遠くで、蝉の鳴き声が聞こえる。
 ぼんやりする意識の中、ふと小さい頃の記憶が蘇った。

 小学、何年だったか。二つ下の弟と、毎週楽しみにしていたアニメがあった。物語は、メイという女の子がある小学校に転校してきたところから始まる。そのクラスに一人、目立たない男の子がいた。名前はヒロ。彼はいつも一人でいて、誰とも話さない。でもクラスで起こった、とある事件をきっかけに、ヒロが普通の小学生じゃないことに気づく。

 ヒロはスパイ学校に通うスパイだったのだ。かなり突拍子もない設定だったけど、その後も起こる様々な事件を、人並み外れた知識と身体能力、そして数々のスパイグッズで解決していく姿は、本当にカッコ良くて。弟はもちろんクラスの男子たちも、必死でグッズを集めてた。でもわたしはそんなものより、ヒロの秘密を唯一人知る……メイに憧れた。

 いつも一緒に事件を解決し、ピンチの時には必ずヒロが助けてくれる。わたしにも、ヒロみたいな人がいたらいいのにって。

 高校生になった、今も。

「ほら、ちゃんと口動かせよ!」
 
 絵巳(えみ)に後ろから、髪を強く引っ張られた。私は慌てて、口の中いっぱいにあったチョコレートを咀嚼する。

 七月に入ってから、急に暑さが増した。教室にエアコンはあるけど、流石にトイレにまではない。でもあと数日で夏休みに入るから、もう少しの辛抱だ。そう、あと少し……ほんの少しの、我慢。

 鼻で大きく息をする。こめかみから汗がポタポタ、スカートに落ちた。

 蒸し暑いトイレの床に正座させられて、足が痛い。少しでも痺れを分散させたくて小さく足を動かした時、また後ろから髪を引っ張られた。

「ほら、これも食えよ!」

 しょうがないので、口の中いっぱいにあったチョコレートを飲み込む。絵巳に「早くしろって!」と急かされ、仕方なく口を開ける。途端、大きなドーナツをギュッと口に押し込まれた。予想以上の閉塞感に、思わず吹き出してしまう。同時に、目の前で屈んでいた瑠奈(るな)の制服に、ドーナツが飛び散った。

「ふざけんなっ!」

 平手で私の頬を叩き、立ち上がりながらドーナツを払う。すると瑠奈の横に立っていた明日香(あすか)が「顔は殴っちゃダメ」、優しい声で言った。恐る恐る目を向けると、手に持っていたドーナツの袋を逆さまにして、トイレの床にばらまいた。

「ほら、食べてよ」

 明日香の涼しげな声に、私の気持ちは陰鬱とする。でも、それを拒否できない。ゆっくり手を伸ばすと――瑠奈がドーナツを踏みつけた。思わず顔を上げると「何、その顔」、唾を吐かれる。目に入り、手で拭う。クスクス、笑い声。泣きたくない。唇をギュッと噛みしめて、目を開ける。

 床に落ちていたドーナツが、すべて踏みつけられていた。

「早く、食べちゃってよ。香奈(かな)のために買って来たんだから」

 息が、荒くなる。泣きたくない、泣かない、泣くもんか。呪文のように唱えながら手を伸ばすと、絵巳が私の腕を蹴った。

「手、使うなよ」

「違うって。それ、前足」

 笑いながら、瑠奈が言う。

「何、その目。感じ悪い」

 明日香は低い声で言いながら、便器の中に放り込んであった五百ミリリットルのペットボトルを持って来た。

「罰として、一気飲み」

「……え」

「口、開けて」

 プシュッと、炭酸が抜ける音がする。「ほら、開けろ」、絵巳がまた、髪を後ろに引っ張った。こんなの無理。思うけど、口を開けるしかない。明日香が私の口めがけて、ペットボトルを傾ける。案の定、上手く呑み込めずゲホッとむせかえり、四つん這いになって咳き込む。

