四月はあっという間にやってきた。今まではバイトと遊びで、あとは適当に講義に出席していればそれなりにやっていけたが、これからの二年間は卒論や就活と嫌なことだらけだ。専門学校ならこんな面倒な思いはしなかったのにと、竜胆は進路選択で大学を選んでしまったことを(なげ)いた。
 今日は初めてのゼミ。日時と場所以外は何も知らされていない。
 やや緊張しながら廊下を歩いていると、研究室の扉が開けっぱなしになっているのが見えた。覗いてみるが、誰もいない。少し早すぎただろうか。中へ入るも、落ち着かないので適当に本棚を眺めることにした。
 きっちりと整頓された本の背表紙には『ナントカ論』や『光のナントカ』などよくわからない単語がずらりと並んでいた。星や宇宙について学ぶと聞いて天体観測のようなものを想像していたが、ここに並んでいる単語すら読めない。所属前の面談で「誰でも大丈夫だよ」と言った黒木は嘘つき先生だった。
「おまえ、相対性理論(そうたいせいりろん)好きなの?」
「えっ」
 振り返ると、B定食が立っていた。冬休み前に会って以来の数ヶ月ぶりだ。
「あっ、え? 包帯ソテー?」
「……は? そんなのも知らないで来たのかよ」
「いや、いきなり話しかけられたから」
 B定食は眼鏡の奥で目を細めると、いつもの場所らしい席に座った。そうして顎をしゃくり、「座れば」と言うけれど、残り三席は絶妙に悩む。
 どこに座るべきか迷っていると、隣の椅子を引いてみせ、さっさと座るよう(うなが)された。
 いそいそと腰を下ろしながら改めて室内を見渡す。
 奥に黒木のデスクがあり、あとはこの四人掛けのテーブルのみで、部屋の周りは重厚感のある本棚で囲まれていた。明らかに狭く、椅子も四人分しか用意されていないのにどうやって講義をするのだろう。
「あの、ここのゼミって何人ですか?」
「五人。三年はおまえだけ」
「へえ、意外と冗談とか言うんですね」
 竜胆が笑うと、B定食は眉間にしわを寄せ、ズレた眼鏡の鼻当てを押し上げて言った。
「三年と四年は別でやってる。だから、おまえは先生とマンツーマン」
「え? いやいや、無理むり。地獄すぎる!」
「そんな言わなくたっていいのに」
 声のほうを向くと、大袋の菓子を両手いっぱいに抱えた黒木が入り口に立っていた。振り返った弾みで首の筋がつりかけ、パニックになってガタゴトしているとB定食に冷めた目で見られた。
「君は当麻くん——よりも竜胆くんのほうがいいか」
 黒木が言い、柊一がぶっきらぼうに付け加える。
「俺も当麻だから。当麻柊一(とうま しゅういち)
「あ、へえ! 奇遇ですね」
 よろしくお願いしますと頭を下げ、やっぱり同じ苗字だったのか、と竜胆は驚いた。
 顔を上げると、怪訝(けげん)な目をした柊一がこっちを見ている。さっきから感じる嫌悪はなんだろう。鼻毛でも出ているのかと擦ってみたが、何も出ていなくて余計に不安になった。
「今日は竜胆くんの歓迎会というか、軽いオリエンテーションだから安心して」
 黒木はそう言って向かいに腰を下ろすと、チョコレートやクッキーなど大量の菓子をテーブルに並べた。クールなインテリという黒木の印象は、この数分で嘘つきの変人に塗り替えられた。
「改めまして黒木です。黒木ゼミへようこそ」
「あ、当麻竜胆です。えっと、よろしくお願いします」
「うん。とりあえずお菓子食べよう。どうぞ」
 ——うわ、やっぱり変な先生……。
 黒木は適当に取ったチョコレートを竜胆に手渡すと、席を立ってコーヒーを()れ始めた。
 爪の先でカリカリと銀紙の端を剥ぎながら、地蔵のようにおとなしい柊一を見やる。()ぎかけのチョコレートを差し出すも、首を振られた。
「なんて呼んだらいいですか?」
 訊くと、柊一は表情を変えずに答えた。
「別になんでも」
「じゃ、柊一で」
 チョコレートを口に放り込み、舌で転がしていると隣から痛い視線が飛んできた。「普通は先輩とかつけるだろ」と睨まれる。眼鏡越しではあるが、その鋭い視線は電車でもう話しかけるなと言われたときと同じだった。
「はは、竜胆くん面白いな。いいんじゃないか? 知り合いみたいだし」
