私は、当時のことを思い浮かべながら半年程前に卒業したばかりの学校の廊下を歩いていた。歩く度、こつこつ、と靴が床を打ち鳴らす音が鼓膜に触れ、廊下沿いに広がる窓の至るところから春のひかりが濁流のように溢れていた。思わず目を眇める。
「古宮さん、こちらです」と教頭が持ち上げた右腕で促してきたのは、そんな時だった。扉の上には応接室と書かれている。花梨女子高等学校。三年間もこの高校に通っていたのに、こんな部屋があるなんて知らなかった。通された部屋の中央にはガラス製のテーブルがあり、それを取り囲むようにして黒の革製のソファ席が六つある。壁にはいかにもというような堅苦しい絵が飾られており、それに目をやりながら私が入り口側の手前の席に座ると、隣には学年主任の平井先生が、正面には教頭先生と校長先生が腰を下ろした。
すぐに女性が部屋へと入ってきて、トレイに載せていた湯気の立ち昇るコップを目の前に置いてくれる。それを合図と予め決めていたかのように「今日はわざわざご足労いただき」と私以外の全員が堅苦しい挨拶を始めようとしたので「あの、そういうのは辞めませんか」と言葉を遮った。
「仮にも私は半年前までここの生徒だったんですよ?聞きたいのは、透花先生のこと。そうですよね?」
問いかけると、全員がちいさく頷いた。私以外の全員が一度顔を見合わせ、代表してということなのか校長が姿勢を正してから口火を切った。
「お電話でもお伝えさせて頂きましたが、透花先生の事に関しては以前から保護者からも説明を求められていました。ですが、つい先日教育委員会からもあの件についての詳細を知りたいとお達しがありまして。それで、当時一番透花先生との距離が近かった古宮さんにお越し頂いたという訳です」
「別に私は距離が近かったという訳では」
「この件に関しては何人もの生徒たちとヒアリングを行ってきましたが、皆が等しくあなたの名前をあげたんです。だから、教えて下さい。透花先生は、いや、あの女はあなた方に一体何をしたんです」
「何も」
短く答えた。事実だ。校長の言葉は、まるで私たちが透花先生に何か悪いことをされたかのようなニュアンスに聞こえた。だが、校長を含めた私の周りにいる大人たちが思い浮かべているような事は何もされていない。私も含めた、あのクラスにいた全員が。
「そんなはずは、ないんです!」
私の隣に座る平井先生が、自分の膝を叩きながら声を荒げた。
「じゃああの卒業式での惨事は何ですか?
古宮さん、透花先生のことを庇う必要なんてないんですよ?」
「……惨事」
平井先生の放った言葉を呟きながら、笑ってしまいそうになった。生徒代表の大沢くんが壇上で答辞を読む中、打ち上げられた無数の花火。火薬の匂いに、皆の叫び声。白い肌をゆっくりと伝う血の匂いとその音。卒業式があったあの日に思い出されるのは、そんなことばかりだ。
「あの日に問題を起こした生徒たちには、何故あんなことをしたのかと問い詰めました。すると、皆が等しく口を揃えてこう言ったんです」
──透花先生のおかげで、私は生まれ変わることが出来たからです。
覚えている。現にこの私も、その言葉を吐いた内の一人だ。私たちの目線からすれば、あれは言わば抗議や祝祭のようなものだったけれど、学校側の目線に立つと正しく惨事なのかもしれない。口元が緩みそうになるのを必死に抑え、私は「庇ってませんよ」と呟いた。
「正直に答えて下さい!」
「今、正直に答えてます」
言い切ると、隣に座る平井先生の目が更に怒りの色で染まった気がした。
「もうやめませんか」
互いに視線をそらすことなく、見つめ合っていた私と平井先生の間に穏やかな声が降ってくる。校長は「平井先生」と続けた。
「何のためにこの場を設けたんですか? 透花先生があのクラスに一体何をしたのか。それを知りたかったからでしょう。意味もなく声を荒げたり、感情を表に出すことやめませんか。時間を無駄にするだけです」
まさに鶴の一声だった。校長の放ったその言葉に平井先生は「すみません。少し取り乱しました」と頭を垂れ、私は透花先生と出会った日のことを思い出そうと記憶の海に手を伸ばした。
「空から舞い落ちる雪を数えてください。それが、透花先生から出された最初のお題でした」
透花先生の話を聞かせてくださいと頼まれたからそう答えたのに、私が口にした途端に大人たちは眉をひそめた。
「お題、ですか」
