以下、本項では新施策の考案や現在実施している施策の運用において一助となるかもしれない伊呂金信仰に関する情報を記述する。
なお、既に本資料で取り扱ったものについてはあまり紙幅を割かず、前項までで記述が漏れている内容に関する補遺のような形となっている。

4-1. 伊呂金信仰と引水舞の発祥について

伊呂金信仰の発祥についてはそれを示す資料が現存していないが、当初は伊呂金神社を拠点とする山岳信仰のような扱いであったと考えられている。伊呂金神社の資料上の初出は13世紀のものであるが、この時には伊呂金山自体を祭る形での荒神信仰に類するような信仰の形態が記録されている。
当時は鉄をはじめとする金属や作物の恵みをもたらす存在として崇められるとともに、大雨などを降らせて丹栗川の水を濁らせる祟りを起こすとして恐れられてもいたという記述がこの文書で確認できる。

引水舞に関する資料の初出も同文書で、特徴的な祭詞の言葉もその資料内に現在読み上げられているのとまったく同じ文言で記載がある。つまり、13世紀時点では既に引水舞は実施されていたということになる。
ただし、儀式の形態や細部は現在伝わっているものとは多少異なっており、この時期は帯から豆絞りを引き抜くのではなく、直接細帯を小刀で切るような形が取られていたとされている。加えて言えば、現在は法被を着て行うという部分について、当時は籠持ちを除く舞手が通常の礼服の上に色付きの小袖を重ね着し、裾をたくし上げた格好で行う儀式であるとされていた。
また、現在では祭詞を読み上げるものが、つまり籠持ちとして最も多くの豆絞りを奪ったもの以外の5人が事案の対象となりうるという伝承になっているが、当時はそもそも籠持ちの交代がなく一人が全ての舞手の帯を切った時点で舞が終わり、最後に舞手のうち一人が小袖を脱ぎ捨てて籠持ちに駆け寄り、背負った籠から熟柿を落とさせる、という内容になっている。
このとき神の捧げものとなるのは、現在とは逆にその籠持ちとなった者であるとされている。
こうしたことから察するに、当時は祭りを実施する前に何らかの要因で捧げものとなる若者が決定されており、実際の舞はあくまで儀式的なものに過ぎなかったというように考えられる。

次に引水舞についての記述が登場する資料は16世紀のものになるが、この時には複数人が交代で籠持ちになるように改められていた。この時点では誰が事案の対象者になるかの記述は存在しない。しかし、複数人が籠持ちとなる場合の引水舞は、性質上全ての舞手が奪った豆絞り(あるいは裂いた帯)の数を競い合うような形式のものとなる。こうした競争的な特性が成立していた以上、現在のように最も活躍した舞手以外から捧げものが選ばれるといった形に伝承が変化していたのではないかと考えられる。
当時は死亡診断技術も未発達であり、事案とそのほかの死因による死亡を弁別可能であったかは疑わしい。そのため、実際に事案の対象となる条件がどの時点から変化したのか、あるいは最初から変化しておらず、伝承のみが形を変えたのかを推測することはできない。

現在確かめられている事案の対象を決定する効果のある活動は、「引水舞の実施・祭詞の読み上げ・なんらかの要因を備えた状態で伊呂金信仰の情報に触れること」の3点であるが、こうした初期の伝承を信じるのであれば、現在の施策とはまた別の機軸を考案できる余地があると考えられる。
現在に伝わる伝承においては読み上げを行なったものが対象となる形になっていること、施策2が一定の効果を挙げたことを根拠に、引水舞の舞手となることによる作用は実質的に祭詞の読み上げによるものとと考えられていたが、初期の引水舞では対象となるものは祭詞を読み上げていないということになる。
これはまだ未知の作用によって事案が惹起されうるということを意味し、何らかのきっかけでより解明が進めば更なる施策を考案することができるかもしれない。
一方で、この初期の引水舞そのものを実施させることで効果の検証を行ったり、実際の施策とすることには問題がある。儀式の手続き上当社と関係の薄い者に実施させることが困難であるし、仮にそれが可能であっても、儀式の主催者が明白であるため、発生した事案と主催者との関連性が疑われやすいというリスクも存在する。
よってこのままの形式では用いることができず、利用するためには何らかの新たな知見を待たねばならない。