日が沈んだころ、満員電車に揺られながら竜胆は溜息をついた。
約束の時間まであと十分。誰が来るかくらい訊いてから決めればよかったと反省する。武田とは数えるくらいしか遊んだことはなく、特別仲がいいわけでもない。向こうも呼びたくて呼んだというより数集めといったところだろう。
竜胆は小さく身をかがめ、鼻を摘まんだ。帰宅ラッシュに加え、イヴの夜という激混みの時間に乗ってしまったことを後悔する。むさくるしいオッサン臭とコロンの香りが吐き気を誘った。
次の駅で降りるというタイミングで、電車が大きく揺れた。
意地でも吊り革に触りたくない竜胆は人混みに揉まれ、ドアに押しつけられる。窓ガラスに思い切り鼻を殴打し、折れたのではと骨をさすっていると尻に違和感を覚えた。ハッと身体を反転させると、
「痴漢じゃない、痴漢じゃないです」
ハンドバックを胸まで持ち上げた若い男が真後ろに立っていた。
「ああ、大丈夫ですよ。痴漢とか思ってないんで」
——まあ、オッサンか女なら、怪しいけど。
痴漢と聞くと大抵の場合、女性被害者をイメージするだろう。けれど世の中には男の尻を触りたがる連中がいる。他人と肩が触れるだけでも嫌なのに、ターゲットにされたときは舌を噛みちぎりたくなるほど死にたくなった。その後一週間は電車には乗れない。あいつらはバイ菌だ。
それに比べて男は品のある顔立ちで、切れ長の目に通った鼻筋、ぽってりとした唇は彫刻にみる造形美だった。左頬のほくろが色気を感じさせる。
一つひとつ鑑賞していると、男は避けるようにして俯いた。
——もしかして知ってる?
「あの」
竜胆が声をかけると、男は迷惑そうに眼球だけを動かした。
「あっ、B定食! あんた今日、俺の天丼持ってった人だろ」
「……譲ってやったの間違いだ」
勝手に持ち去っておいて、なんて言い草だろう。
「ま、いいけど」
それよりも昼間とはだいぶ雰囲気が違うことが気になった。食堂で会った男は眼鏡をかけてジメジメとしていたのに、目の前にいるのはそれとは全く似つかないほどの男前。あのB定食とは思えない。
「違いすぎてびっくりなんだけど。あれって変装?」
「……別に」
「かっこいいのに、もったいない」
竜胆が笑うと、男は途端に睨みつけて言った。
「もう話しかけんな」
竜胆は言葉も出なかった。ぽかんと口を開け、音として聞こえた単語を理解しようとする。
話しかけんな……話しかけんな?
え、褒めたんですけど。
ていうか、勝手に昼飯かっさらったくせに!
意味不明な言動をしているのはそっちなのに、男は完全な被害者ヅラでシカトを決め込んでいる。じわじわとむかつきながら、この無愛想な感じは絶対にあのB定食だと確信した。
カラオケに着き、指定の部屋へと向かう。ガラス扉に反射する自分の顔を見て、竜胆は慌てて眉間のしわを擦った。中へ入ると武田が軽く手を挙げていた。「久しぶり」と返しながら部屋を見渡す。他には男三人と、顔見知りの女子が五人。男子は何回か遊んだことがあるメンバーだが、あとは喋ったことがあるかどうかわからなかった。手招きする武田の隣に座ると、すぐに耳打ちをされた。
「俺、ななちゃんね」
どうぞどうぞと白旗を挙げ、ドリンクを取りに部屋を出る。ななちゃんってどれだよと思いながら葡萄のボタンを押した。ゴゴッという音の後に、紫の液体と水が交互に流れ出す。
「当麻くん」
振り返ると、部屋にいたお団子女子がコップを持って立っていた。
「あ、ちょっと待ってな」
退こうとするも、流れ始めたばかりのジュースはまだ溜まっていない。「そんなに急がなくても」と笑われ、おとなしくその場にとどまった。
「前にさ、夏の課外授業で同じ班だったの、覚えてる?」
隣のサーバーに置かれたコップに、桃色の水が勢いよく落ちていく。竜胆は「そうだっけ」と答えながら、しゅわしゅわと膨らんでいく泡を見つめた。
「当麻くん居眠りするから、あたしたちまで目つけられてさー」
「そんなはずないけどなあ。俺いつも起きてるし」
「はいはい」お団子女子は真っ赤な口紅を塗り直しながら笑った。
——この子、誰だっけ。
コップが桃色でいっぱいになったところで、戻ろうかと笑いかけた。部屋の前まで並んで歩き、扉を開けようと手を伸ばす。
「当麻くんってさ」
ツンと角の立った香水の匂いが、竜胆を囲った。重くねっとりとした空気が肺いっぱいに流れ込む。苦しい。
視線だけで聞いていると、お団子女子はスッと身を引いた。
「……さ、入ろ!」言い出したと同時に、ガンガンと音が鳴り響く部屋の中へ逃げていく。「ななちゃんおそーい」という女子の声がして、ゲッと顔を引きつらせていると扉付近にいた男子がマイクを渡してきた。
「次おまえ」
「あ、ああ」竜胆は十八番である『I LOVE YOU』を入力して前に出る。
「よっ! 尾崎」と適当にはやしたてる武田は、ななちゃんの肩に手を置いていた。桃水をねだる武田に、ななちゃんが愛想笑いをしている。二人と目が合い、竜胆はモニターのほうを向いた。
日付が変わるころまでパーティは続き、長引きそうだったので武田に断ってから先に帰った。あのあと武田とななちゃんがどうなったのかは知らないが、同窓会で再会してつきあう、というのは自分には無理だなと思った。
