事業活動保護広報とは、当社の最重要事業である伊呂金山採鉱場の操業を継続することを脅かす要因を取り除き、操業停止リスクを低減することを目的として行う広報活動である。
この名称は対外的には公表しておらず、したがって担当者は、広報部長並びに企画課長への連絡時を除き自分が担当者であることを他言してはならない。活動の実施の際にはあくまで広報部の通常事業の一環として行うこと。
なお、本活動の担当者は、対外的には芦口支社所属の広報部員となる。
前項にも書いたとおり、伊呂金山採鉱場からの採掘は当社だけでなく我が国にとって極めて重要性の高い事業であるが、何度か大規模な事故の発生により操業の継続が危ぶまれる事態となっている。過去の事故として最も規模が大きいのは、1978年11月5日から7日にかけて、第11鉱床予定地(通称吹上新鉱)の調査採掘を行っていた採掘作業者ならびにオペレータが述べ26名命を落とした「吹上新鉱落盤事故」である。
この事故は同年10月にかねてより伊呂金地区内吹上地区近辺に存在するとみられていた鉱石帯の一部とみられる鉱石群が発見されたことを受け、11月5日より埋蔵量の推定を目的とした調査採掘を開始したところ、脆弱化していた鉱床の壁岩の一部を誤って破壊し大規模な落盤が発生した事故として記録されている。
この事故を受けて吹上新鉱の採掘計画は無期限中止となり、現在に至るまで再開の予定は一切ない。
同事故の犠牲者は5日から7日にかけて15名、7名、4名と相次いで命を落としている。
これは事故現場から荻畑労災病院に負傷者を搬送したものの、当日中に死亡した15名は搬送後すぐに死亡が確認され、他の負傷者についても負傷の程度が甚だしく、次々に病院内で息を引き取ったものとされている。
しかし、これらは事実ではない。
当日、吹上新鉱では落盤は発生しておらず、犠牲者の死因も外傷によるものではない。5日に26名が搬送され、そのうち15名が当日に命を落としたのは事実であるが、死亡者も含めて搬送された全員に一切の外傷は認められていない。
残り11名についても全く外傷や自覚症状はなかった。救急搬送に至ったのは、鉱内で突然15名が昏倒したことから、現場での有毒ガスの発生などが疑われたためである。
しかし、5日に即時に行われた簡易調査並びにその後数週間に行われた詳細調査のいずれにおいても、現場内に有毒物質の発生は一切認められなかった。
また、不可解なことに、当日死亡した15名、続けて死亡した11名ともに、遺体に突然死の原因となるような兆候は一切認められなかった。致命的な病変などは全く確認できず、ただ心臓のみが停止するような形で息を引き取っていたのである。
このような様態での突然死自体は通常生活を送っている場合にも全く例がない訳ではないが、このような多数が同時にそうした形で死亡するのは通常考えられるものではない。明らかに何らかの異常事態であると言えた。
さらに言えば、6日から7日にかけて死亡した11名は全員が院内の病室内で夜間に息を引き取っている。夜間とはいえ当然観察下にある入院患者であり、体調に何か異常が発生すればすぐに看護師が駆けつける体制にもあった。にも関わらず、全くの兆候なく突然心停止を起こし、即座に死亡していたのである。
同日に死亡した鉱員はすべて同時に息を引き取ったとみられ、7日の4名についてはそれまで一切の異常が認められていなかった4名の脈拍が同時に0になったことが確認されている。同時に全ての生体活動が停止しており、蘇生措置も一切意味をなさなかった。
実はこうした不可解な事故はこの時点よりも過去から数年に一度程度の頻度で発生しており、1978年の事故と全く同じ様相が認められるものは1956年以降12件報告されている。また、死因の推定技術が未発達で確証がない時代のものも含めれば、外傷が認められない死因不詳の死亡事故として1944年に最初の記録が存在している。
ただし、これらの事故の犠牲者は多くても一度に3人程度であり、1978年の吹上新鉱での26人という犠牲者を伴う事故はこれまでに類を見ない規模の惨事であったといえる。
なお、本資料では以下、鉱内で発生したこれらと同様の様相を呈する事故を単に「事故」と呼称することとする。
事故の規模が非常に大きかったこと、また、発生原因が不明確で対策の立案が困難であることを鑑みて、吹上新鉱の開発事業は即座に無期限の停止が決定した。
また、これに伴い、社内ではかねてから対立のあった当時の会長と社長がよりその姿勢を明確にしていくこととなる。
そうした対立の結果、ある「対策」が実施されるようになった。そしてこの対策の開始こそが、事業活動保護広報という業務が生まれる端緒となったと言ってよい。
