「はーい。じゃ確認しまーす」

 映像が止まり、音響監督の米沢さんの軽薄なダミ声がスピーカーから降ってきた。しんと固まっていたスタジオ内の空気がゆるむ。
 今の時間帯はわりと人が多かった。本線の収録ではなくモブとガヤ寄り。外にも待機組がいて入れ替わり立ち替わり細切れに録っていく。編集が大変だ。
 これだと芝居どころじゃないと思う。別録りのセリフ相手にタイミングだけで演じなくてはならないことも多いのだ。
 そんな環境でド新人はどうやって演技を磨けばいいんだろう。起用する側だって新人たちが信用ならなくて困るはずだった。俺も若手ではあるが、新型感染症で業界が様変わりする前にわずかでも制作サイドに食い込んでおけて本当に助かった。

「オッケーでーす」

 このノリが軽いおじさん音響監督、米沢さんは吹替えによく俺を使ってくれる人なのだが何故か悪役ばかり振ってくる。今日もだ。意味がわからない。
 今回俺は原子力潜水艦をジャックするテロリストの一味の親玉――を裏切る部下だった。

『だって各務さんボス声じゃねえもん』

 そう以前言われたことがある。なんかわかる気もする。俺にそんな貫禄はない。見た目もヒョロいし、この業界で二十七歳なんて若造だ。

「各務さんはこれで上がりっすね。ありがとうございました」

 名指しで言われた。副調整室(サブ)を振り向くとマネージャーが来ていて、くるくると指を回している。急げ、てことか。
 俺はイヤホンとレシーバーを外すと他の声優たちに軽く頭を下げた。伸びた前髪が目にかかった。

「次あるんですか」

 隣にいた一年目の若手が微妙なうらやましさをにじませた小声で言った。

「代役で。熱出した奴がいてさ」

 短く答えて俺はさっさと防音扉を出た。
 副調に顔を出すとベテラン男性マネージャーの本村さんが待っている。その横で俺は米沢さんに向かって挨拶した。

「お疲れさまです、今日はありがとうございました。お先に失礼します」
「おーう、お疲れさまっす」

 音監以下、プロデューサーや翻訳家、ミキサーなどの技術職、そして各事務所のマネージャー。誰がなんだか把握しきれてはいないが問題はなかった。十把一絡げに頭を下げて俺はそそくさと出口に向かう。扉を出る時、もう米沢さんの次の指示が飛んだ。

「そのままの流れで78分からの管制室、マケインは別線で録ってるんでデントと管制官A――」

 俺など元々いなかったように現場は進んでいく。今日は代役に向かうが、体調を崩したのが俺ならば逆に誰かが俺の代役に立つ。
 いくらでも取り替えのきく声優、各務(かがみ)悠貴(ゆうき)。それが俺だった。



「本村さん、来てくれたんですね」
「そりゃ若手の先出しねじ込んで知らん顔は駄目だろ。録り順上げてもらったんだから。各務くん一人で出てくるの?」
「……嫌です」

 今日の仕事は映画一本だけのはずだった。だがスタジオに向かっていたところでスマホが鳴り、十六時~十九時で急遽代役だという。同じ事務所の奴が高熱で、ボイスオーバーにと。
 ちなみにボイスオーバーとは完全な吹替えではなく裏に原語が残っているやつのことだ。ニュースやドキュメンタリー系によくある。

「向こうにも代打の謝罪するから。そこまでは行く」
「お疲れさまです」
「だろ。俺はそこで帰るから、後はよろしくな」

 本村さんは何でもなさそうに笑った。その後だってスタジオをハシゴするか事務所に戻るか、歩き回るんだろうに。
 もう六十がらみのくたびれたおじさんなのだが、俺はこの人に頭が上がらない。俺をこの業界に拾ってくれた人だ。

「昔はなあ、熱なんかあったって、声が出るなら来いって感じだったんだぞ」

 早足で地下鉄駅に向かいながら本村さんは昔話を始めた。こういうのも知っておくと何かの役に立つかと聞くことにしている。まあ、これまでは利用できる場面などなかったが。

「この業界、根っこは体育会系ですよね」
「喉ゼロゼロで声出ねえって言ったら、ホントにしゃべれない状態か連れて来いって現場で証明させられたこともある」
「それはブラック過ぎでしょ」
「マジだぞ。感染症で世界は変わったなあ」