 三人は「ウケる」「汚っ」「ガチブタ」、言葉を吐き捨てた時、ようやくチャイムがなった。

「じゃあ、私たちは授業に行くから、キレイにしといて。あんたは保健室で寝てることにしとくから」

 明日香は残りの炭酸をぶちまけながらそう言うと、絵巳と瑠奈を引き連れてトイレから出て行った。途端、体中の力が一気に抜ける。

 ようやく、終わった。大きく息を吐いて立ち上がり、ベタベタする顔と髪を水で洗い流す。シャツもベタベタするけれど、今日はテストを返すだけの午前の授業で――あと一限で授業は終わるから、チャイムが鳴ったらすぐ帰ればいい。

 顔を上げると、鏡に映る自分と目が合った。顔も髪も濡れて、ひどい顔をしている。

 小さく「うっ」、声が出た。大きく息を吐きながら、鏡から目を逸らす。ポケットからハンカチを取り出して、濡れている顔と髪を拭くことに集中する。でも手が震えて、上手く拭けない。

「これ、使えよ」

 突然の低い声に、息が止まる。そもそも授業が始まっているはずだから、誰かが来るなんてことはない。そして仮に誰かが来たとしても、ココは女子トイレだから男子の声なんてするはずない、けれど。

「ちゃんと拭かないと、夏でも風邪引く」

 鏡に映る彼と目が合う。授業始まったけど、いいの? というか……男子、だよね? ゆっくり振り返ると、背の高い男子がタオルを差し出していた。やっぱり、男子! パニクりながらも、ジッと見つめてしまう。

 少し長めの髪は薄茶色で、切れ長な目だけを見ると少し怖そうにも見える。けれど心配そうな表情は、作っているようには見えず……それなりに顔も整っているものだから、女子トイレに男子出現! という衝撃的なシチュエーションじゃなければ少し――かなり、ときめいてしまっていたかもしれない。

「使ってないと言ってた。もちろん、洗濯済みだ」

 少し低めの、落ち着いた声。内履きの線は、赤。と言うことは、一つ下の、一年生だ。と言うか、そもそもこの階は特別教室ばかりで普段、生徒はほとんどこない。しかもこのトイレは校舎の一番奥にあるから更に生徒は来ないはず。でもだから、サボるにはちょうどいいのかもしれない、けど。

 見つめている私に「驚くよな」と、ようやく申し訳なさそうに口角を下げた。

「この上の生物実験室でサボろうと思ってたんだが、声が聞こえて」

 視線を逸らすと「見過ごせない」、再び口を開いた。

「あんたの色とカタチ」

「……色? ……カタチ?」

 妙な言い方、思わず聞き返してしまう。すると「と言うか」、少し考えるように黙り込んだ後、再び口を開いた。

「あんた、俺たちの入学式の時、ピアノ弾いてただろ」

 スルー? ちょっと引っ掛かりながらも、答える。

「そう、だけど」

「いい音色だった。すごく」

 真剣な眼差しに、鼓動が跳ねてしまう。だから「でも」、どうでもいいことを口走ってしまった。

「何度か、間違えた」

「それでも感動したんだ。本当に素晴らしかった。でも今のあんたは全然違うから、ほっとけない」

 上下に動く視線に、慌てて乱れていた制服を整える。確かに、あの時とは全然違う。

 明日香たちに苛められた直後で、髪も濡れ、ひどい顔をしている。けれど、入学式のピアノを弾いていた女子だからほっとけなかったなんて、私だったらありえない。逆に、関わらないようにする。そもそも、声をかけたところで何も出来ない。だから。

「大丈夫なので、ほっといてもらえますか」

 すると困ったように視線を落した。それでも、そうですか、と出て行く気配はない。

「一体、何? もう出ていってもらえます?」

 とてもイラついていた。もしかしてこれも、明日香たちの嫌がらせ? どこかに彼女達がいて、見てる? 視線を、さまよわせる。

「俺は一年A組の、楠瀬(くすのせ)久遠(くおん)

