一 葬儀場にて
じいじの葬式があったのは、私が中学三年の時だった。
家族葬で親族のみだったが、喪主を務める父には疲労感があふれていた。叔母さんは母に「大変だったわね」と声をかける。
火葬場の炉にじいじがおさめられて待つ間、私は控室ではなく外にいた。そして煙突を眺めた。白い煙が天にあがっていく。途中から黒みがかり、しだいに真っ黒となる。
──その煙は私に、冬の朝のことを思いださせた。一年前じいじが寝言を叫ぶようになった朝のことを。
二 じいじの寝言
ばあばが亡くなって、じいじは私たちと一軒家に住むことになった。優しい人で母ともうまくやっており、家庭に波はたたなかった。日中は趣味の釣りにいそしみ、帰宅したら読書やクラシック観賞などをしていたから、衝突もなかったのかもしれない。食事は家族でとったが、それ以外は自室でTVを観るなどしていた。
優しい人で何度か釣りに連れていってもらったことがある。丁寧に教えてもらうのだが、私は釣れない。ただ穏やかな川の流れと、動かないオレンジ色の浮きを岸からじっと見るのみ。そこにじいじが「ちょっと貸してみて」とルアーの位置と投げる場所を調整する。しばらくすると面白いように魚がかかった。釣り糸が引っぱられると代わってくれ、魚を釣り上げる楽しみを味合わせてくれた。
私が一度バランスを崩して川に落ちた。じいじはちょうど魚が糸に引っかかっていたが、竿を放り投げて私に手を伸ばした。引っ張り上げてもらった時には、竿は持っていかれて川面に浮かんでいた。じいじは笑ってくれたが、あれは拾い上げるのが大変だった。
いつもは朝早いじいじだが、冬時は眠りが深いのかゆっくりと起きてくる。だから冬の朝はじいじ以外、皆どたばたとするのだ。父は都内の勤務先へ出勤するし、母はパートに出る。私は炊飯ジャーからご飯をよそって、母が用意したおかずと一緒に食卓でかき込む。食べ終えると、茶碗を流しに。そして玄関をでる際に、じいじへ「行ってきまーす」といい、学校へ足早に向かう。
その日はとても寒かった。
長かった冬休みも終わり、夜更かしの習慣もついていたので、ひどく眠い。布団から何とか這いだし、洗面台で顔をあらった。寝ぼけ眼で櫛をもつ。髪を梳かしていく。
食卓に置いてあったハムエッグをレンジで温め、ご飯と食べた。ちなみに私は、ハムエッグの味付けに関しては醤油派である。父と母は塩派だが、塩だけだと味気がない。醤油こそ最高だ。芳ばしい香りが鼻を抜けるし、米の甘味とよくマッチするのだ。
朝食を終えて玄関で靴をはく。時刻は七時ちょうど。二階への階段に向かって声をかけようと口を開いた。
その時、叫び声が響いた。
じいじの部屋から、がなるような口調で聞こえてくる。怪我でもしたのかもしれない。私は靴をぬぎ捨て、階段を駆けあがった。扉を開き、どうしたのか尋ねようとする。
そこには布団が敷いてあり、祖父が上半身だけ持ち上げていた。私からは面長な横顔と、細長い指をした左手が見える。下半身は布団のなかだ。
エアコンは入っておらず、凍えるように寒い。
じいじは固く目を閉じていた。怪我はなさそう。私は様子を見ようと、彫刻のように動かない姿におそるおそる近づく。すると、
「大原二十八の四! 大原二十八の四!」
と乾燥した部屋を大声が満たした。私はびくりと身をすくめる。だが、じいじは口だけ動かすのみで、目は閉じていた。だから……これは寝言だ。
思えばじいじは夜中に、はっきりとした寝言をいう人だった。起きていて、わざとやっているのかと思ったほどだが、父に聞くと昔からそうらしい。ただそれは「その釣り位置じゃだめだろ」と趣味がらみだったり、「あの店の鴨せいろは味が濃いなあ」と料理の感想などの微笑ましいものだった。こんな焦燥感をはらんだものではない。ましてや近隣の住所を叫ぶだなんて。異様にもほどがある。