 その前からじわじわと変わってきていたのだが、確かにアレで業界は一変した。
 昔々、映画一本の吹替えは十時から入って二十二時までスケジュールを押さえられるのが普通だった。大抵は十八時頃に終わるので、その後の打ち上げ込みの拘束時間だと言われていた。
 新人なんて持ち台詞は冒頭に一言だけでも、それを録り終えてから何時間もスタジオに詰め、最後にガヤ録り。俺もそういう目にあって非効率的だと不満を感じたことがある。
 だがベテランの演技を見ていられたのは今思えば財産だった。元が演劇畑じゃない俺は、そうやって声優の台詞回しに慣れていったんだ。

「また芝居出るんだな。NG入ってたじゃないか」

 思い出したように本村さんが言った。先の予定を見てくれたのか。二ヶ月後の客演舞台のスケジュールNGはまだ入れたばかりなのに。

「いつもの劇団ですけど」
「彼女のいる?」

 はあ、まあ、と曖昧に俺はうなずく。一応彼女がいる劇団だ。だがその女、美紗は、本当に付き合っているのか微妙な気分になることも多い相手だった。

「今日も夜、稽古です」
「そういう場数は踏んだ方がいい。出来が良さそうならスタッフにチケット撒いとけ」

 ちゃんと演劇をやっているんだというアピールは、まともな芝居するから仕事回しても安全だというプッシュだった。だけど本村さんは違うことも要求する。

「たまに落語もやれよ。素人落語会をさ。俺はおまえの(はなし)好きなんだよ?」

 本村さんが俺を拾ったのは落語が縁なのだが、そう言われても。
 俺にとって落語は微妙に喉につかえる棘みたいなものかもしれない。俺が舌先三寸で生きるようになった元凶。おかげで会話に口ごもらず適当な返しができるようになったとは思う。
 だけど俺の言葉は空虚なままだ。
 しゃべってもしゃべっても芸の世界は俺には遠い。

「――落研だった人たちも、仕事がありますから」
「ああ、働き盛りの世代になってきてるか」

 忙しいよなあ、と本村さんは苦笑いした。




「――おはようございまーす」

 夜、仕事上がりで客演舞台の稽古場に顔を出した。
 小声で挨拶しながらドアを開けると、集まった連中が台本を手に立って軽くセリフを合わせていた。立ち位置と動きを固めていく、半立(はんだ)ちという稽古だった。

「おはっす、各務。忙しいとこ悪いね」
「ぜんぜんです。今日はたまたま急な代役が入ったんで、遅刻ですみません」
「たまたまとか、またまたぁ」

 冗談のようなことを真面目に言ったのは劇団を主宰する中原譲佳(なかはらのりよし)、通称ジョーカさんだ。いや、もう芸名も『じょうか』読みにしてるんだったか。誰もが『ジョーカさん』としか呼ばないのでわからない。
 ジョーカさんは五十代の中堅声優だ。アニメの方で代表作がいくつかあるし、ちゃんとレギュラーも持っている。
 なのでこうして『劇団ジョーカー』なんてものを立ち上げた。自分が演出して芝居を打てば業界の関係者が観に来てくれる。それを目当てに俺みたいな若いのがほぼ手弁当で客演する。声優になりたい研究生が月謝を払って入団する。ジョーカさんにも箔がつく。公演を打って儲かるなんてことはまったくないが、そうやってこの世界はまわっていた。

