土曜日の朝、竜胆はホール用のケーキ箱を手に、山吹屋の裏にある土手に寄っていた。
 先週まで満開だった桜はごっそり落とされている。昨晩の大雨で散ってしまったらしい。
 今日は四月十日。竜胆の二十一回目の誕生日だ。当麻家で誕生日ケーキを買いに行く係は竜胆と決まっている。山吹のおじちゃんに「もうそんな歳か」と言われ、嫌だなと思った。
 見上げると、白い花びらの先に雨粒が残っているのが見え、そっと指で触れた。
「あっ」雨粒だけのつもりが、花びらごと落ちる。
 真っ白に濡れた地面が、羨ましいでしょう、とこちらを誘惑していた。
 ずるい。自分も桜になりたい。
 世の中のあれこれを知ってしまう前に、まだ自分が綺麗だと信じているうちに寿命を迎えるのが、一番幸せな生き方だ、と竜胆は思う。でも痛いのは嫌だからと、老衰が何歳からを指すのかと考え、途方もなさを感じた。まだ自分は人生の三分の一にも達していないのだ。
 先は長そうだと息をつき、竜胆はのんびりと家路(いえじ)を辿った。
 水溜まりに浮かぶ花びらを眺めながら、今朝の天気予報を思い出す。男性アイドルのキャスターが「昨晩は花散らしの雨でしたね」と言っているのを見て冬樹がうんざりしていた。もうあの番組がうちのテレビに映ることはないだろう。黙ってチャンネルを変えた母親に、妹が口を尖らせていた。ちなみに「花散らし」とは花見の宴会であり、現代で言う合コンを意味する。花びらを散らす雨のことを言うならば、正しくは「桜流し」だ。やれやれと食器を手に立ち上がったとき、冬樹がいつものように三万円を手渡してきた。ケーキ代を差し引いた分は好きに使っていいことになっている。物心ついたときから、竜胆の誕生日プレゼントは現金だ。
 ケーキが溶けるかもしれないと、竜胆は足を早めた。帰り着き、ただいまと声を張るも家の中はしんとしている。母親と妹の靴がない。夕飯の買い出しだろうか。
 洗面所で手を洗い、とりあえずケーキを仕舞っておこうとキッチンのほうへ向かうと仏間に冬樹の背中が見えた。息を潜め、様子を伺う。
 冬樹は仏壇の前に正座をして、頭を落としていた。昔は大きく見えていた背中も今では細くなったように思う。あんな歳の取り方は嫌だなと(きびす)を返し、竜胆はふと立ち止まった。
 振り返り、もう一度仏壇のほうを見る。
 まだ新しかったはずの花が替えられている。ジャスミンだ。
「え?」竜胆は咄嗟に口を押さえたが、ぐるりと後ろを向いた冬樹と目が合う。けれどそれは一瞬で、冬樹は何事もなかったかのように仏壇に向き直った。
 冬樹は、息子の瞳が嫌いなのだ。
 両親と妹は茶色だが、竜胆の瞳は黒だ。日本人の多くが茶色で、稀に黒や琥珀色(こはくいろ)虹彩(こうさい)を持つ者がいる。もしかして自分は拾い子では疑ったこともあるけれど、祖父母の家に、出産直後の自分と一緒に写る冬樹の写真があったので、残念だが正真正銘の親子だ。
 まさにその祖父母へのお供物に、冬樹がジャスミンを挿している。竜胆は目を疑った。ツルがあるものは駄目だと教えたのは冬樹だ。まだ五十一。体力は落ちてもボケが始まる年齢とは思えない。
「母さんたちはスーパーだ」
 重たい。その声が向けられるたび、竜胆の両肩には細い糸がのしかかる。それらは一本ずつ、年月を経てじっくりと肉に食い込んでいく。
 訊きたいのはそれではないと、わかっているくせに——。
 竜胆は仏間に足を踏み入れ、ハッと気がついた。冬樹の頭で見えなかったが、もう片方の花瓶にはリンドウの造花が挿してあった。リンドウは秋に咲くので四月には手に入らない。その造花は、誕生日を生花で祝うことができない竜胆のために、母親が毎年屋根裏から下ろしてくれるものだった。
「ねえ、まさかそれ、母さんなの?」竜胆が問う。
「……そうだ。母さんが今朝、出してくれた」
「違う。そうじゃないだろ!」
 確信がなかったのに、否定されたことで、わかってしまった。
 やはり自分は、この人の息子なのだと改めて自覚する。親を一番よく見ているのは子だ。嘘はもう慣れっこだった。
「それ、その仏壇。俺の母親なのかよ」
 竜胆が言い、冬樹はしばらく黙ってからハッキリと答えた。
「これは、じいちゃんとばあちゃんの仏壇だ」
「は? だったら、なんでジャスミンなんか挿してんだよ。リンドウまで持ってきて、それは玄関用だろう」
 背を向けたまま動かない冬樹に、竜胆はやっぱりそうなのだと悟った。
 ジャスミンは——竜胆の実母だ。名前は茉莉(まり)。ジャスミンの和名は、茉莉花(まつりか)という。
 別れた理由は、茉莉の浮気だったと聞いている。高校の進路選択のとき、実の母親について知りたいと言った竜胆に父親がそう教えたのだ。どこまでが本当か信用できなかったが、堅物な華道家の妻など酷だったに違いないと頷けた。五歳の子どもを置いて行ったことは許したくない。ただ、自分が当事者という感覚はなく、竜胆はどこか他人事のように思っていた。不思議だが、五歳にして茉莉という人との記憶は一切ない。
 つまり嘘だったのだ。浮気も、出て行ったというのも。
「なんなんだよ……なあ、ずっとなに隠してんの? 俺もう二十一だよ。なに言われたって傷つきやしないし、今さら会いたいなんて言わないよ」
 竜胆は言いながら、情けなくなった。
 何年も黙り続け、意地でも教えようとしない。その姿はまるで小さな子どもだ。怒らないと言っているのに、冬樹はどうしても口を割らない。
 最悪の誕生日だと竜胆は溜息をつき、部屋を出た。
「二〇〇八年四月九日。茉莉が出て行った日だ。行方はわからない」
 廊下の冷たさが、ひやりと足を伝う。
 その言葉を背に、竜胆は二階の自室に閉じこもった。
 今日は二〇二四年四月十日。自分は五歳の誕生日を前に、実の母親に捨てられたのだ。
「やっぱり、ひとりぼっちだね。ぴこ」
 竜胆はベッドに横たわりながら、向かいの全身鏡に映るノミに問いかけた。
 中学卒業の日、あなたには別に母親がいると聞かされてから、空が少しだけ眩しく見えるようになった。
 この世界のどこかに、お腹を痛めてまで自分を愛そうとしてくれた人がいる。
 父さんと別れたのは事情があったからで、それは仕方がないことだと、むしろ共感さえした。それに再婚すれば連絡は取りづらくなるだろうし、記憶はないけれど、自分を産んだ母という人間は必ず存在するのだ。だからひとりじゃないと、そう思っていた。
 けれど。
 今もどこかで生きているのか、すでにこの世にはいないのか——そんなことはもう、どうでもいい。わかったところで意味もない。同じ大学なんて目指さなければよかったと、竜胆はまだ純粋だったころの自分を恨んだ。