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「僕ねえ、モギリも手伝いに行けないんですよお」

 申し訳なさそうに関根が言った。レギュラーの吹き替えドラマのスタジオでのことだ。
 収録前、レシーバーをポケットに引っかけていたら稽古はどうですかと話しかけられた。順調だよと答えたらそれだ。二週間後の公演では受付にも立てない、と。

「僕も観たいし本番の一日ぐらい関わりたいな、て事務所に確認したら出演じゃないのにNGは駄目だって怒られちゃいました」
「いやまあ、そんだけ期待されてるってことでしょ。忙しくて何よりだよ」
「ですよねー」

 関根はさわやかな笑顔だった。いちいち仕事を鼻にかける奴だと思うが最近それにも慣れてきた。むしろほめられ待ちの犬ぐらいに考えてながめていればかわいいものだ。

「鮎原さんはどんなです。もう怪我は大丈夫でしょ?」

 あまりかわいくないことにまで気が回るのはこいつの嫌なところだった。ざわわと胸が波立つのを隠し淡々と応じた。

「怪我はいいけど体調崩したらしくて。どうせ降板したし劇団休んでる」
「え、マジですか」

 マジだ。いろいろなことを端折ってはいるが、それ以上言うことはない。俺はさっさとイヤホンを片耳に突っ込むと椅子に座り、台本とペンを出して関根を無視した。なんとなく話し足りなそうにされているのが視界に入ったが見ないふり。

 だって何を言えばいい。美紗は目を覚ましたかもしれないが、俺にそんな連絡は入らないはずだしもう無関係なんだ。世界を拒絶することにした美紗は俺のことも拒絶しているのだから。
 そもそも美紗とつながることを拒んだのは俺の方からだった。それはたかが体のこと。だとしても心を殺して必死に普通をよそおう美紗を世界につなぎ止めていたのは俺との何かしらだったのかもしれない。あのぎこちない恋人ごっこ。
 俺からはなんの心も分けてやらなかった行為がそんなクソ重いものだったなんて、思い返しても萎える。そんなギリギリのつながりはほしくなかった。

「――はい、おはようございます。お願いしまーす」

 音響監督の声が降ってきて、こんな思考が今のこの場にふさわしくないのを思い出す。俺は首を回して深呼吸した。仕事に入っているということを忘れてはならない。
 最終回近く、大団円に向かうドラマはすべてが綺麗に納まっていく。俺が生きている世界はそんなふうに「めでたし」で終わったりはしないのに。
 作り物めいた言葉で出来上がっている俺の現実はズルズルグダグダ続いていく。作り事のドラマみたいにはケリがつかないのだ。



 収録をなんとか平静に終わらせ、関根に有無を言わせずスタジオを出た。この後もう一本仕事が、などと呑気な話を聞きたくなかった。昨日CMで会ったばかりの本村さんも今日は何も言ってこなかった。
 午後の空いた電車に揺られると頭がぽっかりと楽になる。釣瓶落としと表現される秋の太陽は日中でも低かった。そりゃあすぐに落ちるだろう。夕暮れはまだなのに陽射しが目にしみた。
 駅前のスーパーでは小間切れ肉とモヤシを買ってみた。よくわからない意地をみせて料理をしてみようと思う。包丁もまな板も使わずに済む肉モヤシ炒め。久しぶりすぎてフライパンを洗うところからだ。冷蔵庫に入っているサラダ油は無事なのか心もとなかった。
 だけど俺は暮らしていかなきゃならない。何もかもを拒んで死ぬなんてことはできないから。

 帰路の商店街に入ってしばらく、俺がすれ違ったのはスーツの男だった。ろくに見もせず通りすがって、突然ゾワッとした。振り返る。こいつ、知ってる気がする。
 相手は気にする様子もなく歩いて行ってしまった。後ろ姿を見送り、俺は心当たりのなさに首を傾げた。知り合いではないと思うのだが。