「あんま進んでないから、気にすんな」
「これ二場ですね」
「まだほとんど自由にやってる。一場のほうは動きつけたから、代役から聞いて」

 ぼそぼそ話すジョーカさんは場面の切れ目で「はい暗転」と声をかけた。

「ちょい休憩。各務さん入ります」

 劇団員に対しては客演の俺をさん付けで紹介する。そのへんはちゃんとした大人なのだ。全員から「おはようございます!」と元気な声が返ってきた。

「悠貴」

 するっと近づいてきたのは劇団員の鮎原美紗(あゆはら みさ)だ。つまり、俺がいちおう付き合っているらしき女。

「仕事、夕方で終わるんじゃなかったの」
「いきなり別件で。マネージャーに連行されたんだ」

 いちいち美紗に連絡する必要などない。向こうはどうせ稽古ぎりぎりまでバイトしているのだから。稽古に遅れることはジョーカさんに言っておけば十分だ。

「そうだったんだ」

 美紗はニコッとして離れていった。俺の代役に立ってくれている若手が待っていたからだろう。まだ文句があったのだとしてもプライドが高いので後輩に弱みは見せたがらない。

「……各務さん、まだ鮎原さんと付き合ってるんですね」
「ん、まあ。なんで」

 代役の内田くんに訊き返すと、「いえ」と濁された。

「えっと、まだラフですけど、一場を」
「ああ、ド頭から頼みます」

 舞台に設定してある場所に移動して、さっさと動きを写させてもらう。
 ――まあ、陰で言われていることは想像がつく。美紗は面倒といえば面倒な女だ。だが同時に、とても面倒くさくない女とも言えるのだった。


 時間貸しの稽古場は二十一時完全撤収だった。ジョーカさんと劇団員、研究生はこれから飲みに行くというが俺は遠慮する。明日の仕事が朝イチだからと言い訳したが、毎回付き合う金がもったいないというのが本音だった。

「私も帰るね」

 美紗がこれ見よがしに隣を歩きだした。もしかして「まだ付き合ってる」の話が聞こえていたのか。メンバーへのアピールのために来たように思えた。

「あ、俺マジで帰る。明日の台本チェック終わってないから」
「えー、だめじゃない。ちゃんとしなきゃ」

 ふふ、と嬉しそうに笑う。美紗が俺に求めているのは「声優であること」だ。だから仕事があると言えばなんでも通る。
 有名でもない。代表作もない。なんとか食えているだけの声優、各務悠貴。それでも声優を志望して何年も劇団員をやっている美紗からすれば、隣にいるだけでステータスらしい。そのせいか恋人ごっこ感がぬぐえない。
 ジョーカさんに声をかけられ初めて客演した舞台の打ち上げで、美紗から告白された。当時フリーだったし断る理由もなかったので付き合って三年。ぶっちゃければ恋愛感情はほぼない。向こうが来たから拒んでないだけ。クズと言われればその通りだった。

「今日は私もスクーター」
「そうか。駐輪場?」
「ん。駅前」

 美紗は基本的に電車に乗らない。潔癖症だからだ。手すりも吊革も触れないことはないが、できるだけ避ける。
 俺に会う時は我慢して電車にするのに今日はそんなつもりじゃなかったらしい。そう告げられて妙にせいせいした。

「――今回のおまえの役いいな」
「え、そう?」

 駅まで並んで歩きながら他愛のない話で持ち上げる。たぶん、せいせいしたことの罪ほろぼしに。

「セリフ多くはないけど、ビシッと場を引き締めて話を動かすだろ。美紗っぽいしハマってる。今日軽く立っただけでも美紗に目がいった」
「ほんと? 嬉しい。でもそれは悠貴だからでしょ、お客さんはどうかな」
「まあ、そっか」

 彼氏という立場上のものだとそっちから言うんだ。でも確かに気は遣っている。こうして歩いていても手をつなぐでもなく、むしろ肩がぶつからないように気をつけていた。
 美紗は俺に対しても他と同じく潔癖だ。それを知る劇団の男どもは噂しているのだ。「鮎原ってセックスなんかできるのか」と。
 結論から言えば、できる。できた。する。
 だけど、キスはしない。口にもどこにもしない。他人の唾液は我慢できないそうだ。最低限の接触にとどめて交わるのが俺と美紗。それもたまにだけだが、それでかまわなかった。俺もそんなにそっちに執着はない。ねっとりされるより楽でいいぐらいだ。でもたまに互いに義務でやってる気がしてむなしくなることがある。
 この女と俺のつながりって、いったいなんなんだろう。




