「涼葉と透花先生が結託している事が分かったのは、そのすぐ後のことでした」
「何故、その二人が」

 校長は目を見開いたまま、そう問いかけてくる。

「その前にある女の子についての話をしなければなりません。名取美優。彼女は、私達のクラスの一員で、そして私の友達でもありました」

 言いながら、当時の記憶が噴煙のように巻き上がっていく。

「その日の空は、まるで美優の身体に起こる未来が予め分かっていたかのように灰色に染まっていて、雨も降っていました。曇りの方が日焼けするからカーテン閉めてって誰かが言ったんです。窓際にいる子が閉めようとすると、その窓にはナメクジが張り付いていました。教室には悲鳴が上がり、皆が慌てふためきました。そんな中、当時からいじめられていた美優にそのナメクジをとってと絵里奈が頼みました。いじめのきっかけは、絵里奈が気に入っていた男の子と美優が知らずにデートしたからという単純かつ、くだらないものでした。けれど、それを皆が見て見ぬ振りをしました。いじめられている時も、食べろ、食べろ、と窓から取ったナメクジを絵里奈たちに促されていた時も。この私もそうです」

 美優には、それ以前から誤解を解いて欲しいと頼まれていた。

──ねぇ、小夜。私、絵里奈が狙ってるって本当に知らなかったの。代わりに言ってくれない?

 でも、私は首を横に振った。

「いや、でも、あれは事故だって」
「違います。あれは、事故なんかじゃありません。私が、いやあのクラスにいた全員が、それぞれ弱さやコンプレックスを抱えていました。他人の目をいつも気にする子、容姿に自信がない子、嫌われる事を恐れるあまりに嘘を付く子、いつも本心を隠し他者に合わせる子。そんな私達が、あのいじめがあった事実に目をつむり無いものにした」

 全員が口をつぐんだ。

「二つ目のお題ですが、終業式を迎えるまでの最後の週に透花先生が選んだのは、名取美優でした。実際にその場にはいなくても、彼女を想ってどれだけの髪の毛を引き抜けるかと、クラス全員の名前が一人ずつ呼ばれていきました。きっと先生は試したのだと思います。自分の抱いている本心を、誰に流される事もなく口に出来るかと。その勇気を持つことが出来るかという事を。あれはきっと正しかったのだと思います。結果、それ以来私達は大きく変わったのですから」
「それはわかりますが、透花先生は何故このような事をしたんです。それに、涼葉という生徒との関係がまるで分からない」

 ずっと押し黙っていた平井先生が、そう口にした。私はコップに手を伸ばし、ゆっくりと啜った。もう冷たくなってしまってる。

「南透花。これは、彼女の本当の名前ではありませんでした。先生方は既にご存知かと思いますが」
「……ええ」
「三学期初日、黒板には南透花は人殺しという文字が書かれていました。書いたのは、絵里奈たちです。冬休みの間に透花先生の名前を検索し調べたらしく、そこには八年前に校舎から飛び降り自殺をした高校三年生の少女の顔写真が映し出されていました。顔は違いましたが、年齢を逆算すると透花先生とぴったりと当てはまる。とても無関係だと思えなかった絵里奈たちは、大方その女の子を自殺に追い込み、罪滅ぼしからその名を語っているのだろうと推測しました」
「はい」
「実際は違いました。でも、絵里奈たちの推測は大方外れてもいなかったのです」

 その日、教壇に立った透花先生は、数ヶ月ぶりにふっと笑みを浮かべた。背には黒板があり、そこには南透花は人殺しと書かれている。私達に視線を順に配らせ、それからこう言った。

──まさか三つ目のお題を出す前にこれがバレてしまうとは夢にも思いませんでした。人生とは、本当に思い通りにならないものですね。

 そこで、透花先生はふっと宙を見上げ「ねっ、透花」と呟いた。

「透花先生は、南透花という名を名乗り、先生方を含め私たち全員を騙していました。その理由はただ一つ、復讐です」
「……復讐です、か」
「ええ」

 ──南透花。彼女は、私の友達でした。中学では一番の親友で、高校では離れてしまったけれど、私は毎日のように彼女と連絡を取り合い、最低でも週に二日は遊ぶ中でした。なのに、私は彼女の心の叫びに気付くことが出来なかった。

 そこで透花先生は一度言葉を切り、窓の向こうをぼんやりとみつめた。その先にある運動場でも、空でもなく、もっと遠いどこかを見つめているようだった。

──彼女は、高校三年の時に校舎から飛び降りました。原因はよくあるものでした。そうです、いじめです。私は、その日から地獄に叩き落とされたかのような心地で過ごしました。毎日声が枯れるまで泣き叫び、透花を救えなかった自分を責め続けました。いっそのこと私も後を追いかけようか、そんな風に思ったこともありました。でも、ある日気付いたんです。そんなことをしても透花は報われないって。

