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 劇団ジョーカーの公演仕込みの日が来た。今日は一日がかりの予定だった。
 橘さんの噺がどうだろうと俺はやれることをやる。そうするほかにないのだ。大勢で作る舞台になら、俺は上がれるから。

 空はどんよりしていた。十一月の下旬にもなると東京だって寒くなる。肉体労働するこんな日には、これぐらいがちょうどよかった。

「パンチ張るよ!」

 舞台監督の瀬戸さんが声を掛けると周辺で待機していた連中が集まった。指示に従って板張りの舞台に養生テープを貼り、両面テープを重ね、パンチカーペットを敷き詰めていく。パネルを立てベンチを置きホリゾントに大黒(おおぐろ)幕を吊ると舞台はみるみる葬儀場のロビーと入り口になっていった。

「吊り込み始められるか?」

 のっそり顔を出すのは照明の鈴木さんだ。瀬戸さんが舞台下を示した。

灯体(とうたい)ここで待って下さい。パンチ上コロコロ!」

 パネルの木屑が散っているのを掃除するためのコロコロはまだ楽屋だった。一人走る。しばらくは照明作りなので俺も引っ込んだ。

「舞台どんなですか」

 楽屋に入るなり乃木さんに訊かれた。今一人来たはずなのだが、尋ねる間もなくコロコロをつかんで行ってしまったそうだ。テンパってるな。

「照明にかかってる。モニターつながってないの?」
「まだです。瀬戸さんに言ってきますね」
「俺行こうか」
「いいですよ」

 それなりに場数を踏んだ乃木さんには余裕がある。もちろん同期の美紗がいないことで心細くはあるのだろうが、後輩たちにそんな様子は見せていなかった。持ち道具の梱包を解くように指示して乃木さんは出ていった。

「浮き足だってて、初々しいんだね」

 代役客演の曽根さんにささやかれた。
 客演の三人は仕込み終わりの時間に入ってくれればと言われたが、俺と曽根さんは早く来ていた。そんな偉い身分じゃない。二ノ宮さんは「ババアだから力仕事の役に立たないもん」と後入りだ。

「こういう劇団は入れ替わり激しいですから。三年目ぐらいまでの人が多いんじゃないかなあ」
「そんななの? それは大変だわ。一日でゲネまでとか、慣れててもきついのに」

 俺は自分の衣装をチェックした。一人だけ衣紋掛なのでハンガーラックから斜めにはみ出していた。
 美紗はすぐ衣装に消臭スプレーをかけるんだと思い出した。楽屋で使った布巾もタオルも必ず持って帰って漂白してくる。ウェットティッシュはそんなにいらないと思うくらいあちこちに置いてくれる。誰かが楽屋を散らかしているとすぐキレる。
 二人だけで過ごした時間のことより芝居に関わる記憶の方が鮮明なのは、やはり俺たちはただの役者仲間だったのだ。少なくとも俺の中では。
 プツンと音がして舞台モニターがつながった。バトンが下りていてサスペンションライトを取り付けているところだ。劇団員たちが袖や客席に下がって見守っているのが映っていた。
 手持無沙汰な俺はカバンのスマホをチェックしてみた。仕事はNGにしてあるから事務所の連絡はないはず。だが公演ギリギリになってチケットよろしくと誰かが連絡してくるかもしれなかった。メッセージを開いた俺は動きを止めた。

〈調子どうだ〉

 そう送ったままの美紗へのトーク。既読がついている。いつ見たのだろう。しばらく気にしていなかったのでわからなかった。
 楽屋の真ん中に出された長テーブルの端で俺はパイプ椅子に座り込んだ。テーブルには不燃、可燃、ペットとペンで書いた分別用ゴミ袋が養生テープで貼り付けてあって物悲しい。いつもこれを仕切っていたのは美紗だ。乃木さんが引き継いだのかもしれない。

『役者さん舞台集合。明かり決めまーす』

 モニターから瀬戸さんの声がして、俺は顔を上げた。スマホをカバンに放り込む。今はそんなことを気にしていられなかった。この舞台は俺の仕事だ。


 照明を台本の流れに沿って作っていく。真ん中の第一葬儀場、上手(かみて)奥の第二葬儀場、下手(しもて)手前の屋外。それぞれ抜きで照らしたり、全体を明るくしたり、特定の俳優だけを抜いたり。