そう呟いた教頭に目を向けながら「ええ。お題です」とテーブルに置かれていたコップを手にした。指の腹からその中に入った液体の温度が伝わってくる。熱い。息を吹きかけてからゆっくりと啜ると、ずずっという音が応接室に響き渡った。
「透花先生から出されたお題は全部で三つ。私達はそれらを一つずつ順にこなしていきました」
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
校長が問いかけてきたので、私は「はい」と頷いた。
「空から舞い落ちる雪を数えてくださいなんて、とてもまともなお題だとは思えないんですが、あなた方はそれになんの迷いもなく従ったのですか?」
「はい。勿論、最初は皆戸惑っていました。反論する子も中にはいました。でも、ほとんどの生徒は三つ目のお題を出された時にはもう、誰もそのことに疑問を持っていなかったと思います」
「……何故、ですか」
「透花先生は」
言いながら、当時のことを思い浮かべていた。薄曇りの空から舞い落ちる、白く、ちいさな真綿のような雪。そして、それに指を差す透花先生。
「あの人は」
綺麗で、気品があって、それと同時に身体に触れてしまっただけで、肉体も精神も引き剥がされて呑み込まれしまうのではないだろうかという危うさを持った人だった。
「怖いくらいに完璧でした。人としても、女性としても、勿論教師としても非の打ち所がない人で、疑問を持つことすら愚かな事だと思ったからです。あの人は本当に魅力的な人だったんです」
だからこそ、時折向けられる陽だまりのような柔らかな笑みが愛しくて、嬉しくて、その度に私の心臓は大きく跳ねたのだ。
「私達は」
──水槽の中で生きてるみたい。私も、ずっとそう思って生きてきた。そう感じた理由は古宮さんとは違うけどね、同じ考えを持ってた。私たちって似てると思う。
「透花先生のことを」
──ねぇ、古宮さん。あなたの事をこれから下の名前で呼んでもいい? 小夜って、そう呼んでもいい?
「同じ女性として、心から愛していたのだと思います」
心臓が早鐘のように打ち始めている。気付いた時にはスカートの裾を握りしめていた。たった一年前の記憶。それが、無数のかけらとなり、私の中にある記憶の海で渦を巻いて舞っていた。その中で一番ちいさく古びたものを私はそっと胸に抱き寄せた。
「古宮さん、こちらです」と教頭が持ち上げた右腕で促してきたのは、そんな時だった。扉の上には応接室と書かれている。花梨女子高等学校。三年間もこの高校に通っていたのに、こんな部屋があるなんて知らなかった。通された部屋の中央にはガラス製のテーブルがあり、それを取り囲むようにして黒の革製のソファ席が六つある。壁にはいかにもというような堅苦しい絵が飾られており、それに目をやりながら私が入り口側の手前の席に座ると、隣には学年主任の平井先生が、正面には教頭先生と校長先生が腰を下ろした。
すぐに女性が部屋へと入ってきて、トレイに載せていた湯気の立ち昇るコップを目の前に置いてくれる。それを合図と予め決めていたかのように「今日はわざわざご足労いただき」と私以外の全員が堅苦しい挨拶を始めようとしたので「あの、そういうのは辞めませんか」と言葉を遮った。
「仮にも私は半年前までここの生徒だったんですよ?聞きたいのは、透花先生のこと。そうですよね?」
問いかけると、全員がちいさく頷いた。私以外の全員が一度顔を見合わせ、代表してということなのか校長が姿勢を正してから口火を切った。
「お電話でもお伝えさせて頂きましたが、透花先生の事に関しては以前から保護者からも説明を求められていました。ですが、つい先日教育委員会からもあの件についての詳細を知りたいとお達しがありまして。それで、当時一番透花先生との距離が近かった古宮さんにお越し頂いたという訳です」
「別に私は距離が近かったという訳では」
「この件に関しては何人もの生徒たちとヒアリングを行ってきましたが、皆が等しくあなたの名前をあげたんです。だから、教えて下さい。透花先生は、いや、あの女はあなた方に一体何をしたんです」
「何も」
短く答えた。事実だ。校長の言葉は、まるで私たちが透花先生に何か悪いことをされたかのようなニュアンスに聞こえた。だが、校長を含めた私の周りにいる大人たちが思い浮かべているような事は何もされていない。私も含めた、あのクラスにいた全員が。
「そんなはずは、ないんです!」
私の隣に座る平井先生が、自分の膝を叩きながら声を荒げた。
「じゃああの卒業式での惨事は何ですか?