「いや知り合いっていうか……せめて『くん』くらい付けろよ」
 柊一がテーブルの下で、竜胆の(すね)を軽く蹴った。この眼鏡、見た目によらず暴君(ぼうくん)かもしれないぞ、と竜胆は警戒する。
「それじゃあ、柊一くんで」
 竜胆が折れてやった。しかし柊一は納得がいかないのか、まだ口を曲げている。
「竜胆くんは? オレンジジュース?」黒木が問う。
「あ、はい!」
 瞬間、強めに肘で突かれた。「遠慮くらいしろ」と小声で注意されたが、聞こえていないふりをして快くオレンジジュースを頂戴した。
「ところで竜胆くんは、なんでうちに入ったの?」
「——ゲホッ!」
「たしか文学部だよね。ほかにもあるのに、もしかして宇宙オタク?」
 どうしよう。眼鏡の暴君がいたので、なんて言えるわけがない。
 そもそもどうして追いかけてきたのか自分でもよくわからなかった。もっとも、知り合いの先輩がいないなか、もしかしたら助けてもらえるかもしれないという、一抹の期待を抱いたからなのだけれど——。
 隣を見ると、柊一も答えを待っているようだった。
「なんだよ?」
「……しゅ、柊一くんに、誘われたんで」
「は?」
 今度ばかりは腹を殴られてもおかしくない。しかし黒木がいる前では、柊一はあくまでも優等生でいるようだった。
「なんだ、やっぱり知り合いなのか」
「いや、ちがっ——」
 柊一が言いかけ、竜胆は咄嗟(とっさ)に隣の太ももを(ひね)りあげた。柊一が悶絶している隙に、去年の講義で同じグループになったのでとそれらしい言葉を並べる。
「だったら話が早い。一人じゃ心細いだろうから、今後は当麻と一緒に勉強してもらうよ」
「え、ちょっと待ってください。一緒にって今日だけじゃないんですか」
 黒木の言葉に、柊一が意を唱えた。
「研究はだいたい終わってるんだろう。教えてやったらどうだ。かわいい後輩のために」
 いや、ちょっと待ってほしいのはこっちのセリフだ。いくら興味が出てきたとはいえ、黒木とマンツーマンどころかこんな暴力眼鏡とだなんて勘弁——と思ったものの、柊一はここのエースらしい。そんな秀才に教えてもらったら、今はナントカ理論を知らなくてもどうにか卒論を書き上げられるかもしれない。それなら使えるものは使ってしまえ、と竜胆は腹を(くく)った。
「柊一先輩、お願いします!」
「おい。本気で言ってんのかよ」柊一が眉をひそめる。
「俺、他に先輩の友達とかいないんで……」
 両手を合わせ、この哀れな貧民をお救いくださいと必死に目に涙を溜めた。実際には一滴も湧いてこないが、そう念じるだけでもと力を込める。
「ほら、柊一先輩」
 面白がる黒木を柊一は切なそうに見つめた。しかし観念したように項垂れ、小さく頷く。
 ——ああ、神よ!
 礼を言う黒木に続き、竜胆も柊一の手を取ってブンブンと振った。手は簡単に振り解かれたが、留年回避のルートを見つけた竜胆は傷つくどころか無敵状態だった。今日はこれにて解散と黒木が言い、竜胆は一礼してそそくさと研究室をあとにする。
 すると背後から「おい」と聞こえた。振り返ると、目を吊り上げた柊一がいた。
「おまえ、どういうつもり?」
 切れ長の目尻が、一層(いっそう)鋭くなっている。
「おまえみたいなヤツ、誘った覚えなんてないんだけど。ていうか、なんでちょいちょいタメ口なわけ?」
 おまえみたいなヤツ——。
 新鮮な言葉だな、と竜胆は感動した。どちらかと言うと今まで好意的な視線を向けられることのほうが多く、そんな風に見られたのは生まれて初めてだった。自分が言われているのに、ゴミを見るような目とはこのことかと他人事のように思っていると、
「……もういい」
 柊一はスッと前を通り過ぎ、エレベーターのほうへと歩き出した。
「あ、待って。柊一先輩」
「それやめろ!」
 キッと睨みつけられ、竜胆は頬を膨らませた。さっきは先輩呼びだと言ったのに。
 柊一が再び歩き出したのを見て、同じく足を進めると「ついてくるな」と釘を刺された。背中に目でもついているのか。しかしエレベーターはそっちなので、ついてくるなと言われても……。仕方がないので、その後ろ姿が角を曲がって消えるまで見守った。