「大黒、当たってんぞ!」

 照明責任者の鈴木さんは客席後ろからぞんざいに指示を出す。

「行き過ぎ戻せ。はいそこ!」

 灯体ひとつひとつ角度を決め、芝居をまんべんなく見せられるようにする。舞台に役者を上げて立ち位置につかせると、鈴木さんは首をひねった。

「顔暗えな。やっぱ三番と五番ブッ違い! やりながら下手に遥平くん来て」
「はい」

 それは俺の役名だ。葬儀場を出て立ち尽くす場面でサスライトに抜かれるので位置を決める。明かりを顔の高さに合わせてもらう間に舞台監督の瀬戸さんが足元を蓄光テープでバミった。ちゃんとここに立たないと打ち上げで嫌味を言われることになる。

「はーい。地明(じあ)かり下さい」
「オッケーでーす。じゃあ一時間休憩したら場当たりいきます。それまでに置き道具持ち道具スタンバって下さい」

 ひと通り照明を作ったところで昼休憩だった。とはいえこの隙に音響さんが効果音や曲の音量をチェックし始めて四方のスピーカーのあちこちから音が飛んでくる。ザワザワと動く劇団員の中、演出のジョーカさんは客席で所在なげだった。

「暇ですか」
「だって手ぇ離れてるもん」

 声を掛けると苦笑いされた。ここからは現場のことになる。仕切るのは舞台監督であり、演出家はじっと舞台の評価を待つしかなかった。最終的な責任を押し付けられるためにいるのが本番中のジョーカさんだ。

「やだなぁ、仕込みがいちばん落ち着かなぁい」
「ぐずらないで下さいよ」

 かわいこぶるおじさんは困る。すると座席に沈みこんでいるのを見つけた乃木さんが寄ってきてなだめてくれた。

「お弁当、楽屋にあります。今のうちにどうぞ」
「うぇーい」

 ジョーカさん共々楽屋に引っこんだ。なんとなく偉い人専用テーブルができていて、演出と客演が隔離されている。まあ隣にいられてはみんなが落ち着かないのだろうけど、少し寂しい。そこでお茶とお弁当を出してもらってからもう一度スマホを出してみた。そして血の気が引いた。

〈だめに決まってるよね〉

 美紗からの、〈調子どうだ〉への返信だった。今来るのか。
 ひとまず落ち着こうとして弁当を食べ終える。そして見ると、もう一通着信していた。

〈つきあったのなら〉

 なら――何だろう。だが時間だ。それを読んで放ったらかしたまま、俺はざっと衣装だけ羽織って場当たりに出た。実際の舞台で立ち位置や場面転換を音響照明と合わせる作業だ。楽屋に戻ったら、またメッセージは増えていた。

〈気持ち、ないのおかしくない?〉

 律儀に既読にしたが、これからゲネプロ。最終リハーサルだ。本番同様に進行させるため、メイクと衣装を整え俺は舞台袖に入った。
 今日が仕込みだということは美紗にもわかっているはず。文面はまともだし、日付がわからないほど錯乱しているのではないだろう。たぶん意図して今日送信している。俺に含むところがあって。
 ――いいよ、それで。
 美紗のこと俺はとても傷つけたんだし、やり返したければ受けとめる。俺が普通かおかしいかと問われればおかしいのだから。
 だけど美紗が自身のおかしさを棚に上げるのは勝手だとも思った。俺に踏み込んでこようとしなかったのは向こうだって同じなのに、一方的に傷ついたように振る舞うのは悪どい。これだから女はと考えかけるがそうではなく、美紗だからなのだ。おそらくすべて計算ずく。普通になれない自分をギリギリ常識人の範囲におさめて見せていたあいつだから、ちゃんとわかってやっているはずだった。
 それでも遠慮がちな復讐だった。本番にぶつけてこないだけ気をつかっている。
 だって本番は俺たちのものじゃない。お客さまがあってのものだ。それをブチ壊すなんてしたくないんだろう。皆で作り上げた舞台を壊すなんてできないよな。
 美紗は、女優だから。



「打ち入り遠慮します」

 俺はそう宣言して早々に帰った。仕込みの日の飲み会は仕込んで下さったスタッフの皆さんへの感謝の宴。乾杯ぐらいはするのが筋というものだが俺は逃げた。さすがに酒を入れたくなかったんだ、悪酔いしそうで。
 だってゲネ後もメッセージは続いていた。