 唐突な自己紹介に、再び目を戻す。

「別に、聞いてない」

「でも、自己紹介してなかったな、と」

「しなくてもいいです」

 強く言うと「悪かった」、また申し訳なさそうに言われ、なんだかこっちがヒドいことを言っている気分になる。

「ど、どうでもいいから。さっさと行ってくれる?」

「分かった」

 そこでようやく、持っていたタオルを後ろへ回した。まさかこのまま行ってしまうんだろうか? 唐突に、待って、という気分になる。すると彼は瞬きを二回した後、小さく口角を上げた。

「音楽室に、行かないか?」

「え、今?」

「そう。ここからすぐだし、今は使ってない。あと四十分こんなところにいるより、ずっと良いだろ」

「それは……」

「よし、行こう」

 出口へと親指を向けた彼に促され一瞬、躊躇しながらも――結局、距離を置いて隣を歩きはじめてしまう。

 音楽室に向かいながら、思う。やっぱりこれは、明日香の新たな作戦の一つかもしれない。彼も明日香の仲間で、私をバカにしてる。それとも、明日香がどこかに隠れていて、イケメンの彼にのこのこ釣られている私を見て笑っているかもしれない。でも。

 それでも、いい。
 だってどうせ私は――もう少しで死ぬんだから。

「いつからピアノ、習ってるんだ」

 不意な声に、慌てて落ちていた視線を上げる。

「三歳、から」

「自分で習いたいって言ったのか?」

「言った……みたい」

「覚えてないのか? まあ俺も、そんな感じだから分かる。でも今も辞めてないってことは、、好きなんだろ?」

 横目で見られ、また鼓動が跳ねてしまう。焦りながらも頷くと、小さく口角を上げ「じゃあ、連弾しよう」って言いながら音楽室へ入って行った。早まる鼓動を抑えながら、あとを追う。

「座って」

 彼は持っていたタオルを譜面台の横に置くと、隣を指さした。少し長めの椅子だけど、二人で座ったらかなり近い。躊躇っていると、彼はピアノへと体を向けて、鍵盤の上に指を置いた。

 きれいな、指。思った自分にうんざりしたのも一瞬で、ゆっくりと動き出した指から紡がれる優しい音色を聞き、心を掴まれる。

 ショパンの雨だれ。降り続ける雨が、音色と共に変化していく。いつもは雨なんて、面倒なだけだと思っていたのに。彼が奏でる雨は、優しくて、切なくて、暖かい。いつしか目を閉じていて、最後の一音を聞き終わる頃にはどこにいるのかさえ忘れていた。

 数秒の静寂の後、ガラリとアップテンポな曲調に変わった。はっと、目を開ける。これって、テイラースイフトのSHAKE IT OFF。さっきとは全然違う、明るくて楽しい音色に、なんだか気持ちも上がっていく。思わず指でリズムをとっていると、彼は弾きながら口を開いた。

「クラッシックもいいけど、こっちも同じくらい良い」

 確かに彼の奏でる曲はどちらも、素敵だ。

 私は、クラッシックばかり弾いてきた。そのことに疑問さえ抱かなかった。とにかく難しい曲をいっぱい練習して音大にいくことばかり考え、クラッシック以外の曲を弾くことは、邪道だとさえ思ってた。けれど彼のピアノを聴いていると、どうして今までクラシック以外を弾かなかったんだろう、と思わされる。

「やっぱり久遠!」

 突然の大声に、彼はピアノを弾くのを止め、戸口のほうへと目を向けた。

「授業をサボって、こんなところで何してるのさ!」

 色白で大きな目をした男子が、怒った様子でこちらへと歩いて来る。やっぱり赤い線の入った内履きなので、一年生だ。大股で近づいてくるのを見て、彼は少し面倒臭そうな顔をしながら、「ピアノ弾いてる」と言った。その言葉が、大きな目をした男子をさらに怒らせた。