古宮さん、透花先生のことを庇う必要なんてないんですよ?」
「……惨事」
平井先生の放った言葉を呟きながら、笑ってしまいそうになった。生徒代表の大沢くんが壇上で答辞を読む中、打ち上げられた無数の花火。火薬の匂いに、皆の叫び声。白い肌をゆっくりと伝う血の匂いとその音。卒業式があったあの日に思い出されるのは、そんなことばかりだ。
「あの日に問題を起こした生徒たちには、何故あんなことをしたのかと問い詰めました。すると、皆が等しく口を揃えてこう言ったんです」
──透花先生のおかげで、私は生まれ変わることが出来たからです。
覚えている。現にこの私も、その言葉を吐いた内の一人だ。私たちの目線からすれば、あれは言わば抗議や祝祭のようなものだったけれど、学校側の目線に立つと正しく惨事なのかもしれない。口元が緩みそうになるのを必死に抑え、私は「庇ってませんよ」と呟いた。
「正直に答えて下さい!」
「今、正直に答えてます」
言い切ると、隣に座る平井先生の目が更に怒りの色で染まった気がした。
「もうやめませんか」
互いに視線をそらすことなく、見つめ合っていた私と平井先生の間に穏やかな声が降ってくる。校長は「平井先生」と続けた。
「何のためにこの場を設けたんですか? 透花先生があのクラスに一体何をしたのか。それを知りたかったからでしょう。意味もなく声を荒げたり、感情を表に出すことやめませんか。時間を無駄にするだけです」
まさに鶴の一声だった。校長の放ったその言葉に平井先生は「すみません。少し取り乱しました」と頭を垂れ、私は透花先生と出会った日のことを思い出そうと記憶の海に手を伸ばした。
「空から舞い落ちる雪を数えてください。それが、透花先生から出された最初のお題でした」
透花先生の話を聞かせてくださいと頼まれたからそう答えたのに、私が口にした途端に大人たちは眉をひそめた。
「お題、ですか」
そう呟いた教頭に目を向けながら「ええ。お題です」とテーブルに置かれていたコップを手にした。指の腹からその中に入った液体の温度が伝わってくる。熱い。息を吹きかけてからゆっくりと啜ると、ずずっという音が応接室に響き渡った。
「透花先生から出されたお題は全部で三つ。私達はそれらを一つずつ順にこなしていきました」
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
校長が問いかけてきたので、私は「はい」と頷いた。
「空から舞い落ちる雪を数えてくださいなんて、とてもまともなお題だとは思えないんですが、あなた方はそれになんの迷いもなく従ったのですか?」
「はい。勿論、最初は皆戸惑っていました。反論する子も中にはいました。でも、ほとんどの生徒は三つ目のお題を出された時にはもう、誰もそのことに疑問を持っていなかったと思います」
「……何故、ですか」
「透花先生は」
言いながら、当時のことを思い浮かべていた。薄曇りの空から舞い落ちる、白く、ちいさな真綿のような雪。そして、それに指を差す透花先生。
「あの人は」
綺麗で、気品があって、それと同時に身体に触れてしまっただけで、肉体も精神も引き剥がされて呑み込まれしまうのではないだろうかという危うさを持った人だった。
「怖いくらいに完璧でした。人としても、女性としても、勿論教師としても非の打ち所がない人で、疑問を持つことすら愚かな事だと思ったからです。あの人は本当に魅力的な人だったんです」
だからこそ、時折向けられる陽だまりのような柔らかな笑みが愛しくて、嬉しくて、その度に私の心臓は大きく跳ねたのだ。
「私達は」
──水槽の中で生きてるみたい。私も、ずっとそう思って生きてきた。そう感じた理由は古宮さんとは違うけどね、同じ考えを持ってた。私たちって似てると思う。
「透花先生のことを」
──ねぇ、古宮さん。あなたの事をこれから下の名前で呼んでもいい? 小夜って、そう呼んでもいい?
「同じ女性として、心から愛していたのだと思います」
心臓が早鐘のように打ち始めている。気付いた時にはスカートの裾を握りしめていた。たった一年前の記憶。それが、無数のかけらとなり、私の中にある記憶の海で渦を巻いて舞っていた。その中で一番ちいさく古びたものを私はそっと胸に抱き寄せた。