 駅からの商店街を歩いて十分ほど、マンションというには小さい古ぼけた三階建て物件の一部屋が俺の家だ。二〇一号室。
 外階段を二階へ上がると、四室しかない短く薄暗い廊下に人が座り込んでいて俺はギョッとした。
 隣の部屋の前だった。膝を抱え顔を伏せている。紺色の汚れたジャージの上下で、肩ほどに伸ばしたボサボサの髪。
 ――女、かな。体格的に。あれが学校のジャージなら中学生男子の可能性もなくはない。だけど夜十一時近くだ。ドア前の廊下に座り込む汚ジャージの人だなんて、事件性しか感じられなかった。
 ネグレクトの子どもだろうか。だけどここは全室1Kのはず。ファミリー向けじゃない。ならカップルのDV?
 知らんぷりして部屋に入ったら明日以降に警察から話を聞かれるかもしれない。考えた末、俺は観念して声をかけた。

「あの、大丈夫ですか? 廊下で何してるの?」

 眠そうな顔を上げたのは成人女性だった。二十代真ん中ぐらい。パッと見は怪我などなさそうだ。

「あ……えーと、座ってます」

 その女がぼんやり答えて、俺はすごく冷たい顔をしたんだと思う。相手がハッとなって言い訳を始めた。

「あの、あの。部屋に入れなくて。カギなくしたみたいで」
「え、そこの部屋の人?」
「そう」

 コクコクうなずく女は隣人なのか。ひとまず安堵した。事件じゃない。だけど新たな問題が発生してしまった。

「鍵……不動産屋に連絡するにしても」
「朝までダメだし。じゃあ寝てようかなって」
「嘘だろ」

 こいつ本気か。
 どこか泊まれる所を探してほしい。深夜営業のファミレスでもなんでも。ここは住民しか入ってこないだろうけど、外廊下で寝るな。

「だってお金ないし」

 へらへら、と笑われた。いい大人が何を言ってるんだ。だがゴソゴソと肩かけカバンから出した財布には本当に数百円しか入っていない。

「えええ。いや、その、なんとかペイとか」
「めんどくてやってない」
「見た目も所持金も中学生……」

 思わずつぶやいたら口をとがらせてきた。

「これ高校のジャージだからね?」
「知らないって」

 困り果てる。何をどう言えばいいんだ。予想外の状況に対応する語彙を俺は持っていないのに。
 その高校ジャージをよく見れば、汚れは泥のようだった。何をしてくればこうなるんだろう。なんだか雨上がりに散歩してきた犬を見ているような気分。そのワンコは不満そうに俺をにらんだ。

「だってこんな大人の女に失礼じゃない」
「大人の女……って廊下で寝るの」
「必要ならそんなこともできるんですぅ」
「外飼いの犬じゃないんだから」

 つい言ったら女は俺をにらんだ。ムッとしてるけど眠そうな顔。

「じゃあ、玄関貸して」
「は?」
「お隣さんなんでしょ。ここがダメなら玄関で寝かせてください」
「嘘だろ」

 この短時間で二度目の「嘘だろ」だ。
 本当になんなんだこいつ。むしろ少し心配になってきた。こんなんでちゃんと生きていけるんだろうか。ていうか俺、なめられすぎじゃないか。そりゃ何もしないけどさ。

「せめてお金貸してぐらいにするべきなんじゃ」
「お金があっても、どこに行けばいいの」
「……ネカフェとか、ファミレスとか」
「近くにそんなのないじゃない」

 確かに。けっこう歩いた街道沿いまで行かないとファミレスもない。ネカフェなんて電車案件だ。

「今日頑張ったんだよねえ。もう疲れたし、眠いから遠くに行くのは無理」
「それで初対面の隣人に玄関貸せ? ありえないよ」
「じゃあここにいる」
「やめろ」

 俺は頭を抱えたくなった。なのに話は終わったとばかりに座り直される。

「せめて警察にでも行ってくれないかなあ」
「やあだ」

 そうだよな、交番も遠いって言うんだろうな。ていうか自分で身を守る気がないからこんな風にしているわけで、助けを求めて行動しようと思ってないんだこの女。どう育てばこうなる。