呆気にとられて見つめると、祖父はゆっくりと半身を敷布団へ沈めた。先ほどのことが何もなかったかのように横たわる。私は掛け布団を祖父にかけなおした。そして学校に遅刻しそうだということを思いだし、部屋をでた。そのまま中学校に向かう。
駆け足で正門をくぐり、息せき切って教室に入ると、まだ先生はいなかった。遅刻にならずにすんだ。ギリギリセーフ。席で大きく息をつく。すると前席の青木京子がにやにやと振り返ってきた。
「詩織、あっぶなかったねえ。遅刻寸前じゃん。夜更かししてるからだぞ」
京子は最近、私に彼氏ができたことを茶化しているのだ。確かに私は、塾で知り合った他クラス男子と付き合い始めていた。なかなか気が合い、夜の電話は長引くこともあった。通話中に母から「さっさとお風呂行きなさい」と言われるのもよくある。だが、昨夜はそんなこともなく早めに寝ていた。
「違うんだよ。おじいちゃんの寝言さえなければ五分は余裕もって来れたんだって」
私は身振り手振りをくわえて、劇を演じるように状況を説明する。階段をあがるところでは、手を叩いて興味深げ。はっきりと寝言をいう祖父のことを面白く思ったようだ。だが叫んだ内容を聞いた京子は、笑顔を張りつかせた。
「……私の家の住所じゃん。なんで詩織のおじいちゃんが」
京子の家は、うちの前の通りの端にある。五軒離れた場所だ。えっ、と私も絶句する。その時、冊子をかかえた先生が教室に入ってきたので、話は立ち消えになった。
朝の会が始まり、流れるように授業が始まる。家庭科など教室を移動する授業もあり、慌ただしい一日だった。
帰宅した時には、朝のことは記憶から薄れていた。だから、じいじに寝言について尋ねたのは夕食後に食卓で対面していたからで、偶然だ。すでにじいじが風呂にでも行っていれば、わざわざ聞きもしなかっただろう。
「ねえ、じいじ。朝、寝言をいっていたよ。けっこう大声で。しかも京子の家の住所だった」
「そうなのか。でも青木さんちの住所なんて知らんし、寝言も全然覚えてないぞ」
へえ、と不思議な顔をしてお茶をすする。ふうん、と私もつぶやいた。フォークでハンバーグを小さいサイズにして口にはこぶ。母の手作りのデミグラスソースはバター風味が効いていて、パンと良く合った。
京子の家が悲劇に見舞われていたことは、翌日の学校で知った。
私が教室の席についたとき、いつも前に座っている京子がいなかったのだ。朝の会で、先生から「京子は怪我をして入院している」とだけ伝言があった。詳細は教えてくれず。
確かに昨夜、救急車の音が近場でしていた。自室のカーテンを開けたが、通りの奥にある京子の家までは見られなかったのだ。あれは京子の家だったのか。
昼休みに友人が声をかけてきた。彼女も近所住まいである。
「ねえ、京子って階段から落ちてきたお母さんの下敷きになったんでしょ? 二人とも大怪我だって聞いたけど」
私は首を横に振って、何も知らないという。
「そうかあ。私は気になって外に出たんだけどさ。担架に乗せられた京子のママの言葉が聞こえてきたんだよ。誰かに押された、って。犯人はつかまっていないし、怖くない?」
私はめまいを感じた。床の木目がぐにゃりと歪む。ああ、これが血の気が引くというやつか、と思った。食べ終えた給食が胃にもたれる。
不安感から解放されようと、彼女へじいじの寝言について相談しようかと思ったが、口に出すことはためらわれた。
三 二度目の寝言
次にじいじが寝言をいったのは、その翌朝のことだった。私は珍しく早めに起き、登校準備も終えていた。さて学校に行こうと玄関を開け、冷えた外気を浴びた時。また警報のような叫びがしたのだ。踵を返して階段を上がり、じいじの部屋の扉をノックして「入るよ」という。そこには二日前と同じ格好で、じいじが布団から上半身を出していた。