「お帰り、かがみん」
「――大矢さん」

 〈喫茶・天〉に近づいたところで怒った顔の大矢さんが仁王立ちしていた。隣には険しい目をした白髪のお爺さん。二人して駅の方をにらんでいる。

「どうしたんですか」
「……そこでスーツの奴のこと振り向いてたね。あいつを知ってるのかい」

 ヘの字口で問われた。見てたのか。

「いえ。なんか見たことある気がしたんですけど。誰です」
「夏芽ちゃんのお兄さんだってさ」
「え? ――あ、部屋に来てた男だ!」

 ドアレンズ越しに廊下を横切った奴だった。インターホンを連打し「出てこい」と怒鳴っていたあれは兄なのか。呼び捨てのわけがわかった。大矢さんは顔をしかめた。

「部屋に来た?」
「夏芽が留守の時にドア叩いてたんです。今日は店に?」
「ああ。あたしと熊さんで追い出してやったよ」

 少し得意げに大矢さんが胸を張った。うなずき合うお爺さんが熊さん、つまり熊田さんなのだろう。任侠映画好きの人だ。かくしゃくとしたご老人だった。

「――追い出されるようなことをしたんですね」
「ああ。夏芽ちゃんのこと怒鳴りつけてねえ」

 俺は眉をひそめた。店の扉を開けて中をのぞくと椅子に座り込みカウンターに突っ伏した夏芽の背を先生がさすっていた。そっと呼びかける。

「夏芽」
「ああ各務君」

 こちらを向いた先生は悲しげだった。夏芽に怪我などはなさそうなので本当に大声を出しただけらしい。居合わせた客はみな常連ばかりのようでそっと見守っていた。
 今ここで俺だけが、夏芽の抱える事情を何も知らないのかもしれなかった。いたわられる背中は小刻みに震えながら大きく呼吸を繰り返していた。

「ほら夏芽君、各務君も来てくれた。みんないるから、もう怖いことはないよ」

 先生が子どもをあやすように言い聞かせた。怖くない。
 意味がわからなかった。あの男は兄だというのに夏芽を怖がらせるのか。夏芽に怖いものがあったのか。

「かがみん……?」

 のろのろと気だるく動く夏芽は血の気のない白い顔をこちらに向けた。ぼんやりした瞳が俺を捉え、それからすぐに先生を見上げる。すがりつく視線が先生と俺の間をゆらゆらとしていた。


 夏芽は八田の家でみそっかすなのだそうだ。
 なんとか落ち着いてきた夏芽の背から手を離し、先生はコーヒーを淹れ始めた。

「夏芽君は陶芸の才能があるんだから、それでいいと思うんですけどね。おうちの人たちは認めてくれないんですよ」

 小声だが、こんな話は後ろの常連客みんなが知っていることなのだろう。誰も気にする風もなかった。
 俺と夏芽が並んで座るカウンターに先生はコーヒーを二杯そっと出してくれた。前とは違うマグカップ。でも同じ青だ。

「これ夏芽の作ったやつ?」
「……うん」
「綺麗な色だな。軽いし口に当たるところが柔らかくていい」
「……釉をぎりぎりまで薄く掛けるんだよ。重いと使いづらいし」

 さっきまで震えていたのに焼き物の話はポツポツと答える。淹れてもらったコーヒーを自分の作った器で一口飲み、ホッと息を吐いた夏芽はへにゃりと笑った。

「ごめんなさい先生、もう平気」
「休んでなさい。別に今、することないから」

 そう、夏芽はこれでも店員だった。俺の隣に座っているのは本来おかしいのだが、たぶんこれがこの店での夏芽の働き方。
 常連のご老人方を迎え、話を聞き、一緒に笑う。それを目当てに通ってくる客もいるのだろうし、だから夏芽が危機になれば一丸となって守ろうとしてくれる。ご近所みんなの孫という立ち位置なのだろう。

「じゃあこれ飲み終わるまで」
「ゆっくりでいいんだよ」

 夏芽はいつもほわん、と軽かった。その中にずっと感じていた危うさは家族からの否定に由来するのだろうか。両手でカップを持つ夏芽は子どものようで、ブラックコーヒーが似合わなかった。
 あの兄が何をしに来たのか訊かない方がいいのかと遠慮していたら本人がわざわざ俺に向かって言う。

「お兄ちゃんさあ、私に結婚しろって言うんだ」
「……結婚」

 まじまじと隣を見てから繰り返した。あまり夏芽とつながる単語ではなかった。考えてみれば俺と同じ年頃の夏芽に不思議ではない提案なのだが、本人にそんなつもりがあるのかどうか。すると後ろから大矢さんが憤慨する。