「……わかった。三和土になら入っていい」
「たたき?」

 良心に負けて申し出てみたのに、間抜けな問いを返された。三和土も知らな――現代日本ではあまり使わない用語だろうか。俺は落語をやっていたせいで時々常識がずれているから。

「靴を脱ぐところだよ」
「ああ。つまり玄関」
「そうなんだけどさあ。あ、床には上げないぞ」
「ふうん? 変な線引き」
「おまえみたいのに変って言われたくない……」

 うめきながら鍵を開け、中をのぞいて考える。何もまずい物、置いてないよな。

「ほら、どうぞ」
「ありがと」

 玄関すぐは台所だ。古い建物なので、最近よくある廊下脇のキッチンではなく小さな部屋だった。出しっぱなしだった靴を片付けてやったら律義にペコリとされた。

「ここでうずくまってるね。外より安心かも」
「安心の基準がわかんないよ……俺、各務です」

 いちおう名乗った。表札も出してないからお互いをまったく知らないんだ。

「あ、名前? 私ナツメでっす」
「夏目? 文豪的なやつだ」
「ぶんごう?」

 漱石がわからないのか。すると首をかしげながらためらいもなく三和土に座られて少し罪悪感に駆られた。さすがに狭い。

「えーと、そのへんの床にはみ出してかまわないから。腰痛めるぞ」
「――かがみん、やさしいね」

 にへら、と笑われてしまった。
 くそ。何が「かがみん」だ。
 俺はただ押しに弱いだけ。押されついでにタオルケットまで貸してやった。だって九月下旬なんてもう明け方は冷える。タオルケットをかぶって夏目は嬉しそうに丸まり横になっていた。
 でも俺は、しみじみ後悔した。ここにいられるとシャワーが使いづらいことに気づいたんだ。ユニットバスの中で体を拭き服を着るのは狭くて苦しい。捨て犬並みとはいえ、いちおう女の前を裸で横切ることはできなかった。



「タオルケット、洗って返すー!」

 俺が仕事に出る朝九時に夏目のことも追い出した。
 部屋との境の引き戸は閉めていたのだが、磨りガラス越しに台所が気になって俺は微妙によく眠れなかった。だが夏目はスーカスーカ寝ていたようで、そのたくましさに舌をまく。
 朝の廊下で手をヒラヒラして見送られるのが尻尾振る犬に思えた。丸めたタオルケットを抱える夏目は笑顔だが、とんでもないものを餌付けしたかもしれないと後悔した。さすがに自分だけ食べるのは気が引けてコーヒーとロールパンは恵んでやったのだった。
 電車に乗ったらスマホがメッセージの着信を告げた。また何か仕事の変更じゃなきゃいいんだがと確認する。
 違った。橘さんだ。

〈ゆんべ、えいがみた
 おまえの声がしてきぶんわるかった〉

「……知らないって」

 呆れてつぶやいた。
 じゃあ字幕にして観てくれよ。勝手なこと言ってくる人だ。
 この人は橘基(たちばな もとい)。またの名を松葉家(まつばや)さの助という。二ツ目(ふたつめ)噺家(はなしか)だ。俺の落研時代の先輩だった。

〈あいかわらず
 それっぽいなおまえ〉

 返信してないのに連投されてきたその言葉に、ムッとしながらも手足の先が冷たくなった。
 それっぽい。
 そしてまたポコン、と受信。

〈おまえの声でふきげんになったら
 かのじょすねたし〉

「は?」

 言いがかりだろ、それは。仕方ないので返信する。

〈彼女いるんですね〉
〈いるわ〉
〈ていうか何をみて〉
〈さばくのていこく3〉

「……」

 くそ。かつがれてる。
 そんな映画ないだろ。少なくとも俺は出てない。第三部が作られるような人気映画、やれば覚えてるし。

〈それ俺じゃないです〉

 素っ気なく返したら、またポコンと来た。

〈たまには寄席こい〉

 それきりメッセージは止まった。

「……勝手だな」

 ため息とともにつぶやく。
 昔から橘さんは自由な人だ。自分の考えを臆せず人にぶつける。そのせいで落研の先輩たちと揉めることもあった。あげくに「芸と向き合ってみるわ」と師匠に弟子入りして大学を辞めた。
 そんな人だから俺の仕事の何を観たのかわからないが「それっぽい」という評価でえぐられる。そもそも本当に観たのかどうかもあやしいが、あの人が言うならそうなんだろう。
 だって、自分自身そう感じている。