こちらを振りむくこともなく、背筋をのばす。目は閉じたまま。しんとした空気が部屋に漂っている。静寂を切り裂くようにじいじが声をあげた。
「プラザ大原! プラザ大原!」
──二軒となりのマンションだ。
私は怖くなってすぐに扉を閉めて、玄関へ向かった。家をでてそのマンション前を通り過ぎる。少し見上げてみる。曇り空に同化した長方形の建物は、いつもより迫力があった。
逃げるようにして学校に歩いて十分たったくらいだろうか。我が家の方角からぱあん、と何かが炸裂したような音がしたように思う。
プラザ大原に事故が起きたのは、学校からの帰り道ではっきり分かった。なぜならば入口付近が黄色いテープで封鎖されており、制服姿の大人が何人か作業をしていたから。一目で何かが起きたのだと分かる、物々しい雰囲気だった。
殺人現場ではないというのは親から聞いた。自分の部屋にいると、母が部屋をノックしてきたのだ。ベッドに腰かけ「ちょっとあんた」と口火を切る。ためらうが、言っておこうという雰囲気だった。
プラザ大原に住む女子高生が妊娠してしまい、相手の同級生と屋上から飛び降りたという。母は深いため息をつき、私に言った。
「あんたは困ったことが起きたら、まず親に相談しなさいよ。仲間内で悩んだって先が見えないことだってあるんだから。どんなことでもいいからね」
そう言われて、私はすぐにじいじの寝言のことを考えた。しかし実態があまりにも無さすぎる。話されても困るだろう。飛びおりた女子高生は妊娠という問題があったし、実害がないので警察に相談のしようもない。
じいじは悪魔の位置情報を伝えているだけだ。天災のようなもの。台風のようなものだろう。天気予報士が台風をアナウンスしても、私たちは避けようがない。せいぜい外出しないか、外出するにしても雨合羽をつける。傘をさす。家のシャッターを下ろして窓ガラスを割らないようにする。被害を小さくする程度しかできない。
私は一応、夕食時にじいじへ寝言について尋ねたが、やはり覚えていなかった。とはいえ私の不安感は、表情で漏れていたのだろう。
じいじは「大丈夫だよ。いざとなったら守るから」とこちらにほほ笑んだ。右手で薄い胸をたたく。私はその悪気のない恐怖の元に、苦笑いを返した。
四 次の寝言
次の寝言は、翌日だった。やはり母が家をでた後、七時頃。叫び声が起きたのだ。
私はノックもせずにじいじの部屋の扉を開けた。じいじはいつもの通り。布団から上半身をあげて、微動だにしない。一呼吸おき、
「大原二十八の二! 大原二十八の二!」
と大声をあげた。うちの住所は大原二十八の一だから、もう隣だ。すぐそこに悪魔は来ているのか。
今度の不幸はすぐに分かることになった。なぜなら私が窓から見える煙に気がついたからだ。煙は隣家の二階から出ていた。住んでいるのは渡辺のおばあちゃんで一人暮らしをしている。眠っていたじいじの体を揺すって起こす。外にでて、スマートフォンで消防署へ電話をした。
十分も経たずに消防車がきて、消火活動をし始めた。私とじいじは上空へ流れていく白煙を呆然とながめた。すると救急車が、呻いているばあちゃんを乗せて出ていった。
「あの部屋は寝室だな。寝たばこか、消し忘れだろうなあ」
救急車を目で追うじいじが、悲しそうに独りごちた。
私は学校を休んで、じいじと母の帰りを待った。消防署の人に発見時の状況を聞かれたとき確認したが、ばあちゃんの火傷は軽度で助かるだろうとのこと。私の連絡が遅かったら分からなかったと言っていた。
五 最後の寝言
翌日、私は母がパートにでた後、祖父の部屋へ行った。学校に間に合う時間まで、寝ているじいじの横で寝言を待つ。すると七時二分前。
じいじがすうっと音もなく、布団から上半身を起こした。掛け布団がずり落ちる。
