歯と歯の間に舌を挟み、ぎりぎりと力を込めていた。その時だった。扉を開く乾いた音が鼓膜に触れ、教室の中へと一人の女性が入ってきた。指通りの良さそうな黒い髪に、スーツの先から出ている女性の肌は透き通る程に白い。目が大きいうえに鼻梁も高く、そして何よりも綺麗だった。

 女性はぐんぐんと歩みを進め教壇に立ったその瞬間、賑やかだった教室が一瞬にして静まり返った。その女性の美しさに全員が息を呑んだ。同じ女性として、一瞬にして憧れを抱いてしまったのかもしれなかった。女性はチョークを手に黒板に向かった。

「これが私の名前」

 黒板には、南透花と書き込まれていた。

「皆さん、こんにちは。今日からあなた方の担任をすることになりました。南透花(みなみとうか)です。担当する科目は世界史。これから一年間宜しくお願いしますね」

 その女性が陽だまりのような柔らかい笑みを浮かべたその瞬間、「えっ、担任?」「私達の?」「めちゃくちゃ綺麗!」「可愛いんだけど、テンションあがる!」と皆が思い思いの言葉を口にした。けれど、私は一言も発することが出来なかった。女性が──透花先生がその美しい顔に可憐な笑みを咲かせたその瞬間、私の心臓はどくんと音を立て、それが鼓膜の奥まで(とどろ)いており、それを(なだ)めようと必死だったのだ。同性に笑みを向けられて、自分の心臓がこれ程までに波を打った事はこれまで無かった。

「今日は初日だし、皆のことをよく知りたいと思っています。だから授業は行いません」

 瞬間、教室に歓声が沸き上がる。理沙が後ろから肩を叩いてきたので振り返ると、「今年の担任最高じゃん」と満面の笑みを浮かべていたので、私も「うん」と笑みを返した。

「じゃあ、まずは前列の一番左端の子から自己紹介して貰える? 名前と、あと好きな食べ物とか趣味とか何でもいいから」

 透花先生に促され、その席に座っていた子が立ち上がった時だった。「あっ、ちょっと待って」と少しだけ慌てた様子で、右腕を前に差し出した。

「私ったら、緊張して出席取るの忘れてた。自己紹介はそれからでもいい? えっと、大橋さんで良かったわよね?」

 大橋さんは一度頷くと、ずれかけた眼鏡を指で持ち上げ、ゆっくりと席に腰を下ろした。少しだけ耳が赤くなっていた。透花先生がそれをみて、ごめんね、と笑みを向ける。それから私達に再び向き合うと、「担任になってから初めての出席確認だ。わあ……緊張する」と胸に手を置いた。

 その姿に教室に笑いが起き、数人が「えっ、可愛い」と黄色い歓声をあげた。私も、気付いた時に可愛いと口から溢れていた。私だって十八年も女として生きているから女性特有のあざと可愛いさをアピール瞬間だったり、自分をよく見せようとする仕草やセリフには、少なくとも男の子よりはある種のセンサーみたいなものが働くし、それに嫌悪感を抱く瞬間だってあった。

 けれど、透花先生からはそれを一切感じなかった。発する言葉や、しなやかな身体、目元や口元、それから指先の動き一つまで全てが自然なのに可愛くもあり、どこか妖艶な雰囲気まで感じた。

 出席番号順に透花先生が名前を読み上げていくと、溌剌とした声が返されていく。それがぴたりと止まったのは、透花先生が彼女の名前を読み上げた時だった。

名取美優(なとりみゆ)さん」

 瞬間、全員の視線が控えめに向けられた。教室の中央に位置する、ラナキュラスの花が活けられた花瓶が置かれた机に。

「名取美優さん、いないの?」

 透花先生のその声に、私の座る席の後ろの方から「いませーん」と放たれる。絵里奈の声だった。少し遅れて、「っていうか、二度と来ません」という同じグループにいる美咲と莉子の声が続き、きゃはは、という笑い声が教室に響き渡った。私は、それを聞きながら舌を噛み続けた。

ふいに、透花先生は右腕を持ち上げた。その指の先は花瓶の置かれた机に向けられている。

「あの花。置いたのは誰?」

 穏やかな声だった。単純に疑問に思ったことを私達に聞いただけだったのかもしれない。だが、その瞬間、教室にいる全員が口を閉ざした。(おもむ)ろに視線を下げ、ぼんやりと机や前の席に座る子の背中に視線を貼り付けている。花瓶を置いたのは、恐らく絵里奈たち。去年からずっとそうだった。このクラスにいる全員がそれを知っている。だが、それを口にする者はいなかった。私は何もみていない。何も知りません。口を開かない代わりに、その目で皆がそう答えていた。

「そう」

 一瞬にして静寂が満ちた教室の中に透花先生の声が転がった。

「無数の選択肢がある中で、ラナンキュラスを活けるなんてセンスあるねって褒めてあげようと思ったのに」

 その声に数人が顔をあげる。

「皆シャイなのかな。まあ、お年頃だもんね。じゃあ始めよっか!自己紹介」

 教室に降りかけていた重苦しい空気は、透花先生が笑みを咲かせたことで霧のように晴れていった。それから少しして、窓際の席に座っていた子が、普段は日焼けしたくないからと皆が口にする為に締め切られているカーテンを開き、窓を少しだけ開けた。桜の匂いだろうか。甘さを孕んだ春の柔らかな風が、教室の中にふわりと吹いた。すると、ラナンキュラスの花弁が涙を溢すようにひらりと一枚、音もなく舞い落ちた。