 私が思い付いたのは、復讐でした。透花を死に追いやるまでいじめをしていた奴らにではありません。

 この社会にです。

 いじめを受けている子をみても見て見ぬ振りをし、自分はそんな目に合いたくないから、皆がそうしてるからと、いじめに加担する。そんな愚かで、自分の意思を持たず他者の意見に流され続けるような、弱い子供を量産し続けるこの社会にです。

 学校や職場なんてものは、ちいさな水槽のようなものです。人には好き嫌いがあるのは当たり前で、誰かが誰かの存在を良しとしない、そんなものは止めることが出来ません。でも、それは良くないことだと言う勇気があれば、救いを差し伸べたいという明確な意思を示すことが出来る誰かがいれば、透花の身に起きたような悲劇は二度と起こらない。私は、そう考えました。

「だから教師になったそうです」

 言い切ると、平井先生が「馬鹿馬鹿しい。そんなものは理想論です。たった一人で何を変えられるって言うんですか」と吐き捨てた。

「それは、透花先生だって分かっていました。私がやっている事は、マッチ一本で大海を燃やそうとしている事くらい愚かな事かもしれない、って」
「だったら……もっと他のやり方があったでしょう」
「確かに透花先生が行なった事は倫理から外れているかもしれません。でも、誰かを傷付けた訳じゃない。私達を、命がけで変えようとしてくれていたんです」
「だか、ら、お題を出したという訳ですか」

 ぽつりと呟いた校長に私は「ええ」と目を向けた。

「この学校に赴任してきた当初から私がいるクラスに問題がある事は気付いていたそうです。でも、生徒全員を調べるには時間が必要だった。だから透花先生は、自分と同じように復讐に燃えていた涼葉を使い、情報を集めていました」
「それで、全てが整った二学期の終わりのタイミングで別人のようになったという訳ですか」
「ええ。お題を通して、私達を変えたかったのだと思います。他者の意思に左右されることなく、物事を自分の思うがままに決めていけるような確固たる強い人であれ、と。透花先生が三つ目のお題を出したあの日、こう言われました。あなた方は、透明な花のようなものです。美しく、凛と咲いてはいるが、色を持たない。誰かが染まる時を待ち、その色に染まろうとする。愚かで透明な花だと」
「透明な……花」
「透花先生は、最後にこう言い残しました。色を持ちなさい。他でもないあなただけの色を持ちなさい。あなた方はまだ若い。法を犯しさえしなければ、何をやったっていいんです。間違えたっていいんです。これは、私からあなた方へ出す最後のお題の答えとも繋がるかもしれません。強く咲き、色を持ちなさい。そして、生きて、生きて、生き続けて下さい」

 言い終えて、透花先生は笑った。初めて出会った時と同じような優しい笑みだった。

──あなたの色に染まった花弁を、この世界で開いて下さい。これが、最後のお題です。

 その言葉の通り、透花先生をこの学校でみたのはそれが最後だった。

「ここから先は、先生方もご存知かと思います」
「ええ。中山さんやその他数名の生徒の保護者から教師が児童虐待を行なっていると抗議があり、透花先生は職を追われた」

 眉間に皺を寄せながらそう呟いた校長に、「当然の末路ですけどね」と平井先生が嘲笑うかのように口元を歪めた。

「その結果どうなりました? 自分の思いのままに考え行動して良いんだと勘違いした生徒が、卒業式の最中に花火を打ち上げ、いじめられていた生徒が仕返しにと頬を打ち血まで出たではありませんか! あんな惨事を引き起こして」
「違います」

 平井先生の言葉を私が遮った。

「確かに大橋さんや数名の生徒が絵里奈の頬を打ったのは私達も想定外でした。でも、あの花火は違います」
「どう違うんですか」
「あれは私も含めたあのクラスにいた生徒たちが、美優の件を一向にいじめとして認めない学校側に対する抗議です」
「何回も言わせないで下さい。あれは事故だったんです。第三者委員会にも」
「あなた方の息がかかった、第三者委員会ですよね?」

 校長の目が大きく見開いた。

「何故透花先生の話を聞かせて下さい、と頼まれていたのに、わざわざ私が事の顛末からご丁寧に話したか分かりますか?」

 言いながら、ポケットに手を伸ばした。

「あなた方に全てを認識して頂く為です」
「なにを、言ってるんですか」
「美優は、自分からナメクジを食べたりなんかしません」
「だから、なにを」
「あれは、事故なんかじゃありません。この学校で起こったれっきとしたいじめです。私は、これから罪を償います。だから、あなた達も隠蔽したその罪を償いなさい!」