風が強く吹きだし、窓がガタガタと揺れる。空に雲が広がった。明るく指していた日差しが消えていく。生き物のように木々がしなっている。鳥だろうか、上の方からしわがれた声がした。何かが、大勢の何かが、我が家を囲んでいるような気配……
じいじが口を開いた。
とうとう来た。私はごくりと生唾を飲みこむ。
「石川武司! 石川武司!」
祖父が叫んだのは自分の名前だった。
叫んだ後、一瞬くわっと目を大きくひろげる。ただ、その後はいつものように体を傾けて眠りについた。布団に体を横たえて、動かない。いつの間にか風もやみ、冬の朝の静寂がもどっている。
だが、その日から祖父は認知症となった。体は動かせるが意思の疎通はできない状態となった。そして一月後に腰の骨を折ってしまい、リハビリ病院に入院することになった。家にもどることはなく、回復の見込みがないと診断されて療養病棟に。
先日、病室にて安らかに死を迎えたのだ。
私は毎週土曜日に病棟へお見舞いにいっていた。話し合いはできないものの、運動会や習っていたピアノ発表会などの写真を見せて語りかける。意味が通じているかは分からないが、じいじはいつも穏やかな顔でこちらを向いている。その瞳は私に、「良かったなあ」と語りかけているように思えた。
*
火葬場で私は煙突からの黒い煙を見つめる。
何か邪悪なものが我が家に近づいてくる数日、じいじが寝言で口にしたのは【住所やマンション名】だ。個人名は最後の一度だけ。だから、本来じいじは我が家の住所を言うはずだったのだろう。それにあらがって、自分の名を叫んだのだ。
自己を犠牲に、家族を守った。
火葬場の煙は黒色を濃くしていく。……あれは祖父の体内に閉じ込められた悪魔の姿なのかもしれない。祖父はようやく解放されたのだろう。悪魔も放たれたのかもしれないが、もはや我が家を襲うことはないだろう。経路を変更された台風のように無害だと感じた。
じいじの葬式があったのは、私が中学三年の時だった。
家族葬で親族のみだったが、喪主を務める父には疲労感があふれていた。叔母さんは母に「大変だったわね」と声をかける。
火葬場の炉にじいじがおさめられて待つ間、私は控室ではなく外にいた。そして煙突を眺めた。白い煙が天にあがっていく。途中から黒みがかり、しだいに真っ黒となる。
──その煙は私に、冬の朝のことを思いださせた。一年前じいじが寝言を叫ぶようになった朝のことを。
二 じいじの寝言
ばあばが亡くなって、じいじは私たちと一軒家に住むことになった。優しい人で母ともうまくやっており、家庭に波はたたなかった。日中は趣味の釣りにいそしみ、帰宅したら読書やクラシック観賞などをしていたから、衝突もなかったのかもしれない。食事は家族でとったが、それ以外は自室でTVを観るなどしていた。
優しい人で何度か釣りに連れていってもらったことがある。丁寧に教えてもらうのだが、私は釣れない。ただ穏やかな川の流れと、動かないオレンジ色の浮きを岸からじっと見るのみ。そこにじいじが「ちょっと貸してみて」とルアーの位置と投げる場所を調整する。しばらくすると面白いように魚がかかった。釣り糸が引っぱられると代わってくれ、魚を釣り上げる楽しみを味合わせてくれた。
私が一度バランスを崩して川に落ちた。じいじはちょうど魚が糸に引っかかっていたが、竿を放り投げて私に手を伸ばした。引っ張り上げてもらった時には、竿は持っていかれて川面に浮かんでいた。じいじは笑ってくれたが、あれは拾い上げるのが大変だった。
いつもは朝早いじいじだが、冬時は眠りが深いのかゆっくりと起きてくる。だから冬の朝はじいじ以外、皆どたばたとするのだ。父は都内の勤務先へ出勤するし、母はパートに出る。私は炊飯ジャーからご飯をよそって、母が用意したおかずと一緒に食卓でかき込む。食べ終えると、茶碗を流しに。そして玄関をでる際に、じいじへ「行ってきまーす」といい、学校へ足早に向かう。