「今は数学の時間! そしてこれは僕のタオル!」

 譜面台の横にあったタオルを掴み、重い眼差しを向ける。彼は「悪い」と言いながらもやっぱり面倒臭そうな顔をしながら、私へと視線を向けた。

「コイツは神田(かんだ)彩樹(さいき)。彩樹って呼んでいいから」

 自己紹介されて、目の大きな男子――彩樹くんは、気持ちを落ち着けるように息を吐くと少し口角を上げた。

「初めまして。よかったらこれ、使ったほうがいいと思うんだけど」

 自然に差し出され、思わずタオルを受け取ってしまう。彼の眉間に皺が寄る。ちょっと罪悪感が湧いた私を横目に、彩樹くんは「ダメだよ、久遠」と、再び攻撃を開始した。

「授業中にピアノなんか弾いて。沙耶香(さやか)さんが困ってた」

 確かに、今は授業中だった。すっかり忘れてたけど……沙耶香さんって誰だろう。気になる私を横目に、会話がどんどん進んで、聞くタイミングを逃す。

「会ったのか?」

「ココに来る途中で。とりあえず誤魔化しとくから、弾くのをやめさせてって頼まれた」

「そうか。後で謝っとく」

「僕に謝罪はないの?」

「何の?」

「僕のタオルを勝手に持って行った」

「どうせ使わないだろ」

「帰りに雨が降るかもしれないじゃないか」

「降水確率二十パーセント」

「二十パーもある」

「……そんなこと言うためにわざわざ来たのか。だいたい、お前もサボってるだろ」

「僕はトイレに行きますって出て来たんだ。だからサボりじゃない」

「トイレに行ってない。だからサボりだ」

 重い眼差しを――彩樹くんは「髪、濡れてるから。タオルを肩にかけたほうがいいよ」、見事スルーして、私へと目を向けた。

「夏でも風邪、ひいちゃうからさ」

「あ、うん」

 私は手に持っていたタオルを広げて、肩にかける。柔軟剤の、甘い香りがする。

「キミもピアノ弾くの?」

「……うん」

「すごいね。僕は全然、弾けないよ」

 優しい笑顔。少しクセのある髪は全体的に長くて、耳が隠れるくらい。小柄で色も白く、目鼻立ちもしっかりしているから、制服じゃなかったら女子と間違えていたかもしれない。

「彩樹は、料理がすごく上手い」

 彼の声に、彩樹くんは「まあね」なんてちょっと嬉しそう。だからちょっと聞いてみたくなった。

「どんなもの、作るの?」

「だいたい作れるよ、多国籍にね。もちろんデザートまで」

「すごい」

「キミは? 何か作ったりする?」

「私は全然。カップラーメンくらい」

「そうなの?」

 彩樹くんは小さく笑った後、「そうだ」と人差し指を立てた。

「良かったら……今日のお昼は、僕の手料理をごちそうするよ」

「え?」

 予想外の言葉に、かなり戸惑う。けれど彩樹くんは全然気にしてないみたいに、言葉を重ねてきた。

「どう? 食べたくない? すごーく美味しいよ」

「食べたい、けど……」

 どうしようかな、と言う前に「じゃあ、決まり!」って、嬉しそうに笑う。そして今度は彼に目を向けて「今日は豪華にいくよ」と言うと、ドアに向かって歩き始めた。

「戻るのか?」

「そう。授業に戻って、メニューを考えるんだよ」

 彩樹くんは大きく手を振り、教室を出て行ってしまった。

 突然の色々に、かなり戸惑っていると「多分フルコースだ」、彼は立ち上がりながら呟いた。

「フルコース?」

「彩樹が気合い入れると、とんでもない量になる」

 困ったように言いながら、音楽準備室へ入って行く。

 そんなに? けれど、一体どこで作って、食べるんだろう。彩樹くんの家? 家族はいないんだろうか? いないにしても、彩樹くんのこと何も知らないのに、いきなり家で御飯なんて……。

 考え込んでいると、彼が準備室から顔を出した。

「キーボードがあった。これなら音量調節できるだろ」

 多分、軽音部のだ。こんな子供だましのような電子楽器を弾くなんて――思いながらも、一緒に弾き始めた途端、すごく楽しくて、チャイムがなるまで夢中で弾き続けた。