 ポケットから取り出したのは、ICレコーダーだった。

「この会話のやり取りを新聞社各社、そして教育委員会に送らせて頂きます。その際は、正式な第三者委員会が設けられることでしょう」
「待ちなさいっ!」

 平井先生がそう声を荒げた時には、私は席から立ち上がっていた。廊下を抜け、急いで校舎の外へと出た。頬に触れる空気がつめたくて、空気が澄んでいた。思い切り肺に取り入れて私は歩みを進めた。

 学校の前には直線上に伸びる並木道がある。赤や黄色に色付いたポプラやイチョウの葉が、世界を色鮮やかに染めていた。その美しさに目を奪われながらも並木道を歩み進めていたが、私は足を止めた。道の先には、二人の女性が立っていた。一人はすらりと背が高く、もう一人は肩の上辺りで髪の毛を切り揃えている為、一瞬男の子のようにもみえる。それは、透花先生と涼葉だった。私は笑みを浮かべ、駆け寄っていった。

「全て終わりました」

 そう微笑みかけると、「お疲れ様」と透花先生が優しげな目を向けてくれる。

「いろいろと計画は狂ったけど、まあ結果うまくいって良かったんじゃない?」

 ふわりと笑みを浮かべたのは涼葉だった。私はちいさく頷いた。透花先生の本来の目的を皆が知る少し前から、私はこの二人の計画を全て知っていた。

──私はさ、美優をあんな目に合わせたあんた達が許せなかった。机に置かれたラナンキュラスの花瓶を見る度に殺意が湧いたよ。だから、自分の人生を捨てでもこの選択を選んだ。一人残らず、全員地獄の底に叩き落としてやる。そう思いながら、新学期初日を迎えたの。どうして、私が透花先生から最初のお題された日に休んでいたか分かる?

 屋上で涼葉が私にそう打ち明けたあの日、透花先生が私の前に現れた。

「小夜、大丈夫?」

 一人になった私を心配してくれていたようだった。けれど、私の意識はそんな所には向いていなかった。

「透花先生……一体どういうことですか? 涼葉と何をしようとしてるんです」

 そう問いかけた私を、透花先生と涼葉はある場所に連れていってくれた。粘り気のある空気が充満した廊下を歩いていくと、ここだよ、と涼葉が足を止めた。ガラス窓の向こうには幾つものチューブに繋がれた美優がいた。瞬間、私は足から崩れ落ちた。何度もお見舞いにこようとはした。けれど、怖くて来ることが出来なかったのだ。私のせいだ。私が、見て見ぬ振りをしたから。胸が張り裂けそうだった。

「美優、ごめ、ん。ほんとに……ごめん、なさい」

 声が枯れるまで泣き叫んだ。そんな私の肩に透花先生はそっと手を置いてくれた。

「これは、あなた達のクラスとこの社会が生んだ悲劇なの。こんな事、もう二度と起きてはならない」

 それから私は、透花先生の計画を聞かされた。それに涼葉が協力しているという事も。

「お願いします。私……にも、手伝わせて下さい。私が裁かれて、罪を償うそのときまで」

 頭を垂れ、頼みこんだ。結果、絵里奈たちに行動を起こされたことで計画に支障は出たが、私達はあのクラスにいた生徒たち全員を変え、いじめを隠蔽した学校にも鉄槌を下す準備を整えることに成功したのだ。

「小夜、あなたは何色の花を咲かせた?」

 並木道を歩いていた時、隣にいる透花先生に目を向けられた。

「……分かりません」

 私は少し前まで透明な花だった。愚かで、ちいさな透明な花だった。そんな私がどんな花弁を開くことが出来たのか、俯瞰でみるにはまだ早いようだった。透花先生は「そう」と徐ろに空を見上げた。

「名取美優さんの身体は少しずつだけど回復に向かってる。あの子が目を覚ました時、あなたの開いた花弁が美しい色であるといいわね」
「……はい」

 歯を噛み締めた私の頭に、透花先生の手がまるで蝶が羽を休めるみたいにふわりとのった。

「小夜、世界は変えられる」
「はい」
「たとえマッチ一本でも、世界は変えられるの。私は、どんな手段を使ってでももう一度教師になる。新たな場所で、また同じことをする。その時はあなたも協力してくれる?」

 問いかけられ、力強く頷いた。隣にいる涼葉が「今はマッチ三本だけどね」と悪戯に笑う。それから、少しの間静寂が降り、三人で横並びになって並木道を歩いている時だった。透花先生が徐ろに足を止めた。

 赤や黄色に色付いた葉のすき間から、細切れになったひかりの束が私達を包みこんでくれていた。透花先生は少しの間、それを目を細めみつめた。
 
 「行きましょう」

 木々から舞い落ちた葉は、並木道を色鮮やかに染めている。

 その道を踏み歩く私達の足音が、綺麗に重なった。