その日はとても寒かった。
長かった冬休みも終わり、夜更かしの習慣もついていたので、ひどく眠い。布団から何とか這いだし、洗面台で顔をあらった。寝ぼけ眼で櫛をもつ。髪を梳かしていく。
食卓に置いてあったハムエッグをレンジで温め、ご飯と食べた。ちなみに私は、ハムエッグの味付けに関しては醤油派である。父と母は塩派だが、塩だけだと味気がない。醤油こそ最高だ。芳ばしい香りが鼻を抜けるし、米の甘味とよくマッチするのだ。
朝食を終えて玄関で靴をはく。時刻は七時ちょうど。二階への階段に向かって声をかけようと口を開いた。
その時、叫び声が響いた。
じいじの部屋から、がなるような口調で聞こえてくる。怪我でもしたのかもしれない。私は靴をぬぎ捨て、階段を駆けあがった。扉を開き、どうしたのか尋ねようとする。
そこには布団が敷いてあり、祖父が上半身だけ持ち上げていた。私からは面長な横顔と、細長い指をした左手が見える。下半身は布団のなかだ。
エアコンは入っておらず、凍えるように寒い。
じいじは固く目を閉じていた。怪我はなさそう。私は様子を見ようと、彫刻のように動かない姿におそるおそる近づく。すると、
「大原二十八の四! 大原二十八の四!」
と乾燥した部屋を大声が満たした。私はびくりと身をすくめる。だが、じいじは口だけ動かすのみで、目は閉じていた。だから……これは寝言だ。
思えばじいじは夜中に、はっきりとした寝言をいう人だった。起きていて、わざとやっているのかと思ったほどだが、父に聞くと昔からそうらしい。ただそれは「その釣り位置じゃだめだろ」と趣味がらみだったり、「あの店の鴨せいろは味が濃いなあ」と料理の感想などの微笑ましいものだった。こんな焦燥感をはらんだものではない。ましてや近隣の住所を叫ぶだなんて。異様にもほどがある。
呆気にとられて見つめると、祖父はゆっくりと半身を敷布団へ沈めた。先ほどのことが何もなかったかのように横たわる。私は掛け布団を祖父にかけなおした。そして学校に遅刻しそうだということを思いだし、部屋をでた。そのまま中学校に向かう。
駆け足で正門をくぐり、息せき切って教室に入ると、まだ先生はいなかった。遅刻にならずにすんだ。ギリギリセーフ。席で大きく息をつく。すると前席の青木京子がにやにやと振り返ってきた。
「詩織、あっぶなかったねえ。遅刻寸前じゃん。夜更かししてるからだぞ」
京子は最近、私に彼氏ができたことを茶化しているのだ。確かに私は、塾で知り合った他クラス男子と付き合い始めていた。なかなか気が合い、夜の電話は長引くこともあった。通話中に母から「さっさとお風呂行きなさい」と言われるのもよくある。だが、昨夜はそんなこともなく早めに寝ていた。
「違うんだよ。おじいちゃんの寝言さえなければ五分は余裕もって来れたんだって」
私は身振り手振りをくわえて、劇を演じるように状況を説明する。階段をあがるところでは、手を叩いて興味深げ。はっきりと寝言をいう祖父のことを面白く思ったようだ。だが叫んだ内容を聞いた京子は、笑顔を張りつかせた。
「……私の家の住所じゃん。なんで詩織のおじいちゃんが」
京子の家は、うちの前の通りの端にある。五軒離れた場所だ。えっ、と私も絶句する。その時、冊子をかかえた先生が教室に入ってきたので、話は立ち消えになった。
朝の会が始まり、流れるように授業が始まる。家庭科など教室を移動する授業もあり、慌ただしい一日だった。
帰宅した時には、朝のことは記憶から薄れていた。だから、じいじに寝言について尋ねたのは夕食後に食卓で対面していたからで、偶然だ。すでにじいじが風呂にでも行っていれば、わざわざ聞きもしなかっただろう。
