ムラを出て森へ入ると、急にあたりは静かになる。
 鳥の鳴き声や、葉がさざめく音は聞こえるけれども、シギヤにはすべてが遠く消えるように響いている気がした。
「花がよく咲いているのは、こっちだよね」
 ミカハはシギヤの手を握ったまま、迷わずに森の奥へと進んでいく。
 二人の頭上高くに伸びたブナの木々の、芽吹いたばかりの薄い黄緑色の葉は、燦々とした太陽の光に輝いて淡く温かい光を落としていた。
「そうだよ。今年はどんな感じかな」
 シギヤは地面から伸び出たばかりの幼いブナの木々を踏まないように、古く黒くなった落ち葉を踏みしめてミカハに続いた。

 やがて二人は、切り立つ崖を前に開けた明るい野辺に出た。
 そこは小さな池もあり、水辺に小さく咲く黄色の花や、岩場で風に揺られている白い花など、様々な花をいっぺんに見ることができる穴場だった。
「すごい、咲いてる」
 色とりどりに咲く花々を前にして、ミカハはシギヤの手を離して駆け出した。
 一方のシギヤは置いていかれても急がず、ゆっくりと歩いた。
 シギヤは美しいものを見て感動はしても、ミカハと違って喜びを顔に出すことはできなかった。
 そして少し離れた場所から、花の中で舞うようにはしゃいでいるミカハを眺める。
 晴れ渡った空の下で金色に広がるリュウキンカの花々の中で、ミカハは裸足で春を楽しんでいた。

(似合う花を選んでって言われたけど、ミカハにはきっとどの花だって全部似合う)
 太陽の光に照らされたミカハを日陰から見つめながら、嫉妬などではなく本当にシギヤはそう考えていた。
 シギヤはミカハのことをいつも綺麗だと思って見ていたし、今日は特にそう見えた。
 しかしその気持ちを、わざわざ言葉にはしなかった。
「ね、どれがいいかな」
 ミカハは花々へと手を伸ばしてかがみ込み、そっと指で花弁を撫でながらシギヤに尋ねる。
「これなんかは、どうだろう」
 立派な花を、という大叔父の言葉を思い出し、シギヤはとりあえず一番近くにあった淡い紫色のアオイの花を手に取った。

 するとミカハはちょうどそこにあった岩に腰掛けて、花を手に立っているシギヤを見上げて言った。
「試しに髪に挿してみてよ」
「じゃあ、この櫛のところに」
 シギヤはミカハの隣に座り、ミカハの髪をそっと手で撫でた。
 ミカハの髪は黒く細く、さらさらと触り心地が良かった。
 髪に触れられたミカハは、目を閉じてシギヤが花を挿し終えるのを待っていた。
「もう、できた?」
 こらえ性のないミカハが、シギヤを急かしてすぐに尋ねる。
 ミカハの長いまつげは、くすぐったそうに震えていた。
 仕方がないなと、シギヤは笑みを浮かべた。
「はい、これで終わったよ」
 花の茎を櫛の根本に挿すと、シギヤはミカハの髪から手を離した。

 ミカハは目を開けて、シギヤにまた尋ねた。
「どうかな。似合ってる?」
 そう言ってシギヤをじっと見つめるミカハの澄んだ瞳は、凛としたアオイの花に彩られた髪と一緒に、夜明けの空よりも深く輝いて見えた。
 シギヤは何も言わずに、ミカハの白い耳についた土製の赤い耳飾りを撫でた。
 それはシギヤとお揃いに作られたもので、シギヤもミカハもその耳飾りだけは祭りの日以外も身に着けていた。
(明日はもう、ミカハには触ることができない)
 今日の夜に行われる祭りの儀式で、ミカハは死ぬ。
 焼いた土の飾りのひんやりとした冷たさにそのことを思い出したシギヤは、気づいたときにはミカハの口にくちづけをしていた。

 ミカハのくちびるは温かく、柔らかかった。
 二人がくちづけをしたのは初めてのことではない。
 だからシギヤがくちびるを離すと、今度はミカハの方が特にたいした意味もなく求めてくる。
 気軽により多くを欲しがるミカハのくちづけは、シギヤよりも長かった。
(ミカハの姿を見ることができるのは、今日で最後)
 お互いのくちびるを重ねて手を絡ませて握りながら、シギヤは数年前に行われた祭りの儀式の様子を思い出していた。
 その春に神々の国に送られたのは、当時のシギヤよりも年上の少年だった。
 彼は祭司の青年に首を斬られて息絶えた。
 そしてその身体は骨と肉に分けて土器に収められて、最後は地面に埋められた。
 それが肉体を大地に還し、魂を天上に送り出すための儀式である。

 高くそびえ立つ山々のさらに上に住む神々の存在を、シギヤも信じてはいた。
 だが今は目の前で生きているミカハの身体が、殺されたシカやイノシシと同じ、ただの冷たい肉と骨になって埋められてしまうことを考えると、シギヤは明るい気持ちではいられなかった。
(私はミカハに、どこにも行ってほしくはない)
 シギヤは実際に口にすることはない願いを、心の中でつぶやいた。
 幼いころにはミカハは死ぬ日のためにこのムラに来たのだと理解していたが、成長した今はどうしてなのか理屈でしか呑み込めず、胸の奥は痛くて苦しくなる。
 しかしミカハの方は、普段と変わず楽しそうに笑いかけてシギヤに手をふれる。
 ミカハは生まれた土地から引き離されたことも気にせず眠っていた赤子のときと同じように、自分が祭りの儀式で命を失う現実もごく当たり前のこととして受け入れていた。
 だからシギヤにとってはこの最後の温もりは特別なものであっても、ミカハにとっては今までの戯れの延長線上でしかないようだった。

 ミカハはくちづけに飽きたところで、適当にきりをつけてシギヤに話しかけてきた。
「この祭りの服を着るときには、目の周りとかに赤い模様を描いたりするけど」
 シギヤの肩にもたれながら、ミカハはこれまでの些細な日常の頼みごとと同じように言う。
「その最後の化粧も、シギヤがしてくれる?」
「うん。するよ」
 シギヤはこれまでも、別の祭りでミカハの顔に赤い化粧を施したことがあった。
 だから別れらしいことは何も言わないミカハに調子を合わせて、シギヤもいつもと同じように返事をした。
 色彩鮮やかに咲き誇る花々はただ、音もなく二人の周囲で風に揺れ続けている。
 遠慮なくシギヤに寄りかかるミカハの身体は、重かった。
 しかし声も温もりも全て失われるならせめて、この一瞬だけは忘れずにいたいとシギヤは願った。