感もない。今の俺の中にはグズグズのメンタルがあるだけだと思っていた。それなのに別の誰かがいるとは何事だ。本村さんは勝手に納得してニヤニヤしている。

「おまえ引き出し少なかったけど最近深みが出てきたし」
「そんなもん俺にありますか」
「各務くん自身はうっすいよなあ」

 失礼だが本当のことを言って大笑いするもんだからロビーにいた人たちが振り向いた。俺を薄っぺらと言っておいて本村さんは頓着しない。

「だからいいんだろ、誰か別人をやるには。ずっと守りの姿勢だったのが吹っ切れてきたし、経験値が上がればもっと良くなる。俺の目が節穴じゃないって証明し続けろよ」

 とても難しくて責任の重いことを言いつけると、俺の拾い主は機嫌良く帰っていった。

「えええ……」

 なんの自覚もないそんなことを言われても困惑するしかない。拾ってもらったからには無価値だったと思われたくはないが、どうすりゃいいんだ。
 俺が「守っていた」というのは確かに反論できない。食べていけるか不透明なこんな仕事に就いたのも、就職活動で否定されまくりお祈りメールばかり届いたら病みそうで怖かったというのがあった。傷つきたくなくて流された結果、今の俺がある。そんな奴に深みなんてあるもんか。
 だけど最近のへこみ具合の結果そういうものが醸されてきたのだとすると、苦労は買ってでもしろという言葉は正しいのかもしれない。「へこむ」が「深くなる」と同義だとは知らなかった。どうやら人生は難儀なものらしい。

 そして三日目は千秋楽。昼公演だけの日曜日は満員御礼となってジョーカさんはドア脇で立ち見していた。
 たった四回の本番。それだけのために費やされた労力は膨大で、心をすり減らし金をつぎ込み、そして人間関係が壊れたりもした。
だがそれで得られるものは確かにあるのだと思いたい。演者にも、観客にも。
 最後の一人まで客を追い出すと「お疲れさまでしたー!」の声が劇場に響いた。だが次の瞬間にはもう皆が動き出す。バラシだ。

「あー、若返るわぁ。あ、でも素顔もバアさんだった」

 楽屋で顔を拭きながら二ノ宮さんはまた誰もツッコめないことを言う。上機嫌なのは芝居がウケたからなのか、もう面倒なメイクをしなくていいからなのか。
 出演者はまず着替えが急務だ。脱いだ衣装を畳み、ドーランを拭き取ったゴミをまとめ、何もかも片付けて楽屋から撤収しなくてはならない。同じ頃モニターに映る舞台では大道具をどけて灯体が外されていた。夢の跡はもろくも消え失せていく。俺たちが楽屋を掃除し終えた頃にはパンチも剥がされてしまい舞台には何も残っていなかった。
 やっと終わった。



「お疲れッしたーッ!」
「いやなんでおまえが騒ぐの⁉」

 何もかもを搬出した後、大荷物を抱えた劇団員たちと共に打ち上げに参加した関根がブーイングを浴びた。事務所NGを入れられず結局本番を観られなかった関根はバラシの終盤で顔を出すと皆と一緒にちゃっかり飲みに来ている。

「だって何も参加できなかったんだよ、打ち上げぐらい騒がせろよぉ」
「うるせえ、売れっ子」

 同期たちにからむ関根はスタジオより甘えん坊だ。憎めない雰囲気なのは確かで、それが彼のウリかもしれない。俺とは真逆。

「僕なんてたいしたことないもんね。春アニメの僕が受けた役、各務さんに決まったんだよ。いーなー!」
「おい」

 まだ発表になっていないことを言うんじゃない。焦ったが、関根はツーンと横を向いた。

「作品名言わなきゃ大丈夫ですよ」
「なんだ各務マジか。んじゃアニメで会うこと増えるかな」

 離れた所からジョーカさんが参戦する。よく聞きつけたな。

「そうなるといいですね」
「今回おまえ頑張ったもんな」
「すみませんでしたァッ!」

 堀さんが大声でガバッと謝罪する。もう酔ってるのかと思ったがウーロン茶だった。そういえば十九歳。舞台監督の瀬戸さんがビールのグラスをかかげて応えた。

「いやゴメン。パンチの浮きを許すなんて俺も悪かった」

 そして一気飲み。初日がハネてから、瀬戸さんは雨の湿気で歪んだのだろうパンチをゲシゲシ踏んでため息をついていた。今回の一番のミスだ。

「くっそ! どこのハコも釘打ちさせてくれねーんだもーん」
「〈遥平〉がサス位置入るから当てちゃったっス」
「あれズルい! 俺が下手(しもて)にいたら吊りカゴ引いて落ち葉数枚散らしたのになあ」

 〈レナ〉を避けた俺の動きを演出にするため瞬時にサスライトを入れた照明オペレーションには瀬戸さんも便乗したかったらしい。落ち葉を降らせるための籠は上手の舞台監督定位置からは操作できなかったのだ。観ているしかできなかった演出家のジョーカさんも悔しがる。

「くそう。現場で起きてる事件に俺は噛めないんだぜ」
「ジョーカさんも次回は出演すればいいでしょうよ」
「やだ。俺トチったら死んじゃう」
「どうしたいんスか……」

 酔ったおじさんたちの会話を聞き流して俺はゆっくり飲んでいた。あまり酔いたくない。酔って堰が切れてしまったら、今のわりと心地よい疲労感はどこかへ消えて、替わりに何が俺からあふれてくるのか考えたくなかった。

「なあ各務」

 楽しそうにグラスを傾けるジョーカさんがふと俺を呼んだ。顔を向けたら酔った笑顔は嬉しそうだ。言っちゃなんだがかわいい。

「かましたな。ハッタリ」

 そう言われて軽くグラスを上げた。さりげなくジョーカさんの隣にいるのは内緒で付き合っている劇団員の女だ。いいから公表して再婚でもすればいい。またすぐ再離婚するのだとしても。
 否応なくやるしかなかったアドリブはハッタリなのだろうか。「かませ」とけしかけられていた何かは俺にあったのだろうか。ぼんやりしていたら二ノ宮さんがいざって寄ってきた。背中にドンと寄っ掛かられる。

「各務くん自身なんてどうでもいいよ。なんか面白い存在が舞台にいれば客はそれを見るの」

 どうでもいい。そうなのか。

「また何かで一緒しようねぇ」

 二ノ宮さんもご機嫌だが、そんな機会が再びあるとは思えなかった。もう俺は劇団ジョーカーには関わらないだろうから。