 俺が落語を始めたのは大学に入ってからだ。それまではほぼ聴いたこともなかった。小学校の授業で『寿限無(じゅげむ)』ぐらいなら紹介されたかもしれない。

『そこのカッコいい新入生、口がうまくなればもっとモテるぞ』

 そう言って落研に俺を勧誘したのが橘さんだった。
 無地の着物に角帯(かくおび)をさらりと締めて雪駄(せった)履き。ユニフォーム姿の体育会やチャラチャラしたテニスサークル、あるいは地味で真面目そうなナントカ研究会があふれるキャンパスに、彼だけ違う空気をまとって見えた。

『……俺カッコよくないです』
『いや見た目わりとイケてるよ? でもしゃべるの苦手だよな』
『はあ』

 なんでわかるんだ、と思った。そんなにうつむいて歩いていただろうか。陽気でグイグイくるヤカラと、陰気でも好きなものへの熱量はすごい連中。新歓に沸き返る中で所在なかったのを見透かされた。
 落研だというのに、彼の鋭い目は人を笑わせようとして見えない。誰かと向き合って何を言えばいいかわからなくなる俺には嫌なタイプだと思った。なのに。

『いやいや、落語ってね、もう出来上がってんのよ』

 橘さんは薄ら笑いで言った。

『自分が何も持ってなくても、そこにある言葉をしゃべればいいのさ。先人の知恵をお借りできるから』
『そこにある言葉』
『人あしらいってもんは、形式を踏襲するところからだよ』

 そうして引きずられていった俺は、自分一人で顔を右左(かみしも)に振り会話する落語のやり方に初めてふれた。人前でしゃべるなんてとんでもないと思っていたが、決まった噺を覚えるならできると期待した。口下手だがそれならば。自身には何もなくても、という橘さんの言葉が耳に染みこんでいた。人と話すにはパターンを覚えればとそそのかされた。
 それは俺を侵す毒だった。



 朝イチ十時の仕事は現在唯一のレギュラー。
吹き替えの韓国ドラマは作り物めいた恋愛で、気が強いけど抜けたところのある庶民の女に御曹司が惚れてしまう黄金パターンだった。そして俺は御曹司の会社の社員だの、嫌みな親族だのを毎回いろいろこなしている。

「あ、各務さん。おはようございます!」

 珍しく動画担当の女性マネージャーがスタジオに来ていた。座間さん。アニメ担当の人だが、俺は外国アニメの吹き替えを少しやったことがある程度なのであまり馴染みはない。外画の仕事場にどうしたと思ったら、数枚の紙を渡された。

「オーディション資料です。スケジュール、おとといデスクからお伝えしましたよね」
「あ。そうか、あれアニメでしたね。あの話と座間さんがイメージつながってなくて、今きょとんとしてました」
「もう、しっかりして下さいよう」

 けらけら笑い、座間さんは他のメンツにも資料を渡しにいった。ここはうちの事務所がユニットでやっている現場なので所属タレントが何人もいた。それで直接来たのか。
 ざっと目を通した。『人みしり第七王女は名探偵』。漫画原作だが大元はウェブ小説。女性向け。読んだことはない。受ける役は悪事を女主人公に暴かれる宰相。ベタベタな悪役だ。ちょこまかと出番がありそうなのでギャラ的に助かるかもしれない。作品レギュラー扱いになれるだろうか。
 声優は一話参加していくらとギャラが決まっている。セリフの量や役柄の重要度じゃないから、毎週モブで出演できるとありがたい。