「ねえ、じいじ。朝、寝言をいっていたよ。けっこう大声で。しかも京子の家の住所だった」
「そうなのか。でも青木さんちの住所なんて知らんし、寝言も全然覚えてないぞ」
へえ、と不思議な顔をしてお茶をすする。ふうん、と私もつぶやいた。フォークでハンバーグを小さいサイズにして口にはこぶ。母の手作りのデミグラスソースはバター風味が効いていて、パンと良く合った。
京子の家が悲劇に見舞われていたことは、翌日の学校で知った。
私が教室の席についたとき、いつも前に座っている京子がいなかったのだ。朝の会で、先生から「京子は怪我をして入院している」とだけ伝言があった。詳細は教えてくれず。
確かに昨夜、救急車の音が近場でしていた。自室のカーテンを開けたが、通りの奥にある京子の家までは見られなかったのだ。あれは京子の家だったのか。
昼休みに友人が声をかけてきた。彼女も近所住まいである。
「ねえ、京子って階段から落ちてきたお母さんの下敷きになったんでしょ? 二人とも大怪我だって聞いたけど」
私は首を横に振って、何も知らないという。
「そうかあ。私は気になって外に出たんだけどさ。担架に乗せられた京子のママの言葉が聞こえてきたんだよ。誰かに押された、って。犯人はつかまっていないし、怖くない?」
私はめまいを感じた。床の木目がぐにゃりと歪む。ああ、これが血の気が引くというやつか、と思った。食べ終えた給食が胃にもたれる。
不安感から解放されようと、彼女へじいじの寝言について相談しようかと思ったが、口に出すことはためらわれた。
三 二度目の寝言
次にじいじが寝言をいったのは、その翌朝のことだった。私は珍しく早めに起き、登校準備も終えていた。さて学校に行こうと玄関を開け、冷えた外気を浴びた時。また警報のような叫びがしたのだ。踵を返して階段を上がり、じいじの部屋の扉をノックして「入るよ」という。そこには二日前と同じ格好で、じいじが布団から上半身を出していた。
こちらを振りむくこともなく、背筋をのばす。目は閉じたまま。しんとした空気が部屋に漂っている。静寂を切り裂くようにじいじが声をあげた。
「プラザ大原! プラザ大原!」
──二軒となりのマンションだ。
私は怖くなってすぐに扉を閉めて、玄関へ向かった。家をでてそのマンション前を通り過ぎる。少し見上げてみる。曇り空に同化した長方形の建物は、いつもより迫力があった。
逃げるようにして学校に歩いて十分たったくらいだろうか。我が家の方角からぱあん、と何かが炸裂したような音がしたように思う。
プラザ大原に事故が起きたのは、学校からの帰り道ではっきり分かった。なぜならば入口付近が黄色いテープで封鎖されており、制服姿の大人が何人か作業をしていたから。一目で何かが起きたのだと分かる、物々しい雰囲気だった。
殺人現場ではないというのは親から聞いた。自分の部屋にいると、母が部屋をノックしてきたのだ。ベッドに腰かけ「ちょっとあんた」と口火を切る。ためらうが、言っておこうという雰囲気だった。
プラザ大原に住む女子高生が妊娠してしまい、相手の同級生と屋上から飛び降りたという。母は深いため息をつき、私に言った。
「あんたは困ったことが起きたら、まず親に相談しなさいよ。仲間内で悩んだって先が見えないことだってあるんだから。どんなことでもいいからね」
そう言われて、私はすぐにじいじの寝言のことを考えた。しかし実態があまりにも無さすぎる。話されても困るだろう。飛びおりた女子高生は妊娠という問題があったし、実害がないので警察に相談のしようもない。
じいじは悪魔の位置情報を伝えているだけだ。天災のようなもの。台風のようなものだろう。天気予報士が台風をアナウンスしても、私たちは避けようがない。せいぜい外出しないか、外出するにしても雨合羽をつける。傘をさす。家のシャッターを下ろして窓ガラスを割らないようにする。被害を小さくする程度しかできない。