その対策とは、伊呂金神社秋祭りにおける引水舞演舞の実施再開である。
この名称は対外的には公表しておらず、したがって担当者は、広報部長並びに企画課長への連絡時を除き自分が担当者であることを他言してはならない。活動の実施の際にはあくまで広報部の通常事業の一環として行うこと。
なお、本活動の担当者は、対外的には芦口支社所属の広報部員となる。
前項にも書いたとおり、伊呂金山採鉱場からの採掘は当社だけでなく我が国にとって極めて重要性の高い事業であるが、何度か大規模な事故の発生により操業の継続が危ぶまれる事態となっている。過去の事故として最も規模が大きいのは、1978年11月5日から7日にかけて、第11鉱床予定地(通称吹上新鉱)の調査採掘を行っていた採掘作業者ならびにオペレータが述べ26名命を落とした「吹上新鉱落盤事故」である。
この事故は同年10月にかねてより伊呂金地区内吹上地区近辺に存在するとみられていた鉱石帯の一部とみられる鉱石群が発見されたことを受け、11月5日より埋蔵量の推定を目的とした調査採掘を開始したところ、脆弱化していた鉱床の壁岩の一部を誤って破壊し大規模な落盤が発生した事故として記録されている。
この事故を受けて吹上新鉱の採掘計画は無期限中止となり、現在に至るまで再開の予定は一切ない。
同事故の犠牲者は5日から7日にかけて15名、7名、4名と相次いで命を落としている。
これは事故現場から荻畑労災病院に負傷者を搬送したものの、当日中に死亡した15名は搬送後すぐに死亡が確認され、他の負傷者についても負傷の程度が甚だしく、次々に病院内で息を引き取ったものとされている。
しかし、これらは事実ではない。
当日、吹上新鉱では落盤は発生しておらず、犠牲者の死因も外傷によるものではない。5日に26名が搬送され、そのうち15名が当日に命を落としたのは事実であるが、死亡者も含めて搬送された全員に一切の外傷は認められていない。
残り11名についても全く外傷や自覚症状はなかった。救急搬送に至ったのは、鉱内で突然15名が昏倒したことから、現場での有毒ガスの発生などが疑われたためである。
しかし、5日に即時に行われた簡易調査並びにその後数週間に行われた詳細調査のいずれにおいても、現場内に有毒物質の発生は一切認められなかった。
また、不可解なことに、当日死亡した15名、続けて死亡した11名ともに、遺体に突然死の原因となるような兆候は一切認められなかった。致命的な病変などは全く確認できず、ただ心臓のみが停止するような形で息を引き取っていたのである。
このような様態での突然死自体は通常生活を送っている場合にも全く例がない訳ではないが、このような多数が同時にそうした形で死亡するのは通常考えられるものではない。明らかに何らかの異常事態であると言えた。
さらに言えば、6日から7日にかけて死亡した11名は全員が院内の病室内で夜間に息を引き取っている。夜間とはいえ当然観察下にある入院患者であり、体調に何か異常が発生すればすぐに看護師が駆けつける体制にもあった。にも関わらず、全くの兆候なく突然心停止を起こし、即座に死亡していたのである。
同日に死亡した鉱員はすべて同時に息を引き取ったとみられ、7日の4名についてはそれまで一切の異常が認められていなかった4名の脈拍が同時に0になったことが確認されている。同時に全ての生体活動が停止しており、蘇生措置も一切意味をなさなかった。
実はこうした不可解な事故はこの時点よりも過去から数年に一度程度の頻度で発生しており、1978年の事故と全く同じ様相が認められるものは1956年以降12件報告されている。また、死因の推定技術が未発達で確証がない時代のものも含めれば、外傷が認められない死因不詳の死亡事故として1944年に最初の記録が存在している。
ただし、これらの事故の犠牲者は多くても一度に3人程度であり、1978年の吹上新鉱での26人という犠牲者を伴う事故はこれまでに類を見ない規模の惨事であったといえる。
なお、本資料では以下、鉱内で発生したこれらと同様の様相を呈する事故を単に「事故」と呼称することとする。
事故の規模が非常に大きかったこと、また、発生原因が不明確で対策の立案が困難であることを鑑みて、吹上新鉱の開発事業は即座に無期限の停止が決定した。
また、これに伴い、社内ではかねてから対立のあった当時の会長と社長がよりその姿勢を明確にしていくこととなる。
そうした対立の結果、ある「対策」が実施されるようになった。そしてこの対策の開始こそが、事業活動保護広報という業務が生まれる端緒となったと言ってよい。
その対策とは、伊呂金神社秋祭りにおける引水舞演舞の実施再開である。