「各務さあん、おはっすう!」
「お。おはよっす」

 声をかけてきたのは今日の吹き替えの方で主演している関根という奴だった。事務所は違う。だがジョーカさんの劇団の人なので彼がプロになる前から知っていた。
 舞台を観たマネージャーから声がかかり、劇団と掛け持ちで事務所に所属。アニメにも起用され、そこそこ売れ始めるという理想のルートをたどるシンデレラボーイ。忙しくなってきちゃって、と今回の舞台には出ないそうだ。
 関根には美紗が内心かなり苛々しているようだった。劇団の後輩が仕事してるからって焦っても仕方ないのに。

「それ僕も受けます」
「へえ。俺アニメやってないから厳しいだろうけど、もしご一緒できたらよろしく」
「いえ、こちらこそ」

 言いながらカバンをごそごそする。出したのは同じ資料だった。だが役が違う。

「僕、これで」
「イケメンだ。いいじゃない」

 そう持ち上げて笑っておく。関根はたぶん自分の方がアニメをやっているとマウントしたがっているだけ。俺もこういうあしらいは本当にできるようになった。
 関根が受けるのは男主人公の上司である騎士団長だった。冷静沈着ながら包容力があってというタイプか。

「ヒーローは回ってこなかったっすね。遠いなあ」
「アニメのメインなんて俺は一生関係ないよ、きっと」

 適当に流しながら関根の持つキャライメージ絵に目を落とした。表情ラフには微笑んだ顔もあるが、にらんだり叫んだりが並んでいる。その中の真っ直ぐこちらを見る試すような視線がふと橘さんを思い出させた。
 すごく腹が立った。



 吹き替えドラマの収録帰り、午後の商店街はにぎやかだった。
 まだ小学生もいない時間なのに、働いていておかしくない歳の大人がうろうろしていた。みんな何者なんだろう。でもたぶん俺もそう思われている。
 駅に近い小さなスーパーで惣菜と野菜ジュースとレタスを買った。包丁も何も使わずに最低限の栄養を摂ることを考えて採用した方法。丁寧な暮らしとほど遠いこういう生活に特化していくにつれ、むしろ生きるという根源に迫っている気分になる。稼ぎ、食い、寝る。それだけ。

「――かがみん!」

 道端から唐突に知った声がした。

「夏目」

 今朝、俺の部屋にいた女だ。そう言うと色気があるが、事実はただの妖怪・高校ジャージ。
 しかし今はジャージじゃなかった。白い長そでTシャツに黒く長いエプロンでカフェ店員のような格好だ。というかそうなんだろう。夏目の後ろに〈アトリエ喫茶・天〉の看板があった。

「仕事だって出ていったのに、もう帰ってきたんだ。かがみん何屋さん?」
「……自由業」

 としか言えない。無名の声優にかける言葉なんてうわべだけの「すごいね」ぐらいしかないから。

「鍵、なんとかなったか」
「あ、ああ、うん」

 話を変えたら夏目の視線が泳いだ。微妙な反応だったが放っておく。これ以上迷惑をこうむらなければなんでもよかった。

「そうか。じゃあ」
「あ、暇ならコーヒー飲んでって。お礼ね」

 帰ろうとしたらヒョイと腕をとられた。返事も聞かずに開けた店のドアの中から香ばしい匂いがした。

「いや俺は」
「おや夏芽ちゃん、熊さん送ってったと思ったら次はイイ男を引っぱりこむのかい」

 年配の客がカウンターから振り向いた。その落語みたいな言い方に俺の足は止まってしまう。熊さんて。じゃあこの人は八っつぁんか大家さんか。夏目は俺をぐいぐいと店に押しこんで、その人の横に座らせた。

「この人、かがみん」
「ああ、言ってたお隣さんか」
「そう。お礼にごちそうするの。先生、コーヒーお願いします」

 夏目はカウンターの中に声をかけた。そこにいたのは穏やかなたたずまいのお爺さんだった。ダンディな人だが、マスターというには作務衣なのが微妙。先生と呼ばれたその人はゆったりと俺に訊く。