「政略結婚てやつだよ。家の役に立て、てそんな言い方あるかい」
「……おまえんち、いい家なの」

 踏み込んだ話をしていいものなのか迷った。でも大矢さんが口にするぐらいだし、言われて無視するのもおかしいし、少し知りたい気もするので尋ねてみる。夏芽はつまらなそうに口をとがらせた。

「べつにぃ。小さな会社やってるだけ。今どき一族経営なんて、むしろ小規模でしょ」
「や、俺は経営わからん」

 しがない声優ですので。そう言って逃げたら夏芽は笑った。

「私もわかんない。経済学部とか行った方がいいかと思ったんだけどね。おまえはそんなのいいから教養を身につけろって言われて。お嬢さま高校は落ちたけど、大学受験でそれっぽい所につっこまれたよ」
「嫁に出すのに恥ずかしくない学歴だけあればよかったんだとさ。ご両親のことを言っちゃなんだけど、娘をなんだと思ってるんだか」

 大矢さんは立ってきて夏芽の頭をよしよしとなでた。
 指定された大学学部以外なら進学させないと言われたそうだ。それに抗うすべなど高校生の夏芽にはなかった。大学卒業後もコネで就職を決められてしまったのだがすでに成人、先生が相談に乗って実家から逃げ出し今のような形になったそうだ。

「おまえもたいへんだったんだなあ」

 俺は大矢さんの真似をして夏芽の頭をなでてやった。もふもふ。こんなのら犬みたいな奴がお嬢さまの型にはまるわけないじゃないか。

「お兄さん、お見合いしろって言いに来たのか。夏芽が奥さまとかやってられるわけないだろうに」
「うるさいなぁ」
「ろくろ回してるの、すごいと思ったよ俺は。そっちで生きてけばいい」

 小ぎれいな若奥さまより泥と土を相手にしている方が夏芽らしい。だがそれでいいと思うのは今の夏芽しか知らないからで、無責任な言い草なのだろう。本当に夏芽が幸せになるために必要なことなど俺にはわからない。
 でも夏芽が望むのはたぶん先生のいるこの店で働くことで、裏のアトリエで粘土と向き合うことで、夏芽の幸せは夏芽自身が決めればいいのだった。俺はつとめて今の生活の話を振った。

「本焼きだっけ。どうだった? うまくいったの」
「まだ窯を開けてないもん」
「なんで。俺のお皿どうなったのか見たい」
「急に冷えたら割れるでしょ」
「そうなんだ?」

 じっくりゆっくり、自然に冷めるのを待つのだと言われた。次の定休日にのんびり開けるつもりらしい。

「ふうん。楽しみだな」
「……かがみんは本当に何も知らないのだねえ」
「そりゃ陶芸なんて知るかよ」

 夏芽がいつもの口調に戻ってきたので俺は安心してコーヒーを飲み干した。財布を取り出したのだが先生はお代を受け取ってくれない。注文もしていないのに勝手に出したのはこちらだから、といたずらっぽく言われた。そう言えばそうだ。
 夏芽のためにスルッと気をつかえるスマートなやり口がさすがで、俺はありがたくご馳走になることにした。今度何かの時に働いて返すことにしよう。

「んじゃ帰ります」

 ぬるくなった豚小間とモヤシの袋をつかんで俺は立ち上がった。大矢さんが一緒に店を出る。

「すっかり長っ尻しちまったなァ」
「江戸っ子な言い方ですねえ」
「……なあかがみん、夏芽ちゃんもらっちゃいなよ」

 突然の提案に息が止まった。大矢さんはからかうような口調だが、目はわりと真剣だった。

「……何をいきなりそんな」
「だってさ、先生を想ってるよりァずっといいだろうに」

 俺は目を点にして立ち尽くした。あいつ、バレてるんじゃないか。大きなため息をつくと大矢さんはヒーヒー言って笑う。

「先生は気づいちゃいないよ。あの人は奥さんしか見てないからね、本当に娘か何かとしか思ってない」
「ならまあ、いいですけど」
「憧れの年上の男、てのも卒業しなきゃ。というか優しい父親をほしがってるだけだしさァ。あの子もかがみんには懐いてるし手頃だろ」

 それもひどい言い方じゃないか。ちょうどそこにいるから、とは。保護犬の引き取り手みたいなものだとしても、もっと厳重に吟味されるべきだった。