〈悠貴だからだよ〉

 着替えて、メイクを落とし。

〈悠貴とつながりたかった〉

 楽屋をチェックして明日の入り時間を確認し。

〈つながってたから〉

 居酒屋を断って独り駅に向かうと雨が落ちてきて。

〈生きてたの〉

 電車に乗り。

〈嫌だった?〉

 黙々と美紗と向き合う。

〈つきあってもいいって言ったの〉

 既読がついたのを確認してから送られてくるメッセージ。

〈うそだったんだ〉

 ちゃんと読んでるよ。

〈通じてなかったのね〉

 電車を降りて改札を出ると。

〈さいしょから〉

 折り畳み傘で雨の降る商店街をマンションまで歩いた。

〈わたし〉

 外階段を二階に上がる途中で、怒鳴る声が聞こえた。男の声。この前聞いた声。

「……嘘だろ」

 なんなんだ今日は。皆して勝手すぎるだろう。いい加減にしろよ。

「勝手ばかりしてないで家に戻れ! 好きに生きるなんて許されると思うなよ、いい加減にしろ!」

 夏芽の部屋の閉まったドアの前。俺が考えたのと似たようなことを口にしているのは兄という男だ。そっちが言うのか。
 クソほど腹が立ち、ゆらりと廊下に足を進めたらこちらに視線がきた。さすがに外聞が悪いと考えたか、黙る。

「夏芽!」

 少し声を張って呼んだ。
 たぶん部屋の中で怖くて丸まってるんだろう。この間、店でそうだったみたいに。
 俺の声、聞こえるか。聞いてるか。

「通報していいよな?」

 どうせスマホは手に持っていた。兄に見せるようにかざしてやったら顔色が変わった。

「おいやめろ。なんだおまえ」
「なんだじゃないだろ。女ひとりの部屋の前で脅すような真似してれば警察沙汰で当たり前なんだよ」

 苛立ちを声に乗せ、強く言い切った。これは俺の本当の言葉。
 にらみ合ったらガチャリと鍵が開き、夏芽が転げ出てきた。突っ掛けただけの靴が片方飛んだ。

「――おか、おかえり」

 夏芽が震えながら口にした言葉は、初めて言って言われたもの。だけどあまりに日常だ。
 なんだかおかしくなって俺はくしゃりと笑ったのに、夏芽はドアにつかまったまま、心細そうにする。その表情は留守番の子どもみたいだった。

「――ただいま」

 安心させたくて言ってやった。それから気づく。このやり取りだと、どう聞こえるのか。

「おまえら――」

 夏芽の兄はぎょっとして俺たちを見比べた。これ誤解したな。そう思ったけど別にどうでもよかった。

「――」

 ムスッと黙ったまま足音高く俺とすれ違う。階段に消えるところで舌打ちだけは残したのが未練たらしくて俺は鼻で嗤った。

「かがみん」

 ふえ、と泣き笑いして、夏芽は俺のジャケットの裾をつかむ。

「やめろよ。しわになる」

 その腕を取り、あ、と気づいて夏芽の靴の片方を拾い開けっぱなしのドアの中に置いた。本人も押し込む。俺は入らなかった。

「お兄さん怖いのか」
「……ん」
「昔からだし仕方ないな」
「うちの人みんな嫌い……」
「そっか」

 ドアに体を挟んで話す。小さな声でも聞こえるように、でも距離は詰めすぎないように。夏芽が怯えずに済んで俺もうっかり心を許さない遠さ。今、気持ちをゆるめたら明日の舞台に立てない。

「私、勉強できないから。お兄ちゃん馬鹿にするしお父さんもお母さんも叱るのしょうがないんだけど嫌い」

 暗い目をしてボソボソ言うが、その馬鹿にする、叱るには怒鳴ったり殴ったりが含まれているのかもしれないと思った。そんなことでもなきゃ夏芽も逃げ出さないだろう。
 夏芽に感じていた軽やかさ危うさ、奔放なくせに透徹した視線。それは家の中で自分の殻にこもり身を守ることで生み出した何かしらだった。

「夏芽は大丈夫だ。得意なことがあるんだし、店のお客さんたちみんな、おまえのファンだろ」
「……家から逃げたのら犬だよ」
「逃げて何が悪い」
「……弱いじゃん」
「弱くていいだろ」

 誰だって強くなんかない。今の俺だって気をゆるめたらうずくまってしまうだろう。でもそうしてしまったら美紗に負けることになる。美紗とのやり取りで見つけた自分の心を否定することになる。
 逃げていいんだ。そして逃げるなら逃げ通せ。逃げた先で何かを作れ。それが偽りでも。
 自分自身がその嘘を信じてしまえるほどに突き詰めてしまえば、いつかそれは真実になるかもしれない。

 夜に雨が、強まっていた。