ゼミの歓迎会から一ヶ月が経ち、なんとなく柊一の生態がわかってきた。黒木のことは尊敬しているようで、絶対服従を決めているらしい。黒木がいる前で竜胆を卑下(ひげ)に扱うこともない。黒木のほうも柊一をかわいがっていて、一目置いているのだなと思った。
 好きなものは黒木と同じブラックコーヒーで、甘いものは苦手らしい。好き嫌いまで自分と真逆とは、とことん合わないなと思う。でも違いを知るたび、もっと知りたい、もっとたくさん話してみたいという気持ちは大きくなっていった。
 というのも、イヴの夜に電車で彼を見たとき、昼間と態度は同じだが「本物を見た」という気がした。話しかけるなと言われて頭に血が上ってしまったけれど、今思えば、彼は自分と同じような匂いがした。柊一にも、演じる理由がある。
 だからだろうか? 柊一は犬や猫といるときのように居心地がよかった。
 動物は人と違って余計な欲がない。人というのは大抵、相手から何かしらをもらおうという期待を抱いて近づいてくる。テストの点数や今気になっている人、過去にやった一番悪いことなど、他人の秘密を知りたがる。何ももらえない、この人と関わっても時間の無駄だとわかると次を見つけに行く。
 でも柊一は違った。いっさい竜胆を見ていない。見ていないから、楽だった。
 それは眼中にないとも言え、かなしいほどに無関心を突きつけられた。実際、勉強以外のことに首を突っ込もうとすると「おまえには関係ない」の一言で簡単にちょんぎられた。けれど竜胆は知っているから傷つきはしない。いつも同じ表情、同じトーンで「おまえには関係ない」と一刀両断する柊一は、本当の柊一ではないのだ。
 相変わらず無愛想な態度は続き、柊一は今日も全身黒ずくめのスタイルに黒縁眼鏡をかけている。ゼミのあと、なかなか卒論のテーマが決まらないでいると「相談に乗ってもらえ」と黒木が言い、先に帰ろうとしていた柊一は黒木ではなく竜胆を睨んだ。断られると踏んでいたので、ついてこいと目配せをされたとき、竜胆はまるで飼い犬のように喜んだ。
 夕日に透ける栗色の髪が、さらさらとなびく様子を追いかけていると、近くのファミレスに入っていった。席に着くなり、メニューも見ずにミックスグリルと大ライスを注文した柊一を見て、竜胆は慌てていちごパフェを頼む。不思議な顔をされ、「夕飯あるから」と言うと、柊一は「ああ」とだけ言い、黙って席を立った。
 ——一人暮らしかな。
 戻ってきたら訊いてみようかと思ったが、すぐに首をちょんぎられる未来が見えたのでやめた。機嫌を損ねて帰るなんて言われたら困る。
 今日は黙っていようと決めたところで、水の入ったコップが二つ、テーブルに置かれた。
 思わず、えっと声が出る。
「トイレのついで」
 柊一はそう吐き捨てると、参考書のようなものを手にソファにもたれた。ありがとうと言う竜胆を(けむ)たそうに見上げ、また視線を下に落とす。連れてきておいてこの態度とは、まさに形だけの相談会である。
「今日、俺おごるよ」
 竜胆の言葉に、柊一が疑いの目を向ける。
「ほら、時間作ってもらったから。昨日バイト代出たし」
 慌てて付け加え、妙な(たくら)みなど抱いていないことを示すと、柊一は「あっそう」と言い放った。
「うん、家の近くの洋菓子店なんだけど。今度来てよ」
「なんでだよ」
 こちらに向けられる瞳が、無関心から軽蔑に変わる。
「そんな暇あるんなら、勉強すれば」
 バッサリだった。切れ味が良すぎて痛みも感じない。それに、全くその通りなので言い返す言葉もない。小遣いはもらっているし、生活に困っているわけでもないので働かないといけない理由はなかった。ただ、家以外の居場所が必要なだけで——。
「おまえさ」
 柊一が言い、強めな口ぶりになんだろうと身構える。
「先生がやさしいからって、興味もないのによく入ったよな」
「あ……へへっ」
「へへじゃねえよ。迷惑だって言ってんの、わかる?」
 その視線はひどく冷たい。でもついでとはいえ、迷惑なヤツにも水を運んできてくれるなんて、実は面倒見のいいお兄ちゃんタイプなのでは? と竜胆はますますニヤついた。
 柊一の眉間に深いしわが刻まれる。
「聞いてんのかよ」
「あ、ごめん」
 謝ると、もっと不機嫌な顔をされた。
 柊一とちゃんと話すのは初めてで、聞きたいことはたくさんあるのに、いざ目の前にすると焦りが先行してしまう。それどころか、問いの束が喉でつかえて苦しくなった。下手なことを言えば即終了となるこの緊張感は、小学校受験の面接に似ている。
「じゃっ、じゃあさ」
「あ?」
「柊一くんは、なんで宇宙なの?」
 最も自然な問いを選んだつもりが、柊一はこちらを見つめると、ふいと参考書に視線を戻した。
 ——あ、落ちた。
 柊一教頭はマーカーで竜胆の名簿にバツをつけている。立ち入りすぎたのだ。
 つまりこれ以上は話しかけるなということ……もうなにも言うまい。コップの水滴が垂れるのを眺めていると、ぽつりと聞こえた。
「好きだから。そんだけ」
 顔を上げ、ぽかんとした。まず答えが返ってきたことに驚き、次に切なそうな伏し目にある疑念が湧いた。
 好きだから……好きだから? 
 恐る恐る口を開きかけたとき、黙ったままの竜胆に気づいた柊一が、大きめに言った。
「おい、違うぞ。俺が好きなのは星だ。勘違いすんな」
「あ、うん。もちろん」
 よかった。もしそうだったとしたら自分は完全に邪魔者だ。今までの煙たそうな態度にも頷ける。ならば、あそこまで黒木を慕う理由は?
「理由なんていらない」
「えっ?」
「先生は、『たいそうな理由なんていらない』って言ったんだ」
 言葉の意味を汲み取れず、首を傾げると柊一は慌てたように参考書を持ち直して言った。
「……いや、とにかく! まともに相談なんか乗ってたらバカが移る。なんとかなりそうなテーマ選んどいてやるから、おまえは口を出すな」
 竜胆はあっけに取られると同時に、これ以上口角が上がらないように唇を噛んだ。
 今ここに黒木はいない。それでも柊一はきちんと面倒を見てくれると言った。迷惑だ、バカだと言われて黙っている自分もきっとおかしいのだろうが、柊一もずいぶん損をする人間だなと思った。
 口を出すなと言われ、料理も運ばれてきたので相談会は終了した。柊一は苦い顔で添え物のニンジンやグリンピースをまとめて口へ放り込み、鉄板が茶色一色になったところでようやく肉に手をつけていた。竜胆はてっぺんの大きないちごを頬張りながら、バレないように無言で微笑む。
 ——また一つ、違いを見つけた。