「ホットコーヒーでいいですか」
「あ、はい。お願いします」

 別に奇をてらうつもりはないからいいが、確認されてみれば夏目が決めるのはおかしい。

「夏目、ここの店員なんだ?」
「そうだよ」

 夏目は慣れた様子でおしぼりと水を出してくれた。いや、「水」ではなく「お冷や」というのがぴったりくる。そんな雰囲気の店だった。
 黒光りしたテーブルと落ち着いた赤のソファ。常連なのだろう老人たちが、昭和の時代からそこにいたかのようにのんびり座っていた。一角には天然木の棚があり、皿やカップ、花瓶などが並んでいる。ギャラリーなのだろうか。そういえば〈アトリエ喫茶〉となっていたが。

「焼き物も売ってる喫茶店だよ、ここは」
「へえ」

 隣の大家さん――仮にそう呼ぶことにする――が俺の視線に気づいて言った。この商店街はいつも通るが、喫茶店になど入らない。店の存在にも気づいていないぐらいだった。

「夏芽ちゃんを泊めてくれたんだって? こんな子だからねえ、ほっとくと本当に外廊下で寝るから」
「はあ。さすがに何かあったら寝覚めが悪いんで部屋に上げましたけど」
「上がってない。玄関だし」
「床にはみだしていいって言ったろ」

 実際、朝見たらほぼ床に伸びて寝ていたじゃないか。低く言い合うのを大家さんはニコニコながめる。

「いい人がお隣でよかったよ。でも夏芽ちゃん、こんなカッコいい男だから転がりこんだんだろ? 隅に置けねえなあ」
「じゃあ真ん中に置いてくださーい」
「そういうことじゃあないんだよ、与太(よた)や」
「ふ」

 会話がまるきり落語だった。
 与太郎。落語に登場する間抜けで周囲を困らせる人物の名前は、夏目にはぴったりかもしれない。俺が小さく笑ったら大家さんがこちらを見てニヤリとした。

「かがみんは落語がわかるのかい」
「はあ。学生時代落研でした」
「そりゃあいいねえ」

 どうやら大家さんは落語好きのようだ。嬉しそうにまなじりを下げるが、夏目は唇をとがらせてブーブー言う。

「なんで私が与太郎? そんなにおバカなつもりないですけど」
「いいじゃないか、与太郎ってな愛される馬鹿だって教えたろう」
「どうぞ、本日のブレンドです」

 そこでマスター――先生がそっとカップを置いてくれた。たっぷりしたマグカップは海のような青だった。

「あ、これ私の器」
「え?」
「夏芽君のお客様だからね」

 先生が微笑む。

「夏芽君は陶芸家なんですよ。うちでも作品を売ってるので、よければ買ってやってください」
「陶芸……」
「先生はね、喫茶店のマスターだけど焼き物もやるの。美術の先生だったんだ」
「私のは趣味で。昔は裏のアトリエで子ども相手に教室をやっていました」

 それで〈アトリエ喫茶〉なのか。先生の作務衣の理由もわかった。ただの普段着なんだな。
 嘱託で高校の美術教師をしながら自宅で陶芸教室をしていたそうだ。併設の喫茶店をやっていたのは兄だったが腰を痛めて厨房に立てなくなり、流されるまま引き継いだとか。〈喫茶・天(きっさ てん)〉の名は(そら)さんという兄の名前を入れたダジャレだと聞いてコーヒーを吹きそうになった。

「おいしい?」

 夏目に訊かれ無言でうなずく。

「今朝のインスタントはひどかったからね」

 余計なお世話だ。しかめ面をしてみせると先生がたしなめた。

「ご迷惑おかけしたくせに何を言うんだい。しかも失くしてなかったのに……」
「あー!」

 言っちゃだめ、という身ぶりの夏目を俺はにらんだ。

「失くしてなかった? 鍵か?」
「カバンの底でまぎれていただけでね。本当に夏芽君はそそっかしくて」
「嘘だろ……」

 そんなうっかりで俺は他人を泊めるはめになったのか。鈴つきのキーホルダーにしたからもう大丈夫と夏目はバツが悪そうだった。
 気を落ち着けるために俺はコーヒーを口にする。こんなガサツ女の作ったマグカップなのに、唇への当たりはなめらかだった。