私は一応、夕食時にじいじへ寝言について尋ねたが、やはり覚えていなかった。とはいえ私の不安感は、表情で漏れていたのだろう。
じいじは「大丈夫だよ。いざとなったら守るから」とこちらにほほ笑んだ。右手で薄い胸をたたく。私はその悪気のない恐怖の元に、苦笑いを返した。
四 次の寝言
次の寝言は、翌日だった。やはり母が家をでた後、七時頃。叫び声が起きたのだ。
私はノックもせずにじいじの部屋の扉を開けた。じいじはいつもの通り。布団から上半身をあげて、微動だにしない。一呼吸おき、
「大原二十八の二! 大原二十八の二!」
と大声をあげた。うちの住所は大原二十八の一だから、もう隣だ。すぐそこに悪魔は来ているのか。
今度の不幸はすぐに分かることになった。なぜなら私が窓から見える煙に気がついたからだ。煙は隣家の二階から出ていた。住んでいるのは渡辺のおばあちゃんで一人暮らしをしている。眠っていたじいじの体を揺すって起こす。外にでて、スマートフォンで消防署へ電話をした。
十分も経たずに消防車がきて、消火活動をし始めた。私とじいじは上空へ流れていく白煙を呆然とながめた。すると救急車が、呻いているばあちゃんを乗せて出ていった。
「あの部屋は寝室だな。寝たばこか、消し忘れだろうなあ」
救急車を目で追うじいじが、悲しそうに独りごちた。
私は学校を休んで、じいじと母の帰りを待った。消防署の人に発見時の状況を聞かれたとき確認したが、ばあちゃんの火傷は軽度で助かるだろうとのこと。私の連絡が遅かったら分からなかったと言っていた。
五 最後の寝言
翌日、私は母がパートにでた後、祖父の部屋へ行った。学校に間に合う時間まで、寝ているじいじの横で寝言を待つ。すると七時二分前。
じいじがすうっと音もなく、布団から上半身を起こした。掛け布団がずり落ちる。
風が強く吹きだし、窓がガタガタと揺れる。空に雲が広がった。明るく指していた日差しが消えていく。生き物のように木々がしなっている。鳥だろうか、上の方からしわがれた声がした。何かが、大勢の何かが、我が家を囲んでいるような気配……
じいじが口を開いた。
とうとう来た。私はごくりと生唾を飲みこむ。
「石川武司! 石川武司!」
祖父が叫んだのは自分の名前だった。
叫んだ後、一瞬くわっと目を大きくひろげる。ただ、その後はいつものように体を傾けて眠りについた。布団に体を横たえて、動かない。いつの間にか風もやみ、冬の朝の静寂がもどっている。
だが、その日から祖父は認知症となった。体は動かせるが意思の疎通はできない状態となった。そして一月後に腰の骨を折ってしまい、リハビリ病院に入院することになった。家にもどることはなく、回復の見込みがないと診断されて療養病棟に。
先日、病室にて安らかに死を迎えたのだ。
私は毎週土曜日に病棟へお見舞いにいっていた。話し合いはできないものの、運動会や習っていたピアノ発表会などの写真を見せて語りかける。意味が通じているかは分からないが、じいじはいつも穏やかな顔でこちらを向いている。その瞳は私に、「良かったなあ」と語りかけているように思えた。
*
火葬場で私は煙突からの黒い煙を見つめる。
何か邪悪なものが我が家に近づいてくる数日、じいじが寝言で口にしたのは【住所やマンション名】だ。個人名は最後の一度だけ。だから、本来じいじは我が家の住所を言うはずだったのだろう。それにあらがって、自分の名を叫んだのだ。
自己を犠牲に、家族を守った。
火葬場の煙は黒色を濃くしていく。……あれは祖父の体内に閉じ込められた悪魔の姿なのかもしれない。祖父はようやく解放されたのだろう。悪魔も放たれたのかもしれないが、もはや我が家を襲うことはないだろう。経路を変更された台風のように無害だと感じた。