約束の時間まであと十分。誰が来るかくらい訊いてから決めればよかったと反省する。武田とは数えるくらいしか遊んだことはなく、特別仲がいいわけでもない。向こうも呼びたくて呼んだというより数集めといったところだろう。
竜胆は小さく身をかがめ、鼻を摘まんだ。帰宅ラッシュに加え、イヴの夜という激混みの時間に乗ってしまったことを後悔する。むさくるしいオッサン臭とコロンの香りが吐き気を誘った。
次の駅で降りるというタイミングで、電車が大きく揺れた。
意地でも吊り革に触りたくない竜胆は人混みに揉まれ、ドアに押しつけられる。窓ガラスに思い切り鼻を殴打し、折れたのではと骨をさすっていると尻に違和感を覚えた。ハッと身体を反転させると、
「痴漢じゃない、痴漢じゃないです」
ハンドバックを胸まで持ち上げた若い男が真後ろに立っていた。
「ああ、大丈夫ですよ。痴漢とか思ってないんで」
——まあ、オッサンか女なら、怪しいけど。
痴漢と聞くと大抵の場合、女性被害者をイメージするだろう。けれど世の中には男の尻を触りたがる連中がいる。他人と肩が触れるだけでも嫌なのに、ターゲットにされたときは舌を噛みちぎりたくなるほど死にたくなった。その後一週間は電車には乗れない。あいつらはバイ菌だ。
それに比べて男は品のある顔立ちで、切れ長の目に通った鼻筋、ぽってりとした唇は彫刻にみる造形美だった。左頬のほくろが色気を感じさせる。
一つひとつ鑑賞していると、男は避けるようにして俯いた。
——もしかして知ってる?
「あの」
竜胆が声をかけると、男は迷惑そうに眼球だけを動かした。
「あっ、B定食! あんた今日、俺の天丼持ってった人だろ」
「……譲ってやったの間違いだ」
勝手に持ち去っておいて、なんて言い草だろう。
「ま、いいけど」
それよりも昼間とはだいぶ雰囲気が違うことが気になった。食堂で会った男は眼鏡をかけてジメジメとしていたのに、目の前にいるのはそれとは全く似つかないほどの男前。あのB定食とは思えない。
「違いすぎてびっくりなんだけど。あれって変装?」
「……別に」
「かっこいいのに、もったいない」
竜胆が笑うと、男は途端に睨みつけて言った。
「もう話しかけんな」
竜胆は言葉も出なかった。ぽかんと口を開け、音として聞こえた単語を理解しようとする。
話しかけんな……話しかけんな?
え、褒めたんですけど。
ていうか、勝手に昼飯かっさらったくせに!
意味不明な言動をしているのはそっちなのに、男は完全な被害者ヅラでシカトを決め込んでいる。じわじわとむかつきながら、この無愛想な感じは絶対にあのB定食だと確信した。
カラオケに着き、指定の部屋へと向かう。ガラス扉に反射する自分の顔を見て、竜胆は慌てて眉間のしわを擦った。中へ入ると武田が軽く手を挙げていた。「久しぶり」と返しながら部屋を見渡す。他には男三人と、顔見知りの女子が五人。男子は何回か遊んだことがあるメンバーだが、あとは喋ったことがあるかどうかわからなかった。手招きする武田の隣に座ると、すぐに耳打ちをされた。
「俺、ななちゃんね」
どうぞどうぞと白旗を挙げ、ドリンクを取りに部屋を出る。ななちゃんってどれだよと思いながら葡萄のボタンを押した。ゴゴッという音の後に、紫の液体と水が交互に流れ出す。
「当麻くん」
振り返ると、部屋にいたお団子女子がコップを持って立っていた。
「あ、ちょっと待ってな」
退こうとするも、流れ始めたばかりのジュースはまだ溜まっていない。「そんなに急がなくても」と笑われ、おとなしくその場にとどまった。
「前にさ、夏の課外授業で同じ班だったの、覚えてる?」
隣のサーバーに置かれたコップに、桃色の水が勢いよく落ちていく。竜胆は「そうだっけ」と答えながら、しゅわしゅわと膨らんでいく泡を見つめた。
「当麻くん居眠りするから、あたしたちまで目つけられてさー」
「そんなはずないけどなあ。俺いつも起きてるし」
「はいはい」お団子女子は真っ赤な口紅を塗り直しながら笑った。
——この子、誰だっけ。
コップが桃色でいっぱいになったところで、戻ろうかと笑いかけた。部屋の前まで並んで歩き、扉を開けようと手を伸ばす。
「当麻くんってさ」
ツンと角の立った香水の匂いが、竜胆を囲った。重くねっとりとした空気が肺いっぱいに流れ込む。苦しい。
視線だけで聞いていると、お団子女子はスッと身を引いた。
「……さ、入ろ!」言い出したと同時に、ガンガンと音が鳴り響く部屋の中へ逃げていく。「ななちゃんおそーい」という女子の声がして、ゲッと顔を引きつらせていると扉付近にいた男子がマイクを渡してきた。
「次おまえ」
「あ、ああ」竜胆は十八番である『I LOVE YOU』を入力して前に出る。
「よっ! 尾崎」と適当にはやしたてる武田は、ななちゃんの肩に手を置いていた。桃水をねだる武田に、ななちゃんが愛想笑いをしている。二人と目が合い、竜胆はモニターのほうを向いた。
日付が変わるころまでパーティは続き、長引きそうだったので武田に断ってから先に帰った。あのあと武田とななちゃんがどうなったのかは知らないが、同窓会で再会してつきあう、というのは自分には無理だなと思った。